表現すること女性との幸福な関係は、たとえばこういうパターンが考えられてきた。結婚しても良き妻とよき母でありながら、自分の表現を極め、自分のペースにあった表現活動を続けて、なおかつ、世間の評価とお金も得る――。竹内まりやから、料理研究家の栗原はるみまで、世間が羨望する理想的な女性のサクセスストーリーの中心らは必ず表現が存在することがわかる。

8章 表現する女

イラスト
 女性にとって社会的なインフラが古くから整えられていた分野が、表現、である。日本では紫式部、清少納言、歌舞伎の創設者、出雲の阿国をはじめとして歴史に名を残している女性のほとんどはそれゆえに有名であり、女性で初めてお札の肖像として印刷されることになった樋口一葉ももちろん小説家という表現者である。

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 小唄の師匠やお琴の先生など、女性がひとりで生計を立てることができる技術がすなわち音楽や文芸などの表現領域でもあった。これは高度成長期のピアノやバイオリンブームをささえたホンネのひとつであり、「将来」この娘がひとりで生きていかなければならないことになったら、ピアノで食べていければいい」という親の皮算用も大いにあったはずだ。

表現すること女性との幸福な関係は、たとえばこういうパターンが考えられてきた。結婚しても良き妻とよき母でありながら、自分の表現を極め、自分のペースにあった表現活動を続けて、なおかつ、世間の評価とお金も得る――。竹内まりやから、料理研究家の栗原はるみまで、世間が羨望する理想的な女性のサクセスストーリーの中心らは必ず表現が存在することがわかる。

 それゆえに、女性の教養として長い歴史がある文学やクラッシック音楽、そしてファッショの分野は、これまで女性の表現プロフェッショナルを多く出してきた。松任谷由美、中島みゆき、椎名林檎、宇多田ヒカル、ドリームカムトゥルーの吉田美和、Aiko、UA、MISIA、浜崎あゆみ、アンジェラ・アキなどJポップの領域での女性アーティストの活躍はもちろんのこと、文学方面はといえば、

芥川賞、直木賞もこのところ女性の受賞者が多く、江國香織、綿矢りさ、金原ひとみ、角田光代、絲山秋子などが第一線で活躍中だ。マンガの世界も、最近は男性誌に安野モヨコやよしながふみ、とりのなん子などの女性漫画家が多く進出している。スタッフに男性が多く、今までは力学的に女性が才能を発揮していくことが難しかった、

建築や映画監督という表現分野でも、カンヌ映画祭のグランプリに輝いた河瀬直美をはじめとして女性の活躍が目立つし、写真の世界もここ数年の表現のスターは、梅佳代など女性が目立っている。笑いという先端的に見えて、その実最もポピュララリティ―を必要とし最も保守的なお笑いの分野も、個性のある女性芸人が多くでてきて今や活況状態だ。

「女に生まれて来て良かった、と思うことがある。何故かと言われれば、世の主流ではないからだと答えたい」(松浦理英子・笙野(しょうの)頼子『おカルトお毒味定食』書評、『白蛇教異端審問』所収)と言ったのは桐野夏生である。政治や経済が人間の生活の根本にかかわる本流ならば、表現領域は「別にそれがなければ困らないけど、あった方がいい」という傍流でもあり、そういう意味でも女性との相性は抜群である。世間もまた、男の表現者に気づくことの出来ない傍流=オルタナティブならではの特質を女性は求め続けている。

オノヨウコに現代美術の草間彌生、沖縄出身の呪術的とさえ言える歌姫Coccoや万年少女であるYUKI、聖と俗とが合わさり独特のデコラティブな世界を映像表現した野田凪など、いわゆる広義の「不思議ちゃん系」の個性は女性が表現する場合には多いにメリットがある。理性やシステムに対して、感性や直感は女性の専売特許というわけだ。

