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1章女装する女
「女装」。少し以前から女性たちの間でごく自然に流通し始めている言葉である。
たとえばケータイでのこんな会話。
「今日の夜、ノボルの誕生日パーティー、行く?」
「船上パーティーでしょ。楽しみー。バリバリ、”女装”して行くっすよ」とか。
「Aちゃん。銀ママかと思ったよ! ウソ噓。やっぱりキモノはいいよね!」
「ちょっと張り切って”女装”してみたんだけどね」
また、こんなのもある。
「最近、着飾ってんじゃん。どうしたの? ヒールがんばって履いているし」
「この秋、ちょっと”女装”モードなんすよ」
要約すれば、女性である彼女たちが、彼女たちの通常着であり、ほぼユニセックスである会社スーツやカジュアルウェアを脱ぎ捨て、女らしいフエミニンな服装、メイクそして立ち振る舞いまでを身につけることの気分を、総じて”女装”と言っているのだ。
「女が女装する」ということに対して、ほとんどの女性が、「あるある」と膝を打つ。が、男性にとってこの事象は簡単には理解できないらしい。
「だって、女が女らしくするのは自然なことでしょ? それは女装とは言わないんじゃないの?」。当の女性にしたってあんまり深く考えずに、「あー、最近仕事がハード過ぎて、女、忘れている」とか、「パソコンのキーボードを叩く指先にキレイにネーイルが入っていると、自分が女だと確認できる」などと口走っているわけで、この問題は誤解されやすいのだが、これはやはり「男性が女性の服装で装う=女装」と同義なのである。
女性がおしゃれの照準針をフェミニン方向にぐぐーっ、と寄せて装うとき、その心は、ほとんど男が「女装」するがごとくの心境なのだ。
特に当の女性ははっきり自覚した方がいいと思うのだが、多くの女性は頭の中が”女性”ではない。一日の心の動きをすべて記録する装置があったとして、女性という根拠でモノを考えている時間がいったいどれほど存在するかといえば、ほとんどゼロに近いというのが現状だろう。「好きな人のことを考えるときは女でしょ」と反論が返ってきそうだが、その男を自分のモノにする戦略に”女”を使ったとしても、心の中からこみ上げてくる恋愛情動自体には別段、性別はなさそうである。
「じゃあさ、セックスの時は女でしょっ!!」と、もはやヒステリーに近い反論が聞こえてきそうだが、前戯の間ではいろいろと女としての感じ方設定をしたとしても、クライマックスの頃合いにはどっちが男か女かわからない、文化的な色っぽさとは正反対の快楽境地に突入しちゃうわけで、これまた、明らかに性別不明である。
これ、実は逆に男性にも同様に言えることなのだが、男としても頭の中はすべて”男性”ではない。男性も「男とはこうあるべし」という男性文化は体得するもので、いわゆる「男の中の男」とは男が奮闘努力して”男装”したその成果ということができる。
私が知っている多くの40歳前後、現在アラフォーと呼ばれる世代の女性たちは、今や仕事の中核に入っていて、とんでもなく忙しい。予算や責任を持たされ、コンピューターのおかげで楽になるどころか地獄のようなハード仕事に従事している彼女たちは、営業戦略企画書に徹夜したと思えば、居酒屋では新入社員のバカ男子に説教をたれ、今度は上司の昔話につきあったあと、終電で自宅に戻るという日常をこなしている。
本来ならば「女を取り戻すひとりの時間」に彼女たちの多くは何をやっているかというと、その辺のオッサン同様、缶ビールを空けて、スポーツニュースか野球、サッカー、プロレスなどのスポーツ観戦しているのだ(私自身はまったくこういった嗜好がないが、缶ビール+スポーツ観戦女はかなりの実数がいる)。
酒にうるさい剛のものだとその缶ビールが、アイレーのモルトウィスキーや冷えたベビーシャンパンに変わったりするが、そこに横たわるムードは、「アンニュイにひとりの大人の時間を過ごすカッコ良い私」ではない。おしゃれなガウンなんか着ているわけでもなく、Tシャツにパンツ一丁がせいぜいのところだ。そんな彼女たちのどこに女が存在するというのか。
パンツにTシャツでも着ているだけでもまだいい。面倒くさいからという理由でひとり暮らしをハダカで過ごす女主人公が出て来るマンガの「臨死!! 江古田ちゃん」(龍波ユカリ)が「月刊アフタヌーン」という男性誌連載にもかかわらず、口コミで女性にヒットしたのは記憶に新しい。そこそこ美人で男出入りも今どきの女性並みにある江古田ちゃんは、ハードボイルドかつ自虐ギャグ満載の日常を送っているが、それが20代、30代の女性にウケているのである。
この話題を若い女性に振ると、十中八九返ってくる答えが、「私って、江古田ちゃんなんです」、というもの。そういえば、江古田ちゃんの心像風景と行動は70年代の大友克洋の青春劇画『ショート・ピース』の主人公の男たちのダサさ、貧乏臭さ、クールさの肌合いと全く同じことに気が付いたりもする。
そう、悲しいかな、今や女性の内面に女性は存在しない。
「この間さあ、取引先で気が合う女とその知り合いなんかが集まって飲んだんだけど、真剣に天下国家を語っちゃって、もはやオッサンだよ」
女性たちはよく、自分をオヤジにたとえて自嘲することがある。
女の仕事人たちが、女らしい服装をし、ネイルサロンでツメを光らせるのは、だから、抑圧された女性性の発露や取り戻しなんかではない。男と別段変わらぬ内面が、あえて女性の記号をふんだんに身にまとい着飾ること。それこそが女が女装するということの意味なのだ。
安野モヨコ作のマンガ『働きマン』は、これら女装する女の実態を極めて正確に描いた名作だが、残念ながらプライムタイムのテレビドラマ化においては明らかに読み違えが起こっていた。主人公の女性は仕事モードに突入するとき「男スイッチ入ります」とポーズを決めて叫ぶ。そこのところが番組宣伝コマーシャルに多用されているのだが、原作が持つ仕事女のリアリティーは、主人公が彼氏とデートしたり、イケメンと会ったりするときに着飾り、女っぷりを上げるための「女スイッチ入ります」の方にこそあったのである。
原作では確かに「男スイッチ入ります」というギャグシーンは存在するのだが、あまり深い意味はなく、それをクローズアップしてしまうと、根本的な誤読が起こってしまう。まあ、これを企画制作した側は圧倒的に男性が多いわけで、「女の内面には女がきちんと存在する」という思い込みがあるゆえ、何の疑いもなく、キャッチフレーズにしたのだろう。
気がついたら隣にあった、女文化という遊びネタ
女性の欲望をストレートに反映する女性誌の傾向を見れば。あるトレンドが自ずと浮かび上がってくる。2000年代に入ってからかなり長期に渡って「女らしい装い」に振り切った女装モードが出てきているのだ。「どうせ、現実的でないから廃れる」と思っていたハイヒールも7センチを下回ることなく、ネイルサロンはついに美容院と同様、街に定着し、一部のファッションピープルたちの小道具だったつけまつげはもはや普通のメイクアイテムとして紹介されている。
はっきりとこの傾向に沿ってコンセプトを打ち出しているのが、『GLAMOROUS』や『NIKITA』(まさか休刊。その背景には複雑な事情があったと聞く)といった女のドレスアップ礼賛系の雑誌で、女性性を攻撃的に前に出し、グラマーでセクシーな、いわばフェミニンなファッションとライフスタイルを提案し続けている。ちなみに『GLAMOUS』のコンセプトは、ホームページによると、「すべての女性が年齢も職業も既・未婚も、そして勝ち負けもなく、自由で幸せでいられる世界」とある。
そのためには「ひとはけのチークがあなたを見違えさせる。そんな”差”が実は幸せの素だったりして」などと、化粧という女装モードの落とし込みがされている。そんな世界を現実と女性が手に入れるために必要なのは「経済社会を学んで実力を付けろ」などだと思うが、これらの女性誌の方法論は、あくまで「効果的なチークの入れ方」というのがご愛敬。勝間和代のビジネス指南書や雑誌のFX投資記事と同じぐらいの効果を化粧がもたらしてくれることを、女性たちは堅く信じている。
ならば、その女装で身に着けようとする女性的記号と、当の女性との関係はどうなっているのか?
