女は振り返ると身軽に道路脇によけた‥‥ように見えただけで、除けてあった雪山にぼすっと膝をついた。キャリーケースが倒れる。女は雪に埋もれたまま、あはは、と笑った。駆け寄ろうとした真田は、少しやばいかもしれない、と怯んで足を止めた

本表紙 島本理生 著

二〇一一年冬

「広告 既存の避妊法嫌い、快感をこよなく愛するセックス好きのゴム嫌い外だし。ではなく膣内射精できる特許取得「ソフトノーブル避妊具、ノーブルウッシング(膣内温水洗浄器)」を用い、究極の快感と既存の避妊法に劣らない避妊ができる」
バラ
 教会へ向かう坂道は、昨夜から降り続いた雪のために凍りついていた。
 黒いダウンを着た真田(さなだ)は反射する地面を、一歩一歩、滑らないように踏みしめた。氷だと決めてかかると、時折水しぶきが上がる。防水ブーツの中まで染み込むことはなかったが、ひんやりした気配は伝わってきた。

 真田は立ち止まって振り返った。
 八幡坂は容赦ない傾斜のために、中腹からでも街をすっかり見渡すことができた。函館港を一望する。雲の切れ間から差す太陽を受けた海はぼんやりと輝いている。

 真田は喉の渇きを覚えながら息を吐いた。一仕事終えたら夜はビールだな、と思っていたら、危なっかしい足取りで坂を上がってくる女が見えた。
 白いダッフルコートを着て、シルバーのキャリーケースを振り回すように引いている。背後からトラックが近づいていたので真田は、危ない、と思わず声をかけた。

 女は振り返ると身軽に道路脇によけた‥‥ように見えただけで、除けてあった雪山にぼすっと膝をついた。キャリーケースが倒れる。
 女は雪に埋もれたまま、あはは、と笑った。駆け寄ろうとした真田は、少しやばいかもしれない、と怯んで足を止めた。女がこちらを向く。
 あどけないわりに色っぽく誘うような目をしている。栗色の長い髪。赤く染まった頬の感じがまだ若い。真田はギャップに面食らいながらも
「大丈夫、ですか?」
 と尋ねた。女の目頭にはうっすら涙が滲んでいた。
「大丈夫じゃないように見えましたよね。私」

 明るい声で返されて、真田は戸惑いながら手を差し伸べた。女は無邪気に微笑んで
「ありがとうございます」
 手袋で包まれた右手を差し出した。
 女は立ち上がると、両手で雪を払いながら言った。
「ごめんなさい。あんまり自分がかっこ悪いから」
「それで笑ってた?」
 真田が訊き返すと、女は、うん、と少女みたいな声を出した。

