魔利(マリア)は詰まらなそうな呟き、例によってベッドに長々と腹這い、ぼんやりとした眼を辺りに流した。何が絶望かというと、小説が何日経っても書けない、という絶望である。もっともあまり絶望したような顔もしていない。

 森茉莉森 茉莉(もり まり、1903年(明治36年)1月7日 - 1987年(昭和62年)6月6日)は、日本の小説家、エッセイスト。翻訳も行っている。 東京市本郷区駒込千駄木町出身。文豪森鷗外と、その2人目の妻志げの長女である。幻想的で優雅な世界を表現することに優れており、主な著作には『父の帽子』『恋人たちの森』『甘い蜜の部屋』などがある。また、独特の感性と耽美的な文体を持つエッセイストとして、晩年まで活躍した。

マリアはマリア

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(あああ、絶望だな)
(どうにかなるさ)
 魔利は再び呟いた。
《どうにかなるさ》。この言葉はマリアの、根本から出る言葉である。マリアの、大根(おおね)を言うと、縦のものを横にもしたくない精神、何もしないで寝転んで推理小説を読み、食事と間食用の費用を削る心配もなく、週刊誌を全部買って読み、新聞を三種類ふやして七種とって読み、紅茶を飲み、チョコレートを齧(かじ)り、
 ――魔利は自分を高級な人間だと信じていて、だから、週刊誌をよみたがるからといって自分が低級だとは夢にも思わないのである。マリアはシュニッツレルの『恋愛三昧』を読むより、ドイツのシャアロック・ホームズを読むほうが楽しいのである。マリアは高級な心で人々のゴシップを読み、何よりかにより関心のある映画界の記事を、読むのである。楽しみはこの他、無数にあって、マリアの楽しみを列挙することになればこの小説の、少なくとも半分はそれだけで終わるのである。

たとえば喜劇的な気分を楽しむことだが、マリアがそういう分子を引き出してくる材料はマリアの周囲に山のようにある、面白いところを読むことが一つ。深刻に可笑しくて、笑い転げたくなってくるところが、平四郎の随筆の中にはある。

ユウモアという英語の意味が不明である。よく人が説明をしているが、明瞭ら納得出来るように書いてないし、その種の議論的なものは詳しく読む根気がない。その上に、実に下らない、おかしくも悲しくもない事柄に対して、人々がやたらにユウモアだ、ユウモアだと言ったり、書いたりし、それを言ったり、書いたりする人々の気分の中に、(だから高級だ。自分こそユウモアを解する)という気配がみえ、その気配は悪い蛇の毒気のようにマリアの方へたち迷ってくる。

まるでこっちは馬鹿のような気分である。甍平四郎の文章の中のおかしさはユウモアではなくて、それとも違うがまあ、「おかしみ」である。人間の底までとどくおかしさであって、それでいて、気分よく愉快で、マリアは苦しくなるほど笑いこける。

又は斧鋭次の初期? 中期? 初期らしい。その初期の貧乏小説や、離縁小説をよくよんで笑いころげるのが一つ。鷗(かめも)石の「猫」、又は身辺小説的なものを読むことも素敵だ。「猫」は全部愉快極まるが、マリアが特に喜ぶのは終わりの方の、なかなかヴァイオリンを買うところまで話が進行しなくて、いつまでも干柿が障子に映っていて、時々それを食べる、あの箇所である。

鷗石の文章の中のおかしみは深刻小説の中にも点在するが、深刻小説の方も一緒に読まなくては再発見出来ないのである。信沢糺(しのざわただす)の「蝙蝠(コウモリ)と番傘」等々。又は豹野文八(ひょうのぶんはち)の「ショコラ」、「女房学校」等々。赤沢涙谷には附録が谷(こく)の翻案長編小説、「無情の谷」「石の仮面」「銀白鬼」等々。

ことに赤沢涙谷のには附録があって、ジャコモが皺薦(しわこも)、アゼルマが痣(あざ)子、イヴォンヌが疣(イボ)子等の語呂合せの命名や、龕灯(がんどう)、ロウソク、箱馬車等が横行する薄暗い前世紀のフランス国、泥埠(デイフ)の石牢、の面白味、人間が死ぬと、こと切れとなりました、となること等々、小説全部が興味の巣窟である。