ひとつには、それは明らかに外部からもたらされた、「気がついてみると、こんな素敵な遊び場があった!」といった遊戯性に満ちたものだということが確実に言える。ゲイカルチャーの一環として生まれた異性装には、男性が過剰な女性的コスチュームを身につける、ドラアグクィーンという存在があるが、彼らのセンスに存在する、「女性のパロディー」あるいは「女性の性を遊ぶ」ような感覚にも近い。
前述したように、女の女装方向はドラアグクィーンもびっくりのかなり過剰方向に行っている。ひとつの例は、本来的には身だしなみとして美しくあればよいという化粧の、オタク的なハイスペック化だ。たとえば、化粧品と美容をメインテーマにし、独自の位置をキープしている『VOCE』という雑誌がある。そこに展開されるメイクテクや商品紹介は、ディテールを限りなく深く掘り下げて検証していることで有名だ。
それはまるで、塗装のテクチャーだけで何ページもの記述が続くプラモデル雑誌だったり、釣り専門誌だったり、男性向けのオタク趣味雑誌と似たような雰囲気がある。「きれいになる」のが化粧の本義なのだが、そんなことは自明のことで、「VOCE」のテーマは「きれいを面白くする」であり、それは、目的がすでに遊戯化されていることを示す。
スワロフスキーの光モノ。毛皮をはじめとして、装飾的なハイヒール、コルセットやヌーブラを駆使した大胆なボディ見せなど、女性がちょっとドレスアップ時に見せる装いは、ほとんど高級娼婦(死語か?)の勢いだ。そんなファッションを好んで着こなしている存在としては、峰不二子、バービー、浜崎あゆみ、安室奈美恵、ディータ・ヴォン・ティース。叶姉妹、土屋アンナに神田うの、などが挙げられる。
彼女たちは、女性ながらドラアグクィーン的な雰囲気がある。このあたりが女の”女装”のわかりやすいイメージリーダーだが、どれも、セクシーと女をフル装備しつつ男よりも圧倒的に女に人気だ。彼女たちは、女が女にまつわるアイテムを再発見し、自分の身体で遊んでいるという雰囲気というものがある。
加えてここに挙げた彼女たちは、皆、野心家であり、下積みや人間関係の地獄を見た上のサクセスストーリーがあり、その内面は女と言うよりは男。そして、彼女たちが装う”女性”は、女の身体に優しく心地よいものではなく、極めて遊戯的で拘束的なデザインが多い。
その奔放なイメージを現実化するためには、ある種肉体的なコントロールも含めた過酷さと努力がいるわけで、そこにはダンディズムに通じるモラル性も感じられる。
そういえば、近頃、着物ブームだが、その理由としては、和モノ再発見というトレンドとともに、面倒くさいし窮屈だけれど、着ると女らしさ100倍マックスで似合う、という女装文脈でリバイバルしているのではないだろうか。
地上波のゴールデンタイムにそうしたタイプの男性を集めたバラエティー番組『オネエMANS』が登場したことは記憶に新しい。ここに集結した”女装する男”たちは男性から見ればキワモノだろうが、女性に取っては完全にお仲間である。ここから生まれた美容家のIKKOというスターの手になる、ビューティー指南書がヒットするぐらい、女性は彼を同じ目線で見ている。男であるIKKOが取り入れる女の記号へのアプローチは、女性である自分にもすぐさま使えるノウハウ満載なのであった。
あるテレビ番組にIKKOTが出演し、そこでアナウンサーに女性を美しく見せる立坐り方を指導していた。それらは自然なものでなく、全く楽ではない動作なのだが、確かに女性の外見をマックスに綺麗に可愛らしく見せることに成功している。そんな苦痛を男性から強いられるのはゴメンだけれども、自分から積極的に仕掛けるのならばこれは自分の身体を使ったワクワクするテクニックというわけだ。
社会環境と女らしいファッション
女性が「女らしく装う」ことの動機に関しては、男性の視線というものがかつては強力に存在していた。ジーパンばっかり履いて化粧もしないで飛び回っていた女の子が、年頃になって男性を意識し色気づくと、とたんにスカートを履いてお化粧するようになるというのは、世界共通の女の子のおしゃれストーリー。
女性の社会進出とファッションの関係もこれを基本とすれば、たやすく読み解くことが出来る。たとえば、女という属性が不利に働く一般企業では、女は「女を感じさせないパンツスーツ」に身を包み込むことが良しとされる。成果や実力に関してフェアであることが建前の企業は、「胸の谷間の大胆見せ」のような女らしさの過激な演出がその人物の仕事の不当な評価につながることを嫌がるのだ。
キャリアを望み、男性と互角に相対する女性が少数ながら出始めた80年代は、その気概と戦闘気分を肩パットとボディコンというファッションが代弁したものだった。女性の社会的な立場はまだまだだったが、「男は自分が選ぶ」「一回ヤったからといって、アンタの女になったと思うなよ」「私は結婚が目的じゃない」という女性側のスタンスは、ウェストを強調し、膝下の肌色ストッキングのなまめかしさを見せつけながら、アメフトのプロテクターのような肩パットで威嚇するというボディコンのメッセージを直接表現していた。それは女性たちの「誘惑しつつも拒絶する」という気分と相似形だったのである。
そして、男女雇用機会均等法以降、バブル時期採用組が40歳前後の管理職になり、女性が職場の花や補助業務としてではなく、実際の重要戦力として職場に進出している現在、すでにその脅威の必要はなくなった。
無彩色のスーツが基本ながら、ヘアーやメイク、ツメ、パンプスの足下、そして下着などにグーッと女性バイアスがかけられているが、働く女の定番ファッションだといえる。私服となるとさらにそれは強くなり、相対的にカジュアル全盛とはいえ、グルメな飲み会などの夜遊び、結婚パーティーや季節の行事系パーティーなどでは、さらに強化され、着物やコルセット、ヴィンテージの古着ドレスなど、装飾的であり、コスプレがかった領域に軽々と達している。パンストの普及で一般的には絶滅したと思われていた、ガーターベルトとストッキングも、今は堂々ファッションとして復活している。
