中国の歴史を古代から現代に至るまでしっかりたどり、中国が直接間接に糾弾する「日本の歴史的蛮行」は中国自身の伝統的蛮行行動に他ならないことを世界に発信することだ。

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国連に訴えたクマラスワミ報告書は中国の陰謀

慰安婦問題に関して国際社会が日本非難の土台

としている文書の一つに、国連人権委員特別報告者のクマラスワミ氏の報告書である。1996年2月6日に同委員会に提出された報告書には数々の「日本軍の蛮行」が列挙されている。

中国の歴史を古代から現代に至るまでしっかりたどり、中国が直接間接に糾弾する「日本の歴史的蛮行」は中国自身の伝統的蛮行行動に他ならないことを世界に発信することだ。
クマラスワミ氏が68年7月に朝鮮半島の慰安婦16人から聞いたという被害証言の中に北朝鮮のチョン・オクスン氏のものがある。チョン氏の証言は北朝鮮から受け取った記録であり、クマラスワミ氏はチョン氏に会っていない。
つまり、伝聞なのだが、その背景に、色濃い中国の影がみてとれる。チョン氏は次のように語っている。
① 反抗的な態度をとった慰安婦の少女を日本兵が裸にして手足を縛り、くぎの突き出た板の上で転がして血だらけにし、最後に首を切り落とした。その遺体を煮て、泣き叫んでいた他の慰安婦に食べさせると言った。
② 池を掘って水を張り、蛇でいっぱいにして慰安婦40人を裸にして突き落とし、蛇に噛ませて死なせ、最後に池を埋めた。
こうして部隊にいた少女の半数以上が殺された。
氏は一連の証言を基に慰安婦問題はジュノサイド(大虐殺)とみなすべきだとの見解を打ち出している。

日本人は誰しも、これらは絶対に日本人の行為ではないと即座に判断するだろう。ここに描かれているのは私たちの文明には全くそぐわない。
一方、政敵や民衆に対してこのような過酷な罰をいつも与えていたのが中国だったことが中国の歴史書、資冶通鑑に書かれている。
前述の①くぎの板による無残な罰は、五代十国時代の閩(びん)国の軍使、薛文傑が考え出した刑罰から始まっていた。

罪人をくぎの突き出た狭い箱に入れて揺らして死にいたらしめる刑である。また人肉食、罪人も幼子も殺して食べる事例は数限りなくいえるほど、資冶通鑑に記されている。
② 蛇の池の罰も五代十国時代の南漢という国の帝が考案した罰で、「水獄」と呼ばれていた。
慰安婦問題で日本批判の戦略戦術を立てているのは、実は、中国なのである。一方で、中国の実態は、現在習近平主席が挑戦する想像を絶する不正蓄財も、実は何千年来の中国の悪しき伝統であることが、資冶通鑑によって明らかである。

国連人権委員特別報告者のクマラスワミ氏が報告した人間らしからぬ悪魔的所業は日本人の行為ではなく、中国人の伝統的手法だと、国際社会に証明するにはここに引用した資冶通鑑をはじめ、中国の歴書を忠実に英訳し、世界に紹介していくのがよい。
敵を知り、その実態を広く知らせることが、私たちが直面させられている歴史戦に対処する基本である。

実は私はこの資冶通鑑の内容を麻生川静男氏の『本当に残忍な中国史 大著「資冶通鑑」を読み解く』(角川SSC新書)で学んだ。資冶通鑑は司馬光が編んだ中国の史書で、紀元前5世紀から紀元1000年までの約1500年間の中国史を、全291巻1万ページで描いた大薯である。

毛沢東が17回読み返したという同史書の随所にクマラスワミ報告の世界が広がっている。
クマラスワミ報告の中の蛮行は、中国人の伝統であるのみならず、冊封国家として中国に従属し中華文明の影響を受けた朝鮮民族の行動様式でもあろうか。

私たちはさらに中国政府がチベット人、ウイグル人、モンゴル人をどのように痛めつけ虐殺しているかについても、そこから思い致すことができる。
日本人はクマラスワミ報告をどのようにして読むのだろうか。
外務省の和訳は公表されていない。そこで何人かは、村山富市氏が理事長を務めた「女性のためのアジア平和国民基金」の訳を見ているのではないかと思う。だがその訳から、「蛇の池」の事例がスッポリ抜け落ちている。
同基金は、2007年3月に活動を停止しており。省略理由を問うことはできなかった。以下は私自身の推測だが、「蛇の池」は日本人にとってあまりにも荒唐無稽で、こんな話を入れればクマラスワミ報告への信頼が失われてしまいかねないと、彼ら(彼女ら)は恐れたのではないか。

アジア女性平和国民基金をはじめ、慰安婦問題で日本を糾弾する人々にとってさえ、報告書はそれほど信頼できないものだったということか。それにしても外務省はなぜ当時反論しなかったのか。

雑誌『正論』が昨年の6~7月号で掲載した外務省の反論書は立派にスジが通っている。それを、一旦、人権委員会に配布した後、取り下げた。村山富市首相がその前年に前後50年の談話を出しており、時の政権の意向が働いたとしても、外交官の誰一人、立ち上がって反論しなかったのは限りなく情けない。
首相も状況が変わったいま、私たちは中国研究を進め、中国文明の巨悪と、その対極にあるに違いない善なる側面も、見ていきたいものだ。中国研究を介して「敵」をよりよく知り、日本の不名誉を晴らす大目的を実現するときである。
桜井よしこ