これらは文学を読むことに関係があって、シュニッツレルを読む事にも繋がっているが、その他、冷凍人間のような恋人たち(彼らは喫茶店で相手をじっと見つめたまま、又は煙草を指で摘まんだまま、足を洒落た恰好に組み合わせたまま、こちこちに固まる。恋愛ムウドの冷凍である)を見たり、そういう恋人たちが出て来る日本映画を見るのも、その一つである。あらゆる悲惨な出来事、が起って人々は眼を剥(む)き、顔を歪めて、断末魔の表情をする。

歌舞伎のような悪人が出て来る。道を歩くヒロインの、足が映ったり顔が映ったりすると、センチメンタルな音楽が最高潮になって、鳴り響くのである。まさに美男美女、哀
恋悲恋、紅涙を絞るの、沸騰点である。そういうものを見たり読んだりするのがマリアの無上の喜びである。マリアは心の中で、又は声を出して笑い、体を捩(よじ)るようにし、そうしてこれらの小説や映画の生産者に感謝し、彼らがマリアの為に週に一回の速度で、矢継ぎ早に傑作を提供してくれることを熱望するのである。――

あとは空想ばかりしている、というのが理想である。マリアの「怠け者の人生観」から発する言葉であるがマリアは別に不思議とも思わない様子で、ケロリとして辺りを見ているが、マリアの部屋から発するさが一寸異様である。

 一体これはどういう光線だろう? ガンマー線か、ベーター線でも交じっているのだろうか? ‥‥夜昼六十Wの裸電球が点けっ放しのマリアの部屋は、昼間はいつも不思議な光線の中に浮かんでいる。昼の明るさと、裸電球の放射とがお互いの光を眩まし合っているような、又は、六十Wの電球の光が、昼の明るさを掻き消そうとして出来得ずにたち迷い、辺りに散乱している、とでもいうような、異様な明るさである。明るすぎる事もあるし、どこか暗いようでもある。マリアの部屋に昼間入ってくる人間は瞬間驚いて目を皺(しわ)め、

(眩しいわ、消していいでしょう?)
 そう言ってスタンドを捻る。

 マリアは光に馴れた梟(ふくろう)のような眼をし、別にいけないとも言わないが、消した人間の方を一寸不機嫌そうに見るのである。

《雲の中にある砂漠の太陽を、尚一層眩ませる黄金色の砂塵の中にいるのではないかしらん?》
 マリアは妙に明るい光線の中で、大きな眼をまじまじと開けている。大きな眼だが、あんまりものがよく見える眼ではない。近眼で乱視その上老眼らしいが、新聞は読めるので放ってある。四十歳のとき医者に診て貰って眼鏡を誂(あつら)えたが、眼鏡をとる前より見えなくなった感じがある。

かけたり取ったりしているうちに変に疲れるので止めてしまった。母親がついていた時代だからそんなことはないと思うのだが、医者が悪かったのか、眼鏡屋が悪かったのか、それきり眼鏡とは縁切りになってしまった。そんな眼で、こういう妙な光線を浴び通しではいよいよ悪くなると思うのだが、マリアの部屋は暗い部屋で、点ければ明るすぎるが、消せば陰気で本も読めない。

それに、電灯を点けっ放しにして殺人的光線にしておかないと、部屋が暗いから真紅い瀬戸引きの容れ物も、中の砂糖の新雪のような美しさも、紅茶の輝、無糖コンデンスミルクの澱んだ白、ボッチチェリの薔薇の話の茶碗、透明なミルク入れ、濃い菫(すみれ)色に光るアルマイトの菓子入れ、そういうすべてマリアの眼を楽しませる光景が薄ぼやけ、黒ずんでしまうのである。

 北側一面の窓硝子は、硬質の黄色金剛石(ダイヤ)のように戸外と部屋とを遮っていて、上の二枚の透明硝子はこれも黄色っぽい空と樹とを映しているが、その二枚の硝子へ靄(もや)のような湯気が絶えず附着するので、部屋の中はますます不可解な光線となる。何しろ、手を洗う湯を沸かす、湯たんぽの湯を沸かしかえる、紅茶の湯だ、緑茶の湯だ、洗濯だ、昼飯の缶詰洋食だ、オートミイルだので、部屋に密接した台所では大抵のとき何かが沸いている。

