真田には、付き合ったからといって二十四時間お互いのものでなくてはいけないということが未だにピンと来ていない。気がつけばほかの女性とデートしたりも軽く口説くことはもはや社交の範疇だった。

本表紙 島本理生 著

2章

「差し込み文書

早育の中高校生カップルの性

セックスすると、相手のことが好きになる。最初はためらいながらセックスして、次第にためらいがなくなっていって、それと共にどんどん好きになる。ためらいがなくなった先には惰性があって、惰性になると関係もセックスも惰性になる。それで好きなのかどうなのか分からなくなって、早育の中高校生カップルは浮気や些細な喧嘩がきっかけで別れる。

恋愛の先に心も躰も満たされる楽しい快感を得られその先に結婚であるという甘い考えは非常に危険である。夫をいくら愛していた妻でも子が産まれると母性に変化する。夫が父性に変化しないことに妻は失望しつつ、恋愛時と同じ態度でセックス快感を求め続ける夫にやんわりと拒否しつつそれは結婚の義務と諦め、早く終われと演技する。或いは逆の場合もあり二人が心から淫蕩し満足し合えず次第に不機嫌さ増していき浮気・不倫というセックスレスの原因が発生する。

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バラ
 歓が到着したとき、目を閉じた父親の体はすでに一本の管も残っていなかった。
 そのせいか父親はごく普通に眠っているように見えた。顔が青ざめているものも、寝不足の朝はいつもそうだった。もともと頑丈な人ではなかったから。
「昨日までは管に繋がれて、ベッドに縛り付けられてるみたいで気の毒だったから、今の方が気楽なくらいね」
 と母親は悲しみで放心しまま言った。
 と母さん、と歓は呆然と呟いた。
「いつから、そんなに」
 歓はまったく事情を呑み込めなかった。なぜなら数時間前に父が死んだという連絡を受けるまで、軽い腎炎を患って入院しているとしか聞かされていなかったからだ。
 母親は微笑むと、筋肉の動きで涙腺がゆるんだかのように大粒の涙をこぼした。
「歓には知らせるなって言い続けてたから。自分が苦しんでいる姿を見せたら、動揺して心身のバランスを崩すんじゃないかって。歓の事情を誰よりもお父さんが心配してたから」

 母の返答の一つ一つに、歓は黙り込むしかなかった。そうだ、と心の中で呟く。ぼくの事情。父はそれをたしかに誰よりも気にかけてくれた。
 十四歳で、僕はお父さんお母さんと別れて神学校の寮に入ります、と告げた午後を思い出す。
 父は悲しそうな目をして、だけど、はっきりと落ち着いた声で言った。

――それは、いい考えだと思う。
――歓と滅多に会えなくなれば、お父さんお母さんだって寂しい。でも、それよりも大事なことがある。
――きっとそこでなら見つけられるから。自分が生きる意味を。
 カソリックだけに捧げてきた人生を後悔しているわけではない。
 だけど今このタイミングで母の口から話を聞かされると、責められているようにも感じた。そう感じてしまうのは、母自身が己を責めているからだ。こんな風に息子を産んでしまった責任。夫の命を守れなかった責任。
 母親が悲しんでいるのを見て、胸が痛む。たとえイエスが世界中の罪を負って死んでくれたとしても、自分は誰かを新しく傷つけていく。

 病院で手続きを済ませ、母は父ともう少し一緒にいるというので、歓は修道院に戻ることにした。毎朝のミサには出席しなければならない。
 明かりの消えた病院内をさまよって、夜間用出口に向かう。公衆電話の前で立ち止まる。神様へ通じていたなら、かけるのに。こんなときにも守らなければならない儀式とは何なのか。イエスならそんなことは言わないだろう。結局は解釈の問題なのだ。だけど自分は現実に置いて大きなものに属してしまっている。