 「日本の侵略を口にする人々に問いたい」

 中国はことあるごとに、「侵略戦争」を発動した日本という“歴史問題”を持ち出して、日本を国際社会における「永遠の罪人」に仕立て上げようとする―。
 これは『日中戦争の「不都合な真実」』(北村稔・林思雲、PHP文庫)からの引用だが、この一書を読めば事柄の大筋と本質がよくわかる。
「毛主席がお会いします」
 突然、そう言われて田中角栄、大平正芳、二階堂進の3人が会見に臨んだ。「もう喧嘩は終わりましたか」という毛沢東の名言はこのときのものだ。緊張の中にも和気に似たものがあふれていた。
 あれから44年。3人のうちのある御子息から伺った話である。
「訪中した宴席のこと、随員が『井戸を掘った人の恩は忘れないと言っていただいて以来、今日まで友好関係が続いたことは慶賀すべきことです』と述べたところ、先方の高官から思いがけない言葉が返って来たのです」
 ほうッ 。
 「今、私どもは井戸水なんか飲んでいません。ミネラルウォーターです ! 」
 まぁ、なんと。 ↜ 古い上着よ、さようなら…。さらば
「韜光養晦(とうこうようかい)」というわけですナ。その心は〈日本から取るべきものは取った〉というわけです。

 「蒸し返し」が大好き

 毛沢東は別の折、訪中した社会党(当時)の佐々木更三らを前にこう言っている。
「皇軍が中国の大半を侵略しなかったら、中国人民は団結できなかった。皇軍はわれわれにとって素晴らしい教師だった」
 それはそうだろう。満州事変以後、毛沢東は日本を格好の餌食ととらえ、徹底的に「抗日」を煽(あお)ったのだから。

 中国共産党が政権の座にある正当性は「抗日戦勝利」というタテマエにしかないのだ。日本が侵略者でないと困る、それは、あちらの言い分だから仕方がない。けれども、こちら側でも「侵略戦争だった」と先様にどう同調する人たちが大勢いる。

 共同声明に至るプロセスで「ご迷惑をおかけいたしました」と言ったのだから、それで十分ではないか。中国側は「女性のスカートに水をかけたときに使う言葉ではないか」と不満気であったが、いや、日本語では誠意を尽くした言葉なのだと説明して、中国側も「了」としたのではなかったか。中韓とも「蒸し返し」が大好きなお国柄であるらしい。

 あのとき、もし、角サンでなく岸信介だったらどうなっていただろうか。同時代を経験した両者なら意外と話が合ったかもしれない。岸信介は生前、「東京裁判」についてこう語っている。
 「戦争に負けたことに対して日本国民と天皇陛下に責任はあっても、アメリカに対しは責任はない。しかし、勝者が敗者を罰するのだし、どんな法律のもとにわれわれを罰するのか、負けたからには仕方がない。

 ただ、自分たちの行動については、なかには侵略戦争というものもいるだろうけれども、われわれは追い詰められて戦わざるを得なかったという考え方をはっきりと後世に残しておく必要があるということで、あの裁判には臨むつもりであった」(『岸信介の回想』、岸信介・伊藤隆、文春学藝ライブラリー)

 人権・言論の抑圧

 数多くの文献に当たり、歴史の真実に迫る努力も大切だが、同時代の人々の証言が得られれば、なお立体化した歴史イメージを描くことができる。伊藤隆氏らが進めてきたオーラルヒストリーの意義はそこにある。
「日本の侵略」を口にする人々に問いたい。今、中国がやっているもろもろの覇権的行為は「侵略」ではないのか。チベット、ウイグルを虐げ、尖閣・沖縄に触手を伸ばし、南沙をかすめ、内にあっては今世紀の出来事かと思わせるほどの拉致を含む人権・言論の抑制―。これらは人間精神への侵略にほかならない。
 相手の宣伝に同調して過去の侵略を言い立てる前に「今、そこにある侵略」こそ問題でなかろうか。
 立林 昭彦氏 隔月刊誌『歴史通』編集長
 
2017/01/29日 産経新聞iRONNA発

習政権 人権弾圧のシンボル

「浙江省だけでこの1年半に合計1500本以上の十字架が中国政府当局により破壊され、撤去された。習近平政権の異常なキリスト教弾圧の一国なのだ」
 中国のキリスト教徒擁護の国際人権団体「中国援助協会」のボブ・フー(中国名・傳望秋)会長が熱をこめて証言した。米国の「中国に関する議会・政府委員会」が7月に開いた公聴会だった。
立法府と行政府が合同で中国の人権や社会の状況を調べ、米側の対中政策の指針とすることを目的とした委員会である。

この公聴会は「習近平の中国での弾圧と支配」と題され、中国政府の宗教や信仰の弾圧を報告していた。
 米国の国政の場では習政権の人権弾圧への非難がいま一段と高まってきた。同委員会の共同議長のマルコ・ルビオ上院議員も公聴会の冒頭で「習近平政権は文化大革命以来の最も過酷な弾圧をいま実行している」と強調した。同議員は上院外交委員会の有力メンバーで来年の大統領選に向け共和党で立候補した注目度の高い政治家である。

 同公聴会ではキリスト教のほかチベットやウイグルでの弾圧、気功集団への徹底取り締まりが議題とされ、それぞれの被害者側の代表が証人として報告した。なかでも日本ではあまり報じられないのはキリスト教への弾圧である。

