女性向けの本や雑誌の特集で未だに根強い人気なのが「大人の女」という切り口である。これは80年代に青春を送った私にとって、さんざん目にしたスローガンであり、さすがに今は陳腐化しているだろうと思いきや、以前にも増して声高に言われていることにいささか驚いてしまう。
「広告」スレンダーかつ鈴木京香似の白肌美人がハイヒールを履き颯爽と去る後ろ姿は思わず後ろを振り向き二度見する男たちは多いだろう。恋多き京香さん50歳の雰囲気はしませんよね、美肌と躰の手入れには怠らないエクササイズ(骨盤底筋強化等)に励み、尚ハイヒールを履きつづける女装は立派。ハイヒールは美しい姿勢作り他にも「中国、秦の始皇帝時代高官や豪族たちの妻や側女は纏足(てんそく「爪先立」の木靴)を四六時中履かせられることで膣の締まりの強化のために履いた」)膣の締まり効果がある。
鈴木京香さんと随分前に恋人関係を一時絶っていたイケメン俳優長谷川博己さんといつの間にか復縁し同棲(2020年)しているという。モテモテの長谷川さん何で復縁したの! 近頃多くの40、50代の独身女性たちがずっと年下の男をゲットしている事例が多い、男の心と躰を充分に満足させる秘は、日々辛い修練の賜物による女力があるからだと思う。
官公庁や大企業や有名企業に就職している大卒新入社員で将来高給取り有望な若い男たちは、既に大学のサークルや学内で女に粉をかけられ恋人あり・婚約中。残り物には福があるというが、グローバル化した現在ではそれは完全に無い。日々辛い修練をせず、30歳前後の負け犬の女は男性新入社員を横目で見て指をくわえて悔しがることしきり。ならば、外国に語学留学して国際結婚の道しか残されていないのかと焦る。
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80年代、山口百恵が結婚し芸能界を引退して、普通の奥さんになったことが美学とされていた時代、「大人の女」という言葉には、今よりもかなり半モラルなニュアンスが込められていたように思う。仕事を持って、生活感のないひとり暮らしをして、男に選ばれるよりは男を選び、セックスにイニシアチブを取れる女。そして、小道具として必ずたばこにお酒がついてまわった。
小道具だけでは誰でも入手できるので、当時の心ある若い女性はこぞって喫煙に走ったものである。
とはいっても、当時の30代、40代の女性にそのような現実的なロールモデルは殆どいなかった。いわゆる、絵に描いた餅状態である。団塊の世代の女性たちは学生運動の波が収まった頃、ウーマンリブという形で新しい女性像を体現したが、現在のように男と同等の仕事に就いて働けるような環境があるわけでもない。ということは、「大人の女」はいきおい、観念的なイメージ先行のものになっていたのは否定できない。
従って、この時代の「大人の女」はフラン人女優をはじめとした外国人がアイコンになった。「大人の女」は自我の問題とも絡んで来るので、どうしたって輸入観念にならざるを得ない。外国人、特にフランス人女性は子供っぽい日本人女性よりも自立していて大人だ、という信じ込みは現在の私たちの中にも確実に存在する。事実、高級女性誌は未だに欧米各都市の自立しつつ美しい大人の女を紹介し続けているではないか。
そういえば、小林麻美という存在もいた。元祖、大人の女の体現者だった彼女は、ながい髪の娘チャンファメイ、背が高く細い身体で竹久夢二の絵に出て来そうなアンニュイを体現。髪はロングソバージュでフランス人形のような洋風な雰囲気もあり、その生活感の無さはキャリア系でもなく、妻でもなく、言うならば愛人系というムード。
「朝は低血圧で、紅茶を一杯飲みながら、細身のたばこをゆらす。ああ、雨音はショパンの調べ」という無責任すぎるほど実体のないイメージである。彼女のこの時期、20代後半ぐらいだったのに、今の50歳ぐらいの「すでに余生っぽい」印象があった。
大人の女には、「セックスの快楽を知っている」というようなニュアンスが当然、含まれているのだが、当時の小林麻美イメージにはそこを巧妙に避けている空気があった。「セックスはしますけどぉ、私、そんな動物みたいなこと、ホントは嫌い」って、言外に言ってそう。このころの大人の女は、ひたすらキレイ事だけだったのだ。
