性欲の強い女性の特徴 婚約破棄
「性欲の強い女性の特徴」
差し込み文書
性欲の強い女性像。男に多いテストステロン量を多く持っている。想像力が豊かで大人のおもちゃを持っている。三十代前半でセックスの良さもほどよく分かる。つまりオーガィズムに達するとき脳内物質ドーパミンが全身に射出すると全身痙攣を伴う快感を体得している。精神的に安定している。特に排卵期前後には露出度の高い服装を好む。お酒も好き。行動的で刺激的なことが好き。仕事能力も非常に高いというのが特徴である。
男性のように四、六時中性欲を発することは少なく、独身女性であっては排卵日前後とか、好みの男性と飲酒し、ドキドキ感、緊張感などの雰囲気中において猛烈な性欲を発する。しかし結婚したのち排卵日以外のセックスは、旦那の機嫌を損じると面倒くさいので義務とし、演技を装いイク振りして早く終わらせるという演出するというのが妻の優しさと男は心得ることだ。
「男性の性欲」
男性の性欲は個人差が大きく一般的には、仕事上精神的ストレスをあまり受けないブルーカラー労働者は精力絶倫という人が多い。本来男の性は
「オーガズム定義」男性性器図10精嚢に精液が満杯になると強烈な性欲を発する。人によっては夢精として下着を汚すことになる。
仕事上大きなストレス、家庭での大きなストレスを抱える人は男女問わず性欲は低い人が多い。
十八~二十九男性の性欲が一番強い年齢である。精嚢に精液が満杯になるには一、二、三・・・七日と個人差が大きい。
テストステロンが主として男性の性衝動を司るホルモンだという説に異を唱える者はいないようだ
精巣のライジヒ細胞で作られるクリスタル状のこの物質は、規則的なリズムで体の中を流れ、男性が生殖可能な年齢の間には、5分に一回ほどの割合でピークを迎える。
男性をセックス可能な状態にまで高からぶらせるのがテストステロンの仕事だと一般に信じられているため、欲望が極端に低い患者の治療に用いられたこともある。
90年代初めに行われたテストによると、テストステロンの低い患者に6ヶ月間テストステロンを補充する治療を行うと、勃起力が強くなり、射精の回数が多くなり、全般的にリビドーが高まるという。
男性の性欲は主としてテストトロンのレベルが保たれていることによって引き起こされる。このホルモンがあるから男性は、出来るだけ多くの相手とできるだけたくさんセックスをしようとするのである。かたや女性の性欲には、非常に異なる『テストトロン、エストロゲン、プロゲステロン』三つのホルモンが複雑に混ざり合って影響を与えている。
恋人同士のときは、ドキドキ感、緊張感が伴うことで会うたびにセックスをして旺盛で、二、三度と性感を堪能しつつ交わりたり、そして新しい発見もあって、嬉しい楽しい日々があったと思う。
しかし結婚、出産、子育て時代に入るとドキドキ感、緊張感も失ってしまう。女性が最も性拒否の発端なるのは加齢に伴い男性の指先は、爪先両端の爪が裂け鋭い棘になる。或いは、指両端皮膚が角質化しセーターや布団に引っかかるようになってくる。このような指でクリトリスや膣内を触られたら傷だらけになり、数日後は大変な事態、産婦人科医に怒られることになる。
一般的に傷防止として指サック、あるいはコンドーム特大サイズを手に嵌める。または、大人玩具を用いる人が多い。中には電バイブ等の挿入が痛いという人も少なからずある。このような人は当サイト発売の
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使用方法はこちら。破損した場合は細かく切り生ごみに出してください。
三つのホルモン
三つのホルモンが正確に言えばいつどのように影響しているかをめぐって、ここ50年ほど議論が繰り広げられてきた。伝統的に女性に課せられてきた社会的プレッシャーに比べると、ホルモンの影響などないに等しいと主張する一派もいる。また、ホルモンの影響を受けているかどうかは一人一人異なり、一般論には意味がないという一派もいる。
また、ホルモンと性欲関係を探る研究は始まったばかりなので、はっきりした結論を出す段階ではないと主張すること人もいる。
実態はまだはっきりとしているとは言えないが、そろそろ仮説を立てるくらいなら許される段階に来た。そこでとりあえず、今の段階で解っていることだけまとめてみよう。
女性の月経サイクルとホルモンの満ち干はどういう関係があり、それはどのような心の動きを生み出すのだろうか。
エストロゲン
まず、エストロゲンについてみてみよう。このホルモンはいつでも生産されているが、排卵の直前に特に多くなる。セックス・セラピストのテレサ・クレンショウはこのホルモンを“マリリン・モンロー・ホルモン”と名付けている。“そばにきて私に触って! 私をあなたのものにして!”と訴えるホルモンだからである。女性を駆り立てるのも、このホルモンの仕業である。
テストトロン
二番目のホルモンはテストトロンである。女性の場合、このホルモンの量は男性よりずっと少ない。だが排卵期前後はぐっと量が増え、男性と同じ効果をもたらす。夜、相手を求めてさまよったり、タッチダウンを求めて走ったり、ビジネスで契約をまとめたり、何かを積極的に追い求めたり、戦いをものにしたりする背後には、テストトロンの働きがある。
このホルモンは、セックスにも関係がある。ふと立ち止まり考えずに前に進むのは、テストトロンのせいなのである。
プロゲステロン
三つ目のホルモンはプロゲステロンである。このホルモンはいわば“意欲に水をかける”ホルモンで、女性が家に溜まって家族の中に閉じこもりたくなるのはこのホルモンの働きなのである。
このホルモンの働きが強い人は、積極的・攻撃的な行動を取るよりもむしろ何かを育み、守る傾向が強い。また女性の月経サイクルの最後の方や妊娠期には、このホルモンは大量に生産される。
このように多様なホルモンが補い合って作用しあい、満ち干きを月ごとに繰り返す。これを理解すると、女性の性衝動に関してこれまでよりはずっと真実に近づける。
もう一度ウィーンのクラブに遊びに来ていたゾフィの例に戻ろう。
報告書によるとゾフィは26歳、長く付き合っているボーイフレンドがいる。彼女がクラブにやってきたあの夜、ボーイフレンドは家にいた。ボーイフレンドは疲れているので家で休みたいと言ったが、その夜のゾフィはなぜか落ち着かなかった。
セクシーなドレスに身を包み
そこでセクシーなドレスに身を包み、一人でクラブにやってきたわけである。
男漁りする気などなかったが、とりあえずそのための服装は整えてきた。来るとすぐに何人もの男が近づいてきたし、彼らと遊んでもいいかな、という思いがあるちらりと頭をよぎった。
研究者たちが彼女を見つけたとき、彼女はフル・スイング状態だった。頭をのけぞらせ、ドレスはめくりあがり、目には危険な光が宿っていた。
ゾフィに質問する研究者たちにとっては、これはなじみのパターンだった。決まった相手がいながら一人でクラブに来る女性たちは多かったし、彼女たちの服装や振る舞いにも共通するものがあった。
ゾフィの唾液を分析してみると、エストロゲンとテストステロンが両方とも濃い。排卵期だったのだ。
ゾフィのドレス、ホルモンの状態、そしてクラブに来るまでの経過から研究者たちになじみのパターンをまとめてみよう。ゾフィはその夜、妊娠可能な状態にあった。そしてボーイフレンドから離れ、一人でここにやってきた。
そして、クラブにいる他の女性、排卵期でない女性よりはずっとセクシーなドレスを選んで着てきた。報告書には、ゾフィがその夜ボーイフレンドではない男性とセックスをしたかどうかは記録されていない。
だが、それはどうでもいい。ホルモンの影響で、ゾフィはあの夜、もっとも妊娠する可能性が高い夜、そういう行動をとった。ここで疑問が出てくる。いったいそれはなぜだろう?
クーリッジ効果
多くの女性と性交するという適応上の課題に対するもう一つの心理的解答は、男性が女性によって欲望をかき立てられる現象、いわゆる「クーリッジ効果」に関係している。
この名称は、次のような逸話に由来している。合衆国第三十代大統領カルヴィン・クーリッジとその夫人が、新たに建設された国営の農場を別々に見学した。鶏舎を通りかかったクーリッジ夫人は、オンドリがメンドリと交尾しているのを目にとめ、オスはどれくらいの回数その務めを果たすのかと訊ねた。
「一日に何十回もです」案内の係員がそう答えると、クーリッジ夫人は言った、「そのことを夫に教えてあげてちょうだい」。次にクーリッジが鶏舎を訪れたとき、係員がオンドリの精力絶倫ぶりを話して聞かせると、大統領はこう訊ねた。「それは、いつも同じメンドリを相手にしているのかね?」「いいえ」係員は答えた。
「一回ごと違う相手ですが」それを聞いた大統領は、こう言った。「そのことを妻に教えてやってくれ」。新しい女性を目の前にした男性が性的に興奮し、複数の女性と関係する意欲をかき立てられる現象をクーリッジ効果と呼ぶのは、このエピソードからきている。
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あなたの愛人の名前は
島本理生著
あなたは知らない
オーロックのドアを開けると、マンションの熱の残る夕暮れが広がっていた。向かいの古い家でひぐらしが鳴いている。
その家の庭には、庭作業の道具に紛れて巨大な水槽が置かれていた。うっすらと濁った水の中で、大小の金魚が泳ぎ回っている。酸素を吐き出すポンプの音が微かに聞こえる。
紺色のスウェット姿の老人が足を引きずりながら庭に出てきた。
水槽の前に屈んで、餌をやり始めた。蕾をとじて朝顔のまわりをモンシロチョウが飛んでいる。苔の生(む)した水槽の金魚は、綺麗とも不快とも言い難かった。赤い尾が無数に揺らめいている。
我に返って、サンダルの踵を鳴らしてバス停へと向かった。
馴染みのない停留所で降りると、大通りは仕事帰りの人々で溢れていた。夜の中、イオンやチェーンの居酒屋の明かりが眩しく、ビルとビルの隙間の横丁も賑やかだった。
バス停のベンチに腰掛けて、ぼうっと月を仰いでいると、視界をすっと半袖の白いワイシャツが遮った。
「すみません、お待たせして。行こうか?」
問いかけに返事をする前に、軽く沈黙する。その目の大きさにしばし見惚れてから、ゆっくりと立ち上がり、はい、と頷くと。
雑居ビルの二階のホルモン焼き屋で、テーブルを挟んで座った。ワイシャツのボタンを外した胸元は色っぽく、トングを摑んだ手の甲は夏だというのに白かった。
「なんか恥ずかしいですね。変に腕が白くて」
と苦笑する彼に、もう何度目か分からないけど
「浅野さんは、それがいいと思う」
という台詞を告げる。
「変わっているな。瞳さんは」
レモンを絞ったタン塩を食べながら、記憶にも残らぬとりとめもない話をいくつかした。当たり前のように恋人扱いする店員たちの対応に気づかぬふりをしながら。
狭い街にはラブホテルが三軒しかない。
路地に入ると、複数のカップルが空室を求めて三軒を行き来していた。諦め半分で一番古い建物を選ぶと、電光掲示板には二室ほど空きがあった。
室内は古いけれど広さがあって、今時珍しく、鏡に囲まれたベッドがあった。
うわエロいな、と嬉しそうに寝転がる浅野さんに近付くと
「瞳さんは。おいで」
と無邪気に笑いながら両手を広げた。ワイシャツの小さなボタンを一つ一つ外すたびに、背骨が痺れる。色素の薄い顔立ちは、見れば見るほど年齢が曖昧になる。
堪えきれずに抱き合うと、瞳さんぬくい可愛い、と心にもない台詞を囁かれて、一瞬だけ浅く息を吐いた。
六月の、点滴のように間断なく雨が滴る晩だった。
自宅から遠く離れた街で、私はひさびさに大学時代の友人の江梨子と会っていた。
レストランの照明の下で唇を光らせた彼女は、ピンク色のピンでオリーブを突きながら、平日は仕事に追われて休日は淡白な世話で一生を終えるなんて出家したも同然だ、とこぼした。
不満は締まりの悪いシャワーの栓のごとくたえず滴り落ちて、私は彼女から
「どうせ来年には瞳も結婚してるんだから、独身のうちにちょっとくらい遊んだら?」
と強引に誘われて立ち飲みのバーに行った。
そこで奢りのビール片手に江梨子に声を掛けて来たのが、浅野さんだった。
三人の会話は弾んだものの、終電間際に届いた旦那さんからのメールで、彼女は文字通り踵を返した。
ガラス扉の向こうに消えた赤いワンピース姿を網膜に残したまま。私は浅野さんと顔を見合わせた。反射的に心の中で、綺麗な顔、と呟いていた。
生まれて初めてただひたすらに目の前の男を欲しいと思った。
テーブルの下で彼と手を握ると、会話が途切れたのは一瞬で、強く握り返された。
可愛げを滲ませてゆるく笑う浅野さんは、最初は江梨子と私のどちらでも良かったようにも見えたし、どちらでもなかったように思えた。
だから始めてしまった。
二人で、はなく私だけが。
八時過ぎに作り終えた夕飯を一人で食べてしまうと、私はすぐに小皿に盛り直してラップを掛けた。
体の力を抜いて、緑色の三人掛けソファーに足を伸ばす。天井のLEDはどんなときでも前向きに明るい。空気中には鶏を茹でた香りがうっすら残っていた。
寝室の机で作業をしていたら、玄関のドアが開く音がした。手を止めると同時に、薄く光が差し込んできた。
「瞳、あの鶏肉ってなにかけてくえばいいの?」
ゴマダレの小皿を冷蔵庫の奥にしまったことを思い出して立ち上がった。
耕史(こうじ)が食事をしている間、私は寝間着姿のまま冷たい麦茶を飲んだ。
「明日って作ったやつを渡すんだっけ? 夕方くらいまで?」
「うん」
と私は相槌を打った。
「そっか。こっちはワクチンのことで、また色々大変でさあ。たしかに副作用に関しては対応が遅いと思うけど、発症したときの死亡率を考えたら、やっぱり接種を推進すべきなのに、癒着だとか利益重視みたいに言われるの、本当に問題だと思うんだよ」
私は麦茶を飲みながら、難しい問題だね、とまた相槌を打った。同棲している恋人同士は、皆、こんなふうに相手の仕事の話を聞いているのだろうか、と想像しながら。
彼が顔を上げて言った。
「そういえばうちのおふくろが今度遊びに来たいって言っていただろう。そのときの昼飯、俺に作らせてよ」
私は、なに作るの? と訊いた。
「アクアパッツァ。今日の昼休みにテレビで男の料理特集やっててさ。このマンションって賃貸にしては台所広いし、挑戦してみたかったんだ」
楽しみ、と私は笑った。このマンションに引っ越してきてから半年経つが、仕事の忙しい耕史君が台所に立ったことはまだほとんどない。
洗い物を終えて、彼が入浴している間に寝室の机に戻った。
カッターでわずかな切り残しだけ修正していたら、廊下を歩いてくる音がして、私は反射的に手を止めた。
耕史君が入って来て、がたがたと私の鏡台からドライヤーを取り出しながら、なにしての、と訊いた。
「明日のやつの、仕上げ」
と私はカッターマットの上に広げたペーパーを見せて答える。ドライヤーの騒々しい音が集中力をあっという間に拡散させていく。
「細かいなあ。すげえよなあ。そういうのって子供に教えられそうだし、いい趣味だよね」
子供の趣味、という単語を順番に胸の内で復唱した。ほんのわずかな違和感と共に。
ベッドにもぐりこむと、中途半端に中断させられた指先が微かに疼いた。無理やり押し込めて、耕史君と一緒に眠った。
駅前の裏通りのカフェに、澤井さんは五分遅れでやって来た。
厚底のサンダルを履いた彼女は明るい色柄のワンピースを着ていた。前回はたっぷり長くて黒かった髪がショートの金髪になっていたので、びっくりした。
「ごめんね、お待たせして。いま私の事すぐに分かった?」
生き急ぐような足音ですぐに分かった、とは言わずに、はい、とだけ相槌を打つ。
「でもびっくりしました。よく似合ってるけど」
華やかで個性的な格好に憧れがあるもの、自分に似合うとは思えなくて、澤井さんを眩しく感じた。
「ほんと? じつは今までずっと外国人と付き合っていたら、染めたくても出来なかったんだけど、今度できた彼が日本人のバンドマンで、好きな格好すればいいじゃん、て言うから。不思議だよね。外国人と付き合ってたときのほうが奔放ってまわりからは言われてたのに」
などと早口に説明されて、私は目を丸くしてしまった。
「お昼、よかったら。ここの洋風カレー美味しいよ」
澤井さんはランチメニューを差し出した。袖口に白い毛のようなものが付いていたので、見ていると
「あ、ごめん! 最近飼い始めたから、すぐに服に付いちゃうの。猫の毛が」
彼女は人差し指でさっと毛を払った。
「なんの種類ですか?」
と尋ねてみた。猫なら昔、一度だけ実家で飼っことがある。
「ペルシャ。まわり中から止められたんだけど、一度、あのふさふさの毛を撫でながら寝てみたくて。当分海外も行かなくなったし。可愛いよー。掃除は大変だけど」
相槌を打っていたら店員が来たので、欧風カレーとマンゴジュースを頼んだ。
ランチがやってくる前に、箱のふたを開けて切り絵のオブジェを見せると。澤井さんは嬉しそうに言った。
「すっごい綺麗。ティアラにシャンパンの泡って可愛い。気泡の部分がまたすごく細かいね。本当に浮かんでいるみたい。あとで請求書書いてね」
私は頷いて、お礼を言った。
澤井さんは色んな勤め先を転々とした末に、今の神宮前のレストラン兼イベントスペースの企画をしているという。結婚式の二次会やパーティ会場に使われることも多いため、たまにこんなふうに切り絵を頼まれる。
他にも雑誌に記事を書いたり、合間にバンドのコーラスをしたり。よく分からないけれど、とにかく幅広い人だ。
欧風カレーにはエビやらホタテやらがごろごろ入っていて、よくあるカフェのお洒落カレーよりも本格的な味がした。
「本当だ、美味しいですね」
と私は言った。
「たまにこのカレーが食べたくて、こっちまで来るんだ。自炊なんて平日はほとんどしないから。瞳ちゃんは毎日作ってるの?」
「ちょうど先月派遣の契約も切れたし、今は家に居るだけだから」
「でも江梨子ちゃんに紹介してもらってから、私、結構仕事頼んでるよね。作品作れるのって、彼が留守の間だけでしょう? もっと作家面したりしないの?」
私は笑って、作家なんて、と首を横に振った。
「だってこれだけの物を作れるんだよ。時間の自由がきくなら、ギャラリーに紹介したりも出来るけど」
「でも彼の方が平日は家のこと和する余裕がないから。あんまり夜に家を空けると、良い顔をしないし」
「はー。まだ入籍前なのに、立派な奥さんだ。私なんて遊んでいるだけの人生だよ。親の期待にも結局応えられなくて」
澤井さんがなんのてらいもなく言ったので、私は思わず考え込んだ。自分がもしそうだったら、絶対に口にできない言葉だったからだ。遊んでいるだけの人生。
デザートのかぼちゃプリンを食べ終えると、彼女は箱に戻した私の作品を丁寧に袋に仕舞って
「本当にお疲れ様! 会場の写真、あとでメール送るから」
そう告げて、会計に向かった。
一足先に外に出ると、まだ日が高かった。明るい午後の街を見渡すと、一瞬、自分が誰なのか分からなくなる。
お待たせ、という明るい声に呼び戻されて我に返った。私はお礼を言ってから
「来年の春先には、ぜひ澤井さんもいらしてくださいね」
と告げた。
彼女は、ありがと、と手を振ると、次の約束へと急いでさっていった。
スーパーマーケットの袋を下げて、夕暮れの道を帰る途中、古本屋に立ち寄った。
本棚の前に立って、適当に流し見る。
居場所を求めて美術部に入ったのは高校一年のときだった。体育会系の風潮が強い高校だったこともあって、教室内は運動部の男の子たちと女の子たちの天下だったから。
美術部では最初、デッサンや水彩画を好んで描いていた。だけど私の描くものは線が硬くて、生真面目すぎた。
そのときに顧問の先生から、美大に進んだ先輩の作った切り絵を見せてもらったのだ。
