ふりさけてみれば 川瀬弘至 平成28年版産経新聞引用
1933(昭和8年)以降、莫大な公共投資と軍備拡張で国力を充実させたナチス・ドイツが、いよいよ近隣諸国への侵攻政策を本格化させるのは1938年、日本が日中戦争の泥沼にはまっていた頃である。
同年9月12日のナチス全国党大会最終日、アドルフ・ヒトラーは演説した。
「全知全能の神は、ベルサイユ条約によって外国の隷属下におくために、ドイツ人を創り出したのではない」
ヒトラーの当面の目標は、ベルサイユ体制を打破し、第一次世界大戦で失った領土を取り戻すことだ。同年3月にオーストリアを併合すると、9月の全国党大会でチェコスロバキアへの侵攻を示唆した。
「私は、チェコスロバキア内でドイツ人同胞が圧迫されているのを、いつまでも黙って見過ごしているつもりはない」
欧州は震えた。
ベルサイユ体制の中心である英仏両国首脳は、ヒトラーと対決するより、譲歩する道を選ぶ。全国党大会からほぼ半月後の9月29日、英仏独伊の4首脳がミュンヘンで巨頭会議を開いたとき、英首相のチェンバレンは、ヒトラーがこれ以上の領土要求を行わないことを条件に、ドイツ系移民の多いチェコスロバキア領ズデーテン地方のドイツ帰属を認めた。
戦争を回避したチェンバレンの宥和政策は、一時的に拍手喝采を浴びる。だが、恫喝外交で領土の拡張に成功したヒトラーの野望は尽きない。次の目標をポーランドに定め、欧州の戦雲は日に日に厚く、黒く広がっていった。
一方、ドイツの躍進に、極東から慎重なまなざしを送る者もいた。日本の陸軍上層部である。ソ連の軍事圧力を受ける陸軍は、ドイツと同盟を結ぶことで、事態打開の道を切り開こうとしたのだ。
これに対して海軍と外務省は、英米を敵に回すドイツとの同盟など、もってのほかと考えた。日本経済は英米圏に依存している。アメリカから石油と鉄の輸入を止められれば、元も子もなくなるだろう。
イタリアも含めた日独伊の三国同盟を巡り、関係省庁の溝が埋まらない中、当時のファッショの首魁ともいわれた平沼騏一郎が組閣する。だが平沼は国粋主義者であっても、ファシズム信奉者ではなかった。この難局を、巧妙に乗り切ろうとする。
第八章では、日中戦争の拡大に苦悩する昭和天皇の姿を見た。だが、破滅の危機はアジアだけではない。第9章では、欧州の戦雲に翻弄される日本と、米英との摩擦回避に尽くす昭和天皇をふり仰ぐ。
昭和14年1月5日、枢秘院議長の平沼騏一郎が組閣した日、駐日アメリカ大使のグルーは嘆息した。
「中世から復活したような禁欲主義者で神道論者の新首相により、日本は独伊と接近を図るだろう‥‥」
一方、駐日ドイツ大使のオットーは歓喜した。
「日本でファシズムの父とともいえる新首相により、日独伊の枢軸関係は強化されるだろう…」平沼、このとき71歳。歴代首相の中で、これほど誤解されることの多い人物はいまい。やがて米独両大使も、平沼への評価を改めることになる。
陸軍や右翼勢力に人気があり、たびたび首相候補に挙げられながら、穏健保守派の元老、西園寺公望(きんもち)から遠ざけられていたことはすでに書いた。だが、近衛文麿内閣の後継者に平沼を推したのは、同じ穏健保守派の内大臣、湯浅倉平ら宮中側近グループである。実は、平沼への大命降下が不可避とみた湯浅らは、事前に新英米派の助言者を平沼につけて、懐柔したのだ。
当時、宮中側近ら保守派が憂慮していたのは、英仏を敵に回す独伊との同盟締結問題である。締結を急ぐ陸軍を、抑えられるのは、右翼の総帥ともいわれた平沼しかいないと、側近らは考えたのではないか。
一方、昭和天皇の意を察した平沼も、自らに課せられた使命を理解したようだ。組閣の際、外相の有田八郎にこう言った。
「英仏を相手にしてまで、日本が日独伊防共協定を強化するといふやうなことは、自分は反対である。万一さういふことを陸軍から強いられたら、自分は君と一緒に辞める」
ドイツが日本に、軍事同盟を正式に提案したのは1月6日、早くも組閣の翌日である。提案には、契約国がソ連や英仏など第三国の攻撃対象となった場合、他の契約国は「アラユル使用シ得ル手段ヲ以テ助力ト支援ヲ与フルノ義務ヲ有スル」とあった。
ドイツ外相のリッべントロップが、駐独大使の大島浩に付言する。