今にして思えば当時の「大人の女」の職業はあまりにも不可思議である。少女マンガ界のユーミン的存在と言われる一条ゆかりが83年に発表した『それすらも日々の果て』には、主人公である少女の恋愛相手の妻として、分別のある30代の「大人の女」が登場する。彼女の職業は画廊のオーナー。日本のリアル美術シーンをよく知る身になってみると、こういう女が画廊経営しているということは、どう考えてもバックにその筋の会長が居なければイカンということになるのだけれども、マンガ内ではそうではなく、彼女が恋に破れて「疲れたわ」と言ってひとり店をたたむ始末である(何という余裕)。
当時、若い女性の間で人気があった森瑤子の小説も、彼女の作品に出て来る世界を飛び回る華麗な独身女性と、厳しい年棒条件をバックに世界出張をエコノミー席でこなす今の女のリアリティーとは呆れかえるほど違う。シンガポールのラッフルズホテルのプールサイドで寝そべっている境遇はいっしょでも、その意味合いは大きく異なるのだ。
経済的には一応、自立を果たし、女も仕事も子供も諦めない女性が増えてきた現在、それでも彼女たちが、「大人の女」として憧れるものはどういう存在なのか。
現状を言えば、不倫、離婚、スキャンダル、子育て、何でもありつつアイドルとして耀くことができることを証明した“天才”松田聖子を経て、現在の女性キャリアには実力ある大人の女のロールモデルがやっと、頭数を揃えてきたところだと言ってよい。
総理を辞任した男の後釜を狙って、総裁選に打って出た小池百合子を、実力もないのに顔や色気だけでのし上がって来た、と本気で信じる人はもはや少数派だろう。今の大人の女はただラッキーなだけの人生ではなく、過ちも犯し、どん底を見たり辛酸をなめたこともある経験を必須とする。そこから立ち上がって今もなお、ポジティブに礼節ある人生を送っているという実態こそが要求されるのだ。
そういえば、「男の人生において失敗は名誉の傷だが、女にとっては致命傷。絶対に暗さや苦労が顔に出るから気を付けなくちゃいけない」と、若き日の自分にこうアドバイスしてくれたオヤジがいたが、今から思うと迷惑千万な助言といえる。その類の考え方は、女に失敗をさせたくない男の優しさ、として今でも職場で発揮されていそうだ。
しかし、これは一見思いやりのようだが、失敗によって成長するチャンスを女性から遠ざけるという事態を引き起こしてしまうわけで、悪意なく存在する男社会の罠、のひとつと言っていいだろう。兎に角にも、大人の女が満身創痍であることは間違いがなさそうだ。
白州正子という究極の存在
「大人の女」特集と言えば女性誌の『anan』が昔からそのリーダー格である。松田聖子が表紙を飾った時の特集タイトルは、「いま愛されるのは“大人かわいい”女」だった。ある号の特集では松たか子と岸恵子が「大人の女」のカバーインタビューで登場した。松たか子が読者代表ならば大人の代表は岸恵子だろう。1951年デビューということならば、もう古希も越えている筈の女性が理想の姿である。
ロールモデルが無いゆえにイメージだけの小林麻美的な「大人の女」しか持ちえなかった時代に比べ、現在はやっと様々な実例が揃ってきたが、そのモデルにはかつての反作用か、相当に本物感が求められている。どういう事かと言うと、40、50は洟(はな)垂れ小僧であり、一気に70代以上、老後と言われる年齢の女性に次々とスポットライトが当たっているのだ。
たとえば、白州正子、森茉莉、宇野千代、岡本敏子などの面々。すでに皆鬼籍に入ってしまっているが、最近まで旺盛な晩年を過ごしていた人物ばかり。彼女たちの著作は書店の女性エッセイ棚で平積みの定番であり、女性誌の生き方特集では常にとりあげられている。女性の幸福なゴールと信じられてきた孫や家族に愛されるおばあちゃん、という受け身の存在ではなく、意志を持って人生をまっとうした女性たちだ。
松田聖子もいいけれど、彼女たちまだまだ一般的な若い男の気をひくことのできる外見を持っているという点で、自分たちとの同列感は否めない。しかしながら、女にとって問題なのはその先なのだ。本当に婆さんになったとき、精神と心持ちだけで、つまり「大人の女」の完成度だけでカッコいい存在として輝けるのかどうか。その数少ない体現者である彼女たちに熱い視線が送られているのは、別段不思議な事ではない。
この五人を分析してみると面白いことがわかる。
まず須賀敦子を除けば、後の四人は夫や恋人、父に異彩を放つ有名人がいたという共通点がある。白州正子と岡本敏子に関しては、「普通の女の子が、まわりの男の愛ゆえの鉄槌により才能を開花させていく」という物語を人生で体現した人たちだ。この構造は『エースをねらえ!』や人気テレビドラマ『スチュワーデス物語』とそっくりであり、女性が幼い頃から刷り込まれてきたシンデレラストリートの変種として、女性からは憧れと共感を得られやすい。
