ふりさけてみれば 川瀬弘至 平成28年版産経新聞引用
その日―昭和28年3月30日、皇居から横浜港まで三十余キロの国道沿いは、満開の桜と、約100万人の国民が打ち振る日の丸の小旗に彩られた。歓声に包まれた喜色のトンネルを、飴色のオープンカーが通過する。車上で手を振っているのは、初の外遊に出発される、当時19歳の皇太子だ。
ご外遊の目的は、エリザベス英女王の戴冠(たいかん)式。昭和天皇の名代としてのご出席である。あわせてアメリカ、フランス、スペイン、オランダなど計14カ国も訪問される予定だ。前年4月に主権を回復してからまもなく1年。日本が国際社会に新たな一歩を踏み出す、先導役も担われていた。
昭和天皇が大正10年に訪欧について語った昭和天皇実録に記されている。
皇太子のご外遊を、当時のマスコミは大きく取り上げた。中でも力を入れたのは、同年2月1日からテレビの本放送を開始したNHKだった。ご出発の日、昭和天皇は《皇太子出航の模様を放映するテレビ放送を皇后と共に御覧になる》
NHKアナウンサーが実況する。
「3時55分、出港の汽笛が鳴り響き渡りました。いよいよ出航であります。プレジデント・ウィルソン号の巨体は、五色のテープを引いて岸壁を離れました。期せずして沸き起こる歓呼の声、横浜港は、興奮のるつぼと化しています。皇太子さま、お元気でいってらっしゃい。この日、全国民の心の中は、みなひとつであったと思われます」
昭和天皇の感慨は、ひとしおだっただろう。
この3年、昭和天皇の子供たちは、次々と巣立っていった。25年5月に三女の和子内親王が鉄道研究家の鷹司平通(としみち)(旧五摂家の鷹司家27代当主)と、27年10月には四女の厚子内親王が実業家の池田隆政(旧岡山藩主池田家16代当主)と、相次いで結婚している。
悲しい旅立ちもあった。28年1月、秩父宮雍人(やすひと)親王が50歳で薨御(こうぎょ)したのだ。幼少期を一つの屋根の下で過ごした、何でも言い合える弟だった。
皇太子を乗せた米客船プレジデント。ウィルソン号は4月11日にサンフランシスコに到着。カナダを経由し、英国入りされたのは4月27日である。
だが、そこで皇太子を待っていたのは、大衆紙などが煽る反日世論だった。
主権を回復し、平和を取り戻した日本―。第13章では、戦後の復興期を国民とともに歩もうとする、昭和天皇の姿をふり仰ぐ。
昭和天皇の名代として、エリザベス英女王の戴冠(たいかん)式に出席する皇太子(現上皇陛下)の訪英直前、昭和28年4月22日の英大衆紙デイリー・エクスプレスは書いた。
「(日本が)善良な意思を持つという証拠を何等示すこともなく戴冠式に代表を送るよう招待される等想像も出来ない」
終戦から8年足らず。シンガポールの戦いで日本軍に大敗し、多くの英軍将兵が不名誉な捕虜生活を強いられた戦争の傷跡は、まだ癒えていなかったのだ。捕虜団体は皇太子のご訪英に抗議する決議を行い。皇太子招待の賛否を投票で決める市議会もあった。
英国内の一部に渦巻く反日世論―。
沈静化に動いたのは、英首相のチャーチルである。皇太子がロンドンに到着された翌日、チャーチルは皇太子との午餐会(ごさんかい)を主催し、その場に大衆紙の会長や野党党首らを招いて融和の場を演出した。
席上、まずチャーチルが杯を傾ける。
「天皇陛下のために乾杯」
皇太子もさわやかに応じられた。
「女王陛下のために乾杯」
2人は打ち解けて歓談し、耳の遠いチャーチルの耳元で皇太子が話しかけられる様子は、「孫がおじいさんと話しているが如き和やかさ」だったと、同席した駐英公使が回想している。
午餐会の様子は大衆紙でも好意的に報じられ、以後、対日世論は劇的に好転した。
英王室も皇太子を歓待した。5月5日にはバッキンガム宮殿で新女王が皇太子と会見。戴冠式を前にした歓談は、異例の配慮といえよう。
6月2日、いよいよ戴冠式である。世界中が注目する舞台は伝統のウエストミンスター寺院。深紅のローブをまった当時27歳の新女王に、大司教が純金製の王冠を授ける。その様子を皇太子は、最前列の席で見られた。昭和天皇の名代として、臆することなく振る舞われた皇太子は、随行した侍従長によれば「感嘆の一言に尽きる」だったという。
皇太子自身、ほっとされたことだろう。
《戴冠式終了後、(昭和天皇は)皇太子より御名代の使命を無事終えた旨の電報をお受け取りになる。なおこの電報は、この度の外遊において初めて皇太子名で発したものである》
戴冠式を含むご外遊の様子は日本でも大きく報じられ。新生日本の国際デビューを象徴するものとして、国民の喝采を受けたことは言うまでもない。
もうひとつ、皇太子のご活躍を熱い思いで見つめる目があった。各国在住の日系移民である。
昭和28年の皇太子ご外遊には、3つの目的があったとされる。第1は英女王の戴冠式に昭和天皇の名代として出席されること。第2は日本の国際社会復帰の先導役を担われること。第3は皇太子自身の見聞を広められることだ。
だが、これらの目的を加え、皇太子はもうひとつの使命感を抱かれていたようだ。訪問する各国の日系移民や在住邦人とふれあい、励まされることである。
戴冠式の前、3月30日に日本を出国した皇太子は、4月11日に米・サンフランシスコ、13日にカナダ・バンクーバーに到着し、列車で米大陸を横断された。途中停車するカナダ国内の各駅では近隣の日系移民が集まり、車窓からでもと奉迎したが、皇太子は予定にない小駅でも車外に出て、声をかけられた。
先の大戦中、アメリカとカナダの日系移民は、強制収容所行きの苦難を味わっている。祖国の皇太子とふれあい、どれほど胸を熱くしたことだろう。
一方、随員には皇太子の健康を憂慮した。北米の外気は時に零度を下回る。訪英前に風邪でもお引きになったらと、早朝の途中駅では侍従長が対応する案も出たが、随員の吉川重国によれば「殿下は成るべく起きられたら出ると言われた」「(ある駅では午前4時半に車外に出て)邦人のみならず外人をも感激させられた」「日本のプラスになることなら何でもするという御気持ちがうかがわれ、まったく頭が下がる」
6月2日に戴冠式出席の使命を果たした皇太子は、イタリア、ベルギー。西ドイツ、アメリカなどを歴訪し、元首級との会見を重ねるともに、現地の在留邦人や日系移民らの熱烈な歓迎を受けられた。
それは、大正10年に当時皇太子の昭和天皇が訪欧したときの、再現といっていいだろう。
ご外遊の様子は、昭和天皇にも逐次届いた。
5月18日《英国における皇太子の動静を伝えるニュース映画皇后と共に御覧になる》
7月28日《皇太子がベルギー国訪問を終えるに当たり、滞在中に受けた歓待に対し、同国国王ボードワン一世へ礼電を発せられる》
10月12日、半年間にわたる外遊の目的と使命を果たした皇太子が、米旅客機で羽田空港に到着された。ひとまわり大きくなられた姿に、国民は万歳の嵐だ。
昭和天皇の喜び、こう詠んだ。
皇太子(ひのみこ)を 民の旗ふり 迎ふるが
