まるでタイムスリップしたような私鉄沿線のその店に私を連れて行ってくれたのは、当時働いていた情報誌出版社のモテ系上司だった。もう20年ほど前になる80年代中期、当時のメディアがこんなレアな場所を紹介している形跡は無く、店の客もその店の雰囲気に溶け込んでいて実はホンモノっぽいバブル前夜の東京に次々新装開店するトレンディーなお店のオープンのはしご、というのがその夜のメニューで、ドレスアップした業界人が華やかに集う数々の場所に少々息切れを感じていたそのとき、上司が言ったのは確かにこんな言葉だった。
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「ちょっと落ち着けるところで、酒を飲みたいな」
トレンディースポット→レトロなおでん屋、というその夜のめくるめく展開は、大学を出てオトナの世界の入り口に立ったばかりの女の子にとっては、相当カッコ良いものとしてインプットつれたことを覚えている。
上司にその気があったなら、簡単にその夜お持ち帰りされちゃっただろう(残念ながらそういうお誘いはなかったが)。未知の体験に連れていってくれる男性。いわゆる不思議な国のアリス体験に誘ってくれる男というものは、情報量、財力ともにアリスよりも圧倒的に上位である。この夜の経験は忘れがたく、後に雑誌などから「女性がその気になるデート戦略」などのコメントを求められたときには、このケースを引き合いに出してきたものだ。
当時20代の自分をわしづかみにした、端正なレトロおでん屋の時間と空間の魅力は今なお、自分の嗜好の中にきっちりと確定しているのだが、あれから相当な年月を経ているにもかかわらず、こういったノスタルジー・ニッポンを遊ぶセンスというものは、上は40代後半の自分たちから下は大学生にまで、幅広い年代の女性に未だに人気が高いことに驚く。
しかしながら、当時の自分はこの店のリピーターにはならなかった。なぜなら、そこにはまだまだ、「カタギのお嬢さんにはふさわしくない」という暗黙のバリアがあって常連さんたちの存在がかなり威圧的だったからだ。会社の上司が連れていってくれたからこそ、暖簾をくぐれたが、次に自分が同世代の男を連れてきても溶け込めない感じがあったのだと思う。
それから早20年。今の女性のムードとしては、中央線沿線や下北沢や新宿の飲み屋は全然オッケー。かなりディープな昭和系オッサン酒場にもチラホラ若い女性の顔が見える。先日、ライブの帰りに螢谷駅前で戦後すぐのムードを今もなお残す飲み屋街を見つけ、その中心部にある煙もうもうの焼き鳥屋で飲んだのだが、外で立ち食いをしている客の2/3は若い女性。おまけにごく普通のOLっぽい女性が、ひとりでビールと焼き鳥をたしなんでいる光景がそこには普通にあったのである。
武蔵小山にある”働く人の酒場”こと「牛太郎」、ミシュラン三つ星に輝いたフレンチの「カンテサンス」。どちらも私は大好きな店だが、20代の女性にこのふたつを提示した場合、どちらの方が食いつきが良いかといえば、圧倒的に前者の「牛太郎」の方なのである。
友人のちょいワル系の遊び人オヤジのひとりにこの「牛太郎」だけではなく、その前にあるスナックのはしごを常としている男性がいるのだが、「連れてってぇー」の憧れ目線率は、ワインとイタ飯の良くある組合せよりもずっと高そうだ。
生き馬の目を抜く飲食マーケットの方は、とっくにこのセンスに気がついていて、恵比寿と上野にあるワンカップ日本酒をおしゃれに出す立ち飲み屋「buri」などの昭和レトロセンスの店はすでにトレンドだ。また80年代後半に「YOSHIWAR」という風呂あり座敷あり舞妓ありの会員制空間を大箱クラブ「芝浦 GOLD」の階上に創ったことのある、佐藤としひろプロデュースで新丸ビルに登場した、女性のみのスナック「来夢来人」、『珍日本紀行』の都筑響一プロデュースの歌謡曲バー「ナイトクラブX+Y」などのハイコンテクトな店も人気だ。
明らかに団塊オヤジマーケットねらいで昭和レトロな飲み屋ばかりを特集したガイドムックがコンビニで売られていたが、気がつくと周囲の女性が全員買っていたりするような事実がある。
