1、ハルコ、パリで熱弁をふるう
――菊池いづみの相談ごと
早くもハルコが語る
――中島ハルコの話。
2、ハルコ、夢について語る
――三島明宏の悩み
はるこ、縁談を頼まれる
――高田真央の身の上相談
3、はるこ、愛人を𠮟る
――大貫の話。
4、はるこ、母娘を割り切る
――上原美樹の話ハルコ、
セックスについて語る
5、ハルコ、主婦を𠮟る
――加藤妙子の身の上相談
ハルコ、不倫を嘆く
――割烹料理店主、星野の話はるこ、
6、カリフォルニアに行く
――坂上秀樹の話
菊池いづみは、そのホテルに泊まったことを一日目から後悔した。
「やっぱり私には高級すぎる」
プンストンホテルといえば、パリで一、二を争う由緒あるホテルである。アールデコを思わせる花柄の壁紙も中庭のたたずまいもなんともエレガントだ。サービスも素晴らしく、いづみに黒服のコンシェルジュやドアボーイたちが常に目配りしている。そしていづみの姿を見るなり、
「ボンジュール、マダーム」
と声かけてくれるのだ。格式は高いが、居心地のよい寛げるホテルである。が、料金は高い。いづみの泊っているいくぶん小さなタイプの部屋でも、一一五〇ューロ、約十五万円だ。これには理由があった。
いづみはフードライターをしている。さまざまなレストランやシェフを訪ねてその記事を書くのが仕事である。雑誌に連載を六つ持っていることからまず売れっ子といってもいいだろう。いづみは主に東京や大阪といった大都市のレストランを取材し記事を書く、という仕事をしているが、たまには自分の勉強のためにパリに来ることもある。自前だと大層つらい。フードライターというのは、原稿料も高くないし、本を出したとしてもそう売れることはなかった。よって出版社から費用を出してもらうことになるのであるが。これが最近とても難しい。しかし、女性誌「リリカル」の編集者大崎がこう言ってくれたのだ。
「最近のパリレストラン情報をやろうよ。飛行機もホテルもさ、うちの方でタイアップとるから」
タイアップというのは、雑誌掲載の大きさに見合って料金をうんと安くしてもらったり、無料にしてもらうことである。大崎は昔から太っ腹の男であった。このころ出版社は不景気が続いていて、経費はどこも引き締めている。それなのに、
「好きなところで食べておいでよ」
というものだから、フードライターにとっては夢のような話である。いろいろ計画を進めていたところ、大崎が突然の人事異動で飛ばされてしまった。行き先は九州支社の営業だというのでみなびっくりしている。聞いたところによると、経費の使い込みが露見してしまったという。
が、編集者たちに言わせると、
「大崎さんは、いい時代の金の使い方が身についたひとだから」
ということになる。趣味であるワインを長年にわたって、会社の金を使ってさんざん飲んでいたらしい。景気がよくて「リリカル」にもたくさんの広告が入っていた頃には、接待で飲む高価なワイン代にも会社の上層部は目をつぶっていてくれたが、もう堪忍袋の緒が切れた、ということであろう。
組合に訴える、と息まいた彼に、
「業務横領にしないだけ有り難いと思え」
と専務が言ったという、まことしやかな話が伝わってくる。そしてあの女好き、酒好きで知られ、結構人望があった大崎編集長は、遠い九州に向かうことになった。
「もうこれで雑誌の時代は終わったのねえ」
と誰もが言う。が、いづみはそんな感傷に浸っておられなかった。パリ旅行を自前でしなければならない。飛行機は格安料金のものを何とかするとしても、ホテルはどうしようもなかった。ちょうどパリコレの時期にぶつかってしまい、大手はもちろんプチホテルまでいっぱいだったのである。かろうじて、前もって予約を入れていたブリストルだけが取れたのだ。
タイアップという話も宙に浮いて、本来ならばこのパリ旅行を取りやめにすべきだった。しかしいづみは、パリに来る理由があった。それは人が聞いたら馬鹿馬鹿しい話かも知れなかったけれど‥‥。
「ボンジュール、マダーム」
赤い絨毯を踏みしめてロビイをつっきろうとすると、顔なじみとなった黒服の女性が朝の挨拶をしてくれた。白人の美しい女だ。髪をきっちりとアップしているのが清々しい。フランスの女というのは大柄ではないが、バランスがとれてすっきりした体をしている。
「ボンジュール」
いづみも挨拶を返し、ドアに向かっていた時だ。「ちょっと」という声がした。日本語だ。振り向くと一人の女が立っていた。おしゃれな女でこっくりした茶色のマントを羽織っていた。年は四十代後半か、あるいは五十代だろうか。くりっとした目と、口角が上がった大きな口とが彼女を年齢不詳に見せていた。
「ちょっと、ちょっとオ」
彼女はロビイの端に立ち、日本式に手招きをした。いづみはむっとする。用事があればそちらから来るのが当たり前ではないか。しかも見知らぬ女なのだ。
「ちょっとオ」
しかし彼女はさらに手を動かす。仕方なくいづみは近づいていった。めんどくさかったのと彼女の様子にまるで邪気がなかったからだ。
「ねえ、ねえ、知っている」
いづみが彼女の前に立つと、女はさらに狎(な)れ狎れしくなった。
「ここの朝ごはんって三十ユーロもするのよ。日本円にしたら、四千円じゃないの。びっくりしちゃうわよねぇ」
「海外ですからそのくらいするかもしれませんよ」
いづみは言った。一流ホテルの朝食はどこも高い。ニューヨークだったらもっとするところがある。
「それにしても、ねえー」
女はいづみの顔を見つめながら深く頷く。あなただってそうでしょう。そうにきまってるわよねえーと言いたげに口をきゅっと上げた。ちょっとうっとうしいと思ったものの、いつのまにか、
「そうですね」
と相づちうっていた。
「あなた、いつもどうしているの」
「私ですか‥‥。私はホテルの朝ご飯は食べません。外に出てカフェに行きます」
「今も行くところだったの」
「ええ」
「だったら一緒に行くわ」
連れて行ってくださいでも、案内してくれるかしらでもない。自分が行きたいから当然お前も行くであろう、という態度である。全く、この女の口の利き方ときたら‥‥。
いづみは呆れを通り越して何やら不思議な気分になってくる。
見れば自分よりずっと年上の中年女だ。分別もあれば、教養というものがあるのだろう。ブリストルホテルに泊まるくらいなので、ただのおばさんとも思えない。それなのにどうしたら初対面の人間に、これほど厚かましいことが出来るのかと、いづみはついむらと好奇心がわいてきた。
(いったい、どういう素性の女なんだろう)
気がつくと、女と一緒に朝の街を歩き出していた。
「行き当たりばったりに行くんですよ」
念を押した。
「昨日右の方に行ったら、カフェがありましたけど、観光用らしくこの時間だとまだオープンしていませんでした。ですから今日は左の方に行ってみようと思います」
「ふうーん、なるほどね」