「お腹に子供がいるから体を守らなきゃ、と思ったら、あんな倒れ方になっちゃって」
「子供っ? 君、行き先は?」
「坂の上のロープウェイ近くの教会まで。早く着いちゃって、ホテルのチェックイン時間まで観光しようと思って」
「ああ、それなら俺と一緒だ」
 と相槌を打ちながらも無謀さに驚いた。妊婦が大荷物を持って一月に函館一人旅とは。
「ホテルのフロントに頼めば、荷物は預かってくれるもんだよ」
「へ? そっか。あんまり旅行したことがないんです」
「君、いくつ?」
「いま二十三歳です」
 真田は、そんなに若いなら仕方ないか、と納得した。
「それなら俺が教会まで荷物を持つよ。昼の約束が午後になったのも、何かの縁だ」
 真田はキャリーケースを持って歩き出した。女が追いかけて来て恐縮したように頭を下げた。そこまで非常識な相手でもないと判断した真田は口を開いた。
「名前、訊いてもいいかな」
「私? 徳永比紗也(とくながひさや)って言います。あなたは?」
「俺は、真田幸弘(ゆきひろ)です。比紗也って変わった名前だな」
「母が紗也(さや)っていうの」
「なるほど。じゃあ、比はどこから出てきたの?」
比紗也は笑ったまま首を傾げると
「真田さんは函館に住んでいるんですか?」
 と質問し返した。閑静な住宅地で二人分の足音が雪に埋もれる。いけどもいけども白い家々を眺めながら
「いや、普段は東京で仕事してるんだ。取引先の会社がこっちにあって、一度、あいさつに来なきゃと思っていたから」
 と真田は答えた。
「一人で?」
「自営みたいなものだから何人かと組んで始めたんだけど、一応、俺が代表で。まあ、小さな会社だよ」
「経営しているの? すごい。都会って感じですね」
「今、適当に返しただろう」
 と指摘すると、彼女はくすぐったそうに笑った。真田は、惜しいな、と思った。妊婦じゃなければ口説きたい笑顔だ。
「私は彼と来るはずだったんです。二人で茹でた蟹を食べまくろうって。それなのにむこうに仕事が入っちゃって。一人旅なんて初めてだったから変に興奮しちゃって。でも、いいね。すごい雪景色」
 と比紗也は晴れて来た空を仰いだ。
「じゃあ、今夜の飯も一人で?」
「もちろん。何だったら一緒に食べます?」
 と冗談めかして返されたので、真田も日頃の軽いノリで
「正直、一人で食うのもつまらないと思っていたから。君がいいなら大歓迎だよ」
 と同意した。
「あ、それなら一つだけ訊きたいことがあるの。真田さんは飼っている犬にアテレコしたりする?」
 唐突な問いに、真田は困惑して
「飼ってる犬になんだって? 話しかけるとか、そういうことか?」
 と真顔で訊き返した。
「私ね。昔、付き合い始めたばかりの男の子の家に行ったことがあって。その子の家に柴犬を飼っていたの。ちなみに、ご先祖、ていう名前だったんだけど」
「なんだよ、その罰当たりな名前は」
 と真田は堪え切れずに笑った。

「何代か前のおじいちゃんの遺影に顔がそっくりだとかで。でね、彼ってどっちかといえば寡黙で男っぽかったのに、犬小屋
前でいきなりこう、ご先祖の前あしを持って甲高い声で」
「ふむ」
「比紗也ちゃあん、初めまちて! て、いきなり叫んだの、私、あまりの想像を絶する豹変ぶりに、絶句して」「あはは」
「笑い事じゃないですよ。それまで、俺はホワイトデーにお返しなんてしないとか硬派ぶってたのに。そういう人って、私の心の呟きとかも思い込みでアテレコしそうじゃないですか」
「君はけっこう面倒臭いなあ」
 と真田は笑いながら感想を告げた。昔から友達だったような錯覚を抱く。こんなに人懐こい娘も珍しいと思った。

「ごめんなさい。やっぱり一人で食事したほうがいい?」
「いや、面白くていいよ。それで?」
 と真田は続きを促した。
「それ以来、私、豹変する人がなんだか怖くてなっちゃって。喋り方がいきなり変わったり」
「まあ、俺も酔えば多少はそういう所もあると思うけど。普通に話している限りは大丈夫だと思うよ」
「それなら良かった。ごめんなさい、一方的に喋っちゃって。真田さんは言葉が通じる人ですね」
「まあ、そうでありたいとは思っているけどな」
 話しているうちに、二人は教会に着いていた。
「わ、きれい」
比紗也の白い息が空気中に広がった。誰もいない雪の敷地へと足を踏み入れる。
 雪をまとって色とりどりのステンドグラスが輝く教会はたしかに美しかった。緑色の三角屋根のてっぺんは冠をかぶったように光が霞んで見えないくらいだった。

 教会の扉を開けて、二人で足を踏み入れる。中は薄暗くて静だった。
比紗也は興味深そうに教会内を見て回ってから、売店の前で銀色のロザリオを手にして、日にかざすように持ち上げた。
 真田は細い指から垂れたロザリオへと視線を移した。十字架と透明なガラス玉を青い聖母のパーツが繋いでいる。あんまり真剣に見ているものだから、さほど値段が高くなかったこともあり
「そんなに気に入っているなら、買ってやろうか?」
 とつい提案していた。
「ほんと? でもキリスト教徒じゃないのに、いいのかな」
「こうやって普通に売っていることは大丈夫じゃないかな。君と子供の健康を祈って」
「神社の安産祈願じゃないんだから」
 と比紗也は茶化しつつも、嬉しい、と言った。修道服姿の外国人がのっそりやって来て会計すると、ロザリオの入った紙袋を手渡した。
 比紗也はさっと紙袋の中からロザリオを取り出すと、素早く首に掛けた。頭を下げたときのうなじをみて、細いな、と真田は思った。それに白くて柔らかそうだ。