「中国当局はキリスト教の家庭協会と呼ばれる非公認協会を邪教と断じ、信者の多い浙江省内だけでもここ1年半に50の教会を破壊し、信者1300人を逮捕した。当局はとくに信仰のシンボルとなる十字架の破壊を頻繁に続けている」

 フー会長の証言によると、中国政府は習政権の下で共産党の無神論に基づく宗教弾圧だけでなく、キリスト教の外国との絆を敵視しての抑圧を強化し始めた。
 中国では当局支配下のキリスト教組織として「三自愛国協会」や「天主教愛国会」があり、その信徒が2千万人強とされる。それ以外に1億人ほどが当局の禁じる地下教会で信仰を持つとみられる。沿岸部で欧米との絆の強い浙江省にとくに信者が多い。

 最近の十字架破壊は当局支配下の教会にもおよび、十字架は教会の尖塔(せんとう)の上は禁止、建物の前面の最上部ではない壁に埋め込むことを命ぜられるようになった。それに反対する牧師や信徒はすぐ拘束されるという。なにやらローマ帝国の暴君ネロのキリスト教迫害を思わせるような弾圧なのだ。

 こんな現状を証言するフー氏は中国の山東省生まれで、大学生時代の1980年代にキリスト教に入信した。民主化運動にもかかわり、天安門事件にも参加した。90年代は中国国内でキリスト教の布教に従事して弾圧され、亡命の形で米国に渡る。2002年には「中国支援協会」というキリスト教組織を創設して中国国内部の信者たちと密接に連携しながら活動してきた。

 フー氏は公聴会に並んだ上下両院議員や政府代表に対し中国政府の人権弾圧への反対を対中政策の中心におくことを迫り、9月に予定される習主席の米国公式訪問も中国の人権政策を前提条件につけることを求めるのだった。

 女性の人権を旗印に過去の慰安婦問題で日本を糾弾する中国政府がいま現在、自国内でこんな人権弾圧を続けている事実こそ日本側でもぜひ提起すべきだろう。
 古森義久(ワシントン駐在編集特別委員)産経新聞
015/8/22日

「歴史を正しく知る知的謙虚の姿勢」

ここ20年ほど「歴史認識」という言葉が妙なかたちで独り歩きしています。本来「歴史認識」とは、正しく歴史をとらえるための知的姿勢を語る言葉だったはずなのに、今では、ある特定の歴史上の出来事についての特定の見解を指して「歴史認識」という言葉が使われます。そして少しでも疑問を持って客観的な検証を試みようとすると、「歴史修正主義者」というレッテルのもとに激しく糾弾されてしまう…・そんな状況が国の内外で続いています。
3月の日中韓外相会談では「歴史を直視し、未来に向うとの精神」が3カ国の共通認識として発表されたようですが、こんな状態では本当に「歴史を直視」することは難しいと言わざるを得ないでしょう。
では、本来の歴史認識とは、いったいどのようなものでしょうか?まず第一に必要とされるのは、歴史を正しく知るがいかに難しいことであるかを肝に銘ずる、という知的謙虚の姿勢です。

古代ギリシャの歴史家ツキティデスは、紀元前5世紀のペロポネソス戦争を開戦当初から取材調査して『戦史』と題する大部分の著作を残し、実証的歴史学の先駆者ともいわれている人ですが、彼がまず第一に強調するのは歴史(ことに戦争の戦史)を調査することの難しさをこんな言い方で語っています。

「個々の事件にさいしてその場にいあわせた者たちは、一つの事件についても、敵味方の感情に支配され、ことの半面しか記憶にとどめないことが多く、そのために彼らの供述はつねに食い違いが生じた‥‥。」
「真実究明をいうなかれ」
直近の出来事についてすら、正確な検証はかくも難しい。まして過去の出来事の聞き伝えとなると、人々の史実についての無知はさらにひどくなる。と彼は言います。「大多数の人間は真実を究明するための労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳をかたむける」…この言葉は、つねに「もっとも明白な事実のみを手掛かりにして」歴史の事実を探求してきた人間だからこそ語りうる切実な警告だといえるでしょう。

このような2千年以上も前の歴史家の言葉を胸に、現代のわれわれの歴史認識のさまを振り返ってみると、まことに恥じ入るほかありません。
3月17日の当欄でも紹介しましたが、第一次大戦、第二次大戦の戦後処理においては、個々の出来事についての「敵味方の感情に支配」されることのない客観的検証、などといったものは、はなから放棄されていました。まず大前提として、敗戦国の行った戦争は「侵略」であり、「ウォー・ギルト」(戦争と言う罪)であるという結論がさきにあり、それに沿い従ったかたちで歴史が描かれてきたのです。

たしかに、1974年の国連の「侵略の定義に関する決議」を見ると「侵略行為が行われたか否かの問題は、個々の事件ごとのあらゆる状況に照らして判断されなければならない」という慎重な言い方をしており、またそもそもこの決議の目的は、将来の「潜在的侵略者」の抑止や、それに対する機敏な対応ということであって、過去の歴史の断罪ではありません。しかし、そうした健全な常識の復活の機運がわずかばかりあったにしても、いわゆる東西冷戦の終わりとともに、再び旧枢軸国の悪を言い立てるということが「歴史認識」の大枠として固定化され、強化されて現在に至っています。
もしも現在、歴史家ツキティデスが蘇(よみがえ)ったら、こうした現状を批判して、「真実を究明」すべきことを強く主張し、たちまち「歴史修正主義者」のレッテルを貼られてしまうことでしょう。