女はさほど感心する様子でもなさそうであるが、わざとらしく頷いて、肩を並べて歩き始める。そうすると女が、かなり背が高いことがわかった。この年代の女にしては顔が小さく脚が長い体型だ。ほとんど素顔なのだが、肌も綺麗で、美人の部類に入れてもいいかも知れなかった。ただ口を利かなければ、という条件がつく。
ギャルソンが椅子を並べ始めたカフェを見つけ、二人はテーブルに座った。
「カフェ・オレとクロワッサンね」
いづみが男に注文すると、
「すごいわね! フランス語喋ってるわ」
女が目を丸くした。
「フランス語なんか喋ってませんよ。カフェ・オレとクロワッサン、って言ってプリーズの替わりになるシイル・ヴ・プリをつけただけですよ」
「だけどすごいわよ。あ、私にも同じもの頂戴ね。そのカフェ・オレとクロワッサンね、お願いよ。バターだけじゃなくて、ジャムもつけて」
女はギャルソンの方を向いて、すべて日本語でまくしたてた。すると不思議なことにギャルソンがすべて了解してウイと答え、あちらへ行ってしまったではないか。
「さあ、楽しみだわ。カフェで朝食。私ね、このあいだパリに来た時もね、こういうところでいっぺんご飯食べたかったのよ。だけどね、視察団で来たもんだから、まわりはおばちゃんばっかりでしょ。おばちゃんっていのは、新しい所へ行こうかとか、ホテルを出てどこでご飯を食べてみようかまるっきり思わない人たちよね」
自分もおばちゃんではないかと、いづみは心の中で呟いたが、それは間違いないのだということに後で気づく。
「あのう、視察団って、どういうお仕事なさってるんですか」
いづみは尋ねた。自分の方が先に質問する権利があると思ったからだ。
「そうよねえ、まだ名前言ってなかったわね」
女はせかせかとバッグを開き、シャネルのピンク色の名刺入れを取り出した。名称をくれる。その動作に「どうだ」といった誇らしさが混じっていることにいづみは気づいた。その名刺には、「ビュー・コンシェルジュ 代表取締役社長 中島ハルコ」と書かれている。
「えー、社長さんなんですか」
「そう、そう。五十人ぐらいしかいない会社なんだけどね」
ハルコは、カフェ・オレを運んできたギャルソンに、「どうもありがとうねー」と大きな日本語で言った。
「でも社長さんなんてすごいですよ。あ、私はこういうものです」
いづみの方も名刺を渡す。そこには「ライター・編集」という肩書きが書かれているはずだ。
「菊池さんって雑誌のお仕事してるの」
ハルコの目がぱっと大きく輝く。いづみがマスコミ関係の者とわかった時のたいていの反応だ。
「ええ、まあ」
「そんならファッションやらビューティーの仕事しているのよねツ」
「いえいえ、私はファッションじゃなくて、もっぱら食べ物関係なんです。レストランやスイーツなんかの情報書いてるんですよ」
「なんだ、そうかア」
ハルコの落胆ぶりが大きかったので、いづみはさらに質問を重ねた。
「あの、中島さんってファッション関係のお仕事をしているんですか」
「いいえ、そうじゃなくてIT関係よ」
「IT‥‥」
いづみはまじまじと目の前の女を見つめた。まわりにもITの会社を起こした者は何人かいるが、みんないづみのように三十代かそうでなかったら二十代だ。こんな中年のおばさんがしているITの会社って‥‥。
「あのね、私はもともと美容師をしていたのよ」
そういえばそんな感じがしないでもない。髪も肌もよく手入れがいきとどいている。
「それでね、三十代でエステサロンを始めて、まあまあうまくいってたのよ。三軒お店を持つぐらいなったからね。だけど、あの商売、ものすごく競争が激しくてね、大手に負けちゃうわけ。そうしたらその頃、みんなパソコンや携帯であれこれやり始めたから、私も”楽天”みたいなことをしようと考えたわけよ」
「はあ‥‥」
「だけど後発はダメよね。資金力だってまるで違うし。それでね、三年間勉強しに行ったわよ。ホームページのデザインとかしてやたら儲かってる会社に入ったわ。あの頃、若い男がいろんなサイトを立ち上げてはボロ儲けしてたけど、まあ、じっと耐えたのよ。事務のおばさんしながら、あれこれ勉強したってわけよね。今の若い人ってすぐに会社つくりたがるけど、基礎を学ぶことをしないから、すぐに潰れるのよね。そこーいくと私は、じーっと我慢してたから、今、これだけになったのよ。私は、結構講演なんかやってすごく人が入るのよ、私が雑誌に出ているの、見たことないかしら」
「いいえ、すみません」
「マスコミの仕事をしているわりには、勉強が足りないんじゃないの」
「ホントにすいません‥‥」
どうして謝らなくてならないかわからないが、自然とこういうことになってしまう。
しかし「ピュー・コンシェルジュ」という名前も、中島ハルコといういささか古めかしい名前も聞いたこともなかった。
「あの、それで中島社長の会社は、いま、どういうことをされているんですか」
「七年前に美容関係のサイトを立ち上げたのよ、あなた、本当にうちのことを知らない?」
「はい…」
「やあねぇ、七年でこれだけ急成長した会社ってことで、このあいだも『ダイヤモンド』に取り上げられたのよ。私のインタビュー記事、写真はカラーでね」
「すいません」
「美人社長と呼ばれている、って書いてくれたよね。取材に来た記者もすっかり私に心酔しちゃってね。今度中島さんの生き方を大特集したいって言うのよ」
「へぇー」
「なんていうのかしら、今の若い人って適当に生きているとこがあるから、私みたいな人間にガツンとやられると、すごく新鮮らしいの。昨今の若者についてどう思われますか、って聞くからさ、『働かざる者食うべからず』っていうてやったわよ。そうしたらその若い記者って、今、そういうはっきり言ってくれる大人がいなから素晴らしいですって、すごく感激しちゃうのよね」
「そうでしょうね」
相槌を打ち、いづみの心は不思議な方向へと変化していく。なにやら楽しくなってきたのである。これほどてらいなく、自慢話をえんえんと出来る人間に初めて出会った。しかし全く嫌な感じがしない。むしろ爽快な気分になって、なにやら笑いたくなってくる。
「うちはね、人気の美容院やエステを携帯から予約してあげるのよ」
やっといづみの聞きたかった本筋に入って来た。
「今、こういうサイトいっぱいあるわよね。だけどね、うちのすごいところは、誰でも聞いたことのある。有名サロンやエステを紹介してあげられること。これはね、私が一人一人オーナーに頼み込んで実現したことよね。それからうちでいちばん伸びている部門はね、モニターに化粧品の試供品渡してその感想をもらうことね。
モニターっていっても、そこらへんの貧乏人がサンプル欲しさにゆっているのとは、質がまるで違うのよ。ちゃんとね、感想文書いてもらって、こっちが選んだ人だけがモニターになるわけよね。この仕事もね、私が大手の化粧品会社の上層部とすごく仲がいいから実現したことなのよ‥‥」