小物のトレンドとしてもそれが見て取れる。
クリスタルガラスのジュエル系パーツであるスワロフスキーをはじめとして、フェザー、サテン、ベルベット、フリル、フリンジ、花柄にハートにエンジェルなど、ハイセンスの文脈では捨て置かれているフェミニン素材や衣装が支持され、ハローキティをはじめとした少女御用達カワイイグッズは近年、欧米セレブを始め、大人の女から視線が熱い。
カワイイ(オタクやマンガとともに海外でも流通する言葉になっているが)、と形容される女子供が好むとされるキッチュでチャイルディシュなセンスが、女性の本格的な社会進出とともに大量に消費されている事実は興味深い。これらのモノを身に着けても、キャリア上は何の得にもならない。
常に男性の目線に影響されていた、女らしさの記号というものはそこから大きく外れて、純粋に女性自身の楽しみのために、女性を飾るようになっていったのである。
扇千景と勝間和代の、武器としての女装
物事は成熟すると洗練&高度化するが、女装が行き着くひとつの境地例として、近頃のネイル流行が浮上してくる。ネイルサロンの隆盛は本当にここ10年ぐらいの間のことなのだ。日本の女性の化粧史において、意外にも遅いのが不思議なところだが、これが”過剰”なものであることは誰もが理解しうるところ。素のままのツメが恥ずかしい、という感覚は、急速に女性の間で広まっている。
ネイルに血道を上げていたとしても、日常生活に不便だわ、がんばったところで男性に評価はそれほど得られないわ、で、実利をとりがちな女性心理からしてみれば、逆行するような動きがある。それでも、その不自由さと女らしさマックスの記号性が、ひとつの心地よい刺激として受け入れられているのだ。
「パソコンを真剣に叩いている指先がネイルで整えられていると、私はなんだ、と確認できるわけよ」
なぜネイルに熱中するのか、という問いに必ず返ってくるこうした答え、しかし、これを単純に「仕事で抑圧された女らしさの発露」と解釈するのは、少々違っている。
ネイルのよろこびとは、仕事において全く必要のない装飾が、真剣勝負の指先にキラキラ踊っているという”遊び”が精神的に心地よく、一種のガス抜きになっているからにほかならない。校則が厳しい学校で、生徒たちが先生の目の届かないソックスのワンポイントや髪型のディテールに心血を注ぐことと全く同じ心持ちと思ってよい。
外見は地味なのに、下着をセクシーに凝っている女性というのは珍しくないが、これもまたひとつの逃避場所。売上のノルマや人間関係にアップアップするのが男女平等の仕事のリアルだとすると、女性はその機能と能率の仕事ワールドに、ネイルや下着などの肉体に即した治外法権的な”遊び”が許されているである。
仕事に打ち込みキーボードを打ちまくる手の先には、仕事とは全く関係のないムダな蕩尽としてのネイルがある。このゆとりの有る無しは、ストレス社会においては大きい。
ネイルの輝きは、「まあ、仕事は仕事。私は私だよね」というクールダウンの合図にもなるし、「今はカイシャで一応、大人しくしているけれど、本気を出すと怖いよ」という虎と龍の刺繡が光るツッパリの学ランの裏地みたいな心理作用すらある。その点、スーツ姿が基本のサラリーマン男性にはあまりそういったガス抜きが用意されていない。「女はいいよなあ―」というぼやきすら聞こえてきそうだ。
また、あくまで自己満足なネイルを見事に「物言うツメ」として効果的に装っている強者もいる。経済評論家、勝間和代のトレードマークはパンツスーツに自転車移動としてマニッシュなスタイルだが、唯一、その指先だけがネイルサロンで綺麗に整えられており、ストーン付けも長さもあり、の本格的なネイルアートが施されている。
「ネイルは女性の特権なので、楽しみたいですね!!」と自分のためのおしゃれとして愛好しているようだが、三人の子供の子育てと素晴らしいキャリアを両立させている機能性の魂のような彼女にその指先があるだけで、やはり、その人物の印象に深みが出る。ネイルに象徴される”女装”の遊び感覚がひとつの余裕、いや一種の凄みとなって発揮されているのだ。
女の“女装”は、使いようによっては男性に対する武器にも勝る。やはりアラフォーのテレビ局勤務のある女性プロデュサーは、自宅通勤で家賃がかからないうえ、激務から来る膨大な残業手当も含むサラリー報酬のほとんどを趣味とも言えるハイ・ファッションにつぎ込んでいる剛の者だが、彼女は、芸能事務所と揉めたときの交渉に行く場合、必ず上から下まで高価で派手なブランドファッションで着飾って臨むのだそう。
「こけおどしにこれ、効くんですよ。まあ、ヤクザの入れ墨と同じですね。打ち合わせの場合も高級ホテルのラウンジが基本。交渉先の事務所の社員が絶対に気後れするだろう場所、というのがベストです」
彼女の言をもうちょっと詳しく説明すると、揉めごとの交渉というものは弱みを見せてはダメで、サラリーマン社員プラス女性である、というのはすでに二重のハンディがある。相手は百戦錬磨の外部プロダクションなだけにそこを利用した泣き落としはほとんど通じず、逆に相手側の思惑には無い、誘惑記号バンバンの過激な女性記号満載のファッションを見せつけることによって、出鼻をくじくという作戦らしい。
さらにそのドレスアップコードにバッチリあった高級ホテルのラウンジという援護射撃が加われば、この談判、スタート位置ですでに30メートルの差がついているといえよう。
そういえば、国土交通大臣や参議院議長になった扇千景は、元・宝塚女優ということもあってか、場違い感バリバリの着物姿やフリル系のスーツなどを徹底して着用していた。とすれば、これは男性社会を生き抜く高等戦術と見ることも出来る。彼女がシンプルなパンツスーツ姿という男服と共通コードの装いならば、なんとなく「男同士のなあなあネゴシエーション」が通じそうだが、紫のフリルドレスならば「何で、あの案件の報告が遅れたのっ!」という𠮟責に、一切の言い訳は通じそうにないからだ。