性格的な細かさが生かせるのではないかと、試しに作ってみたら、どんなに気が遠くなるような細工も全然苦痛じゃない自分を発見した。大学は美術とはまるで関係ない方面に進んだが、それでも切り絵だけはひっそりと続けた。
本棚の前でしゃみ込むと、澤井さんの話が記憶に残ったせいか『ベルシャ』というタイトルの本が目に入った。絨毯かと思ったが、猫の本だった。写真が多かったので、次の作品の参考になるかもしれないと思って買ってみた。
帰って豚バラ肉と卵を煮込んでいる間、八角のにおいが立ち込める居間のソファーで本を捲った。
性格は大人しく、時には物置のように静かに部屋の中に、何時間もじっとしています。人に対しては甘えん坊ですが、抱かれるのが嫌いという矛盾している、と宙を仰いでから、自分が触れたいときだけ触れたい、ということだと悟る。
ページを戻ると、多くのロングヘアーの猫の祖先だという美しい猫が紹介されていた。
大きな目がすっとつり上がり、白い毛に覆われた顔はすっきりとしながらも、わずかに愛嬌をとどめた丸みが残っていた。ターキッシュ・アンゴラ、と思わず呟く。
似てる、と反射的に思った。本当に似ているかなんかどうでもよかった。ただ、綺麗だ、と思ったから、連想してしまっただけだった。
耕史君が普段より早めに帰宅したとき、私はソファーで眠り込んでしまっていた。
「メールの返信がないから心配したよ」
という彼に
「ごめんね、本読んでいたから気付かなかった。今日は豚の角煮作ったよ」
私は告げて、台所に立った。
椅子の背を引いて耕史君がふいに
「猫、飼いたいの?」
と意外そうに訊いた。
私はテーブルの上に本を置いていたことを思い出し、軽く笑って、ううん、と答えた。
「なんだ」
「だって、猫って気まぐれそうだし」
「まあね。俺もどっちかといえば犬派だしなあ」
耕史君は当たり前のように言った。私は、そっか、と答えて菜箸を手にした。
「猫って気分が乗らなきゃ触らせてくれなそうだもんね」
お皿に角煮を盛り付けながら、さっきの記述を思い出して言ったら
「そりゃあ、そうだよ。人だって気分が乗らないのに触れられるのも嫌だもん」
彼が言い切ったので、少しだけ笑った。
本に落としていた視線の上を、白いワイシャツがちらついた。
私は顔を上げて、こんばんは、と告げた。浅野さんは笑った。本を閉じて立ち上がる。
「なにを食おうか。瞳さん、魚苦手だっけ?」
「ううん。大丈夫。今日も鞄が凄いですね」
書類が多くて形の崩れたナイロンのビジネスバッグを見て、告げる。私にそう指摘された横顔は少しだけ嬉しそうだった。
自動ドアが開いて、ドトールから夜の滲む街へと飛び込みながら、こんな事をしているくせに、と心の中で呟く。浅野さんは仕事熱心なのだ。
地下にある小奇麗な日本酒バルで、向かい合って箸を取った。アイナメのお刺身というものを初めて食べた。お酒は、天青の大吟醸。なんとなく名前が綺麗だと思って頼んだら
「それ、神奈川の酒か」
と浅野さんが思い出す。その後、両親の離婚を機に、東京に移り住んだという。
手元を見られるだけで、グラスを持つ指先が緊張した。紛らわせるようにしてぐいと飲んだ。
「瞳さん、相変わらず酒豪ですね」
とからかわれた。
仕事の話を少し聞いた。彼の表情ばかり見つめていたので、お酒の味も魚の鮮度もちっとも記憶に残らない。
「どおした?」
と浅野さんが問いかけた。この人は、どうした、でも、どした、でもなく、どおした、と発音する。
「ターキッシュ・アンゴラって種類の猫、知っていますか?」
と知っているわけがないのに訊いてみた。知らない、浅野さんが真顔で首を振る。
「ペルシャ猫の祖先。ちょっと浅野さんに似ているの」
「猫? どっちかと言ったら、犬っぽいって言われるよ」
少しだけ照れくさそうに否定した浅野さんを眺めながら、職場の女の子たちはこんな人と毎日一緒にいてくらっとこないのかしら、と不思議に思った。
初めて会った夜、歩道橋の上で彼から、泊まって行こうか、と訊かれて、酔って気が大きくなった私は首を大きく横に振った。
「初めての人とはしないです。でも、好きなタイプだからまた会ってほしい」
彼は面白そうに笑って、そうか、と呟いてから、ふいに
「女の子にそこまで言われたことがないから、びっくりした。ありがとう」
と告げた。
私は意外に思って、奥さんとか恋人いないんですか、と尋ねた。どっちもいないよ、とそこだけははっきりと言われた。
私が婚約していなかったら普通に浅野さんと付き合えていのだろうか、と期待したことはない。なにかを伝える前から、彼が求めていたのはそういう出会いではないと分かっていたのだから。
それでも浅野さんと抱かれたとき、重さを胸のうちに覚えた。情が生まれてしまうやつだ、ととっさに察した。
そう思った時点で、生まれていたことには気づかぬふりをして。
江梨子とランチをしに出かけた。
スペイン料理屋のテラス席で、たらたらとワインを飲んで、パエリアを削り取って食べながら一通り報告した。
「そういえばこの前、澤井さんに会ったら金髪になってた」
と思い出して言ったら、うそ、と江梨子も驚いて訊き返した。
「あの人は変わっているよね。私もたまに大勢の飲み会であう程度だから詳しくは知らないけど、じつは実家がすごい裕福でお嬢さんらしいよ」
「そうなんだ。だから、好きな事をしていられるのかな」
と私は呟いた。
江梨子は相槌を打ってから、もう働くのはイヤー、を繰り返した。
「私も瞳みたいに仕事を辞めたい。そこまで養ってくれる人欲しい」
と真顔でぼやく彼女に向かって、そうだね、と濁す。
江梨子のことは嫌いじゃないけど、たまに一方的な決めつけだと感じる時がある。
次の話題を探している時に、そういえばこの前の人ってあれっきりなの? と江梨子に訊かれて、迷ったけど、誰かに知ってほしい気持ちが勝って
「たまに会ってる」
と答えてしまった。
彼女は奇妙に明るい表情になって、そうなんだ、と声をあげた。
「それって体だけの関係ってこと?」
と重ねてきた問いにも、やはり、うん、と答えていた。
江梨子は赤ワインを一口飲むと、うっすら赤く染まった下唇を弄(いじ)りながら、じつは、と切り出した。
「本当は一度だけいたの。私も、そういう相手。だけどすぐにダメになっちゃって。都合のいい関係っていうのも意外と続けるの難しいよね」
ようやく謎が解けた。逡巡していたのは、私に対してではなく、彼女自身の秘密を明かすことに就いてだったのだ。いっぺに気が楽になり、そう、と頷く。
「こっちだって体が目当てなんだから、深く考えないで、毎回会ったら車でホテルに直行でよかったのに、むこうが彼女にも私にも申し訳ないって悩み始めちゃって。いつもみたいにスタバで待ち合わせたと思ったら、そんな話をされてさ。こっちはわざわざ美容院行ってから、会いに行ったのに。せめてタイミングを考えろって感じだよ。なんてセックスじゃなくて、別れ話に時間とお金を割かなきゃいけないわけ」
ひどい言いぐさだったので、笑ってしまった。江梨子のグラスを見ると、ワインは底まで減っていなかった。
酔いよりも怒りに興奮してしゃべり続けた彼女は
「まあ、でも長引くと、かえって良くなかったかもしれない。最初はお互いに謎が多いから楽しいけど、やっぱり目的だけの関係って、お互いを知れば知る程冷めるところもあるし。本当に好きだったら最初から遊び相手に選ばないしさ。パートナーにも浮気相手にもなにか物足りないと思っているからこそのバランスだしね」
と自ら納得するように結論付けて、こちらに話を引き戻した。
「瞳たちはどんなふうに会っているの。やっぱり見られたらまずいから車でホテルに直行?」
「私たちは、そこまで、ちゃんと気を付けていないかも‥‥むこうの仕事が終わりに待ち合わせて、なに食べようか、と話して‥‥それで、ホテルまで手をつないで、よく考えたら、危ないよね。あんまりちゃんと考えたことなかったけど」
と途中から独り言のように呟いていた。
江梨子が不思議そうな顔をしたので、なにかいけないことを言ったか心配になって、どうしたの、と私は尋ねた。
「ねえ、それ、体だけっていうか、付き合ってるんじゃないの?」
「え?」
と私は驚いて訊き返した。
「そんなこと、ないと思う」
「なんで。だってさー」
「だって、付き合うっていうのは好き同士でする事でしょう」
と口を出した直後、奥歯を強く嚙んだ。かすかに頭の芯が痺れる。
「好きなの? 瞳は」
と江梨子が驚いたように言ったので、私は不意を突かれて口ごもった。
「たしかにイケメンだったけど、それ以外はあんまり印象がないっていうか‥‥でも、まあ、たまに会うだけなら顔が良かったら十分だもんね」
と彼女は一通り感想を述べた。私は曖昧に相槌を打った。
一度、シャワー後に寝転がった浅野さんの背中に水滴が残っていたので、バスタオルで拭いたら、彼がやけに喜んでいた。けれど、それこそ足の裏まで拭こうとしたら触れた甲があまりに薄くて、動きを止めてしまった。
触れた指先に、切れそうな糸にも似た繊細さが引っかかったような気がしたのだ。
ねえ、という江梨子の呼びかけで、私は顔を上げた。
「ん?」
「正直、瞳がそんなふうになるなんて想像もしていなかった。本当は結婚に迷ったりしてるんじゃないの?」
ううん、と私はすぐに首を横に振ると、江梨子の勘が外れたことにがっかりしたのか、すぐにまた違う話をし始めた。
二人のパエリアの取り皿には海老のムール貝の空だけが残った。
耕史君の帰りが遅い夜に、玄関を片付けるついでに換気のためにドアを開けたら、薄い闇が差し込んできた。
なんとなく散歩したくなって、スニーカーを履いて、外に出た。
真っ暗な高校のグランドで鈴虫が鳴いている。暗闇にこぼれる自販機の明かりに辿り着き、喉の渇きを覚えて麦茶のボタンを押しかけて、ポケットの中のスマートフォンにメールが届いたことに気付く。
文面を見て思わず、月、と呟きながら顔を上げた。
薄く引き伸ばした綿菓子のような雲に遮られて、ぼんやりした光だけが滲んでいたのが、風で少しずつ流されていった。月の片鱗がじょじょに現れる。
想像よりも大きな満月が浮かんでいた。
私は息を潜めたまま、届いたメールをもう一度読み返した。
『瞳さん、十五夜。月が綺麗です。』
てらいのない文章に、かえってなんの意味もないことを悟る。
この人はきっと、月が綺麗、が、ILove Youを意味するなんて知らない。
それでも送り返した。
『ほんとだ。月、私は好きです。』
故意なのか、眠ってしまったのか定かではないが、返事はなかった。
日曜日に耕史君のお母さんが初めて新居に遊びに来た。
彼女は、夜は銀座の歌舞伎を見に行くからおかまいなくね、と言って、すとんとソファーの上に若草色の革のバッグを置いた。
「気なんか遣わなくていいからね。お寿司の出前でも取る?」
台所にいた耕史君が、俺が昼飯作るから食べてよ、と忙しなく動きながら言った。
「おふくろと瞳はのんびりしていて」
と耕史君は笑みを浮かべたけれど、ソファーに並んで、彼のお母さんと少しだけ隙間を空けて喋るのはなかなか気詰まりだった。
「今日は耕史さんが作ってくれるっていうので、楽しみにしていたんです」
と私が彼をたてると、彼女は嬉しそうに
「あの子、昔から器用だったのよ。でも片付けてできないから、かえって面倒じゃない?」
と打ち返してくれた。
耕史君はつやつやとしたストウブの鍋にアクアバッツァを作った。その鍋はこのマンションに引っ越したときに、耕史君の元サークル仲間が贈ってくれたものだ。ル・クルーゼじゃなくて、ストウブだというのがポイントらしく
「ほとんど水なし蒸せるからさ。旨みが出やすいんだよ」
と力説する耕史君に、お母さんも、あら本当に美味しいわね、と驚いたように誉めた。
「うん、すごく美味しい」
と私も真顔で頷いた。
栗ご飯は私が炊いたものだった。硬い栗をよく剥いたと二人とも誉めてくれて、なんだか自分が二人の子供になったような錯覚を抱いた。
「そういえば、耕史君。滝口君とか、もう一人のひとみちゃんは元気にしてるの? 式の余興やスピーチなんかも頼んでいるんでしょう?」
と耕史君のお母さんが訊いた。
「うん。先週くらいに詳しい連絡して、滝口からは、式の前に打ち合わせかねてみんなでバーベキューでもしようって返事が来た。どうせひとみがやりたがったんだよ。あいつ、性格きついから、いつも男と長く続かなくて、そのたびに俺らに召集かけるんだよな」
「綺麗な子はね、余裕なのよ。いつまでも相手いると思っているんだから。そんなわけにいかないのにねえ、瞳さん」
と話を振られて、私は、たしかに独身の子も大変そうですね、と無難な返事をした。
滝口君もひとみちゃんも、耕史の高校のときからの友達だ。一度飲み会を開いたときに、私の友人たちよりもずっと声が大きかった彼等の事はよく覚えている。
「瞳も一緒に行くよな? 再来週の日曜に、山梨の渓流沿いのコテージでやろうって言われているんだけど」
日曜日、と思わず心の中で呟いた。もし耕史君だけで行ってくれたら、初めて昼間に浅野さんと出かけられたりするのだろうか――。
だけどそんな妄想はすぐに打ち消して
「うん。行く。なにか持って行くものあるかな」
と訊き返すと、耕史君は、いい肉買って食べ比べしようよ、と朗らかに提案した。
「いいわねえ、若い人たちは。私も足腰が悪くなる前にアウトドアなんてしてみたいわよ」
と耕史君とお母さんが笑った。
「まだ五十代なんだから、無理しなかったら今からだって出来るよ」
「だけど今、五十代で亡くなる人が多いのよ。まわりなんかも。たいてい癌で」
私は眉根を寄せて相槌を打ち、そういえばうちの叔父もそうでした、と言った。
「そうだったわよね、ちょっと早すぎるわよねえ」
今年の春先だった。喪服だけでは肌寒く、だけどクローゼットには白いコートしかなかったので、なにも羽織らず郊外の葬儀場へと向かった。
駅前は閑散としていて、バスはなかなかやって来ず、母と一緒にふるえながら面倒だと言い合った。
「耕史君も仕事を休んで出席したいって言っていたんだけど」
と言ったら、母はあっさりと
「来てもらっても、気を遣わせるだけだし、来られなくてよかったじゃない? 」
と返した。そうだよねえ、と私は呟いた。
葬儀は私一人でいいと告げたとき、耕史君は信じられないという顔をした。
「だって叔父さんだろう。それって血縁者の中でも、けっこう近い関係じゃない。普通は俺も行くもんじゃないの」
まるで叔父の弁護士のごとく主張した彼に、私は困惑した。
遺伝なのか環境なのかは分からないが、自分の親族が全体的に情が薄いことには昔から気付いていた。そして、耕史君がまったく逆の人だということも。
一方で、さすがに私の身内のことに彼がそこまで口を挟むことは想像していなかった。
「でもまだ結婚前だし。それで叔父さんってちょっと変わった人で、そのうえ昔から病気があったりして、正直まわりも苦労していたし」
「そんな気の毒な人なら、それこそ最後くらい皆で送ってあげるべきだと思うけどな。本人もそのほうが成仏できるよ」
成仏、と私は上の空で呟いた。結局、仕事を理由に遠慮してもらった。
葬儀場では、みんなでビールを飲みながら叔父のことは悪く言った。居心地が悪かったのでビールをたくさん飲んだ。帰り際に祖母と母が口をそろえて言った。
「耕史さんを大事にしなさいよ。今時、珍しいくらい男らしいタイプだし、結局、そういう人が瞳には合っているのよ」
そのときだけ明るい同意の声が上がった。私だけが笑わなかった。耕史君が男らしいことに異論はない。だけど、私に合っているってなんだろう。とは疑問を抱いた。大人になった私は、母たちの知っている私と本当に同じなのだろうか。
言いたいことを酔いと共に飲み込むと、猛烈なだるさだけが体を覆った。
夜になって戻ると、テレビを見ながら卵かけご飯を食べていた耕史君が顔を上げて
「もしかして飲んできたの?」
と驚いたように訊いてきたので、瞬時に酔いが覚めた。
「びっくりした。てっきり、しんみりして帰ってくると思っていたから」
この人にとってお酒は楽しいことでしかないのだ、と悟った。
アクアパッツァは少し鱗がじゃりっとしたけれど、美味しかった。スープの残った鍋を台所に下げた。鱗の不快など言うほどのことじゃない、と考えながら。
耕史君のお母さんは歌舞伎が始まる二時間前に帰って行った。観劇仲間と待ち合わせをして銀座で買い物するらしい。
玄関で見送った後、耕史君が感心したように
「おふくろって昔からどこ行っても友達が多いんだよなあ」
と言ったので、耕史君もそうだよ、と私は言った。
「そうでもないよ。大勢でなんとなくわいわい集まるのが好きなだけでさ」
居間に戻ると、魚の臭いが残っていることに気づいて、ベランダの窓を開けた。
向かいの家の庭には秋の花がたくさん咲いていて、その真ん中に老人が立っていた。日が暮れると金魚もよく見えない。
手すりを摑んで見下ろしていると、空を仰ぎ見た老人と目が合った。
私は会釈して室内に引っ込んでから、耕史君に
「お向かいの家がね、水槽にいっぱい金魚を飼ってて、世話とか大変じゃないのかな、ていつも思ってて」
と説明した。
途端に彼は眉根を寄せた。
「向かいってあの古い家だよな、俺も見た事があるよ。あんな汚い水槽に生き物を押し込めて可哀想だよ。どうしてああいう人ほど面倒見られないって分かってるのに繫殖させるんだろうな」
物珍しげに観察していた自分が叱られた気がして、私は黙った。
夕飯は、残ったアクアパッツァのスープで雑炊にした。
午後の陰り始めた寝室でシーツを掛け直していたら、突然、薬が切れたように浅野さんの体が恋しくなった。
いつだったか、浅野さんが言っていた。
「出会った翌朝に瞳さんから返信があったの、じつは、すごく嬉しかったです」
遮光カーテンの隙間から細く差す光は、よその視線のようで、なぜか泣けてきた。
今までだって男の人を好きになったことはある。耕史君を初めて紹介されたときだって、かっこいいし素敵だな、と思った。
それでもごく真っ当に段階を踏んできたし、逸脱やスキンシップまで手に入れたいと思った事はなかった。どうしても浅野さんにだけ私が私でなくなってしまうのか、自分でも説明がつかなかった。
だけど。
月が好きだと送信して、二週間、浅野さんからの連絡が途絶えていた。
間違えた、と思うには、そもそも最初から正しい事など一つもなかったのだ。案外、合コンで可愛い子と出会ってさくっと付き合い始めたのかもしれない、と想像だけで納得しようとしても、そのたびに全身が太い一本の神経になったように等しく頭テッペンからつま先まで痛んだ。
平日の日中は穏やかすぎて、誰からのメールも届かない。ゆっくりと死んでいくような時間帯だと思うようになったのは仕事を辞めてからだった。
耕史君が帰ってきたとき、私はベランダで慣れない煙草を吸っていた。コンビニで、覚えたての子供のような気分で購入した一ミリのピアニッシモを。
三回吸って吐き出したけれど、喉がじゃりじゃりと痛んだ。
鍵を開ける音が足元から響いて来たので、慌てて消した。
室内に戻ると同時に、耕史君がやって来た。かおえりと笑顔で出迎える。ただいま、と近づいてきた彼が表情を強張らせた。
「どうしたの?」
と先回りして尋ねると、いや、と彼は声を硬くしたまま着替えに行ってしまった。
なんとなく気まずい空気のなかで夕食を取っていたら
「誰かと会っていた?」
といきなり張り詰めた声で訊かれたので、私もびっくりして、会っていないよ、と答えた。会えるものなら会いたいよ。そんな言葉を飲み込むと同時に
「噓。だってさっき瞳から煙草の臭いしたじゃん。今時、煙草の臭いなんて外で簡単につくものじゃないだろう」
と言われたので、むしろ内心ほっとして
「ごめん、吸ってたの」
と正直に答えたら、今度は彼がびっくりしたようだった。
「え、瞳って煙草吸うの?」
「ううん。大学生のときに、ちょっと興味本位で吸って以来。でもやっぱり向いてないみたい」
次の瞬間、耕史君が居間をぐるりと見廻しながら
