ポツダム宣言が、日本国ではなく日本軍に無条件降伏を求めたことはすでに書いた。重光が調印した降伏文書も、事前に日本側から8項目の申し出を行い、連合国が受け入れる形で成立した国際合意だ。トルーマンの「無条件降伏」は、国際法を逸脱した卑劣な拡大解釈といえる。

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第12章 占領下の戦い

本表紙ふりさけてみれば 川瀬弘至 平成28年版産経新聞引用

マッカーサーの来日から3日後

マッカーサー元帥
昭和20年9月2日、東京湾に停泊する米戦艦ミズーリで降伏文書の調印式が行われた。政府全権として出席した外相の重光葵(まもる)は、降伏文書に署名する直前の心境を、こう詠んでいる。
 願はくば、御国の末の 栄え行き
 我名をさげすむ 人の多きを
 その重光は翌日、悲憤慷慨(ひふんこうがい)の色を隠さず、マッカーサーに至急の面会を求めた。連合最高司令官総司令部(GHQ)が日本で軍政を行うとする、布告案を内示したからだ。
 重光は断然抗議する。
「終戦は国民の意思を汲んで、天皇直接の決裁に出たもので、ポツダム宣言の内容を最も誠実に履行することが天皇の決意であって。その決意を直接実現するために、特に皇族内閣を樹立し総ての準備をなさしめた」「占領軍が軍政を敷き、直接に行政実行の責任を取ることはポツダム宣言以上のことを要求するもので、(中略)ここに混乱の端緒を見ることとなるやも知れぬ。その結果に対する責任は、日本側の負うところではない」

ほとんど脅しである。だが、はったりではない

 マッカーサーはたじろいだ。布告案をあっさり撤回し、以後、GHQが直接「命令」するのではなく、日本政府に「指令」する形をとるようになる。直接軍政よりも間接統治のほうが、効率的だと判断したからだろう。
 一方、アメリカ本国では、より強圧的な統治を企図していたようだ。9月6日、米大統領のトルーマンはマッカーサーに通達した。
 
「われわれと日本との関係は、契約的基礎のうえにいるのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受付けない…」

 ポツダム宣言が、日本国ではなく日本軍に無条件降伏を求めたことはすでに書いた。重光が調印した降伏文書も、事前に日本側から8項目の申し出を行い、連合国が受け入れる形で成立した国際合意だ。トルーマンの「無条件降伏」は、国際法を逸脱した卑劣な拡大解釈といえる。

 とはいえ、武装解除の進んだ当時の日本に、ポツダム宣言を反故(ほご)にする選択肢はない。政府は、連合国が求める日本の非軍事化政策を先手先手で進めていくことで、何とか自主性を保とうする。
 その際、昭和天皇が最も憂慮したのは、「戦争責任者」を連合国に引き渡すことだった。
 昭和20年8月29日《(昭和天皇は)内大臣の木戸幸一をお召しになり、一時間十分にわたり謁(えつ)を賜(たま)う。その際、自らの退位により、戦争責任者の聯合国への引渡しを取り止めることができるや否やにつき御下問になる》
 昭和天皇は当時、開戦を止められず、敗戦に至ったことに天皇としての「不徳」を感じていた。右の”身代わり”発言は、本心から出たものだろう。だが、いわゆる「戦争責任」に明確な規定はない。勝者が敗者を一方的に裁く。それが「戦争責任」だ。

 木戸は昭和天皇に《聯合国の現在の心構えより察するに、御退位されても戦争責任者の引渡しを取り止めを承知しないであろうし、(中略)御退位を仰せ出させることにより、あるいは皇室の基礎に動揺を来した如く考え、その結果、共和制を始めとする民主的国家組織等の議論を喚起する恐れもあり、十分慎重に相手方の出方も見て御考究の要あるべき旨を奉答する》

 第1次戦犯指名として、GHQが開戦時の首相、東条英機とその閣僚らに逮捕令を発したのは9月11日である。戦争の全責任を一身に引き受ける覚悟でいた東条だが、「戦争犯罪者」扱いは納得せず、逮捕の直前、自らの胸を拳銃で撃ち抜いた。しかし、わずかに心臓を外れ、東条を”殉職者”にしたくない米軍医師団によって命を取り留めてしまう。

 一方、開戦時の参謀総長、杉山元は自決を遂げた。妻の啓子に「いつ死んだんですか」と促され、9月12日、第1総軍の司令官室で胸に拳銃を4発発射。連絡を受けた啓子も、「間違いなく死んだのでしょうね」と念を押して後、短刀で心臓を貫き、夫の後を追った。

 戦犯指名の疑心と恐怖―。混乱を恐れた政府は、自主的に裁判したいとGHQに申し入れる方針を決めたが、昭和天皇は苦悶(くもん)し、首相の東久邇宮稔彦(なるひこ)王に《いわゆる戦争責任者を天皇の名によって処断することは忍び難きため、再考の余地なきやと御下問》になったと、昭和天皇実録が書く。

 だが、当時は天皇自身、訴追される可能性が高かったのだ。戦争末期に実施された米国内の世論調査によると、天皇の処刑を求める声が33%、終身刑や流刑が37%に上った。9月18日には米上院本会議で、天皇訴追の決議案が上院議長に受理されている。

 日本は、国体維持を唯一の留保条件としてポツダム宣言を受諾した。

にもかかわらず、戦犯指名が皇室にまで拡大しそうな気配に、政府は激しく動揺した。この危機を打開するため、昭和天皇はマッカーサーとの”対決”を決意する。

 昭和20年9月27日午前9時50分、東京・赤坂の米国大使館に、4台の車が到着した。中から、宮内大臣や侍従長らとともに降りてきたのは、モーニングコート姿の昭和天皇である。

 GHQの高官2人が直立不動で出迎え、昭和天皇を館内に案内する。応接室の前で待っていたのは聯合国最高司令官、マッカーサーだ。

2人は握手をかわし、応接室に入った。宮内大臣や侍従長らは次室で待たされ、通訳の奥村勝造だけが同席した。マッカーサーの回想によれば、昭和天皇は緊張しており、その様子から”命乞い”に来たのではないかと思ったという。
 だが、昭和天皇が口にしたのは、まるで正反対のことだった。

「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任がない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

 マッカーサーは驚いた。その時の心境を、のちにこう書いている。
「私は大きい感動にゆすぶられた。死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事情に照らし合わせて、明らかに天皇に帰すべきでない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私は骨のズイまでも揺り動かした」

 通訳の奥村が残した記録には、「責任」発言は書かれていない。奥村は、どのような形であれ天皇が責任を認めた文書を残すと訴追理由にされる恐れがあるため、あえて削除したのだろう。

 日本政府は当時、皇室の存廃にかかわる天皇の訴追を阻止しようと懸命だった。一方で昭和天皇は、未曾有の国難は自らの「不徳」のせいだと、自責の念にかられていた。皇室の存続に努めつつ、マッカーサーには真情を吐露することで、まずは国民の窮状を救おうとしたのではないか。

 奥村の記録によると、マッカーサーは会見で終戦の聖断をたたえ、「陛下の御決意は国士と人民をして測り知れさる痛苦を免れしめられた」と話した。昭和天皇は、「私も日本国民も敗戦の事実を充分認識して居ることは申す迄もありません」とし、ポツダム宣言履行の意思を改めて示した。

 別れ際、マッカーサーは言った。
「今後何か御意見なり御気付の点も御御座いましたならば、何時でも御遠慮無く御申聞け願ひ度く存じます」
 連合国最高司令官、ダグラス・マッカーサーと日本との関わりは深くて長い。父のアーサーは日露戦争時の駐日アメリカ大使館付武官で、マッカーサーも一時、父の副官として東京で勤務し、東郷平八郎や乃木希典らにも面談、感銘を受けたとされる。

 帝国軍人の忠誠心を知るマッカーサーは、天皇を訴追するつもりは最初からなかったようだ。天皇を裁けば「日本中に軍政を敷かねばならなくなり、ゲリラ戦が始まることは間違いないと私は見ていた」と、のちに書き残している。