又プロパンガスというのが恐るべき火力のガス、アッという間に沸騰する。少し位沸かした湯なぞは忽(たちま)ち蒸発して、あとかたもない。マリアの腰には三貫目位の重石が入っているようで、湯の沸騰する音をきいてもなかなか持ち上がらない。マリア自身その重さにつくづく閉口しているのである。ヘボ小説をもう一行、料理をもう一口、スープが冷める、紅茶が冷める、クリイムは洗ったばかりの顔に塗らなくては、という訳で大抵の時ぐずつくから、バケツの湯なぞは、ドボルコと音を立て、薬罎の湯はシュウ、シュウ、蒸気を上げ、湯は何分かの間ぐらぐらに沸き続ける。

それで窓ガラスの上部は一面に、夏のコップか、夏の日の、西洋菊の茎を透かせてマリアを楽しませる花瓶か、と思うように汗をかいている。花瓶が汗をかくのは妙だが、魔利の花瓶はは全部硝子製なのである。

 硝子製というと聞こえがいいが、マリアの花瓶は六角型の砂糖壺、ヴェルモットかコカコラの空壜、又は英国製のライムジヤムの壜、なぞであって、硝子製といえるのは、宮野ゆり子が甍平四郎に贈り、平四郎がそれを又マリアに呉れたという、因縁づきの大きな高盃(タンブラア)だけである。このタンブラは、甍平四郎がマリアに呉れたというより、マリアの暗示によって平四郎がマリアに贈らせられたというような気配が、あるのである。マリアの硝子好きを知っている平四郎は、マリアの眼が自分の傍にある硝子にじっと密着するのに気がつくと、呉れざるを得ないはめのようなところに、追いやられるらしかった。

マリアには別に魂胆があるわけではないが、欲しいと思う硝子に眼が密着して離れないという、この馬鹿げた瞬間にはマリア自身も、困り果てていた。魔利の眼が一つの硝子に密着する、失敗(しま)った、と思う、平四郎の眼がそれを見る、平四郎が立ち上って(これを、『父の跫音(あしおと)』のお祝いに上げましょう)と言ってマリアの前のテーブルに置く。こういう順序を踏んで、マリアは二つの素晴しい硝子を獲得した。

 甍平四郎というのは、野原洋之助と並んで肩を磨り合う詩人作家で、青井のあんか(青井のところの下の子供意)と呼ばれていた幼時の、暴れん坊の風貌をはっきりと残しながら、偉大な怪物作家と化していた人物であるが、彼は魔利を女ひととして愛しているわけではないが、なんとも変った御仁(おひと)だと、見ていて、怪物作家である平四郎の、ビニョレ(欧外訳『蛙』の中の大工の倅)に脳天を割られた蛙のような眼は時折、マリアの上にふと、据えられた。

 大体マリアというのは平四郎にとって、硝子の贈呈を暗に恐喝するだけではなく、食事にいらっしゃいといえば日を間違えて、招かない日に来る。マリアから招待状を貰ったと思えば、場所も日時も書いていないから、問い合わせの葉書を書かなくてはならない。

全文同じの長い手紙が二通続けて来る。法事に招くと手提げ袋を置いて行って、大森まで持って帰らせられる。その袋を見れば、洗濯したハンカチと新しいのと、手摺れに手摺れた皮財布が三段になって透き通っていて、貧寒極まる編み袋であるから、間近いクリスマスにはなにがしの散財することになる。いつもいろいろなものを持ち歩いているらしいので大型の皮製の袋を贈ると、小鬼のような顔になって泣きましたという、手紙が来る。と、まあ言ったような、全く呆れた、しかも厄介な人物であった。

平四郎を訪れる女のひとの数は多いが、ハンドバックを持たない人間は一人も居ないのである。平四郎は想う。(スウツもない。踵(かかと)のある靴もないらしい。いつもスウェータアに杏子が進呈したオーヴァアを着て、踵のない靴でやってくる。)前に坐って丁寧に挨拶をするマリアに眼をあてる度に、平四郎は気になる。(恋人なら揃えて買って遣るが、もう買うだけの金はある筈だ)

 マリアとしては、身につけるものの色彩には神経質だが、質の不調和の方は念頭にない。仕立代を入れて九千円はするお召に染めさせた帯で、三百八十円の編み袋を持って歩く。何が透って見えようが、春先は半襟とそこだけが白いということが肝心であり、又は、着るものには使えない柔(やさし)い色をどこかへつける為に、水色の手袋を嵌めたり、青磁色の袋を持ったりするということだけが重大であった。