渋谷ののんべい横丁、新宿のゴールデン街、下北沢や吉祥寺の駅前の横丁。こういった場所に、若者が飲みに屋を譲り受けて、手作り感覚で新しい店をオープンすることが2000年代になってから顕著に見られるようになってもいる。古い喫茶店を内装はそのままに、週末はDJが入って洒落たカフェバーとして営業しているところもある。昭和40年代の文化を飾った歴史あるスポット、江戸川乱歩賞作家兼シャンソン歌手の戸川晶子の店「青い部屋」は、キャバレーや昭和歌謡、シャンソンなどのアンダーグランドティストを好むミュージシャンやアーティストなど出演する独特のラウンジ・ライブ空間として蘇った。
戸川ママも引退せずにその若者たちに混ざって現役を張り、イベントによってはその世代のお仲間も集い、親子どこかおばあちゃんと孫ぐらいの世代間の交流がなされているのが興味深い。
居酒屋共同体のムスメという居場所
映画『ALWAYS 三丁目の夕日』が大ヒットした。昭和系ノスタルジーはすでに80年代にその兆しはあった長期のトレンドだが、まだまだ、こんな力を残していたことに驚く。加えて、このレトロモードは落ち着くどこか、「懐かしい」と感じる文化的記憶のない若者にも綿々と受け継がれ支持されているのだから恐れいる。
私が教鞭をとっている日大藝術学部文藝学科で『最近自分のアンテナにひっかかったもの』という課題を出したらこの作品を挙げて来た女の子がいた。問いただしてみると、「懐かしいんですね」という言葉が自然に出て来る。彼女によると『ちびまる子ちゃん』と『サザエさん』の刷り込みは大きいらしい。街のところどころにはまだ残っている昭和の残滓と重ね合わせると、懐かしい、という感覚になるのだという。
そして、何よりも彼女の心を捉えたのは、大家族やご近所のコミュニティーの温かさなのだという。彼女ばかりではなく、今の20代の女性と話すと「家庭が一番」というこちらから見たら保守化とも捉えられるホンネがよく見え隠れする(男性の多くにもそれがある)。しかし、それを単純に保守化と捉えてしまうと大筋を見誤ることになる。
彼女たちの親の世代は離婚率が格段に高く、離婚しないまでも、家族解体もしくは仮面家族のような病理が身辺に存在するわけで、『三丁目の夕日』に現れている「大家族愛」は、彼女たちにとっては、保守ではなく、逆に”革新”なのだ。
ノスタルジー・ニッポンを遊ぶ女の根底に、このようなコミュニティーへの希述が存在することは否定できない。昭和系ノスタルジー酒場は、主人と女将さん、従業員の顔ぶれがはっきりしており、常連さんとともに家族的な雰囲気がある。それはもちろん、よそ者をいぶかしがる排他性にも結びつくのだが、私の見る限りこの排他性、新参者の若い男にはたいそう厳しいが、ふたりぐらい来て気を遣って飲んでいる女の子たちには案外と寛容なものなのだ。
レトロな空間とともにそのコミュニティーの空気を浴びることは、束の間『三丁目の夕日』心地にさせてくれるわけだかで、「なんか、和むのようねぇ」という言い方が相応しい居心地の良さがそこに存在するのである。
しかも、ここに通って店の人や常連の顔見知りになると、いつの間にか本当にそのコミュニティーの一員になっている自分がいる。そうなったら、その店の主人と女将さん(もちろん、たいがいが夫婦)はお父さんとお母さんも同然だ。
実際、こういった昭和系駅前寿司屋を行きつけにしている何人かの知人は、店の女将のことを東京のお母さんと呼んで、会や出帳のたびに土産を買ってきたり、店の方もその娘にだけ自家製らっきょうを包んで、お待たせにしたりしている。
“娘”である彼女が男友達を連れてきたりすると頃合いをみはからって、「○○ちゃん、お嫁にしたら良い奥さんになるわよぉー」と女将がささやいてみたり、まんま、昭和の家族ドラマがそこにはバーチャルに立ち上がっていることは想像に難くない。
水島新司の野球漫画『あぶさん』の舞台の「大虎」という飲み屋には、カコという弁護士になったおてんば娘が出入りしているが、キャリアガールの彼女も店では普通の女の子。そんな”娘”ファンタジーの甘い蜜の味が昭和系ノスタルジー酒場には漂っている。
全共闘オヤジと歳下女性の結託
私自身の最初のノスタルジー・ニッポン体験は、今思えば全共闘世代のオヤジによって導かれたものだった。そして、このあたりを今、一番熱く語り、居場所としているのはまさにその世代の男たちだ。『タモリ俱楽部』で取材されていた居酒屋同人誌『酒とつまみ』の編集者の面々、下町居酒屋のオーソリティーであるなぎら健壱、『酒場放浪記』という酒場紹介ルポをBSでやっていた吉田類などなど、ロックやフォークは理解できるが、クラブやテクノは理解不可能、オタクや新人類もようわからん!