 教会でタクシーを呼んでもらい、ホテルまで比紗也を送り届けた真田は夕方に迎えに行く約束をして、いったん別れた。

 函館近くで路面電車を降りてすぐの海鮮居酒屋は、大勢のお客で賑わっていた。壁のいたるところにおすすめのメニューが貼られている。真田はとりあえずサッポロビールを、比紗也はジンジャエールを注文した。
 最初に運ばれてきたアスパラガスとコーンのバター炒めを口にした比紗也は声を上げた。
「甘くて美味しい。さすが北海道のアスパラ」

 真田が、今はアスパラの時期じゃないんだけどな、と教える間もなく
「あ、それメキシコ産なんですよ。今、真冬ですから」
 いかにも気の利かなそうな茶髪の男性社員があっさり否定した。
 彼女は、そっか、と照れ笑いした。
「間違えちゃった。でも美味しい。バターもコーンも」
 真田はビールを飲みながら、次に運ばれてきたイカの刺身を口にした。こちらは間違いなく地の物だと思った。柔らかさも甘みも都会のとはまるで違う。
 比紗也にも勧めると、妊娠中は生ものはやめておく、と生真面目に断わられた。

「そういえば真田さん、仕事はどうでした?」
「ん? まあ、そんなに堅苦しい話はしなかったら。色々世間話して、地ビールを試飲させてもらって」
「試飲?」
 と彼女は訊き返した。居酒屋の喧騒で危うく聞き逃すくらいの小さな声だったので、真田はかえって気を引かれた。
「そう、色んな事をやってて、その一つがイベントの企画。ほら、一時は日本酒が下火だったから。チケット制で日本酒の試飲会したり。自分が興味を持てれば、何でもいいんだけどな。一応、日本の伝統的なものを中心にやりたいと思ってて。最近はクラブイベントに若手の津軽三味線の演奏家を呼んだり。これは、かなり盛り上がったよ」

 冷えた日本酒を飲む真田を見て、比紗也は麦茶のコップ片手に
「初対面の男の人の前で酔う訳にはいかないから、ちょうど良かった」
 とはにかんだ。そのやり取りで酔いがまわりかけていた真田の頭はすっと覚めた。そうだ、目の前にいるのは独り身の女の子ではないのだ、と思い直す。
「徳永さんの旦那は、どんな人なのか訊いてもいいかな」
 と尋ねると、彼女はぱっと嬉しそうな顔をした。
「まだね、入籍はしていたいの。でも子供ができたことはすごく喜んでくれて、旅行から帰ったら、すぐするつもり」
 と打ち明けてきたので、真田は食べる手を止めた。
「入籍してない? 君はなんだか色々無謀だな。万が一結婚してくれなかったら、どうするつもりなんだ」
「それはね、絶対にない。ここだけの秘密だけど、子供作ったのって二人で計画したことなの。向こうの親があんまり私のことよく思っていないから、押し切るために」
 と説明されたので、真田はいっそう驚いた。
「とょ、それこそ危険だろう。結婚っていうのはお互いの家同士のことでもあるんだし」
「彼が守ってくれるから大丈夫だもん。高校生の同級生で、すごく温厚で面倒見のいい人なの。高校出てすぐに介護の仕事に就いて、今は地元のケアーセンターで働いてるの」
「ふうん。献身的な感じなのかな」

「そうそう。体の悪い人のお世話なんて大変じゃない。でも全然、愚痴とか言わないし。お年寄りが好きなんだって。お祖母ちゃんっ子だったから。それで」
「そんなに信頼できる相手なら、まあ、たぶん心配ないだろうけどさ。そういういば、地元って君はどこの出身だったけ?」