ネイルアートのデザインの方向性も興味深い。それは洗練されてカッコ良い、という方向よりも、ひたすらあのツメの小さな表面積の中に絵を画き入れデコレーションを盛り込むという過剰な方向に発達していっているのだ。スカルプチャーのごてごてデザインは、まさにトラックをペイントや電装で飾り立てるデコトラそのもの。
ということは、すなわち一種のヤンキー魂の表出とも言えるわけで、記号的には女性が世の中に対して”つっぱる”場合にあまりにも適している。ヤンキー女といえば、その攻撃性の根本には包み込むような母性があるということになっているので、勝間和代も扇千景もそのへんの度量がありそう。そこらへんが人気の真相か。
銀座のクラブママと叶姉妹のプロテクを盗め
外見と共に内面も”女装”のモードが立ち上がっている。
お手本となるのは、銀座のクラブママ、舞妓に芸妓などの男社会における接待のプロフェッショナルたちだ。叶姉妹の案外一発屋で終わっていない長い人気も、叶恭子の著作が示すハードコアかつ豪華なプロの手口あればこそ。いわゆる、「女を武器に、使いこなしているその道のプロの高度な伝統技術」が大変に人気なのだ。元・水商売や有名人の愛人だった、という経歴は男は喜ぶが女は嫌う、というのがかつての一般常識だったのに、今やそういう人たちの手記やエッセイは、本屋の女性棚の平積み常連である。
男女の間に深くて大きい河が横たわっていた時代、人々はその河を渡るために恋愛という小舟を出し様々な文化や作法を生み出してきたものだ。謎が多いからこそ燃え上がる。困難が多いからこそ、それを乗り越えた成就のよろこびはひとしお。
しかし、ベールに包まれていた男の真相がはっきりし、セックスの理由に恋愛が必要でなくなった今、男女の間の深くて大きい河はもはや、水深30センチの小川と化してしまった。
そんな現状と裏腹に「プロの女の技術」がウケる、というのは、一見、矛盾しているように見える。容易に河を渡れるのならば、そのための技術は衰退するはずである。浅い小川を渡るのになぜ、”技術”が必要なのか!
それは、水深は浅くなったものの、なんと、男側のあっちらから、女側のこちらに舟が出なくなってしまったからである。これこそが大いなる誤算だった。
かつては若者向け男性誌では、「女のコをオトすためのマル秘テクニック」などの女性攻略特集が定番だったが、今、ソレを続けているのは30代向けの「SPA!」ぐらい。他の男性誌の定番は一にも二にもファッションオンリー。男性の興味の対象は女性よりもヴィンテージ・ジーンズに裏原宿のスターNIGO なのだ。
加えて、『負け犬の遠吠え』にて、酒井順子も言い切っているように、いい男ほど早く売れてしまい、残り物には福は全くない(彼女はそういう売れ残り独身男を宇宙人とまで言い切っている)ことが明白な争奪戦の中では、ノウハウはあるに越したことはない。
もともと男性の本質に対してシビアな見極めを持っていて、現実的な「男性を手中にする。喜ばせる」技術を持っている”女のプロ”に対する注目度は高いのだ。身体を許してステディーにさえなれば、あとは自然に結婚に至る、というラインは崩れてしまった今、女性に残されたのはひたすら自助努力のみ。
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エロスを感じる
また、女のプロのみなさんの波乱万丈の自伝は女とっての東映ヤクザ映画、とみなすことも出来る。たとえば、叶恭子の世界を股にかけた、壮大なラブアフェアーが描かれている著作の数々は、札束のブロックは飛び交うわ、映画『アイズ・ワイド・シャット』ばりのハイソ乱交パーティーが登場するわ、ホントかよ? というほどの冒険譚(たん)が展開し、面白いことこの上ない。これは、多分、東映ヤクザ映画に男が入れあげるのと同様の爽快感を女性にもたらしているのだと思う。そこには、「女と生まれたからには!」という究極の夢物語があるのだ。
映画、テレビ、書籍もこのあたりのネタは多く登場していて、映画、テレビドラマ化された、『女帝』(倉科遼・作、和気一作・画)は、もともとはオヤジ系『週刊漫画TIMES』連載の、エロシーンも満載の劇画だったが、マンガ喫茶等からの口コミで女性の間でもヒットした。その内容はといえば九州の田舎娘が女力バリバリで銀座のママのトップにのし上がる様子が描かれる「女の一代記」である。その一人娘が女帝ママに対抗して、舞妓になり、京都の花柳界のテッペンをめざしていくという別シリーズ『女帝花舞』もスタートし、母娘の壮大な『これが女の生きる道』ロマンとなっている。
これを読む女性たちの心境は、もはや、西郷隆盛のリーダーシップを月刊『プレジデント』を読んで学ぶ、オヤジ管理職とほとんど同じ。”女”を技術として客体化する視線は、彼女たち内面の視線が、女という自己意識から隔たっていることの現れでもある。
男不在でも先鋭化する女装
ツメは完璧ネイル、研究され尽くしたメイク術、ハイヒールによく手入れされた肌とヘア、女の身体をいかにセクシーに魅力的に見せるかを計算したファッション、精神的には銀座のママの技術と心意気をピットインした、普通に働く女と専業主婦。ちょっと、脱力系にふってみたり、のバリエーションはあるとはいえ、これが20代から40代をターゲットとした女性誌が発信し続け、多くの女性が目標とする姿である。
彼女たちはまるで非の打ち所がないようなスーパーカーぶりを見せるが、このスーパーカーを運転しようとする男性は、どんどん減少傾向にある。目的を失った方法論は存在価値を失うものだが、人間心理はそんなに効率的ではない。特にシステムオタクの日本人は、方法論に”道”を見つけたり、そんな本末転倒の暴走が大好き、と来ている。
かくて、女の“女装”は、そのワザを同性同士が評価し、楽しむという方向に進んだ。方法が目的となり、先鋭化していき、ついには男不在の女子校感覚に突入している。グルメ・レストランのランチやディナーといえば、どこでも女性のグループが幅をきかせているが、その場はまるで女装ドレスアップ社交界だ。