そこーへギャルソンがクロワッサンを持ってきたが、ちゃんとガラスの小さな皿にジャムが盛られている。ハルコはがぶりとクロワッサンにかぶりついた。
「おいしいわねー。これ、いくらするもんなの」
「三ユーロですから、四百円ぐらいですかね」
「安いじゃないの」
ハルコはしんから感動したように言った。
「ホテルからたった五分歩いただけで、こんなに安くておいしい朝ご飯食べられるなんて、やっぱり情報って大切よね、まあ、こんな情報を発信する会社やってるわけ」
「なるほど」
いづみは妙に納得してしまった。
「ところでさ、菊池さんっていくつ」
「三十八歳ですけど…‥」
「ふうんーん、もうちょっと上に見えたな。あなた美人だけど、ちょっと目尻のシワが目立つかも。それはほうれい線ね、そんなのヒアルロン酸をちょっと入れればいいんじゃないの。あのね、実はうちのサイト、美容整形の相談もしているのよ。コンシェルジュがちゃんといてね、どこの医者へ行けばいいか、お金はいくらくらいかかるか教えてあげる。これが中立でいちばん正確ってえらく評判いいのよ」
「そうですか。その時はよろしくお願いします」
これには少々むっとしたので、いづみは反撃に出る事にした。
「中島さんって、お幾つですか」
「ハルコさんでいいのよ。私、幾つに見える?って答える女がいちばん嫌い。お若―い、って言われるのを期待しているんだから。私は五十二歳よ」
「わりといってますね」
ほんの少しいづみは嫌味を言った。
「そうなのよ。ま、歳も私はずっと若くみえるから、年齢を言うとみんな驚いてしまうんだけどね、まあ、五十歳っていうのも悪くないわよ。まだまだモテるしね。現に私、パリで恋人と待ち合わせしてるし」
「えー、そうなんですか」
四十代ならともかく、五十代のおばさんに恋人がいて、パリで待ち合わせ、などというロマンティックなことをするというのはにわかには信じられない。
「ということは、中島さん、いいえハルコさんは、独身ってことですよね」
「そうバツに2」
「ということは、相手の男性は家庭アリですよね」
「そりやそうよ。五十代の男性で独身なんて、離婚したてか、奥さんに先に逝かれたばっかりのどちらかよ。五十代の女と恋愛するのは五十代の男と決まっているわ。私、若いの興味ないし」
「っていうことは、不倫もしょっちゅうですよね」
「不倫なんて言葉は嫌いだけど、仕方ないわよねえ、そうなるのはね、だけど私はね、ちゃんと仕事を持ってるしお金もある。自分の責任で相手とつき合ってるわけよ。お金もあるけど分別と知恵もあるからね、相手の奥さんに知られたり、つらい思いをさせるようなことはいっさいなしよ。三十の後半の女が妻子持ちの男とつき合って、私の青春返してくれ、私の未来はどうなるって、ピイピイわめいてるのとはわけが違うわよ」
「悪かったですね」
いづみは言った。
「私はそのピイピイ言っている典型的な三十女ですよ」
さすがのハルコさんも聞けなかったようですけど、私のような歳でブリストルホテルに一人で泊まるなんておかしいですよね。いくらパリコレで混んでいるとしても、急ぎの用でもないわけですし。
実は私ヤケを起こしているんです。なんだかもう自分の持っているお金を、すべて遣いたくなったんです。
私はフードライターをしていますが、この職業、今の不景気をまともにかぶっています。
出版社の景気のいい頃は、取材も経費を使えたんですが、今はそんなことはありません。ですから、どこそこのお店が美味しいといった取材は、ほとんど自分でお金を出さなくちゃならないんです。ですから食べ物の記事を書く人って、大手の広告代理店に勤めているとか、別の仕事を持っている人が多いんです。それからもともとおうちがよくてお金持ちの人でしょうか。
これはまあ、誰も言うことですからはっきり言っていいと思いますが、貧乏な生まれ育ちでフードライターになった人はいないと思いますし、なれないと思います。やはり子どもの頃から美味しいものを食べている人間でないと”基準”というものがつくれません。そして付け焼き刃で気の利いたようなことを言ったり書いたりしても、お店の人にわかってしまうと思います。
自分のことを話しますと、私は総合商社に勤めていた父について、子どもの頃、オーストラリアのシドニーとベルギーで過ごしたことがあります。シドニーには自然の他にこれといった思い出もありませんけど、ベルギーは楽しい食の記憶がいっぱいあります。隣りのフランスの影響を受けて美味しいものが多いんです。それにうちの母が料理自慢で、さっとローストビーフを焼くような人でした。弟がいますけど、クリスマスには本格的にターキーを焼いて、ケーキも手作りのパーティーをしましたっけ。
だけど長く続きませんでしたね。父が大阪支店長だった時に、部下の女性と恋愛をして離婚したんです。私が中学生の時でしたからそりゃあショックですよ。相手の女性と父は再婚するんですが、その写真を見せられた時は、怒りでカーッとしましたね。バカな弟は平気で式に参列して、写真を撮ってきたんですよ。人の旦那を取った癖に、ちゃんとウエディングドレスを着ている彼女を見て、
「なんてひどい図々しい女だろう」
と思っていたんですが、その私が、不倫にはまってしまんですから笑ってしまいますよね。
二十代が終わる頃って、ちょっとした気の緩みといおうか、へんに自身をもって傲慢な気分になることがありますよね。仕事がうまくいっていて、署名記事もばんばん書くようになった頃です。自分のように仕事が出来て世の中に認められる女は、平凡な結婚をしても仕方ないんじゃないだろうか。ここで自由で個性的な生き方を考えてもいいんじゃないかと…‥。
そこへ彼が現れたんです。父の勤めていたところよりも一ランク落ちる商社に勤めている人です。
うちの父もそうですが、商社マンというのは俗っぽいことをよしとする傾向があります。お酒、ゴルフ、銀座が好きで、話もうまいものもよく知っている。まあ、魅力的な男の人です。
「僕には家庭があるけれど、それを壊すつもりはない。だけど君のことは愛している」
ってよく言っていましたが、これってもちろん常套句ですよね。最初からこう言っておけば、後から噓つき呼ばわりされることはないわけですし‥‥。
よく事件を起こす不倫の当事者って、
「妻とうまくいっていない。てずれ妻とは離婚するから」
って言うらしいんですけど、本当にこんなことをいう人がいるんでしょうか。真に受ける女の人っているんですかね。
私なんか不倫というのは期間限定つきの恋愛だと思っていました。だからこそ楽しいんだって。二人で京都へ行ったり、北海道に流氷を見に行ったりしましたよ。自分は頭のいい、割り切ることが出来るカッコいい女だと思っていましたが、こういうのって本当に勘違いなんですよね。自分で自分の心を慰めていたって言うんでしょうか。人の心というのは、そんな風に計算どおりいくわけがないんです。