「あ、私は仙台です。高校出てから美容専門学校に行って、今は駅近くの美容室で働いてる。まだスタイリストじゃないから、髪は切らせてもらえないけど。あ、これお店のカードね。来る機会はないかもしれないけど」
 真田は、へえ、と相槌を打ちながらショップカードを受け取った。
「真田さんはつき合っている人はいるの?」
 と比紗也がふいに質問してきた。
「俺は、今はいないよ」
「ふうん。でも真田さんって女に困ったことはないでしょう」
 真田は、はは、と笑った。そう言われること自体は悪い気分ではない。
 だけど、その直後の
「そして本気で好きになった女の人もこれまでいなかった?」
 という指摘には思わず苦笑して、なんでそう思ったの、と訊き返した。
「初対面の女ともこうして友達みたいに喋れる人って、モテるだろうけど一人に執着することがなさそうだから」
「友達みたいに喋ってるのは君のキャラクターもあるよ。だいたいさっきから話しているのは君のほうだろう」
 と反論すると、比紗也は、ばれたか、という感じで笑った。
「真田さんって優しいね。腹を立てる事とか、ある?」
 比紗也が尋ねたので、真田はちょっと考えた。 
 店内には野菜や魚の焼く匂いと湯気が立ち込めて、いたるところで酔っ払った客たちの笑い声が響いていた。アルコールで体が温まった真田はすっかりリラックスして
「ああ、最近あったなあ、キリコのやつが」
 と本当に昔からの友人に語るように名前を口にして、我に返った。
「キリコっていう、大学のときからの女友達がいるんだ。悪い奴じゃないんだけど、ちょっとずけずけ言う所があってさ。この前、お互いの友達を交えて飲みに行ったんだよ。それで二次会がカラオケだったんだけど。俺の友達に、3Lのシャツでもぱっつんぱっつんの巨大な男がいてさ。機械いじりが趣味典型的なオタクサラリーマンで」
「真田さんとはあまり似てないね」
 と比紗也は焼きおにぎりを摑みながら言った。
「まあね。でも、いいやつなんだ。で、そいつの声がなんて小田和正そっくりなんだよ。しかもめちゃくちゃ歌が上手くてさ」
 比紗也は、へえ、と興味を抱いたように軽く目を見開いた。

「だから、そいつがカラオケでマイクを握ると歌唱力と見た目のギャップが凄すぎて、女の子たちに大うけなんだ。でも毎回だから、正直、男連中は見飽きてるんだよ。で、この前、そいつがリモコンを握った瞬間に、どうせ小田和正だろう、て俺が茶々入れたらさ。キリコの奴が『わあっ、真田君ってば嫉妬してるんでしょう!』て言うもんだから、ついかっとなっちゃって。なんで俺が体重百四十キロの小田和正に嫉妬するんだよ」
 比紗也は、あはは、と大きな口をあげて笑った。
「そう主張したら、俺がそいつを悪く言ったような雰囲気になるしさ。否定するのは図星だからだ、て反論されて、また頭に来たな。キリコのああいうところはなあ」
「そのキリコさんっていう人とは付き合ってたの?」
 真田は、ただの腐れ縁みたいなもんだよ。と首を振った。本当は大学時代に一度だけ家飲みで散々酔っぱらって関係を持ってしまった事は伏せた。

 比紗也が相槌を打ちつつも食べる手を止めないので、真田は疑問に感じた。
「君、つわりとかはないの?」
「うん。あ、お腹が空いたときのほうが気持ち悪いくらい。こういうの、食べづわり、ていうんだって。本で読んだ」
「ふうん、つわりにも色々あるんだな。内の母親がそういう体質だったのかな」
「え?」
「いや、そういうのって遺伝するのかなと思って」
「知らない。中学生のとき出て行ったから」
「へえ。じゃあ父子家庭だったんだ」
 比紗也が急激に激しく咳込んだので、驚いて麦茶のコップを差し出した。彼女はそれを手で押しのけてテーブルに突っ伏した。真田は動揺して次の動きが取れなくなった。
 店員が近づいてきて、大丈夫ですか、と声をかけた。
 ようやく顔を上げた比紗也は、涙袋を赤く腫らしながらも、大丈夫、食べ物が喉に詰まっただけです、と説明した。