うつるテレビに こころ迫れり
皇太子への注目は続く。
いよいよ全国民の一大関心事、お妃選びが本格化したのだ。
長野・軽井沢のテニスコートで、皇太子(現上皇陛下)は、大粒の汗をかかれていた。昭和32年8月18~19日、テニス好きの避暑客らが企画したダブルスのトーナメント大会。皇太子のペアは準々決勝まで勝ち進まれたが、次は強敵だった。どんなに強く打ち込んでも、相手コートの女性に返されてしまうのだ。
約2時間にわたる熱戦は、第1セット6-4、第2セット5―7、第3セット1-6で皇太子ペアの逆転負け。皇太子は、しなやかながら粘り強くプレーされる女性に、舌を巻かれたことだろう。
女性の名前は正田美智子、のちの皇后さまである。この対戦が契機となり、2人は帰京後もテニスをされるようになった。紅葉の色づく頃には皇太子も、運命の糸を意識されたようだ。翌33年2月、皇太子妃の選考委員を務める小泉信三(元慶應義塾塾長・東宮御教育常時参与)に、こう言われたという。
「この人も選考対象に入れてください」
皇太子妃選びは、数年来の国民的関心事だ。新聞が初めて報じたのは26年7月。その2年後に皇太子が外遊から帰国されると、宮内庁内部の選考も本格化する。しかし、順調ではなかった。元華族や学習院出身者を中心に、適齢期の女性を次々とリストアップしても、戦後の風潮を反映してか、噂に上ると他家との結婚を急ぐようなケースも相次いだ。
選考が難航する中、聖心女子大の出身者に、またとない女性がいると聞きつけたのは小泉だったとの説がある。外国語文学科を首席で卒業したばかりで、健康も容姿も申し分ない。小泉は2人を引き合わせる機会をうかがい、皇太子が軽井沢のテニス大会に参加されたのも小泉の配慮だったともいわれる。
一方、新たな候補の出現に、皇室と関わりの深い常磐会から反対の声が上がる。皇太子妃は元華族の子女から選ばれると、誰もが思っていた時代だ。正田家は実業界の名門ではあっても、いわば”平民”であり、学習院以外であることがネックとなった。
困惑したのは、正田家も同じだ。父の英三郎は小泉の説得を断り、母の冨美(後に冨美子へ改名)は娘に長期の海外旅行をさせた。是が非でも、あきらめてもらおうと思ったのである。
しかし皇太子は、固い決心を抱かれていたようだ。
昭和天皇も2人を応援した。
33年8月15日《宮内庁長官宇佐美毅の拝謁を皇后と共に受けられ、皇太子と正田美智子との結婚の話を進めることをお許しになる》
同年の秋、帰国を待っていた皇太子は、電話で思いを告げ、11月27日に皇室会議でご婚約が内定する。
国民は、空前の”ミッチーブーム”に湧いた。
前日の雨が、噓のように晴れ上がる。その青空に向かって数千羽のハトが舞い上がった。
昭和34年4月10日《午前十時より賢所において、皇太子結婚式中、結婚儀が行われる。(中略)皇太子及び皇太子妃美智子が賢所において拝礼し、皇太子が告文を奏した後、神酒を受ける》
軽井沢のテニス対戦からおよそ1年8ヶ月。正田家を説得した東宮御教育常時参与、小泉信三の努力もあり、2人は晴れの日を迎えになった。
結婚の儀には、首相をはじめ各界代表らが参列し、かつて皇太子(現上皇陛下)に英語などを教えた米人家庭教師のバイニングや、目に涙をにじませる小泉の姿もあった。朝見の儀で昭和天皇は、2人にこんな言葉をかける。
「互に相むつみ、心を合わせて国家社会に貢献することを望みます」
午後2時半、いよいよ2人が一般国民の前に姿を見せられる。パレードが始まったのだ。6頭立て4頭引きの儀装馬車に乗せられた皇太子は、胸に大勲位菊花大綬章副章をつけた燕尾(えんび)服。左隣の皇太子妃は、ほぼ純白のローブ・デコルテにストール。コートをまとわれ、頭上にはあまたのダイヤをちりばめたティアラが輝いている。警視庁騎馬隊の先導で儀装馬車が二重橋を渡ると、黒山の群衆から歓呼の声が上がり、日の丸の小旗が一斉に打ち振られた。
この日、皇居から東宮仮御所まで8.8キロのパレードコースを埋めた沿道の群衆は警視庁調べで53万人、消防庁調べで83万人。このほか1500万人もの国民がテレビにくぎ付けになったと言われる。
昭和天皇は詠んだ。
皇太子の 契り祝ひて 人びとの
よろこぶさまを テレビにて見る
群衆の歓声に、皇太子は手を振られ、皇太子妃は笑顔で応えられた。だが、皇室という別世界での新生活を前に、不安も抱かれていただろう。
果たしてその不安は、現実になる。”平民”出身の皇太子妃を快く思わない元華族の嫌がらせが、結婚後も続いたからだ。悪意に満ちた噂も流され、2人の心を苦しめた。正仁親王(常陸宮さま)と皇太子妃が聖書の話をされ、それを知った昭和天皇が激怒したと伝えられる「宮中聖書事件」も、その一つだ。
のちに噂を知った昭和天皇は、嘆息したという。
「このようなことは、事実がないばかりではなく、心にも思ったことさえなかった」
元華族らと異なり、国民は”ミッチーブーム”に湧いた。
昭和天皇も国民とともに、皇太子妃を歓迎していたのである。
日本が主権を回復してか皇太子が結婚されるまでの昭和27~34年、占領期にどん底を味わった国民生活は、劇的に変わった。
朝鮮戦争の特需にわいた景気は、29年になるとさらに拡大。神武天皇の建国以来最大だとして神武景気と名付けられる。企業の業績好転で庶民の購買力も増し、努力すれば手の届く電気洗濯機、冷蔵庫、テレビが「三種の神器」ともてはやされた。
中でも急速に普及したのはテレビだ。30年に5万台だった契約台数は、31年30万台、32年50万台、33年100万台と伸び、34年には皇太子のご結婚パレード効果で300万台を記録した。
国産乗車も好況。33年に富士重工がスバル360を、34年には日産がダットサン。ブルバードを発売し、マイカー時代が到来する。
諸外国が瞠目(どうもく)した驚異的な経済復興―。31年の経済白書は「もはや戦後ではない」と記す。高度経済成長期の幕開けである。
政治情勢も大きく様変わりした。23年以降6年余にわたる吉田茂長期政権に、ピリオドが打たれたのだ。
主権回復で絶頂期を迎えた吉田政権だが、その後はワンマン体制に批判が噴出。29年の造船疑獄が退陣の決定打となった。
戦後も「臣茂」を公言した吉田が、皇室に尽くした功績は大きい。退位論に火がついたときも、一貫して反対したのが吉田だった。27年1月、民主党議員だった中曾根康弘が保守の立場から退位論に言及すると、吉田はピシャリと言った。
「御退位を希望するがごとき者は、私は非国民だと思うのであります」
巧みな外交術で主権回復を果たした吉田を、昭和天皇は深く信頼していたようだ。42年に吉田が死去した際、昭和天皇はこう詠んだ。
外国の 人とむつみし 君はなし
思へばかなし このをりふしに
一方で吉田は、経済復興を優先するあまり、保守層が期待した自主憲法制定と自衛軍創設(再軍備)を後回しにした。GHQが押し付けた日本国憲法は、いわば占領管理法であり、主権回復と同時に国会で失効を宣言すれば今日まで続く憲法問題は無かっただろう。