「これはヒットラーの如く総統の承認した正式の案文である」
ドイツの狙いは、欧州を覆う戦雲の下に日本を引込、英仏に圧力をかけることだ。一方、日本としては、ソ連を対象とする同盟案なら大歓迎だが、英仏まで対象に含めたくない。平沼内閣は、何とか英仏を除外しようと苦心した。
だが、政府にとって予想外のことが起きる。出先の大島浩らが政府の訓令を無視して、独断専行で走り出したのだ。発足間もない平沼内閣は、いきなり崖っぷちに立たされる。
日独伊三国同盟―。歴史的にみてそれは、日中戦争で悪化した日本とイギリスの関係改善への道を断ち切り、イギリスを支援するアメリカとの開戦へと突き進む、片道切符といえるだろう。
昭和14年1月6日、ドイツから三国同盟の正式提案を受けた首相の平沼騏一郎は、陸海両相と外相、蔵相による五相会議を招集し、対応を協議した。有事の際、ソ連のほか英仏も攻撃対象とする同盟案に賛成したのは、陸相のみで、外相が猛反対したのは言うまでもない。海相と蔵相も外相を支持し、激論の末、やや妥協して次の4条件を付けることにした。
一、 ソ連を主たる対象とするが、状況により第三国(英仏)を対象とすることもある。
二、 第三国を対象とする武力援助は、行うかどうか、その程度も含めて状況による。
三、 外部に対しては防共協定の延長と説明する。
四、 「二」と「三」は秘密事項とする。
外相の有田八郎は言った。
「ドイツ側がこれ以上の譲歩を求めてきても、変更の余地は全然ない」
ところが、この修正案を駐独大使の大島浩と駐伊大使の白鳥敏夫が握りつぶしてしまう。陸軍高官だった大島はもともと三国同盟の提唱者、革新官僚の白鳥は外務省きっての急進派だ。ドイツの躍進ぶりに目がくらんだ二人は、政府の訓令を無視してでも同盟締結にこぎ着けようとした。
2人を説得するために有田が派遣した特使を、白鳥が一喝する。「こんな案ではとても独伊の同意は得られぬ。大島が怒るぞ」
大島も、独外相の前で大見えを切った。「無留保、無担保の三国同盟ができないなら、自分と白鳥と二人で大使を辞めやる」
いまや国家の命運は、出先の独断専行により危機に瀕したといっても過言ではない。それを最も憂慮したのは、昭和天皇である。大島らの訓令無視が目に余るようになったのは3月、侍従武官長にこう漏らした。
「もし陸軍が出先の大使の言つて来たやうなことを押し通さうとすれば、外務大臣も総理も到底同意ができないのだから、或は内閣は代らなければならないやうな結果を導くかもしれない」
昭和天皇が懸念したように、陸相が三国同盟をごり押しすれば、閣内不一致で総辞職もあり得ただろう。だが、首相の平沼は海千山千だった。孤立する陸相の肩を持って総辞職を避けつつ、ひたすら結論を先送りするという、遅延策に出たのだ。
以後、五相会議が延々と繰り返され、その数は平沼の在職中、8カ月足らずで70回以上に及んだ。
「優柔不断の誹(そし)りを受けながら数十回に渉(わた)り五相会議で検討を累(かさ)ねたり」
日独伊三国同盟をめぐり、五相会議を繰り返した首相の平沼騏一郎は、こう書き残している。早期締結を求める陸軍からは「首相の言はハッキリしているがシッカリしてはおらぬ」との不満も上がったが、平沼は、泥をかぶる覚悟でいたのだろう。
駐独大使の大島浩と白鳥敏夫が、政府の訓令を拒絶したことはすでに書いた。外相の有田八郎は激怒し、海相の米内光政は大使罷免を主張したが、平沼はそれをなだめ、妥協案を再び訓令することにした。昭和14年3月22日のことだ。
一方、大島と白鳥の暴走はとまらない。4月に入り、独外相のリッべントロップと会見した大島は、条件付きながら日本の参戦義務に同意してしまうのだ。同じ頃、白鳥も伊外相のチアノにこう言い切った。
「独伊が英仏と戦争する場合、条約の条項に基づき、日本が参戦するのはもちろんだ」
両大使の「参戦」発言に、平沼内閣が仰天したのは言うまでもない。だが、政府と軍部は一枚岩ではなかった。外相の有田が五相会議で、両大使の発言を取り消す訓令を出そうと主張したものの、陸相の板垣征四郎は両大使の肩を持つような発言をし、訓令が曖昧なものになってしまうのだ。