「村山氏は本当に謙虚だったのか」

いま改めて、20年前のいわゆる村山談話を振り返ってみますと、そうした世界の知的怠慢を正すどころか、それに流されているとしかいえません。この談話の核心とされている部分は「おわび」が基調となっています。村山氏は「植民地支配と侵略によって」「多大な損害と苦痛を与え」たことを疑うべくもなくもない歴史的事実と受け止めて、「おわび」を表明されています。一見、まことに心優しく謙虚な姿勢と見えます。
しかし、これは本当に謙虚な姿勢と言えるでしょうか?村山氏はこの歴史的事実の内容として「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り」と語ったのですが、その具体的内容を記者に尋ねられて、まともに答えることができませんでした。まさに「真実を究明するための労をいとい、ありきたりの情報」をうのみにしてしまつていたのです。

これでは「来し方を訪ねて歴史の教訓に学び」正しく「未来を望」むどころではありません。本当に「歴史を直視」するには、歴史についての知的謙虚が不可欠です。日中韓外相会議の共通認識を活かすためにも、わが国が率先して本来の正しい歴史認識を取り戻さなければなりません。
 埼玉大学名誉教授 長谷川 三千代

米国教科書「慰安婦」記述の明確な誤り8カ所、事実無根。
① 日本軍は強制的に募集、徴用した⇒強制連行の証拠はない。
② 人数『20万人』⇒秦郁彦の推計では約2万人。
③ 年齢『14~20歳まで』⇒20歳以上多くいた証拠がある。
④ 慰安婦は天皇からの贈り物⇒根拠が無く、あまりにも非礼。
⑤ 出身「大半は朝鮮および中国」⇒秦氏の推計では最多は日本人。
⑥ 勤務実態「毎日20~30人の男性相手」⇒単純計算で不可能。
⑦ 勤務環境「兵隊たちと同じリスクに直面」⇒戦闘地域外の安全地域で勤務
⑧ 多数の慰安婦が殺害された⇒事実であれば訴追されているはず。
米国の公立高校で使われている世界史教科書に、旧日本軍による慰安婦強制連行など事実と異なる記述がある問題で、現代史家の秦郁彦ら日本の有識者19人が17日、明確な事実誤認部分8カ所について、教科書出版社に訂正を求める声明を公表した。

記述をめぐっては、執筆者を含めた米国の歴史学者19人が日本政府の訂正要求を拒否する声明を出しており、泰氏らは同人数の19人の連名で反論。米国で浸透する「慰安婦=性奴隷」との誤った認識の払拭を図りたい考えだ。
この教科書は米大手教育出版社「マグロウヒル」の「伝統と交流」。
泰は同日、東京都千代田区の日本外国特派員協会で行われた討論会の場で、事実誤認部分を明らかにした。

泰氏の声明では、慰安婦強制連行の記述について、米国の歴史学者19人の声明が強制連行や性奴隷を断定する根拠に吉見義明・中央大教授の調査などを挙げていることから、「吉見氏は著書の中で、慰安婦のうち『最多は(コリアン・ブローカーに)だまされて』慰安婦になったと記している」と指摘。さらに「吉見氏はテレビの討論番組でも『朝鮮半島における強制連行の証拠はない』と述べている」とした。

慰安婦の人数を「約20万人」と記述している点についても、泰氏の推計では約2万人だとして「誇大すぎる」と強調。
「慰安婦を天皇からの贈り物として軍隊にささげた」との記述には「教科書としては、国家元首に対するあまりに非礼な表現」と強く批判した。この問題をめぐっては、昨年11月と12月、外務省がマグロウヒル社に記述の訂正を要請。米紙によると、同社は「記述は史実に基づく」としてこれを拒否。米国の歴史学者19人も2月に「国家による圧力」などとする声明を出している。

「あり得ない誇張した記述」

日本の有識者19人が荒唐無稽な誇張表現を指摘した。
「慰安婦たちは、日に20~30人の男の相手をさせられた」マグロウヒルの教科書では、慰安婦の勤務実態について、こう表現している。
その前段で慰安婦の人数を「20万人」と記述していることから、泰氏らの声明は、単純計算で旧日本陸軍は慰安婦から毎日400~600万回の性的な奉仕を受けていたことになると指摘。その上で、慰安所が設けられた地域の旧日本陸軍の兵力を考慮すると、全員が毎日、頻繁に慰安所に通ったことになると分析した。

泰氏は「兵士は戦う暇がないほどで、それほど誇大な数字」と話した。
慰安婦の出身も、「大半は朝鮮および中国」と記述されているが、推計では約2万人の慰安婦のうち、最多は日本人で約8千人、朝鮮人は4千人、中国人やその他が8千人で、誤りだとした。

「戦闘地域に配置され、兵隊らと同じリスクに直面し、多くが戦争犠牲者となった」と、慰安婦たちが厳しい環境下に置かれたことも記述されているが、「慰安婦と看護婦は戦闘地域でない後方の安全な場所で勤務していた」と否定した。