 夜間用の出口を出ると、駐車場はがらんとして、目に映るものは夜空しかなかった。眩しいくらいの満月が浮かんでいた。
 横切って大通りに出ようとした時に嗚咽が漏れた、弱った神経の隙間から、水が滴れるように声が聞こえてくる。膝をついて吐き出す。
「お前さえいなかった」
 返事はなかった。もう一度言った。
「おまえさえいなければ」
『ひとのせいにするんじゃねえよ』
 感情のない声が、歓の脳内に反響した。それでも訴える。
「今頃、僕は教師にでもなって、まともに結婚して子供を作って、両親を幸せに」
『だからひとのせいにするなよ。僕は聖職者になったら解決するなんて言った覚えはないからな。自分勝手に宗教に逃げ込んだんだろう。僕は現実に手出しできない。あんたの頭の中でわあわあ酔っぱらいみたいに喚くだけだ。それなのに歓君は逃げたんだよ。分かっているんだろう』
 歓は悲しみが死んでいくのを感じた。こんな風に幼い頃から感傷に浸ることも、ささやかな逃避さえも許されなかったことを思い返しながら。
 彼は立ち上がり、スーツの膝についた汚れを払って夜道を歩きだした。
 頭の中で、確かめるように声が響く。

『神の子なら、下に飛び降りたらどうです。神は天使たちに命じて、手にてあなたを支えさせ、足を石に打ち当てないようにしてくださる』
 歓がそれに対する答えをとっさに浮かべた時、無邪気な笑い声がした。
『ところが、あなたの神なる主を試みてはならないのに、神なる主はいつだってあなたを試みる』
 生物学者が新しい細胞でも発見したように、純粋な喜びに極まった声をあげた。
『理不尽だから神に縋ったはずが、神を信じるかぎり、いつまでも理不尽の奴隷だよ。歓君。思考することを放棄した葦(あし)が、神の子の正体じゃないの?』


   ☆
 休日の朝遅くに真田はのろのろと起き出した。
 洗面所へと向かい、男一人では持て余しがちな戸棚の扉を開く。電気シェーバーを取りだそうとしたら、何かがことりと洗面台に落ちた。目を凝らすと星の形をしたピアスだった。
 摘まみ上げて、誰のだったか、と首を傾げると、記憶の底から苛立たしげな声が蘇ってきた。
「幸弘君って、本当に付き合ってるだけなんだね。文字通りそれだけの意味でしか女を扱えないんだ」
 博子は着替えや化粧品をボストンバッグに詰め込みながら、そう言い捨てた。自分のアパートが狭いからと、新築で購入した真田のマンションに転がり込んでいたにも拘わらず。
 荷物をまとめると、博子はまた呪いをかけるように言った。かわいそう、と。そういう人間って結局誰からも信頼されずに一人で死ぬんだよ、と。その間、真田は啞然として悪態を受け止め続けた。

 博子は飛び抜けて器量がいいわけでもないが明るく愛嬌のある娘だと思っていた。生活費まで面倒を見てやった挙句に、どうしてそんなことを言われるのか理解できなかった。
 真田には、付き合ったからといって二十四時間お互いのものでなくてはいけないということが未だにピンと来ていない。気がつけばほかの女性とデートしたりも軽く口説くことはもはや社交の範疇だった。
 そんな真田を博子は汚いもののように罵り、半年以上前に出て行った。寂しさは覚えたが引き止めるほどの愛情はなかったのも事実だ。
 ピアスを処分してから、髯を剃る。思考は今晩会う比紗也へと切り替わる。
 たしかに子供と会わせて欲しいとは頼んだが、二回しか会っていない真田を自宅に招く比紗也をやっぱり無防備だと思った。まあ、地方出身の女はえてして警戒心が薄そうだから、とけつろんづける。それから髯を剃る手を止めて、仙台、と呟いた。そうだ、たしか仙台だった。すっきりして電気シェーバーを置いた。

 午後から株の動きをチェックしているとメールが入った。服のサイズが4Lの男友達を筆頭とした独身仲間たちからだった。ジビエの美味い店を見っけたから行こうという誘いに、今夜は先約があるから断るという趣旨のメールを返す。
『先約が女かなんて訊かないぞ! 悔しいが、頑張れ』
 という気のいい返事に真田は噴出した。小奇麗なチノパンと黒いポロシャツに着替えて出発した。
 マンションを出ると、夕焼けの中にじっとりと蒸した空気が満ちていた。目を細めて軽く息をつく。東京の夏は梅雨の終わりと混ざり合い、気温よりも先に湿度が高くなる。
 乗り慣れない沿線の馴染みの駅に降りた時には、あたりは淡く青い闇が広がっていた。暗い団地の脇から通っていると、孫の顔を見るのは諦めたわよ、とぼやくものの、声の端々にはまだ期待が滲んでいたことを。