のちに有田は、当時の状況をこう書き残している。
「東京において陸軍の主張が通らず、(大島と白鳥が)メチャメチャにしてしまおうとした」
最悪の状況だ。しかし、ここで昭和天皇が動く。4月10日《(陸相の板垣に)出先の大島・白鳥両大使が訓令に反し参戦義務を明言したことは大権を犯すものとのお考えを示され、陸軍大臣が五相会議においてこれを擁護したこと、また会議ごとに決定事項を逸脱する発言をすることに対し、御注意になる》
昭和天皇は、欧州の戦争に巻き込まれまいとする政府の方針を、貫徹させようとしたのだ。
昭和天皇の苦悩は尽きない、その頃、陸軍に籍を置く雍仁(やすひと)親王とも意見が対立した。先の大戦後、側近にこう打ち明けている。
「私は秩父宮(雍人親王)と喧嘩をして終った。秩父宮はあの頃一週三回位私の処に来て同盟の締結を勧めた。終には私はこの問題に付ては、直接宮には答へぬと云つて突放(ママ)ねて仕舞つた」
海千山千の平沼はどうしたか―。実は、いたずらに小田原評定を続けていたわけではなかった。戦争回避に向けて、極秘で日米交渉を画策していたのだ。
事態打開に向けて、首相の平沼騏一郎が米大統領にあててメッセージを書いたのは、昭和14年の春である。
5月23日、首相官邸で米大使館のドゥーマン参事官と極秘で会見した平沼は言った。
「(恒久平和のために)必要な第一歩は、二つの敵対する政治的陣営に欧州が分割されつつある傾向に歯止めをかけることです」
このとき平沼が内々に提案したのは、以下のようなものだ。
1、 欧州での戦争回避に向け米大統領が英仏に世界会議への参加を打診するなら、日本は独伊に参加を呼びかける準備がある。
2、 その世界会議では、極東問題も議題になしうる。
3、 中国への和平条件を緩和する用意がある。
4、 自分の首相在任中、独伊と軍事同盟を締結することは絶対にないー
平沼の真意は、アメリカの仲介による日中戦争の終結だ。非公式とはいえ、思い切った提案といえるだろう。しかも平沼はもこの提案を五相会議にはかけず、ほぼ独断で行った。事前に漏れれば、日独伊三国同盟に執心する陸軍から横やりが入るのは必至だからだ。
この時期の平沼は、いかに周囲から誤解されようとも、すべてを背負う覚悟を持っていた。
ドゥーマンは感動した。米国務長官にあてて長文の速達便を送るともに、懇意にしていた元老私設秘書の原田熊雄に、こう打ち明けている。
「総理は実に立派な人ぢやあないか」「(平沼の提案を)アメリカ政府と日本政府との公式の話になつて行くやうにするつもりであるし、また当然さうしなければならない…」
平沼は、アメリカからの回答を、祈る気持ちでまっていた。もしもアメリカが、平沼の提案を受け入れたなら、先の大戦はなかったかもしれない。
だが、アメリカが下した判断は、平沼に「何ら特別な回答を行わない」というものだった。
その判断内容はこうだ。
1、 アメリカが和平交渉のイニシアチブをもつと、かえって日本の地位を有利にしてしまう。
2、 アメリカが主導的であるほど、日本の軍国主義者たちの逃げ道を広げることになる。
3、 どんな和平案も日中双方に妥協を強いることになり、その妥協をもたらしたアメリカが双方の敵意の的になってしまう‥‥
歴史は変わらなかった。アメリカから具体的な回答を得られなかった平沼は落胆し肩を落とす。
しかもこの後、さらなる悪夢が平沼を襲う。イギリスとの関係が、決定的に悪化してしまうのだ。
発端は1939(昭和14年)4月9日、イギリスが管理する中国・天津の英仏租界で、親日派
の中国人官吏(かんり)がテロリストに射殺されたことだった。
租界当局などの捜査で容疑者4人が逮捕され、犯行を自供したので、テロ被害に苦慮する日本側は容疑者の引き渡しを求めた。しかし、イギリス側が拒絶したため、日本国内の世論は激高する。背中を押された現地の日本軍が6月14日に租界を封鎖し、出入りするイギリス人の身体検査を始めると、今度はイギリス国内が激高。日英両政府とも、過熱した自国の世論を抑えられない状況となった。
昭和天皇は、日英関係の悪化を憂慮した。