 昭和20年9月27日に昭和天皇と会見したマッカーサーは、天皇を「個人の資格においても日本の最上の紳士」とみて、訴追反対の意志を強くした。むしろ天皇の影響力を保つことで、占領統治を成功させようとしたのである。
 だが、GHQ内の誰もが、マッカーサーと同じ考えだったわけではない。

 会見の2日後、新聞各紙に掲載された1枚の写真に、日本中が騒然とする。モーニングコート姿で真っ直ぐに立つ昭和天皇の横に、ノーネクタイのマッカーサーが、両手を腰に当てて映っていたからだ。内務省は新聞を発禁にしたが、GHQの指令で再発行された。その背景に、天皇の権威を弱めようとする意図がうかがえよう。

 しかし、多くの国民が受けた印象は、歌人の斎藤茂吉が日記に殴り書きしたように、「ウヌ! マッカーサーノ野郎」だったのではないか。
 GHQは10月4日、1、治安維持法などの廃止2、政治犯などの即時釈放3、特別警察などの解体4、内相や警視総監らの罷免(ひめん)―を指令した。いわゆる「自由の指令」である。政治犯の釈放や言論の自由などは、東久邇宮稔彦王内閣でも発足当初から掲げていた。その努力が否定される格好となり稔彦王は翌日、昭和天皇に全閣僚の辞表を提出した。

 後継首班を誰にするか―。内大臣の木戸幸一らが第一候補に挙げたのは、昭和初期に対英米協調外交を推進した、オールドリベラストの幣原喜重郎である。幣原は高齢などを理由に辞退したが、その様子を木戸から聞いた昭和天皇は6日、《男爵幣原喜重郎をお召しになる。特に椅子を許され、組閣を命じられる。一旦拝辞の幣原に対し、ともかくも努力するように重ねて御下命になる。幣原より全力を挙げて努力する旨の奉答を受けられる》

 次々と降りかかる難題―

何とか自主性を維持し、混乱を回避しようと、昭和天皇は必死だった。そんな昭和天皇に、心の支えが現れる。
 皇太子(現上皇陛下)が疎開先から帰京されたのだ。

「国家は多事であるが、私は大丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ」

 終戦まもない昭和20年9月9日、栃木県の奥日光に疎開されていた皇太子(上皇陛下)のもとに届いた、昭和天皇の手紙である。
「敗因について一言いはしてくれ 我が国に人が あまり皇国を信じすぎて 英米を侮ったことである 我が軍人は 精神に重きを置きすぎて 科学を忘れことである (中略)戦争をつヾければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなったので 涙をのんで 国民の種を残すべくつとめたのである」

 皇太子が東京に戻られたのは、その2ヶ月後だ。
 11月8日《皇太子・正仁親王(常陸宮)参殿になり、御昼餐を御会食になる》
 その夜、皇太子と正仁親王が入浴されていると、香淳皇后が湯加減をみにきて、昭和天皇も「やあ、どうかね」と声を掛けたという。翌朝も、昭和天皇は香淳皇后とともに、皇居内に泊られた皇太子と正仁親王の寝顔をそっと見に行った。

 9日《生物学御研究所脇の畑に立ち寄られ、皇后・皇太子・正仁親王による芋掘りを御覧になる》
 10日《皇后・皇太子・正仁親王と共に表奥両側近職員全員を御相手にトランプに興じられる》
11日、皇太子と正仁親王は皇居を離れ、赤坂離宮で生活されるようになる。以降、参内は2週間に1回、日曜日の午前10時~午後3時というのが、東宮職側の方針だった。その理由が「(皇居で)女官達にちやほやおされになるのを防がん為」と聞いた昭和天皇は、「女官がちやほやする様なことは絶対になき」と抗議した。少しでも多く、皇太子と正仁親王と過ごす時間を得たかったのだろう。

 一方、10月9日に発足した幣原喜重郎内閣の前途は多難だ。
 GHQは11日、1、婦人解放2、労働組合の結成奨励3、教育の自由化4、秘密警察などの廃止5、経済の民主化―の「五大改革」を指令する。幣原は、それくらいなら大日本帝国憲法のままでも実現できると考えたが、GHQの狙いは憲法を作り変え、日本の伝統的秩序を一変させることだった。

 幣原内閣と異なり、重臣らの一部は憲法の改変が不可避とみていたようだ。先手を打って、ある人物が走り出した。皇居の真向かいに建つ堅牢(けんろう)なビル、旧第一生命館は占領期を生きた世代には忘れられない存在だろう。GHQが接収し、本部として使用したからだ。

 昭和20年10月4日、ここに、1人の男が訪ねてきた。戦前から3度の内閣を組織した。近衛文麿である。
 近衛はマッカーサーと面会し、戦争に至った”真相”を懸命に説明した。
『…軍閥を利用して日本を戦争に駆立てたのは、財閥や封建規勢力ではなくて、実に左翼分子であつたことを知らねばならない…』『…今日の破局は、軍閥としては確かに大きな失望であるが、左翼勢力としては正に思う壺である…』

 マッカーサーは根っこから反共主義者だ

近衛の話に興味を示し、こう言った。
「敢然として指導の陣頭に立たれよ。もし(近衛)公がその周囲に自由主義分子を糾合して、憲法改正に関する提案を天下に公表せらるヽならば、議会もこれに蹤(あと=したがう)いて来ることと思う」
 近衛がGHQを訪ねたのは、昭和天皇の訴追を回避するためである。同時に、近衛自身が戦犯として逮捕されるのを避ける狙いもあったようだ。近衛は、マッカーサーの発言を自身への”信頼”と受け止め、マッカーサーの”期待”に応えようと、改憲に向けて走り出した。

 近衛が頼りにしたのは、宮中である。翌日の政変で東久邇宮稔彦王内閣が退陣し、改憲に否定的な幣原喜重郎が発足したからだ。近衛は内大臣の木戸幸一に、「逡巡(しゅんじゅん)すればGHQから改正案を押し付けられ、欽定憲法の土台が崩壊する」と訴えた。

 10月11日《(昭和天皇は)内大臣の木戸幸一に謁を賜い、公爵近衛文麿に対する憲法改正調査の御下命につき言上を受けられる。引き続き、公爵近衛文麿に謁を賜い、ポツダム宣言の受諾に伴う大日本帝国憲法改正の要否、及び仮に改正の要ありとすればその範囲等につき、調査を御下命になる》

ここまでは、近衛の思惑通りといえる。だが、ここから近衛は、明らかに走り過ぎた。
 10月23日、新聞各紙に掲載された近衛の談話が、政府と宮中に衝撃を与えた。
「天皇の大権縮小 近衛公示唆」(毎日新聞)「天皇退位の条項 挿入もあり得る」(読売報知)‥‥
 この時期、天皇の退位を公然と口にすることは、皇室制度の土台を揺るがしかねない。そもそも憲法問題は内閣が扱うべき国務事項だとして、近衛に対する批判が猛然と巻き起こった。
 やがて、マッカーサーも近衛を見放す。近衛に待っていたのは、究極の破滅だった。
 日米開戦から丸4年、昭和20年12月7日の新聞各紙に、衝撃的な見出しが躍った。
「近衛公、木戸候 九氏に逮捕命令下る」「陛下股肱(ここう)の重臣」「戦争犯罪者に追加」…
 近衛文麿はこの記事を、軽井沢(長野県)の別荘で読んだ。すでに覚悟していたのか、慌てることもなかったという。
 戦犯指名の1週間ほど前、近衛は旧知の伊沢多喜男(枢秘顧問官)から「死んではならぬ」と諭され、「絶対に大丈夫だ。お上の前に立ちはだかってお護りする」と答えていた。しかし、指名後に変心し、出頭期限12月16日未明、青酸カリで服毒自殺する。華族筆頭としての矜持(きょうじ)が、戦犯として法廷に立つことを許さなかったのだ。
 近衛は遺書に書く。
「勝てる者の行き過ぎた増長と、敗れた者の過度の卑屈と、故意の中傷と誤解に基づく流言飛語と、是等一切の世論なるものも、いつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。其時初めて、神の法廷に於て正義の判決が下されよう」