「ねえ、換気した?」
と訊いた。お茶を淹れかけた手が思わず止まる。
「うん、したよ」
「ならいいけど。歯磨きとかちゃんとしたほうがいいよ」
反射的に噴き出しそうになって、だけどそれは泣きたい感情に近かったかもしれない。
はは、と小声で笑うと、耕史君が不思議そうな顔をしてから、思い出したように言った。
「そういえば来週に出張入ったよ。名古屋まで行ってくる」
「そう。日帰りで?」
「今回は接待飲みもあるから一泊。もし地方のキャバクラとか連れていかれたら、ごめん。支社の人たちさ、俺達をダシにして自分たちが行きたいんだよ。べつに俺は全然好きじゃないんだけど」
私は頷いた。たしかに心配はいらないだろう。この人はそういうものが好きじゃないことに価値を置いているから。
「あっ、本当に心配しなくいいからさ。ちゃんと連絡入れるし」
そしてそれを私のためだと信じている。
「いいよ。雰囲気壊すといけないし。メールとかだけで」
瞳って優しいよなあ、と笑う耕史を見つめながら、私は何をしてるんだろう、と混乱した。引っ越しや挙式のために働いていたときの貯金もほとんど取り崩したとか、数ヶ月後には皆の前で永遠を誓うこととか、親族との関係とか老後とか、愛情があるからこそ意味を持っていたはずじゃなかったのか。
耕史君が眠った後、居間の棚にある卒業アルバムを引っ張り出した。引っ越してきたときに耕史君が見たいと言って出して、そのまま置いてたものだった。
地味にひどい写真だから嫌だと前置きしておいたけど、耕史君はページを開くと同時に
「うわ、幼い。なんて、可愛いじゃん」
と無邪気に誉めたので、少しびっくりした。
あの頃は美術室くらいしか居場所がなくて、クラブで人気のある男の子たちからは名前すらろくに覚えられなかった。社会に出て合コンや飲み会に参加するたびにそのことがよぎって。自信のなさから気を遣って大人しくしていたら
「ひとみちゃんって優しいね」
「家庭的で癒されるよ」
と言われるようになって不思議な気持ちを覚えた。教室の中で出会っていたら、三年間口を利かないような男の人から誉められるようになったことに。
だけど私だけが「優しくて家庭的で癒される自分」のことが分からない。きっとそんな自分には申し分のない生活を手に入れてしまった後も。
間違ってはいないという多数決だけで日々を送り続ける。
いつもよりも荷物の詰まったビジネスバッグ片手に
「じゃあ、行ってくるから」
と告げる耕史君を、朝日の中に送り出した。
居間のカーペットに掃除機を掛けたとき、長い影が足元に差した。
顔を上げると、ベランダにいた鳩の影だった。私の視線に気付くと、驚いたように飛び立った。
床にしゃがみ込んでいた。膝を抱えて、途方に暮れた子供のように。
送ったメールには、自分でも嫌になるほどぎりぎりな気配が滲んでいた。それでも数分後に返信が来た。とっさに片手をつく。
『今日、了解です。ちょうど昨日出張から戻ってきて、いいタイミングでした。いつものバス停に八時くらいでもいい?』
あまりにほっとしすぎて、何だかもうあわなくていい気さえした。出張という単語に奇妙な偶然を感じつつ、涙の滲む目で画面を見つめて返事をした。
『大丈夫です。出張だったんですね。疲れていませんか?』
たった数分の待ち時間さえも永遠のように錯覚しかけたとき、返事が届いた。
『うん。ただいま。』
反射的に打ち返していた。
『おかえりなさい。』
脇のスマートフォンを置いた。
寝室に入って、椅子を引き、机に向かう。
この数週間ずっと手掛けていた、今に切れそうに細く繋がった切り絵の隅をそっと指でつまんで持ち上げる。
雪の中で遊ぶ子供たちが立ち上がる。クリスマスツリーやトナカイはまだこれからだ。今年のクリスマスに向けて、今まで一番細かなデザインにした。それくらいしなければ、とてもじゃないけど、日常をやり過ごす事などできない。
クリスマスまで続いているかも分からない相手の為に、真夜中にこっそり婚約破棄の慰謝料とか一人暮らしに戻るための引っ越し費用について調べていたこなど、どうして打ち明けることができるだろう。
色鮮やかな断片をそっとかき集めて、ゴミ箱に棄てた。馬鹿な考えごとと手放すように。
陽が落ちるのが随分早くなった。と暮れた街を眺めた。青い夜空には月が薄く透けている。
もういいかげん他人に戻っているかと思ったけど、スーツを着た人影が近付いてきて
「瞳さん。ごめんな、待たせて」
と声を掛けられた瞬間、自分でも動揺するほどの懐かしさが滲んで、とっさに笑顔すら作られなかった。首筋は最後に会った時よりも日に焼けていた。
当たり前のように歩き出して、近くのホルモン焼き屋に入った。
横並びになって、煙るテーブルの上の七輪でハラミやホルモンを焼いた。
焦げかけたネギをひっくり返しているだけで嬉しかった。やっぱり味は良く分からなくて、かたい、とか、しょっぱい、とか、半生、みたいな最低限の情報以外は脳のぜんぶが浅野さんに向かう。
「じつは、もう会えないと思っていた」
と浅野さんから言い出したので、なにを言っているのかと耳を疑った。
「一度、瞳さんにメールを送ったら、跳ね返ってきたから」
え、と訊き返す。箸を持ったまま記憶をたぐったものの、心当たりはなかった。
「ああ、これでもう連絡取れないやつだと思って。電話しようかとも思ったけど、今まで気を遣って無理につき合ってくれたなら悪いな、と思って」
そんなこと、と言いかけた言葉を飲み込む。胸が熱いのか瞼が熱いのか定かじゃなくなり、泣きそうになって笑いながら首を横に振った。
「全然。原因は分からないけど、こっちも連絡ないと思ってたから心配でした。むしろ浅野さんがもう会う気がないんだなと思ってた」
と本音を口にすると、浅野さんもほっとしたように笑った。
「なんだ。同じように気を遣って擦れ違っただけか。じゃあ、明日からまた普通に送るよ」
繁華街から仰ぎ見る夜空は中途半端に青かった。薄い月は割れたようにいびつに欠けていた。
いつものホテルが自宅のように感じられるほど、私も浅野さんも無防備に服を脱いだ。
体が痙攣するたびに腰が離れそうになるので、浅野さんはいっそう深くしてきて、私はその肩に顔を埋めて、薄茶色い日焼けの沈着を網膜に焼き付けながら、どうしてこの瞬間に隕石衝突とか地球爆発が起きないんだろうと思った。
こんなに好きな人とセックスなんてしたら、地球が真っ二つに割れるくらいじゃないと到底取れないじゃないか。採算とか、バランスとか、代償とか、そういう全部が。
目を開けると、浅野さんが真っ直ぐに見下ろしていた、いつも顔を伏せていることが多いので、びっくりして呼吸が止まりかけた。瞳さん、と囁く声がした。
「もう会えなくても良かったの?」
えっと驚いて訊き返すと、腰の動きが強くなってとっさに奥歯を嚙む。無言で首を横に振ると、また同じ事を訊かれた。
「よくない」
会いたかったと絞り出すように告げるとキスされた。それでも浅野さんからの言葉はなかった。
シャワーを浴びてバスローブを着て浴室から出ると、きちんと中心線のところで折られたズボンがハンガーに掛かっていた。
ベッドに寝転がった浅野さんは上半身裸で寝息を立てていた。テレビがつけっ放しになっている。夜十時台のニュースはシリアスな話題ばかりだ。
痩せているわりには胸筋がちゃんとあるなあ、と余韻に浸りながら、となりに滑り込む。
彼が薄めを開けたので、起こしちゃった? と私が焦って尋ねると、笑ったまま抱き寄せられた。
厚い胸に顔を埋めると、ちっとも落ち着かなかった。緊張と気遣いで萎縮してリラックスできない。
軽く離れると、ほっとして、またすぐに心地悪い腕の中が恋しくなった。
「人と一緒に眠るの、慣れていないから難しいな」
と彼が冗談めかしたので、私は思い切って
「浅野さんって前はどんな人と付き合ってたの?」
と訊いてみた。途端に、彼は大げさに噴出した。そしてすべてを受け流すように
「もしかしたら、今まで本当の意味で付き合ったといえる相手はいなかったかもしれないです」
と呟いた。
だから私なの? と続けざまに聞きそうになって飲み込む。
彼が話題をかえるように
「ねえ、瞳さんのこと語って。俺の事はいいから」
と言った。真似するように、ねえ、という問いかけが心のうちだけ響く。
浅野さんは本気でだれかを好きになったことはある?
私のことをどう思っているの?
彼が寝てしまうと、私は起き上がってバスローブを床に落とした。散らかっていた下着や服をかき集めて身に着ける。浅野さんの膨らんだ鞄がソファーの上に置かれていた。
江梨子は、なにかが足りないからこそ、遊びだからこそ選ぶ相手だと言った。
それなら最初からすべてが欲しくて好きになってしまう人をどうすればいい。
もう一度、ベッドに歩み寄ると。浅野さんは目を閉じたまま笑って、抱きついてくる。キスすると、唇が触れた瞬間にもう一度したくなり、くり返した。
短く息をつくと、浅野さんが大きな目を開いて当たり前のように
「そろそろ帰る時間?」
「ううん。やっぱり今日はゆっくりしていく」
と私は再び薄手のニットを脱ぎながら宣言していた。浅野さんはひるんだり、はしなかった。低い位置から脇腹にキスされて、呼吸が乱れる。浅野さんがふいに笑った。嬉しそうに、無邪気な少年のように。
触れ合う事が楽しくて仕方ないというふうに入って来た彼を見上げると、瞳さん、真顔で呼びかけられて、なに、と訊き返した。
「いろんなことを、助けてもらった気がする。瞳さんに」
刹那、瞼の裏が破裂したように真っ白になった。
ごまかすようにしがみ付いて鎖骨に顔を埋めた。水槽の中で酸素を送り続けられる金魚のようだ、と思った。逃げ場がなくて偽物の空気を吸ってはぐるぐると家とホテルを回遊し続ける。
浅野さんと初めて二回した。そして二人で抱き合ったまま、気を失ったように眠りについた。
初めて彼に出会った晩から、私は私じゃなくなった。
もうじき結婚する身なのに、初対面で泊まろうと持ち掛けて来るような男性と番号交換なんてどうかしていると思った。何度も怖気づいて消しかけた。
会う約束の日は緊張しすぎて、浅野さんの仕事が終わるまで、早い時間から開いているバルでひたすらワインを飲んだ。ふるえる足元から酔いが逃げていくようだった。
あとは断片的にしか覚えていなかった。
球場のようなライトに照らされたビアガーデンの賑やかさ。ガタつく白いテーブルセット。二十日間のあいだに伸びた前髪からのぞく懐こい瞳。痩せていると思っていた肩にはちゃんと男性的な厚みがあった。持ち上げるたびにジョッキから滴る水滴。
冗談の合間に、このあと部屋に遊びに行ってもいいですか?とそのときだけ慎重に訊かれて、無理、と即答したこと。
感染したように寒気と火照りの止まらぬ体を抱えて
「だから泊まれる場所に行きたい」
と告げたときの私は、いったいどんな顔をしていたのだろう。
ホテルのバスルームの壁に、とっさに両手を突いた音は殴ったように強く響いた。
背後から抱きしめられて、このまま入れたい、と言われた。だめだめと断ったけれど無視して入って来た。快感は許容量を超え、脳が何度も破裂したような錯覚をおぼえた。
「分かった、家に男がいるな」
ベッドでもつれ合っている最中に、突然、問われた。
仰向けで見上げると、彼は先回りするように
「なんとなく、分かります。そういうこともあるって」
と柔らかく言って、それ以上訊かなかった。
あのときの彼が安堵したのか、少しはがっかりしたのかを確かめる勇気はなかった。繋がった瞬間からどん詰まりにいる私は、突然終わる日が来るまで、浅野さんと戯れる事しかできない。その関係を、私たち、とくくることすらできない。でも本当は誰もが他人で、どうやったって、くくることなんてできないはずなのに。
そんな私の全てを、浅野さんが知ることはない。
きっと遠くない、別れの日まで。
初めて二人でホテルを出て、朝の空気を吸った。
昨晩と同じ格好なのに、まっすぐに歩く浅野さんはクリーニングから取って来たばかりのスーツを着ているみたいに見えた。
「なんか新鮮です」
彼が真顔で呟いた。少し距離を取っているのもあって、出勤前にばったり会った上司と部下のようだった。
繫華街の路上に白いものが散らばっていた。気を取られて、目を凝らす。夜の仕事を終えた黒服の男たちが欠伸をしながら、店の前を片付けている。
風が吹くと、足元まで押し寄せて来たのは花びらだった。リボンが解かれていない真っ白な薔薇の花束が道の隅に打ち捨てられていた。
「こういうの、きっと忘れないんだろうと思う」
と私は浅野さんに思わず言った。
「朝帰りして、薔薇の花が散った道を一緒に歩いたこと」
浅野さんは一言だけ
「きっとそうですね」
と頷いても返した。
それから黙って、また歩き出した。ちゃんと私の歩調に合わせてくれながら。
森の中のテラスは、すぐに焼けた匂いでいっぱいになった。
トングで次々に肉や野菜をひっくり返しては、紙皿に盛り、流れ作業のように手渡していく。私も割り箸を配り、合間にたくさんのビールを飲んだ。耕史の友達はみんな食べるよりも飲むよりも、お喋りに夢中だった。
中心でとくに盛り上がっているのは、私じゃない方のひとみちゃんだった。
ほとんど年齢はかわらないのに、薄手のタイツの上にショートパンツを穿いて、むちりとした太腿を惜しげもなくさらしている。同性から見れば強気すぎるほど狙ったような格好に、ワンレンのボブなんていう美人しか似合わない髪型で、次々と男性たちに肉を焼いて配っている。ビールを注ぐタイミングも的確で、何一つ太刀打ちできない外見と気遣いを遠目から見ていると
「山瀬は昔から起業する男だと思ってたんだよ」
耕史君が感慨深そうに言った。
「高一のときの自己紹介って覚えている? 山瀬君の将来の夢、すごかったよね」
美人のほうのひとみちゃんが笑って、耕史君の肩を叩いた。
「なんだっけ?」
「デイトレーダ―」
「それ絶対に意味わかってないだろう。あいつ」
と言い合う彼らは学生のままのようで、そのうちサッカーでしようとなど言いだしかねないと思った。
話が一区切りつくと、耕史君が嬉しそうに近づいてきて囁いた。
「学生時代からの友達の中に瞳が交ざってるって、すごく新鮮で、俺、なんか嬉しいよ」
ありがとう、と答えながら、学生時代、と心の中で思った。行事やイベントはすべて派手なグループの子たちのものだったことを。
なにと誰と集中していいか分からず、肉も会話もお酒も味もすべて陽射しに溶けていく。
ちらりと美人のひとみちゃんを横目で見た、彼女のご機嫌で昔流行ったアイドルグループの歌を口ずさんでいて、そのときだけは同世代だという実感が湧いた。
もちょっとましな顔なら
もちょっと本気で私、愛してくれたの
強烈な歌詞を飲み込むと、気持ちが溢れそうになった瞬間、耕史君の友達がとんでもないことを言った。
「ひとみー、なに懐かしんでんだよ。もしかして耕史を好きだったことを思い出した?」
どっと笑い声が上がって、ひとみちゃんと耕史君だけが一瞬動揺したように視線をさ迷わせた。私は呆然ととして、耕史君の服の袖を引っ張った。
彼はその場からさりげなく離れると、違うんだよ、と否定した。
「高校のときに冗談で、告白みたいなことがあっただけで、今みたいにまわりがふざけて悪乗りしただけ。昔の話だよ」
私は、そうなの、とだけ告げた。それから手を離し、テラスの隅に置いてあるバッグまで近付いていった。
スマートフォンを見て、すぐにしまった。
散歩のふりしてテラスの階段を下り、草花の繫る小道をゆっくりと歩く。遠ざかる耕史君たちの笑い声を聞きながら、叫んでしまいたい、と思った。
今すぐ会いたい。触りたい。話したい。声を聞きたい。私どう思っていますか。永遠に訊けない質問だけが空転し続ける。耕史君を責めることが出来ない。たとえ私と同じ名前で、自分のことが好きだった美女と私を平気で同じ場に居させて楽しめる人でも。
あのとき浅野さんが最初に江梨子ではなく。私に声をかけてくれたならどんなに良かっただろう。怖かったのだと気付く。体以上の関係になんてなれないと思った。
だから。
耕史君が呼んでいる声がする。誰かが本当にサッカーするぞと言い出して、ばたばたと階段を降りる音も。
都会よりも遥かに大きく蝶が足元から飛び立ち、蒸れた土の気配を感じながら、浅野さんとセックスした罰は、誰にも寂しいと言えない事だと悟った。
たれかが蹴ったボールが転がって来て、私は作り笑顔をかえしながら、生まれて初めて触れるサッカーボールを蹴飛ばした。
俺だけが知らない
雑談にまみれているうちに酔いがまわってくると、胃の奥がかすかに傷んだ。
深く息を吸うために視線をあげる。壁に貼られた手書きのメニューが霞んでいた。どうやら今夜は飲み過ぎたと気付く。
山崎のつるんとした手からメニューを受け取り、一通り選ぶふりをしてから
「だいぶ飲んだから、そろそろ行こうか。女の子にでも声をかけよ」
と告げると、入社三年目の山崎は覇気のある声で、はいっ、と笑顔を見せて。
チェーン店の居酒屋を出ると、大通りはだいぶ人が減っていた。火曜日の夜では無理もない。この狭い街で、繫華街らしい通りは限られている。
若い子たちが集まるHUBに寄り、ビールジョッキ片手に山崎と店内を見回した。
「あの子たち、いけそうじゃないですか」
見るからに会社帰りのトレンチコートを羽織った二人組を指して、山崎は耳打ちした。どちらも肩までの黒髪で、容姿はそこそこだった。自分より年下だが、山崎よりは年上、二十代後半といったところか。
人の良さそうな眉を持ち上げて期待を隠そうともしない山崎をちらりっと窺う。
取引先のお偉いさんのウケは抜群にいい山崎だが、女の子にはまったくモテないですとしょっちゅう嘆いている。
声を掛けると、彼女たちはくすくすと笑いながらも、それなりに話に付き合ってくれた。ビールを奢って、いぇい、と適当な声を発して気を配っているうちに、自分がどこにいるのか分からなくなってくる。
また胃が痛んできてカウンターに肘をつくと、女の子が口説かれると誤解したのか、なんですかあ、と冗談めかして訊いた。なにか気の利いたことを言おうとして、ふいにカウンターの上の花が目に入った。
――足、すごい冷えている。忙しいだろうけど体に気をつけて。
数週間前の深夜、シーツの上に放り出した俺の踵に触れて、瞳さんがそう言った。
なにも答えずに、足を擦る手の体温を感じていた。彼女がどんな顔をしていたのかは思い出せない。翌朝にホテルから出たとき、道端に散らばっていた花が何色だったかも。
仕事以外では、いつも大体の輪郭が滲んでいる。自分の輪郭さえも、そこにあるのだか分からなくなる。
終電を気にしたのか、女の子たちが突然、そろそろ帰ります。と言い出した。一応連絡先を尋ねたものの、彼女たちは曖昧に笑いながら首を傾げただけだった。
二人組が去っていってしまったので、カウンターテーブルに肘をついて
「帰るか」
と山崎に声を掛けると、一瞬だけ迷ったように黙ってから、がばっと顔を上げて
「俺、送って行きます!」
と果敢に店の外へと飛び出していったのを、俺は笑いを堪えながら見送った。
瞳さんに初めて会ったのは、山崎が腹痛を起こして先に帰ってしまった雨の夜だった。なんとなく宙ぶらりんな気分になり、迷った末に一人でHUBに寄った。
警戒されないように二人組に声を掛けた。純粋に暇つぶしのつもりだった。片方は饒舌で美人だった。もう一人もそこまで悪くないが、気を遣って付き合っているだけで奥手そうに見えた。
だけど美人が急に慌ただしく帰ってしまうと、テーブルの下でなんの迷いもなく俺の手を握って来たのは奥手の方だった。
自覚的ともいえる色気が滲む眼差しを向けられて
「まだ飲みますか?」
と訊かれた。いける、と思ったら、やる気が出た。それですぐに頷いた。
ビールのお代わりを頼むついでに名前を尋ねたら、瞳です、と答えた。おそらく年下だろう思ったが、年齢を訊くのも失礼なので、瞳さんお酒強いな、と言ってみた。
「酔っていますよ」