 調整するように深呼吸を繰り返しながら、長い髪を耳にかけて
「ごめん、なさい。真田さん、びっくりしたでしょう」
 と言った。
 真田は気を遣って、そんなことはないよ、とだけ答えたが内心ではまだ動揺していた。
 食事を終えて居酒屋を出ると、港町は闇に沈んでいた。
 ぽつん、ぽつん、と街灯が積もった雪を照らし出していた。静まり返って、耳が冷えて痛んだ。美しい夜だった。
 真田は名残惜しくなって近くの小さなカフェへと比紗也を誘ったが、さすがに疲れたからと断られた。
「ごめんね、つき合えなくて」
 いかにも親し気に微笑まれると、真田は抱いた好意が加速していくのを感じた。ダッフルコートから出た首には、真田の買ったロザリオの鎖が覗いている。

 世界中の女性の好みか否かで二分したとすればこの子は間違いなく好みだ、と真田はわずかに酒の匂いが混ざった息を吐きながら思う。他人のもの、と言い聞かせる。しかも妊婦。その単語は強力でさすがに酔いが醒めていく。惜しい。まあ、二度と会う事はないだろうけど。
 比紗也をホテルのフロントまで送ると、彼女は手袋を外しながら、今日はありがとう、と言った。カードキーを受け取ると
「ああ。楽しかった」
 と呟いて、エレベーターの前で立ち止まる。ドアが開いて、比紗也が乗り込んだ。笑顔が閉まるドアの向こうへと消えていく。
 真田は思わず、君、と呼びかけて手でドアを押さえた。
 比紗也はその手を無下に挟んだりはしなかった。
 再びドアが開くと
「今日は楽しかったです。本当にありがとう」
 と比紗也は柔らかく。けれどはっきりと告げた。真田は苦笑した。
「ごめん。ちょっと酔っぱらった」
「うん」
 真田は比紗也に右手を差し出した。彼女はそっと握り返してきた。思ったよりも、ずっと小さくて、冷たい手だった。
「体冷やすなよ」
 と真田は後ろ髪を引かれながらも、握手を解いた。
「ありがとう」
 と答えた比紗也がなぜかぱっとエレベーターを降りた。自分の胸に飛び込んできたような錯覚した真田の脇をすり抜けて、比紗也は携帯電話を耳に当てると
「もしもし。芳紀(よしき)君。やっと仕事終わったの?」
 と目線を上げながら喋り始めたので、真田は思わず苦笑した。電話越しののんびりした声が洩れて来る。

 ひさちゃんすぐに無理するから…‥親切な人が荷物とか持ってくれたから大丈夫だよ‥‥それならよかった、ちゃんとお礼言うんだよ…微笑ましいやりとりに真田は今度こそ諦めがついて、電話を続ける比紗也に手を振った。
 ホテルを出ると、しんとした夜だけが広がっていた。
 小雪がちらつき始め、闇は霞んでいった。もう会えないだろうけど良い夜だったな、と真田はあらためて思いながら、雪道を歩き出した。
 そして一度きりの邂逅(かいこう)だと思っていた函館の夜は終わった。

二〇一二年春
 如月歓(きさらぎかん)の朝は、十年間愛用しているジャージを洗うところから始まる。
 ベッドから起き上がると、軽く伸びをしてから、所々無残に破けた小豆色のジャージを脱いだ。
 昨晩の内に決めておいたワイシャツとズボンを身に着ける。歓は外出時にはたいていスーツなので、迷うほどではない。
 鏡の前で申し訳程度に寝癖を直して、脱いだジャージと洗濯物を抱えて部屋を出た。廊下の突き当りの部屋に入り、洗濯機に服を放り込んでスィッチを入れてから、朝のミサへと向かった。
 敷地内の聖堂でミサを済ませて戻ってくると、洗濯は終わっていた。蓋を開けて、はたと気づく、ジャージがない。廊下を駆け、修道院の外へ飛び出す。
 ゴミ捨て場で、石原神父が濡れたジャージを水色のポリバケツに投げ込もうとしているのを目撃した歓は
「石原神父‥‥どうして、いつもいつも勝手に僕のジャージを捨てるん」ですか」
 と呆れて訴えた。
 石原神父は還暦をとっくに過ぎて白髪とシミだらけの風貌のわりに、生命力の溢れる声を尖らせて
「如月神父こそ、いつまでもみっともないジャージを取っておくんですか?」
 と反論した。
「誰に見せるわけでもないし、勝手に捨てるようなことは」
「私はあなたの為に言っているんですよ」
 堂々とした反論に、歓は黙ってしまった。朝からジャージ一つで神父同士が言い合いをする姿なんて神には見せられないな、と心の中でつぶやく。
 取り戻したジャージを干し終える頃には、柔らかな日差しの降る中庭でバザーの準備が始まっていた。それを眺めながら歩いていると、シスターやボランティアの信徒たちが次々と声をかけられた。