 近衛が改憲に取り組んで以来、近衛に対する内外の批判が強まっていた。「故意の中傷と誤解に基づく流言飛語」もあっただろう。ただ、近衛自身が「敗れた者の過度の卑屈」に陥っていたともいえなくない。マッカーサーに唆(そそのか)された近衛の先走りにより、改憲に否定的だった幣原喜重郎内閣までも調査委員会を設置するなど、朝野を挙げて改憲論が吹き荒れることになった。今日まで続く憲法問題を考えるとき、近衛の罪は軽くないといえる。

 近衛は昭和天皇との、敗戦後も苦楽を共にするという約束も果たさなかった。訃報に接した昭和天皇は、「近衛は弱いね」とつぶやいたという。
 近衛の自殺に加え、内大臣の木戸幸一が戦犯に指名されたことも、昭和天皇には大きなショックだった。

 12月10日、昭和天皇は収監前の木戸を招いて夕食会を開き、香淳皇后も手製のドーナツをふるまった。木戸は当初、戦犯となった自分を招けば誤解を与えかねないとし、夕食会を遠慮したいと侍従長に伝えたが、昭和天皇は侍従長に《米国より見れば戦争犯罪人ならん、我が国にとっては功労者であり、万一木戸が遠慮する如きことがあれば、料理を届遣わすようお命じになる》。

 昭和天皇が夕食会を開いたのは、木戸を慰めるともに、戦勝国への無言の抵抗でもあったのだろう。国体を守る戦いは続く。閣僚、政府高官、宮中側近だけでなく、国民もまた、戦っていた。
「閣下、御きげんは如何でいらっしゃいますか。私共は、最高司令官でおいでになる閣下に対して、一番お親しみを感じ、それと共に閣下のあたたかいお心をおたより致します…」
 マッカーサーのもとに届いた、東京在住の女性からの手紙だ。
「敗戦国の民として私共はどのような惨苦も甘受するものでございます。(中略)どんな苦悩もグチ一つ云わずに忍ぶだけの心ももって居りますが、日本人の唯一つ忍び難いものは、天皇に関する御不幸でも私共は忍ぶことが出来ません…」

 手紙には、昭和天皇に戦争責任はないこと、側近らが天皇を窮地に陥れたこと、にもかかわらず天皇に責任を転嫁する卑怯者が一部にいて恥ずかしく思っていること―などがつづられ、最後にはこう結ぶ。
「閣下にお願ひいたします。どうぞ日本天皇を御理解下さいまし」
 GHQには当時、こうした手紙や直訴状が膨大に送られていた。それがGHQをして、天皇訴追を断念させる一因になったといえなくもない。ただしGHQは、国民が示す天皇への敬愛を好ましいとも、いじらしいとも感じていなかった。むしろ、恐れていたのである。

 先の大戦の終盤、日本兵の驚異的な奮戦に苦しめられたアメリカは

日本の力の源泉が天皇への忠節にあるとみて、天皇観や国家観の解体に着手する。最初にターゲットにされたのは、教育と神道だ。

 昭和20年10~12月、GHQは教育内容の抜本改革を指令。「修身」「歴史」「地理」の教科を停止し、軍国主義的とみなされた教職員らを追放した。児童に筆と墨を持たせ、教科書を黒塗りにさせる蛮行も翌年から本格化する。
 
 20年10~15日には神道指令を初出。国家神道と神道教育が廃止され、「大東亜戦争」「八紘一宇」などの用語も使用禁止にした。
 同月8日、新聞各紙はGHQ提供の「太平洋戦争史」を一斉に連載。ラジオでは「真相はこうだ」がスタートした。戦地で日本軍が行った”悪逆非道”をことさら強調する内容で、国民全体に贖罪意識を植え付ける狙いだった。

 GHQ民間情報教育局による仕組まれた宣伝工作、「ウォー・ギルト。インフォメーション・プログラム」である。
 その上でGHQは、天皇と国民との間にくさびを打ち込もうとする。いわゆる「人間宣言」により。天皇の神格化を巧妙に除去していくのだ。

 昭和21年1月1日、年明けの新聞各紙に、昭和天皇の詔書が掲載された。
―玆(ここ)ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシ五箇条ノ御誓文ヲ行ヘリ。曰ク、
一、 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、 上下ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、 旧来ノ陋習(ろうしゅう)を破リ天地ノ行動二基クヘシ
一、 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ玆誓ヲ新ニシテ国連ヲ開カント欲ス――

 以下、詔書で昭和天皇は、戦後の食糧不足や失業者の増大に心を痛め、敗戦の失意、道義の衰退、思想の混乱を憂えているとし、こうつなげる。

――然レドモ朕ハ爾(なんじ)等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(せき)ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝統トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越ラル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空観念ニ基クモノニモ非ズ―
 のちに「人間宣言」の造語で知られる、「新日本建設に関する詔書」である。昭和天皇実録によれば、詔書は《五箇条の御誓文を国民に示すことが第一の目的であったとされ、民主主義の精神は明治天皇の採用されたところであって、決して輸入のものではないことを示し、国民に誇りを忘れさせないように》するためであったと、昭和天皇の回想をふまえて明記している。

 当時の国民もそう受け止めた。だが、海外では大きな反響を巻き起こす。後段にある「現御神~非ズ」の一文により、「天皇の地位から神から人間へと歴史的変容を遂げた」とされたからだ。

 後段の原案作成を主導したのは、GHQである。天皇の神格性を天皇に自ら否定させる―というのが、その狙いだった。一方、昭和天皇も負けてはいない。英文の原案になかった五箇条の御誓文の挿入を求め、それを前面に押し出すことに成功している。詔書に「人間」の文字はどこにもない。

 それでも、GHQにとっては、神格化の否定と解釈できる一文さえあれば十分だった。
 以後、海外の反応はGHQと左派勢力によって日本に逆輸入され、「人間宣言」の造語とともに、昭和天皇の意図を歪めた形で定着していく。
 巧妙かつ非情な占領政策―。GHQはいよいよ本丸、大日本帝国憲法の”解体”に着手する。

 1907(明治40)年に改訂された、日本もアメリカも調印したハーグ陸戦協定には

「占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重」すると明記されている。しかしアメリカは、国際法とは他国に守らせるものであって、自国が守るものとは考えていなかった。

 会見に走り出した近衛文麿に刺激され、幣原喜重郎内閣が憲法問題調査委員会を設置したことはすでに書いた。委員会は国務省の松本丞治、委員は東京帝大教授の宮沢俊義ら7人、顧問に憲法学大家の美濃部達吉を起用した、当代一流の布陣である。

 昭和21年1月7日、松本は憲法改正私案を作成し、昭和天皇に上奏した。1、天皇が統治権を総攬(そうらん)する大原則は変更しない2、議会の決議事項を拡充して従来の大権事項は縮小する3、国務大臣は議会に責任をもつ4、臣民の自由・権利の保護を強化する―という、4原則にそった内容だ。

 一方、米政府の濃く・陸軍・海軍調整委員会(SWNCC)は1月11日、マッカーサーに憲法改正の基本方針を伝える。その内容は、天皇を廃止しない場合でも1、軍事に関する天皇の権能は失われる2、天皇は内閣の助言に基づいてのみ行動しなければならない―というものだった。

 この時点で、日米双方ともお互いの手の内を知らない、しかし2月1日、極秘扱いの松本案を毎日新聞がスクープしたことで、事態は急変した。松本案を「旧態依然たるもの、あるいは改悪とさえ思われる」とみたマッカーサーが、GHQ民政局長のホイットニーに憲法草案の作成を命じたのだ。

 2月4日の月曜日、ホイットニーは民政局の職員を集めて訓示した。
「紳士ならび淑女諸君、これはまさに歴史的な機会である。私は今諸君に憲法改正制定会議の開会を宣する」

 職員の間にどよめきが走った。憲法の専門家でもなく、日本への理解の浅い軍人や通訳らに、日本の根本法案の作成が託されたのだ。期限は2月12日とされ、彼らには憲法学の基礎すら学ぶ余裕はなかった。

 以後、20人余りのメンバーが分担し、急ピッチで作業を進めていく。ソ連を含む他国の憲法や民間団体の私案のうち、気に入った条文を写し取り、つなぎ合わせていくという。およそ法案づくりにはふさわしくない手法だった。