 真田も子供はいつか欲しいと思っていた、漠然と自分の遺伝子を残したいという欲求はある。むしろ結婚の方が現実感がない。今の自由を捨ててまで誰かといる自分は正直想像できなかった。

 川沿いには古い住宅やアパートが立ち並んでいた。その一つが比紗也
たちの住まいで、錆びた外階段のある白いアパートだった。
 真田は一階の角部屋のインターホンを鳴らした。
 アパート特有の筒抜けの足音が響いて、ドアが開いた。
「こんばんは、いらっしゃい」
 と出迎えた比紗也を見て、真田は少しばかりほっとした。実際に顔を見るまでは騙されてるのではないかという疑いも少しは抱いていたから。
 彼女はぴったりしたロゴ入りのTシャツにジーンズという格好で、体の線がよく見て取れた。
「こんばんは。今日はありがとう、まさか呼んでもらえるとは思わなかったよ」
 と真田が狭い玄関で靴を脱ごとすると、比紗也はきょとんとして
「だって真田さん、高い肉買ってくれるっていったから」
 と答えた。そのとんちんかんな回答には既視感があった。
「はは。そっか」
 と真田は笑ってから、玄関の隅に小さなスニーカーに気づいた。
 玄関を上がり、台所の奥の襖を開けると、和室にはテレビと茶色の卓袱台が置かれていた、その卓袱台の縁を小さな両手で摑んでいた。頭半分だけ覗かせて、警戒心丸出しの瞳が向けられている。
「なんだ、可愛いのがいるぞ」
 真田は台所に戻ると、流し台に牛肉とビールの入った袋を置いた。比紗也が気を遣うように真田の顔を見た。
「ごめんね。あの子、人見知りで。挨拶とか教えてはいるけど苦手で」
 男の子なんてそんなもんだよ。と真田は返して室内を眺めた。戸棚には調味料が並んでいる。青いチェック柄のカフェカーテンが小窓で揺れていた。
「君、しっかり料理するんだな」
「外食するお金ないから。今日は鉄板焼きにしちゃうけど」
 比紗也は冷蔵庫を開けると、野菜を取り出した。それから振り返り
「紡―。この人が、真田さん。挨拶して」
 と和室に呼びかけた。けれど声は帰ってこなかった。
「ちょっと、俺から挨拶してきてもいいかな」
 真田はふすまを大きく開けて、蛍光灯の笠に頭をぶつけないように屈みながら、卓袱台にしがみつく紡に笑いかけた。
「や。こんばんは。今、お母さんが夕飯の支度してくれているから、その間に、なんかして遊ぶか」
 紡は怯えたように
真田をじっ見た、白い肌に、切れ長の綺麗な目。巣穴に潜り込んでしまった兎のようだった。比紗也にも似ているが、それだけではなく控えめで温和そうな男の影がうっすら浮かんでいる。
 やっぱり子供っていうのは二人で作るもんだなあ、と真田は今更のように感心した。
「君はなにが好きかな。俺は汽車とか車が好きだったけど。あ、幼稚園の女の子と遊ぶときには絵描いたり、ままごとに付き合わされたりしたな」
 紡は一分ほど真田の顔を見つめていた。
 それから小さな声で呟いた。
「‥‥おうち」
「うち? ああ、君、家が好きなのか。お母さんもいるし、テレビもあるもんな」
 真田が喋りかけると、紡はわずかに目を輝かせて頷いた。
「じゃあ、家を作って遊ぶか?」
 紡が、え、と上ずった口調で訊き返した。
「おうち作れるの?」
 ああ作れるよ、と真田は答えて振り向く。食事の支度をしていた比紗也に向かって
「君、要らない割り箸とか溜め込んでないか。スーパーとかでもらうやつ」
 と訊いた。
「それならたっぷりあるけど」
 と不思議そうに答えた比紗也に、真田は陽気に
「はは、やっぱり母親っていうのは色々溜め込むんだな。もし使わないなら、全部くれないか? あとカッターとボンドも」
 と頼んだ。比紗也は引き出しを開けて、コンビニやスーパーの割り箸の束を真田に渡した。
 比紗也が食事の支度をしている間、真田は畳に座り込んで、割り箸を二つに切って端を削った。興味深そうに眺める紡に、割り箸の端を指す。
「ここにボンド、ちょっとだけ出してみようか。そうそう。ぎゅっと、白いのを出して。うん。上手いな」
比紗也は野菜や肉を盛った大皿を卓袱台に運ぶと、堪え切れなくなったように
「真田さんって、子供、得意だったの?」
 と訊いた。真田は、ああ、と相槌を打った。
「昔、離婚したばかりの叔母さんが息子二人抱えて、一時うちに住んでいたんだよ。夜遅くまで働いていたから、俺は自分の弟みたいに面倒見てたんだ。上の子は大きかったから一緒にゲームしたり、テレビ見たり。下の子はオムツまで替えてやったっけ」
 と説明しながらも手を動かす。割り箸のログハウスが完成するところだった。割り箸の両端を削ってみぞを作り、交互に重ねて組んでいったものだ。三角屋根を外すと中はがらんとしている。
「本当に、おうちだ」
 と紡が嬉しそうに呟いた。
「この中に家具とか人形とか置けば、もっと家らしくなるよ」
「真田さん、こんなのどこで覚えたの?」
 と比紗也がホットプレートを運びながら訊いた。
「小学生のときの自由研究で作ったんだよ。子供向けの学習雑誌に載っててさ」
 紡はさっそくおもちゃ箱に飛びついて、人形を出そうと探し始めた。比紗也は慌てて、ごはん食べてからね、と諭した。

