とにかく比紗也をあの父親から離したいんです。如月さん。もう一度こちらで比紗也を保護してもらえませんか?夜の仕事をしていた頃は、惜しげもなく大金を払って口説く男がたくさんいた。だけど比紗也から気持ちを求めた途端に彼らは臆したように去っていった

本表紙島本理生著

11章

【広告】人間のすることで、持続し続けるものを挙げることは難しい。苦しみは必ず終わる時が来るが、喜びもやがてはかき消える。だから、人は希望を持っても単純に喜ばないことだ。
 夫婦になれたことを単純に喜ぶのではなく、夫婦は苦難を背負うことだと意識し、ふたりはもともと違う種の人種であり、夫婦の有り様が親子関係に近い親密性が深まった場合、いずれ崩壊する場合が少くなくない。夫婦とは愛情とセックスという動体表現により結ばれたのであり、その動体表現は少しづつ変容していくが特にセックスそのものに飽きがこないよう新たな工夫を創造することで刺激と興奮の連鎖によって別物のに近いと感じられるようなオーガズムが得られるのが望ましい。

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バラ
 午前中の病院訪問を終えた歓は、見舞客に紛れてカレーを食べ終えると、まっすぐに修道院に戻ってきた。
 門の向こうは秋も終わりかけて、古びた建物全体が物悲しい雰囲気に浸されていた。鼻の奥まで染みる冷めたい風。空の色も冬が近くてくすんでいる。
 薄手のコートを羽織っていた歓は首を縮め、たしかにマフラーが欲しい。と思いながら枯葉を踏んだ。学生の頃、恋人から手編みのマフラーを貰った同級生が困惑して、手作りとかないよなと正直、と漏らしていたことを思い出す。そのときは相槌を打ったが、内心手編みに憧れたものだった。まるで自分が貰ったように今もそのときの縞模様が浮かんでくる。
 事務所の前を通るとときに小窓ががらっと開いて、事務の女性が顔を出した。
「如月神父様。お客さんがいらっしてますよ。応接室でお待ちです」
 とっさに記憶をたどる。午後の来客の予定はなかったはずだが、と思いながら、廊下の手前の応接室のドアを開ける。

 ソファーに腰掛けて所在なさそうにお茶を飲んでいたのは真田だった。歓を見ると、両膝に手を置いて頭を下げた。
「あの、真田さん‥‥どうされました?」
 と歓は驚いて尋ねた。
「先日はどうも」
 と真田は立ち上がった。真正面で対峙すると身長差が際立つ。でかい男はやっぱり苦手だ、と歓は思いつつも座るように促した。
「実はお願いがあって来ました」
 と真田は真剣な面持ちで告げた。事情が分からずにいっそう困惑していると、彼は早々に切り出した。比紗也の身に起きた事を。
 歓は啞然として目を見開いた。そんな、あんなに幸福そうだった比紗也が‥‥憤りと混乱をなんとか殺して聞いていると
「本当に図々しいお願いごとだというのは承知しています。ただ、どうしても如月さんに協力してほしいんです」
 真田さん、と歓は言いかけて、彼が背広姿だということを気付いた、シルバーグレーのストライプのネクタイまで締めてているのに髯を剃り忘れていた。彼なりに思い詰めて仕事の合間を縫って来たのだと悟る。

「とにかく比紗也をあの父親から離したいんです。如月さん。もう一度こちらで比紗也を保護してもらえませんか?」
 真田の言い方がまるで他人事のように響いた歓はとっさに真田に殴りかかろうとした。
 壁から見下ろすイエスと弟子たちの絵画が視界に隅に映り、すんでのところで拳を止めた。
 真田は小さく息を吐いた。目元に疲労の色が見える。けれど目尻や鼻の脇に刻まれた苦悩はかえって真田の顔に人間らしさと深みを与えているように見えた。歓は少しだけ羨ましくなった。自分だったら年齢不詳の童顔が老人臭くなるだけだろう。
「殴られても仕方ないです。俺は、如月さんがあれだけお膳立てしてもらったのに、比紗也を守れなかったんですから」
「お膳立てなんて、僕はただ」
 ただ、その続きが言えず沈黙した。
 ただ真田は信頼し、ただ比紗也を托し、その結果によってただ責任を感じて胸を痛めているなら、どれほど良かっただろう。
 ただなどはない。
 自己犠牲によって幸福は手にしたのだと、誰よりも比紗也に感謝してほしかったのだ。
 一緒に暮らすことも求婚することも叶わない身の上なら、せめて一番献身的姿勢を見せることで忘れられぬ星になりたかった。
 だけど比紗也は心身ともに新たな傷を負い、今度は自分を頼る事をせずに暗い巣へと戻ってしまった。
 真田が仕事に戻るというので、歓は門のところまで見送りに出た。
 中庭は薄暗くて寒かった。かさかさと枝から落ちかけた葉が鳴っている。あと一ヶ月もすればクリスマスの準備が始まる。
 真田は紅葉の葉を皮靴の先で踏みながら、如月さん、と言った。
「最終的に比紗也が俺の元に戻って来なかったとしても自業自得です。だけど、あの親父の所に居たら不幸になるのは目に見えている。俺は今夜もあいつのアパートを訪ねます。如月さんも行きませんか?」
 歓は頷きかけて、やめた。
 託してばかりだから悔やむのだ。真田任せではなく今度こそ最後まで自分がやらなくては。たとえこの人生を賭けてでも。だけど、どうやって。自分はほかの男たちと違って比紗也に選ばれてすらいないのに。
 しばらく考えます、と言い残して、歓は逃げるように真田の前から立ち去った。

   ☆
 卓袱台の上の缶ビールを置き、コンビニ弁当を開けようとしていた男が天井を見上げた。
「五時か。もう暗いな」
 と立ち上がってひもを引いたものの、なんべんやっても電気は付かなかった。
「おーい。比紗也、電気が止まってんじゃないか」
 と名前呼ばれて、億劫に感じながら寝返りを打つ、右手だけで起き上がるのは思いのほか難しく、スウェット素材のロングスカートの裾を払うようにして足を上げ、床に下りた。
 のろのろと近づいて、和室の電気を見上げる。公共料金を最後に支払ったのは何カ月前も前だということを思い出す。
「仕方ねえなあ、俺が払って来てやるから、ほら、金」
 ずっと居座っているわりには光熱費も家賃も一切払っていないことなど男は無視して右手を差し出した。比紗也は仕方なくバッグを開いて、財布を出した。五千円札を手渡すと、男は卓袱台の隅にあった郵便物の束を漁った。
「ほら、あった。請求書。じゃあ行ってくるから。先食ってていいぞ」
 と男がジャンバーを羽織って玄関を出て行くと、比紗也は壁に寄りかかった。
 掛け時計の秒針が、蛇口から水滴が滴るように一秒一秒を刻む。畳には覚えのない茶色いシミが残っている。

 秋の終わりだというのに部屋全体がなんだか湿り気を帯びて、荒廃しているわりに生臭く、まるで男の口の中にいるようだと思ってぞっとした。
 比紗也は卓袱台の上のコンビニ弁当を食べようと箸を手にした。けれど。いかにも油っこいエビフライを見た瞬間に胸焼けがして、蓋を閉じてしまった。シスターたちの素朴な手料理を懐かしく思った。

 畳に横たわると、自然と涙が頬を伝った。四日間も紡を店長の両親に預けっぱなしでいる。だけど働く気力も逃げる気力も湧いてこなかった。左手の傷が痛むたびに、すべての生き方が溶け出していくようだった。
 そのときインターホンが鳴った。最後は無視していたものの、立て続けに鳴ったので一応気になって玄関のドアへと近づき、ドアスコープを覗く。
 無精ひげを生やしていくぶんやつれた真田を見て、とっさに嬉しい気持ちになりかけた自分を呪った。

比紗也ドアを背に向けた。
 背中越しにノックがした。背骨まで響いて、神経を揺さぶられる。
「お願いだ。比紗也、いるんだろう。頼むから話をさせてくれ」
 それでも比紗也は答えなかった。真田は迷ったように黙り込み。また言った。
「君を刺した博子とは一年くらい前まで付き合ってた。君と再会する前だ、それ以来、二度と会っていなかった。勿論連絡も取ってない。正直、彼女があれほど俺に対して愛着を抱いていたなんて想像もしていなかった」
 比紗也は冷たい玄関に座り込んで唇を嚙みしめていた。真田がまたノックをくり返す。
「頼むから直接顔を見ながら、もう一度謝らせてくれ。お願いだから」
 堪りかねて、真田さん、と聞こえないくらいの小声で呟くと、彼がドアを押す振動が伝わってきた。
「おい。やっぱり比紗也、いるんだな」
「‥‥真田さん」
「うん、なんだ」
「本当にわたしのこと好きだった?」
 今さらそんなこと尋ねても仕方ないのに、高くなっていく体温に導かれるようにして訊いていた。
「勿論。今だって好きだ」
 と真田は即答した。反論しかけた比紗也の脳裏に仙台の朝が映り込んだ。
 遮光カーテンで陰った室内、ベッドで覆いかぶさった真田の腕の筋肉、首筋の高い体温と香水の混ざったうなじの匂い。 
 快感の最中で、好き、と口走ったとき、真田が動揺したように動きを止めてから
「ほんとに?」
 と訊き返したことも。
 夜の仕事をしていた頃は、惜しげもなく大金を払って口説く男がたくさんいた。だけど比紗也から気持ちを求めた途端に彼らは臆したように去っていった。
 だから、あのときの真田の無防備な反応を見て分かったのだ。たしかにこの人は私を本気で好きなのだと。
 膝を抱えたまま混乱している比紗也に、真田は問いかけた。
「君はもう俺のことがすきじゃないか…‥?」
 答える事ができずに黙っていると、離れる気配がした。思わずドアに耳を押しあてる。足音が近づいてきて、あの男が戻って来たことを悟る。
「真田さん、しつこいなあ。警察呼びますよ。男は引き際が肝心でしょう」
「どうしても比紗也さんにお会いしたいんです」
 と真田の食い下がる声がした。比紗也は慌てて足音を立てないようにして戻った。
 男は鍵を開けると、乱暴にドアを閉めて、うんざりしたように和室へとやって来た。
「なんだ、食ってないじゃないかよ」
 苛立ったように男は舌打ちした。
 比紗也は慌てて機嫌を取るように、おかりなさい、と微笑んで、男の隣に座り込んで足を崩した。
「一緒食べようと思って」
「あ、そう、おまえ、またあの真田とかいう男が来ていたぞ。まさか出たんじゃないだろうな」
「まさか。真田さんにはもう会いたくないし」
 比紗也は愛想笑いして、割り箸を手にした。吐きそうになりながらも揚げ物に齧りつく。
 男は缶ビールを飲みながら、しばらく曖昧な笑みを浮かべていた。
「なあ。比紗也」
「なに?」
「この家の家賃、そろそろ払えって督促来てたぞ」
「そう。全額は無理だから、取り敢えず今月分だけ払っておく」
 と素っ気なく返す。アパートに戻ってから貯金や現金を確認したら、案の定ほとんど使い込まれていた。
「考えたんだけど、あの神父に頼んだらどうだ? お前たちの面倒をただで見てくれんだろう。金ぐらい貸してくれるんじゃないか」
「そんなこと頼めるわけないでしょう」
 比紗也はびっくりして反論した。突然、男が不機嫌そうに右肩を掴んだ。目を逸らすと同時に、軽く頬を張られた。痛みよりも音の方が強いくらいだったが、その一度きりで完全に抵抗する気を失わせた。