と笑った口調は鮮明で、だけどその晩は結局キス一つさせてくれなかった。
だから次に会ったとき、向こうからホテルに誘われたのは意外だった。面食らいながらも、気が変わらないうちに手をつないで路地へと向かった。胸は小さかったが、肌は綺麗だった。
出会ったばかりのわりには肌が合うので楽しくなって、最後に暗い浴室で熱い湯を浴びながら後ろからするときに「つけないと」と遮るのを押し切ってしまった。
ずっと、着けないでやってみたいと思っていた。その願望には奇妙な執着があった。でも正体を突き詰めたことはない。
瞳さんの尻に射精すると、急に酔いが戻ってきて朦朧としかけたけど、なけなしの余力でシャワーヘッドを摑んで彼女の体を洗い流した。
湯気の立ち込めた闇の中で、あったかい、と呟く声がして、声が綺麗な人だったんだな、と思った。
俺だけがベッドに倒れ込んだとき、彼女が素早くバッグに駆けていってメールをチェツクした。それで、なんとなく察して、彼女がベッドに戻ってきたときに質問してみた。半ば肯定したような沈黙だけが返ってきた。さすがに結婚はしていないだろうが、同棲相手はいるようだった。そう考えると謎めいた言動の辻褄もあった。
男がいる女の人とこんなことをしたのって初めてだな、とぼんやり考えながら、いつしか眠り込んでいた。
朝になると瞳さんは消えていて、俺の服だけがハンガーに掛かっていた。
エスカレーターを上がった新幹線のホームは、珍しく人の列が乱れていた。
山崎が律儀に一番後ろまで歩いて来たので、おまええらいな、と誉めると
「俺、当たり前のように割り込みする奴とか本当に嫌なんですよ。どうしてそんなことできるんだろうって不思議なんですよね」
と言われたので、割り込み、と心の中で呟く。
「浅野さん、もしかして昨日と同じワイシャツですか?」
と山崎が嬉しそうに訊いた。まさか男に気づかれるとは思ってもいなかったので、反射的に、あ、おう、と素直に頷いてしまった。
「昨日は処理終わらなくて、終電逃して近くのカプセルホテルに泊まったんだよ」
「えー、本当ですか? 浅野さん、モテるからなあ」
「本当にモテたら、結婚してるよ。この前、追いかけて行った子どうした?」
「いやー、なんかこの前飲みにいったら、取引先のSEが好きとかで、男の意見を聞かせてくれとか言われてマジでへこみました。彼女が欲しいですよー」
彼女か、と呟きながら、ドアの開いた新幹線へと乗り込む。
弁当の袋を鳴らしながら指定席にたどり着き、山崎と横並びで座ってから、ようやく足を伸ばした。最近のカプセルホテルはそこそこ快適になったものの、やはりどこか眠りは浅い。
発車ギリギリになってから、大学生らしきカップルが乗って来て、通路の反対側の席に滑り込んだ。山崎がちらりと視線を向ける。冗談みたいに可愛い女の子だった。
生き生きした表情で彼氏に喋りかけている。
たとえば、ああいう子が目の前に現れて
「浅野さん、今夜ご飯行きません?」
と誘ってきたなら話は別だが、今はそれなりに充足しているからか、欲望が一段落しているようにも感じた。
もともと結婚願望が異様に薄い。それなら山崎みたいな部下を育てるほうが有意義な人生だという気がしてしまう。
「浅野さんって、会社の人たちが家族ですね」
と指摘したのも瞳さんだった。最後に会ったのはいつだったか。
給料前は誘うのはキツいので、月の中旬から終わりにかけては間が空く。だけど文句は言われたこともなく、連絡するといつも落ち着いていて優しいので、ほかに男のいる女の人ってこんなに安定してるのか、と最初は驚いたものの、正直、楽だった。
案外ほかにまだ男がいるのかも知れない、あの人意外とエロいしなあ、などと考えていたら
「浅野さん、弁当の箱捨ててきますよ」
と山崎が言い、礼を告げるよりも先に車両を出て行った。
視線を向けると、窓の外は田園風景だった。隣のカップルに刺激されたものもあって人肌が恋しくなり、出張帰りに今度はちゃんと土産でも買ってから瞳さんに連絡してみよう、と思った。
まだ火の付いていない網を見下ろして、珍しく遅れているな、と俺がメニュー片手に考えていたら
「ごめんなさい、遅くなって」
と息を切らした瞳さんがテーブルの脇に立った。おつかれ、と笑って、座るように勧める。
向かい合った彼女に、視線を溜める。
「あ、もしかして寝不足?」
と思わず訊くと、瞳さんはびっくりしたように、えっ、と声をあげた。
「ごめん、気のせいでしたか」
「あ、ううん、ちょっと昨晩遅くまで起きてて。気付かれるとは思っていなかったから、びっくりした」
瞳さんは本気で戸惑ったように顔を赤くした。とっさに冗談めかして
「そんなにびっくりされたら、俺がいつも全然見ていないように思えるよ。瞳さん」
と返すと、彼女はメニューから顔を上げて、ううん、と首を横に振った。
「浅野さんは言葉にはしなくても、ちゃんと見ている人だと思う」
不意を突かれて、今度こそ返答に詰まった。
「そう、かな」
「うん。あ、ビールにしますか? 私は、レモンサワーにしようかな」
じゃあ俺も、と便乗して注文する。たっぷりと飲み口に塩が付いたジョッキで乾杯した。とっくに夏が終わった胃にレモンサワーは少し冷たかった。
外の通りはもう紅葉しかけているのに、海の家みたいな店内で蛤やらイカやらを網で焼くのは、ちぐはぐだけど面白かった。蛤が汁を噴き出してふるえ始めると、瞳さんは素早くトングを手にした。
「前に話してた仕事は落ち着きました?」
蛤をひっくり返しながら訊かれて、誰に決定権を持たせるかで揉めていて上手く行かない話をした。
瞳さんは真面目な顔で聞いていた。今夜は何をしようかな、と考えたら酔いが回って気持ちよくなってきた。
今夜は朝までいられるという彼女と、風呂場やベッドでいちゃいちゃしては休憩して、ちょっと話してふざけてまた抱き合った。
果てて明かりを消す頃には、夜が明ける時間が近づいた。
明日は土曜日でよかった、と思いながら、なぜか隙間を空けて寝ようとする瞳さんを抱き寄せる。
「瞳さん、冷たい」
とふざけて非難してみせると、ちょっとだけ笑われた。
「浅野さんが眠りにくいかと思って」
と言われながら遠慮がちに手をつながれて、不思議な気持ちになって天井を仰ぎ見る。
正直、夏前に声を掛けたときにはこんなに続くと思っていなかった。遊びの場で知り合った女の人なんて、こっちの話は九割以上聞いていなかったりする。最初は普通の女の人だと思っていたけど、瞳さんみたいな人はいそうではない。
たぶん、人並みぐらいには気に入られるのだろう。かといって付き合ってほしいとか遊びなのか詰め寄られたこともないので、本気とまではいかない程度なのだろと理解していた。実際、外見が好きだからと言って近付いてくる女の子には、「会ってるときは楽しいけど、でも、なにかが足りない」と言われることも多い。
だから、きっとこの人も、時々、自分と会う事で刺激を得られるくらいがいいのだろう。
早朝の繫華街は白く靄がかかって、あまり清々しくなかった。あくびを堪えながら。瞳さんを送ってバス停まで歩いた。空気を吸い込むと、喉の奥までひんやりとした。
「次は多分もっと寒くなるから、昨日話したモツ鍋屋に行きましょうか?」
と確認するように訊くと、瞳さんは迷いのない声で、うん、と答えた。
駅に向かう途中、ようやく大きな欠伸をした。瞳さんも今頃同じようにしてるのかもしれないな、と考えながら。
昼が来ると、新しいプロジェクトチームのメンバーと近くのビルのカレー屋に行った。
スプーンですくいかけたとき、ふいに一人が
「そういえば冴島(さえじま)さん、癌だったんだって」
と漏らした。男たちがそろって眉根を寄せて神妙な顔をして。短く息を吐き。マジか、と呟く。
「こんなことを言ったら、本当にあれだけどさあ、仕事できる人ほど倒れるって、やり切れないよな」
ぎゅっと目をつむったまま言い切った相手の顔を、俺は一瞬だけ強く見た。
「浅野さんはなにか引っ掛からなかったんですか? 健康診断」
と山崎が心配そうに訊いたので、可愛いやつだな、と思いつつ答える。
「肝臓の数値だけがちょっと上がってたから注意受けたくらいで。それも平常の範囲内だし。問題はないよ」
「そうですか。よかった」
「浅野は、本当にそろそろ結婚でも考えようよ。やっぱり違うよ。体のことを考えてくれる相手がいると」
そう忠告してきたのは、三年前にデキ婚した同期だった。俺が役職についてからは仕事の話をすることはほとんどなくなり、代わりにむこうの家庭の話ばかり聞かされている。
「そりゃあ、小林みたいに家庭的な奥さんがいれば別だけどな」
家庭の幸せとやらを羨むのが自分の役目だということは分かっている。だけど実際はちっとも眩しく感じられない。
自分を抑制して仕事より家庭が大事と言い張る同世代の姿は、どこか吸い殻のようだった。
「冴島さんもずっと一人だったからなあ。付き合いはいい人だったけど、だいぶ無理してたよ」
と呟く同期を眺めながら、半分ほどカレーを食べすすめたときにスマホが鳴った。
嫌な予感がしつつも、無視するわけにもいかず混雑した店内を抜けて、扉の外に出た。濃く湿った匂いが鼻を塞ぎ、冷気が首から滑り込んでくる。
見上げると、ビルは真ん中が空まで吹き抜けになっていて、目の前に滝のような雨が降っていた。霞んだ景色の中に、嫌になるほど聞き慣れた声だけが響く。
「悪いわね! 仕事中に」
ちっともそんなふうに思っていないように聞こえたものの、気の遣われたからには否定しなければならず
「いや、大丈夫。どうした」
と返した。
「あの子、昨日、救急車で運ばれたのよっ」
なんで、と小声で訊き返すと、面接が嫌だったんじゃないの、と母は投げ出すように言った。
「だからね、仕事の帰りに病院に寄ってあげてくれない? 私、今日は残業で寄れないから。入院費だってまたかかるし、どうしたらいいのか分からない。もう、いっそ親子で心中でもしようかしら」
一瞬、心中、という単語に不安よりも煩わしさを覚えたことに、数秒遅れて罪悪感が押し寄せて
「そなこと言うなって」
と宥めると、あっさりと、冗談に決まっているでしょう、と返された。
「俺も藍(あい)の様子を見に行くから」
「そうしてやってよ。お兄ちゃんなんだから」
俺は兄であって二人の保護者じゃないよな? という一言はブラックホールにガムの包み紙を投げるようなものだと分かっているので口にしなかった。
電話を切るとどっと疲れが押し寄せた。雨に背を向けて扉を開ける。
ほかのやつらは食事を終えてコーヒーを飲んでいた。残りのカレーは食う気になれず、皿を下げてもらった。
ベッドにいた藍の肩の包帯は、そこまで大袈裟なものではなかったそのことに少しだけほっとしながら、持ってきた紙袋を見せる。
ぼうっとしていた藍は、表情を緊張させて俺の顔色を窺った。変に童顔で血の気のない顔は二十代半ばには見えない。
両親が離婚したとき、藍は父親について行くことを望んだが、父の愛人がそれを拒否した。
自分が家庭を壊したのに母親になれる自信はない。というのはまあ仕方ないし、俺としては正直な理由だと思っていたけれど、娘の選択に傷ついた母親と取り残された藍の仲まで険悪になった。
とにかく家を出たいと主張した藍は、結局、大阪の全寮制の私立高校に進学した。さすがに責任を感じたのか、入学金や学費はすべて父親が出した。
とはいえ慣れない土地で上手く行かないところもあったのか、途中からは、授業以外はほとんど寮の部屋に閉じこもっているような生活だったらしい。
そして大学には行かずに東京に戻ってからは、バイトしては辞めて、を繰り返している。
「適当にサイズを見て買った着替えと、漫画。ここでいいか?」
と俺はベッドの下に紙袋を置いた。
藍が小さく頷く。消灯間近の病室には俺の声だけが反響している。
「鎖骨、折ったって?」
「うん」
藍はうつむいたまま答えた。どういう暴れ方をすれば自分の鎖骨を折れるのか、俺には想像がつかなかった。
「どうした、面接に緊張したか?」
励ますために笑って訊くと、藍はかすかにふるえて泣き出した。違うのっ、と強い口調で訴えて首を横に振る。
「私、ちゃんと行くつもりで仕度してて、スーツだって買いに行くって言っていたのに、急にお母さんがそんなのいらないからお金なんて出さない、大体前日に買いに行くなんて就活を舐めている、社会に出てきちんと働けるわけないって言い出して‥‥私の部屋のタンスや押入れを開けて、喪服でもいいだろう、て言うから、それこそ非常識だって言ったら、また怒りだして。それで、私も嫌になって、たまたまひっり返した棚から‥‥昔、お兄ちゃんが筋トレにハマってたときの鉄アレイが落ちてきた」
まさかそれで俺にも非があるというつもりではないだろうが、母親が電話してきた理由はなんとなく察した。
「そうか」
「お母さん、年々キレやすくなっている。いいかげん、家を出たい」
「本当に、そうだよな。困ったときは俺の部屋に来ていいから」
わかったと頷く藍を宥めてから、また明後日くらい来ると告げて、通路を戻って裏口から出た。
人気のないターミナルを迂回してタクシー乗り場へと向かいながら、夏のボーナスいくら残ってたかな、と計算した。
ようやく自宅のアパートに戻ると、スーツをハンガーに掛け、台所に立ったままカップ麵を食って、顔だけ洗ってベッドに転がり込んだ。
月明かりの下、瞳さんはバス停のベンチに腰掛けていた。薄暗い中で文庫本を捲っていたので
「読めている?」
と後ろから声をかけると、本気でびっくりしたように息を詰まらせてから、恐る恐る振り返って
「浅野さん、すごい、びっくりした」
照れたように切れ長の目で笑った。気が緩むと同時に、いっぺんに蓋が開いて疲労が出てきた気がした。
「浅野さん、なに食べますか?」
上手く思考が回らず、なににしよ、と返しながらも目を擦る。胃は空っぽなのに食欲がわかない。循環しそこねて行き場をなくした血が下半身に溜まったように性欲だけが強くなっていた。
歩き出した瞳さんが通り沿いの小さな店のショーウィンドウへと視線を向けた。
てっきり服屋かなにかだと思ったら、子供用の店だった。窓に葉脈の透けた黄色と赤の紅葉の切り絵が飾られていて、それがあまりに精巧にできているので
「すげ。あれ、綺麗ですね。本物みたいで」
という感想を漏らしたら、彼女が動揺したように視線を逸らした。
十秒間くらい考えてから、まさか子供、と思いかけた時に
「あれ、じつは私が作ったんです。頼まれて」
と切り出したので、二重にびっくりした。
「え? そんな仕事してたの。瞳さん」
彼女は照れくさそうに小さく頷いた。もう一度店を振り返る。遠ざかった分、よけいに本物らしく見える紅葉の切り絵にすっかり感心して
「すごいな。他のも見てみたいですね」
と告げると、彼女は思い出したように、じつは今度個展に参加しないかって誘われていて、と打ち明けた。
「個展っ?」
「あ、でも私の単独じゃなくて、グループ展の一人として。場所が京都のギャラリーだからどうしようかと迷ってて。いつも取り次いでくれる人に作品を渡すだけだったから、搬入作業とかもよく分からないし」
「ちょっとそういうものはよく分からないけど、ああいうのがたくさん並ぶなら、観に来る人はすごく楽しいと思います」
そっか、と瞳さんは真顔で頷いた。なんだか初めて彼女の素の表情を見た気がした。他愛ない会話でますます気が緩んだせいか、残りの疲れがどっと出てきた。
「浅野さん、疲れている? やっぱり今日は帰りましょうか」
心配そうに立ち止まって顔をのぞき込む瞳さんに、迷いながらも、正直に打ち明けた。
「今日飯食わないで、ホテルに直行したら怒りますか?」
瞳さんはちょっと驚いたように黙ってけど、すぐに首を振って、怒らないです、と柔らかく言ったら。そうだ、俺は知っていた、と心の中で呟く。この人は怒らないことを。
「その代わりコンビニで飲む物とか買っていい?」
うん、と相槌を打ってコンビニの中へと吸い込まれる。カップ焼きそばやら缶酎ハイやら、大学生みたいな買い物を済ませてホテルに入った。
電気をつけずに風呂に一緒に入り、控えめに膨らんだ胸やほっそりとした太腿を撫でてから、すぐに入れた。もう濡れていた。立ったまま抱き合うと温かくてすぐにでも出そうになったのでちょっと入れては抜く、を繰り返していると
「最後まで、して」
と了解を得たので、こっちが風呂場の椅子に腰かけて上から乗ってもらう。遠慮がちに腰を落としてきた瞳さんの背中か引っ掛かるところはなく、胸や尻だけが柔らかい。奥まで突くたびに耳元で掠れた声がした。頭ごと抱え込むようにして果てた。
目を開けると、明るいベッドの上にいた。
とっさにソファーのほうを向くと、部屋着を羽織った瞳さんがカップ片手にこちらを見た。
「あ、起きた。眠いかと思って」
と笑う顔を見て、今晩もまだいてくれたのか、と思った。
瞳さんとは、恋でもなければ愛でもない。それは自覚があって、そういうものを自分が求めていない事だけは何となく分かる。これ以上なにかを動かしたり変えたりする意志は、自分の中にはまったくないことも。
それでも時折こういう瞬間があるから、この人に会いたくなるのかもしれない。
枕元のスピーカーから有線が流れている。BGMとして聞き流していたら、瞳さんがばっとベッドに駆けて来て
「あ、サカナクション」
となりに寝転がりながら言われた。よく知らないので答えようがなかった。流行りの音楽を聴かなくなってから何年経つだろう。
「詳しいね」
「と感想を告げると、彼女は、家にいる時間が長いから。と答えた。ああそうか、と急激に現実に引き戻される。男の夕飯作ったり帰りを待ったりしたりしてんのか。
もぞもぞと掛ふとんの中に入ってきた瞳さんの背後から抱きしめて胸を揉む。この人の首の付け根は白い。ボディーソープの匂いを嗅ぐ。
枕元から、グッバイ世界から、とくり返し歌う声だけが聴こえている。
寝返りを打った彼女がそっと寝かしつけるように俺の肩を叩いたので、少し戸惑った。額の辺りから心臓の音がした。
「瞳さん?」
「なんとなく」
目が合って、二人とも少しだけ笑った。
俺には瞳さんの気持ちがわからない。女の人がどれくらい浮気相手に優しいのか統計を取るわけにもいない。怒るとか泣くとか、そういうものが全然なくて都合だけがいい関係の奥にあるのは不透明すぎて、時々、思考が止まる。
「京都いいな。俺、修学旅行で行ったきりです」
と思い出して呟くと、瞳さんは、私も、と笑った。
「せっかく行くなら、美味しいものを食べたり、有名なお寺を見たりとかしたいかな」
「お、いいな。のんびりするのも楽しそうで」
と本気で言った瞬間、妙なタイミングでまた目が合った。たぶん、同じことを考えていた。
「それ、平日?」
まだ逃げられる距離を残しつつ尋ねると、瞳さんはなにも察していないように、そうだと思う、と頷いた。
「私は、平日の方が都合がいいから…浅野さんはね休みは絶対に土日ですよね?」
や、と俺は首を振った。
「むしろうちの会社はちゃんと有休とる事を推進してるので、平日もたまに休みだりしますね」
それ以上、彼女には何も言わなかった。
いかにもラブホテルめいた大理石風の床を眺めながら、晩秋の京都か、と考える。
だらっと新幹線でビールを飲んで、適度に別行動して、合流したら観光でもして飯食ってやりたいタイミングで抱き合って‥‥楽しそうだ、という言葉しか出てこない自分にびっくりした。それがどのくらい危ないことなのか、瞳さんの意外と長いまつ毛を見つめていても、いまいち測れない。
この人はたとえば相手の男の愚痴みたいなことを絶対に話さないからか、未だに現実感がなかった。
翌朝、電車に揺られているときに瞳さんからメールが来た。もし本当に京都に行くならホテルを予約します、という内容だった。
お願いします、と返事をしてから、もしかしたら彼氏との付き合いが長すぎて半分くらい惰性になっている状態なってる状態なのかもしれないな、と思いついた。だから優しさがあっても使いどころがない分をこっちに回してもらっているのかもしれない。そんなふうに考えたら、相手の男から大事なものを借りている気分になった。