 彼らが任務を遂行し、いわゆる「マッカーサー草案」を書き上げたのは、ほぼ1週間後である。それは、もはや「憲法改正」とは呼べないような、とてつもない内容だった。

 昭和21年2月13日、東京・麻布の外相官邸ら、GHQから4人の使者が訪れた。マッカーサーの側近、民政局長のホイットニーらである。
 不安げな微笑みで出迎えた外相の吉田茂と国務省の松本丞治に、ホイットニーは言った。
「日本の憲法改正案は、総司令部としては受け入れられない。総司令部がモデル案を作ったので、この案に基づいて日本案を至急起草して貰いたい」

 ホイットニーは、英文タイプのプリントを数冊渡すと、こう付け加えた。
「マッカーサー元帥は、かねてから天皇の地位について深い考慮をめぐらしているが、この案に基づく憲法改正が必要であり、そうでないと天皇の一身の保障をすることはできない」

 吉田と松本は仰天した。それより前、日本側は自主的に作成した憲法改正要領(松本案)をGHQに提出していたが、それを全否定されただけでなく、英文の草案まで押し付けられたのだ。震える手でプリントをめくると、前文の書き出しに「われら日本国民は~」とあり、第1条の天皇は「シンボル」と規定されている。2人は、色を失って顔を見合わせた。

 これは、大日本帝国憲法の改正案ではない。解体案である。ともかくも「十分内容を熟読したい」と、数日の猶予を求めるのが精一杯だった。
 GHQの要求は、脅迫に近い。ただ、切実な事情もあった。近くワシントンで戦勝11カ国による第一回極東委員会が開かれることになっており、天皇訴訟の方針が打ち出される恐れもあったからだ。マッカーサーとしては、同委員会が行動を起こす前に、
「自由主義的な憲法改正」で天皇存続の流れを固めておきたかった。

 一方で、松本らは首相の幣原喜重郎と相談し、あくまで松本案を土台にしようとGHQへの説得を試みる。
 しかし、「総司令部案を受け入れないなら新聞に発表する」と跳ね返され、とりつく島もない。当時のマスコミはGHQのほぼ言いなりだ。「天皇の保障」問題もあり、幣原内閣に選択肢はなかった。

 観念した松本は、マッカーサー草案に沿った条文作成に着手する。マ草案は11章92条。象徴天皇制のほか戦争放棄も盛り込まれ、法律とはいえないような文章も多かった。例えば、こんな調子だ。
「基本的人権の自由たらんとする積年の闘争の結果なり~」(マ草案10条)
「家族は人類社会の基底にして其の伝統は善かれ悪しかれ国民に浸透す~」(マ草案23条)
 条文作成が難航を極めたのは、言うまでもない。
 だが、松本には十分な時間すら与えられなかった。

 法制局第一部長、佐藤達夫によれば、「それは、あたかも書きかけの試験答案を途中でひったくられたような気持ちだった」―という。
 昭和21年3月2日、国務省の松本丞治はGHQから、突然指示を受けた。
「憲法改正案を至急持ってくるように」
 マッカーサー草案に沿った条文作成に着手して5日足らず。とても表に出せるような案ではない。しかしGHQは、「日本文のままでいいから」提出しろと矢の催促だ。
 できかけの案を何部か印刷し、GHQに持参したのは4日の朝である。閣議にもかけておらず、あくまで見本のつもりだったが、GHQはお構いなしだった。その場で英訳し、マ草案と異なる部分を再修正しだしたのだ。その様子を、昭和天皇実録が書く。

《聯合国最高司令部に提出された日本国憲法草案は、同司令部において終戦連絡中央事務局次長白洲次郎・法制局第一部長佐藤達夫らも加わり、夜を徹しての改正作業が進められ、この日(5日)午後4時頃、司令部での作業が終了する。一方、首相官邸においては、この日、朝より閣議が開かれ、同司令部から順次送付された改正案について対応策が協議される。閣議においては、改正案について対応策が協議される。閣議においては、改正案を日本側の自主的な案として速やかに発表するよう同司令部から求められことを踏まえ、(中略)首相より内奏の上御聴許を乞い、勅語を仰いで同案を天皇の御意志による改正案とすることを決定する》

 押し付け以外の、何物でもないだろう。
 政府は6日、憲法改正草案要綱を発表する。納得たしたわけではないが、「当面の急務は、講和条約を締結し、独立、主権を回復することであり、これがためには、(改憲により)一日も早く民主国家、平和国家たるの実を内外に表明し、その信頼を獲得する必要があった」と、外相の吉田茂が述懐する。

 天皇を「象徴」とする新憲法案が帝国議会の審議になり、政府は「護持された」で押し通した。

新たに憲法担当の国務相となった、金森徳次郎が答弁する。
「日本の国体と云ふものは(中略)謂はば憧れの中心として、天皇を基本としつヽ国民が統合をして居ると云ふ所に根底があると考へます。其の点に於きまして幕末も国体は変わらないのであります」

 新憲法案は、天皇制反対の共産党をのぞく議員の賛成で可決し、日本語として違和感のある前文を残したまま、同年11月3日の明治節に公布された。
 それからちょうど70年。日本国憲法は、一字も改正されずに現在に至っている。

 昭和天皇の御製のうち、代表作の一つとしてしばしば引用される和歌が詠まれたのは、日本国憲法を押し付けられた年、昭和21年1月の歌会始だ。
 ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ
 松そをヽしき 人もかくあれ
 解説は不要だろう。訴追の恐れさえある中で、占領政策の批判とも読める和歌を発表して国民を励まそうとしたところに、昭和天皇の気概があらわれている。
 だが、主権回復という雪解けを待たず、率先して”色を変える”風潮が、ことにインテリ層に見られたのも事実だ。元外相の重光葵(まもる)が書く。
「戦時中軍部に追随しその希望に先き走りしていたものが、掌(てのひら)を翻(ひるがえ)すが如く軍部の敵となり、占領軍の謳歌(おうか)者となったりした…」

GHQにすり寄って”変色”した一人に、憲法問題調査委員会の委員を務めた東京帝大教授の宮沢俊義がいる。戦時中は天皇を「わが統治体制の不動の根底」としていたのに、戦後は「機械的に」『めくら判』を押すだけのロボット的存在」になったとし、「八月革命説」を唱えて日本国憲法を正当化した。GHQの「自由の指令」により合法化した共産党の影響も大きい。急速に左傾化した新聞や雑誌が同党の主張を積極的に取り上げ、社会にさまざまな混乱を引き起こした。再び重光が書く。

「(共産党員は)直ちに反政府及び天皇制反対の共産宣伝示威運動に加わった。占領軍は、天皇制に対する国民の批判を奨励し、多数の新聞紙及び放送局は、共産党の実勢力に帰した…」

 それでも。国民の大半は色を変えなかった。21年4月に実施された戦後初の総選挙で、戦前の立憲政友会の流れをくむ日本自由党が140議席、立憲民政党系の議員を中心とする日本進歩党が94議席、左派だが天皇保持の日本社会党が92議席を獲得し、日本共産党は5議席にとどまっている。

 とはいえ、国民生活は当時のー、猛烈な食糧難と急激なインフレでどん底状態にあった。戦時中から続く食糧不足に、敗戦と凶作が重なり、売り惜しみも加わって、主食の欠配、遅配が常態化していたのだ。

 変色した知識人や共産党などは、悪化した国民生活にもつけこんでいく。5月19日には皇居前広場で「飯米獲得人民大会」が行われ、共産党員が「朕はタラフク食っているぞ、ナンジ人民 飢えて死ね」のプラカードを掲げて群衆を煽る騒動も起きた。

 疲弊し、混乱し、劣化する日本社会―。心を痛めた昭和天皇は、自ら全国各都道府県を回り、国民を直接励まそうと決意する。そして、この地方巡幸で国民がみせた反応が、GHQをあっと驚かせる。
「しばらくは茫然とし夢ではないかと思ひました。しかし夢ではありません。おそば近く陛下を拝させてゐたヾける、又親しくみことばで賜はりましたことは未だかつてなかつことです」
 昭和21年3月1日、昭和天皇が地方巡幸で東京・八王子の都立第四高等女学校(現多摩高校)を訪れたとき、3年生の女子高生が書いた作文だ。