そういえば、某外国人有名シェフが特別来日した時のフレンチのランチに君島十和子とその女友達というグループが来ていたのを目撃したことがある。シェフは挨拶に行った彼女のテーブルに嬉しそうに長逗留していたが、彼女たちのコストと時間をふんだんにかけたビューティーぶりと、女だけのランチというシチュエ―ションが、カップル文化の伝統を色濃く持つフランス人の目にはどう見えたのだろうか。
日本で最も歴史の長い、女だけのパーティー、「GOLD FINGER」はもちろんゲイの女性もたくさん来るが、ノンムの女性にもたいそう人気で、「最も気合いを入れてドレスアップとしていくパーティー」と認識されてもいる。これは女性たち同士のまなざしも楽しいし、美しく装った自分に確実にアプローチしてくる存在もある、ということで実に精神衛生上、心地よいのだ。
セクシー下着をある意味、”女がする女装”というコンセプトの通販にして一般開放し、大ブレークしたのがピーチ・ジョンである。きわどいけどカワイイ装飾的な下着は、20代から30代の女性に大人気。脇の肉を寄せてロケットのようなバストをつくるボムブラがブレイクのきっかけだったが、その”偽装”バストこそ、女がする女装の最もポピュラーな例かもしれない。
ピーチ・ジョンが2007年に代々木体育館を借り切って行った、ファッションショウ&パーティーの目玉は、欧米のセレブ界では有名なカリスマストリッパー、ディータ・ヴォン・ティースのショウであった。一般客も大勢駆けつけた会場は、まさに完全コルセット装着のバービー系から、倖田來末顔負けのセクシー系などの”女装”着飾りオンパレードで、この欲求が深く広く浸透していることを物語っていた。
10代後半から20代前半の若い娘たちもこのモードに共振中だ。
女子高生トレンド派のファッションは、ウィッグとつけまつげ、ネイルはもはや必須だし、ゴスロリのコスプレモードは広く深く浸透。キャバクラ嬢のためのファッション雑誌『小悪魔ageha』が、創刊数号にしてゴスロリと融合して、独特の”少女&セクカワ”の路線を打ち出したことも記憶に新しい。よりコスプレ感覚に近いことが特徴で、女性というだけでなく、女のコ、アイドルという、よりいっそう純粋化された女性記号をまとって楽しむ、という感じか。
しょこたんこと中川翔子というアニメやゲーム、マンガなどの秋葉原文化に精通し、本人自身もその登場人物のようなアイドルがいるが、そのライブの客席はというと、オタク男子が半数ならば、女子も半数。女の子の一部は思い思いに可愛くセクシーにコスプレしてしょうこたんにエールを送っている。
しかし、客席の男女は交わらず、男子、女子の別学の共同運動会のよう。ここに集まっている男子と女子のグループがナンパによって混ざり合うことは、ほとんど無いと思われる。
“エビちゃん女装”に込められた人類の存続
男不在の女装がある一方で、切実な男ゲットとしての女装も存在する。
女性誌の一モデルが女性から狂騒的なまでの人気を博した「エビちゃん現象」だ。
女らしいロングの巻き髪、膝丈のスカート、誰からも好感を持ってもらえるファッションにぱっちりお目々のエビちゃんこと、蛯原友里。彼女は雑誌『CanCam』から出た人気タレントだ。一分の隙もなく、現在の若い女性の「完成されたかわいさ」を体現している。とすれば人気は男子にもあり、と思いきや、圧倒的に若い女性のファンが多く、これは、押切もえ、鈴木えみ、などのファロワーに共通した流れでもある。
男受けファッションバリバリの彼女が、ブリッコとバッシングされずに若い女性に人気を得た理由は一体何か? 私はこのエビちゃん熱に若い女性の中にある切実な感情を感じる。それは、「わがまま放題でも男が放っておかないような美人でも、この時代、相方=男に合わせんことには、絶対に男性をゲットできない」という危機感だ。
皆が知っているエビちゃんストーリーは、モデルとしては最初あまりぱっとせず、雑誌のちょい役モデルから努力して、このかわいさに磨きをかけたというもの。一見、男受けファッションだが、そのモチベーションは、モデルを極める、という目的のために努力し結果を出したというまっとうな心持ちにある。それゆえに、彼女はみごとな”女の技術化”の努力の末の成功者として尊敬を受けているフシがあるのだ。
男ウケ戦略はこれまで女性が最も嫌ってきた部分で、古くはブリッコ、裕木奈江バッシングなど実例には事欠かないが、エビちゃんがその難を逃れている理由は、女性たちが忌み嫌う「男ウケ戦略」そのものだというのが面白い。若くて可愛い女はそれだけでちやほやされて、魅力的な男がワンサカ寄ってくるはず、と、今まで余裕ぶっこいていたものが、そうでもなくなったというシビアな現実‥‥。
アメリカのサブプライムローン問題で、急に中東やインドに色目を使い始めた企業のオッサンたちと同様のことが今、若い男女関係に起こっているのである。
恋愛とか生身の女とつきあったり、結婚するよりも、フィギアやギャルゲー、もしくは趣味の方がマジで楽だしおもしろい、というのは、日本及び先進国の男性のもはや誰も止めることのできない流れである。
恋愛モードにすんなりと入れる若い男もいないことはないが、今度はなんとそのライバルとして、歳上のオバハンという新規参入も始まってしまった。YOUやキョンキョンのような、老獪(ろうかい)な恋愛実力熟女に、若くて可愛い女に不自由しないはずの若いイケメンアイドルを俳優がガンガン一本釣りされている現状が、マスコミのヘッドラインを日々にぎわしている。
「俺はマザコンではない」とツッパってきた男たちが開き直りを始め、AVでは今まで変態ジャンルだった熟女ものを堂々、愛好している事実を横目に、若い女性の心情は決して穏やかではない。ニューハーフの方々は、「アレが付いているばっかりに」普通の男は振り向かせるために、血のにじむような努力を重ねているが、もはや、若い女性はニューハーフ並みの意識でモテを考えなければならないのである。
そういえば、『CanCam』の25周年記念号の表紙には、五人の人気モデルが登場していたが、エビちゃんの表情には、他のモデルと違う力があった。それは、たとえていうなら、精子ゲットと種保存の命を受け、人類の集合的無意識からつかわされたサイボーグ戦士のごとし!(そうじゃなかったら、砂漠の民に雨靴を売りつけようとする商社マンの心境か)若い女子のモテは、これほどまでに過酷なのだといえましょう。