朝の品川駅はうす曇りだった。寒かったので厚手の上着を羽織り、鞄を肩にかけてホームで待っていた。
ダッフルコートを着た瞳さんが大きな紙袋とボストンバッグを下げて階段を上がってきたとき、なぜか軽く違和感を覚えた。
向かい合うと、彼女の方から
「おはようございます」
と言われ、とりあえず、おはよう、と言葉を返す。
新幹線の席で横並びになると、自分が緊張していることにようやく気付いた。視線をひとまず窓の外に向けると、なにから話していいか分からない。
タイミングよく車内販売が来たので
「もうビールとか買う?」 と冗談で訊いてみたら、すぐに頷いたので、瞳さんも同じようにどうしていいか分からないのだと察した。
缶の中身が半分減る頃には、少しずつ饒舌になった。
「今日はどんなものを作ったんですか?」
と尋ねたら、彼女は前かがみになって足元の大きな紙袋を探り始めた。
ケーキ用みたいな箱の一つをそっと持ち上げて
「こんな感じです」
と開いてみせた。覗き込んでとっさに、うお、と声をあげる。
大きなクリスマスツリーと降る雪を背景にして、子供たちが遊んでいる切り絵だった。細工が細かすぎて、制作にどれくらいの時間がかかるのかは想像もつかなかった。
「すげえ。本当に才能がありますね」
「そんな、全然。才能なんて、未だにただの趣味だと思ってて」
瞳さんがそこで言い淀んで謙遜する。とっさに口走ってしまったのであろう言葉を適当に受け流して
「や、本当にすごいですよ。展示も楽しみですね」
と無難に返すと、瞳さんはほっとしたように頷いて、それからまったく別の話を始めた。男の話を聞いたところで今さらショックを受けるわけでもないが、たしかに好ましい話題でもないので、とっさに上手く流せたことにこちらも内心ほっとしつつも、長時間一緒という事はそういう地雷を避けなければいけないことでもあるのか、と悟った。
京都駅に着くと、瞳さんが
「今日の午後四時までほかの人の展示があって、私の作品の搬入はそれ以降になるから、まだ余裕がありますね」
と説明した。
ガイドブックを見て、どこに行こうと相談しているうちに、修学旅行で行った近江神宮が良かったことを思い出して
「俺、もう一度行ってみようかと思います」
と言ったら瞳さんがちょっと間を置いてから
「それ、私も一緒に行っていいですか?」
と尋ねた。
はい、と頷いてから、会話のぎこちなさで、そろそろ酔いが覚めてきたことに気付いた。
近江神宮前の駅には誰もいなかった。駅舎の屋根越しに、葉の落ち始めた山々と空を見渡す。空気は澄んでいた。
少し気分が上がって、瞳さんと手をつないで道を歩いた。
近江神宮の階段を上がると、巨大な鳥居が現れた。ざっと風が鳴って、一瞬、手を離した。瞳さんが呟いた。
「今、すごい鳥肌が立った。神様が通ったかも」
なんとなく、そういうことを言うイメージがなかったので不意を突かれた。そうですね、と俺も同意して、参道を進む。
朱色の立派な楼門を拝んでから、振り返ると百人一首の札が描かれた額が塀に並んでいた。
「なんだっけ。あの、俳句みたいなやつ」
と言ったら、瞳さんが笑った。
「あれは短歌。俳句は五七五で、短歌になると七七がつくから」
「そういうの、詳しいの?」
と尋ねる。彼女は、うん、と頷いた。
「前に見た映画で、百人一首の札をヒロインが恋人に手渡す場面があって、現世では一緒になれなくても来世ではきっと、みたいな意味で。それがすごく悲しいけど良かったから」
「映画とかも好きなんですね」
「好きですよ。古典とかも」
瞳さんはふわふわとした笑顔を返した。
「でもいいですね、情熱的なのも。俺もそういう恋愛をしてみたいです」
なにも考えずに感じたことを口にしただけだった。
けれど、瞳さんはびっくりしたように目を見開くと、傷ついたように黙り込んだ。しまった、と心の中で思い、すぐに話をそらしたものの、ホテルに着くまで不穏な空気は消えなかった。
部屋に入ると、シングルベッドが二つ並んでいた。片方に腰かけて瞳さんを呼び寄せる。
荷物を置いた彼女がやって来たので、腰を引き寄せて
「ごめんなさい。失言でした」
と謝ると、彼女は何も言わずにしがみ付いてきた。
裸になると、酔いが覚めたこともあっていつもより感度が良く、あっという間に出してしまった。瞳さんの体は相変わらず気持ちよかった。
瞳さんがようやく打ち解けたように、俺の腕に頭を乗せた。
「なんか妹が入院したりして、わりと気が滅入ってしまった」
世間話のつもりだったけど、瞳さんは驚いたように、え、と顔を上げて
「大丈夫? ていうか、妹さんいたんですね」
と訊いた。
俺は、うん、曖昧に頷きつつも、その話をつづけるのが面倒になって
「でも、大丈夫です。今とは関係ないことですから」
と打ち切ろうとしたら、彼女はすっと目を伏せて、はい、とだけ頷いた。なにかを飲み込んだような気配を残しながら。
彼女が服を着て搬入のためにいったん出て行ったので、残された俺はベッドに寝転がったまま目を閉じた。
空には月が浮かんでいた。東京よりも道が広いので、綺麗に映えていた。
「綺麗な月ですね」
と言った瞳さんの手を取る。夜になると彼女が隣いることがやっとしっくりきた。
通り沿いの焼き鳥屋に入って散々飲んだ。最後には煙まみれになりながらも、ずいぶん笑った。顔を赤くして無邪気に喋る瞳さんは、ものすごくストライクという訳はないにせよ、愛しく思えるくらい可愛かった。
「浅野さんといると楽しいです」
瞳さんが濡れたグラスを手にしたまま、言った。どうも、と俺は笑った。
彼女が不意に冗談めかし
「でも私のこと、べつに好きじゃないんですよね」
と言ったので、俺は戸惑った。今になって急に瞳さんのほうがそんなことを言い出すのはフェアじゃない、と反射的に口を閉ざす。
不自然の沈黙ののち、瞳さんが柔らかな声で
「一度ちゃんと聞いておきたかったから」
と付け加えた。
「好きとか恋とか、口に出したら胡散臭いだけですから」
と答えたら、彼女は納得できなかったのか、だけど、と反論した。
「それなら‥‥好きなのか遊びなのかさえ、分からないんじゃないですか?」
「じゃあ、たとえば噓になるかも知れなくても、好きと言われたいですか?」
半ば売り言葉に買い言葉だったが、瞳さんの目にはっきりと強く感情が滲んだ。
彼女は長い瞬きをすると
「いえ。それなら言わない方がいい」
とだけ言った。
夜中に戻ったホテルでまた抱き合って、明け方まで延々と肌を重ね続けた。二人ともできることはもうこれだけしかない、とでも言うように。
終わると、ほのぐらい闇の中で、瞳さんが俺の顔を見つめて
「浅野さんは、綺麗」
と小さな声で言った。
その表情を見た俺は、びっくりした。自分でも今このときまで気付いてもいなかったことに。
親父が再婚するときに、一度だけ相手の女性と飯を食ったことがあった。おふくろとは似ても似つかぬ、物静かな女性だった。とっつきにくいのに、それでいて目が離せなくて、不思議な違和感を抱いていた。
瞳さんは、親父のその再婚相手に雰囲気がそっくりだった。
もちろんそんなことは口に出せるわけでもなく、返事に迷っているうちに、彼女はすっと離れて浴室へと消えた。
翌日は京都の寺をいくつか観光した。瞳さんは普通の調子に戻っていて、それなりに楽しく過ごしているうちに帰る時間になっていた。
品川駅の改札出で、俺は彼女に向き直って
「じゃあここで。また」
とはっきり告げた。
彼女は笑って、またね、と返すと、ゆっくりと遠ざかっていった。
ようやく一人になるとなんだかほっとして、早く明日の朝になって会社に行けばいいと思った。
しばらく瞳さんに連絡しない日が続いた。
いきなり長時間一緒は少々ハードルが高かったことを実感して、落ち着いたらまた近場に飲みに行こうと考えている内に日々に忙殺され、クリスマスや年末を合コンや飲み会に費やしているうちに年が明けていた。
彼女の方からも全く連絡がなかったので、ちょっと気になり始めた日の午後だった。
受付からの内線が入って
「お客様がいらしてます」
という言葉と共に、瞳さんの名字を告げられた。
焦ってとっさに、分かった、すぐ行く、と答えた。
エレベーターの中で、思い詰めて受付の前に立つ瞳さんを想像した俺は、少しまずいことになったと思いながらも、開いた扉の向こうへと踏み出した。
受付の前で、思い詰めた顔をして立っているコート姿の男を見た瞬間、血の気が引いた。
今さら逃げ出すわけにもいかず、仕方なく呼吸を整えて、対峙する。勘の良い受付嬢たちが露骨な視線を送ってきた。
「お待たせしました。浅野です」
と挨拶すると、目の前の男はまっすぐに俺を見た。
「瞳の婚約者です。いつも彼女がお世話になっております」
と告げられて、かえって怒りの深さが胃に刺さった。激昂していたほうがまだましだ。と心の中で呟く。
瞳さんの婚約者は若くて精悍な顔立ちをしていた。背はそこまで高くないが、ぱっと見で分かるくらいにガタイも良く、俺とはまったく毛色の違うタイプだった。毅然とした表情には男らしい正しさが滲んでいる。
なんとなく勝手に、年上で放任主義の男というイメージを抱いていたので意外に感じた。どうして俺なんかと、と今さらのように思った。
会社近くの喫茶店に移動して、奥のボックス席で向かい合った。
古い店内は暖房がきいていても寒かったが、公衆の面前でやり合わないでくれたことに内心感謝した。
瞳さんの婚約者は運ばれてきたコーヒーにてもつけずに
「メールはすべて拝見しました」
と言った。
そうですか、と俺は低い声で呟いた。
「ちなみに、うちの会社名は、どうやって」
「メールの中の情報を照らし合わせて、あなたのフルネームとおおよその場所で検索しました。それで、先ほどの会社の名前が出てきました」
やつぱり、そうですか、としか言えなかった。
「もうじき結婚式を控えていて、僕は正直、途方に暮れています。新居や挙式もタダではありません。ただ、瞳の話では、もうじき結婚する事もあなたに伝えたことはなかったと。ましてや僕の事は一切なにも知らなかった。それは、本当ですか」
俺は曖昧に頷いた。事実だけど、少しずつ真実とは違う話に対して。それでも訂正することはできなかった。
「でも、それならどういう気持ちで瞳に会っていたんですか。あなたは付き合っていると思っていたわけではないんですか?」
俺は、付き合っているとは思っているとは思っていなかったですね、とだけ答えた。
「じゃあ、瞳のことは遊びだったわけですか。時々、都合よく会えるから利用していただけの」
や、とたまりかねて否定した。
「はっきり訊いたことはありませんでした。ただ薄々パートナーみたいな相手がいらっしゃるのかな、とは思っていました」
そうですか、と瞳さんの婚約者は感情のない読めない声で呟いた。それからふいに
「瞳とは別れません」
と言い切ったので、一瞬だけ他人事のように、すごいな、と思ってしまった。俺だったらあれほどほかの男と繋がった彼女を許せるだろうか。その間に、彼はコーヒーを一口飲んだ。カップを持ち上げた手がかすかにふるえていることに気付いてしまい、初めて罪悪感に駆られた。
「瞳とは二度と会わないと誓ってください。もう僕たちは結婚しますから、今後こういうことがあった場合は、あなたの会社にご連絡します」
はい、と頷きかけて思考が停止する。二度と会わない。瞳さんに。そんなことできるのか。いや、出来るのだろう。付き合ったわけでも愛を誓い合ったわけでもない。
出会ってからずっと飯を食ってセックスしていただけだ。そんなセフレ同然で、単なる遊びだと言われたら、そうかもしれない。だけど。
「瞳さんは、なんて言っていますか?」
突然、瞳さんの婚約者は激しい怒りを込めて俺を睨んだ。
名前を呼んだせいだ、と気付いたときには頭からコーヒーを掛けられていた。瞼に軽く焼けたような痛みを覚えた。
「…‥すみません」
「謝って許されると思ってんのか! 会社だって親だってこんなことを説明できるわけないだろう! お前だってっ、会社員なら分かるだろう!」
瞳さんの婚約者は、ほとんど泣くような声をだして、ふるえていた。
白髪頭に店長が飛んできて、驚くほど毅然とした口調で、ほかのお客様の迷惑になりますから、と忠告してきた。
瞳さんの婚約者はテーブルに一万円札を置くと
「話は終わりだ」
と言い捨てて、喫茶店を出て行った。
放心していた俺の所に、大量のおしぼりを抱えて店長が戻ってきて
「使ってください」
と差し出した。
お礼を言って、黒く濡れた顔を拭う。会社員なら分かるだろう、という台詞を呟くとようやく現実感が湧いて、瞳さんがいなくなることよりも、存在していたことに初めて囚われた。
受付嬢たちはやっぱり不穏な噂を流し、数日間ほど会社での居心地が悪かったものの、翌週には皆が何事もなかったように接してくるようになっていた。
社内の飲み会を終えて、夜中に一人で自宅に戻った。部屋着に着替えて、缶ビールを片手にテレビをほせんやり眺める。
チャンネルを回していると、九十年代に流行ったアニメの特集をやっていた。酔いの回った頭で、『スラムダンク』にはハマったなあ、と考える。女の子は『セーラームーン』でしたね、という女子アナの言葉に首を掻きながら、そう言えば瞳さんってなにみてたんだろう、とふと考えた瞬間、心配になった。
俺がコーヒーをかけたらたなら、瞳さんは殴られていてもおかしくないか?
迷いながらもスマホを手にする。抑制が利かないくらい酔いが回っている事に気付いたときには瞳さんにメールを送っていた。
もう届かないと思ったのに、数分後に、まったくべつのパソコンのアドレスからルールが入って来た。
『私は、大丈夫です。渡したいものがあるので、良かったら一度だけ会えませんか?』
本当は断るべきだと分かっていたが、彼女からの提案だという逃げもあり、いいですよ、と返した。
何かできるわけでもないのに、それでも、あの声でもう一度、浅野さん、と呼ばれたかった。まるで永遠のモラトリアムのように。かつて親父も家族から逃げて、そうしたように。
翌日の夕方に品川駅の改札口で会う約束をした。
また会えると思ったら妙に安心して、流しにビールを捨ててから布団に潜り込んだ。
広大な品川駅の改札口は人が多過ぎて、瞳さんをすぐに見付ける事はできなかった。
スマホを覗き込んだときに、浅野さん、という遠慮がちな声がして、顔を上げる。
不意を突かれて言葉に詰まった。
「ごめんなさい、待たせて」
殴られた痣どころか、瞳さんはいつも会っていたときの三倍くらい垢抜けていた。コートの下にちょっと変わった形の華やかなワンピースを着ていたが、髪をだいぶ明るく染めたから、似合っていた。顔立ちは同じなのに表情がまるで違っていて、別人のようだった。
彼女が銀色のトランクを引いていることに気付いて
「もしかして、実家に帰るんですか?」
と慎重に尋ねてみた。
彼女は、ううん、とあっさり首を横に振った。
「京都に。澤井さんっていう、私にギャラリーを紹介してくれた女性と、そのギャラリーを経営している男性が色々助けてくれて。しばらくむこうでバイトしながら制作するつもり。婚約破棄したから彼にお金を返したりしなきゃいけなくて、しばらくはカツカツだろうけど。まったく知らない土地に突然住むなんて初めてでから、すごく、どきどきしてる」
唐突過ぎて、なにも理解できなかった。俺にコーヒーをぶっかけたときの、泣き出しそうな男の顔を思い出そうとしたけれど、目の前の瞳さんの印象にかき消されて上手くいかなかった。
「これ、渡したかったものです。ごめんなさい。わざわざ来てもらって」
見覚えのない茶封筒を差し出されて、おお、と鈍い反応しかできないまま受け取る。
「じゃあ私行きます。色々と、本当にごめんなさい。巻き込んで」
そう言い切って瞳さんは頭を下げた。巻き込んで、という最後の一言で、彼女の中ではもう終わっているのだということを悟った。
かける言葉もないまま、改札へと吸い込まれていく瞳さんの後ろ姿を見送った。雑踏に紛れていく彼女は意外と背が高くて、だけど本当は何センチなのかさえ、もう知ることはない。
俺はなにかを探すように茶封筒を開けた。
汚したスーツ代です。個展の時に作品が売れたので、どうか受け取ってください。そんなメモ書きと共に十万円が入っていた。なぜかすごく嫌な気持ちになった。
白いカードが目に入って、引き出す。あのとき京都行きの新幹線の中で見た切り絵をもっと小さくして貼り付けたカードだった。クリスマスのまま時が止まっている。
裏返しても、心臓が凍った。
その昔 あなたのことが 大好きで そして今では 嫌いになった
意味よりも少し遅れて、俳句は五七五で短歌になると七七がつくから、という瞳さんの説明が蘇る。きっと俺は、あの人はいなくならないと信じていたのだ。ほんの数分前までは。
すぐにスマホで検索すると、京都に向かう新幹線はちょうど発車していた。あの人のことだから戻って来るのではないかと期待したけど、メールはなかった。
仕方なく帰りのホームに向かっていたときにスマホが鳴った。母親からの着信だった。
「今、電話大丈夫なのっ? 土曜日だったから仕事もないだろうって思って、かけてみたのよ」
ああ、と上の空で相槌を打つ。
「いつも申し訳ないけどね、今月もちょっと、あの子の事もあって苦しいのよ!」
片手に持った茶封筒を見て、ふいに思いつき
「それなら今ちょっと手元に十万あるから振り込むよ」
と答えた瞬間、悟った。
「ならよかった。いつも悪いわね」
「その代わり、もう金のことでは二度と電話かけてこないでくれる? 今度から藍の様子は、俺が直接本人に訊くから」
母親が驚いたように言葉を詰まらせた。俺はまだ少し放心したまま続けた。
「気付いてさ。金って、愛があるからじゃなくて、関わりたくないときに渡すもんだって」
母親は何も答えなかった。じっと電話の向こうで沈黙を貫いた。母親のこういうところが昔から嫌いだったと思うけど、俺自身も瞳さんに同じような事をしていた。
婚約していたのは彼女のほうだった。正直に打ち明けなかったのも彼女の方だった。
それでも。
瞳さんにどれだけ本気で好かれているか、俺は途中から本当は気付いていたのだから。
電話を切ると、長年抱えていたものが消えた気がして、ホームから夕暮れの空を仰ぎ見た。冷たい風が吹くと、そのまま飛ばされそうなほど、体が空っぽに感じられた。
帰りの電車に揺られながら、自分も来月には有休をとってどっか行くか、と考えた。もう自分のために使っていいのだ。金も、時間も。
取り敢えず行き先は京都以外にしよう、と思った。
俺は片手を伸ばし、切り絵のカードを網棚に置き去りにして、電車を降りた。
氷の夜に
濡れた黒い夜に白い戸が開きました。
水滴の落ちる傘を閉じて、そっと上げた顔に
「いらっしゃい」
と自分は声を掛けました。
『彼女』は小さく微笑むと、礼儀正しく会釈しました。
カウンターの奥の席に腰かけた彼女はグラスにビールをゆっくり飲むと、突き出しの白和えを食べ始めました。
開く口は小さいのに、次に自分の視線を向けたときには、小鉢は空になっていました。
「今日は何します?」
と問いかけると、彼女は柔らかな声で
「平目の昆布締めと、ぎんなんの素揚げお願いします」
と答えました。
彼女は茶色い鞄の中から文庫本を出して、読み始めました。ほかに客もいない店内にページをめくる音だけが響いています。
雨だし今夜は誰も来ないかと思っていたら、また白い戸が開く音がして
「どうもー、こんばんは」
満面の笑みを浮かべた女性が入って来ました。自分が席を決める間もなく、女性客は目の前の椅子を引いていました。
おしぼりを出すと、女性客は長い髪を掻き上げながら
「しばらく忙しくて。ずっと来たいと思っていたんですけど」
と親しみを込めた口調で言いました。たしかに赤く塗った唇には覚えがありましたが、いつも誰かしら男性と一緒なので、一人でやって来るのは珍しいことでした。
そうですかと答えてから、ふと彼女を見て