「おい。お前はしばらく動けないんだぞ。分かっているのか。かといって真田のやつに生活を支えてもらうのも嫌なんだろう? そりゃあ、そうだ、おまえを裏切って、そんな怪我を負わせる女と関わってたんだから」
「女とはとっくに切れてた、て真田さんが」
「おまえは、まさかそんな詭弁信じてるんじゃないだろうなあ。常識で考えてみろ。とっくに切れてた女がどうしてわざわざ刃物なんて持ち出すんだ」
 そう念を押すと、男は唇の隙間から突き出たエビフライの尻尾を千切るように引っ張り、弁当の蓋の隅に放りながら、期待してんのはおまえだろ、とことなげに言い切った。また覚えた胸のむかつきに、比紗也は眉根を寄せた。この感じ知っている、と。

 絶望なのか希望なのか分からない光の視界を塞がれて思考停止したのは、束の間だった。
 男がじろりと訝しむように見たので、悟られないように目を逸らして素早く卓袱台の上を片付けた、それから
「ねえ」
 と比紗也は男に慎重に呼びかけた。
「もう、出て行って。お父さんがいると紡を迎えに行くこともできない」
「連れてくりゃいだろう。あんだけ大人しい子供の一人くらいだったら、家で放っておけばいいんだから」
「嘘。私が目を離した隙にどこかにやろうとするでしょう。そうやって、今でも」
 男が卓袱台の縁を叩いた。自分が殴られたような錯覚を覚えて黙り込む。だけど、すぐに胃の奥から激しい怒りがこみ上げてきた。体温が上がっていく。さっき真田の名前を呼ばずにはいられなかったときに、恐怖よりも衝動のほうが勝った。
「‥‥もう、お父さんが死んだってかまわない」
 今度は本気で壁を蹴る音が響いた。視線を向けると、安普請(やすぶしん)の和室の壁はあっさり穴が空いていた。小さな暗闇を見つめ、息を吞む。
「黙って聞いていりゃあ、急になんだ! 娘の分際で威張り散らかして、俺をわざわざ怒らせるつもりか。警察呼ぶなら呼べ。どうせあの真田になんか甘いこと言われたんだろう。お前も馬鹿な女だよ。母親と一緒だ。あの男はおまえの顔と体にしか興味ねえよ。それで歳いって捨てられるんだ。可哀想になあ。いいんだぞ。試してみて」

 男の同情的な眼差しを受けると喉ぎりぎりまで嫌悪感がこみ上げて、比紗也は吐かない為に何度も生唾を飲んだ。
 男は思い出したように立ち上がると、比紗也の頭の上に手を置いた。ぐっと髪を握りしめて、強く引っ張る、とっさに前かがみになる。
「お前、さっき死んででもいいと言ったな。父親にむかって。たしかに聞いたぞ。おい、もう一度言ってみろ」
「‥‥もういい」
「おまえが断る権利なんかないんだよ! 言え」
 比紗也は目をつむり、今まで通りに感情を殺してやり過ごそうとした。だけど腹の奥底から共鳴するように叫ぶ声が聞こえた。負けないで、と。負けないで、お母さん。
「お願いだから死んでよっ」
 ばんと突き飛ばされて、壁に強く打ち付けた。蹲ったまま起き上がらない比紗也にむかって、男は吐き捨てるように言った。
「居なくなってほしけりゃあ、金だ。俺はお前を育てた分だけでおまえが返してくれさえすればすりゃあ、それでいいんだよ。あの神父に頼むのか、頼まないのか、どっちにするんだよ。俺はべつにいいんだぞ、お前が困るだけだから」

比紗也は次第に頭の芯が痺れてきた。ぼんやりと首を振り、男の尋問から逃げたいがためだけに
「来週‥‥すぐには無理だから、取り敢えず来週に修道院を訪ねてみる。でも本当にさすがに断られるだろうから期待はしないで」
と言った。逃げなければ、と思いながら。この男から。どんな手を使ってでも。

  ☆
 日曜のミサで祈りを捧げている間も、歓はぐるぐる考え続けていた。
 昨晩、比紗也から連絡があったときは嬉しくなったが、その喜びは一瞬で去った。
 比紗也のメールには、わけあって怪我をしてしまい例の父親とまた一緒にいること、お金に困っていること、左手が不自由な状態では働くことすらできないといった内容が綴られていた。金銭的な頼み事だとは思ってもみなかった歓は絶望し、本格的に堕落しかけていることに不安を募らせたままミサに出ていた。

 信徒たちが揃って口ずさむ聖歌と、オルガンの重低音。ステンドグラス越しにこぼれる密かな光。おごそかなミサのひととき。
 時間は忙しない一方向きではなく、波紋のようにゆるやかに広がって流れていく。
 自分だけが泣きそうな思いで胸を痛めているように思えた。歓は、少年の頃に読んだ『銀河鉄道の夜』のジョパンニになったような気持ちで悩んでいた。

 あ、あの人にとっての幸せとはなんであろう。
 僕はあの人の本当の幸せのためになにができるのだろう。
 もし、と歓は黒い服の裾を見下ろして考えた。時間をかけて説得することが出来れば、あの人はやり直せるかもしれないと思った。いっそ自由を奪って正しい思考に洗脳してしまいたい。自由を奪う‥‥どこかないのか。外部との接触がない感想修道院なら‥‥いや、さすがに信徒ですらない女性を中に連れて行くのは大司教であっても無理だ。かといって自分の部屋に内鍵しかない。そもそも女性を入れてはいけない場所だ。彼女を連れて来ることができて外から鍵が掛かる場所‥‥。

 そこまで極端な考え方に走りかけた時に扉が開き、遅れてきた信徒の老人が入って来た。歓は目を見開いた。
 ミサが終わると、歓は廊下を歩いていた石原神父に駆け寄った。
 自分の部屋にこっそり来てもらい、ベッドに腰掛けた石原神父に計画を打ち明けると
「如月神父‥‥あなた、本気で言っているんですか」
 と石原神父は啞然としたように訊き返した。組んで脚をずんと下ろし、床を踏む。
 立ち上がった彼は、威厳と倫理観を滲ませた声で言った。
「その女性のことから少し離れたほうがいい。三ヶ月も経てば冷静になれるはずですから」
「それならば僕は司祭をやめます」
 と言い切って部屋を出て行こうとすると、石原神父があきれたように腕を掴んだ。机に積み重ねた資料がずれて数冊が床に音を立てて落ちた。
「如月神父。私たちが生活できていのも、多少なりとも尊敬されるのも、このカソリックという世界においての立場があるからだ。今さら司祭をやめて一介の教師になれるんですか?」

「一介の教師という言い方は不適切です。選民思想だ」
 と言い返すと、石原神父は胸を張って、適切ではないが真実ですよ、と言い返した。
「我々の中には強烈な自負と自尊心がある。その驕(おご)りから目を逸らしてはいけませんよ。頭(こうべ)を垂れるためには、まず自分が頭を高くしていることを自覚しなくてはならない」
「そういう話はいいんです。もし三ヶ月も彼女を不幸の泥の中に放っておくらいなら、僕は司祭をやめて、一人の人間として彼女を救うために全力を尽くします」
「如月神父」
 何ですか、と訊き返すと、石原神父が訝しげに、肉体関係でもあるんですか、と問いかけた。歓は頭の奥から強烈な痺れを感じて、とっさに彼を突き飛ばした。
「侮辱しないでください」
と歓は頭に右手を添えたまま、震える声で言った。
「如月神父のことは真面目で真摯なキリスト者だと思いますよ。だから原因はその女性に」
「そうじゃなくて! 僕じゃなくて、彼女のことを侮辱しないでください。それは、あの」
 と歓は窓の外を指さした。中庭の白いマリア像が沈黙している。
「聖母の横顔を土足で踏む行為です」
 石原神父は鼻から短く息を吐くと、分かりました、と呟いた。
「なにが、ですか」

「どっちにしてもこのままだと如月神父は正しい信仰心を失ってしまうということが。一度だけ協力しますよ。その女性が本当に幸福になれるとしんじているのなら。ただし問題がおきたら、すぐに中止だ。たとえあなたが相手でも、私はすぐに本部にこのことを報告しますからね」
 と石原神父は警戒して距離を取りつつも言った。
 歓は憑(つ)き物が落ちたようにぼうっと立ち尽くしていた。はたと我に返って、ありがとうございます、と頭を下げた。
 彼は返事もせずに眉間に掻きながら、廊下を早足に去っていった。