 マリアの方では招ばれたので行くと、いつもの四角い障子硝子に平四郎の、招かない日の、ふだんの顔が映っているので慌てて困るのだが、マリアの困る方は自業自得である。

 部屋の話から横道へ来てしまったが、魔利の話はすぐ横道に外れて、一旦外れれば止めどがない。人と話をする時も同じで、いつの間にかまるで違った話になっていて、どこからそんなところへ来たのか判らなくなり、
(私は何を言っていたんでしょう?)
 と、相手に聞いている。相手が少し口を開いてマリアの顔を見てから、(イタリアの空の話でした)と答えると、(ああそうそう、そうだった)と言って、再び話を続けるのである。大抵の時マリアは、蜿蜒長蛇(えんえんちょうだ)の道草をくっては、あっという間にもとのところに飛びかえる、という手練の早業を繰り返しつつ話をつづけて、相手を感にたえしめるのである。もっとも論理的な話ではないから、横道に外れっぱなしでも別に差し支えないのだが、馬鹿な話だとしても一応は論旨? の辻褄(つじつま)を合わせた方がいいと、マリアは考えるらしい。

 さて魔利の部屋の窓ガラスである。
 異様な光の溶明の中で、マリアの部屋の窓硝子は妙に黄色く光っているが、その窓には縁のない長方形の鏡が立てかけてあって、硝子の面をそこだけ、四角い鉛の色に、切り取っている。幅の広いベッドの枠には薄緑色のヴェルモットの空罎(からびん)に、蠟を塗って仕上げた薔薇の造花を挿したのが載っていて、雑然と散らかったマリアの部屋の中に、忽然(こつぜん)として現れたプシシェ(精)のように浮かび上がっているが、これがマリアの御自慢の、この頃ではこの部屋の第一の装飾である。

 フランス製の赤い薔薇の造花で、朱のような赤い花は日本の造花のように本物のそっくりではなくて、あくまでも虚像であり、茎には暗い薔薇色の、誇張した大きな棘(とげ)がある。処々紅紫のかかった緑の葉はやや実物に近いが、全体に装飾的で、ヴェルモットの罎にぴったり似合っている。

似合っているというより、合致している。蝶と花とのように交媒している、といってもいい。造花と罎とはもうマリアの手に引き離すことが出来ない、「美の結合」を遂げていて、ルオオのステンドグラスより、綺麗である。この花と罎には人道も、宗教もないからだ。大体美というものが、善や美徳と講和することで最大に光り輝くのだという理屈が、マリアにはのみこめない。道徳と仲良くしなくても美は美であって、いつでも最大のものだと、マリアは信じている。

美はどんなものより大きいものだから、宗教にも、悪徳にもどっちにも、関係ない。理論にも思想にも関係ない、と思っている。むろんマリアの考えはすべて児童の直感のようなものであって、その児童の直感のようなものをもとにして随筆や小説を書くより他に生命を繋ぐ方法がないから、書いているだけのことである。

――児童の直感しか材料が、あろうが、無かろうが、それを使って何か書いていなくては、預金が0になればその日から生活不可能である。小説以外のことといっては女中も出来ないふぬけであって、(鴻田(こうだ)文の真似をして待合女中を志願すれば半日で追い出される。芸者よりあとから起きたのではどうにもならないのである)そうなればどこかの往来に坐って、人の投げてくれるお金を拾うより他にいい考えもない。

女中代わりに家において役に立つ女なら、きょうだいの家でも歓迎してくれるだろうが、マリアを背負い込んだら最後、マリアの為に家中が動かなくてはならないのを皆知っているから、誰も引き取ろうと申し出る筈がない。マリアを引き取るのは半病人を引き取るのと同じである。

マリアはマリア以外に人間がいない生活になって始めて動き出した人間である。他の人間半人でもいれば縦のものを横にもしない。坐るということが既にきらいであって、人の家を訪問すれば坐っているが、自分の部屋では食事と化粧、入浴以外は原稿を書くのでも読書でも、すべて寝転びながらで、マリアの人生は寝転びの人生なのである。

 マリアがどこそこの喫茶の隅に坐っているときけば、そこを通る時には百円か二百円を置いて行ってくれるきょうだいや友人、編集者の数は、少なくもないこともないが、いくら百円二百円でも、そうそうは経済に影響するから、だんだんマリアのいる場所は通らなくなる、というのが、マリアの希望的観測の限界である。――