 昭和天皇が全国各都道府県を巡り、直接国民を励ましたいと考えるようになったのは、前年10月ごろとされる。21年1月にはGHQの高官も巡幸を推奨していると伝えられ、昭和天皇は侍従次長に、《地方巡幸について研究を御命じになる。その際、巡幸は皇后と同列にしても宜しきこと、形式は簡易とすべきことなどの思召しを示される》

 社会全体が疲弊と、治安も悪化していた時代だ。十分な警備も期待できず、政府高官らは二の足を踏んだが、昭和天皇の決意は固かった。

 1回目の巡幸は2月19~20日、神奈川県の戦災復興状況などを視察した

この巡幸で宮内省は、《従来の慣例に固執することなく、(中略)一般民衆に対しては民業に支障を来さざるよう特別の制限を行わず。交通上も整理程度に留め、可能な限り間近く奉拝の機会を設け、天皇と民衆の接する機会を多からしむるように図り、御服も御平服をお召し頂くことした》

 初日は横浜市内の戦災者共同宿舎などを見て回り、住人らに「どこで戦災にあつたのか」「冬は寒くないか」と復員軍人には「ご苦労だつたね」と声をかけた。2日目は横須賀市の引き上げ援護局などを視察。外地から着の身着のままで帰国した引揚者らを励ました。

 2月28日~3月1日に行われた2回目の巡幸先は、東京都内の商業施設や教育関連施設などである。その頃になると巡幸のことが新聞報道などで知れ渡り、昭和天皇は行く先々で群衆に囲まれ、期せずして「天皇陛下万歳」の声が上がった。昭和天皇が帽子を振ってこたえると、万歳の輪は一段と大きく広がり、やがて涙にかすれて嗚咽(おえつ)にかわった。
 終戦から半年余り。君臣一体の絆は、健在だったのだ。

 冒頭の都立第四高等女学校は戦災で校舎が焼失し、教師と女学生が手づくりで再建した。全校生徒が固唾をのんで見守る中、その校舎に入り、「よく建てられたねえ」と声に出す昭和天皇―。

 3年生の女学生が、作文の続きを書く。
「純の日本人であれば心の底には必ず万世一系の天子様を尊び奉る心があるはずです。私は心の中で『天皇陛下万歳』を何度も何度も叫びました」
 日本がどん底にある中、国民を直接励まそうと始まった昭和天皇の地方巡幸。沖縄を除く全国各県を回るのに8年半を費やし、移動距離は3万3千キロに及ぶ。

 各地の国民はどう反応したか―。昭和22年6月の関西行幸の様子を、昭和天皇実録が書く。
 6月5日《大阪府庁に向かわれ、府庁車寄にて下車される。その際、約4万人の市民が御身辺に押し寄せ御歩行不能の状態に陥られたため、護衛中の米軍第25師団のMPがそらに向けて拳銃を二度発砲し、その間に庁舎内にお入りになる。直ちに二階のバルコニーにおいて市民の奉公迎にお応えになり、(中略・昼食中にも)府庁前に参集の約千五百名からなる学童合唱団による奉迎歌の奉唱が聞こえてきたため、食事を中断され、再びバルコニーにお出ましの思召しを示されるも、再度の混乱を憂慮した侍従の願いを容れられ、お取りやめになる》

 このほか、愛知では奉迎の群衆にまじって天皇批判の演説を始めた男が袋叩きにあい、警察に保護それる騒動も起きた。兵庫の姫路城前には13万人の奉迎者が集まり、万歳の嵐が治まらなかった。福島の宿泊所では提灯行列が途切れることなく続き、昭和天皇も自ら提灯を夜空に泳がせた。

 当時侍従長の大金益次郎によると、国民と直接話す機会の少なかった昭和天皇は、「自分は言葉が下手だから」と気にしていたという。それでも、国民を励ましたいという気持ちは強く、進んで声をかけた。
 子供たちは。「父母は無事でしたか」。
 高齢者には、「みんな丈夫で結構だね」。
 引揚者には、「よく帰って来て呉(くれ)たね」。
 説明を受けるたびに、「あ、そう」‥‥。
 短いながらも真摯(しんし)な言葉が感動を呼び、どこへ行っても万歳、万歳―、涙、涙―だ。車列は十重二十重に囲まれて何度も立ち往生し、昭和天皇がもみくちゃにされることも一度や二度ではなかった。

 21年11月、茨城県の日立製作所ら行幸したときのこと。ストライキ中だった全工員約8千人がこの日だけは操業し、巡覧する昭和天皇に復興の”鉄声”を力強く響かせた。視察を終え、日立駅に行くと、黒山の人だかりである。駅を離れるときの様子を、随行した大金が書く。
「群衆は歓呼の声を挙げ、つひに停車上構内はおろか、線路の上にまで飛び出して、列車の後を慕って追いかけて来た‥‥」
 だが、この国民の反応を、苦々しく見つめる目もあった。GHQの民政局だ。地方巡幸が天皇の権威の復権につながるとみた民政局は、非情な行動に出る。

 GHQの中で、憲法問題をはじめ占領政策の中心を担う民政局(GS)には、社会主義的なニューディーラーが多いとされる

彼らは昭和天皇の地方巡幸について、こんな報告書を作成している。
「天皇を目の前にした熱狂が、首相や最高裁判長官の訪問を迎へたときのそれに較(くら)べて数等優つてゐたことは認めねばならない。天皇は、日本人の考えへでははっきりと政治の上位にある。(中略)憲法の規定によれば、彼は法的権威を持たない。彼にはそれは必要ない。といふのは、彼にはそれに優る、もつとも恐ろしい何かがあるからだ」

 民政局のニューディーラーたちが、昭和天皇の権威をいかに恐れていたかがわかるだろう。昭和22年12月、民政局は地方巡幸の中止を画策し、当時の片山哲内閣に宮内府の機構改革を要請。巡幸を推進する宮内府長官や侍従長らの追い出しにかかった。

 首相の片山は、日本社会党の初代委員長を努めており、民政局とのつながりが深い。翌年2月の閣議で、宮内府を《内閣総理大臣の管理に属する官庁とし、機構の簡素化を図ること、日本国憲法の精神に基づく天皇の地位について正しい認識を有する人物を首脳部に据えることにより、宮内府の一部に残存すると思われる旧来の考え方の一掃を図る》方針を決めたと、昭和天皇実録が書く。

 片山内閣は3月に瓦解(がかい)したが、禅(ぜん)譲を受けた首相となった芦田均は、さらに民政局の言いなりだった。

 4月7日、発熱で寝ていた昭和天皇に拝謁を願い、《宮内府の職制改革に伴い長官・侍従長の入れ替えは止む得ない》と訴え、昭和天皇が難色を示しても聞き入れなかった。5月10日には《新憲法により国務の範囲が限定され、旧来のように各大臣より政務奏上が出来ない旨》を言上。同年21日は《皇室の一家団欒の御住居として赤坂離宮への御移居の提言》をし、皇居の引き払いまで求めている。

 6月5日、宮内府長官の松平慶民と侍従長の大金益次郎が辞職し、地方巡幸も中断した。再開するのは、保守派の吉田茂が首相を務める24年5月以降だ。

 その間、昭和天皇が苦悩したのは言うまでもない。侍従長の鈴木一によれば、昭和天皇は当時、独り言をいう癖が再発していたという。
「信任の厚かった前侍従長に対して惜別の情につまされておられたのかもしれない。あるいはもっと深いところに悩みがあったのだろう。何か大きなお声で独り言を仰せられいるのを初めて伺って、同席の侍従に尋ねてみると、かつての戦時中の独り言の話を聞かせてくれたのである」

 昭和天皇の地方巡幸が始まり、やがて中断された昭和21~23年、国内情勢は目まぐるしく動いた。
 21年4月に実施された戦後初の総選挙で、立憲政友会の流れをくむ日本自由党が議会第一党になったこと奉上したことはすでに書いた。幣原喜重郎内閣は総辞職し、大命は自由党総裁の鳩山一郎に下がるかと思われたが、その直前、GHQの指令で鳩山が公職追放され、同党総裁を引き継いだ吉田茂が組閣する。日本がどん底だった時代だ。吉田内閣は、食糧難とインフレと、それに乗じた労働争議の頻発に翻弄された。