 午後のかげった教会へとやってきた比紗也は、そっと中に入って来た。
 白い壁、眩いばかりに輝く祭殿。十字架に架けられた残酷なイエスの肖像画。眠っているように穏やかな顔のマリア。並んだ椅子に誰も腰かけていない。比紗也に送ったメールには、午後二時の教会の中で用事を済ませていてるから入って来てくれ、とだけ書いた。

 わずかな足音さえも響くほどの静けさの中で、大きな扉が奇妙な音を立てた。
 幕の陰から現れた歓を見て、比紗也は啞然としたように言葉をなくしていた。
歓の両手は白いビニール紐できつく締めあげられて、どうしても不格好な歩き方になった。
「如月さんっ、大丈夫ですか。今、人を呼んできますから」
 と比紗也が扉を押したところで、外からは鍵が掛かっている事に気付いたようだった。慌てて叩こうとしていので
「違うんです。これは、あなたと僕が話し合えるように、ほかの神父に頼んだことなのです。僕が自由に使えて、日中に人の出入りがなくて、外から鍵を掛けられる場所がここしかなかったので」
 と歓は説明したが、比紗也は困惑しきったように言い返した。
「全然‥‥意味が分かりません。とにかくここからいったん出してください」
「それはできないのです。あの、僕がこんな格好なのは本当にきにしないでください。僕が話し合いの最中に比紗也を不安にさせることがないように、石原神父を安心させる意味もあって提案を」
「十分不安です!」
 と比紗也は声を荒げてから、逃げるように椅子の陰に隠れてしまった。
 歓は途方に暮れて磔(はりつけ)にされたイエスの絵画を見つめた。ひさしぶりに見た比紗也は心なし瘦せていて、共に積み重ねた時間を思い出すと胸が痛くなった。
 扉の外で待機している石原神父を意識しつつも、悔いのないようにと決意して言葉を絞り出した。
「取引しましょう。僕と」
「取引?」
 と椅子の陰から不安げな声がした。
 歓は、そうです、と言った。
「もう二度とあの男とは会わないと誓ってください」
 比紗也の返事はなかった。それでも続けた。
「その代わり、僕があなたの望みを叶えます。なんでもいい。家だってお金だってなんとかします。だから、だめです。あの男だけは」
「それは‥‥私だって分かっています」
 と遮られ、歓は怯んだ。
「どうせ刺されるのなら、あいつが刺されれば良かった。そうすればあいつを塀の中に閉じ込められたのに。如月さんがどんなに親切してくれても、あいつが生きている限り、絶対に幸なにはなれないから」
 そこまで断言されてしまうと、歓は無力感でいっぱいになった。しょせん僕は部外者なのだ。完璧に彼女を救う事はなどできないのか。
 心が折れかけたとき、頭がうっすらと痺れてきた。久しぶりの感覚に懐かしささえ抱いた。
『いつまで茶番やってんだよ、僕もう飽きたよ。神でもイエスでもないんだから無力なのは当たり前だろ。短い人生で人間一人を一度きりでも救えれば上出来じゃないの』
 歓は血流が悪くなって感覚が鈍りかけた両手を握りしめた。
 無力で、いいのか。
 それなら自分は今まで何者のつもりだったのだろう。石原神父の忠告を思い出す。頭を垂れるためには、まず自分が頭を高くしていることを自覚しなければならない。
 歓は床に膝をついた。勢いがつきすぎて膝小僧を打った痛みに耐えながら、比紗也にむかって言った。
「絶対に幸せになれない、なんて言わないでください。お願いだから、幸せから逃げないでください」
 顔を上げると、椅子の陰から微動だにしない比紗也の左肩だけが見えた。また口を開く。
「僕は。逃げました。現実の人間関係や過去から。だけどちっとも救われませんでした。ようやく解放されたのは、あなたら出会ったからです。僕の話を真剣に耳を傾け、嫌悪したり馬鹿にしたりせずに、本気で叱ってくれたからこそ僕は」
「如月さんは私よりずっと立派です。正直だし、いつも他人のことを気にかけて、助けようと全力を尽してくれて」
「それは僕が」
 と歓は声を詰まらせた。喉の奥がむず痒くて息苦しい。たった一つの本心を避けて遠回りばかりしてきた。彼女と深く心を交わすほどに。
「それは僕が、愛からだけは逃げられなかったからです。知らなかったんです。愛は人が見つけるものだと思っていました。だけど実際はどんなに抵抗しても、愛の方から見出されるものだった。それくらい人間はちっぽけで、僕は無力です。僕はきっと‥‥比紗也さんを愛しているのだと思います」

 そう言い切ると、愛という言葉で全身が炭酸水のように弾けて蒸発しそうだった。そこまで言うつもりなどなかったのに、神に導かれるように告白していた。
 いつの間にか比紗也が座席の背もたれを掴んで立っていた。歓は羞恥心と高揚をいっぺんに覚えて息を呑んだ。
 比紗也が小さな声で、如月さん、と呼びかけた。
「はい」
「愛なんて言葉、初めて言われた。私」
「比紗也さんっ。僕は、本当に何でもいいから力になりたいんです。ただ、あなたが苦しむと分かっていて、その場しのぎで手を貸すのは嫌です」
 と紐で縛られた不自由な両手を上下させながら懸命に訴えた。
「わたしも、どうしたらいいのか分からない。幸せに向かって必死に走っても、どこまでもあの男の影が付いてくる気がして。親子である限り簡単に縁を切ることができない。いっそ死ぬか殺すかしたいって思った、けど」
「けど?」
「私、たぶん妊娠してるから」
歓はしばらく口が聞けなかった。
 比紗也は、産むつもりです、と続けた。
「迷い、は」
「迷いはないです。いえ、状況的にもっと迷えって話だけど。でも、もうそこにあるものを失いたく思わないから。それに私は家族が欲しかったら。こんな状況でも明日もなんとか生きて働こうと思えるんだって、紡がいるからだし」
 比紗也に出会った午後の事を思い出した。病院の回転扉の前で傘を掴んだ比紗也は胸に赤ん坊を抱いていた。それはそれは大切なものを扱うように。そして思ったのだ。天使というよりマリアだと。それは自分も同じように愛されたいという潜在的な欲望だったのか知れない。結局、思春期どころか成長期すら未だに終わっていなかった自分に気付く。

 歓はしばらく考えてから、問いかけた。
「今も比紗也さんにとっての保護者が欲しいですか? お子さんではなく」
 比紗也は沈黙していたが、ようやく小声で答えた。
「私は、なんとか大人になれた。でも子供には、本物の保護者が必要だと思う。それすら満足に与えることができなくて。現実の男の人と向き合う勇気も希望も、今の私には」
「比紗也さん、お子さんの父親はっ」
 歓は反射的にぎゅっと目を瞑った。瞼が熱くなり、全身を引き裂かれるような悲しみが突き上げてきたけれど、質問を続けた。
 比紗也の答えを聞いた歓は涙をこらえ、そうですか、とわざと明るく声を出した。
「分かりました! 約束します。僕がかならず比紗也さんの欲しいものを差し上げます。だから、それまで問題の届かないところへ行ってください。南にも北にも修道院はありますから、好きな場所を選んでください。前回のように全て世話をしてもらえるように僕ら頼みます」

「如月さん、いくらなんでもそこまで」
「一人でお子さんを抱えながら、もう一人お子さんを産むつもりなんて、世の中のための大仕事ですから、それ以外のことに煩わさないように配慮するのは、全ての人々の幸福を願う司祭としての勤めです。だからなにも心配しないでください」
 涙で霞んだ目で磔のイエスを見た。瘦せてた体に虚ろな瞳を、嘲笑うように見物する人々。だけど。ただ民衆に裏切られて死罪を言い渡されただけでは、十字架を背負い続けてゴルゴタの丘の登るのはこれからだ。

  ☆
 修道院の受付電話を借りると、呼び出し音が続いてから
「はい、『ジェーン』です」
 という聞きなれた声がした。
 比紗也が名乗ると、がらんとした大理石の廊下に反響するのではないか思うくらいの大声がした。
「比紗也! おまえ、心配したんだぞ。紡なら店にいるから。ちょっと代わるぞ」
 と店長が早口でまくし立ててから、保留音の音楽が流れ出した。
 陽の当たらない一階の廊下は外と同じくらい冷えとしている。震えながら息を潜めていると
「ママ‥‥ねえ、ママ。怪我治った? 僕もう帰りたい」 
と訴える紡の声がした。涙を堪えて、うん。と頷く
「でもね、ごめん。紡」
「どうして。また病院に入院するの?」 
と訊かれて、紡が不安にならないように店長たちが上手く話をしてくれてることを悟る。
どうして一人ぼっちだなんて思い込んでいたのだろう。こんなにもまわりに助けられてきたのに。
「ママ、遠くに行くも知れない」
「‥‥やだっ」
 紡が電話口で叫んだ。誰かが宥める声がする。店長の父親だろうか。
「うん。でも安心して楽しく暮らすには、遠くに行かなくちゃいけないの。紡、一緒に来てくれる?」
「ママと一緒に行けるの?」
「えん」
「それならいい」
という紡の即答に、比紗也は初めて許されたきがして受付の窓ガラスに額を押し付けた。大丈夫ですか、と事務所の女性に訊かれて、小さく頷いた。
「比紗也。俺だけど、どうした? 本当に大丈夫か。頼むから死んだりするなよ」
 営業中にもかかわらず説得しよとする店長に何度もお礼と謝罪をくり返して、比紗也は今日中に紡を迎えに行くことだけを伝えて電話を切った。ああ、たしかに如月さんの言ったとおりだと実感する。私は幸せから逃げていた。傷つくことばかりを怖がって、与えてもらう事ばかりで与えることを知らずに。
古びて細かな傷のついたガラス扉の向こうを見る。
彼方の空には厚い雲が居座っていて、雪でも降り出しそうだった。まるでこれから導かれていく景色を映し出しているようだった。