「寒くないですか?」
と自分は訊きました。彼女のいる席は少し暖房が当たりにくいのです。
彼女は不意を突かれたようにこちらを見て
「いえ。今日は、大丈夫です」
赤い唇の女性客は、終始、自分に話しかけてきましたが、さほど気の利いた返しも出来ずにいると、大した食事もしないうちにあっさり会計を申し出ました。
「また来ますー」
ありがとうございました、頭を下げると、赤い唇の女性客は素早く戸の外―と出て行きました。
誰も居なくなり、自分は、彼女に言いました。
「今日は寒かったでしょう。体とか壊してないですか?」
彼女は本を閉じる、寒さに強いんです、と答えてから、ビールを一杯追加しました。たしかに着ている白い編み込みのセーターはさほど厚手のものではありませんでした。
「お仕事は、順調ですか」
「はい、ただ」
「ん?」
と自分は新しいビールをサーバーからグラスに注ぎながら尋ねました。
「生徒同士が喧嘩になっちゃって。ちょっと大変でした」
「男?」
「はい?」
今度は、彼女の方が軽く訊き返しました。
「喧嘩って男子生徒ですよね。怪我とか、大丈夫でした?」
「あ、はい。どちらもそんなに大柄な生徒じゃなかったから。二人ともかすり傷程度でよかったです」
自分は彼女に怪我がなかったかと尋ねたつもりでしたが、畳み掛けるのはしつこい気がして辞めました。
一年ほど前から、月に一、二回、名も知らぬ『彼女』は一人でこの店にやってきます。それもバスが混むという理由で帰りの時間をずらす、雨の夜だけでした。
「今読んでいる英語の本ですか? 授業かなんかで使う」
「いえ。生徒から勧められた、『三国志』の漫画です」
「へえ」
自分は意外に感じて呟きました。
「生徒の歴史好きな子がいて、すごく面白いから、て」
「俺も、昔読みました。細かいところは忘れちゃいましたけど」
「そうなんですね。どの登場人物が好きでしたか?」
自分は曹操(そうそう)への憧れについて語りました。彼女は何度も頷きながら熱心に聞いていました。
「俺そんなに頭を良くないんで、ああいう野心とか勇気もあるけど冷静っていうか、そういう人はやっぱり凄いと思いますね」
「曹操は部下を正当に評価しますしね」
そうそれ、と笑って同意しました。彼女は口数こそ多くないけど、話を聞くのが上手です。
小一時間ほどすると、雨がやみました。
「ごちそうさまでした」
ビールに焼酎のお湯割りまで飲んだわりには、彼女はちっとも酔ってない声で告げました。
彼女が帰って行くと、自分はカウンターの中から出て、皿を片付けました。
定休日の昼過ぎに店の二階で目覚めると、膝を曲げた足が痺れました。
起き上がると、掛けていた布団が捲れて、ズボンから出た脛に浮く筋が若くない年齢を象徴しているようでした。
店の掃除をして、近所の銭湯に行く頃には日が暮れかけていました。
久しぶりに顔を出していこうと、帰る途中にあるバルの重い扉を押すと、まだや客のいない店内で友永(ともなが)が一人、グラスを磨いていました。
「お、銭湯帰り?」
友永は人懐こい笑みを浮かべました。
「なんで?」
と訊き返すと
「顔が赤いけど、さすがにまだ酔ってはいないかと思って」
と友永が指摘しました。笑う目がすっと細くなる感じが、少し、彼女に似ていることに気づきました。
「当たり。えっと、ビールとマッシュルーム焼きと、あとピザも頼む」
と友永は笑顔でスマートな相槌を打つと、ビールサーバーを握りました。
バルを経営している友永は、昔同じ飲食店で働いていた同僚です。自分は厨房で、友永はソムリエでした。同時期に独立したこともあり、今でもたまに飲みに行く仲です。
「どう最近は」
自分が尋ねると、友永は、だいぶ冷え込むようになったからなあ、と苦笑いしました。
「寒すぎるとやっぱり客足が遠のくね。本当はビールなんかは乾燥してる時期のほうが美味しいだけど」
「ああ、とくに女の人は寒がるから」
「うん。うちは女性一人客が多いから。その分、気を遣うね」
と言われて、一瞬、彼女の顔が浮かびました。
「ほかには、たとえばどんな気を遣う?」
と試しに訊いてみると
「そうだなあ。男性客が一人の女性目当てに集まるけど、トラブルになれば、どちらも顔を見せなくなるから、適度に席を離したりね。あとはこちらが言い寄られたりしたとき上手く躱(かわ)さなきゃいけない、ことかな」
という答えが返ってきたので、自分は思わず言いました。
「友永は昔からモテるからな」
友永はいわゆる二枚目で、見た目が実際の年齢よりも若々しく、無愛想で敬遠されやすい自分とは対照的でした。
「黒田(くろだ)の店みたいな緊張感は大事だよ。それに、そっちの店だって、大変な女性客はいるでしょう?」
たしかにそっけなく接しているに拘わらず、度を超えて馴れ馴れしい女性客というのはやっぱりいるのでした。そういうお客は勝手に期待して、こちらがそういう意味では相手にしないと、すぐに来なくなるのですが。
ビール一杯のつもりが、同業者同士の話が盛り上がっているうちに、すっかり酔っていました。
八時を過ぎると常連客が増えてきたので、自分は会計を済ませて、店を出ました。白い息を吐きながら、たしかに冷え込んできたのを実感しました。
元来、夢見がちで理想ばかりが高く、たまに縁があっても不器用な逢瀬(おうせ)をくり返しているうちに、他の気の利く男にいつの間にか取られていた。
そして増えるのは独り身の男友達ばかりで、結婚願望もちゃんとあるのに気付けば三十後半になっていた。
思えばそれが自分の今までの人生でした。そして、きっと、これからも続いていく人生なのでしょう。
だから『彼女』が来るのを楽しみにしていないわけではないけれど、そこになんの期待もないのも、正直なところでした。
その感じの良い話し方を耳にするたびに、この人にはもっと落ち着いた、本の似合う細身の男がお似合いだろうなともしみじみ思うのです。
それなのに、その晩、自分は夢を見ました。
カウンターで眠り込んでしまった彼女に、自分は何度も呼びかけました。
彼女は顔を上げると、不思議そうに笑いました。その笑顔に胸打たれて、気付いたらキスしていました。
濡れた食用菊を口に含んだときのように、頼りない感触は夢とは思えぬほどで、そうしているうちに眠りの潮が引いて、自分は暗い天井を仰ぎ見ていました。
夕暮れ時まで、夢の記憶を引きずりながら仕込みしているうちに、注文を忘れた野菜がある事に気付きました。
近所のスーパーへと出かけました。カゴを片手に野菜売り場の前に立っていたら
「あの、こんにちは」
と遠慮がちに声を掛けられて、びっくりしました。
「こんにちは。お仕事帰りに、買い物ですか?」
「はい、夕飯の」
彼女も同じカゴを手にしていました。中にはアサリとキャベツと鶏肉が入っています。
「自分でも作られるんですね、料理」
と呟くと、彼女は照れたように答えました。
「はい。でも、プロの方に言うのは恥ずかしいですね。この前、お店でいただいた生麩と野菜の炊き合わせも、本当に美味しかったです」
そういえば、この人はいつも自分の料理をとても美味しそうに食べるのでした。ほかの酔っ払いのように酒ばかり呷(あお)ったり、残したりということも一度もありません。
そういうところが気持ちの良い人だと思い返していたら、にわかに夢の光景が迫ってきて、よせばいいのに
「じつは昨日、夢に出てきましたよ」
などと言ってしまいました。
案の定、彼女は面食らったように黙り込みました。しまった、気味の悪いことを言ってしまった、と内心悔やんでいたら
「…‥じつは、私もなんです」
と打ち明けられたので、びっくりして、その顔をまじまじと見てしまいました。
「どんな、夢ですか?」
「なにか呼びかけられていたみたいでした。でも、その後はよく覚えていないんです」
ならば本当はその後があったのか。いったいあれほど艶めかしい実感が果たして本当に夢だったのか。それともーー。
生霊(いきりょう)でも飛ばしてしまったような気分で、会釈して立ち去る彼女の後ろ姿を見送りました。つい先週、店内で彼女にだけ話しかけてしまったことを思いだしながら。
そばで聞いていた女性の二人客が会計の時に私たちの扱いと差があるんじゃないですか? と冗談交じりに言われたときには内心ひゃっとしたことも。
自分はやんわりと、お二人の話が盛り上がってたので、と返しましたが、自覚はありました。男のお客なら気付かずに見過ごすようなことも、女性相手にはそうもいきません。
日の暮れかけた街をスーパーのレジ袋片手に歩きかけて、ふと横丁にある小さな神社の前で自分は立ち止まりました。
粗末な赤い鳥居をくぐり、五円投げて手を打って祈りかけたとき、なにか強く願うには年齢を重ねすぎていることに気づきました。
友永が店にやって来たとき、『彼女』はいつものように静かに一人で飲んでいました。
向こうも本来ならば営業中の時間帯だったために
「どうした?」
と尋ねると、友永は苦笑して
「製氷機の故障。バルだと仕事にならないから、今夜は閉めて来た」
と説明しながら、椅子に腰掛けました。珍しく彼女が顔を上げて、友永を見ました。
彼は愛想良く、それでいて嫌味ない笑顔で、こんばんは、と声をかけました。
思わず割り込むように
「こちらの友永さんは、昔働いていた店の同僚なんですよ」
と告げると、彼女は一瞬だけ意外そうに瞬きしてから
「じゃあ、長いお付き合いなんですね」
と呟きました。
それが自分と友永のどちらに向けられたのかは定かではありませんでしたが、きっと友永に言ったのだろと思いました。
それぞれに異なる親密さを伴った、それでいて礼儀正しい不思議な夜でした。
気持ち良く酔った友永が
「良かったらこの後、二人でうちの店に来ませんか? 特別に開けますよ」
と気前の良いことを言いだすと、彼女も少し頬を赤くして、まんざらでもなさそうに
「なんだか、いいですね。面白そうです」
と誘いに乗るそぶりを見せました。
そんな流れになってしまうと、自分はもうどうしていいか分からなくなりました。
彼女が立ち上がって
「二軒目に行くなら、自宅にいる母にちょっと電話してきます。おとといから風邪気味だったので、少し心配で」
と携帯電話を出しました。
自分はとっさに、白い戸を開けて夜の通りに飛び出していく彼女を目で追っていました。なんだかそのままどこかに行ってしまうような気がしたからです。
我に返って、友永に視線を戻すと
「今の彼女」
と彼が切り出したので、自分が先回りして
「気にいった?」
と冗談めかすと、友永は笑って、いや、と首を振ってから
「黒田が彼女のことを好きなんだろう?」
と言い切ったので、内心ひどくドキッとしました。
「名前はなんていう子なの?」
自分は、知らない、とすぐに首を横に振りました。
「え、だって常連さんだろう」
「それでも。訊いてない」
と答えると、友永はなんだか呆れたように息をつきました。
「そんなことより、なんで、そんなふうに思った?」
友永は間もおかずに言いました。
「きっと黒田以外は、みんな知っていたよ」
気がつくと、友永の店のオレンジ色の照明の下で、『彼女』はいつものように柔らかく笑っていました。
友永の指摘もあいまって、動揺していた自分は恐ろしいほど飲みました。
猫が自分の尻尾を追いかけて百回回った後みたいに目が回って、濁った視界に映るもので、綺麗なのは彼女のシャツだけでした。そのシャツに包まれた小さな肩。その肩に酔った勢いで触れた瞬間に、彼女がこちらを見ました。
自分の心を見透かしたような視線を向けたので、いっぺんに酔いが覚めて、なんて卑怯なことを考えていたのだ、と思わず
「すいません。女性として見ました」
と謝っていました。
彼女が驚いたように黙ったので、すぐに余計なことを言ってしまった、といたたまれない気持ちになっていたら。
「私、たしかにそういう視線には敏感なんです。でも、それだけで謝ってもらったのは、初めてです」
彼女が手を伸ばしてきて、なぜか自分の右手をそっと握りました。その手のひらは熱くも冷たくもなくて、自分はまったくその気持ちを読むことはできずに、彼女が普段教えている中学生のガキになったような気さえしました。
次のお酒を頼むまで、互いに手を離さずにいました。
友永がそろそろ店を閉めるというので、自分が彼女を青白く明けた駅前まで送っていきました。
彼女がタクシーに乗り込むときに、自分は勇気を出して閉まりかけた扉に上半身を軽く挟み込んで
「今度、飯食いに行きませんか?」
と誘うと、彼女はひどく優しい言い方で
「それはできません」
とだけ答えました。
不意打ちの拒絶に呆然としている間に、タクシーは明るくなり始めた空の下の彼方へと去っていきました。
それから『彼女』は店に来なくなりました。
二度ほど雨が降った晩に、ぎりぎりまで待ってみたけれど、あの細い手で戸を開けられることは有りませんでした。
夕方に人の居ない店内で開店準備をしながら。テレビのニュースを聞いていたら。今夜は夜ふけすぎに雨か雪に変わるでしょう、という予報が耳に飛び込んできました。
積もったらお店の雪かきが面倒だな、と内心思いながら、今日の予約客とコースの内容を頭の中で復唱しました。
開店直後にやって来た男女二人客がコース料理を食べ終えた頃に、雨が降り出しました。
「まずいな。ひどくなる前に帰ろうか」
二人が言い合いながら帰ろうとした時、入れ違いに戸が開いて、少し髪を濡らして飛び込んできた人がいました。
あ、という言葉を飲み込んで
「いらっしゃいませ」
となんとか告げると、彼女も濡れた髪をハンカチで拭きながら頭を下げました。それから、雨が、と口を開きました。
「え?」
「帰ろうとしたら、雨が、急に降ってきて。傘も売り切れで」
自分はやっぱり気の利いた言葉も浮かばずに、そうですか、とだけ相槌を打ちました。
とはいう二人きりになると、いつまでも黙っているわけにもいかずに、自分の方から
「今日はいつもよりも遅いですね」
と話しかけていました。
彼女は小さく頷いて
「学校はもう休みに入ったんですけれど」
と言いかけると同時に、いかにも男らしい勢いで音を立て、白い戸が開きました。
「どうも。一人だけど、いい?」
ダウンを着込んだ大柄な男が店内に入って来ました。すでに酔っているようでしたし、断ろうと思ったけど、それより先に椅子に座られてしまったので、仕方なく
「何をされますか?」
と自分は水を出しながら訊きました。
彼女は大柄な男の迫力に気圧されたように、うつむいていました。
「えっとな、日本酒。燗じゃなくて、冷やで」
そう言ってから、大柄な男はまるで品定めするように彼女を見ました。よくいる口説き目当ての輩(やから)だろうと察し、止めに入ろうとした矢先に
「おい、絵未(えみ)ちゃんだろ? 俺だよ、お父さんの友達だった田部(たべ)だよ」
と大柄な男が言い出したので、自分も驚いて
「お知り合いですか」
と言った時、彼女の顔がびっくりするほど蒼ざめていることに気付きました。今まで聞いたことのないような鋭い声で
「人違いです」
と彼女は言い切りました。それでも大柄な男はたたみかけました。
「いや、違わないよ。忘れちゃったのか? 泊めてもらった晩に本を読んであげた仲だろ」
彼女は気の毒なほど思い詰めた顔をして、やっぱり
「人違いです」
と繰り返しました。
自分はとっさに書きかけた男の伝票を破りました。
二人がこちらを見ると、大柄な男に向かって
「お引き取り下さい」
と自分は告げました。
大柄な男は一拍置いてから、びっくりしたように
「ちょっと、なんだよ、なんで追い出されなくちゃいけないんだよ」
と抗議しました、自分は取り合わずに答えました。
「うちは声かけ禁止ですから。お帰りください」
「だから昔からの知り合いだって言ってんだろう。だいたい飲み屋がそんな理由で雨の中追い出すのか? ひどい店だな、おい、ここは、いいけど書くぞ? フェイスブックとグルメサイトに」
みみっちい反撃に、とっさに頭に血がのぼって
「全然かまわないんで帰ってください。俺の店ですから」
と宣言すると、大柄な男は息を荒くして文句を繰り返しながらも、乱暴に戸を開けて出ていきました。
自分はコップに冷たい水をついで、彼女の目の前に置きました。
彼女は口を付けることもなく、席を立ちました。
「本当にごめんなさいっ、帰ります」
その膝が震えているのを見て取った自分のカウンターの中から出て、その腕を取りました。
「倒れそうですよ」
大丈夫ですか、と言いかけた声は掠れていて、さすがの彼女は説得力がないことを察したのか、言葉に詰まってしまいました。
ふと思いついて、よかったら、と提案しました。
「この店、普段は物置していますけど、一応、二階がるんです。よかったら、少し休んでいってください。ちょっと俺、閉店までは送って行くことが出来ないので」
まだ動揺している彼女の背を支えて、階段を踏み外さないようにしながら二人で上がりました。
薄い布団に横たわった彼女がまだかすかに震えていたので、自分は慌ててストーブを付けてから
「下にいるので。もし具合が悪くなったら呼んでください」
とだけ伝えて、階下に戻りました。
閉店時間を迎えると、自分は流しを片付けながら、天井を仰ぎ見ました。
あそこに眠っている。
急に生々しさに打たれ、手をつないだことや誘いを断られたことがいっぺんに混乱となって溢れかけていたのを、すんでのところで飲み込みました。
自分は水のペットボトルを手にしてふたたび階段を上がりました。
薄い扉を開けると、靴下に包まれた足が見えて、どきっとしました。そっとわきを通って声をかけました。
彼女の薄い瞼と唇がふっと開きました。その放心した表情は、友永には似ていませんでした。そして悟りました。この人を思い出す理由が欲しかっただけだったのだと。
「大丈夫ですか? 起き上がれるようになったら、送って行きますから」
彼女は首を横に振ると、一人で帰りますから、と言いました。目が赤く腫れていました。泣いていたんでしょうか。
背中に手を添えて起き上がるのを助けると、お互いの顔がすぐ近いところにありました。彼女は逸らそうとしないので戸惑いはしたけれど、自分は一度きっぱり断られている身です。相手が弱っている隙に付け入るようなことはーー。
「黒田さん」
いきなり呼ばれたので
「俺の名前、知ってたんですか?」
と驚いて訊き返しました。
「はい。だってほかのお客さんが呼ぶのを、いつも聞いてましたから。黒田さんは一度も私の名前を訊いたこと、ないですよね」
そう呟いたので、自分は軽く言い淀んでから、頷きました。
「はい。名前を訊いたら、勝手に自分が期待してしまうような気がして。個人的に、近しくなったように誤解したり、そういうのが怖くて俺は、あなたの名前はずっと訊かないと決めました。でもさっきので知ってしまいました。絵未さんっていうお名前なんですね」
なにかに堪えきれなくなったように倒れ込んできた絵未さんを反射的に受け止めると、その体は存外柔らかく、細い印象があったので意外だと感じた直後に
「さっきの人、昔、子供だった私に変なことしたんです」
吐き出すように言った言葉が皮肉なくらいしっくりと来てしまって、自分は絵未さんを抱きしめました。
左肩に顎を乗せた絵未さんの頬から流れた涙が、自分のシャツに染みていく。なにかが強く小窓を打つ音がしました。闇に破片のようなものが降り注いでいました。雪ではなく、みぞれでした。絵未さんを抱きたいと思いました。だけどできないから、ずっと抱きしめていました。氷のように冷たい夜の中で。
明け方、目を醒ますと、絵未さんが静かに階段を下りようとしていました。
自分がばっと起き上がると、彼女は毅然と止めるようなそぶりを見せました。
「これ以上迷惑にならないように帰ります。お願いだから、ゆっくり寝ていてください」
もう二度と会えない気がして、自分は、絵未さん、と初めて呼びかけました。
「あの、さっきのことですけど、話聞いたからなにか変わることがないですから、俺」
絵未さんは息を潜めて黙っていました。