吉田に代わって首相になったのは、自由党を離党して日本民主党総裁となった鳩山一郎だ。自由・民主両党の保守合同を実現し、悲願の自主憲法制定に向けて走り出した鳩山だが、その行く手を革新勢力が阻む。時に昭和30年11月、政界は保革対立の、55年体制に突入した。
「参院ついに暴力沙汰」「警官隊五百出動」「社会党議員が乱」「抜き打ち本会議」「河野(義克)事務次長殴られる」―。
昭和31年6月2日未明に参院本会議で起きた。乱闘事件を伝える新聞報道だ。
その前年(1955年)、左右に分かれていた社会党が統一して日本社会党となり、翌月に自由党と日本民主党が合同して自由民主党となる。両党は憲法、自衛隊、教育政策などをめぐって激しく対立し、国会はしばしば空転した。
以後、少数の抵抗により多数の主張が通らない、いびつな政治が40年近く続く憲法問題。55年体制である。
革新勢力の中核にいたのは、日本教職員組合(日教組)だ、イデオロギー教育を推進し、政治闘争に明け暮れた日教組の弊害は、指摘するまでもないだろう。
右傾化した教育を是正しようと第3次鳩山一郎内閣が
1、 教育委員の任命制2、教科書検定の強化―に取り組むと、日教組の影響を受ける社会党は実力阻止に出た。冒頭の乱闘事件がそれである。
鳩山内閣は、悲願とする自主憲法制定でも頓挫した。改憲発議に必要な3分の2という壁を、崩せなかったからだ。小選挙区の導入により議席増を狙うも、選挙区割りが自由党に有利だとして猛批判を浴び、実現できずに終わる。
31年12月、鳩山は、日ソ共同宣言で国交を回復したのを花道に退陣し、政界を引退した。短命に終わった石橋湛山内閣をはさみ、保守の旗振り役を引き継いだのは岸信介。その政権の下で保革激突の”主戦場”となったのは、日米安全保障条約の改定問題である。
対米従属的な色彩が強く、在日米軍の日本防衛義務すら不明確な日米安保を改定することに、当初は社会党議員も前向きだった。だが、1957(昭和32)年にソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功すると、内外の情勢は一変する。それまで弾道ミサイル開発で先行していたアメリカの優位が崩れ、革新勢力は一斉に東側陣営になびいた。
昭和32年3月、訪中した社会党書記長、浅沼稲次郎は言った。
「米国は日中共同の敵だ」「社会党は今後、国内では資本主義と戦い、外では米国の帝国主義と戦う」
翌年、反米色を強める社会党などの反政府運動が激化する。左翼的な学生らも国会周辺に押し寄せ、安保反対のデモを繰り返した。
首都中枢に渦巻く、革命前夜のような喧騒と混乱―。革新勢力との全面対決を決意する。
昭和35(1960)年、国会は、言論の府ではなくなった。日米安保保障条約の改定に反対する60年安保闘争が、最高潮に達したのだ。
アメリカによる恣意(しい)的な運用が可能だった日米安保を見直し、在日米軍の使用や装備を日米が事前協議する新安保条約を締結することは、保守ならずとも必要な政策課題である。しかし、反米色を強める社会党の抵抗で国会審議は紛糾し、国会周辺では労組全学連(全日本学生自治会総連合)に主導された学生らが安保反対のデモを繰り返した。
同年5月20日未明、首相の岸信介と自民党は衆議院本会議で、新安保条約の強行採決に踏み切る。衆議さえ通過すれば、参院でいくらもめようと30日ルールで自然成立するだろう。1ヶ月後に米大統領のアイゼンハワーが来日することになっており、ぎりぎりで間に合わせる計算だ。
だが、この強行採決は裏目に出る。この日以降、国会周辺のデモが激化したからだ。6月10日には打ち合わせで来日した米大統領報道官、ハガチーの車がデモ隊に取り囲まれ、ヘリコプターで脱出する騒動が発生。大統領来日は中止となった。その5日後、国会への突入を図るデモ隊と警官隊とが激しく衝突し、東大生の女性活動家が死亡する事故が起きた。
昭和天皇が憂慮したのは言うまでもない。
6月18日《(新安保条約に)反対する国会議事堂周辺の抗議行動集会の状況につき、上直侍従に度々お尋ねになる》
その夜、デモは最高潮に達する。国会や首相官邸は約30万人の群衆に囲まれ、「アンポ反対!」「岸を倒せ!」の怒号が永田町を揺るがした。
岸は、ひとりで官邸にいた。警視総監が「安全確保に自信が持てなくなったので、どこか他の場所に移ってほしい」と要請したが、岸は動かなかった。その時の心境を、のちにこう書いている。
「私は、安保改定が実現されれば、たとえ殺されてもかまわないと腹を決めていた。死に場所が首相官邸ならば以て瞑すべしである」
国会が麻痺しまま、新安保条約の自然成立が刻一刻と迫っていた。岸は、官邸に集まっていた閣僚の身を案じ、それぞれの役所に帰したが、夜10時過ぎ、実弟の佐藤栄作が訪れてきた。
「兄さん、ブランデーでもやりましょうや」
佐藤もまた、万一の時は日本の安全保障に殉じる覚悟だったのだろう。
官邸になだれ込もうとするデモ隊―。懸命に押しとどめる機動隊―。19日午前0時、新安保条約は自然成立した
安保闘争に揺れた昭和35年、皇室に、新たな命が誕生した。
2月23日《午後四時十五分、皇太子妃が宮内庁病院において親王を出産する。天皇は、御産所参候の宮内庁次長より宮内長官・侍従を経て、直ちに皇后と共に報告を受けられる》
このとき、昭和天皇は58歳。待望の皇孫である。
25日《午前。宮内庁病院に皇后と共にお出ましになる。ついで東宮侍医長佐藤久・宮内庁御用掛小林隆の拝謁を受けられ、経過説明をお聞きになる。それより白衣をお召しになり御静養室に皇太子妃を見舞われ、ついで皇系と初めて御対面になる》
29日は命名の儀。昭和天皇は世継ぎとなられる親王に、徳仁の名と浩宮の称号をおくった。出典は儒教の経書「中庸」。東洋学泰斗の宇野哲人らが数種類選んだ中から。《皇后・皇太子。同妃と御相談の上、御決定になる》
3月12日、皇太子妃(皇后さま)は徳仁親王(皇太子さま)を抱き、退院された。病院の玄関前で車の窓を開け、報道陣にほほ笑まれる様子が新聞各紙の1面を飾る。2人の健康そうな様子に国民は拍手喝采だ。
ところが、元華族からは思いもかけぬ声が漏れた。
「お宮参りさえすまないうちに写真を撮らせるは何事か」「お子様が風邪を引かれたらどうなさるのか…」
第1皇男子(当時は第1男子)出産の大任を果たされても、批判や中傷が止まらなかったのだ。皇太子妃は、黙って耐えるしかなかった。
日本国憲法の施行後も、皇族が激務であることに変わらない。出産7ヶ月後の9月22日、皇太子と皇太子妃は昭和天皇の名代として、訪米の旅に出られた。
安保闘争で米大統領の来日が中止され、日米の国民感情にきしみも見られた直後である。皇太子夫妻のご訪米は両政府が強く望んだものだった。