  ☆
ドアノブを引いた男が暗い玄関に入って来た。
男は何度か舌打ちをしながら、足に引っかかるゴミ箱を蹴ったようだった。煩わしけげに和室の電気をつけると、たじろいだように片脚を後ろに引いた。
「なに、してんですか」
 艶のない卓袱台の前で正座している歓を、男は見下ろして尋ねた。
「おかえりなさい」
と歓は新妻のような返事をして、すっと左手を差し出した。薄くなった座布団に影が映り込む。
 と男が問いかけた。歓は真っ直ぐ顔を上げた。
「比紗也さんのことでお話をしに来ました。もう二度と比紗也さんに会わないでください」
「だから、なんであんであんたにそんなことを言われなきゃいけないんだ。あと、比紗也はどこに行った。またあんたのところで隠したんですか。いいかげんにしないと訴えますよ」
 まあまあ、と歓は宥めるように言ってから、ふたたび口を開いた。
「僕から提案があります。この半年間ちゃんとした職にも就いていなくて、このアパートを追い出される寸前ただと伺いました。どうでしよう‥‥あなたの生活は私が保障するというのは。教会が面倒を見ましょう」
 と宣言すると、男は半ばあきれたように、ははは、と笑って、力が抜けたように散らかった床に座り込んだ。
 歓は落ち着いた態度を崩すことなく、男の薄くなった頭頂部を見下ろして。
「その代わり、比紗也さんには二度と会わないと誓ってください」
 男は黙ったまま首筋を掻いた。直ぐに赤い痕が浮かび上がる。ぱっと右手を下ろすと訊き返した。
「急にそんな事をいわれても、訳が分からないよ。本当に比紗也に会わないだけで、生活保障してくれるんですか?」
「はい、衣食住すべて。お金も無期限貸ます。イエスはあなたのような人間こそ救うべきだとおっしゃっています。もちろん、あなたは権利があります。僕の申し出をすべて断って比紗也さんを選ぶ権利」

 男は苦笑した。不快な笑い方ではあったものの、そこまで暴力的な気配はなかった。
 ここまで言えば、と歓は心の中で思った。きっと納得してもらえるだろう、と。なにせこんなに条件のいい話はないのだ。それなのに男は黙ったままだった。

 男はゆるゆる立ち上がると、タンスの一番上の引き出しに手を掛けた。懐かしいな、と呟きながら折りたたんだ新聞紙を差し出す、東北の地元紙だった。発行日二〇一一年になっている。男は小さくなにかを呟いた。正確に聞き取れたという確証はなかったが、歓の思考は止まった。
 どういう意味だ?
 そう問い詰めたくなると同時に、男が突き放すように
「あの日から何かも変わっちまったんです。神父さんが言うような綺麗ごとはね。私には通じませんよ、胡散臭い話は嫌いなんでね、お断りしますよ」
 と新聞を広げながら言った。
「それなら、僕はもう失礼します。どちらにして、比紗也さんはもうあなたの手の届かない場所にいるので」
 半ば突きつけるように歓が言うと。男は虚勢を張るのが馬鹿馬鹿しくなったのか、だらんと足を投げ出した。
「まあ働かず生きていけるんだったら素晴らしいことですがね。参考までに訊くと、どこに住むことになるんですか、私は」
「修道院の中です。客室があります。もちろん自由に外出はできます」
「監視付きってわけだ。もし私がなにかおかしなことをしたら、あなたの立場がないでしょうね」
「そのときは‥‥僕が、責任を取ります」
 男は呆れたように眉間を指で押さえて口元だけで笑った。すべてが薄暗い影となった室内で光る物は、男の左手の指輪だけだった。もっとも、傷つきすぎて誰をも映さない鏡のようにくすんでいた。
「まあ、考えおきますよ。修道院に私みたいなロクデナシを連れ込んで、どうなるか知れたもんじゃないけどね」
 という台詞を受けて、歓の不安は増した。
「一つだけ訊かせてください」
 頭の中で声がする、やめておけ。『歓君、面倒なことにかかわんな』それでも止められなかった。
「さっき、一番の悪ってどれでしょうね、と。そう言いました、それは」
 男は目を細めると、歓の顔を見つめた。長い時間をかけて。
「神父さん」
「はい」
「私の罪はね、罪の意識がないことなんですよ。血がつながっていない娘に手出したって、震災の混乱に乗じてよそんちの金を盗んだって、なーんもないんですよ。うちの親だって私になに一つ与えてくれなかったんですから。なんで私が世界に親切しなきゃなんないんですか。そんなの損なだけでしょう。私はね、比紗也の母親が好きでしたよ。あれは。いい女だった。ただ本当の愛情ってもん知らなかった。それで私があんだけ尽くしたのに逃げやがった。だからね、幸せになるとか、おかしいでしょう。それでなんでわたしだけがまた残されなきゃいけないんですか?」

 すりガラスの窓越しの夕方のチャイムが鳴り響いた。子供にとって平和な下校の時間に、足元から暗い影に飲み込まれていく錯覚に襲われた。
「それで、比紗也さんはあなたから逃げようとしてっ」
「まさか東京に行くなんて思わなかったですよねえ。せっかく向この親とも縁切らせたのに。あいつら、比紗也の育ちが悪いから子供なんてまとも育てたられないと決めつけてきてね。養育費も払わず孫だけ寄こせ、て言ってきゃがったから、頭にきて私が教えてやったんですよ。息子にちゃんと連絡していたら死ななかったのに、あんたらが殺したようなもんだって」
 頭の中が真っ白になる。愛する子供を失ったばかりの親にそんなことを。それだけじゃない。向こうの親も、愛する夫を失くしたばかりの比紗也にそんなひどい事を。

「比紗也も可哀想ですよ。慰めてやろうと思ったのに、お腹に子供がいるのにありえない、自分には指一本触れさせない、て強情張って行方くまして。まあ、親族なら簡単に調べられるんですけどね。東京のアパートに尋ねたときに追い出されそうになって、さすが頭に来て手が出ましたけどね。まう、女なんてのは強引にでも抱けば大人しくなるもんですよ」

 堪りかねた歓は台所に駆けて行った。流しに放置された包丁を握りしめると、追って来た男に突き付けたまま固まった。男が誤魔化すような笑みを浮かべた。どうして、と心の中で問いかける。どうしてそんな笑い方ができる。

 男よく見ると。うっしらと額に汗をかいていた。こんなに室内は冷えているというのに。
「そんなに堅苦しく考えなくてもいいんじゃないですか。過ぎたことなんだから。神父さんだって、それで比紗也に会えたわけだし。私もちょっと調べてみたんですけどね。神父さんって、辞めても学校の先生くらいは出来るんでしょう。

比紗也と所帯でも持ったらいかがですか。あの真田って男はどうせ落ち着いた頃に浮気しますよ。あるいは籍を入れなくて、べつに今のまま比紗也が近くに部屋を借りて通いでもいいわけじゃないですか。それで私が神父さんのとこに世話になっていれば、みーんな丸く収まるわけですよ。それなら私だって一安心ですか、比紗也に会わないと約束してもいいんでよ」
 
どうしてこんなに自分の都合のいいことばかり言えるのだ。しかも一見辻褄があう物語に仕立て上げて。適度に真実を織り交ぜて。握った包丁の刃先が宙をさまよう。こんな動揺してしまうのは――

「私だけ囲い込んでも、なに一ついいことないでしょう。上手くやれば全部手に入るんですから、そのほうが利口だって、ああいう女はね、あんたみたいに完璧に信頼できる男にこそ守ってもらわなきゃ」

 目の前の男は自分から欲しいものを吸い上げることしか考えていない。分かっているのに、それでも誘惑される。悪魔の囁きに、そうだ、自分だって思っていた。どうして比紗也を手放し、こんな厄介者だけを背負い込んで、あの優男のお膳立てをしてやなきゃならないのか。献身なんて、と心の中で呟く。真の貢献なんて結局誰に認められないのに。
『歓君‥‥なに言ってんの?』

 呆然とした声が頭蓋骨を震わせる。どれが本心なのか、もう自分には判別がつかない。
『なに言ってんだ? 神が常に見てるって馬鹿の一つ覚えみたいに言い続けてきたのは自分だろ。何でもするってあの女に誓っただろう。あんたがそんなふうになったら、もう僕はいらないことになるだろ』

「僕は、このことを見逃すわけには」
「は? 今さら何を言ってるんですか。それにひどいのは向こうじゃないですか。腹に子供がいる比紗也を家族そろって見捨てたんだから。比紗也や私だって被害者なんですよ。あの日から」
 理不尽さと葛藤で眼球が割れそうだった。神は見ていると、たとえ完璧には信じきれなくも、信じること自体が自分が自分の生きがいで、唯一の自尊心だったのに。真っ暗な世界でただやみくもになに呼びかけても。なぜだ、と叫ぶ。神はおれを見放したのか。おれを見放したのは――自分。
 あいつが自分を見放すということは。
「今すぐ決めてください」
 と歓は無理やり男の話を遮った。
「そうじゃなかったら、この話はなしです。このアパートの部屋は数日中には解約します」
 ああ分かったよ、と男はわずらしげに手を振った。
「監禁されるわけじゃないんだ。とりあえず暫く厄介になって、嫌になったら逃げますよ。でもね、神父さん、一つ間違っているでしょう。私が比紗也に付きまとっているような言い方をしてるけどね、あいつはまた傷ついたら絶望したら、私の下に戻ってきますよ。そういう姿をみせられる相手は俺しかいなんだから」

 そうかもしれない、と歓は内心思った。人の心は弱く、うつろいやすい。真田だって、比紗也だって、自分だって、完璧な人間もこの世に居ない。悪魔が用意した誘惑にひっかかり続けるのだ。いつまでも人間に期待してくれる神を裏切って。それでも許してくれる神に甘え縋りながら。

「‥‥そうですね。だから僕はどうなったって負ける賭けをしました。自分の望みなんて一つも叶わない賭けを」
「献身的な話だな」
 と男は茶化すように言い、それは自分の頭の中から聞こえたようでもあった。同じことだ、と歓は包丁を握りしめたまま男が仕度するのを見守った。結局べつの悪魔を抱え込むことになったのだから。