「多数の慰安婦が殺害された」との記述については「事実であれば、東京裁判や各地のB・C級軍事裁判で裁かれているはずだ」として事実無根を訴えた。
泰氏とともに声明を出した藤岡信勝・拓殖大客員教授は「事実無根で誇張した記述の訂正を拒否する出版社や米国の歴史家たちに対しては、今後、証拠に基づく学問的討論を呼びかけたい」と話した。
歴史を見る目歪める「北岡伸一発言」
『日本は侵略した』と言ってほしい。-3月9日、或るシンポジウムの席上で北岡伸一氏が述べたと伝えるこの発言は、大変な問題発言というべきものです。「阿部談話」について検討する懇談会の座長代理を務める方が、いわば場外である公の場で自らの私見を述べる、というマナー違反もさることながら、一番の問題は発言の内容です。

日本が侵略戦争をしたのか否かという話を政治の場に持ち込んではならない。これは単に、そういう問題は歴史学者にまかせておけばよいから、ということだけのことでありません。
もしも本当に学問的良心のある歴史学者ならば、そんな問いには答えることができない、突っぱねるはずです。
なぜなら「侵略戦争」という概念そのものが極めていい加減に成り立つものであって、今に至るまできちんとした定義づけなされたためしはないからのです。

ここで簡単に「侵略」という言葉が国際法の舞台に登場してきた経緯を振り返ってみましよう
今われわれが使っているような意味での「侵略」という言葉が最初に登場するのは、第一次大戦後のベルサイユ条約においてです。
いわゆる「戦争責任」条項として知られる231条には「連合国政府はドイツおよびその同盟国の侵略により強いられた戦争の結果、連合国政府および国民が被ったあらゆる損失と損害を生ぜしめたことに対するドイツおよびその同盟国の責任を確認し、ドイツはこれを認める」とあります。そして、このような罪状によって、ドイツには連合国の戦費すべてを負担する全額賠償という巨額の賠償が負わされたのでした。

「敗戦国だけに責任を負わせる概念」

では、そのような重大な罪であるドイツの「侵略」はどんな根拠に基づいて認定されたのかといえば、ほとんどいかなる客観的検証もなされなかった。むしろ逆に、前例のない巨額の賠償を根拠づけるために、降伏文書では単なる普通の武力攻撃を意味していた「侵略」という語を、重大な罪を意味する言葉「侵略」へと読み替えてしまつたのです。

現在のわれわれは、第一次大戦がいわば誰のせいでもなく起こってしまつた戦争―各国のナショナリズムの高揚の中であれよあれよという間に拡大してしまった大戦争だったことを知っています。
その戦争の原因をもっぱら敗戦国だけに負わせる概念として登場したのがこの「侵略」という言葉だったのです。

こんな言葉を使ったら、歴史認識などというものが正しく語れるはずはありません。でも、それからすでに100年近くたっているではないか。こんなひどい概念がそのままということはあり得ない、と言う方もあるのでしょう。たしかに、第一次大戦と第二次世界大戦の間には不戦条約というものが成立して、それに違反した戦争は違法な侵略戦争である、という言い方ができるようになってはいました。

ところが不戦条約には米国の政府公文の形で、この条約は自衛権を制限するものでなく、各国とも「事態が自衛のための戦争に訴えることを必要とするか否かを独自に決定する権限をもつ」旨が記されています。現実に個々の戦争がこれに違反するか否かを判断するのは至難の業なのです。

「力の支配」を肯定する言葉

第二次大戦後のロンドン会議において、米国代表のジャクソン判事はなんとか「侵略」を客観的に定義づけようとして、枢軸国のみを断罪しようとするソ連と激しく対立しますが、最終的にはその定義づけは断念され、侵略戦争の開始、墜行を犯罪行為とする、ということのみが定められました。しかも、それは枢軸国の側のみに適用されることになったのです。
そしてその後も、この定義を明確化する国際的合意は成り立っていません。

つまり「侵略」という言葉は、戦争の勝者が敗者に対して自らの要求を正当化するために負わせる罪のレッテルとして登場し、今もその本質は変わっていないというわけです。この概念が今のまま通用しているかぎり、国際社会では、どんな無法な行為をしても、その戦争に勝って相手に「侵略」のレッテルを貼ってしまえばこちらのものだ、という発想が許容されることになるといえるでしょう。

こんな言葉を、安部首相の談話のうちに持ち込んだら大変なことになります。首相がしきりに強調する「未来志向」ということは、もちろん当然正しい歴史認識の上に立って、平和な未来を築いてゆくのに役立つ談話をだしたい、ということに違いない。

だとすれば、歴史を見る目を著しく歪めてしまうような言葉や、国際社会において、「法の支配」ではなく「力の支配」を肯定し、国家の敵対関係をいつまでも継続させるような概念は、決して使ってはならないのです。国際政治がご専門の北岡さんには改めて、本来の学識者としての良識を発揮していただきたいものです。
埼玉大学名誉教授 長谷川 三千子

南京攻略戦で旧日本軍を率いた元司令官の大将、松井石根とって「南京大虐殺」は寝耳に水だった。終戦後、東京裁判で松井はこう証言している。(大虐殺)公的な報告を受けた事が無く、終戦後米軍の放送で初めて知った」戦勝国による追求が始まる中で現れた「南京大虐殺説」。その責任者として松井は昭和23年11月12日、戦犯として死刑判決を受け、12月23日に絞首刑に処された。70歳だった。