皇太子夫妻は16日間で全米7都市を回るハードスケジュールをこなし、同年11月12日~12月9日にはイラン、エチオピア、インド、ネパールを歴訪して、国際親善に努められた。
それでも、宮中周辺の冷たい空気は変わらない。昭和天皇は皇太子妃を支持していたが、香淳皇后の理解がなかなか得られなかったとも伝えられる。国民と共にあろうとする昭和天皇は、新しい時代にふさわしい皇室のあり方を考え、自ら実践していた。一方で香淳皇后は、新しい時代に必ずしも順応できなかったのかもしれない。
実は香淳皇后も、心に深い傷を負っていたのだ。
徳仁親王(皇太子さま)がお生まれになった年の晩秋、昭和35年11月のことである。昭和天皇の長女で、東久邇盛厚に嫁いだ成子(しげこ)(22年に皇籍離脱)が病に倒れ、国立東京第1病院に入院した。手術したものの結果は思わしくなく、宮内庁病院に転院。末期がんだった。
成子は、苦境に屈しない女性だった。東京空襲の最中に防空壕で第1子を出産し、戦後に皇族としての特権を失ってからも、内職で家計を支えながら5人の子供を育てた。旧皇族の中で、皇太子妃(美智子さま)に深い理解を寄せていたのも成子だ。34年6月には皇太子夫妻と昭和天皇、香淳皇后を私邸に招き、兄弟姉妹による夕食会を開いている。
その成子が、もはや治療の方法がないと診断されたとき、心の中で何かが崩れたのか、香淳皇后に、異常な言動が見られるようになる。病室を見舞っていた香淳皇后は「施療師」と称する男を連れて来て、怪しげな”治療”を始めたのだ。未消毒のガーゼを患部にあて、電気を流すという方法だった。
仰天した侍医の杉村昌雄が制止しようとすると、香淳皇后は声を震わせて抗議した。
「あの病気、もう絶対になおらんといったではないか。ところがあの施療師は、少しはなおるという。溺れる者は藁をもつかむというが、それがわからないのか」
かつて、そばにいるだけで周囲を和ませた温厚な皇后の姿は、この時はなかった。
36年7月23日、成子は死去する。享年35歳あまりに早すぎる旅立ちだった。
昭和天皇が嘆き悲しんだのは、言うまでもない。死去の10前ほど前から、成子を撮影した8ミリ映画などを何度も見る様子が、昭和天皇実録に記されている。同時に昭和天皇は、尋常ではないほど悲痛な様子の香淳皇后を心配し、気遣ったことだろう。
悲しみは続く。38年3月、皇太子妃が流産されたのだ。皇室は、大きな試練を迎えていた。
このとき、精神的に追い詰められた皇太子妃を支えたのは、すくすくと成長される徳仁親王と、皇太子(現上皇陛下)の深い愛情だ。流産から7ヶ月後の38年10月、皇太子は公務の合間をぬい、皇太子妃と栃木・奥日光へプライベートの旅行をされる。短期間でも、雑音がない自然の中で2人で過ごしたいと、皇太子自身が企画されたものだった。
皇后を気遣う天皇と、皇太子妃を慰められる皇太子―。「美智子さまに笑顔が戻られたのは、そのご旅行からお帰りになってのことだった」と、東宮侍従の浜尾実が書いている。
皇孫・徳仁親王のご誕生、長女・成子の死去、皇太子妃(美智子さま)の流産―と、喜びと悲しみが折り重なった時期、昭和天皇の生活空間にも、大きな変化があった。昭和36年の秋、新居が完成したのだ。
終戦から15年以上、かつて焼け野原だった東京は、ビルの林立する大都市に変わりつつある。だが、戦災で炎上した宮殿(住居部分を含む)は再建されず、昭和天皇は依然として「御文庫」で生活していた。
戦時中に作られたコンクリートの防空壕舎。日当たりはほとんどなく、「部屋のロッカーに背広をぶら下げておくと、二、三日でジトッと湿ってしまう」(入江相政)、「壁のクロスに大きな染みが出てバッサリはがれ落ちたりもした」(永積寅彦)と侍従が口をそろえるほど、健康維持のためにも新居の建設が不可欠と考えていたが、昭和天皇は「国民にすまない」と承知せず、新築計画は進まなかった。
ようやく建設が始まったのは、35年7月からだ。昭和天皇も内心は嬉しかったらしく。「工事の進捗するにつれては、工事現場にもしばしばおいでになって、お楽しそうにあっこっちと見廻っておいでになった」と、入江が書き残している。
完成は36年11月20日。延べ床面積1350平方メートルの洋風2階建てで、「吹上御所」と名づけられた。
大きな書棚があり、それまで3ヵ所に分けて保管していた蔵書をすべて収めることもできる。
入り江によれば、「この書棚の中の本の置き具合については、非常にご苦心になった。一度お並べになったものを、一部すっかりおやり替えになったり、またお迷いになったり。しかしそんなお楽しいことは、滅多にお有りになるまいからと、われわれは微笑ましく思って傍観していた」
昭和天皇の喜びが、伝わってくるようだ。
何より、日当たりがいい。居室の障子を開ければ皇居の庭の、武蔵野の自然が迫ってくる。成子が死去して4ヶ月。昭和天皇の傷心も、この武蔵野の自然に、徐々に癒されたのではないか。
宮殿が再建されたのは、さらに遅れて43年11月。
「威厳より親愛を、荘重よりも平明」をコンセプトに造営され、現在に至っている。
この間、国民生活も飛躍的に向上した。池田勇人内閣の所得倍増政策で36年の労働者賃金が20%前後上昇。37年に東京の人口が世界で初めて1000万人を突破する。38年にはテレビアニメ「鉄腕アトム」の放映も始まった。
そして39年10月、日本の完全復活を象徴する祭典、東京オリンピックが開幕する。
―世界中の青空を全部東京に持って来てしまったような、素晴らしい秋日和でごさいます―
昭和39年10月10日、テレビから流れる、NHKアナウンサーの声が弾む。第18回オリンピック東京大会の開幕だ。開会式が行われた国立競技場は約7万5千人の観衆で埋まり、約6500万人がテレビにくぎ付けとなった。
――総起立のうちに、天皇、皇后両陛下をお迎え申し上げます。安川オリンピック東京大会組織委員会会長のご先導。そして両陛下の後ろには、国際オリンピック委員会のブランデージ会長が従っております――
沸き起こる歓声、君が代の吹奏。参加94カ国の選手団が入場行進し、ロイヤルボックスに敬礼するのを、昭和天皇は会釈でこたえた。
――日本選手団の入場であります。男子は真っ赤なブレザー。女子も真っ赤なブレザー。ロイヤルボックスから盛んな拍手が送られます。ちょうどその前をさしかかりました。堂々の行進であります。帽子を胸に当て、天皇陛下に敬礼をしています、日本選手団。スタンドから惜しみない拍手が送られております――
午後2時52分、昭和天皇がマイクの前に立った。
「第18回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します」
アジアで初の東京オリンピックは、本来、皇紀2600年にあたる昭和15年に行われるはずだった。しかし、日中戦争の泥沼化で日本は開催権を返上し、英米から疎外された暗い時代に突入する。それから24年。東京の空は晴れ渡っていて開会を宣言する昭和天皇の胸の内も、陽光で満たされていただろう。