 暗い玄関を出るとき、歓は男の背後に回った。室内を振り返ると物が減ったせいか、いっそうわびしさを覚えた。墓場のようだと思い。男の心の中を映しているのだと気付く、さきほど漏らした台詞を蘇った。なんで私だけが取り残されなきゃいけないんですか。
 それでも男を外へ促した。街灯が二人の影を伸ばす。
 男が駅に向かって歩き始めるのを確かめてから、歓は鞄の中に包丁をしまった。

 約一年後 冬
 長靴がすっぽりと埋まってしまうほどの雪に踏み込んだ比紗也は、突き立てたスコップを力任せに持ち上げた。
 どさ、と脇道に雪が落ちて来る。またスコップを雪に突き立てて、力を込めて持ち上げる。
 比紗也は濡れた手袋をさっと外した。額にうっすらと汗を手の甲で拭い、振り返る、女子修道院は白いベールを纏って整然と佇んでいる。
 扉が開いて、くろいオーバーコートを羽織った藤野シスターが飛び出して来た。
「比紗也さん! 私も手伝うって」
「ああ、皆、朝食の片付けで忙しそうだから」
「働き者なんだから。雪かきなんておばあちゃんシスターに任せてられないから、私たちが頑張るしかないんだけど」
 若い藤野シスターは頬を赤くして微笑んだ。老人扱いしたら𠮟られるよ、と比紗也は笑って指摘した。
「お母さん、僕も手伝うよ」
 と長靴履いてダウンジャケットを着た紡が子供用のスコップを片手にやって来た。鼻がだいぶ高くなってきた。切り揃えた黒い髪、すっきりした目元は相変わらずだ。
「ありがとう。じやあ、道の左側のほうをよろしくお願い」
「比紗也さん」
「ん?」
「後悔していない?」
 と突然問われて、比紗也は少しだけ動揺した。なにが、と訊き返すと
「わざわざ雪の多い函館に来ちゃったこと。福岡とか大阪のほうが暖かいし都会だから楽だっただろうと思って」
 と藤野シスターはスコップを動かしながら答えた。
「そういうことなら大丈夫。私がここに来たかったの。昔、旅行で一度だけ来て、そのときの印象が良かったから」

「そっか。まあ、たしかにいいところよね。静かだし、雪は大変だけど、景色は綺麗。私は比紗也さんが来てくれてありがたいし。年配のシスターの中に二十代の私一人だから、終戦直後の話とばかりで」
「あはは」
 と比紗也が声をだして笑うと、藤野シスターも紅潮した額を持ち上げて笑った。
 ようやく人が通れるだけの道が正面から半分ほど出来上がると、三人で、寒い寒い、と言い合いながら休憩するために修道院に戻った。
 食堂は温かいココアを飲んでいると、皺の寄った笑みを浮かべた最高齢の西シスターが花柄のロンパースを着た赤ん坊を抱いてやって来た。
「比紗也さん。沙雪(さゆき)ちゃん、お昼寝から起きましたよ」
「あ、すいません。ありがとうございます」
 と比紗也立ち上がり、まんま、と騒いでいる赤ん坊を受け取った。月齢のわりには大柄で成長が早い娘は強い力で足をばたつかせ、いったん下ろすとずりずりと食堂の床を這い廻った。
「ちょ、沙雪」
「はは。すごい、猪突猛進。比紗也さんも意外とこういうところがあるのかな」
 と藤野シスターがからかったので、比紗也は、好き勝手なことばかり言って、と返しながら沙雪を追いかけた。
 午後になって雪かきが終わると、積み上げた雪をくり抜いてかまくらを作った。
 紡のリクエストだったのに、いざ完成すると興味を失くしたように
「お母さんAmazonからきたゲームで遊んでくる」
 と紡はマフラーをほどいて修道院の玄関へと駆けて行ってしまった。仕方なく比紗也比紗也は藤野シスターと二人だけで膝を抱えて、かまくらに入った。
 座り込むと尻が冷えたものの、風がしのげるだけでも意外と暖かく、穴ぐらからぼんやり庭園を見るうちに、小雪がちらついてきた。
 レンガ造りの修道院の三角屋根にすでに雪が積もっている。白い帽子を被ったような椿の木々。噴水も今は水を止められて、雪を飾る大きな器のようだ。
「静か」
 と比紗也は呟きながら、藤野シスターと初めて喋った日の事を思い出した。

 一年前に函館の女子修道院に移ったばかりの午後、人気のない食堂に比紗也と紡がおずおずと入って行くと、厨房では鍋の煮える音が静かに響いていた。
 暖房はストーブすら置いておらず、凍えそうな中で藤野シスターと年寄りのシスターがお玉で鍋をかき混ぜたり野菜を切ったりしていた。寸胴の巨大な鍋はだいぶ古そうだったが、その分、丁寧に磨かれて鈍い光を放っていた。
「お手伝いします」
 と比紗也が申し出ると、年寄りのシスターは戸惑ったような笑みを浮かべただけだった。藤野シスターが機転を利かせ
「そう? じやあ、ジャムにする林檎の皮むき、お願いしていいですか、最後は薄切りにして塩水のボウルに」
 と愛嬌の滲んだ声で告げた。リンゴは段ボール箱にぎっしり詰まっていた。調理台に置かれた五ダース分の卵パックを見て、ぼく卵割れるんだよ、と紡が言った。
「じゃあ、紡君は卵割りの係に任命します」
 にんめいってなーに、と紡はてれくさそうに袖を捲った。彼女の気遣いで、年寄りのシスターは暖炉のそばへと移動しいった。足を引きずる動作を横目でとらえつつ、比紗也は包丁を手にした。藤野シスターが
「とはいえ妊婦さんは無理しないで」
 と電気ストーブを出してきた。足元を照らすオレンジ色の光が暖かく、小さな木の椅子も薦めてくれたので腰掛ける。

 足元にバケツを置いて、くるくる剝いた真っ赤な皮を落としていく。紡が真剣な顔でごんごんと調理台に卵をぶつけては、ボウルに割り入れている。
 作業をする音だけが響く厨房は落ち着いて、数日間居場所がなくて時間を持て余していた比紗也はほっとした。
 藤野シスターが大量のジャガイモをザルから鍋に入れながら
「ね、比紗也さんって、美容師だったんだよね。子供のカットとか興味ある? この近くの施設なんだけど」
 と切り出した。彼女とまともに喋るのは初めてだったが、年齢が近いことで親近感を覚えて
「ええ、前の美容室でもたまにボランティアで行っていたか」
 と比紗也はリラックスして答えた。
「ほんと? こっち、雪の季節はちょっと街から遠くて大変だからシスターが切ってるんだけど、みんなキノコみたいな顔にされるって不評なの。比紗也さん、行ってあげてくれない? 子供がいる美容師さんの方が安心すると思うし」
 もちろん、と比紗也は頷いた。小さな子たちの柔らかな髪や笑顔に触れるのは嬉しいことだ。甘い果汁がうっすら滴るリンゴの白い部分にざくっと包丁を入れ、薄く切って塩水のボウルに入れる。
 なにか点滅したので顔を上げた。電球が切れかけたと思ったら、またぱっと灯った。
 灰色の床にばらばらに伸びた三人分の影が、すっと重なって
「比紗也さんって、ご両親は?」
 とすぐ横の棚から菜箸を取るついでに藤野シスターが訊いた。比紗也は慣れ切った口調で
「本当の父親は会ったこともないの。母親はいたけど、義理の父親のもとに私を置いて、出ていったから、もう何処にいるかも知らない」
 と説明した。
「それで義理の父さんとは仲が良かった?」
 と訊かれたので、刹那、憎しみが立ち上り、声に滲んだ。
「ううん、親子って呼べるような関係じゃなかったから、あの人はずっと私のこと、女としか扱わなかった」
 鍋の所に戻ろとした藤野シスターが足を止めた。薄いグレーの修道服の裾が回転するように広がり、またすぐに蕾に戻るようにすっと落ちた。
「なに?」
 と比紗也は訊いた。藤野シスターはひるむことなく告げた。
「かわいそう」
 瞬間的に感じた怒りを飲み込もうとした比紗也は、即座に視線を落とした。べつに、と素っ気なく答えながらリンゴを剥く。それでも彼女は言った。
「比紗也さん、かわいそう。ひどい」
「やめて」
 と比紗也は淡々と遮った。リンゴを剥く手はかすかに震えていた。怒りが急激に突き上げる。どうしてそんなことを言われなきゃいけないのだと。
「かわいそう、なんて、失礼とは思いませんか」
 反射的に敬語になった。沈黙が続いたので、不審に感じて、藤野シスターを見た比紗也は息を詰まらせた。彼女は泣いていた。泣きながら怒ったように言った。
「そんなことはない、ひどいことはひどいって、かわいそうなことはかわいそうって誰も言わなかったら、本当の愛との区別がつかなくなるから」

 細い指先で涙を拭きながら訴える藤野シスターに、比紗也は崩れそうになりながらも、口を開いた。
「慣れちゃったから。人が去っていくことも、一人で生きる事も」
 藤野シスターはゆっくりと息を吸うと、そう、と小さく相槌を打った。
「子供の時に、早く大人になりすぎちゃったのね」
「藤野さんは随分若いけど、子供の頃からシスターになりたいと思ってたの?」
 と紛らわせるように訊いた。藤野シスターは、ううん、と首を振った。
「部活から帰ったら、両親が部屋で首を吊ってたの。まぶたも唇もぱんぱんに腫らして。だからきっと私が登校してすぐに、死んだの、早朝から。でも残した借金が凄かったから親戚に迷惑がられて。許してくれたのはイエスだけ」
 藤野シスターは乾いた調理器具を仕舞いかけて指摘した。
「比紗也さんのほうが傷ついている顔をしている」
「ひどい」
 と言い切ってしまってから、比紗也は我に返った。藤野シスターがふふふと笑いを漏らした。
「他人のひどいことは分かるのね。自分の理不尽は慣れちゃっても」
 スライスしたリンゴをボウルに入れる。細かく泡立って、すぐに治まる。ボウルの透明な水の中で静かに浮かぶリンゴの甘酸っぱい匂いを嗅ぎ取る。紡は卵の白身で手をべたべたにしながらも、一生懸命がんがん卵を打ち付けている。
 藤野シスターが明るい声で言った。