アニメヒロインやフィギュアやAVと、黙っていればすぐに現実の女性から二次元の美少女、美女たちに性的リビドーが移ってしまう日本男児を振り向かせるためのテクとしての切実なる女装化。たとえば、マチキヨで「ビニールのような肌感」というスペックのファンデーションが売られていた。
毛穴、色ムラのないなめらかな肌、ということなのだろうが、脳裏をよぎるのは、もちろん、美少女フィギュアのプラスチックの肌だ。生身の女性よりもアニメキャラに萌えがちな昨今の男性のニーズに応えた、けなげな女心の現れなのか‥‥。
女性モードで生き残る男たち
女性は、マッチョ的に男性化しているというわけではない。むしろ、両者の差が男性側から積極的に縮められていると見た方が正確であろう。私たちが生きているこのような時代には、自然を力で征服、開拓していくフロンティア精神は不要である。戦争よりも平和、闘争よりも対話と協調、力強さより優しさ。時代は完全に男性モードから女性モードにシフトしている。
『フィガロ』の政治担当記者であるフランス人ジャーナリスト、エリック・ゼムールが書いた『女になりたがる男たち』には、女性的な価値観こそがスタンダードとなり、男女の差がどんどん縮小している先進国の様子が記述され、半ばヤケクソ気味に、男性性の消失イコール人類の滅亡とまで言い切っている。まさにそのとおり、男性は家庭料理、自分磨き、ファッションなど、女の領分に嬉々として進出してきているのだ。
『dancyu』という人気料理雑誌の語源と当初のスローガンは、「男子厨房に入らず、ならぬ、男子厨房に入ろう」という一種の啓蒙があったが、今や料理をつくる男性はごく当たり前。「休みの時だけ高い食材を買ってきてつくる趣味料理でしょ」という指摘もあるだろうが、男性が家庭料理を作ることに対する抵抗感は時代とともに加速度がついて軽減している。
ブログ日記に自炊ごはんの成果を日々アップしている男性は少なくなく、それらを見ると、スーパーの安売りを上手に使ったり、やりくり上手の主婦の域に軽々と進んでいる。
その昔は、男性を得意の手料理攻撃で虜にさせる、なんていう手口があったが、その逆のパターンは現在、まったく珍しくない。「彼のおふくろの味に負けて結婚しちゃいました」というのは、男にとって今や、カッコ悪いことではない。パン作りにハマって、酵母のタネを密かに会社にまで持って行ったり、ぬかみそを漬けたりしている男性をひとり知っているが、仕事もルックスもごく平凡な彼の人気は女性の中で極めて高い。
「街にいる若い男性一おしゃれ」とは、来日した外国人が必ずもらす感想である。彼らによると特にヘアスタイルが凄い、という。彼らの国では、「たいていガールフレンドに切ってもりうか、自分で切るのが当たり前」なのに、そんなにリッチでもない若い男の子がヘアサロンに行きつけていることに驚きを隠さない。
若い男性向けブランド主催のパーティーなどは、もうもうおしゃれ最先端の百花繚乱。それぞれの個性を生かし、見事なコーディネイトぶりを発揮している男性の集団に圧倒されてしまう。そのルックスと立ち居振る舞いはひとつのエレガンスの域に達しており、彼らに比べると逆にそこにいるファッション系の女性の方が平凡かつ地味なぐらいだ。
女性誌のノウハウを男性誌に移植に成功した『メンズノンノ』をその黎(れい)明期とすれば、ヘアースタイル・ファッション・カルチャー・コスメの四一体で読者の「なりたい」を造り上げる『BiDaN』や『CHOKi』という雑誌でそれがさらに先鋭化。外見をカッコ良くすることに血道を上げ、イケメンや味のある男になるためのノウハウが満載だ。
中年は中年で『チョイ悪オヤジ』ブームを作った『LEON』の流れも受け、見目麗しさの追求に余念がない。ジーンズコーナーにはヴィンテージに大金を払うオヤジたちが集う、伊勢丹メンズ館の盛況ぶり、また、館の呼び物である男の高級エステサロン『イセタンメンズデイ スパ』のヒットが何よりもそれを物語っている。
ただし、これらの事象の目的はモテではない。もちろんモテというストーリーは語られているが、それが女性に向けて船出するための戦略とすれば、この男性たちのファッションアディクトぶりは常軌を逸している。そこに際立っているのは、どうしたってオシャレな自分に酔う、ナルシスト具合の方。もしくは。ガンダムのフィギュアがヴィンテージ・ジーンズにすり替わった、コレクタブルなオタクっぷりの方向だ。
元々、男性同士でつるむ「チーム男子」度が高い存在だが、その「女ってめんどうくせーからな」モードは時代と共にぐんぐん上昇中なのである。加えて「お前のセンス、格好良すぎ」の男性同士の憧れ目線も入って来て、気がつくと前述の、君島十和子お食事グループ並みの完成度の高いおしゃれグループが出来ているという具合。
フランス料理屋のテーブルを五、六人の男性ファッションなかよしさんたちが囲む日もそう遠くはないはず。いや、私も実際、ミラノのレストランで中年の男性(マフィアの皆さんか?)が大テーブルを囲んでご歓談中、というのに遭遇し、その華やかな伊達男ぶりに卒倒しそうになったことがあった。ラテン民族はカップル文化圏だが、イタリアと日本は世界でも指折りのマザコン大国。母親じゃない女性にやっぱり超めんどくさいから男同士がいい、という意識の表れか、はたまた、その身だしなみは相変わらず女性という対象に向けて強力に発せられているのか、という点は不明なのですが‥‥。
オネエ言葉というストレスリダクション
女性化の欲求を男性文化のフィルターを通さず、直接に化粧、女装を求めるモードももちろん確実に存在する。ドラアグクィーンという、男性の女性異装者は文化があるが、近年はヘテロ、異性愛者の男性にも増えているのだそう。『笑っていいとも!』では、彼氏に女装させる『彼氏が彼女に着替えたら』というコーナーも登場した。飲み会の余興での”女装”は昔からあったが、ごく最近に遭遇した、あるパーティーにおける女装した男性たちのノリノリぶりは凄まじく、会の終了までずーっと女装を続けており、かつての罰ゲーム的なニュアンスが全くないことに驚いたことがあった。