 その頃、活発に動いたのは共産党である。労働争議を政治闘争と結びつけ、22年2月1日をもって国鉄、郵便、学校などの一斉スト(二・一ゼネスト)を計画。マッカーサーの介入でストは回避されたものの、吉田自由党への打撃は大きく、4月25日の総選挙で第二党に後退した。

 代わって第一党に躍進したのは日本社会党だ。だが過半数には遠く及ばず、第三党の民主党などと連立を組んで片山哲内閣が発足する。決断力に乏しく、「グズ哲」と呼ばれた片山は、本予算も組めないまま、9ヶ月余りで内閣を放り投げた。

 戦前の「憲政の常道」に従うなら、次期首班は野党第一党、吉田茂の再登板だろう。新聞各紙の世論調査もそれを望んだが、GHQの民政局は吉田を嫌い、片山内閣の副総理だった芦田均(民主党総裁)を後押しした。政権たらい回しで芦田内閣が発足はたのは23年3月のこと。既述のように、芦田は民政局の顔色ばかりを窺い、宮内府長官と侍従長を辞職させて地方巡幸を中断に追い込んだ。

 その芦田も、組閣の翌月に発覚した昭電疑獄(化学大手の昭和電工が復興金融金庫の融資を受けるため、政界に多額の賄賂を贈った事件)で10月に退陣。やがて収賄容疑で逮捕される。

 皇室も変革を免れなかった。皇室財産は国有となり、宮内府の定員が約4分の1に縮小する。22年10月には弟の秩父宮家、高松宮家、三笠宮家を除く11宮家51人が皇籍離脱を余儀なくされた。

 一方で昭和天皇は、新しい時代にふさわしい皇室のあり方についても、考えを巡らせていたようだ。21年に学習院中等科に入学された皇太子(現上皇陛下)の英語教育などのために、米人家庭教師のバイニングを招いたのもその一例だろう。日本国憲法施行後の第1回国会開会式以降、勅語の文体も口語体にかわり、「朕」は「わたくし」となった。

 とはいえ昭和天皇は、降り積もる雪に色を変えたわけではない。枝をしならせつつ。日本を守る戦いを続けていたのである。
 22年の年の瀬。戦勝国の理不尽と対決するもう一つの戦いが、佳境を迎えようとしている。

「被告東条」―。あ~顔の男は言った。「私はあなたに対して大将とは申しません」―。
 昭和22年の年の瀬。東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校本部大講堂に、世界中の耳目が集まった。前年5月3日開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)で、主席検事のジョセフ・キーナンによる、東条英機への尋問が始まったのだ。

 キーナン「米国及び他の西欧諸国に対して攻撃をする言い訳の一つとして、これらの諸国があなたの大東亜共栄圏に関する計画をじゃましておつたからだと主張いたしますか」
 東条「理由の遠因にはなりました。しかしながら直接の原因ではありません」
 キーナン「あなたの意図は、大東亜に新秩序を樹立するのであつたということを認めますか」
 東条「もちろん、一つの国家の理想として、大東亜建設ということを考えておりました。しかもできるだけ平和的方法をもつてやりたい、こう思つておりました」

 東京裁判で訴追された、かつての指導者らは28人。戦時国際法違反や捕虜虐待など通常の「戦争犯罪」のほか、ナチスと日本を断罪するために規定された「平和に対する罪」と「人道に対する罪」が問われたが、「実際行われたところは、国際法や、刑法理論を無視した野蛮裁判以外のなにものでもなく、手段をかえた戦争の報復」にすぎなかったと、弁護人を務めた菅原裕が書き残している。

 最初に有罪ありきの裁判に、被告たちはどう臨んだか、東条が口述書に書く。

「私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する。(中略・しかし)敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、衷心(ちゅうしん)より進んでこれを負荷せんことを希望スル…」

 キーナンと東条との”対決”は、12月31日から翌年1月6日まで続いた。
「三国同盟の締結は、何か米国と関係があるか」
「大いに関係がある」
「軍事的攻撃の脅威があったのか」
「米国の大艦隊がハワイに集結していた」
「侵略的かつ傲慢なる国家に対して、防衛的措置を講じる権利を、米国は持っていないと言うのか」
「米国の権利に言及するつもりはないが、侵略とか傲慢とかの言葉は日本に適用されない」
 キーナンの追及に、一歩も引かない東条。極刑覚悟の気迫が、勝者の理論を覆していく。しかし‥‥。
「キーナン検事と東条被告とのやり取りは東条のほうに分があったと、敵も味方もこれを認め、それまでは非常に不評判だった東条も、一時評判をもり返したようなふうだった」
東京裁判
 極東国際軍事裁判(東京裁判)で東条英機の主任弁護人を務めた、清瀬一郎の回想である。
 身びいきばかりではないだろう。昭和22年12月31日~23年1月6日に行われた尋問で、首席検事のキーナンは東条を攻めきれず、逆にやり込められる場面がしばしば見られた。キーナン自身、「カミソリ東条といわれるだけあってナカナカ頭脳のひらめきは鋭いものがある」と舌を巻いたほどだ。

 だが、「A級戦犯」とされた被告のすべてが、東条のような態度だったわけではない。国家弁護より個人弁護を優先し、ほかの被告が不利になるような主張をしたり、被告同士が言い争ったりする態度もみられた。

 なかでも波紋を呼んだのは、元内大臣の木戸幸一である。昭和天皇の側近だった木戸は、自身が有罪になれば天皇も同罪にされる恐れ、過去15年の日記を提出して平和意思を明らかにしようとしたが、かえって揚げ足を取られてしまう。

 22年8月5日、裁判長のウエッブが言った。
「木戸日記によると開戦直前、海軍は全然戦勝の見込みはないと、高松宮が天皇に言ったと書いてある。そこで天皇は陸相。陸海両総長、首相に相談したところ、彼らが自信を示したので、天皇は、計画を遂行すべしと命じたことになっている…」

 オーストラリアから派遣されたウエッブは、昭和天皇の訴追に執着していたとされる。ウエッブの指摘に、木戸は青ざめたに違いない。
 昭和天皇の”責任”をめぐっては、東条も失言した。同年12月31日、弁護人(木戸担当)のローガンが東条に質問した時だ。
 ローガン「天皇の平和に対する希望に反して、木戸が何か行動をとったか、あるいは何かを進言をしたという事例を、一つでも覚えておられますか」

 東条「そういう事例は、もちろんありません。日本国の臣民が、陛下の御意思に反してかれこれするということはあり得ぬのであります。いわんや、日本の高官においてお(ママ)や」
 東条は、木戸を弁護しようとしたのだが、これだと開戦の決定も「陛下の御意思」にされてしまう。
ウエッブがすかさず言った。
「ただいまの回答がどういうことを示唆するか、わかるでしょうね」
 東条の顔色が変わった。
 
 東京裁判が開かれていた頃、法廷の内外には、依然として天皇訴追の動きがくすぶっていた。戦勝11カ国で構成する極東委員会は1946(昭和21)年4月、天皇起訴の方針を固めたが、裁判長のウエッブ(豪州)や判事の梅汝璈(中国)らは、少なくとも証言台に立たせるべきだと考えていたのだ。
 昭和天皇が証言台に立てばどうなったか―。首席検事のキーナンが言う。
「マッカーサー元帥が余に語ったところによれば、もし天皇が証人として出廷されるならば、天皇自身は我々が証拠によって見出した彼に有利な事実をすべて無視し、日本政府の取った行動について自ら全責任を引き受ける決心があつたという。すなわち証拠によって天皇は立憲国の元首であり、法理上、また職責上必ず側近者の補佐に基づいて行動しなければならないことが証明されているが、それにもかヽわらず、天皇もし出廷させられたとしたら、このようなことを自己の弁解に用いるようなことは一切しなかったであろう‥‥」

 だとすれば、昭和天皇を証言台に立たせるわけにはいかない。ところが昭和22年12月31日の法廷で、東条英機が「日本国の臣民が陛下の御意思に反して行動することはあり得ぬ」と発言したため、ウエッブら訴訟は派を勢いづかせてしまった。