 そこで、ルオオのステンドグラスよりマリアの部屋の花と罎の方が綺麗だとか、もしマリアがそれをボッチチェリの工房に持って行って窓際に置いて逃げて来ても、ボッチチェリがマリアの帰ったのを見澄ましてそれを取り払うだろうとは決して思わない、とか、そういう考えを、これが絶対にほんとうだといって、人に威張る気はないが、――又威張られたと思う人も少ないが、

――たとえ子供の考えだろうと、文章というものは自分の考えたことをその通りに、正直に書くものだと思っているから、マリアはマリアとして書くより他、ないのである。

 マリアは女学校の教養の他には学問も知識もなく、大小の小説を書くのに必要な世間のいろいろな人間や種々雑多な社会のことも皆目判らないし、女の心理を例にとっても、解かるのは少女の心理だけで、三十女の心理も、未亡人の心理も解らない。

 ――社会や職業なぞの方は本職の小説家がするように人を雇って調査して貰えばいいと、言うかもしれないが、資金もないし、その方は預金を恐る恐る下ろしても、マリアがどうやって調査を頼むか、というのが問題である。裁縫も料理も掃除も出来ない主婦に、女中に命令を下すことは出来ないのである。

裁縫といえば雑巾か風呂敷なぞの四角いものしか縫えなくて、一つ身どころか肌襦袢(はだじゅばん)も縫えない。箒(ほうき)の持ち方も摺(す)りこぎの持ち方も常人とは逆である。洗濯には何時間もかかり、絞る時には体ごと捩らなくてはならないマリアは、昔女中というものが使えなかったが、その経験と同じであって、調査を頼むといったって何をどう頼んだらいいのか、解からないから、頼まれた方は呆れて引き下がるだけである。

世上矢洲志(せがみやすし)が叔父さんで、埴輪文三夫がもう一人の叔父さんで、秘密に智恵を授けてくれるならともかく、マリアと実生活とは無縁である。縁なき衆生である。人に会って、これこれの会社に勤めております、と言われても、マリアはその言葉をうわの空できき、茫然として名刺を眺めるだけである。

 さて、この花と罎とが合体した、鈍い赤と、暗い緑の透明との幻は夜も昼も、窓ガラスの上に浮かび上がって、マリアと憧憬(どうけい)の眼を受け止めているが、真昼、外の光と電球との、二つの異質の光線が犯し合って白い炎を出しているような、一種不安な明るさの中では、ことさらマリアを幻惑し、深い陶酔の中へ引き込むのである。どこまで行っても底のない、突き止めようとしても突き止めることのできない、重い陶酔である。

 大体人間が陶酔するなんてことは、そうそうないもので、それも深い陶酔の中にひきこもるなんていうことは、たとえ恋人たちの間だとしても、精神の面ではあまりないものらしいから、――もっともどこまでが精神科肉体か、それもこの部屋の二つの光のようなものかね知れないが――マリアという人間は案外幸福な人間なのかもしれない。

 だがマリアが硝子に憧れるようすは一寸妙で、なんでもかんでも硝子でさえあれば、牛乳の空罎にでも陶酔の目を当てる位だから、気に入った綺麗な硝子が見つかろうものなら夜昼恍惚と眺め入って飽きる事がない。それが何故だかはマリアにも判らないが、実のところ全く判らないのだが、どうもそれは、寒気が鋭くなると水が凍る、とか、陽が当たれば溶けるとか、水の中に花が落ちていたとすれば花は水の中で凍って、透って見えるとかいう、そういう自然現象の一種らしいのである。マリアと硝子との間に、マリアにも判らないなにかがあって、互いに強い牽引を覚えるのである。

 魔利という人間の中になんだか判らないが、半透明のもガラス板のようなものがあって、何を見るのでも、何かの感情を抱くのでも、そのガラス板のこっち側からだから、眼に見えるものも、心に感ずるものもすべてが明瞭(はっきり)しないところがある。心持は茫然と明瞭との境界にあって、眼と事物との間には曇った光のコンタクトレンズが嵌(はま)っている。