私はこう見えても、なんて謙遜する必要もないんでしょうが、男の人に声をかけられます。ちゃんとした大手の出版社に勤める人から、
「真面目につき合ってくれ」
と言われたこともありますし、親戚を通じての縁談もありました。恋人としてつき合った人もいます。だけどやっぱり彼のところに戻ってしまうんですよ。そして、
「やっぱりあの人を愛している」
っていう自分に酔う。そしてね、夜中の歩道橋の上で、別れたくない、とか泣いて抱きついたりして。不倫する醍醐味っていうのは、ふつうの恋愛よりもずっとドラマがあるって言う事でしょうか‥‥。
まあ、そんなわけで別れどきがわからなくなったんですよ。
「期間限定」って言って、期間は自分で決められるって思ったなんて本当に馬鹿ですよね。そして三十半ばも過ぎて、たいていの女は焦るわけですよ。このまま不倫していて、婚期逃して、子どもも産まない人生っていいんだろうかって‥‥。それで相手にそういうことを相談すると、
「それは僕には何も言えない。正解はお互いわかっている。でもそれは僕の口からあまりにもつらくて言えない」
って、まあ相手も口がうまいから、こんな風に関係が続いたんですね。
すいませんねえ…よくある話ですよね。どうして会ったばかりの人に、こんなにペラペラ喋るんですかね。やっぱり旅先っていうのは、普通じゃなくなるんですよね。それにハルコさんが、こっちが喋りたくなるようなことを言うし…‥。
で、本題に入りますね。不倫の相談なんて本当に結論出ていますよね。
「別れたかったら別れればいいし、別れたくなかったら別れなければいい」
もっといけないことをしているんですからね。でも二年前にあることがあったんです。
がんを患っていた父親が他界しました。その遺産が入って来たんです。私の父はもともと資産家の息子で、世田谷の深沢に三百坪近いうちがありました。その他にも株があったんじゃないでしょうか。
二度目の奥さんがあらかた取って。私と弟とで分けても一人二千万という現金と、株をいくらか貰いました。まあマンションを買うには足りませんが、頭金にはなりますよね。私はフリーランスなのでローンを組んでもらえませんから、不動産ということをはなから諦めていました。
そんな話を彼に話したところ、
「三百万ほど貸して貰えないだろうか」
というのです。彼はちゃんとした会社で部長までしています。確かマンションは持ち家ですし、ひとり娘さんは大学も出ているはずです。いったい何のために使うのか、と聞いても教えてくれないんです。とてもみっともないので言いたくない、と言うんです。そして半年以内に必ず返すということなので、借用証をもらうことなく、現金で渡しました。口座に振り込むと、奥さんに気づかれるというのです。
あれから一年たちましたが、お金は戻ってきません。そして会う回数も減っていきました。私は騙されたんだろうか。「金の切れ目が縁の切れ目」ということなんだろうか、と思ったりもしますが、私たちは十年近い仲なんですよ。いったいどういうことなんでしょうか。
この旅行もタイアップが駄目になり、自分で記事を書いてもどうなるかわかりません。中止してもよかったのにパリにきてしまったのは、何だかお金のことですっかり嫌な目に遭ってしまったからなんです。父の遺産の二千万がなければ、お金も貸さなかったしこん風に彼を信じられなくなることもない。いっそのことパーッと遣ってしまおうかと、分不相応のホテルに泊ってしまったんです。
「ふうーん」
ハルコはニットの胸に落ちた、クロワッサンのパン屑を払いながら言った。
「その男のことはどうでもいいけど、三百万は惜しいね」
「あら、反対のことを言うかと思っていました」
「えっ、どんな風に」
「そんな男ときっぱり別れな、三百万はないことと思って諦めなさいって」
「そんなこと言う訳ないでしょ。三百万稼ぐのがどのくらい大変だと思っているのよ。私なんか会社をつくった頃、明日までの八十万がなくて、泣きながら元の亭主に電話したことあるもの」
「へえー、そんなことがあったんですか」
「そうよ、私は二度とも嫌な別れ方はしなかったからそういうことが出来るのよ」
ハルコは得意そうにやや胸をそらした。それで白いニットの上に、パン屑がまだ残っているのがわかった。
「菊池さんの彼っていうのは、株をやる人なの」
「いいえ‥‥。やっていません。仕事が忙しくて、それどころじゃないってよく言っていました」
「それじゃ、女ね」
ハルコはきっぱりと言った。
「女に使っただと思うわ」
「まさか」
「どうしてまさかなのよ」
あの人、私ひとりであっぷあっぷしているはずですよ。もう一人女の人がいるような時間的精神的余裕はないはずですよ」
「何言っているのよ。一度女房と別れて他の女と結婚する男は、二度三度も今の女房と別れることが出来る。それから一人、愛人がいる男は、二人、三人とつくることが出来る」
「そんなの聞いたことがありませんよ」
「いいえ、これは真実よ。有名な小説家がいたのよ、美男で才能があって女の人にモテモテ‥‥」
「吉行淳之介ですか」
「あら、わかっているじゃない。この頃の人は本読まないから知らないと思っていた」
「私、わりと本は好きですから」
「あ、そう、それじゃ話が速いわ。吉行淳之介には宮城まり子っていう長年の愛人がいたのよ。奥さんとこ飛び出してもうずっと一緒に暮らしていたから、こっちが本当の夫婦みたいなみんね」
「宮城まり子さんって、『ねむの木学園』やっている人ですよね」
「そう、そう、あれはなかなかできる事じゃないわね。まあ、奥さんと宮城まり子との長い三角関係は、いろいろ修羅場もあったとおもうのよ。だけど吉行淳之介は、宮城まり子に最期看取られて亡くなった。これでまあけりがついたと思ったらね、亡くなってからもう一人の愛人が出てきた。彼女の本によると、宮城まり子の目を盗んで見舞いに行くのが大変だったって。いつのまにか愛人が奥さんになっていたのね」
「いったい何を言いたいんですか」
「だからね、愛人をつくって十年も続けられるほど甲斐性のある男はね、他に愛人がもう一人いるっていうことよ」
「何の証拠がそんなことを言うんですか」「その三百万が証拠じゃないの」
「やめてくださいよ。きっと何か深い理由があるんですよ」
いづみは思わずきっとしてハルコを睨んだ。ハルコはそれを無視してギャルソンを呼びつける。
「ねえ、このカップにもう一杯注いでくれない。ふつうのコーヒーでもいいから。えっ、ノンだって。あ、そう、わかりました。ケチ、グッバイ! ねえ、一杯のコーヒー、もう一杯飲もうとしてうまくいかないのよ。それなのに三百万、みすみす自分のものにしようとするのは、ちょっと企業経営者としては許せないわね。えーと、菊池さん、あなた、いつ日本に帰るんだっけ」
「明後日ですけど」
「そうしたら、まずやることがあるわよ。まず男の所に請求書を送りなさい」