また、「個性を発揮しつつ自己実現する女には、それに匹敵するいい男はついてこない」という、呪いとも諦めともつかない概念に女性は支配されているのだが、このふたりに関してはそうではない。白州正子の夫、白洲次郎や周辺の男性、岡本敏子のパートナーの岡本太郎は、相方に世間一般の糟糠の妻や母であることを求めず、人間的な成長を願い、助け見守った。
しかし、最晩年にはどちらも、パートナーを凌駕する人間性と見識を持って輝いたわけで、まさにいい男と自己実現との両方を手に入れるという、最大級のハッピーライフをおくった女性たちなのである。
海外人気ドラマに見る、ハードな大人っぷり
欧米、ハリウッドの人気テレビには大人の女のイメージバリエーションが多い。
映画化もされた『セックス・アンド・ザ・シティ』は、日本の若い女性がリアリティーを持って憧れることが出来るタイプの大人の女が揃っている。ニューヨークで働く、30代の独身四人の日常が綴られるこのドラマの全編を通底するテーマは、「いかにして生涯の伴侶を見つける」。実は、日本のドラマでもお馴染みの紋切り型なのだ。
しかし、彼女たち四人とも全く異なる欲望の在り方があり、(男性経験過激派のサマンサ、貞淑派のジャーロット、堅物のミランダ、折衷派かつモテのキャリー)、その欲望ありきで男に相対していく。自立しかつ自活し、男でも仕事でも遊びでも、自分の欲求の有りどころをはっきり自覚して努力し、なおかつ、それを社会に合わせてコントロールしていくことができる彼女たちは、つるんでワーキャー騒いでいたとしても、充分に「大人の女」なのだ(かつて、小林麻美がイメージとしてまとった、俗世や肉体の欲望とは一線を画すアンニュイな大人の女とは真逆の方向である)。
自分というものがわからない、いわゆる自分探しをしている女性というものは、自分の欲望の在り方をきちんと把握できていないことが多い。そこのところを社会の常識にゆだねてしまったり、小さい時から自分のオリジナルな欲望を「普通じゃない」と抑圧してしまったり、イジメという制裁を通してその欲望自体が去勢させられてしまうことが多い日本の女性にとっては、彼女たちの生き方は憧れの的であり、四人の心境とスタンスが「背伸びすれば届くオトナの女像」と考える女性は確実に増えている。
彼女たちの男性遍歴の図解がオフィシャルガイドブックに載っており、それによると、四人それぞれつきあってきた男の数はかなりの人数にのぼっている。それを見たある化粧品メーカーの企画部在籍の男性は「これは、アメリカだからでしょ。こんな数字、日本ではリァリティー無いよな」と憤慨していたが、誤解も甚だしい。まあ、信じたくない気持ちもわかるが(男性はギリギリのところで、女性はこうあって欲しい、というモラルを絡ませてくることが多い)、現在、日本の女性の男性遍歴数もこんなものだろう。
シアトルの病院を舞台に繰り広げられる医学ドラマ『グレイズ・アナトミー』の女性三人のキャラ設定も充分に「大人の女」感がある。何せ美貌で秀才の主人公、グレイはドラマの冒頭から、バーで知り合った男とワンナイトスタンドをやらかすのだ。しかし、その落とし前はきっちりと付けるし、インターンとしての仕事ぶりは完璧で切れ者ぶりを発揮し続ける。
他のふたりの女性もセックスや男女関係という合理性では計り得ないものに関して、なんとか自分なりに手なずけようとする姿勢が実に大人っぽい。
美貌で理性的な才女でも「つい、ムラムラして、ヤっちゃった」ということは別段、不思議でも何でもないがこれだけ世間にはセックスが氾濫しているにもかかわらず、日本ではドラマの主人公がそれを語ることは無い。欲望とどう付き合うかというその制御の方こそ、大人の女の最大ノウハウで、それを女性たちは知りたいし、共感したいのに、その教科書はあまりにも少ない。
少ないがゆえに、これらのアメリカのテレビドラマに熱い支持が向けられるのだが、逆にそこにはマーケットがあると考えられもする。
なぜならば、この層は今後、増えこそすれ決して減るわけではないのだから。
大人の女とユーモア
大人の女とユーモア
性のイニシアチブ感が大人の女の条件ならば、もうひとつ、現代の「大人の女」要素に加わって来るのが、ユーモアの感覚である。
ユーモア、特に自分を笑う感覚は、大人ならではの美徳であり、「大人の女」の必須事項のはずなのに、そこにはあまり語られることが無い。ご本人は充分に大人の女である林真理子も、処女エッセイ『ルンルンを買っておうちに帰ろう』では、カッコ悪い自分を笑う抜群に冴えたユーモアを見せていてそこが女性の心を打った。