何を見ても確実に見たいという感じがない。人と向き合っていて、その人と何か言っていても、確実感がないから、ほんとうにこの人間はここにいるのだろうか? 見えているのだからいるのだろう、といったような具合である。このべらべら喋っているのは自分なんだ、なんて馬鹿な奴もあったものだろう、と、どこかで思っているようなところがある。

そのガラスのようなものは薄曇っていて厚みのある、一種の朦朧体である。得体の知れないものである。「得体が知れない」というのは、マリアのガラスのために出来た言葉ではないかと、思う位である。朦朧体のこっち側からものを見ると、綺麗なものはいよいよ底深く遊泳して、水をかぶり、水の光を浴びて煌めくが、はっきりそれを捉えていない、という不透明感がある。

見るもの見るもの、何処やらあやしくて、対象物とマリアとの間にはいつも一つの透明体が置かれている。人間との間の感情、いわゆる人情みたいなものも、どこかはるかで、薄ぼけ、マリアは不人情な人に見えていて、過疎蹴雲(かそけくも)また希薄な影のような人間として、存在している。馬鹿なマリアはそれを誤魔化そうとするから大変である。なんだ、あんなに親切にして呉れたに噓なのか、と言って怒ったそれは無理というもの。

マリアとしては親切を持っているのであるが、その親切の分量が天然自然に微量なのである。他人と同じ程度にしようと努力するのだが、他人も大分割り増しをしているらしいところもあるから追いつくのは大変である。

その半透明なものは、不明瞭極まるもので、マリアは若い時にはそれに対して劣等感を抱いていたのだが、今までむしろ自分の中にあるガラスの、暗い透明に惹かれている。
ナルシズムを持っているらしいマリアは、

――魔利はナルシズムという、多分英語らしい言葉の意味をよく知らないが、ナルシストという少年の話はきいていて、そこから見当をつけているのである。
自分の内部のガラス板に、惹き込まれるような魅力を感じている。自分の中にあって、下界にあるものをどこか希薄に、透徹(すきとお)った水の底にあるものかなにかのようにみせる、暗い透明のようなものが、マリアには綺麗に見えてならない。素晴らしいものに思われてならない。

 つまり魔利は、魔利に溺れているので、そういうマリアが本物の硝子に陶酔するのである。マリアと硝子との不思議な関係である。マリアと硝子とはどこかで一つになっていて、互いに牽引し合い、不思議な世界の中で繋がっている。秘密な明かりの中の繋がりである。

 午後、ベッドに長々と腹這いになって、ヴェルモットの罎に眼をあてているマリアは、深い陶酔の中に、引き込まれる。倦怠感のようなものが混ざっている陶酔である。
 マリアは硝子に対して、一種の自己愛を感ずる。一種の精神的レスビアンのようなものを、感ずる。マリアの内部の硝子体と、本物の硝子との間で、何かが呼び合うのである。

秘密な眼ざしを交して、密かに悪魔の笑いを笑い合う、――何故悪魔なのか、判らない――そういう、或種の仲間のような、奇妙なものがある。美しい少年や女たちが、鏡のなかに自分に向かってやる眼差しのようなものである。秘密な、悪魔の、微笑(わら)いである。恋人を共有している二人の美しい女の間に、同志というのか、共感というのか、秘密な、悪魔の歓びにも、似ている。

 硝子とマリアとの間の陶酔。微かなエロティシズム。微弱な、蒸溜水の味のような性的な恍惚(こうこつ)。それは菫(すみれ)石鹼や、薔薇香水の香りにも似ている。マリアのひどく好きな香りである。菫の花の香りや、薔薇の花の香りが、何かの方法で、科学的に抽出されて、別種なものになった。香りである。希薄な甘い香りの中に、物憂い、迫るような、不思議な魔力をひそめている、香りである。

 魔利は或日、手に持った菫の花束に横向きの顔を埋めて立っている、スウェーデンの少女の写真を見た。裸の少女である。胴のくびれから下は豊かに成熟しているが、肩から首、胸の辺りにはまだ未成熟な脆ささがある体つきだったが、俯(うつむ)向けた横顔の中の翳(かげ)や、体にある表情の中に、罪がなくて甘い中に、どこか大人の女の魅力を凌ぐような、ふてぶてしい牽引力があった。マリアはその少女と菫との間に、一種の自己愛、一種のレスビアニズムのようなものをみた。美しい少女と、花との間にある秘密である。
同義語表現につき以下一部割愛させていただきます。