しかし、そういった女ならではの不思議ちゃん天才や女性の表現者の作品が、ことごとく女流といった枠組みで完結してしまうかといえばそうではない。すでに女性と男性の主流、傍流という二項対立は実社会において融解しつつある。実際に、宇多田ヒカルを浜崎あゆみ、綿矢りさなどは、どちらかというと男性の少年性を表しているようなところがあり、彼女たちについている男性ファンというのは、彼女たちの歌を「僕の歌」と思っているようなところすらある。高村薫が描くハードボイルドな刑事や警察などの社会は、書き手を覆面にしたら、これが女性作家の手になるものとは誰も思わないだろう。

ブログ日記が開けた表現の扉

「結婚しても続けられる家仕事で、人からはセンセイ扱いされて尊敬もされる」
小説家は戦後の文化的な家庭ならば、女の子の理想的職業のトップと望まれるような位置ではあった。「手に職」は、会社組織で能力を生かすことが難しい女性の合い言葉だが、小説家をはじめてして、コピーライター、シナリオライター、エッセイストなど、筆一本で金も名誉も手に入る文章関係の仕事は、女性にとって昔も今も、表現のプロへの古典的な早道でもある。

 近年、ブログという「誰でも手軽にホームページ」というメディア大革命が起こって、文章、テキストは最も手っ取り早く、表現欲を満たすことの出来る手段となった。それまでは、不特定多数の人間に定期的にものを伝えようとするには、まずは雑誌などで、意見などは署名原稿というまた特別なプロの階段を上がらなければならなかったところが、それらの中間システムが消し飛んでしまったことの意味は大きい。

『更級日記』など数々の日記文学を生んだ国だけのことはあって、ブログの世界でも一気に脚光を浴びた表現は、日記だった。世界のウェブサイトの約8割は英語で書かれているにもかかわらず、2006年第四四半期にブログでもっと投稿されていた言語は、日本語だったそうで、

いかに日本人が、ものを書く表現が好きかということが良くわかる。「自分というものをテキストに表して、それが不特定多数の目にさらされ、反応が返ってくる」という、今までは一部の人間にしか味わえなかったコール&レスポンスの喜びがブログというファンクションを通して、一般人にも開放されるようになったことは画期的だった。

 匿名でも本名でもいい。ミクシィ上にアップされた“私”
は、マイミクという友達の輪やコミュニティーという「趣味や感覚が似ていそうな集団」、すなわち同好の士に向かって、思う存分、自分の考え方やセンスを表現することができるのだ。日記によくレスを付けてくれる人には、同様にその人の日記にもレスのお返しをするという不文律もあり、

ミクシィ日記にはコメントという反応がかなり高い確率で返ってくる。それは普通にブログ日記をやっている時よりも、格段に数が多いのは私自身も体験済みだ。プロの小説家にとっては読者はがきの一枚でも甘い蜜の味だというから、このシステムは書くことのモチベーションをマックスに上げてくれるはずなのである。

 ブログの日記はタイトルがあり、プロフィールがあり、雑誌のごとく編集されたデザインがあり、そこに個人のキャラクターを演出することができる。実在する「めざせ!セレブママ」や「姐さんのつぶやき日記」などのタイトルからうかがい知られるように、そこには他人の視線を意識しての自己プロデュースのバイアスがかかる。

 女性誌のタイトルやコピーを思い出してほしい。女性を取り巻くメディアや商品は買う人間を引き込むため、わかりやすいキャラや特集を設定している。それをお手本にしているため、女性の日記系ブログはまるで女性誌のようなテーマやキャラが並ぶことになる。

ダントツに多いのがコスメにグルメにダイエット。これをはじめとして、子育て、結婚式までの道のり、料理、旅行、犬や猫などのアイテムに加え、映画や本の感想も少なくない。セレブを意識してか、実際にブランドショッピングやグルメに多大なお金を使っているライフスタイル提示も多く、ちょっと辛口で生意気な語り口はまるでテレビでお馴染みのタカビーなセレブタレントのようだ。

 たまにチェツクするミクシィ内のグルメ系コミュニティーにもそういうキャラの女性がひとりいる。まあ、この女性、高級レストランはすべて行きつけているらしく、コミュニティーの管理人自らのグルメ評にツウな辛口レスを寄せており、高級ワインをそのへんのテーブルワインのように語り口にて、このコミュでは女王様のような存在になっているのだ。