という男性たち。田中康夫の『なんとなく、クリスタル』が世に出たときに烈火ごとく怒っただろう面々が今、昭和系酒場を支えているといってよい。
もともと、居酒屋は男の世界であり、彼らがその場に行きつけることには何の不思議もないが、現在はそこによりトーンの高いアイデンティティが張り付いていることがわかる。いわゆる勝ち組と負け組でぃったら後者。ワインやフレンチ、ITや英語といった、今現在、男の実力を計る(まあ、それを支えるのは経済力だが)素養とは接点がない男たちが、そのダメぶりを糾弾されることなく。
それどころか”味”として認められる空間としてひとつの強度を得ているのだ。昭和とは、ちゃぶ台をひっくり返し○C『巨人の星』、なんじゃこりゃあといって前向きに倒れて死んでいく○C『太陽にほえろ!』、男と男として最後のイバリが利いた時代だが、まさに、昭和系酒場にはその空気が綿々と流れているのである。
イバリの正体は自己実現とかアントレプレナーなどという言葉とは真逆の、ダメ男ぶりに他ならない。「酔っぱらっちゃって、今日はもう仕事にならない」とか、「イカ徳利にいろんな種類の酒を入れて利き酒をする」などという、何の得にもならないくだらないことに血道を上げることを粋とする、『遠山の金さん』や『浮浪雲』に通じる遊び人のセンスだ。そして何よりも、この「いい大人同士が仲間とくだらないことを延々やって遊び、それを自虐的に愉しむ」という境地(『タモリ俱楽部』や同人誌『酒とつまみ』の魅力はまさにそれ)だけは、未だに女性が手に入れる事が難しい人間関係なのだ。
家庭からも職場からも”役立たず”とみなされるところをスタート地点にする、男性文化のソフィスティケーションなのだが、子孫を伝える大仕事、出産により存在自体が役立たずではありえない女性にとってこの境地に達することができるのかどうかは、いささか不明。
そう、ダメ男系友情は、女の集団にほとんど皆無なゆえに、まぶしく感じられたりもするのである。
いつのまにか野球やサッカーに一緒に入れてもらえなくなり、それを応援したり、世話したりすることでしか関われなくなるという男女の差は、女性にとって未だに「ウラヤマシー」ものである。古くは遠藤周作、吉行淳之介、阿川弘之など第三の新人文学者がエッセイ集でも披露した文壇交友録や、タモリや赤塚不二夫、山下洋輔などの全日本冷やし中華愛好会、現在でいえば、たけし軍団、みうらじゅん、リリー・フランキー周辺など文化系男サークルの活動場所と、昭和系酒場は大変に相性が良い。
そのお仲間に女性の分際で入れてもらうことは、未だに特権的な価値。昭和系酒場は仕事の憂さを安価に晴らすオヤジ化した女性の場であることの一方で、最後に残った男のイバリを愛でる、という古典的な女の子視線も絡んでくる、というわけだ。
居酒屋オヤジと歳下の女性。双方の思惑で飲みに来て、結果、新たなコミュニティーの一員として仲良くなるというシーン。とすれば、渡辺淳一の昔からよくある不倫の恋沙汰が思い起こされるが、そうではなく、いわゆる”お友達”としての全共闘オヤジと若い娘のつきあいが多く見られるのが、最近の風潮だ。
徒党を組まない一匹狼オヤジと若い女の関係は、上下関係というよりも女性が得意とするお友達としての水平関係となる。私の周りでもこのところ、飲み会にそういった「うんと歳上の男」を連れてくる女性が多い。
いわゆる、オヤジやそれ以上の老年男性を魅力的に思う枯れセンブームというのは本当で、女性の人間関係の中に不倫や浮気でもない、「仲の良い歳上男」が登場する率がいやに高いのだ。