 如月神父様、おはようございます。
 神父様の一日が今日も良き日でありますように。
 歓が言葉を返している間に、他のシスターたちはバザーに出品されている物を選び始めた。高級住宅からやって来る信徒のマダムたちが競うように素敵な品を持って来るのだ。
 Xの記号に似たブレート付きの黒いバッグを、ふくよかな中年のシスターが嬉しそうに手に取った。
「それ購入されるんですか?」
 と尋ねると、彼女は、ええ、と嬉しそうに答えた。
「来月、姪の誕生日なのでプレゼントしてあげようと思っているんです。このシャネルのバッグ、私が若い頃にも流行ったものですけど。今また若い人たちの間で人気があるようですね」

 そうですか、と歓は頷いた。シスターは財産を持たないので、購入するお金は教会から出ている。バザーの収益金は教会に戻ってくるので、高く売れそうなものほど身内で買ってしまったら意味がないわけだが。

 ストイックなイメージのカソリック教会だが、中に入ってしまえばずいぶん鷹揚(おうよう)だ、というのは四年前に歓が三十歳の若さで神父になって最初に抱いた感想だった。
 そのとき悪寒が走った。春にして少し暑いくらいの陽気なのに、内臓からさっと冷えていく。鼓膜の奥で、まとわりつくような声が響いた。

『本当にさ、このご時世に最高の永久就職だよね。公務員なんて目じゃないよ。こんな絶対的な安定が今の日本にあるなんてさ。世界宗教の金庫と権威! あれ、歓君怒った? 三十四年生きてきて未だにこれくらいの冗談受け流せないのかよ』
 声がするときにはいつも頭痛が起きる。歓は親指で目のまわりを押しながら、こんな幼稚で下世話な物言いは怒るまでもない、と思った。耳を傾けずに感覚を弱め、静かなときを待つ。

 バザーの準備が一段落つくと、歓は部屋に戻った。もうじき逝く信徒のために聖書や聖杯を持って病院訪問の支度をする。
 ひんやりとした廊下を通り、受付の女性に挨拶をして修道院を出た瞬間、鮮やかな日差しで目の前が真っ白になった。
 先ほどとはうって変わった、静かな声がした。
『どんな神様も信じたいところで、一番知りたい事すら教えてもらえないんだな』
 反射的に問いかけていた。一番知りたいことはなにか。頭の中の声は答えなかった。
 いつ死ぬかも分からない信徒を皮肉っているだけだと受け止めていた歓は不快感だけを覚え、振り払うように正門へと向かって足早に小道を通り抜けた。

 歓は信徒の家族たちに見送られながらエレベーターに乗り込んだ。
 下降していく感覚を味わいながら、だいぶ瘦せていた、と思った。白いシーツの上に置かれた手首には骨の形がはっきり見て取れた。

 細渕(ほそぶち)さんという女性は長崎出身の熱心な信徒で、東京に嫁いでからも日曜日にはミサに通って来ていた。最近ではあれほど熱心な信徒は珍しい。
 小児科の休憩室ではパジャマ姿の子供たちがジュースを飲んでいた。きっと入院しているのだろう。重い病気を患っているのではないといいが、と気にかけながら通り過ぎる。歓自身も小学生の頃は病院通いをしていたので、今も他人事とは思えない。
 一階に会計の窓口があり、名前を呼ばれるのを待っている人たちでロビーは混雑していた。絶えず病院関係者が忙しなく行き来している。歓は遠慮がちに人を避けながら回転扉を抜けようとした。