2週間にわたる競技日程で、日本選手の活躍は目覚ましかった。金メダルはアメリカ36個、ソ連30個に次ぐ16個を獲得。中でも「東洋の魔女」と言われた女子バレーボールの活躍は日本中が熱狂する。正式種目に採用されたお家芸は、柔道は無差別級で金メダルを逃す波乱があり、これも大きな話題となった。
昭和天皇も観戦した。
10月15日《バレーボール競技を御覧のため、午後一時三六分皇后と共に御出門、世田谷区の駒沢バレーボール場に行幸される》
22日《柔道競技を御覧のため、午後2時56分皇后と共に御出門、日本武道館に行幸される》
競技だけではない。オリンピックにあわせたインフラ整備により、東京は世界トップレベルの大都市に飛躍した。高速道路網が整備され、東京モノレールや東海道新幹線が開業したのもこの年だ。
東京オリンピックに続き、日本の国力をアピールする祭典が西でも開かれる。45年の大阪万博である。
♪こんにちは こんにちは 西のくにから
♪こんにちは こんにちは 東のくにから
東京オリンピックから5年余り。今度は大阪の街に、世界に向けた明るい歌声が響く。昭和45年3月14日、日本万博博覧会(大阪万博)の開幕である。
この日、昭和天皇は大阪吹田市の万博会場で《開会式に臨まれ、内閣総理大臣等の挨拶・祝辞に続き、次のお言葉を賜う》
《―世界各国の協力をえて、人類の進歩と調和をテーマとする日本万国博覧会が開催されることは、まことに喜びにたえません。ここに開会を祝い、その成功を祈ります――》
《続いて天皇・皇族・大会役員等への花束の贈呈がある。その際、天皇は侍従を通じて贈呈される予定であったが、御自ら手を差し伸べられて児童代表より直接花束を受け取られる》
アジアで初の万博は、東京オリンピック以来の国家プロジェクトだ。
世界77カ国が参加し、万博史上最大規模となった。6ヶ月に及ぶ開催期間中の入場者数6421万人。43年に国民総生産(GNP)が世界2位となった”経済大国ニッポン”を、象徴するイベントといえよう。
昭和天皇は詠んだ。
きのふより ふりいでし雪 はやれて
万国博開会の 時はいたりぬ
雪が重くのしかかった終戦から四半世紀。国力の充実とともに、皇室にも明るい話題が続いた。40年4月には皇太子夫妻に第2皇男子(秋篠宮さま、当時は第2男子)が、44年4月には第1皇女子(黒田清子さん同第1女子)が誕生。昭和天皇実録には、昭和天皇が孫たちとのふれあいを楽しむ様子がしばしば登場する。国民生活の向上が、天皇の心を一層明るくしたことだろう。
大阪万博の年、数えで70歳となった昭和天皇は、こんな和歌を詠んでいる。
よろこびも かなしみも民と 共にして
年はすぎゆき いまはななそぢ
大阪万博には、海外の元首級の要人や王族らも多数訪れる。それを出迎え、もてなすのも皇室の大切な役目だ。
4月に来日したベルギー国王ボードワン一世の弟、アルベール(のちのベルギー国王)も、”おもてなし”を受けた一人である。昭和天皇は皇太子夫妻も交え、アルペールを宮中午餐(ごさん)で歓待した。
後日、ボードワン一世から、皇室の新たな扉を開く、親書が送られてきた。
「天皇皇后両陛下が、わが国をご訪問されるよう、希望しています」―
「お上の御風格も世界の人に見せてやりたい…」
侍従の入江相政が日記にこう書き込んだのは、昭和35年の年末である。
前年に結婚された皇太子夫妻(上皇・皇后両陛下)がアメリカやインドなどを訪問し、友好親善に尽くされことはすでに書いた。日本の平和方針をアピールする上で、”皇室外交”が果たす役割は大きい。入江は、昭和天皇が「段々お年を召してしまふ」前に、外遊の機会が訪れることを待ち望んだ。
それから10年。端緒をつくったのは高松宮妃だ。大阪万博で来日したベルギー国王ボードワン一世の弟、アルペールに、国王から招待状を送ってほしいと持ちかけたのである。ボードワン一世は昭和39年に来日している。その答礼という形なら、大義名分も立ちやすいだろう。
昭和天皇は意欲的だった。45年7月22日付でボードワン一世から招待の親書が届くと、《外国旅行を可能とする機会が到来した場合には、皇后と共にブリュッセルを訪問できることを期待したい旨の答簡を発せられる》
以後、外務省と宮内庁が水面下で協議し、昭和天皇と香淳皇后の外遊が決定したのは46年2月である。公式の訪問はベルギー、イギリス、西ドイツの3カ国。ほかにオランダとデンマークに立ち寄り、日程は同年9月27日~10月14日の18日間とされた。
ただ、皇室史上初となる天皇の外遊には、懸念材料もあった。
一つは、天皇の「政治利用」だとする革新勢力の批判だ。外遊の検討が始まった昭和45年は、70年安保闘争の年でもある。ゲバ棒を手にした中核派、革マル派などは「訪欧阻止」「天皇襲撃」を叫び、出発前の46年9月25日には中核派4人が皇居内に乱入する事件も起きた。
もう一つは、訪問国から外れたアメリカの対応である。外遊日程が確定したあとになって、「天皇の海外第一歩はアメリカで」と、強引に割り込んできたのだ。このため初日の予定が変更され、給油で着陸するアラスカ・アンカレッジで昭和天皇とニクソン大統領との会談が行われることになった。
このほか、訪問先で元軍人らによる抗議活動も予想されたが、友好親善に尽くそうとする昭和天皇の決意は揺るがない。出発の日は雲一つなく晴れ渡り、天も昭和天皇に味方した。
46年9月27日午前9時23分、外遊中の国事行為を代行される皇太子をはじめ、首相、衆参両議長、最高裁判長官らが見送る羽田空港。昭和天皇を乗せた日本航空の特別機が、青空に向けて飛び立つ。
1971年(昭和46年)9月26日午後9時50分(現地時間)、アメリカ最北の州、アラスカのアンカレッジ。米政府高官や歓迎の市民ら約5000人が見守る空軍飛行場に、日本航空の特別機が直陸する。やがて機体のドアが開き、姿を見せた
昭和天皇と香淳皇后が、ゆっくりとタラップを降りる。階下で待ち受けるのは、米大統領のリチャード・ニクソンその人だ。
世界最強の大統領が、他国の要人を空港まで出迎えるのは異例中の異例である。両国国歌の吹奏と礼砲が響き渡る歓迎式典で、ニクソンは言った。
「こよい、陛下は日本の古い歴史の上で、外国の土を踏まれるのは最初のご在位中の天皇であられます」
公式の訪問でないものの、”第一歩”を強調したところに、アメリカの意地が垣間見えよう。
ニクソン本人による友好ムード演出の背景には、2つの中国問題をめぐってぎくしゃくした日米関係を修復したいという、複雑な国際情勢がある。それまでアメリカは台湾の中華民国を承認し、大陸の中華人民共和国とは対立していたが、この年の7月、ニクソンが中共を訪問すると電撃的に発表。同盟国の日本に何の相談もないまま、米中接近にかじを切った。いわゆる第1次ニクソン・ショックである。