この人、金持ちの娘→リッチ専業主婦ラインの人なのだろうけど、ミクシィ日記が無ければ彼女のキャラはせいぜい周囲のお友達とまり。グルメ自慢を発揮する機会もなかったはずである。彼女はミクシィのブログ日記があって初めて、「見知らぬ人からの賞賛」という予想外の甘い果実を手に入れることができたのである。

ブログスターダムへの近道

 近年加速しているのが、人気ブログの書籍化だ。
 シロウトの達人たちを公共メディアはこれまで、いろいろとすくい上げてきたが、もはやブログという表現手段がそれを超えてしまった。家庭料理という広大なフィールドを女性は持っているが、その中でも腕自慢の主婦達が、地に足のついた、アイディア豊かなレシピをどんどん公開し、人気のものは書籍として刊行されている。

料理が得意な普通の主婦であった栗原はるみは、夫の栗原玲児のプロデュースでスターダムに登り詰めたが、もはやそういう役割の夫がいなくても、自分でそのチャンスをつかむことが出来るという訳だ。

 シロウトがブログや携帯サイトに発表する小説も、実際に『DeepLove』(Yoshi)、『恋空』(美嘉)など映画化されるベストセラーが出るとなると、表現欲求に火がつくといもの。よしもとばなながデビューしたとき、やはり多くの女の子は「これならば私も書けそう」という思いを抱いたものだが(実際には、彼女の作風は名人芸とも言えるプロの筆致なのだが)携帯小説はもっと敷居が低い。敷居が低くなった上に、当たればデカイ。もしかしたら、私でも! という思いが湧いてきて当然だ。

 また、才能を欲している業界側もホームページを使って、様々なアワードを行うようになっている。自身のサイトも含め初期からインターネットに深くコミットしている映画監督の岩井俊二は、オフィシャルサイト「円都通信」内にシナリオ応募コーナー「しな丼」(戯曲通信“Play works”として独立したウェブとなっている)を設けた。

そこからは、実際の地方の一主婦であった渡辺あやが講評担当のプロデュサーの目にとまり、映画『ジョゼと虎と魚たち』というスマッシュヒットでプロの脚本家として華々しいデビューを飾ったことは記憶に新しい、脚本家への道は、シナリオライター養成講座にまず通ってからというのが、これまでの王道だった。

もしも、このようなインターネット公募が無ければ、彼女は島根県で雑貨屋を経営しながら子育てをする映画好きな主婦で一生を終えたかもしれないわけで、インターネット表現時代のサクセスストーリーの典型だろう。

 インターネットでは自分のお店を持つことができる。

 これまた女性の領分である、ファッション、アクセサリー、帽子、バッグに雑貨などプロダクトの分野も、これまではプロとアマチュアの部分ははっきり分かれていたが、その製品が売れて、独り立ちできるならばその作り手はいっぱしのデザイナーであり、作家でもある。

 ホームページサーフィンをしてみると、そういった個人レベルのささやかなブランドに多くぶち当たる、ファッションで言えば、文化服装学院の学生が数名で立ち上げたような本格的なコンセプトブランドもあれば、もともと洋裁好きで趣味で自分や親しい人たちと作ってみたものをそのまま、ホームページに載せて無理のない受注生産を受け付けるものなど様々だ。

 この分野においてもネット発のスターが生まれそうな予感がする。
 アニエス・ベーを有名にしたのは、誰でも作れるようなスナップボタン付きのスウェットカーディガンだった。それが、パリのファッションリーダーの目にとまりブレィクしたように、ある優れた定番商品がホームページブランドから創り出され、それがビッグヒットに化ける可能性は充分にある。

実際にウェディングドレスなどはすでにその萌芽があるが、オーダーメイドの新たな商売が始まっている。昔の街のドレスメーカーのようなお抱えデザイナーを個人が持つ動きができるかもしれない。自家菜園のハーブの入った手作り石鹼、イギリス帰りの主婦が作る本格クリスマスプティングなど、考えてみればこの分野、大手メーカーが考えられないニッチなビジネスチャンスに満ちていそうだ。