「請求書ですか」
「それもきちんとした書式にのっちったやつ、何の感情も入らないやつ。それをとにかく送り付ける。そして相手の様子を見るのよ」
「怒ったらどうするんですか」
「あっちに後ろめたいことがあるからに決まっているじゃないの」
「たぶんもう少し待ってくれ、って言うと思いますが」
「たぶんね。だって期限をつくる。そうね、今月中にしなさい。払えないって言ったら、マチ金から借りてでも返せ、って言うのよ」
「私に出来るかしら‥‥」
「何言ってんのよ。荒療法だけどこうするしかないのよ。男の本性がよく見えるチャンスなんだから」
「わかりました」
「寒くなってきたらそろそろ帰ろうかしらね。えーと、私がカフェ・オレとクロワッサンを食べたから計算すると、十二ユーロにチップが‥‥えーと‥‥」
「もう、いいですよ」
つい言ってしまった。
「カフェぐらい私が払っておきますよ。相談に乗っていただいたことだし」
「あら、悪いわね」
ハルコは本当に嬉しそうに顔をほころばせた。
八日後、ハルコの携帯が鳴った。
「菊池いづみです。今、いいですか」
「いいわよ、ちょうど空港に向けて走っているところよ」
「あの、言われた通りにやってみました」
「それでどうだったの」
「ハルコさんの言う通り、もう少し待ってくれと泣きついてきまたので、マチ金から借りて返してくれと言いました」
「あら、ちゃんと言えたのね」
「それから期日まで払ってくれない時は、家庭か会社に話すって言ったんです。そうしたら思わぬ展開になりました」
「どうなったの」
「奥さんが返しに来てくれたんです」
「へえ!‥‥」
「あの人、にっちもさっちもいかなくなって、奥さんに泣きついたらしいんです。やっぱり私の他にもう一人いました。六本木のクラブに勤めてるたちの悪い女で、うしろに男の人がいたみたい。あれこれネタにしてせびっていたようですね。あの人、もう限界だったみたいで、奥さんに打ち明けたんですよ」
「まあ、お金は返って来たからよかったじゃないの。借用証がないからって、ゴネることも出来たけど、そこまで悪くなかったのね」
「おまけに別の封筒に二十万入っていましたよ。利子だそうです」
「もちろんもらったでしょうね」
「ええ、ハルコさんだったらもらったと思うとね、それもちゃんと受け取りました。それに奥さんが、私にいっさい余計なことは口にしないで、単に借金をした人ってふうに接してきたから、利子を貰わないわけにはいかなかったんですよ」
「なかなか出来た奥さんじゃないの」
「でもすごくショックでした」
「何が」
「ふつうの冴えないおばさんで、どっちかいうとブスでしたよ。本当にびっくりするくらいダサいオバさん‥‥」
「あのね、不倫を思い切るいちばんいい方法はね」
ハルコはおごそかに言った。
「相手の奥さんをみることね。たいてい自分より落ちる女だから、がっかりしちゃうのよ。馬鹿な女になるとね、わざわざ自宅に行って奥さんを見るけど、あれは絶対にしちゃダメよ。行ったこと自体で惨めになるし、どんなうちでも行って見れば、やたら幸せそうに見える。そこで”勝負あり”になっちゃうのよね」
「なるほど、そうかもしれません」
「今度の場合は、奥さんが向こうからやってきた。しかも下手に出てる、お金っていうのはこういう時に利用したいもんね。夫が借金してなかったら、奥さんはあなたを上から見て嫌味をさんざん口にしたはずよ」
「そうかもしれません」
「まあ、これでやっとあの男と別れられるわね」
「まあ、そんなにスッパリとはいかないかもしれませんが‥‥」
「そりゃーそうよ。私だって前のダンナときっぱり別れるのに三年かかったもの」
「ハルコさんでもそうなんですか」
「そうなのよ。私がね、前のダンナの苗字を使おうとしたら、ちょっともめたのね。新しい女房がすごく反対したのよ。苗字なんかどうだっていいのにねえ。別れた奥さんと自分とが同じ苗字になるのが耐えられないって」
「それ、ふつうの感情ですよ」
「そういうの、いじましいじゃないの。たかが苗字のことで、別れた前の女房に文句を言うなんてさ」
「私、今、思いました。ハルコさんは普通のおばさんじゃない。おばさんの着ぐるみを着たおじさんなんですよね。それもすごく変わったおじさん‥‥」
「ちょっとオ、最後の言葉、よく聞こえないけど、ちょっと待って…‥。ムッシュー、ちょっと、ラジオ消しなさいよ。それからちょっとスピードアップよ。アップ。飛行機に乗り遅れたら、賠償金をもらうわよ。わかった? さあ、ハリーアップよ」
いづみの耳に、日本語でまくしたてるハルコの声がした。
やっぱり赤福を買って行こうかな、と菊池いづみは思った。餅を餡でくるんだ赤福は、時々無性に食べたい時がある。今がそうだ。いづみがホームのキヨスクに向かった。午後三時の新幹線のホームは、まだそれほど人はいない。キヨスクの前には、女が一人立っていた。グレイの短かめのコートにハイヒールを履いているが、全体的には丸っこい感じで中年女だとわかった。
最初は女が雑誌を選んでいるのかと思った。しかしそうではない。女は熱心にページに見入っているではないか。
「ウソーッ」
いづみは心の中で叫んだ。キヨスクで立ち読みする人間など初めて見たからである。
「こんなこと許されるワケ?」
もちろん許されるわけはなかった。キヨスクの女店員は最初はよくわからずぽかんと見つめていたのであるが、ことの次第に気づいたらしく大きな声を出した。
「お客さん、やめてくださいよッ」
「あら、そうなの」
女はふんと言った感じで週刊誌を元の場所に戻した。その横顔を見ていづみは叫んだ。
「ハルコさん、中島ハルコさんじゃないですか」
「あら、あなたは‥‥」
「菊池いづみですよ、パリでご一緒した」
「そうだったわね、その後うまく不倫の相手と別れられたのかしら」
「ハルコさん、そんなことを人前で大きな声で言わないでくださいよ」
「あら、そう」
ハルコは答えたが、まるで悪く思っていないことはその表情からわかった。今の立ち読みと全く同じようにだ。驚きのあまり赤福のことを忘れそうになってしまったが、いづみは慌てて財布から千円札を出し、小さい箱を選んだ。
「私はね『女性自身』にどうしても読みたい記事があったのよ。だけど女性週刊誌を買うなんてみっともなくて、私のプライド許さないでしょ」
とハルコは言う。キヨスクで立ち読みするのと、女性週刊誌を買うのとでは、どちらがみっともないかは考えなくてもわかると思うのだが‥‥。
「いづみさんはお仕事の帰りなの?」
「そうなんです。名古屋に最近とてもいいイタリアンが何軒か出来たんで、その取材の帰りです」
「まあ、いい仕事よね、美味しいものを食べてお金が貰えるなんて」
「そんなことはないですよ、今日の取材費も交通費も自分持ちですから」
「まあ、そんな‥‥」
ハルコは目を大きく見開いた。細く巧みな黒いアイラインがひかれている。