日本の世論を対米不信に走らせてはアメリカのアジア外交は成り立たない。ニクソンは、昭和天皇に破格の厚情を示すことで、日本の国民感情を和らげようとしたのだ。
歓迎式典が行われた飛行場周辺は、大統領と天皇の歴史的なツーショットを一目見ようと黒山の人だかりである。通訳を務めた真崎秀樹の言葉を借りれば「ピーピキャーキャーの大騒ぎ」だ。しかしニクソンは、それが昭和天皇に向けられた拍手喝采と心得て、自ら観衆に手を振るようなことはしなかった。
真崎は昭和天皇に、そっといった。
「お上、帽子をお振りくださったら、観衆はみな喜ぶことでございましょう」
昭和天皇が帽子を取って振る。観衆は「ますます大きな声でピーピーキャーキャー大騒ぎ」。アンカレッジ滞在は給油中の2時間足らずだが、日米親善に大きな成果を上げたと言えるだろう。
同日午後11時40分、大統領と「ピーピーキャーキャー」に見送られて、昭和天皇の特別機がアンカレッジを出発する。いよいよヨーロッパに向かう夜空には、幻想的なオーロラも出現した。
日本を出国する日「”天皇晴れ”空もお祝い」と報じたサンケイ新聞の翌日の紙面に、「夢のオーロラも祝福」の大見出しが躍った。
皇室史上初の天皇外遊で、特別機が2番目の訪問国、デンマーク。コペンハーゲンに到着したのは1971(昭和46)年9月27日の夕刻である。公式訪問でもないものの、国王のフレデリック九世とイングリッド王妃がタラップの下まで出迎え、両国国旗が折り重なる空港は友好ムード一色となった。
だが、ここで事件が起こる。天皇旗を掲げた御召自動車が用意され、空港から宿泊所のロイヤル・ホテルに出発する際、歓迎の市民にまじって数人が車列に飛び出し、ビラを散布しただ。警官隊が取り押さえて2人を逮捕すると、日本人の過激派である。ビラには
「日本がファシスト国家になったのも天皇の責任」などと、つたない英語で書かれ、クギを無数にさしたゲバ棒まで持っていた。日本のいびつな極左活動を、浮き彫りにした一コマといえよう。
一方、友好を求める昭和天皇の外遊日程には、何の影響もなかった。2日間のデンマーク滞在に続き、向かった先はベルギー・ブリュッセル。正式に昭和天皇を招待した最初の公式訪問国であり、同国の歓迎ぶりは熱烈を極めた。
空港には国王のボードワン一世からをはじめ王族、首相、外相、上下両院議長らが勢揃いし、軍楽隊による君が代吹奏、51発もの礼砲…。初日の行事で無名兵士の墓に献花した際には、昭和天皇のお召自動車に60騎の儀仗(ぎじょう)槍騎馬隊が付き従った。日本の首相が訪欧してもこうはならない。皇室があるからこそ実現した、壮厳華麗な王朝絵巻である。
ブリュッセルの市庁舎広場では、伝統あるオメガングの舞踏も催された。神聖ローマ帝国皇帝のカール五世が同地を訪問した際の、歓迎行事を再現したベルギー最大の祭りごとの一つだ。本来は毎年7月に行われるのを、特別に実施したのである。
29日夜の晩餐会、ボードワン一世は歓迎スピーチで日本の驚異的な経済復興を称賛しつつ、こう言って杯を傾けた。
「陛下の未来への旅と申すべき今回の御旅程の中でベルギーが選ばれた地位を占めたという事実は、我々を名誉と喜びにみたすものであります」
ベルギーでの日程を終え、10月2~4日はフランス・パリに滞在。50年前、皇太子時代の訪欧ではお忍びで散策を楽しみ、エッフェル塔で婚約者にお土産を買った思い出の地だ。その婚約者、香淳皇后がいまはそばにいる。昭和天皇は歓迎行事の合間をぬい、ルーブル美術館などの名所見学を夫婦で満喫した。
同月5日、昭和天皇はヨーロッパ最大の王国、イギリス・ロンドンに向かう。だが、これまでのような歓迎一色とはならなかった…。
41発の礼砲がとどろくロンドン・ビクトリア駅に、英王室差し回しの特別列車が到着した。1971(昭和46)年10月5日、列車から降りる昭和天皇を、ホームでエリザベス女王が迎える。東洋の天皇と西洋の女王は、笑顔で握手をかわした。
《天皇は女王と、皇后は王配(エディバラ公)と、駅前のハドソン広場に歩を進められ、コールドストリーム近衛連帯の栄誉礼を受けられる。君が代の演奏裡に儀仗隊を閲兵された後、天皇は、馬車列先頭の六頭立ての馬車に女王と御乗車になり、皇后は二両目の四頭立ての馬車に王配と乗られ、同駅より御泊所に充てられたバッキンガム宮殿に向かわれる》
皇太子時代の大正10年5月、ロンドン訪問の歓迎パレードで昭和天皇の隣に座ったのは、エリザベス女王の祖父、ジョージ五世だった。当時20歳の昭和天皇がジョージ五世に多くを学んだことは、後に昭和天皇自身が語っているところだ。それから50年、日英両国の関係は変転した。大正12年に日英同盟が失効し、昭和16年には戦争に突入。26年に講話したものの、英軍将兵らの傷跡はまだ癒えていなかった。
歓迎の市民が沿道を埋め尽くしていた今回のパレードでも、《馬車列が宮殿正面近くに差し掛かった折、沿道の中から一人の英国人が天皇と女王の馬車列にコートを投げる事件が起き、同人は直ちにロンドン警視庁により逮捕される》
その夜の晩餐会。エリザベス女王はデザート後のスピーチで日英友好を強調しつつも、こう言った。
「わたしどもは過去が存在しなかったと偽ることはできません。わたくしどもは、貴我両国民の関係が常に平和であり友好的あったと偽り申すこができません。しかし正にこの経験ゆえにわたしどもは二度と同じことが起きてはならないと決意を固くするものであります」
英国世論の一部に残る反日感情を考慮し、一言触れざるを得なかったのだろう。
歓迎セレモニーが続く中で、10月7日にはこんなことも起きている。
《この日午後、昨日キュー王立植物園においてお手植えになった日光産のスギが根本から伐り倒され、その根元に劇物の塩素酸カリウムがかけられて、「彼等は無意味に死んだのではない」という趣旨のプラカードが残されているのが発見される》
昭和天皇は詠んだ。
戦果てて みそとせ近きに なほえらむ
人あるをわれは おもひかなしむ
さはあれど 多くの人は あたたかく
むかへくれしを うれしと思ふ
「天皇は非神聖三国同盟の最後の生存者である。ヒロヒトは真珠湾攻撃当時の日本天皇だった。英人捕虜がビルマの鉄道建設にどれほどの苦しみを強いられ、悪名高い日本軍捕虜収容所で苦しみ、死んで行った当時の天皇であった。その天皇を招いたのは間違いではなかったのか‥‥」
1971(昭和46)年の天皇・皇后外遊の直前、左派系の英サンデー・ミラー紙が掲載した論評だ。イギリスの一部に残る、複雑な感情がうかがえる。
イギリスに続き、10月8~10日に非公式に訪問したオランダの抗議活動は、より深刻だった」
《お召自動車がハーグ市内に入った(8日午後)四時三十分頃、車体に液体入りの魔法瓶が投げつけられるという事件が起きる。魔法瓶はフロントガラスに当たるが、防弾ガラス付きのものであったため外側に亀裂を生じたにとどまり負傷者はなかった》
《翌九日午前一時頃、(日本大使公邸に)レンガが投げ込まれるという事件も起きる。(中略)