「俺、好きですから」
絵未さんは短く瞬きをして、嬉しかったです、と言って、だけど同じ言葉を返すことはせずに階段を下りて行きました。
彼女の居なくなった二階に一人きりで座り込んでいると、幸せな時間が本当に終わってしまったことを悟りました。
クリスマスも過ぎて、今年の営業日も残りわずかになった朝、実家の父親から電話がかかって来ました。
年の瀬だから上野への買い出しに付き合え、という連絡でした。
芯まで冷え切った腰や腕をさすりながら、来年にはきっと何事もなかったようにすべてを忘れて行くだろうと思いました。
白い息を吐きながら、父親と一緒に昼間の賑わうアメ横を歩きました。
ぎっしり立ち並んだ店の前にはマグロやタラバガニや乾物が山盛りになっていました。買い出しに来た老若男女から、立ち飲みを楽しんでいる中国人らしき観光客たちまで、人さまざまで、その活気を浴びていると年末のもの悲しさも吹き飛ぶようでした。
黒いジャンバーを着込んだ父親がいくらと数の子と甘エビを買ったので、自分がまとめて袋を持つと
「優しいねえ、おにいちゃん。いい息子だ」
と店主に言われました。
父親が大声で笑って
「ご主人、こいつ、にいちゃんじゃないよ。息子ったってもうおっさんだよ。しかも嫁もいないおっさんだから困るよ」
と茶化し、それから財布から二千円と、九百円ね。五百円玉抜きの、ぜんぶ百円玉で渡すから。ご主人、手のひらで受け取ってよ。ほら、ひいふう、みい、よ」
「あ、お客さん。今なん何時だい、なんて訊いて一枚飛ばすじゃないんでしょうね」
「いや! これは見抜かれちゃったか」
などと軽快な冗談を言い合うのを眺めていると、自分がつくづくこの陽気な父親に似なかったことを実感しました。
混雑したアメ横をまた歩き始めてから、父親に向かって
「さっきの、なに? 一枚飛ばすって」
と尋ねると、父親はそんな事も知らないのかという顔をしました。
「落語だよ。『時(とき)そば』っていう。客がそば代の十六文をぜんぶ小銭で数えるうちに、途中で一枚飛ばすっていう。まあ、かるい軽い詐欺みたいなものだ」
それから、いかにも思いついたように
「お前喋るのはへたくそなんだから、落語でも聴けばいいんじゃないか。ちょっとは面白いこと言えるようになるぞ」
などと言い出したので、落語なんて、と苦笑しつっも、年明けから店の準備の間に少し流し聴いてみようかな、と心ひそかに考えました。
もっと自分の喋りが上手ければ、あの傷ついた人にも何か救いになるようなことが言えたかもしれないのに、と思うと、未練というものはあまり淡く白い気持ちだけが解け切らずにいつまでも胸の内を冷たくしているのでした。
年内最後の営業を終えた自分が外に出ました。
白い戸にきっちり編み込まれたしめ縄を飾り、新年は四日から営業します、という張り紙をしました。
仰ぎ見れば、冬の冴えわたった夜空に無数の星が光っていました。
店内に戻ろうとしたとき、少し離れたところに見慣れた人が立っていることに気付いてびっくりしました。
自分はまっすぐ駆け寄りました。
そして紺色のコートを着込んだ肩に向かって
「絵未さん。こんな時間にどうしたんですか?」
と息を吐きながら尋ねると、彼女は寒さのせいか少し白くなった顔を上げて
「そろそろ店が終わる頃かと思って、もしよかったら、一杯だけ飲みに行きませんか?」
と緊張した声で言いました。
自分がびっくりして
「いや、行けますけど。俺でいいんですか?」
と思わず訊き返す、絵未さんは短く頷いてから
「見てたんです」
と言いました。
きょとんとした自分に、彼女は続けました。
「ずっとカウンター越しに見ていました。黒田さんが働いている姿も、細かい気遣いも。寒そうにしていたらすぐに気付いてくれたり、酔った男性客がいたら、さりげなく席を遠くしてくれたり。不器用だけど、真面目で優しい人だって思っていました」
自分が胸を詰まらせながら
「…‥友永の店でいいですか?」
と訊いたら、彼女は、はい、と頷きました。
「気に入りましたか?」
とこの期に及んでみっともない質問を重ねると、彼女は不思議そうな目をしてから、ふっとその意味を悟ったように
「黒田さんの知り合いだから、友永さんのお店に行ったんですよ」
と言いました。それから自分の手を遠慮がちに握って打ち明けました。
「ずっと男の人の手が怖かったんです。でも、あの晩つないだ黒田さんの手は優しかったです。抱きしめてくれたときも。丁寧に料理を作る人の手だと思った。私は黒田さんの手が好きです」
店に鍵を掛けて、冷えた手を握って、まばらにしか店に明りが灯っていない夜道を二人で歩きました。
絵未さんが思いついたように、教師らしい言い方で
「黒田さんの来年の抱負はなんですか?」
と訊いたので、自分は少し考えてから
「落語出来るようになろうと思っています」
と答えたら、彼女は首をかしげました。
話し下手なので、と付け加えると、絵未さんは急におかしそうに微笑みました。
「それなら覚えたら今度聞かせてくださいね」
自分は心の中で、今夜は友永の店で小銭を数える遊びをやろうと、と思いながら、バルの重体扉に手を掛けました。
あなたの愛人の名前は
私はおそるおそる摑んで、中を覗き込む。
「お金」
「そりゃ、見ればわかるだろう」
と兄がようやく笑って言った。
「おふくろが突っ返してきた十万円。藍にやるよ」
そう言われて、ちょっと前に母が怒って騒いだことを思い出す。なんで兄が、突然、絶縁とも取れる宣言をして手切れ金みたいにお金を渡してきてという。
「なんで? 全然意味分かんない。だいたい、何でそんなことなったの」
兄は緩く笑って目頭を掻くと
「まあ、色々だよ」
とだけ答えた。
私は困惑して、もらう理由がないから、と茶封筒を戻した。この兄は昔からなにを考えているか分からないところがある。
だけど兄は珍しく粘って、茶封筒を私の前に押し戻した。
「おまえ、ちょっと好きな所でも行ってこいって」
私はますます混乱して、逃げるように布団に戻った。毛布を被ると
「どこか行ってみたいところとか、ないの? いっそ外国とかさ」
と兄が冗談めかして訊いた。
私は毛布から頭だけ出して、しばらくぼっと考えてから、ふと
「マカオ」
と呟いて。
兄が驚いたように
「どうした? 一攫千金狙う気か」
と訊き返した。
「や、べつに思いついただけ」
私が焦って言い訳するのを遮って、兄は
「なんでマカオ?」
とたたみかけた。私は、お兄ちゃんは覚えていないんだ、と心の中で少しがっかりして、
「べつに秘密」
とだけ返した。
しばらくお互い口を開かなかった。
枕に顔を埋めているうちに、罪悪感と現実逃避の混ざり合った眠気が来た。鎖骨に入っているプレートはその存在を忘れるほど馴染んでいる。ようやく就職先が見つかりそうだった矢先に、母に一方的に責め立てられて、ほとんど発作的に暴れたときに折った鎖骨は、もうほとんど繋がっているらしい。
だけどあのとき暴れたのは、本当は母のせいじゃなくて、面接に行く勇気がなかったかもしれない。
肩を強張らせまま目を瞑りかけた私の肩を、兄は揺さぶった。
薄目を開けると、兄はそっと指の長い手を離した。
「明後日、半休を取るから。一緒にパスパート取りに行くぞ」
月曜の午前中だというのに都庁の旅券課はおそろしく混んでいるた。
ようやく申請が終えて自動ドアの外に出ると、私はふと気づいた。
「お兄ちゃんはパスポートあるんだっけ?」
兄は当たり前のような顔で首を横に振った。
「ない」
「え、じゃあ、なんで今、取らなかったの?」
「だって俺行かないし」
私は半ばパニックを起こして、どういうこと、と兄に問いただした。呼吸が乱れるとすぐに過呼吸になりそうになる。自分の胸を押さえると、兄が私の背中を強めにさすりながら言った。
「可愛い子には旅をさせろって言うだろう。会社でも俺は信頼している部下には、あえて大事な案件を一人で担当させるの」
「そんな話は知らないし。私が一人で飛行機乗って、一人で海外行って、一人でご飯食べたりできると思う?」
兄は驚いたように笑うと。出来るよ、と返した。
「英語だって全然話せないし。日本語でだってろくに他人と話せないのに」
「英語は勉強しよ。彼も付き合うから。旅行までに」
「無理だって、お兄ちゃん。時々、天然っていうか、とんでもないことを言いだす癖、直っていないね」
揶揄したのに、兄は誉められた少年のようにはにかんだ。私は脱力して、地下通路の真ん中で途方に暮れた。
兄の部屋までやって来た絵未は、白いシャツの袖を二、三捲り上げて、革のバッグから英会話のテキストを取り出した。
長い髪を耳に掛ける、すっきりした横顔が覗いた。左の耳たぶにはごく小粒のパールのイヤリングをしている。
私はその横顔に向かって言った。
「ありがとう。仕事帰りで疲れてるでしょう? しかも私、お金ないから、お兄ちゃんの部屋でごめん」
絵未は笑うとと。時間的にちょうどいいから大丈夫、と不思議な台詞を口にした。シャツのボタンをきっちりと一番上まで留めているので、鎖骨は見えず、その分、首の白さが目立つ。
「ちょうど?」
と私は首を傾げて訊いた。
絵未は麦茶を一口だけ飲むと
「始めようか」
とテキストの一ページ目を開いて強めに右手を押さえた。
絵未は地元の中学校の友達だった。私が高校入学と同時に大阪に引っ越してからも、彼女だけとずっとメールをくれていた。
前から関西弁の小気味よさに憧れていた私は最初のうちこそがんばって体得しようとしたけれど、テンポの速さに強い突っ込みまでは真似できなくて、そんなとき絵未から柔らかな言葉が届くとほっとした。
高校には一般入試で入った子たちも通っていたけれど、寮で生活しているのはスポーツ推薦で入学した子たちが大半だった。理由もなく関東からやって来た私は最初からかなり異質な存在として見られていた。
今思えば、最初の挨拶のときに、何気なく
「滋賀ってどこだっけ?」
と言ってしまったのがまずかったのかもしれない。
実家は東京タワーの近くだと説明したら、なんだか微妙な空気になって
「すごーい、都会の子やな」
と誰かがいい放ったときに初めて、そういうくくり方をされるんだ、と悟った。
藍って地方を馬鹿にしてる、といつだったか誰かに言われたことがある。そう見られないようにしようと気を遣うほど、ぎこちなくなった。苦しかった。学校は楽しかっただけに、寮に帰るのがよけいにつらくて、そのうちに食堂での食事もままならなくなっていた。
私が東京に戻ってきてフリーターとニートの間を行ったり来たりしているうちに、絵未は中学校の先生になっていた。
それでも連絡は途絶えることなく、彼女は時々、ケーキや修学旅行のお土産を持って家を訪ねてきた。
眩しいくらいきちんと社会性を持った彼女と、心を通わせていられたのは、もしかしたら中学のときの出来事のおかげかもしれない。
「このテキストだとCan youが多用されているけど、できるだけ、Could youを使ってね。そのほうが丁寧だから」
という説明の後に、絵未は手を止めて
「さっき、ちょうどいい、て言ったのはね、ここに寄ってから帰ると、行きつけのお店の終わる時間に重なるからなんだ」
と言った。
私は、行きつけの店、と首を傾けた。
彼女が照れ臭そうに俯いたので、私は目を見開いて
「え、もしかして、好きな人とか、そういう話?」
とびっくりして訊くと、彼女はまた小さく、うん、と頷いた。
「だって、絵未は」
と言いかけた私に、彼女はまた小さく、うん、と頷いた。
私たちは中学一年生で、校庭でフォークダンスの練習をしていた。
大海のような青空が眩しく、風が吹くたびに新緑の葉擦れが響いて、光が反射していた。
男子と向かい合って手をつないだとき、となりの絵未がどさっと地面に倒れた。
まだちゃんと話したことはなかったけれど、なんとなく感じの良い彼女の名前は覚えていた、私が付き添って保健室まで連れていった。
ベッドに横になった絵未の手はかすかに震えていた。
虚ろな目で天井を見つめながら、彼女が
「私、男の子嫌い。触るだけで具合が悪くなるの」
と打ち明けた。
兄のいる私にその感覚は分からなかったけれど、そうなんだね、と頷いた。真剣に受け止めてあげないと、そのときの絵未はなんだか壊れてしまいそうだったから。
それから絵未が男の子の話をしたことはなかった。いつも私が片思いして盛り上がっている話を、遠い国の出来事でも眺めるように笑って聞いていた。
今でもたまに、校庭の眩しさと砂煙と、絵未の震える手のことを思い出す。
だから、すぐには信じられずに
「店員さんとか見て、ちょっといいな、て思ったの?」
と私は慎重に訊いた。
「付き合っているの」
その答えに衝撃を受けて、私は質問を重ねた。
「どんな人?」
「和食のお店を一人でやってる。だいぶ年上」
「うちのお兄ちゃんくらい?」
「ううん、もっと年上で、不器用な感じの人。パッと見はいかにも男の人っていう感じでちょっと怖いかもしれない」
全然想像つかない、と私が言うと、絵未はようやく笑った。
たとえば兄のように中性的な雰囲気だったら、絵未がそこまで怖くないと思う気持ちもまだ理解できるけれど。
絵未はちょっとだけ考えるように黙ってから
「私には、変な意味じゃなくて、藍のお兄さんは、昔からすごく男の人っていう感じがしてたよ」
と答えた。
「あの妖精みたいなお兄ちゃんが?」
私が訊き返したら、絵未は頷いてから、ああ、となにかに気付いた顔をして
「藍のお兄さんからは、女の人の気配がしたから」
と言った。
英会話のレッスンを終えて、絵未が帰ろうとしたらときにちょうど兄が仕事から戻ってきた。
皮靴を脱ぎながら、お、という表情を作った兄に、絵未は玄関先で会釈した。
「お絵未ひさしぶりです。すみません、お邪魔してしまって」
こちらこそ妹がお世話になります、と兄はよそいきの言葉を返すと、廊下の脇に避けた。
絵未は笑って手を振ると、夜のドアの向こうへと消えた。これから、その、ずっと年上の恋人に会いに行くのだ。
そう想像したら、絵未の淡い輪郭が急に濃くなった。
私が冷蔵庫からビールを出して、兄のためにコップを用意しながら
「人の輪郭って、他人がなぞるんだね」
と呟いたら、Tシャツとハーフパンツ姿になった兄が腰を下ろしながら
「どうした、急に文学的なこと言い出して」
と真顔で茶化した。
「絵未、恋人できたって」
「うそ。おまえ先を越されたな」
「おっさん臭いこと言わないでよ、自分も一人の癖に。でも、本当にびっくりした。大学時代に絵未がアメリカへ短期留学してたときだって、金髪碧眼(へきがん)の男の子にまったくなびかないから、鋼のようなガールだって言われてたらしいし。絵未はずっとこの先もそういうことに無縁だとおもってた」
兄はビールを飲むと、上唇についた泡を指で拭った。
「でも正直。あの子は昔から妙に女っぽい子だと思ってたよ」
私は、そうかな、と呟いた。兄と絵未がお互いに似たようなことを言うのは、奇妙な感じがした。
絵未が手土産に持って来てくれたのはメレンゲのクッキーだった。
ビールとは合わないかと思うけど、一応、お皿に盛り付けて出した。
兄は一口齧ると、意外そうに
「なんか、これ面白い、中がすかすかしてる」
という感想を述べた。
「これ、卵白に砂糖を入れて泡立てたのを焼くお菓子だから」
「え、そんなの焼けるのか?」
「うん。普通の生地とは違って、焼く前の生地は繊細だから、潰さないように気をつけなきゃいけないけど。よく考えたら、不思議なお菓子かもね。出来上がったら、こんな食感もしっかりしているのに」
ふーんと相槌を打った兄は
「ちょっと、似ているかもな」
とこぼした。
「え? なにと似てるって?」
兄は冗談めかして
「俺だけが知っていればいいこと」
と答える、ビールを飲み干した。
それから流しで手を洗うと。残りは食べていいよ、と言い残して、タオル片手にバスルームなかに入っていった。
兄のいる間、一度だけ、夜中に母から電話が掛かってきた。
職場で若い女性社員たちに面倒臭いおばさんだと陰口を叩かれていると訴えるので、私は布団の上に座り込んで眠気を堪えながら、そうなんだ、と相槌を打った。
「私は、みんなの仕事が上手く回るように助言してるだけなのに」
と困惑したように呟く母の声がいくぶんか低くなっていることに気付いた。昔はちょっと喋るだけで甲高く響いたのに。
母が、お兄ちゃんにすっかり嫌われちゃって、と寂しそうにこぼしてたので、私は
「べつに嫌っていないと思うよ。ただ、いい大人同士なんだから」
と言ってから、自分も居候の身だということを思い出した。
もしかしたら私はずっと母に似すぎている自分が嫌だったのかもしれない、とふいに思った。
マカオに行くことは隠して電話を切った。
布団に入ってから胸の上で両手を合わせると、眠れないときは羊の数を数えるのよ、と昔教えてくれた母の声が聞こえるような気がした。
朝六時の成田エクスプレスはすでに外国人だらけで、朝早くの便にしたことを後悔するくらいにさっそく緊張した。
空港は広すぎて、チェックインして荷物を預けるだけで一苦労だった。迷ってうろうろしている私を最後にCAらしき若い女性が捜しに来た。
乗り込んだ飛行機を落ち着きなく見渡して、番号を見つけて通路側の席に腰掛けようとしたら、背後から
「失礼」
と野太い声で呼びかけられた。
ふり返ったら、黒いジャージ姿のでかい日本人のおじさんが立っていた。
あわてて退くと、ジャージのおじさんはずんと真ん中の席に入った私は思わず心の中で、運悪い、と嘆いた。こんな怖そうなおじさんのとなりに五時間近く座ることを想像しただけで過呼吸になりそうだ。
ガイドブックを広げて避難していたら、飛行機が滑走路を進み始めた。ガイドブックを持つ手が強張る。轟音と、離陸した感覚。本当に旅に出るんだ。と実感した。
しばらくすると、機内がうっすら肌寒くなってきた。
配られたひざ掛けに包まれていたら、黒髪の中国人らしきCAの男性がワゴンを押してきて、英語で飲み物は何にするかかとだけ質問された。
ワゴンの上から下まで眺めたけれど、温かい飲み物が見付けられなかった。この一ヶ月の特訓を思い出して、口ごもりながらも
「あの、ドゥーユーハブ、ホット、ドリンク?」
たどたどしく尋ねると、国は違えども同じアジア人同士だから案外すんなりと通じて。コーヒーだティーだと説明してくれた。温かい紅茶をもらうことができてほっとする。
となりの席のジャージのおじさんが堂々と
「コーヒー!」
と声をあげた。黒髪の男性CAは首を傾げたのち
「コーク?」
と笑顔で尋ねた。思わずずっこけそうになったけれど、そうか、私の発音は正しかったから通じたんだ。と少し自信が持てた。
その後も、ジャージのおじさんとCAの男性は
「ビール!」
「ビーフ?」
「ノー、キリンとかだよ!」
「ノー、チキン」
と滑りまくっているコントみたいなやり取りをしていた。
その二人に挟まれていたら、ビーフがいいとか、ペンを貸してほしいといったことを英語頼むことにもだんだん抵抗がなくなった。
ジャージのおじさんはビールを飲み干すと、すぐに眠り込んでしまった。
予想外に救われたことに感謝してから、私も座席に深く寄りかかった。
鼓膜がぼっとする感覚に襲われて目を開けると、着陸態勢に入っていた。いよいよ、と身構えているうちに機体は跳ねるようにして香港に着いていた。
空港で迎えの人を捜したら、日に焼けた男性から、ハーイ、浅野さんデスか!? と呼びかけられて、ほかの日本人観光客数人と共に集められた。
「それぞれのホテルまで送ります。両替は今ではなく、バスの中ですると、とてもお得です」
などと説明を受けてから、バスに案内された。
強い冷房の利いた車内では、飲み水や街中の治安について話を聞いた。うとうとしているうちにバスは九龍(くーろん)近くへとやって来た。
交通量はかなり多いようで、人通りもあり、賑やかだった。排気ガスのせいか、街全体が空まで霞んでいた。不安と期待でどきどきする。緊張で少し頭の芯が痺れている。