 急成長の下着メーカー、ピーチ。ジョンの成功の要因は、実際にブラジャーのユーザーである社長が「これがあったら私は買う!」という欲求に徹底的に忠実に展開した商品群と、読んでかつ見て楽しいカタログメディアにあった。カタログは印刷費や配送費に多大なお金がかかるが、ホームページならばうんとコストダウン。ピーチ・ジョンの成功例は女性の趣味プロダクをビジネス化するときの大きなヒントにもなる。

 これからのホームページ起業は、普段は仕事に忙殺されてしまう働く女性よりも、専業主婦の方に向いていそう。専業主婦率が高く、60代を迎えつつある 団塊世代の女性などは、コンピューターを自家薬籠中のものにしたならば、もっと生き甲斐を追及できそうだ。インターネットは女性のものづくり趣味をブレィクさせる予感を秘めている。

女という表現はアイドルに帰結する

 普通の女性が身近に感じ、かつ憧れる“表現する女”は、アイドルだろう。
 子供の時からテレビでさんざん親しんできた存在あるし、なんと言っても、普通の女の子(とりたてて才能がなくてね、平均以上の可愛らしさと若さがある)が、観客に無条件に受け入れられ、愛されるという存在には誰だって食指が動く。

本当に普通の女の子ばかりだったモーニング娘の例もあることだし、こうなると、ほとんどすべての女の子に可能性が残されているような気がする。

 アイドルというものは元来プロフェッショナルな存在で、本人でだけでは成立しないシステムだ。弾き語りアーティストはそれがプロでもアマでもその中間でも、本人さえいればストリートでも表現できるが、アイドルはそういうわけにはいかない。

 しかし、その不文律にする近年、大きい風穴が開いた。秋葉原や原宿の路上や専門スペースで、自前の衣装を着て、カセット持参で歌い踊る、インディーズアイドルが誕生したのだ。アイドルにつきもののCDだって、レコード会社と契約しなければ出せない、などということはない。今や、パソコンがあれば簡単にパッケージも含めて自作できる時代であり、実際に歌い踊る彼女たちの足下に必ずCDが積まれていたりする。

アイドルにアイドルたらしめるには熱狂的なファンが必要だが、秋葉原はもともと二次元キャラを含め、アイドルを支えるオタク男性の聖地だ。70年以降。メディアとともに育ってきたアイドルにはすでにファンの間で応援スタイルが確立しており、そこが立派なコンサートホールではない場所でも、彼らのメジャーアイドルと同様の態度をキープしてくれる。

ファン同士、同じ振り付けを踊ったり、オリジナルなかけ声を発したり。路上アイドルたちはそんなファンとのコミュニケーションを大いに楽しんでいる。平日は働き、休日だけの二毛作アイドルも多いと言うし、この分野、出雲の阿国が河原で踊ったように、芸能というものの原点返りを思い起こされる。

 カラオケによって、歌という表現に目覚めてしまう女性たちも多いはずだ。
 今のように個室カラオケが一般的になってから青春を迎えた世代はカラオケで歌うことに何の抵抗もない。気が付いてみれば、周囲には「越冬つばめ」をとてつもない技量で歌いこなしたり、「この人のコレが聞きたい」がために方々からお呼びがかかる強者も数人いる。とすれば、これはすでに表現者の域だろう。

 私は日曜日の昼間の『NHKのど自慢』の長年のウォッチャーなのだが、この数年目立つのが、30代、40代の主婦仲間がお揃いのコスチュームでキャンディーズなど往年のアイドル歌謡を歌うというオバハングループの存在だ。日本のアイドル界では、40代でも堂々、アイドルを張れる松田聖子という偉大な先駆者がいるわけで、彼女とともに年齢を重ねてきた女性たちは現在、日本全国津々浦々のカラオケで自らをアイドル化して熱唱を続けているのをみてよい。