自分の欲望を見据え、社会のバランスを取りながら前向きに生きているというのは、大人の女の基礎だが、それだけでは、今の女性が理想とする「大人の女」の魅力にはちょっと足りない。
大人の女には強さと自我が必要なので、「いつも自分が主人公になっていないと気が済まない」という鼻持ちならない女王様気質が顔を出す危険な可能性がある。そういう自分に距離を置き、醒めた目で観察するというユーモアの効用で、それが出来たら大人の女のゴールは近い。実例で言うと、これがまた数少ない。芸能界では爆笑モノの自虐ネタをふんだんに出しまくる、久本雅美だろうか。大阪の浪花節気質と下ネタの連発がそれを曇らせているが、実は「大人の女」の要素は充分にある人なのだ。
ロシア語通訳者で文筆家でもあった米原万里のエッセイの中に、友人であり、下ネタが三度の飯よりも好きなイタリア語通訳者の田丸公美子の爆笑エピソードが出てくる。この人、緊張でガチガチの国際会議の通訳顔合わせの現場で、バター犬発見、の話題を突如持ち出して周囲を呆然とさせたり、「バストはDカップルですけれど、通訳の腕はA級です」と自己紹介したり、とかなりの強者である。これぐらいのことをさらっと言って様になるような日本人女性がもっともっと出て来ることが望まれる。
前出の『セックス・アンド・ザ・シティ』の登場人物中、女性に意外に人気があるのが、恋愛ハンターのサマンサであることも忘れてはならない。脚本に多大なコストと才能を投下した成果か、作品中に思わず膝を叩くような名言セリフは、大人の女が言っているカッコいい下ネタが満載なのだ。
たとえば、「3Pするんだったら、ゲストで呼ばなきゃダメ!」。3Pという言葉にウッソーとドン引きするのが男性が女性に期待する態度だろうが、そうは問屋が卸さない。「アンタのアソコはニューヨークの観光名所並ね」。とこれはサマンサがいわれてしまう言葉だが、そういう女性を「ヤリマン」という身も蓋もない言葉で言うしかない品の無さよりもよっぽど、洒落ているのではないか。
自分磨きマニアである女の永遠のお稽古ごと
坂東眞理子の『女性の品格』がベストセラーになった。
ベストセラーの常で、業界では悪口もよく耳にするが、内容はというと、たとえばマークス寿子の著作のような紋切り型の日本のバカ女に対しての説教などではなく、完成された人間を目指し品格を説く、常識的な正義の本だ。優しい語り口に安心していると「職業を持ったら最優先は仕事です」というような、女性が根本のところで口を濁しがちな言い切りがバンバン出てきて、実はハードボルド。
「男性だと感情的になることは許されるのだが、女性が怒ると悪評がついて回るから止めておけ」、などと、ちらりちらりと男性社会への批判とその対処法が示され、可愛いおばあちゃんになりたい、という女性の気分を、「それは愛される存在でいたいのでは? それよりも人を愛する存在になりなさい」とやんわり裏返すと言った小気味良い提言が随所になされている。
この本に言われるまでもなく、品格もまた大人の女には必要な要素である。日本人は性分として、華道や茶道、そして柔道のようにお稽古ごとに精神性を込めた完成型を一生かかって追求するような在り方が大好きなところがあるので、「大人の女」もそう言いった概念上の高みへと自分を磨いていく、一種のお稽古ごとであり方法論のようなものかもしれない。
その見方を取るとすれば、「大人の女」養成のために、どんなお稽古ごとアイテムが必須かと言えば、まず英会話と豊富な海外体験があげられる。これはまさに国際人としての教養であるし、前述した「大人の女」の最大のロールモデルである白州正子や須賀敦子に海外体験がビルトインされていることからも必須なものだ。
世界の一流リゾートから、パリ、ロンドン、ニューヨーク、ミラノまで、一家言あるくらいの教養は必要だといえよう。それと対になるような、日本の伝統文化素養も必要。これはもう、「真の国際人は自国の文化を知らなければならない」というドグマの忠実なトレースであり、歌舞伎、着物、茶道、落語、邦楽、源氏物語系古典文学などの和モノの現場は、それゆえか女性の客を多く集めている。
以前は男性に連れて行ってもらう場所であった。一流のフランス料理店や寿司店などの体験や教養も、「大人の女」の素養のひとつだ。一流レストランのディナー席で挨拶に来たシェフに的確な感想を述べることが出来る女性は、一目置かれる存在であろう。それと同時に、ワインや日本酒の素養というものも「大人の女」必須教養科目としては長い人気が保証されているアイテムだ。
つづく
8章 表現する女