「でも大丈夫。私たちは一生ここを離れないわけだから、去っていくとしても比紗也さんのほうだし、困ったらまた戻ってくればいいしね」
 鍋のシチューのルーを溶かした藤野シスターは返事がないことに気付いて、比紗也を見た。
「え、比紗也さん、泣いているの、ごめんね、私、変なこと言いすぎて」
「ママっ? 泣くとおはなでちゃうよ」
 とティシュ引っ張り出した紡が駆け寄ってきて、いい子、と比紗也の頭を撫でた。比紗也は白いティッシュに顔を埋めた。
 ずっと変わらず帰る場所がある。
 生まれて初めての実感の中で、子供のように泣いた。

 比紗也は小さい声で
「親が死ぬなんて、きっと、すごく怖かったよね」
 と言った。永遠に時の止まった暗い家。紫色の顔をした両親の体だけがぶら下っている。
「うん。一生忘れない」
 と藤野シスターは答えた。それでも黒いベールをかぶった横顔は優しかった。
「神様がいて良かった?」
「そうね。今でも主やイエスを疑ってしまうことはあるけれどね。どんなに信じても、信じきれないことも。だけど神様がいると信じている人たちのおかげで、私には帰る家ができたから」
 狭いかまくらの中では女二人の声がこもって柔らかくなる。
「私も」
 と比紗也は言った。
 東京を離れる直前の午後に教会で、僕はあなたを愛しているのだと思います。と言われたことを思い出す。今も定期的に手紙が来て、知る。あの男の面倒を見続けていることも、
 いつかはあの男も死ぬだろうが。今はまだ涙を流せる気もしないし。実感も湧かないけれど。棺に納められた男の死を私が悲しめる日がきたとしたら、それはきっと如月さんのおかげだ。肉体でつながらずに男性を信頼できた。それは、自分にとって恋愛よりも尊いことだったのかもしれない。

 かまくらを出ると、吹雪き始めていた。慌てて二人でふたたび埋まりかけた道を踏みしめて修道院の中へと戻った。

 クリスマスが近くなると、女子修道院内ではシスターたちがそれぞれの仕事に追われていた。朝から野外や室内の飾りつけをしたり、お祝いのためのご馳走やお菓子を準備したり、当日のための仕度は尽きなかった。

 比紗也も手が空いた時には積極的に手伝うと申し出て、主に厨房で働いた。普段よりも使う量が増えたために日用品がいくつか切れてしまったので、夕方近くになってから、ちょっと離れたスーパーマーケットまで買いに出ることになった。

 二十分ほど歩いて到着したスーパーマーケットで買い物を済ませた比紗也は、小刻みに息を吐きながら港近くの通りを歩いた。人気のない倉庫が並び、波のない海が広がっていた。小さな桟橋を進んで、手すりに触れた。真冬の海は、波もなく静かだった。時折、漁船が音もなく揺れた。
 海はまだつらい。それは大事なものを失くしたからではなく、思い出があるからだ。芳紀とじゃれ合ったことも、震災した故郷へ向かった自分を真田が追いかけてきたことも、しょっちゅう夢に見る。
 果てしない水平線を見つめながら、埋まらないものに気付いた。
 胸に空いた空白はこれから先も埋まらない。いなくなった者の代わりなんているわけじゃない。違う人間なのだから。
 だから、埋まらないままでいいのだ。空いたままだって。生きられる。そうやって誰しも生きているのだと。
 比紗也はすっと桟橋から通りへと引き返した。
 トートバッグを片手に坂道をがしがしと上がった。遠くの空は茜色に染まっていた。厚着した子供たちが遠くで雪の玉を投げ合っている。
 脇道を入ったところにあるピンク色の洋館風の銭湯から、風呂桶を抱えた老人が出て来た。比紗也は心惹かれて足を止めた。海ですっかり冷えた体を温めたくなり、タオル一枚くらい買ってもいいだろう、と思って、扉を開けて暖簾をくぐった。

 焦げ茶色の木を遣った内装が昔懐かしい脱衣所で、比紗也は羽織っていたダウンを脱いで、セーターやタイツも次々にカゴに放った。タオルは買ったが、石鹸は貸してもらえた。
 湯気が立ち込めた洗い場では、背の曲がった老女が髪を洗っていた。比紗也は湯をかけて、震えながら湯船に向かった。
 肩まで浸かると、急激な熱さに反応して、頭の血管までぎゅっと絞られるのを感じた。とろけそうな気持ちで寄りかかる。銭湯にしてはお風呂自体は小さめだが、それでも女子修道院の共同風呂よりはさすがに広い。
 比紗也はぼんやりと水滴の着いた天井を見上げた。紡を産んだときは一人ぼっちで、毎日ゆっくり入浴することさえなかった。それが今ではたくさんのシスターたちに助けられて、買い出しのついでにといえ、こんなふうに一人になれる時間さえある。

 久々の長風呂で温まっ比紗也は、脱衣所で薄着のまま髪を乾かした。
 椅子に腰掛けてジュースを飲んでいると、大きな鏡にタンクトップから覗く二の腕や太腿が映り込んだ。さすがに二人も子供を抱いたりして、二十歳そこそこの頃より逞しくなっている。腿の辺りを手に置きながら、そういえばずっと誰からも触られていない、と気付く。
 自分だけの体になったのだ、という実感に開放感を通り越して気が遠くなりそうになりかけた。
 比紗也は壁を背中に預け、ジュースの空き缶を持ったまま、飛行機ならほんの一時間半の東京ら残して来た者たちのことを考えていた。

   ☆
 病室に到着した歓は白いカーテンをおそるおそる捲り上げた。
 瘦せた腕に点滴の針が刺さっていた。目を閉じた顔はそこまで蒼ざめてはいなかったが。歓はとっさに死んだ父親を思い出し。
 病室に白衣姿が入り込んできたかと思うと
「如月さん。どうですか。徳永さんの様子は」
 と穏やかな口調で尋ねたのは、年齢を重ねて貫禄の着いた脳外科の医師だった。
 歓は頭を下げてから
「今は落ち着いて眠っているようです」
 と答えた。医師は、良かった、と笑みを浮かべてから、男に視線を落とした。
「びっくりした、如月さんが徳永さんと一緒にいらしたときは、もう、最後に来られてから二十年くらいになりますか」
「その節は、大変お世話になりました。僕も小さかったので、よく診察で泣いたりして」
「子供には得体の知れないものですから。MRIもCTも」
 と話しているうちに、男はんごっと鼻詰まりみたいな音を漏らして、目を開けた。一瞬だけ彼方をくれたように宙を仰いだ。けれどすぐに歓と医師に向けて。ふざけたような笑みを浮かべた。
「いやいや、おはようごいます、と返して」

「経過に関してはのちほど具体的にこちらから説明しますので」
 と微妙に話を逸らした。男の表情に不穏な影がよぎった。歓が身構えていると、男はよそ行きの声をだして
「ちょっと私、疑ってることがあるんですけどねえ」
 
と切り出した。ほかにも入院患者のいない四人部屋に声が反響する。看護師が廊下を通って食事のカートを運んでくる音も。なんですか、と医師はあくまでも穏やかに訊き返した。。
「私、癌じゃないですよねえ。ほら、本人には宣告しないって言うじゃないですか。それでねえ。ほら、こちらの如月さんはべつに私の身内って訳じゃないんで。もし癌だったら娘に連絡くらいは」
「徳永さん、本当にご心配なく。検査でも陰性だったと聞いていますから」
「そう、ですか。それなら、いいですけどね」
 と最後は投げ出すように打ち切って、男は目を閉じた。医師に促されて、歓は病室を出た。
 診察室で二人きりになって向かい合うと、医師は脳のレントゲン写真を出してきた。歓は緊張して膝に手を置いた。
「やっぱり、かなり萎縮してますね。この一年間で記憶失くしたり、徘徊したりといった行動は有りませんでしたか」
「ありました」
 と歓は認めた。傍目にも縮こまった脳の写真に言葉を失う。
「同年齢の人に比べて、二十年分近く萎縮が進んでいます。今後、さらに認知症の症状がでてくると思われます」
「その場合は、どうしたら‥‥」
「うちの病院では長期的なケアはできないので、介護施設に移っていただくか、自宅介護になるか。必要でしたらご紹介しますから」
「そうですか」
 とため息をつくように答える。ありがとうございます、と頭を下げて椅子から立ち上がろうしたところを、引き止められる。
「すいません。あと、午前中に一緒に撮った如月さんのレントゲンですが」
「あ、そうですよね」
 歓は引っ張られるように浮かしかけた腰を椅子に戻した。
「如月さんのほうはなんの異常も見受けられませんでした。本当に良かったです。あれからお変わりなく。問題は徳永さんです。まず断酒しないと、本当に命に関わってきますから」
 と言われたので、歓は強く頷いた。自分の目には今もあのときの若い医師の顔が映り込むように、彼もまた子供時代の歓を思い出しているのかもしれない。
 病室に戻ると、ベッドは布団が捲れ上がって空になっていた。慌てて受付へ飛んでいくと、若い女性看護師から
「徳永さんでしたら、お散歩に出かけましたよ。ほんの数分前に」
 と教えられた、お礼を言って、エレベーターのボタンを押す。病院内で散歩できるような場所はあまりない。
 一階のロビーはガラス越しに庭が見えた。白い日差しの中を小鳥たちが飛んでいく。
 今も芝生も花壇も枯れてしまっていて寒々しいが、裸の木々には赤や青のオーナメントがささやかに光っている。息を吐くと、霞んだガラス越しに点滴を引っ張っていく男が見えた。折れ曲がった首筋に浮かんだ骨を見て、一年前は、と考える。あそこまで老人のようだっただろうか。