 そのハイレベルな表現のマグマの行き着く先のひとつとして、通信カラオケ「DAMステーション」を使ってオーディションに参加できる『歌スター!!』という深夜番組がある。エントリー者には、熟年になってもう一度ギターを手に取ってみました、というオジサンもちらほらいて結構いい歌を聴かせたりするのだ。

実際に39歳で四児のパパ、木山裕策がデビューを果たし話題になっているが、大食いであれ、物まねであれ、どんなパフォーマンスもそれを求める観客がいれば、プロの表現になりうる。それはこの世の中、自分の個性を生かし、楽しいことをお金にできる、リアルなサクセスと繋がる夢の架け橋でもあるのだ。

ダンスにヒートアップする女たち

ダンス系の教室が、以前にもまして女性の人気だ。
 ヒマがある主婦の生き甲斐と思ったら大間違いで、かなりハードワークに励んでいる働く女性も足繁く教室に通っている。エアロビクスとジャズダンスぐらいしかなかった昔と違って、この世界は今、フラダンス、フラメンコ、ベリーダンス、サルサ、タンゴ、ヒップホップ、インド舞踊、アフリカン、クラッシックバレエ、ポールダンス、日本舞踊にかっポれまで、もはや、世界中のダンスで教室化されていないものはないのでは、というほどの活況を見せている。

運動不足解消やダイエットのために身体を動かしたいというのが第一欲求だろう。そして、続けていくうちにそのダンスがもともと歴史的に持っている表現の魅力にとりつかれてしまう、というのがダンスにハマる女性たちの方程式だ。

 特に熱気を帯びているのがベリーダンスだ。これもともと中近東のハーレムで生まれ育ったという出目のごとく腰を煽情的に動かす相当にセクシーダンスなのだが、異常ともいえる勢いで教室が増えている。たしかにあんな腰の動きをされてみれば、20代の男性は辛抱タマランだろうが、どうもそんな直接的な目的で女性があれだけ熱中するわけでもない。実際に妙齢の男性諸君にこのベリーダンスの評判を聞くと「あれには、ドン引きですよ」というつれない回答。

 女性の積極的なセクシー表現には、痴女と貶めるか、美形でナイスバディならば可、と厳しい条件を付けがちなニッポン男子とは明らかに温度差がある。そう、ベリーダンスは女性が普段の生活ではなかなか表現できていない、「内なるセクシー」をここぞとばかり開放しプレゼンテーションする場なのだ。

いくつかの教室では発表会があって、その熱気は凄いと聞く。しかしながら、そこにパパラッチのような男性が押し掛けるわけでもなく、女だけが熱くそのリビドーとエナジーを爆発させるばかり‥‥。

 もともと、飲食の余興として踊られてきた経緯もあって、ベリーダンスは上達すると、パーティーやレストランにて踊る“営業”の機会が他のダンスに比べて多く、会社生活とこれを両立させている女性も少なくない。上司や同僚もそれを知っていて、彼女のパフォーマンスを見にやって来るというのだが、会社では淡々と伝票処理を行っている地味な部下が、突如として腰をグラインドさせてハーレムの雄ヒョウに変貌するのを、彼らはどうやって理解&了解しているのか、心中察するにあまりある。

 ダンス系に共通するのが、発表会というプレゼンテーションの場がある。ということだ。そのために衣装を揃え、練習を重ね、会社の人間や家族、友人を呼んでお披露目にエネルギーを注ぐ。まあ、海の向こうの南米のリオでは、年一回のカーニバルのためにその他の日々を生きているわけで、そういったハレの日を個人が求めていくというのは理にかなったことだ。

日本でも最近、各地で祭りが復権し、御興や伝統行事などが若い後継者を得て発展している。祭りにつきものの踊りが特化して全国各地で大ブームを起こしているのが、高知県のよさこい祭りと北海道のソーラン節がミックスされて生まれたYOSAKOIソーラン祭りである。その参加者は言うまでもなく女性が多く、10代から70代までがその発表の日のために準備を重ねているのだ。