このほかにも、沿道の諸所にて御訪問に反対してプラカードを掲げる者、黒旗を振る者、拳を振り上げる者、叫び声を発する者なども見られ、以後同国御滞在中、こうした御訪問反対運動が各所で起きる》
欧州には当時、昭和天皇をヒトラーやムッソリーニと同列に論じるような、誤ったイメージが残っていた。とくにオランダは、戦争の影響でインドネシアの植民地を失ったこともあり、反日感情が強い。だが、昭和天皇は逃げなかった。一部で反対運動が起こることはもとより覚悟の上だ。お召自動車に魔法瓶が投げつけられた日、昭和天皇は随員らに言った。
「この度の事件は大したことではないが、大きくを扱われて両国関係に悪い影響を与えることはないよう同行記者団によく話しておくように」
批判を一身にうけつつ、なおも友好親善に努めようとする昭和天皇の心情を、温かく迎い入れてくれたのは各国の王室である。昭和天皇は、こう詠んでいる。
戦に いたでをうけし 諸人の
うらむをおもひ 深くつつしむ
時しもあれ 王室の方の 示されし
あつきなさけを うれしとぞ思ふ
海を越えた皇室と王室の友情―。それが各国民の感情的なしこりを解きほぐし、冷静な議論に結びついたことも事実だ。
冒頭の英サンデー・ミラー紙が論評する。
「…残虐行為の規模からいえば、日本軍の残酷さとヒロシマの原爆の残虐さとは、どう釣り合うのか。すでに(終戦から)二六年を経た現在、対立感情は一掃されるべきであろう」
平和と友好を求める外遊の、最後の訪問国は西ドイツ
先の大戦でともに敗れ、戦後は驚異的な経済復興を遂げた、いわば似た者同士である。
ただ、政治面の復興は、西ドイツの方が一歩も二歩も先んじていたようだ。時代の変化に即し、1949年制定のドイツ連邦共和国基本法(事実上の憲法)を何度も改正しているほか、1955年には再軍備に着手し、陸海空の連邦軍を創設した。
1971(昭和46)年10月11日スイス・ジュネーブから西ドイツ・ボンに向かう昭和天皇の特別機を、国境付近の上空で最初に出迎えたのも五機の空軍機だった。ボン空港で昭和天皇は《灰色のヘルメットと制服を着用した陸軍、白色の制服を着用した海軍、カーキ色の制服を着用した空軍の儀仗隊より捧げ銃の礼を受けられ、閲兵される》
もっとも、歓迎の主役は一般市民の笑顔だ。昭和天皇の行く先々で黒山の人だかりとなり、日の丸の小旗が打ち振られた。初日に訪問したボン市庁舎で、昭和天皇は市長らに《ボン市の戦災復興状況を目の当たりにして、ドイツ国民の勤勉と努力に対する敬意を新たにしたことを述べられる》
抗議活動の激しかったオランダとは異なり、西ドイツの歓迎は、心がこもっていたといえよう。滞在2日目の様子を、昭和天皇実録が書く。
《自動車にてライン河畔のビンゲン船着場に向かわれる。付近では二千名近い市民がむかえ、乗船場の傍らでは、民族衣装をまとったビンゲン・バレエ学校の少女たちによるブドウの収穫を祝う舞踊も行われる。河岸乗船場ライン河下りの観光船「ローレライ号」に御乗船になる。(中略)上甲板に立たれ、川岸にて歓迎する多数の人々には、手を振ってお応えになり、両岸の山々や数々の古城を眺められる。(中略)ローレライの岩に差し掛かると、岩の上に日章旗が立てられているのを御覧になる》
昭和天皇は詠んだ。
戦ひて 共にいたつきし 人々は
あつくもわれらを むかへくれける
西ドイツでの公式行事を終え、昭和天皇と香淳皇后が帰国したのは10月14日の夕方である。
皇室史上初となる天皇の外遊で、海外メディアはこぞって日本の紹介記事を書いた。一部では反対運動もあったが、それを上回る友好親善の実を挙げ、またひとつ、戦後の壁を取り除いたことは疑いない。
「お帰りなさい」と「バンザイ」の歓声が響く羽田空港で、帽子を高く上げてグルグル回す昭和天皇には、「すべてつくされたあとの満足さがうかがえた」と、当時の新聞が報じている。
皇室史上初の天皇外遊から7ヶ月後、昭和47年5月15日、前後の壁が、また一つ取り除かれた。昭和天皇が国民とともに待ち望んだ日―。沖縄の祖国復帰である。
この日、昭和天皇は《沖縄復帰記念式典に御臨席のため、午前十時二十五分皇后と共に御出門、日本武道館に行幸される。御到着後、式場に御臨場になり、君が代の代斉唱、式典委員長佐藤栄作の式辞、沖縄の戦没者及び祖国復帰までに死没した沖縄住民の冥福を祈る一分間の黙とう後、次の言葉を賜う》
《――本日、多年の願望であつた沖縄の復帰が実現したことは、まことに喜びにたえません。(中略)この機会に、さきの戦争中および戦後を通じ、沖縄県民のうけた大きな犠牲をいたみ、長い間の苦労を心からねぎらうとともに、今後全国民がさらに協力して、平和で豊かな沖縄県の建設と発展のために力を尽くすよう切に希望します――》
先の大戦で、沖縄の奮闘が米軍に衝撃を与え、無条件降伏要求の壁を突き崩すことはすでに書いた。だが、海軍沖縄根拠地隊司令官の太田実が自決前に発した、県民の献身的協力を激賞した電報、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の願いは、長く叶えられなかった。
アメリカの統治下に置かれた沖縄の戦後は悲惨だ。琉球警察の初代警察署長、仲村謙信が書く。
「深刻だったのは米兵犯罪の方だった。それも沖縄の婦女子をねらった強姦事件が各地で日常茶飯事のように頻発した。民警察部が調査した報告書がいま私の手許にあるが、それによると一九四六年だけで四三九件、一九四九年までに一〇〇〇件を超えている。これとて泣き寝入りしたものを含めると氷山の一角にすぎないだろう」
サンフランシスコ講和条約の調印後も、昭和30年に6歳の少女が拉致され、強姦後に惨殺される事件が発生。34年には米軍ジェット機が沖縄県民石川市(現うるま市)の小学校に墜落し、児童11人を含む17人が死亡するなど、悲惨な事故事件が治まらなかった。県民は激昂し、35年に祖国復帰協議会(復帰協)を結成。全県的な復帰運動を展開していく。
その沖縄の返還が日本政府の重要な政策課題となるのは、佐藤栄作内閣が発足した39年11月以降である。
翌年8月、戦後の現職首相として初めて沖縄の土を踏んだ佐藤は、那覇空港で言った。
「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後が終わっていない。
このステートメントが、多くの県民を勇気づけたことは疑いない。昭和天皇もまた、同じ思いだった‥‥。
昭和天皇と沖縄返還について考えるとき、歪曲(わいきょく)して伝えられる問題がある。終戦から2年後の昭和22年9月、宮内庁御用掛の寺崎英成がGHQ外交局のシーボルに伝えたとされる、いわゆる沖縄メッセージの存在だ。
昭和天皇実録はこう書く。