 そりゃそうだよ、とあっさりと言い捨てる声がした。
『唯一の生きがいを奪ったんだから。あとはだんだんボケて死ぬだけだろ。良かったね』
 歓は弾かれたように病院を飛び出していた。
 庭へ回り、がたがたと不安定に揺れる点滴に繋がれた男を追う。あずき色のどてらを羽織った後ろ姿。あの背中から唯一の家族を遠ざけた自分の判断が正しかったのか、刹那、分からなくなる。
 徳永さん、と呼びかけた瞬間、点滴が動きを止めた。
「ああ。なんですか。騒々しいなあ」
 と嫌そうに振り返った男はいつものぞんざいな口調で言い放った。歓は荒い息を吐きながら立ち止まった。夢から醒めたような気がした。
「いえ、あの。心配だったものですか」
「どこにも行きはしませんよ。まあ、癌じゃないていうんだから一安心ですけどね。また退院したら美味しいもの食って、あそこ、修道院近くの温泉施設で通っていれば、時期によくなるんでしょう。昔から湯治っていうくらいだから」
 という皮肉が今はもう全部本人に跳ね返ることを彼は知らないのだ、と思うと歓は切なく堪らなかった。この一年間、窓ガラスを壊したり廊下で排泄したりと散々迷惑をかけて、修道院内でも二人を庇ってくれるのは石原神父だけだったというのに。

 男はベンチに腰を下ろすと、背中を曲げたまま薄曇りの空を仰いだ。
「明日は雪になるそうですよ、神父さん、北海道なんて大雪だそうだ」
 と呟いたので、歓は内心どきっとした。比紗也の居場所を本当知っているのではないかと訝しんだが、それっきり男は黙り込んでしまった。

 歓は萎れた芝を踏みながら、ベンチへ近づいた。男は足元を見つめたまま、なにかぶつぶつ言っていた。耳を澄ますと言葉が聞き取れた。
「何だったんでしょうね‥‥酒だって女だって結局、今目の前になけりゃあ、悔しいだけだ。なんにも残りゃあ、しないんだから。私の人生なんだったんでしようね‥‥」
 神様の意味を説くには、目の前の男はあまりに遅すぎたと思いながら、歓は立ち尽くしていた。
 日の暮れた修道院に帰る頃には、歓は心身ともに消耗して疲れ果てていた。門を通り抜けて入り口の扉を押す。中から出てきた老司祭が擦れ違いざまに
「聖誕祭の直前にあの男が居なくなって、一安心ですよ。ほかの信徒の目に晒すわけにはいかないでしよう。若い人は好き放題やりすぎるんだから」
 と苦言を呈したので、恐縮するしかなかった。受付係の女性がすっと顔を出して
「おかえりなさい。如月神父様」
 といつもと変わらない笑顔で挨拶してくれた。
 ただいま戻りました。と礼儀正しく挨拶をして部屋に戻ろうとしたとき、そういえばお荷物が届いてました、と封をした紙袋を差し出された。思わず飛びつく。にわかに胸を昂らせながら部屋へと駆け込んでいった。
 ドアに鍵を掛けてから、大量の本が積み重なった机に紙袋を置き、そっとそっとテープを破って開けた。手紙と、サテンの赤いリボンがかかった包み。まずは文面に目を通す。

 『お元気ですか。こちらは毎日雪です。
 雪かきは大変だけど、白い雪に函館の夜景が重なると、昼間の疲れを忘れるくらいに綺麗です。こんなに綺麗な冬があったんですね。
 ここ数日間は、シスターたちとクリスマスの飾りつけをしたり、お菓子を焼いたりしていました。去年はここに来たばかりで、完全にお客様だったから嬉しいです。
ホールに置かれたツリーがあんまり大きいから、紡に」あのツリーって百万円くらいする?」としつこく聞かれて、ちょっと困りました。
 父の事は本当に感謝しています。本当なら私が世話をしなきゃならない立場なのに、すべて如月さんにお任せしてしまって、正直まだ怖いんです。一度でも顔を見たら過去に戻ってしまいそうで。如月さんのお手紙にあった、一生こちらで面倒を見るから心配しないでください、という一文を読んだ時には思わず泣いてしまいました。
 こんな言い方、すごく傲慢かもしれません。
 だけど正直に書きます。
 あなたに愛されただけで、すべてを背負ってもらえることが、私には奇跡としか思えないです。
 今でも夢を見ているようです。不安のない穏やかな朝が来ることが。
 毎晩、客室の小さなイエスの像に向かって、いつかこんな私でもあの男と向き合える日が来るようにと祈っています。
 頼りない約束かも知れないけれど、待っててもらえたら嬉しいです。」

 というところまで読み終えた歓はしばし宙を仰いだ。また会う日が来るのだろうか。自分と比紗也は。
 きっとずっと傍にいたら私欲に呑み込まれていたと思っても、よぎった期待は凍らせていたはずの感情を揺り動かした。
 会いたい。
 喉から本音が溢れそうになりながら、最後の追伸に目を通した歓はあっと声を漏らした。
『クリスマスプレゼント、かえって迷惑じゃないかと迷いましたが‥‥。
 期待外れだったらごめんなさい!
 如月さんにとっても素敵なクリスマスになりますように。』

 赤いリボンの端を引っ張り、包装紙を開く。中から出てきたのはオリーブ色と白色の毛糸で複雑に編み込まれたマフラーだった。まるで比紗也がよく結っていた髪にように。試しに巻いてみる。
 歓は半泣きで微笑んだ。やっぱりこれで良かったのだと思った。
 どんなに迷っても躓いても、十四歳で親と決別した時から信仰者としての自分だけは必死に貫いてきたのだから。
 頭の中で呆れたような声がした。
『歓君って単純だね…あれだけ痛い目にあったのに』
 その声を無視して、歓は持って帰ったばかりのカソリック手帳を出して来年の予定があるか確かめる。年明ける頃には最後に残して置いた仕事を比紗也のために片付けよう、と思いながら。

  ☆
 夕方になってひとけのなくなったカフェでは、比紗也と紡だけが隅の席で向かい合って温かい飲み物を口にしていた。
 足をぶらつかせた紡はココアを飲み切ると
「お母さん。花火、まだかなあ」
 とぼやいた。
 比紗也は頬杖をついて、天井からつるされたモビールへと視線を移した。ゆらゆらとしたビールグラスや手の形をした影が壁に映っている。
 カウンターの中では若い男性店主がのんびりとパソコンを開いていた。
 濃ゆめの紅茶で眠気を覚ました比紗也はうーんと背筋を伸ばした。
「修道院にいると寝るのが早いから、たまに起きてると、変な感じだね」
「僕まだ眠くないよ」
 と紡が威張るように答えた。はいはい、と相槌を打って、掛け時計を見る。打ち上げまであと五分だった。
 会計をしてから、マフラーをぐるぐる巻きにして手袋を嵌めてニット帽を深く被る。ダウンを羽織った紡には子供用の耳当てをつけてやった。率先して外へと出ていく後ろ姿は小猿のようだ、心の中で笑った。
 夜の八幡坂にはずらりと車が停まっていた。本格的なカメラを構えた観客も多い。それぞれが今か今かと花火を待ちわびている金色の電飾をまとった街路樹はうっすらするほど綺麗で、痺れるような寒さも忘れてしまう。

 いきなり破裂音が響いた。一斉にわっあと歓声が上がる。
 ライトアップされた港から打ち上がった真冬の花火は散っては開き、開いては散っていった。
 ことばもなく花火を見つめる紡とつないだ手が温かかった。
「藤野さんたちもいれば楽しいのに」
 と紡がこぼしたので、軽く苦笑する。さすか゜に修道女たちを誘い出して花火見物というわけにはいかないだろ。
 お昼に後片付けを手伝った時の、藤野シスターが思い出したように、私は一度も花火見たことないなあ、と漏らした。こんな目と鼻の先で毎年花火が打ち上がっているというのに。比紗也はお皿を拭く手を止めてしまった。どうしたの、と訊かれて、首を振った。
 どんなに親しくなっても、彼女と自分の隔たりを取り払うことは出来ない。友情に変わりはないけれど、自分にはやる事はほかにあるのではないかと思い知らされた気がした。どんなに居心地が良くとも、ここは自分たちの終(つい)の棲家(すみか)ではないのだから。

 ふいに、つんと手を引っ張られた。
「どうしたの?」 
 と尋ねた比紗也に紡が、函館って楽しいね、と笑いかけた。ずっしりとその一言が重さを伴って胸に沈み込んでいく。一年かけてようやく馴染んだ函館という土地に、私たちはいつまでい続けるのだろう。
 まるで放浪だ、と思った。自分の人生は。それにすっかり息子まで付き合わされてしまっている。比紗也は言葉を探したものの。ぴったりくるものは見つからなかった。だから代わりに質問をした。
「紡はずっと函館に住んでもいい?」
 返ってきた答えは意外なものだった。
「いいけど、自分だけの家が欲しい」
 驚いて、家、と訊き返す。紡は頷いて、近所で通っている保育園の友達の名前を次々に口にして、あの子はマンション、あの子は一軒家、と説明し始めた。その間も花火は絶え間なく打ち上あがる。シャワーのような音を立てて、金色の火の粉が夜空を舞い散る。
「だから僕も家が欲しい。お母さんと沙雪と、僕だけの」
 だけど、と比紗也は思わず訊いた。
「寂しくない?」
 それに対して、紡は即答した。なんで、と。
「だって三人一もいるんだよ。寂しいわけないんじゃんっ」
 終わりが近付くにつれて花火はひときわ大きくなった。比紗也は呆然と眺めながら、いつの間にかと思った。こんなに成長していたのだろう。成長していないのは、むしろ私のほう。
 花火が止むと、観客たちは高揚した足取りで八幡坂を下りて行った。比紗也は紡と一緒に女子修道院まで戻った。
 正面を静かに押して、足音をたてないように昼間に雪かきをしたばかりの道を歩きながら、春になるまでに函館市内の美容室の求人情報を探そう、と決めた。

「それじゃあ、イエスが怒ってイチジクの木を呪ったのは、当時、信仰を失っていた人々に対しての怒りを重ねた比喩だったんですね」
 談話室の石油ストーブは赤々と燃えていた。絨毯を這う沙雪が火に触らないように横目で監視しながら、長椅子に腰掛けた比紗也は訊いた。