マリアは小説が書けない絶望感の漂う(どうせアルチンボルドオの画のような小説なんか書けやしない)
マリアは呟き、突然ジュリエット(猫)の顎(あご)を持って宙に吊し上げた。
マリアの傍にうずくまり、終日瞑想に耽っている黒猫のジュリエットは、マリアの癇癪(かんしゃく)のぶっつけ場所になっているが、黒猫とマリアとの神経の相互関係は、殆んど人間同志の者となって来ていて、膝へ乗って来て、そこに居を卜(ぼく)そうとするとマリアが頭を叩いて、蒲団の中の湯たんぽの上へ、マフラアかなにかのように丸めて押し込む。不平の叫びを二声上げながら、結局は中でおさまる。

が、暫くすると蒲団裾の方から這い出して、食器の載った新聞紙のところに背中を向けて坐り、無言の示威をやって、食事を要求するが、知らん顔をしていると、カッと怒ってマリアの嫌がる欧外全集の山に駆け登り、窓際の写真や、菫色のヒースを挿した宮野ゆり子のタンブラアの周囲を飛び廻り、さてはベッドの上の紅茶、砂糖入れ、チョコレートの箱、アリナミン、バンド、ビタミン壜類へ餌を貰うまで見ようがしに盛んに八つ当たりする。

――グルタミンの罎のラベルに「養脳素」と書いてあるのを読むと友人は吹き出す。マリアは(頭が変なのさ)と説明する。実を言うと、グルタミンというのはグルタミン酸曹達の入った栄養剤で、頭が良くなるから試験勉強中の学生に好適という広告の薬で、マリアは小説がよく書けるお呪いに服用しているのである。――

マリアの小説は現代小説ではないかもしれないが、マリアのように、ただ無意識に書いている人間にだって、その人間が小説を書く原因や、どういうものを書きたいかという欲求はどこかにあるから、ただ現代小説でなければいけないって、現代の中をむやみに掻き廻してみても仕方がないのである。と言ったような理由で、マリアはマリアのセンチメンタルな小説好きを、そんなにおかしくはないのだと、信じている。

マリアの眼の前には雑誌、週刊誌が同じ高さに山積みしていて、その上に切り抜きを入れた箱、封を切らない原稿用紙、書きかけ原稿用紙入りの箱、手紙用のものの入った箱等が載っていて、横手にも雑誌、要切り抜き新聞、寄贈雑誌、手紙、葉書、マリアの文章の載った新聞、雑誌、気に入った色の包装紙等が山積みしている。

 それらの山の中には、埴輪不三夫から発送された文芸美術健康保険の督促状も紛れ込んでいる筈である(探したって見つからなかった)。埴輪という文学者とマリアとは、健康保険の督促状、というものだけで繋がっていて、義務の強要者と、同じく義務の遂行者、としての交渉以外には二人の人物の間には何らコレスポンスもないのであるが、これが全くもって面倒極まる関係であって、マリアは葉書、封書、又は督促状を受け取ることにより、保険会社の事務員はそれを発送することにおいて、双方がほとほと参っているのである。

会の通知、用返事の手紙、受取り、なぞもいつとはなしに紛れ込むので、何か一つの書類、或は葉書が必要になってくると、それを発見するということは殆ど絶望に近い仕事である。

牟礼魔利と野原野枝実とは例によって弥次喜多コンビを発揮しつつ、電車旅行をして銀座に着き二人は相変わらずのようすで、喋り続け、今度はこれ又、一種の気取りのある銀座人種の顰蹙(ひんしゅく)を買いながら歩き回り、自家製ではうまく出来ないフライドポテトに憧れてビヤホールに入り、一杯のジョッキを二人で飲んで気焔を上げ、退屈と不機嫌の獣(けもの)が口から、眼から飛び出しそうな顔した葉書売りの女性が、マリアの横から青年紳士が何か訊いたとたんに、にっこり微笑したが、そんな出し惜しみする程の微笑でもない悪女がよく似合うと‥‥愉快な会話に酔痴(よいし)れたが、魔利は小説を書かなくてはならない運命を想いだし、これも小説に取り組んで苦闘しつつある野枝実と別れ、既に読者が詳細に知っている、花と硝子のある、書けないものを書く煉獄の部屋へと、運命を諦観(ていかん)したような顔で、舞い戻った。

つづく 青い栗