 慌てたのは、不起訴の方針を取るキーナンである。明けて23年1月6日、キーナンは、東条に発言訂正の機会を与えることにした。
「あなたは、日本臣民たるものは何人たりとも、天皇の命令に従わないと考えることはないと言いましたが、それは正しいですか」
 東条は、今度は慎重に言葉を選んだ。

「私は国民としての感情を申し上げたのです。天皇の御責任とは別の問題」
「しかしあなたは実際、米英蘭に対して戦争をしたのではありませんか」
「私の内閣において戦争を決意しました」
「それは裕仁天皇の意思でありましたか」
 東条は答えた。
「御意思と反したかも知れませんが、とにかく私や統師部の進言によって、しぶしぶ御同意になったのが事実でしょう。平和愛好の御精神で、最後の一瞬まで陛下は御希望をもっておられました」
 この証言で「天皇の免罪は確定的となり、国民はひとしく愁眉(しゅうび)を開いた」と、弁護人の菅原裕が書き残す。国体を危険にさらす開戦に踏み切ったのは東条だが、国体の危機を救ったのも東条だったのだ。
 だが、当時の新聞報道は、東条に峻烈(しゅんれつ)だった。
 東京裁判が「手段をかえた戦争の報復」であったことはすでに書いた。弁護人の菅原裕の言葉を借りるなら、「ラジオや撮影の設備に違和感なく、ハリウッドのスタジオ以上の照明の下に」行われた裁判の狙いは、開戦前には無かった「平和に対する罪」と「人道に対する罪」により、国民の贖罪(しょくざい)意識を植え付けることだ。

 いわゆる「南京大虐殺」をはじめ、虚偽と誇張に基づく日本軍の悪逆非道が事実と認定され、その弊害は今も続いている。

 そんな中、一切の自己弁護を放棄して日本の正当性を訴え、昭和天皇の責任を否定したのが東条英機だった。東条の証言は「占領に対する最大の一撃」だったと、連合軍側も認めている。
 だが、東条の真意が、正しく国民に伝わったわけではない。東条への尋問が終わった後、昭和23年1月8日、朝日新聞コラムの「天声人声」は書いた。
「一部に東条陳述共鳴の気分が隠見していることは見逃してはならない。(中略)民主々義のプールに飛び込んだはずの水泳選手が、開戦前の侵略的飛び込み台に逆戻りするのに等しい」
 毎日新聞のコラムの「余録」も書く。
「戦争の最高責任者として、東条の言い分に、多少の『理論』みたいなものがあるのは怪むに足りぬ。(中略)エラクない彼は、エライ責任を負う事になったのも日本の宿命だ」

 戦後に自虐史観が蔓延(まんえん)したのは、東京裁判そのものより、こうした報道などがあったといえよう。
 23年11月12日、判決が言い渡された。死刑は東条▽板垣征四郎▽木村兵太郎▽土肥原賢二▽武藤章▽松井岩根▽広田弘毅―の7人
「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」の宣告を受けた東条は、通訳のイヤホンを静かに外し、正面に向かって軽く一礼した。その表情は、微笑みするようでもあったという。

 執行は12月23日。7人は「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」を三唱し、処刑台の露と消えた。
 今ははや 心にかかる 雲もなし
 心豊かに 西へぞ急ぐ
 東条の辞世である。
東条英機
 その日、東宮侍従の村井長正がみた昭和天皇は、「生涯忘れられない」ものだった。
「陛下は眼を泣き腫らして、真っ赤な顔をしておられた。生涯忘れられないお顔である。私は恐れておののき、視線を落とし、二度とそのような陛下を見まいとして要件だけ述べ、顔を伏せたままドアを閉めた」

「近時、新聞に陛下の御留位に関しての賛否両論が、外電並びに国内世論として取り上げられておりますが、我々はこのことを遺憾とする者であります」
 昭和天皇の退位論が再燃していた昭和23年7月、マッカーサーのもとに届けられた、東北地方の村民からの手紙だ。
「陛下御自身としては、御位を退くことが許されれば、その己を責め給ふ御胸中は寧(むし)ろ御楽となられるであらうことを、国民は百も承知し乍(なが)ら、而(しか)も御留位のつらさに堪へ給ひて国の中心となられ、明日への希望の灯を消し給はざらむやう祈願してゐるのであります」

 こうした退位論への拒絶反応は、決して特異なものではない。同年8月に読売新聞が実施した世論調査では、天皇制について「あった方が良い」90・3%「退位されて天皇制を廃した方がよい」4.0%▽「わからない」5.7%▽「退位された方がよい」58・5%▽「皇太子に譲られた方がよい」18.4%▽「退位されて天皇制を廃した方がよい」4.0%「わからない」9.1%―という結果だった。

 一方で、同年11月に朝日新聞が掲載した「指導者(インテリ)層の」対象の調査では、「政治・法律・社会」的指導者の50・9%、「教育・宗教・哲学」的指導者層の49・0%が退位に賛成している。
 東大総長の南原繫をはじめ、新聞報道に登場する著名人らが退位論を振りかざす中、一般市民の9割が天皇制度の相続を支持し、7割が留位を求めていた意義は、決して小さくないだろう。

 左派的なインテリ層を中心とする退位論の再燃と、それに拒絶反応を示す一般国民との間にあって、当惑したのはGHQである。9月10日、GHQはUP通信を通じ、新聞各紙に見解を明らかにした。
一、 天皇は依然最大の尊敬を受け、近い将来天皇が退位するようなことは全然考えられていない。
一、 天皇退位のうわさは共産党や超国家主義者の宣伝によるものである。
一、 現在の天皇が今後長く統治を続けることが、日本国民及び連合国の最大の利益に合致する。
 この発表により、退位論は沈静化する。断絶されかけた「戦前」と「戦後」は、昭和天皇という太い幹によって繋がられることとなった。大多数の国民の声が、国体を護持したのだ。中断していた地方巡幸も24年5月に再開され、熱狂的な「天皇陛下万歳」が各地で響き渡ったのは言うまでもない。
 その頃、アメリカが主導する占領政策も、大きく変わろうとしていた。
 
第2次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする自由・資本主義陣営と、ソ連が主導する共産・社会主義陣営に二分された。東西両陣営による、核戦争の危機と隣り合わせのにらみ合い―。例煎じた代の到来である。

 熾烈なイデオロギー対立は、日本の占領統治にも影響した。リベラル政策を進めるGHQ民政局のニューディーラーたちが、退場することになったのだ。

直接の原因は、片山哲内閣、芦田均内閣と続いた中道政権の挫折である。後継の最有力は野党第一党、民主自由党総裁の吉田茂だが、民政局は吉田を嫌い、元逓信省(ていしんしょう)の三木武夫(国民共同党委員長)の担ぎ出しを画策。三木が「憲政の常道に反する」として断ると、民自党幹事長の山崎猛を立てようとし、山崎が議員辞職したために頓挫した。

 民政局は、なぜ吉田を嫌ったのか。同局課長のウィリアムズが、民自党の長老議員に言った。
「自由党(民自党)は旧体制から決して抜け出していない。天皇を潜在意識的に政治へ引き込もうとしている」
 民政局は、昭和天皇を恐れていたのだ。
 片山、芦田両首相が民政局の言いなりだったことはすでに書いた。当時、民政局が操れなかった日本人は2人。吉田と昭和天皇である。2人は民政局の頭ごなしにマッカーサーと直接交渉できる、政治的技量を持っていた。

 昭和23年10月15日、第2次吉田内閣が発足し、民政局の影響力は低下する。GHQの主導権は、諜報活動を任務とする参謀第2部(G2)に移った。
 吉田の使命は、講話=主権回復の流れをつくることだ。しかし吉田は、その機会を危うく取り逃がしそうになる。当時、アメリカ本国は講和後の再軍備と米軍駐留を検討していたが、25年6月、米国務省顧問のダレスが来日した際、吉田は「非武装化を実現する」といい、ダレスを怒らせてしまった。

 ダレスが不信感を抱いたまま帰国すれば、講和がさらに遅れるだろう。だが、ここで昭和天皇が動く。4日後、式部官長の松平康昌がダレスに、昭和天皇のメッセージを伝えたのだ。
―陛下は、パージ(公職追放)の緩和により経験豊富な人材が発信できるようになれば、日米双方の国益に好ましい結果をもたらすとお考えのようです―。