「どうして自分のお金でご飯を食べるの。そんなの信じられないわよ」
「ハルコさんは、自分のお金で食べないんですか」
「当たり前じゃないの」
誇らし気に胸をそらした。
「どうして私が自分のお金でご飯を食べなきゃいけないのよ。私とお食事をしたい人たちがずっと順番待っているのよ、みんな私とご飯食べたくてたまらないのよ。だから私は、自分で払ったことなんて一度もないの。一度もね」
「へえー、そうなんですか」
「そうよ、当たり前でしょ。自分で払ったりワリカンにする人っていうのは、よほど魅力がない人たちよ」
何か釈然としないがそういうことにしておこう。パリでわかったこともあるが、中島ハルコには鉄壁の人生観があり、それを他人が崩すことは不可能に近いのだ。
「ハルコさんは名古屋にお仕事なんですか」
「いいえ、お茶会よ」
「ああ、ティパーティー」
「まさか。これに決まってるでしょ」
ハルコは実に優雅な手つきで茶碗を持つ動作をした。
「えー、あの茶道ってやつですか」
「思わず声が出たとたん、ホームに”のぞみ”が滑り込んできた。
「じゃ、またね」
ハルコは軽く片手をあげる。
「どうせあなたは普通車でしょうから」
「あの、ハルコさん」
気づいた時には一緒に八号車の入り口に立っていた。
「隣に座ってもいいですか。私もグリーン車にします。東京までいろいろお話ししたいこともあるし」
「いいけど、浜松までしてね。私、いろいろ読みたい資料もあるし」
ドアが開くとハルコはまず慣れた手つきで棚の上のブラケットをとる。その真下の1のAB席に人が座っていても「失礼」のひと言もない。そして席に座ると素早く膝にかけた。
「あなたも取って来なさいよ」
「いいえ、別に今日は暖かいから入りません」
「グリーン車に乗り慣れない人ってここでわかるわよね。グリーン車にこのブラケットの料金だって入っているんだから、私はいつも必ず使うわね」
「あの、ハルコさんって大阪の出身なんですか」
「何でそう思うの」
「いえ、何となく‥‥」
「私がケチだって言いたいのね、言っとくけど私は決してケチじゃないわよ。無駄なお金を遣わないだけ」
「そうなんですか‥‥」
「私はね、名古屋の出身よ。ここでまだ母親と兄が暮らしているのよ」
大阪もそういうところがあるかもしれないけどね、名古屋の人間はふだんは慎ましいの。確かにケチよ。だけどね、冠婚葬祭の時はそりゃあ、パーッと遣うわ。ほら、名古屋の嫁入り支度っていうのは有名でしょう。花嫁道具を見せるために、ガラスでつくったトラックの荷台があるくらいなんだから。今はかなり簡単になったらしいけど、私の時代は、そりゃあ派手だったわよ。「娘三人いれば身上潰れる」って言われてたんだから。
私がお嫁に行く時もね、箪笥や電化製品、布団、和服をずらりと座敷に並べて近所の人に見せたもんだわ。こういうのを名古屋じゃ、”衿揃え”って言ってね、見に来てくれた人に二階からお菓子を投げるの。私の時もやったわよ。
まあ、お嬢さまってことよね。私の父は寒天や蜜をお菓子屋に卸す会社を経営していたの。社員は多い時で三十人はいたわ。私は名古屋のお嬢さまたちが行く金城学院に中学から通っていた。中学。高校、短大って純金コースを進んだのよ。”純金”っていうのはね、下からずっと金城で学んだ本物のお嬢さまっていうことよ。今は短大ないらしいけど。えっ、なんかおかしい言い方だって。
名古屋のお嬢さまはね、ほとんど外に出ないわ。地元が大好きだし、東京の大学に行ったら何があるか心配だったというんで、父親が許さないの。名古屋のお嬢さまはね、親元から通って地元で就職して、お稽古事とおしゃれに精を出して、お医者さんかトヨタのエリートと結婚する、そして奥さんになってからは、金城の同級生たちと、お料理教室やフラワーアレンジメントを習うというのが正道ね。
私もそういう道を歩くはずだったんだけど、短大を卒業する直前に父親が亡くなったの。胃癌が見っかってスキルス性のやつで早かったわ。父親が亡くなると惨めなものよね。兄は大学を出たばかりで何も出来やしない。母親はね、パニックになって泣くばかりよ。結局会社は整理して、同業者に譲ったわ。その時私は思ったのよ、女も手に職を持たなきゃいけないって。名古屋のお嬢さまがたいしたもんよね。そして考えたのが美容師っていうわけ。私は前から人の髪をいじるのが好きだったし、手に職を持っていればこんなに強いもんはないものね。
母親は反対したわよ。あの頃は今ほど美容師の地位は高くなかったもの、お嬢さまがやる仕事じゃないってことよね。だけど私は頑張って美容学校に通った。今でいうヤンキーみたいなコと一緒になって、シャンプーのやり方から学んだわけ。
そしてね、学校を卒業してすぐ栄の美容院に入ったわ。するとね、何ていおうか、いろんなものが見えてむずむずしちゃうのよ。この店、もっと儲かるんじゃないか、私が経営者だったらもっとうまくやれるはずなのにってね‥‥。
まずは待つソファをもっと居心地のいいものに変えて、不潔ったらしい熱帯魚の水槽は捨てる。手が空いている中堅美容師に、もっとシャンプー&ブロウをさせる。これは単価は安いけど、確実に顧客獲得につながるんだもの。それからカラーリングの客は、お金を遣ってくれるんだから、絶対に繋ぎ止めておかなきゃダメ。
だからカラーリングだけのクーポン券を出して、十回に一度は無料にする。使ったシャンプーとトリートメントは何気なく鏡の前に並べる。するとね、話題にして買ってくれるお客が出てくるはずなのよ。
こういうことをオーナーに話したんだけどね、煙たがれるだけで、私はがっかりしたし、口惜しかったわ。
「もっとこうしなさい」
なんて店の仲間に提案しても、誰ものってきやしない。はっきり言うけどね、誰も私のレベルじゃないってすぐに気づいたのよ。あのコたちの考えてることいったら、月曜日の仕事を終えてから行くディスコのことだけだって。みんな仕事はそれなりに一生懸命やるけど、もっと効率よくしようよとか、もっとお客を喜ばせるにはどうしたいいかっていう前向きのことには頭がいかないのね。
この時私は、まだ”私”じゃなかったから、珍しく失望っていうことをしちゃったわ。失望はいいことない。ちょっと自暴自棄になって判断を誤るのよね。
この時何をしたかっていうと、私は見合いで結婚してしまうのよ。二十六歳っていう年齢もあって母親が焦ってしまったね。あの頃、名古屋でき結構な年頃だったのよ。それに見栄っ張りな母親だったからね、この間まで社長令嬢だった私が、美容師になったことが気に食わなかったんじゃないかしら。元の世界に戻そうとしたのよ、きっと。
相手は印刷会社の三代目だった。名古屋には多いんだけど堅実な同族会社よ。そこはね、名古屋で、一、二を争うういろうのパッケージを手掛けてから、ずっと食いっぱぐれはないっていうのが仲人の言葉よ。