 西シスターは、そです、と頷いた。小柄で背も曲がり、目も口も皺の一部になりかけている老女の喋りははっとするほど鮮明で、比紗也はいつものようにそのことに胸を打たれる。
「イチジクは栄養にも薬にもなる。とても役に立つ果実でした。にもかかわらずその力を使おうとしないのはせっかく命を与えてくれた神に背く行為であると、イエスは訴えているのです」
「そっか。最初に聖書を読んだ時から不思議だったんです。イチジク相手にあそこまで怒るのが、なんだか唐突に感じられて」
 と比紗也は納得してから、沙雪がぐずぐずと絨毯の上で泣き始めたのを見て、抱き上げた。
「ありがとうございました。そろそろ寝かしつけてきますね」
 と頭を下げると、ソファーに座って六花亭のバターサンドを食べていた藤野シスターもさっとゴミを片付けて、私もそろそろ失礼します、と席を立った。
 比紗也が沙雪を抱いて寒い廊下に出ると、藤野シスターが追いかけて来た。
「ね、本当は私からこんなことを詮索したらダメなんだけど」
 
という前置きに、比紗也は思わず笑って、どうぞ、と言った。質問の察しはついていた。
「急に出て行くなんて、なにか特別な事情でもできた?」
 と藤野シスターは尋ねつつ客室のドアを開けてくれた。
 紡が机に向かって雑誌を広げ、迷路を鉛筆でなぞっていた。何度も間違えたのか線が入り乱れててぐちゃぐちゃだ。
「藤野さん、なにしに来たの?」
 と電気スタンドの明かりに照らされた紡が振り返った。
「ちょっとお母さんと話したくて。そこに座ってもいい?」
 と窓辺の深緑色のソファーを指差したので、比紗也は頷きながら二段ベッドの下に腰掛けた。セーターの裾を捲り上げてブラジャーをずらして沙雪に母乳をやる。引っ張られるような感触の後で、うぐうぐ、という声が聞こえた。
「もしかして再婚するとか?」
 と藤野シスターが高い声を出した。比紗也は笑って首を振った。
「ここにいるのに、出会う機会なんてないでしょう。そうじゃなくて、紡もそろそろ自分だけの部屋が欲しいって言っているし、いつまでも頼るわけにもいかないから。雪が解ける頃には街で勤め先を見つけたり、安い部屋でもいいから探そうと思っているの」
「そっか。寂しいけど、比紗也さんが決めたらなら応援する」
 と頷いた藤野シスターの目に親愛の情が滲んでいた。
「再婚はさすがにね。父親の違う子供を二人産んで、その挙句シングルマザーで。その上、まだそんな希望を抱いていたら馬鹿みたいでしょう」
 と比紗也は茶化したが
「馬鹿だとは思わないし、人間に対する希望を失くすことが一番の絶望でしょう」
 と彼女は真剣な顔で答えた。清潔な羽のようにベールが揺れて細い肩から滑り落ちた。藤野シスターの瞳は小さいわりによく動くので活発な印象を与える。まだ鮮やかな色を失っていない唇も。

 彼女こそ本当は外の世界で恋して楽しい事をたくさん知るべきだ、と比紗也は思ったけれど言葉にはしなかった。どんなに本人にとっていいと他人が思っても、それはここで一生を終えるという決意に対する冒涜(ぼうとく)だから。

 藤野シスターは、また明日ね、と言い残して部屋を出て行った。
 着替えて二段ベッドの下に潜り込んで横たわる。上のベッドから紡の寝言が聞こえて来る。
 比紗也はしばらく考え事をしていたけど、厚手のフリースの青いパジャマの胸元にそっと右手を差し込んでみた。授乳を終えた直後の胸はくったりと柔らかく、冷たい手のひらで包むとかすかに鳥肌が立った。懐かしい名前を呼びかけて我に返り、強く寝返りを打った。

 食堂で昼食を済ませて比紗也は子供たちを連れて部屋に戻った。沙雪ぐずったのでオムツを替えようとして、木製の戸棚にしまっていた紙オムツの袋がからっぽだということに気づいた。
 沙雪を抱いて紡の手をつなぎ、買い物に出ようとしたら
「比紗也さん、危ないからタクシー呼んだら」
 藤野シスターが頬を赤くしながら追いかけて来て、玄関先でタクシー会社の番号を記されたカードを差し出した。沙雪が、がお、と小さい怪獣のような声をあげた。はいはい、とあやす。紡が藤野シスターに向かって宣言した。

「僕が荷物を持つから歩いて行けるよ」
「すごい、紡君、親孝行」
「はは。でも紡ってば今朝なんて、私がお腹壊してるって言っているのに映画館連れて行けって騒いたんだから」
「僕、お母さんのカバン持ってあげるっ」
 紡が紺色のマザーズバッグをひったくるように奪ったので、ありがとう、と苦笑する。藤野シスターに見送られて比紗也たちは出発した。
 住宅街を抜けて、ブーツが滑って足を取られないように慎重に雪道を下りていく。青い水平線と港の船が見えた。穏やかな港町は真冬にしては珍しく快晴だった。
「お母さん。沙雪の足がコートから出ちゃっているよ」
 毛糸の靴下にくるまれた沙雪のつま先を、紡が比紗也のコートの中に押し込んだ。オリーブ色と白色の縞模様は、歓のために編んだマフラーの毛糸の残りで作ったものだ。
「わ、ありがとう。気付かなかった」
 と言いながら、すっかりお兄さんらしくなった紡を見下ろす。沙雪はまたうとうとし始めていた。

 あの時、薄い雲に遮られた太陽の輪郭を目で捉えながら考える。
 如月神父は保護者を与えてくれると約束してくれた。それはシスターたちのことだったのだ。本当に彼は心の底から感謝している。最後まで迷惑を掛けっぱなしだった店長にも。
 ただ、真田の事だけは心残りだった。
 信じられなくて自分から逃げたくせに、最後にちゃんと向き合って話をしなかった事を今も後悔していた。
 カソリック系の病院の分娩台で、夜明けに沙雪を産んだとき、胸に湧き上がってきた言葉を今もはっきり覚えている。
 真田さんに似てる。
 そう叫びたい衝動が突き上げた時、比紗也は声を殺して泣いていた。比紗也出産の感動と勘違いした助産師たちが笑みを浮かべて、お疲れさま、と口々に言った。

 急な坂道の途中で踏みと止まり、初めて真田とあった日のことを回想する。函館の修道院を選んだのは、真田が追いかけてくるかもしれないと思ったからだ。そして、あのときみたいにばったり出会うのではないかと。今考えれば子供じみた夢想だろう。
 思い出しているうちに比紗也は切なくなって軽く洟(はな)を啜った。あの人の事だ。もうとっくに新しい彼女を作って、さすがにそろそろ結婚しているかもしれない。意外とお見合い結婚だったりして。

 そんな事を考えながら歩いているうちに、脇道のバス停に駅方面から来たバスが停まった。青いダウンジャケツ着た男がバスを降りて。白い息を吐きながら坂道を上がってきた。比紗也は呆然として足を止めた。

 顔を上げた男も驚いたように足を止めた。そして深く白い息を吐きながら笑った。
「ひさしぶり」
 という声には再会の喜びが滲んでいた。髪を短く刈り込んで、形の良い額を見せたら笑顔に比紗也は
「真田さんっ、なんで」
 と沙雪をとっさに抱きしめるようにしながら訊いた。
 真田は近付いてくると、不思議そうに見つめていた紡の頭に手を置いて、しみじみと言った。
「でっかくなったなあ。何歳になった?」
「夏になったら、五歳」 
 と紡は神妙な面持ちで答えた。
「そうか。俺のこと、さすがにもう忘れたかな」
「覚えて、います、昔遊んでくれた真田さんでしょう」
「敬語使えるのかっ。すごいな、本当に子供の成長って早いんだな」
 真田はそう感想を漏らした。そして比紗也の胸元へと視線を向けると、うつむいて右手で顔を覆った。
 歳を重ねた目元はいくぶん柔らかくなっていて、滲む涙に光が差していた。
 真田は手を下ろして顔を向けると、冗談めかして言った。
「本当に君はひどいな。子供の性別すら教えてくれないなんて」
「そんな、それなら真田さんだって‥‥どうして今頃になって突然」
「俺だって飛んできたかったよ。訪ねていったら君のアパートは空っぽだし、俺の子供が出来たまま消えてたって聞いて。だけど如月さんと何度も話し合って、ようやくokをもらったのがこの条件だったんだよ。一年間ほかの女と付き合わずにきっちり身辺整理して落ち着くって。そうしたら居場所を教えるから会いに行っていってもいいって」

 比紗也はにわかに信じられずに目を見開いた。
「まさか。それで真田さん、本当に」
「勿論。彼と携帯を同期してメールや居場所まで共有したんだぞ。あんまりチェックが厳しいからさ、休日も暇で仕方なく二人でたまにお茶してたよ。君の近況なんて聞きながら」

 と説明している間も、真田は穏やかな笑みを絶やさなかった。港では船が出ることを告げる汽笛が太く長く響いている。
 すべての出来事を急に受け入れずにいる比紗也に向かって。沙雪が手を伸ばした。そのふっくらした手を握ったのは真田だった。
「すごいな、本当に俺の子供だ。だってほら、鼻の感じとか目とか似すぎだよ」
「でも‥‥それで来たの?」
 真田は沙雪の手をそっと離してから、一瞬強く息を吐いた。
「そうだ。あれから時間が経って、それでも君が好きだから一緒になってほしいって言いに来たんだ」
 比紗也は目を伏せた。沙雪の顔が視界に入る。涼しげな目をした紡とは違う、甘い顔立ち。私の子供たちはどちらも父親に似たと実感する。
 涙が滲みかけたとき、真田の大きな手が比紗也の左手を握りしめて、遠慮がちに言った。
「おれはずっと君たちを迎えに来たかったよ。嫌だったら、仕方ないけど」
 比紗也は顔を上げると大粒の涙を流しながら言った。
「真田さん、最後の最後で気弱な言い方で」
 空の高いところまで太陽が登った午後の八幡坂は、白い輝きを増していた。

 初出二〇一四年一〇号