「松井大将は清廉潔白だった」

元陸軍第36師団歩兵第224連隊の少尉、内貴(ないき)直次(93)は戦後、松井の元私設秘書、田中正明から幾度となく聞かされた。田中は11年に松井に随行し中国を訪れた。戦後は近現代史の研究者として活動、平成18年に94歳で亡くなるまで虐殺説に反論した。昭和18年夏ごろ、南京に約1か月間滞在した経験のある内貴(ないき)自身もこう言う。
「南京に入ったのは攻略戦から6年後。街は商店や人で溢れ、平和な様子だった。もし、大虐殺があれば、住民の恨みを買い、われわれは平穏に駐留できなかったはずだ」。

国際法に留意
昭和12年7月、日中戦争勃発すると、予備役だった松井は上海派遣軍司令官に就任。上海、南京攻略戦で軍を率いた。南京攻略を控え、松井は部下に「注意事項」を示し、何度も軍紀・風紀の徹底を図り、捕虜を正しく扱うことや、住民に公正な態度をとることを指示。顧問として法学者を南京に帯同しており、国際法に注意を払っていたこともうかがえる。

12年12月17日に南京に入城した松井は、当時を綴った日記を基にした供述書で「巡視の際、約20人の中国兵の戦死体を見たが、市内の秩序はおおむね回復した」といつた内容を述べている。一方で入城後に一部の兵による軍律違反の報告を受けており、法廷でこう証言している。

「南京入城後、非行が行われたと憲兵隊長から聞き、各部隊に調査と処罰をさせた」非行件数はどの程度なのか。松井の部下は裁判前の尋問で「10か20の事件だった」と述べている。
だが、判決はこう断罪している。

「自分の軍隊に行動を厳正にせよと命令を出したが、何の効果ももたらさなかった。自分の軍隊を統制し、南京市民を保護する義務と権限を持っていたが、履行を怠った」また、南京攻略に松井が帰国したことをめぐり、検察側は日本が南京での多数の不法行為の責任を問い、司令官の職を解き召還したとういう構図を持ち出した。松井は「それは理由にならない。自分の仕事は南京で終了したと考え、制服を脱いだ」と明確に否定したものの、反論は一切聞き入れられなかった。

「南京で2万人の強姦、20万人以上の殺害があった」と断定した東京裁判だが、松井に対する判決は「南京陥落から6,7週間に何千人という婦人が強姦され、10万人以上が殺害」とそれぞれ数を引き下げた。

「蒋介石と親交」

もともと松井は、孫文が唱えた「大アジア主義」に共感し、志願して中国の駐在武官を務めたほどだった。中華民国トップの蒋介石とも親交があり、蒋が日本で暮らした際には生活の支援をした。
その蒋が喧伝した「大虐殺説」によって松井は命を落とした。

松井は昭和15年、上海と南京の土を使い、静岡県熱海市に興亜観音像を建立。日中両軍の戦死者を弔い続けた。戦後、痛みだした建物を保護しようと、陸軍士官学校58期の元将校らが「守る会」(平成23年解散)を設立、田中が会長を務めた。
58期の元少尉の和田泰一(89)は、「普通は敵兵の慰霊はしない。だからこそ、松井大将の思いを残さなければと皆が感じていた」と語り、こう続けた。
「当時の記録を読めば事実は別にあることは明らかなのに大虐殺説を許してきた私たちの責任も大きい」戦前・戦中を全否定するような風潮の中で大虐殺説は日本人にも「定説」として刷り込まれていった。

昭和21年春、松井は収監前夜、親しい人を集めた席で次のような言葉を残した。「願わくば、興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々(うんぬん)では浮かばれない」。                産経新聞歴史戦第9部終わり

 「兵士たちの証言異常な中国」は【第一次大戦後に追い詰められたドイツ国民の鬱積する不満が、アドルフ・ヒトラーをして激しい対外戦略に駆り立てた真因!!】と構図が類似。
中国は経済部門を縮小し、民営化の推進や外資系企業の導入を通じて高成長を実現したというイメージを抱く人が多いが、誤解である。
中国の市場経済化は2000年代に入って間もなく終焉し、その後はステートキャピタリズム(国家資本主義)ともいうべき経済へと変質した。
以降、中国の成長牽引車は、中央政府が管轄する独占的企業群に成った。
資源、エネルギー、通信、鉄道、金融の5分野の特定国有企業が国務院直属の資産管理監督委員の直轄下におかれ、「央企」と略称される。

【政治権力と結託し・・】「央企」

央企は約11万社の国有企業のうち113社である。
「フォチュン」誌の世界売上高上位500社の中で中国は91社、日本の57社を上回る。91社のほとんどが、央企である。

上位10社には、3位に中国石油化工(シノペック)、4位に石油天然気(中国石油)7位に国家電網(ステートグリッド)が名を連ねる。
これら央企が、公共事業受注や銀行融資の豊かな恩恵に浴して高利潤を謳歌している。実際、国有企業11万社の利潤総額並びに納税総額でそれぞれ60%、56%を、央企が占める。
事業規模に応じて傘下に子会社を擁し、事業所数は2万2千に及ぶ。
中国経済の命脈を制するこれら企業群が、共産党独裁の財政的基盤である。

トップマネージメントは各級幹部とそれに連なる人々が占める。
央企の傘下に重層的に形成されたこの国有企業群は、誰もが制することのできない強固な利益集団と化している。
中国企業の伝統は「官僚資本」である。企業が政治権力と結託して、資産規模の極大化を図る中国流の企業形態である。