そして、みな表現人生を選んでいく

 私がクラシック音楽関係の両親に、小さい頃から言われ続けたことが、「音楽家の道は考えるな」ということだった。世間が音楽一家に抱いているイメージとは真逆だろうが、これだけは口を酸っぱくして言われ続けた。

 表現するにはスキルがいる。スキルがあっても才能がなければ、その表現は人の心を打つことはできない。技術の鍛錬と才能があって人は初めて表現を手に入れることができ、それを職業にすることができる、というのが両親の考え方だった。彼らは昭和一桁生まれで、もうちょっと下の世代になると、舞踊もあり、アングラ演劇もあり、もちろん、パンクロックもあり、表現にスキルや才能は必ずしも必要ではない、という表現とスキルと才能の問題は世間に常識として存在するが、現実のエンターテインメント業界の状況はどんどん、それを突き崩している。

 たとえば、役者を目指したいという若者がいたら、かつてなら、桐朋の演劇科か日藝、もしくは文学座というエリートコースがあった。ところが、今なら、劇団大人計画かジャニーズ事務所に入った方が有利だろう。歌手ならば、誰それのお弟子に入ってチャンスをうかがうという下積みよりも、駅前ライブやオーディションなど、現場には至る所にチャンスが広がっている。

 ちょっと前ならば、学生バンドがメジャーデビューをする場合、メンバーの何人かは就職のためバンドを諦める、ということが普通だった。しかし、今ではバンドを諦めない方、つまり、表現人生に賭けてみる率は以前よりもずっと高いことは想像に難くない。

夢を諦めて入った会社が苦節何年で倒産、旨味満載だった官僚制度も地に落ち始めている今、どうせ一回の人生ならば「好きなことをおやんなさいよ」の方が民意としてなんとなく、なじみ始めているというのが現在だろう。

 運良くメジャーデビューしたとしても、永遠にプロのアーティストとして食べていけるという保証は全くない。それは現状を見れば明らかで、アマチュアバンドがプロになってその後ずっと職業としてやっていけるのはごくごく少数派である。このあたりを、今、音楽を志す若者たちはシビアに考えてもいる。

人気のヒップホップグループ、ケツメイシの場合、薬剤師免許をもっているメンバーは自宅の薬局で薬剤師の仕事を、売り始めてからもかなり長い間続けていたというし、男性アカペラグループ、ラグフェアーのメンバーのひとりは、メジャーの活動をしながら、保育士の資格に挑戦してもいる。

 プロの表現者であることは、それでずっと食べていける、ということは必ずしも意味しなくなった。一曲のヒットだけで消えたアーティストやバンドはたくさんいる。しかし、その一曲がいつまでも時代とともに思い出される名曲だったというパターンは数多い。一発屋は惨めなものではなく、一回でも世間の話題を一心に集め、たぐいまれな体験をした人間として、人々の心にとどまることになる。

週刊誌の『あの人は今』特集は惨めの極み、という一般常識は年を追うごとに急激に変化している。レイザーラモンHGに小島よしおのように一発屋に張り付いていた嘲りの視線は今は少し趣旨の違うものになっていると思う。たとえ一曲でもメガヒットを生み出すことができた、稀に人への憧憬もその中に混じっているはずだ。

 表現でメシを喰っていくことはしなくても、一生をかけて表現することを止めない人生が今、共感を持って受け入れられてきている。電通の社員のまま、芥川賞を受賞し、定年退職後は今度は「千の風になって」訳詞と作曲が大ヒットになった新井満のような生き様が理想、というべきか。

イギリスの高等教育機関の中では、一生の趣味を見つけることを教育目標とする学校があるという話を聞いたことがある。それを聞いたときには、「何だか悠長な話だな」と思ったが、時代は確実にそちらの方向に行っている。

 表現のハードドルが低くなった分、誰でも表現者を名乗ることが出来る。地道に続けていれば誰でももしかしたら、一生に一回ぐらい時代に共振し、人の心打つ表現が出来るかもしれない。そんな夢と希望が今、世間には充ち満ちているのだ。
 つづく 9 章子供化する女