 現実主義的な保守政治家らの復権は、ダレスも考えていたことだ

ダレスは、このメッセージを「(来日の)もっとも重要な成果」と受け止めた。吉田のエラーを、昭和天皇がカバーしたといえよう。
 その前日、1950年(昭和25)年6月25日、朝鮮半島で起きた非常事態が、日本の運命を劇的に変える。

 桜の散りかけた昭和26年4月15日、東京・赤坂の米国大使館に、昭和天皇の姿があった。向かい合って座るのは、4日前に連合国最高司令官を解任され、私人となったマッカーサーである。
 昭和天皇は、《マッカーサーに御告別のお言葉を賜い、来日以来五年八箇月にわたる日本再建への努力と日本国民への好意に対し謝意を表される》。

 昭和天皇の「謝意」は、礼儀以上のものだっただろう。来日当初、米国世論やオーストラリア政府などが天皇の訴追を求めていたことはすでに書いた通りだ。占領統治に天皇の権威が必要だったとはいえ、マッカーサーが国際世論に屈せず、皇室制度の存続に果たした功績は決して小さくない。

 一方、マッカーサーを解任に追い込んだ朝鮮戦争は、日本にとっては僥倖(ぎょうこう)となった。共産党勢力の脅威を再認識したアメリカが対日講和を急ぎ、主権回復の日がぐんと近づいたからだ。

 朝鮮戦争勃発後

マッカーサーは共産党機関紙「アカハタ」の停刊を命じるとともに、マスコミ、重要産業、労働組合、政府機関から共産党員やシンパらを追放するレッド・パージを指令。その半面、保守政治家らは公職追放は順次解除され、のちの戦後復興のかじ取り役となる。
 25年8月には、朝鮮戦争に動員された在日米軍の穴を埋める形で警察予備隊が公布。のちに自衛隊につながる再軍備の道が開けた。何より大きかったのは景気の回復だ。米軍が大量の軍需品などを買い付けたため、日本経済は朝鮮特需に沸いた。

 昭和天皇とマッカーサーが会見した翌日、26年4月16日の朝、米国大使館から羽田飛行場までの沿道は20万人以上の群衆で埋まり、マッカーサーを乗せた車に日の丸と星条旗の小旗が打ち振られた。
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 礼砲の轟く飛行場には、首相の吉田茂をはじめ政府高官らが居並び、アメリカへ飛び立つ銀色の大型機を見送った。
 新聞各紙が、歯の浮くような賛辞を載せる。
「八千万国民の感謝と敬慕を一身に集め。新生日本を慈しみの手で育てヽくれたダグラス・マッカーサー元帥とお別れ‥‥」(16日の読売新聞夕刊)

「マ元帥の五年八カ月間における偉大な業績は、日本人の心からの惜別感に現れている。それは日本人の『心服』を意味する…」(17日毎日新聞)

 だが、見送りの列に、昭和天皇の姿はなかった。前日に別れを告げており、それで十分だった。マッカーサーは米国大統領に従う軍人だ。昭和天皇は、日本国の天皇であった。

 その1ヶ月後、昭和天皇を、大きな悲しみが襲う。

 それは、あまりに突然のことだった。
 昭和26年5月17日《午後三時三十五分、皇太后は大宮御所におい突然狭心症の発作に見舞われ、皇太后宮待医小原辰三の応急措置を受けられるが、四時十分、崩御される。御歳六十六歳》

 皇太后(貞明皇后)は戦後、大宮御所を訪れる勤労奉仕の国民と歓談するのを、何よりも楽しみにしていた。前夜に奉仕団の出身地を調べ、その地方の特産品などを話題にしつつ、ねぎらいの言葉をかけるのだ。
 この日も、愛知県西尾町の遺族会が除草作業をしており、モンペ姿に着替えて気さくに応対しようと、準備をしているところだった。

 直前まで何の兆候もなく、昭和天皇とは1週間ほど前に会食したばかりである。
《天皇は四時一七分に皇后と共に御出門、大宮御所に行幸され、皇太后の御尊骸と御体面になる》
 昭和天皇の喪失感は、どれほどだっただろう。
 聡明(そうめい)にして気丈な国母であった。空襲で御所が全焼しても、「これで国民といっしょになった」と笑みさえ浮かべ、11宮家が皇籍離脱を余儀なくされても、
「御維新前と同じになると考えればよろしいのですね」と言って動じなかった。

 ただ、「世の中の移り変わりにしたがって、宮中の例を改めるということには、きわめて消極的であられた」と雍人(やすひと)親王が書き残しているように、GHQが推し進める宮中改革には、納得していなかったのではないか。

 占領期、GHQは行財政的な改革だけでなく、皇室の内面、信仰心をも変えようとした。GHQ宗教調査官のウイリアム・ウッダードがのちに語る。
「マッカーサー将軍が天皇のキリスト教への改宗を考えていたことに、疑いはない」

 神道はもともと、他宗教に極めて寛容だ。昭和天皇は、クリスチャンだったマッカーサーの”勧誘”に、しなやかに対応した。昭和23年4月以降、GHQと関係深かった女性牧師の植村環に、皇居で聖書の講義を行うことを認め、香淳皇后や正仁親王(常陸宮さま)も受講された。だが、昭和天皇が改宗することはもちろんなく、マッカーサーの解任で影響力が薄れると、やがて講義も終了している。

 復興に向け、まだまだアメリカの援助を必要としていた時代だ。昭和天皇は、妥協できることは妥協と、主権の回復をじっと待っていたのである。
 昭和26年春、昭和天皇は50歳、松に降り積もった雪のとける日が、ようやく訪れようとしていた。

 1951(昭和26)年9月、米サンフランシスコのオペラ・ハウスに、世界52カ国の代表が集まった。日本の主権回復に向けた、対日講和条約を審議するためである。各国代表が次々に賛同の演説を行い。最後に演壇に立ったのは日本全権、吉田茂だ。同月7日の夜吉田は朗々スピーチした。

「この平和条約は、復讐(ふくしゅう)の条約ではなく、和解と信頼の文書であります。日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します」

 同年1月以降、吉田は米国国務省顧問のダレイと、講和条約の交渉を積み重ねてきた。だが、必ずしも順調だったわけではない。東西冷戦が深刻化し、アジアで共産勢力が拡大していた頃だ。ダレスは日本の再軍備を求め、吉田は「経済的に耐えられない」として反対した。一方、吉田が将来の沖縄返還を求めたものの、ダレスは相手にしなかった。

 紆余(うよ)曲折の末、条約案がまとまったのは7月頃である。戦勝国が一部を除き日本の賠償請求を放棄するという、比較的寛大な条件が盛り込まれた半面、日本は1、朝鮮半島、台湾、南洋諸島(委任統治領)における権利の放棄。2、千島と南樺太の領土喪失。3、琉球諸島と小笠原諸島を米国信託統治領とする提案への同意を条件付られた。

 国内では、賛否両論の議論が起こる。現実問題として、まずは米英など西側諸国との講話を優先するしかなかったが、左派的な知識人らはソ連を含む全面講話を主張。同時に締結される日米安全保障条約にも反対論が巻き起こった。しかし吉田き、真の評価は「後世史家の批判に俟(ま)つ」とし、ぶれることなく講話への道を突き進んだ。

 そして迎えたサンフランシスコ講和会議。吉田のスピーチは続く。
「日本はその歴史に新しいページを開きました。われわれは国際社会における新時代を待望し、国際連合憲章の前文にうたつてあるような平和と協調の時代を待望するものであります」

 翌日、ソ連などを除く49カ国が講和条約に調印。発効は翌27年4月28日で、《これにより日本国と連合国との戦争状態は終了し、連合国により日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権が承認される。天皇は午後十時三十分よりラジオにて条約発効の実況中継を皇后と共にお聞きになる》。
 ついに訪れた雪解けを、昭和天皇は詠んだ。
 国の春と 今こそはなれ 霜こほる
 冬にたへこし 民のちからに
この日、皇居の向かいにあるGHQ本部から、星条旗が静かに降ろされた。

つづく 第13章 国民とともに