共産党革命前の中華民国期に「四大家族官僚資本」と呼ばれる浙江財閥の築いた富は圧倒的であった。央企はその現代的バージョンである。
国家資本の潤沢な恩恵を受けて拡大する央企の力量を、海外へ向けて放出しようというのが、中国の国際経済戦略の要である。

「金融秩序への新たな挑戦」

10月24日、北京の人民公会堂に東南アジアと中東の21か国代表を集め、  「アジアインフラ投資銀行」(AIIB)の基本合意書の調印が行われた。   設立資金1千億ドルのうち500億ドルを中国が出資、銀行の本部は北京に置き、総裁は中国高官だという。
開発途上国の陸上・海上の輸送インフラ、エネルギーインフラの高まる建設需要に央企の供給力をもって応じ、その海外進出を促すというのが銀行設立の狙いである。

中国の外貨準備高は今年上半期に4兆億ドルを超え、2位の日本はるかにしのいだ。500億ドルの出資など容易なことであろう。
中国主導の下でインフラ網を構築し、これにより日本主導のアジア開発銀行(ADB)の地位を相対化させる戦略である。
西沙諸島、南沙諸島をめぐって軍事的緊張をはらむベトナム、フィリピンをAIIBに誘う一方、日本、米国が調印式に招かれないのはその戦略ゆえんであろう。
遡って7月15日には、中国、ロシア、インド、ブラジル、南アメリカの新興国(BRICS)の首脳会談がブラジルで開かれ、そこでは5か国それぞれが100億ドルを出資して500億ドルの資本金を持つ「新開発銀行」(NDB)の設立が合意された。開発途上国のインフラ関連投資への金融支援が目的とされる。
同時に、経済危機に陥った国への緊急融資に一千億ドルの外貨準備基金を創設、うち410億ドルを中国が担う。国際通貨基金(IMF)・世界銀行による旧来の金融秩序への挑戦である。

「限界まで膨れる社会的不満」

央企という独占的企業集団を擁して国家資本主義の道を突き進む中国は、膨大な国家資本をもって新たな金融秩序の形成者たろうとする意志を固め、米中の覇権争奪戦の一方の雄をめざしている。
 恐るべきは軍事力増強ばかりではない。
BRISや開発途上国において力量を発揮し、彼らをみずからの影響圏に誘い込み、その加勢を得て「中華民族の偉大なる復興」への道を歩む。

貧困農民のとどめない都市流入、少数民族の抵抗、環境劣化、官僚の腐敗、汚職、所得格差の拡大は、すでにおぞましいレベルに達している。限界ぎりぎりにまで膨れ上がる中国の社会的不満は国内政策で対応する術は、「和偕社会」実現を求めて挫折した胡錦濤前政権で尽きた。

習近平政権は対外膨張路線によりフロンティアを拡大し、そこで得られる富と権威で内政に臨もうと決意したのであろう。
これらを鑑みると、「第一次大戦後に追い詰められたドイツ国民の鬱積する不満が、アドルフ・ヒトラーをして激しい対外戦略に駆り立てた真因」と構図が類似している。

「第三帝国」の興隆は、しかし周辺国と米国の反発を招いて燦燦たる崩落を余儀なくされたという歴史的事実が想起される。
膨張する中国の帰結がいかようであれ、備えに怠りが有っては良いはずがない。
拓殖大学総長 渡辺 利夫

[異常な中国」世界で共有

”安倍外交に折れた習氏”
北京で開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に先立っ今月10日、安倍晋三首相と中国の習近平国家主席による日中首脳会談が実現した。
日本の首相と中国主席の会談は3年ぶりであり、両国の関係改善に向けた「大きな一歩」(首相)となったが、話題を呼んだのは会談の内容よりむしろ、握手を交わす両首脳の表情だった。
「靖国」「尖閣諸島」言及せず
安倍首相が淡々とした様子だったのに対し、習主席は伏し目がちで笑顔はなく、背後には両国の国旗さえおかれなかった。
「日本国内では無礼だ」と反発が起き、韓国メディアは「日本冷遇」と報じたが、APECに参加したリーダーたちの受け止め方は異なっていた。

一部始終を目撃した政府高官はこう証言する。
「首脳間ではむしろ周主席のかたくなな態度が笑いものに成っていた。習氏の沈鬱な表情を「市場に引かれていく牛みたいだった」と表現した首脳もいた・・・」
各国首脳は、習主席「日本に歩み寄った」とみられると政治基盤が打撃を受けるため、国内向けの演出に腐心していることを見透かしていたのだ。
当然、日中どちらかが会談の主導権を握り、どちらかが追い込まれていたのかも理解していた。実際、会談で習主席は、これまで執拗に問題提起し続けてきた靖国参拝問題も、尖閣諸島(沖縄県石垣市)問題も一切言及しなかった。
首相は中国に何ら譲歩することなく、首脳会談を実現したのだった。
外交は「何かを求めた方の立場が弱くなる」(外務省幹部)のが常識である。

日中外交筋によると、首脳会談に先立ち、日中間で交わした合意文書は、首相が会談をドタキャンすることを懸念した中国側の要請でまとめたものだった。
中国側は文書に、主席の靖国神社不参拝の確約を盛り込むことにこだわったが、日本側が「それならば会談をしなくてもよい」と突っぱねたところ、あっさりと折れてきたという。
中国側はこの文書を日中同時に発表するにあたり、こうも頼んできた。
「日本の外交的勝利だとは宣伝しないでほしい・・」首相はその後、訪問先の
ミャンマーで李克強首相とも関係改善で一致し、オーストラリアでは再び習主席と握手を交わした。