《(シーボルト文書には)天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することになるとのお考えである旨、さらに、米国による沖縄等の軍事占拠は、日本に主権を残しつつ、長期貸与の形を取るべきであると感じておられる旨(中略)などが記される》
後年、この文書の存在が明らかになると、一部で「沖縄を犠牲にした」などと批判の声が上がるが、悪意を含んだ曲解といえよう。
終戦後しばらく、沖縄は、永久に日本から離される可能性が高かった。東西冷戦をにらんで軍事基地を手放せないアメリカが、沖縄の排他的支配をもくろんでいたからだ。外務省が日本の主権を認めさせようと交渉したものの、一向に成果はあがらない。
憂慮した昭和天皇は、主権放棄という最悪の事態を避けるため、「長期貸与の形」で軍事占領の継続を認める、苦渋の提案をしたと見られている。
この提案は、アメリカの政策決定に少なからぬ影響を与えたようだ。1951年(昭和26)年のサンフランシスコ講和会議で、沖縄はアメリカの信託統治領となったものの、日本の「残存主権」が認められることとなった。
それからおよそ15年―。いよいよ本格化した返還交渉に、昭和天皇が多大な期待を寄せたことは、首相の佐藤栄作が残した日記からもうかがえる。
昭和42年11月、佐藤は訪米し、米大統領のジョンソンと会談。「沖縄の施政権を日本に返還するとの方針の下に(中略)沖縄の地位について共同かつ継続的な検討を行うことに合意したとする共同声明を発表した。大きな前進である。佐藤は日記に、「陛下への報告が出来る事を喜ぶ」と書き込んだ。
帰国した佐藤は翌日午前の閣議後、直ちに昭和天皇に報告した。日記によれば、「陛下御感一入(ひとしお)、次々に御質ねあり、(中略)御酒、皇后様から御菓子を下賜さる。感激の至り…」
昭和天皇の喜びが、伝わってくるようである。
46年6月、日米両国は沖縄返還協定に調印し、翌年5月に本土復帰が実現する。
その記念式典で、「天皇陛下万歳」を三唱する佐藤の目は、涙で光っていた。
沖縄の本土復帰から3年後、昭和50年の春ごろ、昭和天皇は、宮内長官の宇佐美毅に言った。
「アメリカに行く前に、沖縄に行けないか」-
同年の秋も昭和天皇と香淳皇后は初めてアメリカを公式訪問し、大歓迎を受けて日米親善の務めを果たした。しかし昭和天皇は、訪米に勝るとも劣らぬほど、沖縄熱い思いを寄せていたのだ。昭和天皇の意思を宇佐美から伝え聞いた沖縄知事の屋良朝苗(ちょうびょう)は、日記に「陛下の御気持ちもうかがって胸が痛む」と綴っている。
当時の沖縄は、昭和天皇が訪問できる状況ではなかった。首相の佐藤栄作が「核抜き・本土並み」の返還を実現したものの、米軍基地が残されたため左派が反発。本土の極左活動家らも紛れ込み、警備上のリスクが高かったからである。
沖縄の復帰運動は本来、イデオロギー色のないものだった。最初に動いたのは教職員だ。本土で使われている教科書を購入し、子供たちに日本人としてのアイデンティティを持たせようとした。沖縄教職員会が昭和35年に作成した歌集には、こんな歌詞も載っている。
♪この空は祖国に続く この海は祖国に続く 母なる祖国わが日本 きけ一億のはらからよ この血の中に日本の歴史が流れてる 日本の心が生きている
♪この山も祖国と同じ この川も祖国と同じ 母なる祖国わが日本 きけ一億のはらからよ この血の中で日本若さがほとばしる 日本の未来がこだまする
♪この道は祖国に通ず この歌も祖国にひびく 母なる祖国わが日本 きけ一億のはらからよ この血の中は日本の命゛もえている 復帰の悲願でもえている
だが、
安保闘争などにより、復帰運動は変質していく。本土から活動家らが流入し、イデオロギー闘争の色彩が強くなっていくのだ。彼等は県民をオルグし
、復帰運動を反米、反日運動へと歪めていった
祖国愛教育に熱心だった沖縄教職員組合(沖教組)となり、やがて日教組に加盟する。祖国復帰を喜ぶ多くの県民の思いとは裏腹に、一部の反日感情だけが正論のように報道され、それは現在に至っている。
昭和天皇の希望がかなえられない中で、強い決意で代役を買って出られたのは、皇太子(現上皇陛下)と皇太子妃さまだった。
50年7月、復帰記念事業の沖縄国際海洋博覧会が開幕し、皇太子は名誉総裁にご就任。「たとい石を投げられてもいい、私は行きます」と、皇太子妃とともに沖縄訪問されたのだが…。
怖れていた事件が起きたのは、沖縄県民が「聖域」とする場所だった。
昭和50年7月17日、沖縄国際海洋博覧会の名誉総裁に就任した皇太子が皇太子妃(美智子さま)とともに那覇空港に到着された。真っ先に向かわれたのは、沖縄戦でひめゆり学徒隊が戦死した地下壕の上に建てられた、ひめゆりの塔―。皇太子夫妻は塔前に花を添え、深い祈りを捧げられた。
終わって関係者から説明を聞かれた時、午後1時23分、地下壕に潜んでいた2人の
過激派が火炎瓶を投げつけ、献花台を直撃した。
目前で燃え上がる炎、周囲に飛び交う悲鳴―。突然の事態に沖縄県警の警備員も混乱する中、皇宮警察の私服護衛官17人が猛ダッシュして皇太子夫妻を庇い、安全に場所に避難させる。皇太子夫妻にはけがはなく、犯人もその場で取り押さえられた。
警視庁警備局警備課長、佐々淳行は驚愕(きょうがく)した。2日前から沖縄入りして警備に万全を尽くしていたが、その穴を突かれたのだ。佐々は当初から地下壕を不安に思っていた。事前に調べようとしても、「県民の聖域を踏み荒らすのか」と猛反対され、安全確認ができなかったからである。
首相の三木武夫も、知事の屋良朝苗(ちょうびょう)も、誰もが色を失った。沖縄の祖国復帰後、左翼の反政府闘争が激化し、本土と沖縄の関係はぎくしゃくしていた。皇太子夫妻の沖縄ご訪問により、双方の感情のもつれを解きほぐすことが期待されたのに、かえって亀裂が深まる事態となってしまったのである。
このとき、混乱をしずめ、災いを福に転じさせられたのは、皇太子と美智子妃だ。表情をこわばらせたのは一瞬だけで、自身より周囲の関係者に気遣い、以後は何もなかったかのように、スケジュール通りの公務を笑顔で果たされた。少しも動じられない様子を、佐々は「昭和天皇のDNAたる『帝王学』の発露をみる思い」だったと書いている。
その日の夜、皇太子は異例の談話を発表された。
「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い。沖縄戦における県民の傷痕を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、ともども力を合わせてて努力していきたいと思います…」
一言も事件に触れず、一心に県民の立場を考えられる、征夷触れる談話。翌日から沿道で打ち振られる日の丸が一段と増えたのは、言うまでもないだろう。
70年安保闘争の前後から頻発していた過激派のテロ事件は、この事件を境に沈静化していく。暴力によって皇室と国民の絆にくさびを打ち込むことは、微塵も出来なかったのだ。
つづく
終章 永遠の昭和