ホテルのフロントに着いて、またどたどしい英語でチェックインを済ませると、カードキー片手にエレベーターに乗った自分の肩からようやくどっと力が抜けて、深いため息をついた。
二十階のフロアは静かだった。トランクを引きながら、部屋番号を探す。
ごくシンプルな内装の室内に入って行き、白いベッドにそうっと寝転がった。
「あ―! 緊張した、やっと着いた」
窓へと視線を向けると、高層階から街は一望できた。
縦長の角ばったビルがたくさん突き立った街は、まるでレゴブロックで出来ているようだった。
ホテルのWi-Fiに接続するためにスマホをいじりながら、夕飯は一人で済ませなければいけないことを考えたら、緊張が蘇ってきた。二泊三日の旅だから、五回はなんらかの方法で食事をしなければならない。
目的地はマカオだけど、最終日にマカオから香港の空港までフェリーで戻って来られる自信がなくて、ホテルは香港にとって、中一日をマカオにあてる予定になっていた。
日が暮れてから外に出るのは不安なので、五時過ぎに夕飯に行くことにした。
微妙に顔つきが違うアジア人の溢れた街はひどく蒸していた。車のエンジン音が響き渡り、傾いた西日が空に滲んでいる。
ガイドブックに載っていたお店は一見あんまり清潔そうではなかったけれど、日本人も多く訪れるというので、ドアの前で行ったり来たりしてから、入った。
優しそうなお店のおばさんが、こちらが質問する間もなく日本語のメニューとお茶を持って来てくれた。
コップのお茶は湯気が立っていた。注文を済ませてから、なにげなく手にして口をつけて、思わず顔をしかめた。まずい。まるで機械が煮出したような鉄の味がした。
心配になった私の前に、ごろごろと大きな海老ワンタン入りの麺の器が置かれた。仕方なく箸を取り、恐る恐る海老ワンタンを齧る。
その瞬間、ふわっとごま油の香った海老の美味しさにびっくりした。麵を齧りあげると、中華麵というよりは、固ゆでの博多ラーメンに近いぶちぶちとした食感が物珍しくて、どんどん食べた。
私はたどたどしい英語で先ほどのお店のおばさんを呼び、小銭はよく分からないからお札で会計を済ませて、お店を出た。
ごちゃごちゃした電飾のうるさい街を見渡しながら、まだ、物凄く美味しい海老ワンタン麵と物凄く不味いお茶とのギャップに動揺していた。
「でも…できた」
日本ではろくに家の外にも出られなくて就活の面接にすら行けずに𠮟られていた私が、外国で一人で違う言葉を使ってご飯を食べられた。
はしゃいだ勢いでホテルの周りをぐるぐる三周して、化粧品屋や服屋に入るのはまだ怖かったので、結局セブンイレブンで水と朝食のパンを買ってホテルに戻った。
シャワーを浴びたらやっぱり頭の芯が痺れて、喉も痛かった。
部屋着に着替えた私は、飛行機の冷房のせいかかな、と思いながら、早めにベッドに潜り込んだ。
翌朝、ひどい鼻詰まりと頭痛で目が覚めた。
私は朦朧としたまま起き上がり。枕元のティッシュに手を伸ばした。かんでも、かんでも、詰まって息苦しく、子供の頃から季節の変わり目に患っていた、アレルギー性鼻炎のひどいやつだと悟る。頬骨あたりもうっすらと痛みを覚えた。
Googleで検索してみたら、炎症がひどくなると顔面痛や頭痛を併発することもある、と知って愕然とする。
顔いっぱいに不快感が広がると、自分が外国いるという事実が心細さをともなって迫ってきた。
私は洟(はな)をかみながら、帰りたい、と半泣きになった。呼吸さえも苦しかったらマカオどころじゃない。
そのときメールが届いた。絵未からだった
『旅は楽しめてる?』
女神からのメッセージを受信した気持ちで、私は泣き言を書き綴った。つらい、体調悪くて、と打っていたら、高校で寮生活をしていた時の記憶が蘇った。
寮の夕飯が味がいまいちだと冗談で言っただけで、ここは東京じゃないから、と揶揄されて嫌な思いをしたこと。そんなときはいつも絵未にメールしていたこと。
暗いベッドの中で、携帯電話だけが、夜空に浮かぶ一等星のような光を放っていたことを。
絵未のメッセージが立て続けに届いて、我に返る。
『薬局に行って鼻炎の薬を買って。病院じゃなくて大丈夫だから。』
『そっちは日本ほど薬事法が厳しくないから、薬が強い分、すぐに効いてくれるはず。薬のアレルギーはない?』
たぶんない。ありがとう、と打ち返した私は、ジーンズ穿いてTシャツの上にパーカーを羽織ってホテルの部屋を飛び出した。
薬局で薬なんて分かるのかと思ったけど、パッケージの絵と漢字の雰囲気で、案外、簡単に見つけることができた。
すぐにホテルの戻り、パンをがさがさ食べてから、薬を鼻から吸引すると、一瞬で詰まりが解消されたので驚いた。
しばらくベッドで休んでいると、頭痛はまだ残っていたものの、不快感はだいぶ和らいだ。
この旅に使った十万円が脳裏に浮かんできたので、行こう、と私は仕方なくベッドから起き上がった。
ショルダーバッグの中にスマホをしまいながら、絵未の恋人は幸せものだな、と思った。
離婚する半年前に私と兄を家に残して、両親だけがマカオへ旅に出かけたことがあった。
帰国後、母は家の食卓に写真を広げた。そしてマカオのホテルのカジノに挑戦した話ばかりした。女友達の結婚式でしか着ないようなドレス姿の写真を見せながら。
広げられた中に、重厚そうな教会の外壁の写真が数枚交ざりこんでいた。
その壁をべつのアングルから撮影した写真を見た私は、少し混乱した。
なぜか壁以外の建物全体が失われていたからだ。
じっと写真を眺めていたら、父が口を開いて、教えてくれた。
マカオはカジノのイメージが強いけれど、じつは世界遺産に登録されている建造物がたくさんあるのだと。この天主堂跡は火事で焼失してしまって今はこの壁しか残っていないけれど、それまでは東洋一美しい教会と呼ばれていたということも。
それからしばらくして父が、付き合っている女性がいる、と言い出した。
母は激昂し、ただの会社員のくせして愛人を作るなんて何様だ、その女の名前を教えろ、と詰め寄った。それでも父は頑なに彼女の名前を口にしようとはしなかった。どうせ弁護士や家庭裁判所が入れば最後には分かってしまうというのに。
深夜に泣きながら叫んだ母の言葉が今でも耳に残っている。
「いいかげんに、その女の名前を言いなさいよ!」
父と母の離婚が決まったとき、私は本当は父について行きたかった。高校受験への不安を抱きながら、母の激しい感情を受け止めたり愚痴を聞く余裕はなかった。落ち着いて勉強に集中できる環境が欲しかった。
そう言えば、受け入れてもらえると思っていた。
だけど父の愛人が拒否した。家庭を壊した張本人である私が、その家の娘の母親になるなんて到底できない、と。
そのときだ。初めて父とその愛人に憎しみが芽生えたのは。
彼らは私を侮っている。家庭が壊された。のか、もともと、壊れかけていたところに決定打があった、だけか。それくらの区別は子供だってつく。いくらお見合い結婚したとはいえ、父と母は傍目にも気が合っているようには見えなかった。
いつだったか父がぼそっと
「お母さんはもっと穏やかな人だと思っていた」
と苦笑しながらこぼしたことがあった。
たしかに外に出るときの母は別人のように大人しい印象があった。
宅配便の人が間違えて配達してしまった荷物を、隣の家の人が届けてくれたときにさえ
「まあ、わざわざ、すいません。こんなに重いものを。お手間だったでしょう。本当に、すみません」
と何度も申し訳なさそうに頭を下げていた。
それを聞いていた父が
「頭を下げるのは、一度でいいんだ、気を遣い過ぎると、相手も負担になる」
と諭した。途端に母は感情的になって
「ご近所付き合いしなきゃいけないのは私なのに、どうしてそんな事も理解してくれないのよ!」
と訴えた。
もしかしたら結婚した後は、ずっと母の片思いだったのかもしれない、と考えることさえあった。
こうだと思ったものが、やっぱり違って上手くいかなくなることはある。私も寮生活で嫌というほどそれを学んだから。
それでも、娘のくせに裏切者、と私まで責める母の元に置き去りにされて、さっさと自分たちだけ幸せになった父たちのことは今も全然許せない。
だからマカオという地名は傷のように私の中に残っていた、夫婦で旅行までしたのはなんだったの。と。
家族が崩壊する直前に、両親が訪れた教会の壁をいつか私もみることができたら、その答えが得られるかもしれないと、ずっと思っていたのだ。
冷えて硬くなった首をゆっくり動かして、フェリーの窓の外へと視線を向けると、港が近づいていた。鼻詰まりと頭の鈍痛が復活していて嫌気が差しながらも、やる気を奮い立たせて立ち上がった。
フェリーを降りたものの、乗り継ぎのバスがまったく分からなかった。路線図を確認しても、英語の表記だったから覚えられるけれど、中国語だらけなので返って混乱した。
なんとか一台に乗り込むと、冷房の利いた車内からようやく落ち着いて街を見物できた。
小さな半島とは思えないほどの交通量と、建物と、けぶる空気。突如、雑居ビルの合間に現れる金ぴかのど派手なホテルやカジノ。分かりやすくお金を纏った外観にくらくらする。
繁華街の真ん中で、私はバスを降りた。
正面だけの教会、という情報のみでガイドブックの中に目的地を見つけることができた。
地図とスマホを手に持ったまま坂道を上がっていくと、綺麗な広場に出た。
黄色い外壁が可愛らしい建物や灰色がかった教会に囲まれた広場だった。アジアといようよりは西洋の風景をみているようで、その界隈はこころなし空気も爽やかに感じられた。
そのまま人が多いほうへ進むと、急に食べ物を店頭で買える店が増えてきて、点心やらお菓子やらビーフジャーキーみたいな干し肉やら看板が並んでいた。
中国語や韓国語が飛び交い、誰もかれもお土産物屋の大きな紙袋をぶら下げて食べ歩きをしているので、竹下通りじゃん! と心の中で突っ込んだ。
その中を一人黙々と突き進んでいったら、青空がひらけて、階段の上に建築物が佇んでいた。
私は小声で、あったっ、と呟いて足を早めた。胸が高鳴る。うっすら汗をかいてきてパーカーを脱ぐ。久しぶりに人目にさらす二の腕はちょっと太くて、照れ臭い。
中国人の家族連れとすれ違ったら、身振り手振りで写真を頼まれたので、足を止めた。
返事より先にカメラを渡され、仕方なくかまえる。チーズ、だったら通じないと思って
「スリー、ツー、ワン」
と呼びかけると、ちゃんとポーズを取ってくれた。
カメラを戻したら、一番おじいちゃんぽい男性が
「ジャパニーズ?」
と訊いた。イエス、とイェー、の中間みたいな返事をすると
「You are so nice」
と言われたので、てっきり子供相手に誉めたような感じかと思いながら別れたけれど、ググッてみたら、あなたはとても優しい、と言われたことが分かった。
海外旅行は十分に気を付けないと危ない、とずっと言われてきた。
だけど日本だって女の子相手に乱暴にぶつかって来る男の人とか痴漢とかはたくさんいる。学校でも企業でもいじめやパワハラで追い詰めて殺すような事だってある。
日本人って日本人だけが信用できて優しいと思い過ぎじゃないかなあ、と考えながら、記念写真と自撮りと動画撮影で忙しい観光客たちを避けて階段を上がった先に不似合いな風格と威厳に満ちた正面壁があった。
抜けた窓枠の向こうにやっぱり青空が見えた。
振り返ってみる。階段の下にはピークのときの海水浴場みたいに人がぎゅうぎゅうに押し寄せていた。対照的な眺めに気が遠くなる。さほど遠くない昔、母と父もこの光景を目にしたことにも。
心もとなくなって息を吸ったら、鼻詰まりが治っていた。高い所に移動してきたので空気が澄んだようだ。
体が楽になるだけで、少し気が晴れる。こんなに単純な生き物だったことを、私はいつの間に忘れてしまっていたのだろう。
案内板に従って、公園の中の階段を昇った。見晴らしの良い場所にたどり着くと、目を見張った。
青空の下にあったのは何基もの砲台だった。およそ教会の近隣には似つかわしくない。
一基は町の中心にある金ぴかビルの方を向いていた。弾は出ないと分かっていても、その光景には軽くぞっとした。月並みだけど、日本にいたときの自分がすごく他愛ないことを怖がっていた気がした。
マカオ全体を見渡すと、高級な建物だけではなく、今にも朽ちそうな住居も多かった。ここを訪れて両親の気持ちを想像する。父は楽しかっただろか。母は砲台や教会に興味なんて持っていただろうか。
溢れかえった観光客を見下ろしているうちに、ふっと、気付いた。
たぶん楽しかったのだ。
二人ともばらばらの、ところで。
金ぴかのホテルとかカジノとか歴史ある世界遺産とか、ここには母と父が興味を持つものが雑多に詰まっている。もしかしたら父は愛人と別れて母とやり直すことも少しは考えていたのかもしれない。
だけど竹下通りのミーハーさと厳かな教会のアンバランスは、父と母の不一致こそを象徴しているようだった。
歩き続けてたら、観光地から外れた裏通りに迷い込んだ。日が陰って涼しかった。骨董品屋の中で店主が煙草をふかしていた。
ぼろぼろの食堂の前を横切るときに、猛烈にお腹が空いていることに気付いた。中には女性客が一人、二人いたので、勇気を出して入店した。
適当に麺という漢字を指すと、数分後、煮込んだ豚足がでんと載った麺が運ばれてきた。
箸では食べられないからと手づかみしたらべたべたになるし、骨を除けて置くお皿もなくて困ったけど、甘くてぷりぷりとした豚足はとても美味しかった。麺はやっぱり、あのぷちぷちと噛み応えあるやつだった。
戻る時にマカオの竹下通りで、兄と母と絵未にお土産を買った。
店を出たら、私も紙袋を手にした観光客になっていた。先きまで自分は違うと思っていたことが気恥ずかしく、やっぱり私は母の子だと実感して、一人で苦笑した。
フェリー乗り場に戻って来ると、一番早いチケットが、三時間後だというので仰天した。
早く乗りたいなら高い席があるぞ、と言われたけど、ノーサンキューと断って、そのへんのベンチで水を飲んだりお菓子を食べたりしていたら、どっと疲れが出た。
足も怠いし頭痛もぶり返したので、香港の強い薬を吸引してなんとか持たせながら、自分は十万円使って一体何してるんだろう、と嘆いた。
劇的な出会いがあったわけでもなく、結局、両親のことだって、本当のところは分からない。もしかしたらただ単にセックスが合わなかっただけかもしれないし、としようもないことさえ浮かんできた。
そんなふうに一人旅を振り返っていたら、絵未からメールが届いた。
『明日は夕方着の便だっけ? 彼のお店に食事しに行こうと思うんだけど、一緒にどうかな。』
私は、行きたい、と即座に返信した。日本にだって片手で足りるほどしか話し相手はいないけど、異国で一人でいるよりはずっといい。
私はプレートを埋め込んだ鎖骨に手を添えて。無理せずにまずは友達を作ろう、そのために好きな仕事を見つけよう、と思った。
帰りのフェリーの中でうとうとしていたら、絵未から
『良かった。黒田さんに伝えておくね。』
という返事があった。
茫然としていた彼の像に、黒田、という名前がつくと急に鮮明になった。実際に合っているかはさておき、顔までうっすら浮かんでくるようだった。
父と愛人に傷つけられた心の一部は、十年以上経っても今も癒えない。
それでも父は最後まで彼女の名前は口にはしなかって、その具体性がなによりも私たちを決定的に傷つけることを、もしかしたら分かっていたのかも知れない。
駅の改札口を出ると、スマホを見ていた絵未が顔を上げた。
その神々しい笑顔に、私はトランクを引っ張って駆け寄った。
「お帰り。どうだった? 初めての海外旅行は」
私は泣きそうになりながら笑って、答えた。
「色々、最悪だった」
「最悪?」
絵未が驚いたような声をあげた。私は頷いた。
「うん。だけど友達って本当に大事だと思えたから、良かった」
困惑した様子の絵未に、ありがとうね、と私はお礼を言った。
お店に向かう最中もずっと彼女相手に喋っていた、日本語が懐かしく、東京の方がまだあちらより空気の濃度が薄く楽だと感じた。
だけど瞬きをすると、蒸した香港の街に引き戻されていた。見知らぬ道を進んでいく自分の、長い間、眠らせていた生命力とともに。
絵未が戸を開けると、店の奥にいた男性がこちらを向いて
「あ、いらっしゃいませ」
と遠慮がちに言った。絵未は軽く会釈すると、一番奥の席に慣れたように座った。
私は隣の席に腰掛けて、出してもらったおしぼりを受け取りながら、お店の男性を改めて眺めた。
料理を作る人だから清潔にしていて、若くはないけど老け込んでいる印象もなかった。男らしくて頼れそうな人だな、という感想を抱いた。
鋭い切れ長の目が、気遣うように絵未に向いてから、こちらに引き戻された。
それだけで彼が絵未のことをどれだけ好きかが伝わってくる。
「絵未さんの、中学のときからのお友達ですよね」
と訊かれた。お友達、という響きが嬉しくて、私は
「はい」
と頷いた。彼も何だか嬉しそうに口元で笑って、そうですか、と頷いた。
それから絵未に向かって
「あとで友永も来ますよ。なんでも今度、街コンってやつが、このへんで」
と言いかけた時に戸が開いた。
振り向くと、爽やかさと夜の空気を纏った男性が立っていた。皺のない黒シャツを着こなした姿に見惚れていたら、彼は私の隣に腰掛けた。
「黒田、これ、刷り上がったばかりのチラシ」
とカウンター越しにチラシを渡された黒田さんは、うん、と頷いた。私が、街コン、と呟くと、黒田さんが素早くこちらにチラシを見せて
「ご興味あれば、是非。同性の知り合いと二人一組で参加できるそうですよ」
と真顔で勧めてきた。
「あ、でも、一緒に行く相手がいないので」
「じやあ私が一緒に行こうか?」
と絵未がなにげなく言うと
「えっ?や、ちょっと、ちょっと」
黒田さんが本気で焦ったように遮ったので、絵未と私は思わず噴出した。
「飲み物なにしようか」
と絵未が尋ねるので、私はじっとメニューを見た。ビールとサワー以外はいまいち分からない。
「この、秋鹿って大阪のお酒なんですか?」
と目についたので気になって訊いた。黒田さんは、はい、と頷いた。
「辛口で適度に旨味もあって、料理にあいますよ。友永は、ビールでいい?」
そう訊かれて、となりの席の男性は頷くと
「日本酒がお好きなんですか?」
とふいに質問してきた。私は慌てて首を横に振った。
「ほとんど飲んだことないんです。ただ、私、高校が大阪だったんで、ちょっと懐かしいな、と思って」
友永さんはなぜか驚いたように、えっ、と言葉を詰まらせた。
「あの、ちなみに大阪のどちらですか?」
「えっと、大阪城の近くの女子校で」
と説明すると、彼は急に声を弾ませて
「ほんとですか? 僕、鶴見区の男子校だったんですよ。出身は静岡なんですけど、親の転勤で」
と言ったので、私もびっくりした。
「え!? 鶴見の男子校なら知っています。一度、学校帰りに声を掛けられたから。うわあ、懐かしい」
「近くにいつも上半身裸のおっちゃんがやっている焼き鳥屋ありませんでした?」
「あった! トラ柄のパンツ穿いてるおっちゃん。でも意外と美味しい店」
友永さんは声を上げて笑って、そうです、と相槌を打った。
英語のストレートな物言いが少しは身についたのか、この前までろくに他人と会話していなかったことが噓のように言葉は溢れた。その間、絵未は穏やかな表情を浮かべて見守っていた。
ずつと自分は不幸なのだと思い込んでいた。
だけど、そんな不幸は、ぜんぶ昔に終わっていたことだった。
友永さんが壁を振り返って
「トランクは、どちらのお荷物ですか?」
と尋ねた。私は答えた。
「私のです。初めて海外にひとり旅に行ってきて」
友永さんが興味をもったようだったので、私は語り始めた。最悪の一人旅のことを。愛の溢れた店内で。
2018年12月20日第一冊発行 あなたの愛人の名前は 島本理生著
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