 比紗也はがらがらと音の鳴る窓を開けた。古い網戸越しに隣の家の塀と青い夜空が見えていた。
 真田が持ってきた缶ビールで軽く乾杯すると、比紗也はいくつかの小鉢を卓袱台に手早く並べた。
「それ焼けるまでのおつまみ。紡、すっごく熱くなるかね。絶対に触らないでね」
 真田は小鉢の中身を突いて、これ美味しいな、と言った。ニンニクで和えた豆もやしは甘辛く、だしを吸って厚揚げは爽やかな柚子の香りがした。気持ち良く酔いが広がっていく。

 菜箸で肉をつまんで比紗也が、霜降り、とびっくりしたように呟く。焼き始めると和室は煙でいっぱいになった。
「賃貸なのに大丈夫か?」
 と真田が訊くと、比紗也は紡の肉と人参を取り分けながら、たぶん、とはにかんだ。
「今日だけなら、それより真田さん、この肉、美味しい。すっごい高い味がする」
 真田も焼き上がった肉をタレに付けた。食べた瞬間に甘い脂が溶けだしてくる。
「うん、わさび醬油でもいいかもな。つまみも美味しいよ。君、料理、得意なんだな」
 紡が肉を嚙み切ってから、うまうま、と呟いた。小動物みたいだな、と真田は思った。
「それにしても自宅に招いてもらえるとは思わなかったよ。この前は徳永さん、ちょっと素っ気なかったから」
 まだ距離感が摑めずに苗字を読んでみた。
 比紗也は真面目な顔になると、缶ビールを飲んでから口を開いた。
「この前の夜で最後、ていうのがやっぱり嫌だったから」
その言い方に、真田は期待した。けれど彼女はすぐに続けた。
「だってね、あれじゃあ、私、ものすごくだらしなくて悪い母親みたいじゃない。だから、そうじゃないところを真田さんに見てもらいたくなったの」
 真田は面食らって、なんで、と訊き返した。
「もし事件が起きたら、そのとき私を悪者扱いする人たちがたくさんいるかもしれないから」
「おいおい、物騒うだな。そんな可能性があるのか」
「今のところないけど、でも、分からないから。世の中なんていつなんて何が起きるか」
 と比紗也は平然と答えた。
 肉の焼ける音が、二人の沈黙の間に響いた。
「そんなに心配なら、それこそ見ず知らずの俺を呼ぶのも不安じゃなかったのかな」
「だって真田さん、大学のときから仲の良い女友達連れてて、名刺の会社もネットで検索したら、本当にちゃんとあったし。函館で飲んだ時の話とも矛盾してなかったから、それなりに安心かなって」
「それは、そうか」
 真田は納得してビールを飲んだ。それから、分からないのは感情なのだ、と気付く。
 素朴な黄色い皿へと視線を落とす。目の前の女は丁寧に生活しているように見える。それなら、この摑みどころのなさはなんだろう。