【祖父の知恵を生かす】

では、なぜ中国はそれほど軟化したのか。安倍外交の何が奉功したのか。
ヒントは首相の祖父,故岸信介元首相にある。岸氏は「岸信介の回想」(文春学芸ライブラリー)で昭和32年に日本の首相として初めて行った東南アジア歴訪をこう振り返っている。
「私は総理としてアメリカに行くことを考えていた。それには東南アジアを先に回って、アメリカと交渉する場合に、孤立した日本ということでなしに、アジアを代表する日本に成らなければいけない、という考えで行ったわけです。(中略)
それでアメリカに行く前後に15カ国を二つに分けて回りました」
アメリカを中国に置き換えるかとどうか。
「地球儀を俯瞰する外交」を掲げる首相は、日中首脳会談の前に五大陸を股に掛けて世界49カ国を巡り、200回以上の首脳会談をこなした。

米国、東南アジア諸国連合(ASEAN)、オーストラリア、インド、ロシア、トルコなど各国との関係を次々に強化し、日本の発言力・発信力を高めた上で50カ国目の訪問国として中国を選んだ。

では、日中首脳会談の実現に最も焦ったのは誰だったのか。
歴史問題などで軋轢が生じている韓国の朴クネ大統領だった。
実はこれも首相の読み通りだった。
日中首脳会談から3日後の今月13日、韓国の朴クネ大統領はミャンマーの首都ネピドーで開かれた東南アジア諸国連合(ACEAN)プラス3(日中韓)首脳会談で唐突にこう表明した。
「遠くない将来、日中韓外相会談と、それを土台とした3カ国首脳会談が開かれることを期待する」
「実現しない」と踏んでいた日中首脳会談が行われたのに衝撃を受け、孤立を恐れて方向転換したのは明らかである。

これは「日中首脳が会えば韓国は必ず折れてくる」という安倍晋三首相の読みとおりの展開だった。
野党や一部メディアは、安倍外交によって、あたかも日本が世界で孤立しつつあるように訴えてきたが、現実は逆で、今の日本外交には順風が吹いている。

【3原則に拍手喝采】

では、首相はいつ、日中、日韓関係改善に向けての手応えを感じたのか。
それは5月末、シンガポールで開かれたアジア安全保障会議(シヤングリラ対話)での基調講演だった。
ここで首相は、海における法の支配について①国家が主張をなすときは法に基づいてなすべし②主張を通したいからといって力や威圧を用いないこと③紛争解決には平和的収拾を徹底すべしーという3原則を掲げ、こう説いた。

「日本は法の支配のために。アジアは法の支配のために。そして法の支配はわれすべてのために。アジアの平和と繁栄よ、とこしえなれ」
名指しこそしないが、国際法を無視して海洋進出を進める中国を批判したのは明だった。講演が終わると、各国の政府・軍関係者ら500人の聴衆から盛大な拍手が起きた。
一方、中国軍人もいて講演後の質疑で首相への反論を試みたが、聴衆の反応は冷ややかだった。首相は後にこう語った。
「私の講演であんなに拍手が起きるとは思っていなかった。日中問題に対する世界の見方、立場が事実上逆転したのを実感した」
この2年間の外交努力により「日中関係で異常なのは中国の方だ」という認識は世界で共有されてきた。

【豪州と準同盟関係】

日米関係に関しても、オバマ大統領は当初、首相を警戒していたが、6月のベルギーでの先進7か国(G7)首脳会談(サミット)では、首相にハグするまで距離が縮まった。また、首相はアジア・太平洋地域のシーレーン確保の観点から、オーストラリア、インドとの関係強化を重視している。
7月の豪州訪問時には、アボット首相と「日豪が特別な関係」であることを確認し、両国関係を「準同盟関係」に引き上げた。

アボット首相は共同記者会見で歴史問題について日本をこう擁護した。
「日本にフェア・ゴー(豪州の公平精神)を与えてください。日本は今日の行動で判断されるべきだ。70年前の行動で判断さるべきでない。日本は戦後ずっと模範的な国際市民であり、日本は法の支配の下で行動をとってきた。【日本にフェア・ゴーを】とは【日本を公平に見てください】ということだ」

歴史問題で対日批判を繰り返していた中国は穏やかな気持ちでいられなかったことだろう。

首相は今月14日、インドのモンディ首相との会談でも「日米印、日米豪の協力を重視している」と述べた。
これは首相が第2次政権発足時に発表した日米豪印を菱形に結び付ける「安全保障ダイヤモンド構想」とつながる。この構想はフィリピン、ベトナム、マレーシア、インドネシアなど海洋国家との連携にも広がる。
そうなれば日本の安全保障は大幅に強化される。

「遠交近攻」という中国の兵法がある。遠くの相手と友好を結び、近くの敵を攻めるという意味だ。 首相の「地球儀を俯瞰する外交」は実はこれに近い。
今回の衆議院解散・総選挙により首脳外交は年明けまで小休止するが、就任から2年弱で50カ国を駆け抜けた外交努力は、今まさに実を結ぼうとしている。
(政治部編集委員 阿比留瑠比)
 つづく 慰安婦は快活だった豪州人記者