そんなとき、かつてオヤジの扱いに手こずったことのあるコチラは少々身構えるのだが、彼らは威張るわけでもなく、連れの女の子に嬉しそうに虐められたりもして、羊のようにおとなしい。オヤジたちから歳下女性の方にどんな御利益があるかといえば、「いろんなところに連れて行ってもらったり、教えてもらったりしている」という、かつてのイバりは皆無で、女性側からは、「結構、ダメダメなんだけど、人間的に面白いのよ」とまるでオボコい歳下の男を語るがごとくの感想が発せられたりする。
興味深いのは、昭和系酒場を居場所とする一匹狼オヤジたちというのは自由奔放で、かなりの確率で普通のサラリーマン風はいない。世界の民芸品のバイヤーをやっていて離婚歴二回のバー経営者とか、イタリアでイラストレーターとして成功したけれど、今は日本で小説家を目指している小金持ちとか、ベンチャー企業の専務がお家騒動で追い出され、流転の末、現在警備員です、そんな生々流転人間がゴロゴロいて、その自由人感覚は今の若者には多いに共有できるものだ。
女の子の方が歳上男を励まし、支えているというパターンも多く見受けられ、実際、そういう、居酒屋オヤジから結婚を迫られた」という女性も少なからず知っている。彼女自身は強く優しく健全な勤め人なだけに、男の方の欲求は「髪結いの亭主でラクしたい」というのがみえないこともない。
ちなみに居酒屋男の方は、たとえば六本木ヒルズでのディナーなどとは全く関係ない世界で生きているし、そのことが象徴する世界を毛嫌いするか全く無視する傾向があるが、対して、女性の方は昭和系酒場とヒルズディナーとの両立もあるよね! というような、いいとこ取りの姿勢も絶対に崩さない。
というわけで、歳上男とつきあったとしても、女性の方は「あなたの色に染まる」ことはなく、オヤジの方も染めてやる、などという大それた野望を持つこともない。
イタ飯屋は女性のスナックだった
イギリスにおけるパブのように、産業革命以降、職場と家庭が切り離された場合に都市部で発生したのが、家でも会社でもないもうひとつの場所、居酒屋的コミュニティーだ。日本の社会においては、戦後、津々浦々の町にできたスナックがそういった男性労働者の憩いの場として存在してきたのである。
会社から自宅に帰る前にちょっと立ち寄る気の置けない第三の場所。スナックの名前は、じゅん子や真由美など、伝統的なに女性の固有名詞が付けられていることが多く、その名の通りのオーナーママが若い女の子数人と店を切り盛りしているといったスタイルである。
銀座や繫華街のクラブが男のステイタスを満足させるハレの外交空間ならば、スナックの方はもっと家庭的なもので、軽食として、ママ自慢の「肉じゃが」や「めんたい玉子焼」など、お袋の味がサーブされたりもする。
その土地に住んでいたり、働いていたりする常連さんで成り立っており、ママはみんなの妻でありお母さん。会社や家では言えないような愚痴の聞き役であり、カウンセラーという存在だ。常連の男同士のコミュニティーでは、歳上の男が歳下の新参者の男に酒の飲み方や女の扱い方を教える、先輩後輩的な関係があったりもする。
居酒屋を行きつけた女性もさすがに、現状でスナック通いをしている強者はほとんどいないと思うが、家でも職場でもない第三の居場所としてのスナック的存在というものは、働く女性にとってももちろん魅力的なはずだ。そして、女性のこの欲求に対しての現実的な回答は、街に増殖しているイタリア料理屋にあった。このヒントをくれたのは、ジャズミュージシャンの菊池成孔である。新宿歌舞伎町に住んでおり、いくつかの地元のイタリアンを愛用している彼が、そこに集う女性客たちの動向を語ってくれたことから、明らかになった現象だ。