 満腹になると、紡はべたべたの手でおもちゃ箱をひっくり返した。真田はデザート代わりの西瓜を齧りながら割り箸の家を整えた。

 時折、紡は遠慮がちに真田ににっこりと笑いかけた。繊細な笑顔は胸を打つものがあった。離婚したての頃に叔母の息子たちが見せた、どことなく我慢していた感じを思い出す。おちんぽーん、などと馬鹿な下ネタではしゃいでいるときの真田の家族とはどこか距離を取っていたことも。
 紡は遊び疲れると、比紗也の膝に乗って『きかんしゃトーマス』のDVDを見始めた。そして真田と比紗也が話をしているうちに眠ってしまった。
「すごい。こんなにすんなり眠るのが珍しい。けっこう泣いたり不機嫌になったりするのに」
 と比紗也は呟いて、紡を抱き上げて奥の部屋に行った。
 一人で戻ってきた比紗也は、匂いを嗅ぎ仕草を見せた。
「うーん、やっぱりちょっと焦げ臭いかもね」
 その笑顔には、函館の夜と同じ無防備さが滲んでいた。沈黙した真田を残して、洗い物を片付けちゃうね、と比紗也は台所へ移動した。

 真田は残ったビールを飲みながら、視界が溶けて来たのを感じていた。
 いったん酔っぱらうと、真田の性欲はとどめなくなる。ちょっとやそっとの問題があろうと、目の前の女を抱きたくなるのだ。そして、たいてい抑えることができずに関係を持ってしまう。

 比紗也は背を向けていた。鉄板焼きの途中まで髪をまとめていたために、うなじがよく見えた。えみりの下品な話が蘇る。さすがにそこまで軽い女だとは思っていないが、多少誘っても許されるのではないかという甘えを誘発するには十分な内容だった。

 真田は立ち上がり、濡れた食器を拭く比紗也の肩にそっと手を置いた。比紗也はびっくりしたように振り返りながら、真田さん、と言いかけた。頭を撫でると、彼女は見つめ返した。
 堪らず唇を塞ぐと、抵抗はされなかったので、何度か口づけてから、熱い口内にゆっくりと舌を入れた。かすかに西瓜の水気が残っていた。
「君にまた会えて、本当に嬉しかったよ」
 少し気障(きざ)かとおもいつつも、真田は本心からそう告げた。比紗也の小さな舌がためらいつつも絡んだ。
 けれど彼女は唐突に顔をそむけた。
 無理にキスを続けるのはやめて、真田はその首に唇を添わせてみた。いきなり小さく悲鳴のような声が漏れた。首が弱いのかと思いながら、丁寧に首の筋を唇でなぞる。吐息が乱れたので、真田は彼女の肩を抱いて、畳の上へと移動した。
 紡が寝ているから、と比紗也が心配そうに漏らしたので、真田は襖の隙間から覗いて
「大丈夫。よく眠ってるよ」
 と伝えて比紗也を背後から抱いた。Tシャツの襟ぐりからのぞく鎖骨を撫でる。真田の腕の中で、彼女は小さくなって下を向いていた。指が数ミリずつ布の奥に沈むたびに吐息が震える。いったん始めると、真田は焦らすのが得意だった。

 指先が左胸に届くと、敏感な部分にいきなり触れないように注意して、輪郭だけをなぞった。比紗也は苦し気に目を瞑って、真田の胸に寄りかかった。可愛い、と思いながら、一瞬だけ先端を擦ると、小さな肩が跳ねた。真田は立ち上がって電気を消した。
 豆電球だけが灯っている。互いの表情は闇に紛れた。

 比紗也に両手を上げさせて、Tシャツを手早く脱がすと、背中のホックを外した。肌の色がぼんやりと浮かび上がる。
 うっすら焼けた首や手にくらべて白い胸はそこまで大きくないもののも想像通り綺麗な形をしていた。先端はさすがに桜色ではないが、砂浜にかすかに海水が染みたように、肌よりもほんのちょっと濃い程度だった。濡れた舌で包んで刺激すると、あっという間に口の中で存在感を示すくらいに硬くなった。