相手は南山大学出て、ひょろっとしてて、典型的なぼんぼん。私は別に気に入りもしない。親の顔を立てて見合いをしたから、まあ、いいでしょ、ってもんよ。ところがね、相手は私に夢中になった。
今の私は年齢よりもずっと若く見えて、美人の部類に入ると思うわよ。だけど昔はもっとすごかったのよ。短大時代に中京テレビの人から、新番組のアシスタントをしないかと誘われたり、ミスコン出ないかって言われたもの。
今は美人の社長も結構出てきたけど、昔はね、私レベルはちょっといなかったわ。そりゃモテたし、おじさんたちのアイドルになったけど、あることないこといろいろ言われたもんだわ。
「カラダを使って‥‥」
なんて言われた時はカッとなったけど、すぐに思い直したわよ。
「使えるほどすごいカラダを持っていたらえらいじゃないの。ワルクチ言っているおばさんたちにそんなこと出来るわけもないし」
ってね‥‥まあ、話はだいぶそれてしまったわね。とにかく相手の男が夢中になったのよ。いったん断ったら、勤めてた店の前で待ち伏せしたりしていたのよ。挙句の果ては、
「ハルコさんと結婚しなきゃ死ぬ」
まで言われてね、これなら仕方ないかと思ったのが運のつきよね。
披露宴はナゴヤキャッスルで三百人招いてやったわ。こんなの名古屋じゃふつうよ、トラックを飾り立てて花嫁道具をいっぱい積む、っていうのもやったわね。
いづみさんは知らないだろうけど、この時トラックにバックしないのよ。まわりの車に、金一封千円を入れた封筒を入れて頼むの。道を譲ってくれって。向こうも花嫁のトラックだとわかってるから快く道を開けてくれるわよ。
「めでたいことだから、仕方にゃー」
ってもんよ。
だけどバックしないで花嫁道具を届けても、やっぱり戻る時は戻ってしまう。夫は悪い人じゃなかったけどね。女が働くなんてとんでもないっていういう考え方の持ち主よ。美容院はすぐに辞めさせられた。これも私が望んだことだからいいんだけどね、ずうっとふつうの奥さんやっているのがつらくなってきた。
喧嘩すると夫はよく私に泣きながら言ってたわ。
「いったい何が不満なんだ」
って。そう言われても困るわよね。あなたと一緒にこんな毎日を送ってることがまず不満だなんて、さすがの私もなかなか言えるもんじゃないもの。最初のうち、若社長夫人になった私は、お決まりどおりゴルフとエステには夢中になった。いいえ、自分が経営する方によ。たいしたことしないエステサロンに、二万も三万も遣うのはもったいない。
私だったらもっと安くていい施術が出来ると思ったのよね。東京に研修に行って腕を磨いて、栄に小さなサロンを開いた、お金は夫に出してもらったわよ。条件付きでね、も三年やって駄目だったら、人に任せるか譲るかして、子どもをつくる。そしておとなしくうちに入るっていう条件よ。
まあ、それも仕方ないわよね。結局私は、結婚も子どもも望まなかったんだから手に入らなかったってことよね。
一度目の結婚をしている間、私は仕事をしたくてたまらなかったわよ。ITがあたり前のことになるとずっと前のことだけど、私はもう印刷だけじゃジリ貧になるのがわかってたわね。だから私は夫に言ってやった。
「ちょっとパソコンについて勉強してみたらどう。ぜったいどこかに印刷屋が入ってく要素があるから」
うちの夫はアホだったけど、それを聞いてた専務がいたのよ。そして、どう、今、元夫の会社はICチップ入りのタグつくって大成長よ。今じゃ名古屋商工会議所の重鎮だっていうから驚くわよね。まあ、それも私が教えてやったおかげなのよ。
「凄いですね‥‥」
いづみはわりと機械的な感嘆の声を漏らす。中島ハルコと話していると、十分間に一度はこの合いの手入れなくてはならない。
「まっ、それだけでもあの男は私と結婚して本当に良かったのよ。私は恩人っていってもいいのよね」
ハルコは缶ビールをぐっと飲み干す。不思議なことに、こういうことをしても決して粗野な感じにはならない。お嬢さま育ちというのは本当かも知れなかった。
「あの、さっきハルコさん、結婚と子どもは望まなかったっておっしゃっていましたね」
「ええ、言ったわよ」
「それなのにどうして二回めをしたんですか」
「ああ、それ」
こともなげに答える。
「まだそのことに気づいてなかったのよね、私の人生に結婚なんか不要だったことに」
「二回目の相手はどういう人だったんですか」
「離婚した後、シャンプーやパーマ液を売る会社の男と結婚したのよ」
「その人、社長ですか」
「そうよ」
「ハルコさんの相手って、いつも社長ですね。いつも玉の輿コース」
「冗談じゃないわよオ」
ハルコは大きな声をあげる。本当に不満そうに鼻の穴をふくらませた。
「あんなレベルの男たち、どこが玉の輿なのよ。私なんかね、二年前に大物財界人の後添えにどうかった、人を介してしつこく申し込まれたのよ。なんでも二回ご飯を食べただけの私にひと目惚れしたみたいね。一目惚れ‥‥。そう、私っていつもこのパターンなの。その人の名前は大物過ぎて、ここでは言えないけど、経団連のトップ候補までいって、ニュースによく出ていた人よ」
「えー、凄いじゃないですか」
「でしょう」
ハルコは深く頷く。自分の言葉にいちばん感心しているのは彼女自身のようだ。
「そんなすごい話なのにどうして結婚しなかったんですか」
「あなたね、八十過ぎの爺さんといくら何でも結婚できないでしょ」
あやうくいづみは噴き出すところであった。
「それで二度目のご主人とはうまくいったんですね」
「まあまあね、二人でエステを経営しようということになって私も頑張ったわよ。私の言葉だから、店はいい客もついて、たちまち三号店まで出来たわ」
「凄いですね」
「でしょう」
どうやらこれがハルコの口癖だということがわかった。この言葉を発する時、彼女の口角はピンと跳ね上がるのである。
「それなのに、どうして離婚したんですか」
意外なことに一瞬、ハルコは返事に詰まった。
「なにか、私、悪いことを聞きましたか」
「いいわよ、別に。女が出来たのよ」
「ちょっと意外でした」
「でしょう‥‥」
今度のその言葉は、今までのものとはニュアンスが違っていた。
「サロンで雇ってた若い女よ。ただ若いってだけで、私となんか比べものにならないつまんない女」
「頭にきますよね」
「くるわよ」
そしてハルコのお喋りはここでいったん終わった。ビールに酔ったのか、ハルコはうとうとし始めたのである。今回はグレーのスーツに、胸にタックのある白いブラウスを組み合わせている。胸の真珠のブローチがおばさんっぽいと言えなくもないが、なかなかセンスのいい服装だ。靴もバックも金がかかったもので、こうしてすやすやとグリーン車で眠っているところは、用事帰りのいいところの奥さんにしか見えない。現にお茶会の帰りだという。そんなハルコとキヨスクで堂々と立ち読みしている女とがどうしてもうまく結びつかない。
「えーと。今、どこ?」