シンプルな料理法ゆえに、それほどの修行をしなくてもすぐに料理を作れるようになるイタリアンは、カフェ感覚で若いオーナーが早期に店を持つことが多い。住宅地の最寄り駅前に最近では必ず、一、二軒はあるイタ飯屋や、新宿、銀座、渋谷の雑居ビルに収まっているトラットリアはまさにそういった店たち。チェーン店だとしても、シェフ、店員などは、テレビドラマ、『バンビーノ!』に描かれたように若いイケメンが多く、それぞれが自由に店を任されている(元Jリーグの選手はなぜか、引退後なイタ飯屋のキャリア選択をすることが多いという事実アリ)。
店内はたいていの場合、テーブル席とともにオープンキッチンに面したカウンターがあるが、そのカウンター席にはアンティパストをつまみ、または遅い食事をワインとともにたしなむ女性も少なくない。彼女たちは、シェフとのさりげない会話を楽しみ、ある時は文庫本を読みながらパスタをつつく。
その在り方はまさに女性のスナック状態。ただ、そこに集う女性同士にスナックの常連のような上下関係やイニシエーションというものは全くない。あくまでも、女の”イタリアン・スナック”は一匹狼同士なのだ。
とすれば、女性におけるスナック的なものは、まだまた展開ができそうでもある。まず、カウンターの中には男ではなく、やはり年配女性のママの存在が望ましい。考えてみれば、女性が実家に帰って甘えるのはやっぱり自分の母親。母ちゃんの手料理を食べたいのは娘だって同じ。仕事や恋の悩みを親身になって癒してくれる存在としてのママがいるスナックならば、繫盛間違いなしでしょう!
実はこの間、久々に大学時代のサークルのOGたちと会う機会があったのだが、専業主婦で二児のおかあさんであるR美にビールを注がれながら、心底温かい笑顔で「仕事がんばってね。生き生きしているユヤマは絶対カワイイよ!」などと言われ、とっさに、不動前駅前「スナックR美」構想が頭をよぎったことがあった。ちなみに彼女はグラマーな元日航のフライトアテンダントで、朝丘雪路似の明るい美人。
占いが得意なチイママなんかがいるともっとイイかも。すでにテレビではそのような存在が人気を博しており、大物では久本雅美をはじめとして、作家の岩井志麻子、『新潮45』元編集長の中瀬ゆかりなんかはその存在がスナックママ的。伝統的な母的存在ではないが、苦労していそうだし、包容力もありそうで、要所要所では叱ってくれそう。そんなスナックに通いたいと思うのは、私だけではないだろう。
非マーケティング飲食店こそがおもしろい
ノスタルジー・ニッポン的環境が愛されるゆえんは、それがマーケティングから出てきた企画空間ではない、というところが相当に大きい。
消費の担い手は女性だ! というスローガンのもと、いまやほとんどすべての店がその影響下にある。雑貨屋F.O.B COOP風のシンプルでおしゃれな空間センス、パリのカフェ風、バルセロナのバール風、台湾の茶芸館風、ニューヨークのロフト風、アマンリゾート風などなど、女性誌で取り上げられるおしゃれなコンセプトの店が、結果、日本全国に立ち並ぶことになった。
再開発ビルにつきものの飲食店はそのトレンドの集大成であるが、こうなるとどこかで見たことのあるものばかりで、差異を狙ったつもりがみんな同じ、というおしゃれな空間インフレを引き起こしている(これまでに何度「これまで無かった、大人のためのレストラン」というクチコミを聞いたことか!)。
どの店も、A4横置きの企画書と投資家へのプレゼン数字がすぐ目に浮かびそうな紋切り型のスタイルばかりで、すでに一軒毎の記憶すらない。
それに対して、戦後の闇市のDNAが残る昭和系酒場などは、マーケティングからはつくり得ない、長年の伝統と店主の好み合わさったそれぞれの色濃い味がある。いつから引っ張られているのか不明な演歌歌手のプロモーションポスター、ハイライトの包み紙でつくった置物などなど。また、俺の店は俺の城、とばかりに、自分の趣味を展開し、ひとつの狂気を感じさせるような空間も少なくない。