祭りと同じように一種の祝祭的なコスプレ感覚とも言えるが、社会的なタブー破りの快感というものもあるのだろう。特に生まれて初めてストッキングを履いたという男性は、その締め付けながらもスースーする身体感覚をもの凄くセクシーに感じたらしく、「女はストッキングでオンナになるのよ!」などと訳の分からないことを口走っていた。
男性によると女装モードの熱のあるところに、マーケット有り! ミスコンが頭打ちならば、いっそのこと、女装美コンテストを開催したら面白いのではとこころから思います。
そういえば彼らは女装の瞬間から嬉々として、ずーっとオネエ言葉でしゃべり続けていたっけか。考えてみれば、彼らにとってこれも相当、面白いのであろうことは想像に難くない。有名ヘアメイクの中にはゲイでもないのに、あえて、女言葉を使って、女性タレントへの親密感を演出する人もいるが、言葉には関係性を自由に変化させていくというコミュニケーション上の大きい効能がある。
女性の方ではすでにかなり多くの年齢層で「ざけんじゃねーよ」系の男言葉をTPOに合わせて使いこなすまでに至っているが、男性はそのダブルカルチャーの妙味さえ、未だ手に入れていないのだ。「テメー、うるせーんだよ」の男言葉で女性たちの世界が広がったように、男性の女言葉遣いは、また別の意識開放に役立つかもしれない。
とんねるずの木梨憲武は、時折会話の中で自然に女言葉を使うことがあるが、それは、”お笑いの仕掛け”ではなく、その時分の心情を表すのに女言葉の方がベター、と瞬時に判断するプロの言葉選びによるものである。カワイイ! という形容詞は、言い方も含め世界的な流行語になったが、男性がこの言葉を手に入れることで、彼らを取り巻く世界が大きくなることは疑いもない。
スーパーマッチョは、新たなトレンドになるか
男も女性化し、女装モードを手に入れようとしているところで、男と男の関係はどうなっていくのか? それについて、最近、面白かった事例がふたつあった。
ひとつは2008年夏、上野の森美術館で始まって以来のヒット企画展となった「井上雄彦 最後のマンガ展」でのこと。宮本武蔵を描いた名作マンガ『バガボンド』をテーマにした展示の概要は、武蔵の最期を肉筆で描いていくというもの。剣の道を究める男たちの挑戦と達観の物語を魅力あるものしているのは、この当代随一の絵師が描く、線の躍動と造形の美しさで描かれる男たちの姿なのだ。
それは直接に男性美とそれが醸し出す色気に結びつき、武蔵、小次郎、老境の武蔵、吉岡清十郎、武蔵の父などはもう、極楽にホストクラブがあったらこういうメンツが揃っていそう、というようないい男揃い。三島由紀夫も聖セバスチャンの殉教図に萌えたが、この物語の剣士たちはみな死に望む男であり、それはもはやニッポン人のDNAに組み込まれた萌えポイントとも言える。いい男たちの体臭までも臭わせるような描き込みがなされ、作者の画力は「男が男に惚れる」という言葉の精神論やきれい事ではない本質的なエロスをガンガン伝えて来る。
そう、男はみんな男が好き。
しかしながら、展示を食い入るように見つめる20代の男子たちはマンガに影響されて自らもマッチョに肉体を鍛えているかというとその真逆で、これまた見事に線の細いヤサ男ばかりなのである。彼の中には弱い自分を強いヒーローに同化するよろこびというのももちろんあるのだろうが、それよりも、彼らの視線に感じられるのは、逞しい男に恋する乙女の輝きだ。
となるとそんな彼等のリビドーがヒーローたちの男として立ち向かうわけはなく、その関係は限りなく宮本武蔵ら美丈夫たちから愛を受け取る女、そのもの。そう、よく『SPA!』なんかの男性誌が特集アンケートする、「男に抱かれてもいい男」ですね。
と、そんな話をブログに書いたら、知り合いの20代後半の若い男性が、「デビット・クローネンバーグ監督の『イースタン・プロミス』はご覧になりましたか? 周囲の野郎どもは揃いに揃って、”ヴィゴ・モーテンセン、ヤバすぎつ!!”ってな会話ばっかしてますぜ!」と教えてくれた。早速、観に行けば、そこに繰り広げられているのは、古典的な男の美学が散りばめられた暗黒街の任侠物語。
ヴィゴ扮する主人公は、根底に優しさを秘めたクールな仕事人であり、彼の直接のボスである二代目はヴィゴを愛するゲイなのだが、その想いを隠しながらも押し留めることが出来ない。その愛と欲望の視線にヘテロの女である私は、なんの問題もなく同化して萌えたのだが、どうやら、男性の多くも私と同様に心身を熱くしていたらしい。
男性も女性も、”女”をめざす社会。男性社会の化けの皮が剥がれて、男の強さに関しての信頼も地に落ちている社会だからこそ、様々なツッコミをも突破することができる”新マッチョ”キャラは新たなトレンドになりそうな気配がある。しかしそれは、マンガ上の宮本武蔵に美形のロシアンマフィア。現実では有り得ない、限りなく妄想に近いキャラなのであった。
「細雪」と「セックス・アンド・ザ・シティ」に向かう男女関係
男性だけの世界は次々と消滅している。男性の特権と思われていたオタク界ですら、女性にとうに浸食されてもいる。日本で最大のオタクの祭典、コミケ(コミックマーケット)も実のところ。数の上では女性の方が圧倒的に多いのが現状で、夏コミの初日と二日目は女性が70パーセントほどの割合というから驚きだ。
その中心となる創作物が、「やおい」と「ボーイズラプ」という男性同士の性愛を置き換えたパロディーマンガや小説のことをさし、また、原作アリのやおいに対しオリジナルの「男同士の恋愛、性愛」を描くボーイズラブ(BL)は、今や、マンガ業界で、販売部数が急増している注目株なのである。
ボーイズラブマンガに熱中する女性というと、男性のオタクのパブリックイメージとの連動で、男とつきあったことがない、外見が不自由なブス、デブ女という印象を軽々しく持ってしまうが現実はそうではない。この手のマンガ書店やグッズ店が集結している池袋乙女ロードでもコミケでも、渋谷を休日歩いているような普通の女の子たちがこの手のマンガを買っていく。