 外から灰色のセーターを着た中年男がやって来て、突然、強引に回転扉を押した。回転扉に手を掛けていた歓は気づかず、さらに強く押す。歓の右手がぐっと壁との隙間に押し込まれていく。
 歓が、わっ、と声を上げた直後、ようやく気付いた中年男は戻ることもできずに院内へと吸い込まれていった。一瞬のうちに骨まで食い込んでいく感触に、目の奥が潰れたような痛みが突き抜けた。
 指が千切れる、と思ったが、次の瞬間から足元に向かってビニール傘の先端が押し込まれていた。
「早く! 手をどけて」
 という声に押されて、歓は慌てて指を抜き取った。人差し指と中指の第一関節のあたりが青紫色に染まっていた。回転扉から病院の外へ転がるように出ると、病院の看護師たちがばたばたと外に出てきて
「大丈夫ですか! お怪我は? いま中で手当しますから」
 と歓を取り囲んだ。灰色のセーターの中年男も気まずそうにやって来て、ご無事ですか、と尋ねた。歓は恥ずかしくなり、大丈夫ですから、とくり返しながら曇った回転扉を見た。貸出用の白いビニール傘を傘立てに戻そうとしている若い女性が見えた。ちょっとすいません、と人の波を分けて、病院の中へと戻る。
 騒々しい院内で、歓はこころなし大きな声を出して
「すみませんっ…先ほどは」
 と紺色のスプリングコートを着た女性に向かって呼びかけた、彼女が振り返ると同時に赤ん坊の鳴き声が響いた。
 黒髪のショートヘアに重たげなスプリングコートはまるで喪服のように見えた。赤ん坊を胸に抱いている。どこか縋(すが)るような瞳に、瘦せた手首。
「あ、あなたが先ほど助けてくださった方でしようか?」
 歓は尋ねた。彼女は、はい、と頷くと
「良かった、間に合って。私、小さいわりに馬鹿力なんです。あっ、紡(つむぐ)、ごめんね。びっくりしたよね、ごめんね」

 と切羽詰まったように赤ん坊をあやし始めた。横顔にはくっきりとした孤独が居座っている。育児疲れだろうか。思い詰めなければいいけれど、と歓は実の兄のように心配した。
「本当にありがとうございました。なんとお礼を申し上げたらいいのか。あのままでしたら僕は指が使えなくなっていたかもしれないのです」
 と頭を下げる。再び顔を上げると、彼女が不思議そうな顔していた。

「もしかして顔を打ったりもしました?」
「え、いえ。指以外はどこも」
 という否定を遮るように、彼女はオレンジ色のチェック柄のハンカチを差し出した。
 顔に当てて見ると、血が付いた。歓が混乱していると、彼女はポケットからティッシュを出して細く捩じった。躊躇なく片方の鼻の穴にティッシュを押し込まれた歓は目を見開いた。
「鼻血。びっくりしたから、出ちゃったのかも。ほら」
 彼女は指先についた血を一滴の嫌悪も滲ませることなく見せた。
 歓はとっさに思った。
 天使‥‥?
 あ、マリアだ、と。
「あ、あの、ぜひお礼をさせてください。僕はこの近くの修道院で神父をしている者です。如月歓と申します」
「神父さん?」
 と彼女は目を丸くした。赤ん坊が母親のTシャツの胸元に手を突っ込んでなにかを引っ張りだす。歓も目を丸くした。赤ん坊がしゃぶっているのは透明なガラス玉のロザリオだった。
「あの、失礼ですが、そのロザリオは」
 彼女は、ああ、と頷いて
「これは貰った物なんです」
 と早口で答えた。
「すいません、私、もう行きますね。子供の検診だったんです。そろそろお腹も空かしているみたいだし」
「あ、ああ。それ引き止めてしまって、大変申し訳ないことを」
 と歓は言ってから、お礼をせねば、と思った。右手の指を見ると腫れが酷くなっていて、第二の心臓かのように強く脈打っていた。助けてもらわなかったら大ごとになっていたに違いない、彼女は恩人だ。心を込めて感謝を伝えなければ。

「お時間があるときに、いつでも修道院にいらしてください。お礼をさせていただきたいのです」
 彼女は無言のまま、社交辞令に対する笑みのようなものだけを返して、すぐに立ち去った。その足取りの速さに、歓は突然、途方に暮れた気持ちになった。
 新緑の並木道に、儚い後ろ姿は遠ざかっていった。
つづく 1章 キーワード
保育園、シングルマザー、美容室、婚活イベント、仕事と育児、音楽イベントとワインと婚活、ライブハウス、キャバ嬢、比紗也の締め付けすごすぎて男がどハマりする、母子家庭、