そこが人の心をグと捉えるのである。
ノスタルジー女というと、三浦展が名付けた「かまやつ女」(男物の帽子とだぼだぼのユニセックス服で下北沢、原宿等に出没する女性)、マンガ『臨死!! 江古田ちゃん』の主人公、江古田ちゃん系という、中流より下の階層の女性だと思われがちだ。彼女たちが出没する地域は伝統的に小劇場やライブハウスがあり、古着屋も多いサブカルエリアであり、たしかにノスタルジックな空間とは大変に相性が良い。
しかし、その一方で高級レストランの常連である収入や年齢が高い女性たちもそのセンスを多いに共有している。女性社員が少なからず責任を持った仕事をしているIT系の会社は、セキュリティーが発達したインテリジェントビルに多くオフィスを持っている。その中にはおしゃれでトレンディーなカフェやレストラン、居酒屋チェーンがたくさんあるが、彼女たちの多くは「絶対にビル内では飲みたくない」と公言しているのだ。
ビルが高層になればなるほど、彼女たちの出没エリアは新宿、渋谷などから、よりディープな浅草、横浜の野毛小路などに確実に広がっている。その源はより面白くてカッコ良い差異を求める欲求か、はたまた、心理的にも生理的にも居心地の良さを求める本能的な何かなのだ。
ガイジンを好む、魅力のニッポン空間
これらのノスタルジー・ニッポンを愛でるセンスは、外国人視線を受け止めてますます強化される。日本人が好きでそこに棲みつく外国人、また、日本に何度も仕事で来て、一通りの日本文化に触れたがる。
銭湯、カラオケ、秋葉原‥‥。留学経験のある女性はもちろんのこと、旅行や仕事などで国際経験が豊かなほど、こういったグローバルセンスに敏感であり、「西洋の美意識から程遠い、以前ならば隠すべきニッポン」はカッコ良いアイテムへとカードが100パーセントと裏返ってもいる。
ちなみにこのセンスは万国共通であり、私が90年代の後期にアムステルダムに雑誌の取材に出向いたとき、DJやアーティストたちが連れて行ってくれたのは、地元のオヤジやオバサンが集う、ワルツやポルカのプロモビデオが店内のモニターから流れるような超ローカルな酒場だった。彼らは「これって、僕たちのギルティー・プレジャー(罪深い快楽)なんだ!」と言っていたが、考えてみればこれもまた、常識的には外国人にはお見せ出来ない泥臭い庶民文化である。
彼らが”ラウンジ”と称していたこの手のセンスは、先進国都市では同時多発的に起こり今もなお継続中のカルチャータームであり、主に古い施設のリノベーションとして活発に実行されている。ウィーンではストリップ小屋をまんま利用したクラブに、ベルリンでは秘密警察の執務室だったところがバーに、モスクワでは地下組織の出版をしていたアジトがバー&レストランとして利用されており、アーティストたちはアムスの時と同様、嬉々として、外国人である私を連れて行ってくれた。
「ガイドブックに載っている伝統的なカフェもいいけれど、こっちの方が良いでしょ?」
ソフィア・コッポラの映画『ロスト・イン・トランスレーション』にも東京ローカルの遊び場が多く登場したが、これは世界的なセンスエリート感覚なのだと言える。
昭和系酒場的空間の延長線上には、新しいディスカバージャパンがある。
それは『珍日本紀行』をはじめとした都筑響一のフィールドワークですでに語られているが、京都や金沢のように目立った文化遺産のない地方都市に潜んでいるまだ日の当たらぬ価値であり、未来の観光資源だ。
特に昭和からの古い店がまだ存在し、シャッターが閉まる無人の通りになっていない商店街はぜひ、足下にあるその魅力を最大限活かす努力をするべきだと思う。
つづく
5章ロハス、エコ女