 比紗也のジーンズのファスナーを下ろして中に手を入れようとすると、突然、彼女は強い力で身をよじって嫌がった。真田はかまわずその肩を強く抱き寄せて、下着の中に触れた。
 顔をのぞき込んだ瞬間、真田は驚いて、え、と思わず呟いた。
 彼女は息苦しそうに嗚咽を漏らしていた。大量の涙が頬を伝わっていた。

 真田は、どうした、と小声で尋ねた。けれど比紗也は首を振るばかりだった。おまけに真田が触れた部分はすでにひどく濡れていて、指が滑るほどだった。膨らんで芽に指が添った瞬間、比紗也の声は尖った。絞り出すように、泣いた。

 ジーンズを脱がせて、比紗也を背後から抱きかかえたまま、下着の脇から指を入れて、時間をかけて愛撫した。果てしなく溢れて来る。下着を脱がせて脚を軽く開かせた。
 そのまま指の動きを速めて出し入れを繰り返すと、闇の中に水を弾くような音と、比紗也の泣き声が響き、それはなんだか異様な雰囲気をもたらした。

 真田はだんだん頭が混乱してきた。やっていいのか。いいんだよな。もしかしてだめなのか。逡巡しつつも、やめるという選択肢には現実味がなかった。その代わり触れてもらうことはあきらめ、正面を向かせてから真田自身もシャツを脱いだ。とにかく繋がってしまいたかった。

 比紗也は、瘦せても太ってもいない人並みに頑丈な真田の上半身を、ぼんやり見上げていた。ズボンを下ろして裸になってから、安心させるように彼女を抱きしめた。
 比紗也は、真田の締まった脚に、細い脚をそっと絡めてきた。ほんの少し腰を動かすだけで、硬くなったものが彼女の内股に柔らかく擦れた。
 比紗也の体を畳に横たえて、自然の流れで両脚を開かせようとすると、手のひらに強い抵抗を受けた。
 覆いかぶさろうとした真田に向かって、比紗也は大粒の涙を流しながら、堪りかねたように口を開いた。
「ごめん。やっぱりできない」
 真田は凍りついた。比紗也は下から這い出すと、真田が脱いだばかりのポロシャツを着てしまった。
真田には、比紗也の態度が演技とは言わないまでも、そこまで嫌がっているようには見えなかった。迷っているだけか。とっさに都合の良い回答を選び取った。
 背後から比紗也を引き寄せて、露になっていた尻を腰に押し付けた。や、と小さく震えた声が漏れると、萎えるどころか欲望が加速した。先ほどまで愛撫を繰り返した赤い闇の奥は、太腿を伝うほどに濡れていた。

 先端が埋もれかけた瞬間、吸い上げられるような快感を覚えて、真田はうめき声を堪えた。と同時に比紗也が声を上げて泣き始めた。止まらない嗚咽に、さすがの真田も続けられないことを悟った。

腹痛を堪えるのにも似た行き場のなさで腰を離し、丸くなった背をさすってズボンを穿いてから、比紗也をこちらに向かせた。
「悪かった。申し訳ない。もうしないから」
 どちらかいえば自分自身に言い聞かせるようにして、頭に手を置いた。
 比紗也は小声で、ごめんなさい、と繰り返した。涙袋が腫れて、鼻の頭まで真っ赤になっている。ポロシャツから覗く白い太腿にふたたび欲情しかけた自分を制し、真田は散らかっていた服を引っ張って彼女の腰に被せた。
 ええと、と真田は言葉を紡ぎ出した。
「そろそろ、俺、帰るよ」
 比紗也はあっけにとられように、え、という形の口をした。
「ほら、終電もあるし。飯美味しかったよ。良かったら、たまには一緒に食ったりしょうな」
比紗也は目に涙を溜めたまま
「分かった」
 と小さく頷いた。ポロシャツの裾に手をかけて脱ぎ始める。隠れていた胸が闇の中にふたたび浮かび上がる。横たわっていたときとは違ってくっきり形を保ち、手のひらに弾力と重量感が伝わってくるようだった。迷いかけた真田を、比紗也が醒めた目で見た。

彼女は前かがみになると、真田のズボンのファスナーに手をかけて下した。真田は、おい、と言いかけた。比紗也は上目遣いに真田を見ると、気が変わった、とだけ言った。
定まりきらない欲望を固定するように、刹那、異様に熱く湿ったぬくもりが真田の先端を包み込んだ。決めかねたまま、乱れた比紗也の髪を撫でると、柔らかくうごめく舌の感触が伝わってきて、真田は黙った。