やがてハルコは目を開けた。マスカラが少し取れかかって目の下がうっすらと隈のようになっている。
「えーと、さっき熱海を過ぎたところです」
「やだわー、私、資料読もうと思ってたのに」
ハルコはせかせかとパソコンを出しかけ、やっぱりいいわと大ぶりのクロコのバッグにしまった。
「すいません。私がいろいろ話しかけてたもので」
「本当よね、あなた、わりと私に質問をするわよね。ま、私は正直な女だから何でも答えちゃうけど」
「でも私、ハルコさんこと少しわかったような気がします。ハルコさんって、昔から少しもブレてないんですよう。尊敬しちゃいますよ」
お詫びの気持ちを込めて、いづみはかなりお世辞めいたことを口にする。ハルコの機嫌がみるみるうちによくなっていくのも面白かった。
「ハルコさんの生き方って、筋が通っているんですよね、それに先見の明っていうのもすごい。二人のダンナさんたちを次々と成功させてあげたわけですものね」
「そうなのよ」
ハルコは再び頷く。
「ほら、このあいだパリで会った時、ハルコさん、私のこと知らないのってちょっと立腹だったでしょう。だから私、日本に帰ってからインターネットで調べてみたら、すごくいろいろマスコミに出ているんですね。このあいだも『日経ウーマン』にインタビューされてたし」
「ああ、あれね」
「女も働くってことに甘ったれている限り、ガラスの天井なんか壊せるわけがないって、あの言葉、びっくりしますよ。よくあんなにはっきり言えますよね」
「いいのよ。今の世の中、はっきり言ってくれる人をみんな求めているのよ。私に言わせるとやっと時代が私に追いついてきたっていう感じね。だからこんな私がブレイクしてるんじゃないの」
「はあ‥‥」
いづみは押し黙る。ここまで相手が強気だと、もはやお世辞を言う気力を失くしてしまう。
小田原を過ぎ、もう少しで新横浜だと車内アナウンスがあった。いづみはふと残された時間に、もう一度ハルコに聞きたいと思った。
「ハルコさんって、働くの本当に好きなんですよね」
「もちろんよ。私ね、一回目の離婚の時、こう目の前が晴れ晴れとして、青空がぱーっ拡がってきたような気がしたの。これで私は働けるって。大好きな仕事をのびのび出来るって」
「ふうーん、いい話ですね。わたしはちょっと駄目かな」
「あら、どうしたの」
「パリでもお話ししたかもしれないけど、私の仕事って年ごとに大変になっているんですよ。フードライターなんて、雑誌の世界で真っ先に斬られていく仕事なんです。この頃取材費も出してもらえないし、原稿料だけではとてもやっていけません。もっとコネと実力あるんだったら、どこかの企業のプロデューサーやったりするんですけど、私にはコネないし。
私ね、文章力と自分の舌(ベロ)には自信があるんですけどね。でもそれって何になるんだろうかって。この頃、編集部は人の話聞いてみてきたように書いてくる若いライターを使ったりするんです。ああいうのを見ていると、私なんかこの仕事にしがみついても仕方ないんじゃないかって‥‥」
「はい、はい。よくある悩みですね」
ハルコはいかにも面倒くさそうに言った。
「それじゃ、あなた何をしたいの。仕事を辞めて結婚したいの。あの不倫の男とは別れたんでしょ」
「ええ、まあ…」
「だったら
仕事、頑張るしかないじゃないの」
「でもこの仕事、頑張っからといってうまくいくもんでもないんですよね」
「じゃ、他に何か手に職があるの?」
「少し英語が出来ますけど‥‥」
「TOEICでどのくらい」
「えーと、六百五十点‥‥」
「それじゃ、喋れるなんてとても言えないわよ」
ハルコはなぜか勝ち誇ったように言った。
「あなたって、なんだかやることが中途半端よね」
「そうでしょうか」
いづみはむっとした。本当にハッキリ言う女だ。
「だってそうでしょ。不倫しても相手の奥さんから奪い取る根性と力はない。フードライターやっているけどなんか面白くない。結婚はしたいけど相手がいない」
「私、いない、なんてひと言も往っていません」
「じゃ、いるの」
「いませんけど…」
「そうでしょう。中途半端な女には男も寄ってこないもの。私がね、どうして昔から男の人が寄ってくるか、どうして皆、私と結婚したがるかって言うとね、私はいつも仕事に夢中だったからよ。男っていうのはね、自分の好きな女と仕事とが三角関係になるとものすごく燃えるものなのよ。どうしても仕事っていうもう一人の男から、女を奪いたくなるものなのよ」
「そんな話初めて聞きましたよ」
「そうよ、私が今、思いついたんだから。仕事面白くない。どっかにいい男いないかしらって言ってる女が最低なのよ。見るかにさもしい顔をしているもの」
「私、そんな顔をしていませんよ」
「今になるわよ。そのうちに私に言ってくるの。『どこかにいい人いませんか』ってね。私はね、そういうことをいう女はけっとばしたくなってくるわね。どうして忙しい私が、あなたのために男を捜してあげなきゃいけないのって」
「そういうの、社交辞令じゃありませんか。女が同性の力のある人に向かって言う」
「そういうのがダメなのよ。いづみさん、これから半年、仕事を一心不乱にやるのよ。今までやらなかったことをやる。出来ないと思っていたことをやる。そしてね、仕事に夢中になる。そうすればきっと男は現れるわよ」
「ハルコさん、私は恋人が欲しいなんて言っていませんよ」
「何言っての。長い不倫が終わったばっかりの女が恋人欲しくないわけないでしょ。私はね、人生が変わる、っていう意味で言っているのよ」
「わかりました。なんか大ごとになってきましたね」
「当たり前でしょ。あなたさ、私に二度も出会って相談してる。これってすごいことなのよ。なぜって私の話を聞きたがって、みんな私とご飯を食べたがっているの」
「はい、わかっています」
「それにね、私はものすごく親切な女なのよ。あなた、本の一冊ぐらいは出してるんでしょう」
「はい、昨年『この店行かなきゃ損する』っていう本を出しました。あんまり売れなかったけど」
「その本、今度私に送って頂戴。七冊ぐらいね。私が知っている会社に話をつけて、どこかでプロデュース出来るように紹介してあげるわ」
「本当ですか」
「確約は出来ないわよ。あくまでも紹介よ。でもね、こういう風に出会ったのもなにかの縁。私みたいな人と縁が出来るっていうのあなたの運よね」
「ありがとうございます。そういえば『日経ウーマン』で言っていましたね。私は運の強い人たちとしか付き合わないって」
「ちょっとオ。それは意味が違うわよ。その言葉、あなたには使えないわね」
アナウンスがもうじき品川と告げた。
「ま、いいわよ、とにかく本を送ってね。私は品川で降りるわよ」
「ハルコさん」
いづみはまっすぐにハルコの顔を見た。
「私、ハルコさんに会えてよかった。何だか元気が出ました」
「でしょう」
ハルコはにこりともせずに言った。
「みんなそう言うのよね」
つづく ハルコ、夢について語る