何よりも、ブームとも言える数字の伸びはもはや一般的な女性を大いに巻き込んでいることを示している。普通に男性とつきあい、結婚もしている女性がボーイズラブの新刊発売日に書店を訪れ関連コミックを大人買いをしていく。その年代も10代から、果ては50代までと幅広いのだという。
この男同士の性愛に女が萌るという構図の作品群は、森茉莉の小説『恋人たちの森』に始まり、萩尾望都のマンガ『ポーの一族』、竹宮恵子の『風と木の詩』、80年代に少女たちを魅了した少年愛の耽美の雑誌『JUNE』など、日本の女性文化に綿々と続いているものもあり、それは女性たちのポルノグラフィティーとして密かに熱く流通して続けている流れなのだ。
かつては、その類にハマっているのは圧倒的に10代の思春期の少女で、彼女たちが身体の成長とともに否が応でも社会からそう見られてしまう「女らしさ」に対し自己嫌悪を抱き、男となって男を愛したいと思うことがそのモードの背景にある、と言われていた。
10代の女性は本来的に言えば、男性と同じく性的には最も活発な時期である。しかしながら、男性と違って、疼く自分の身体を自覚し性的にアグレッシブになることは大の御法度だったのだ。作品に性的な女性が出てきて、その女性がめくるめく快感を味わうことに萌え、マスターベーションに耽ってしまう”私”といものは、本来的には至極フツーなのにもかかわらず、常に女性はそれを罪悪感+羞恥として感じることを強いられてしまい、自身の性欲を自認し肯定することはなかなか難しかったのである。
そんな中で男同士の性愛という自分とは関係ない回路で表現される性の快感は、”自分の欲望を自覚する”ことの苦さ、重さからは決定的に自由だ。それゆえに少女たちはうんと淫らに妄想をふくらませることが出来たのである。
しかしながら、少女をとっくに卒業した既婚者、モテ系も含めた女性たちも、ボーイズラブ系にハマっているのはなぜか? このことは未だ、女性もまたエロ本を読んでオナる生き物だ、ということが一般には認知されていないことを示してもいる。
80年代、AV勃興期に黒木香という高学歴インテリ女優が痴態を見せつけるのに、世間は、”痴女”という烙印を押したが、あれくらいは今やシロウトの娘さんレベル、という程度には世の中は追いついている。それでも、女性の「エロ本オナニー」はまだまだ、タブー感が強い。「松山ケンイチで三発はヌケる」などというギャグを、男性の前で普通に言えるようになったのは、この私でさえつい最近、それも、このメンツならば大丈夫だろうという計算含みで、なのだ。
ボーイズラブ系を読み耽ってみて、もうひとつ気が付いたことがある。それは、明らかに自分自身が、ヤられる方の受け身の男性の嬉し恥ずかしの困惑やら快感やらの、表情、表現に欲情しているという事実だ。そう、自分も可能ならば、ガンガン美しい男を責め立ててヒイヒイ言わしたいんですよね!
男女の攻守の逆転は、「それならば、騎乗位で」と実行している方も多いと思うが、何分、男女の肉体の構造上、男のペニスが立ってくれなけりゃ結合できないので、純粋な攻めというのはなかなか無理矢理な感がある。相方の体の中に異物を入れ、その挿入により禁断の快感を引き出つれてしまう様子を女性が楽しむには、ペニスバンドを装着すればいいのだろうが、こういった状況は一般的ではなくかなり性の求道者じゃなけりゃ実現不可能な境地(このあたりの攻守逆転の男女の性愛物語は内田春菊のいくつかの名作に見られる)。しかし、ボーイズラブのファンタジーの中では、女性は自由に攻めの快感を堪能できるのだ。
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さて、この男同士の性愛ポルノ、読み手の女性が誰に感情移入をするかというと、攻めの男にも、また、受け身の男にも、そして、そのふたりを覗くようにしてみている第三者にもそれが可能なのだ。そこには、女である私という確固とした自我は限りなく存在せず、それだからこそ、物語の関係性の中に楽々と入っていくことができるともいえる。
「私の物語だから好き」から、「私が登場しないから好き(だし、おもしろがることができる)へ。女とか男とかはあんまり関係ない私が、「女を装う」ことを楽しむという女の女装と、ボーイズラブの物語で自由に萌えの立ち位置を変える読み手の女性の感覚は、自我の温度は低い、という点で大変似ている。
セクシャリティーを自分自身の性癖に従って、オーダーメイドすることに長けたゲイやバイセクシュアルな人々は、「男として男を愛したい」や「女の身体で男を愛したい」や「女の身体で女を愛したい(男性)」、「男の身体で男を愛したい(女性)」などなど、その組み合わせを自由自在に愉しんでもいる。
だとすれば、ボーイズラブは「男の身体で男を愛したい(女性)の欲望が最もストレートに表現されたものともいえる。ヤマシタトモコの名作マンガ『くいもの処明楽』で「俺、アンタが好きです」と口数少なくド直球で告白し、静かで燃えたぎる情熱でもって、ノンケの店長をオトスことに成功するバイト島原の心意気を、もし私自身が実行すると想像した場合、自らの女性の肉体と文化コードは全くセンスに合わず、相当邪魔くさいことは確かなである。
ロスアンゼルスに住み、現代美術の仕事をし欧米の難物ギャラリーと丁々発止の交渉をこなす真に知的な友人のNも40代後半でボーイズラブファンなのだが、さらに過激な事を言う。
「たとえば、私のように小難しく、いうなれば知性的な主人公はたいてその恋愛を真にリアルに描くとしたら、女の肉体は重いし、鈍感すぎる。フエミニズムの人には怒られちゃうけど、知性の乗り物としての女の肉体はあまりにも歴史が浅く、文化的な合意も少ないからなんだけどね」
女が女装するのと同様、もし、女が男の肉体に”着替える”ことができるのならば可能な恋愛の物語が、ボーイズラブにはてんこ盛りなのだ。
つづく
2章 スピリチュアルな女