 目を瞑って深く息を吐きながら、今にも全てを引きずり出されそうになるのを堪え、水面に顔を上げるように唇を離した比紗也に真田は口づけた。そして畳に押し倒した。比紗也は今度は抵抗しなかった。

中に入った瞬間、真田は息を詰まらせた。
 なんだろう、この感覚は。
 真田は華奢な腰を引き寄せた。比紗也がびくっと体を震わせると、快感が繊細な波紋のように広がって、真田の下腹部をも包み込んだ。溺れそうになるのをなんとか耐えて、体勢を立て直しから腰を動かすと、比紗也が小さな子供みたいにしがみついてきた。
 互いの輪郭が溶けそうなくらいに馴染みながらも、強烈な刺激は途切れることなく体を波立たせた。

真田には、元は一つだった体が、何かのいたずらで二つになったのだというふうにさえ感じられた。今までセックスの相性というのは性的嗜好の一致に依るものが大きいと思っていたが、こんなにも体そのものがしっくりくることがあるのかと思った。
闇の中で、見に付けてきた技巧を忘れて確かめた。
比紗也の手首を握りつぶすくらい強く摑んで、真田は果てた。白い腹に泡立てた液体だけが残った。
明け方、比紗也たちが起きる前に、真田は帰り支度をした。来客用の布団がなかったので座布団を並べて寝た背中は少し強張っていた。
襖の向こうでは比紗也と紡がマットレスで抱き合って眠っていた。同じ顔だな、と小さいく笑って、そっと閉めた。
外に出ると、朝もやが立ち込めていた。新聞配達の青年がバイクを走らせる音だけが響く。地面を跳ねる雀が飛び去っていった。

歩き出したら、背後でドアの開く音がした。
白いTシャツとグレーのハーフパンツに着替えて比紗也がいた。
「帰る、の?」
「ああ。うん、ごめん、起こしたかな」
「あ、いいの。紡が寝ている内にゴミ出そうと思っていたから」
まだ眠そうな目が可愛らしく感じられた。あとで電話するつもりだったものの気が変わり、踵(きびす)を返して比紗也の前に立った。
「昨日は楽しかったよ。もし良かったら、またこんなふうに遊びに来てもいいかな」
 比紗也はしばらく黙っていた。それから、おもむろに
「高い肉、買ってくる?」
とぼんやりした言い方で訊いた。真田はちょっと戸惑って、いや、それも買ってくるけど、と返した。
 比紗也は反応を示さず突っ立ったままだった。顔からは喜びも拒絶も読み取れない。さすがに不安になって、質問を重ねた。
「あのさ、もし嫌だったら、べつにたまに外で食事程度でも」
「どういう意味?」
 比紗也はようやく口を開くと、はっきりと訊き返した。どういう意味?
 そうか、とようやく悟る。女っていのは決めないといけなかったんだっけ。関係性とか形を。真田は数秒間だけ迷ってすぐに決めた、顔も体も好みの相手なんてめったに出会えない。おまけに自分は今フリーだ。シングルマザーなのは、おいおい問題になってくるかもしれないけど、そのときに考えればいい。なにもつき合ってすぐ結婚するわけでもないのだ。

「どういう意味かつて言うと、つまり俺は君のことを気に入って、付き合えたらいいなって言っているんだよ」
 今度は、彼女ははっきりと首を振った。
「私はもう一生、男の人とは付き合わないから」
「一生?」
 と真田は素っ頓狂な声を上げた。
「いや、君がなにか複雑なことを抱えているのは分かるけどさ、一生なんて決めるには早すぎないか。もしすぐに付き合う気になれないっていうんだったら、最初は友達として、会う回数を重ねても」
 比紗也は黙り込んだまま、視線を宙にさまよわせた、真田などいないかのように上の空の口調で
「分かった」
と答えたので、真田はまたしても驚いた。
「分かった、て友達が? それともつき合うのが?」
 比紗也はようやく真田を真っ直ぐに見た。どこか追い詰められたような目をして、言い切る。
「セックスフレンドとしてなら会ってもいい」
 真田はしばらく口が聞けなかった。
つづく 3章 キーワード
脳外科医、快楽に沈みたい、セックスフレンド、金銭的な不安、育児と家事、告解室