租界の封鎖など強硬姿勢を見せているのは陸軍だ。昭和天皇は6月14日《(陸相の板垣征四郎に対して)天津英仏租界につき、徒らに意地を張って対立することは不得策につき、解決の道を講じること、(中略)不意の事件が突発しないようすべきことを御注意になる》
翌15日も《参謀総長に対し、天津租界封鎖問題を速やかに解決すべき旨の御言葉述べられ、(中略)犯人引き渡しあれば、封鎖解除を考慮する旨の奉答を受けられる。よって内大臣湯浅倉平をお召しになり、外務大臣に対し参謀総長の奉答を伝え、内閣総理大臣が同意ならば、犯人引き渡しを条件に封鎖解除の運びに進むべき事を伝えるように命じられる》
だが、平沼騏一郎内閣は、なかなか昭和天皇の意向に沿うことができない。反英世論の高まりが、一切の妥協を許さなかったのである。
世論を煽ったのは、またも新聞報道だ。6月15日の東京朝日新聞が夕刊コラムに書く。
「(イギリスに)断じて半歩をも誤るなかれ」
7月8日の東京朝日新聞も社説で焚きつける。
「本質の点において、妥協や譲歩の余地が、一厘一毛もない」
こうした反英報道の背後に、英仏を攻撃対象に含める日独伊三国同盟の締結を急ぐ、陸軍がいたことは言うまでもない。右翼団体も騒ぎ出し、同盟に反対する重臣や海軍首脳にまで斬奸状が送りつけられるなど、国内に不穏な空気がみなぎった。
その頃、同盟阻止に奔走する海軍次官の山本五十六は、暗殺されることも覚悟して遺書を書いている。
「一死君国に報ずるは素(もと)より武人の本懐のみ、豈(あに)戦場と銃後とを問わむや。(中略)誰か至誠一貫、俗論を排し倒れて己むの難きを知らん」
ただ、陸軍側にものっぴきならない事情があった。
実はこのとき、満州で、
ソ連が猛烈な攻撃をかけていたのである。
1939(昭和14年)7月、満州とモンゴルの国境地帯、ハルハ河東岸のノモハンに集結した関東軍の総兵力2万人、戦車・装甲車90両、火砲140門、航空機180機。対するソ連軍は1万2500人、戦車・装甲車450両、火砲110門、航空機280機。火力と機動力に勝るソ連側に、やや分があったといえよう。だが、関東軍は強かった。
最初に動いたのは関東軍だ。戦車第3、第4連隊を中心とする機動部隊がハルハ河東岸のソ連軍陣地を正面から攻め、第23師団の歩兵部隊が西側に回り込んで背後から叩くという、鋏撃作戦である。
7月2日午後6時15分、折からの雷雨をつい、機動部隊が前進を開始する。日本の戦車は砲力と速度に劣るが、乗員の練度は抜群だ。巧みな射撃でソ連の装甲車を撃破し、戦車第3連隊は日没までに敵陣左翼の奥深くに進入した。右翼を攻めた戦車第4連隊は、戦車戦で世界初となる夜襲を敢行。敵陣を蹂躙(じゅうりん)して野砲を踏みつぶし、逃げ惑う敵兵を蹴散らかした。
3日午前6時10分、主力の歩兵部隊がハルハ河西岸に渡る。不意打ちとなった渡河攻撃に、ソ連軍は狼狽(ろうばい)した。ソ連第11戦車旅団が応戦したが、関東軍の砲兵に狙い撃ちされ、次々に擱座(かくざ)、炎上する。午前中に関東軍が破壊した戦車、装甲車は約100両に上がった。
ソ連第57特設軍司令官、ゲオルギー・ジューコフは愕然とした。のちに、こう懐柔している。
「旅団は人員の半分を戦死者、負傷者として失った。戦車も半数かそれ以上を失った。攻撃を支援していたソ連軍とモンゴル軍の装甲車はもっと大きな損害を出した。戦車は私の目の前で燃えた。ある戦区では36両の戦車が散開したが、そのうち24両は瞬く間に燃え上がっていた」
だが、関東軍の進撃はここまでだった。砲弾が尽きてしまったのだ。ソ連軍を過小に見積もって十分な準備をしなかった、司令部参謀の失態である。西岸に渡った歩兵部隊は5日までに東岸に撤退。敵陣を踏みにじった戦車部隊も歩兵の到着が遅れたため、占領地を保持できずに後退した。
一方、ジューコフは用意周到だった。関東軍が撤退し、戦線が膠着(こうちゃく)した7月中旬~8月中旬、あらゆる手段で兵力の増強に努め、兵員5万7千人、戦車・装甲車840りょう、航空機580機を終結させる。
この間、関東軍の現地部隊は司令官の指示で冬籠りの準備をしており、僅かに歩兵一個連隊程度が増強されたにすぎない。活躍した戦車部隊も解散させられ、一両の戦車もいないというありさまだ。
8月20日、満を持したジューコフの、大地を揺るがす猛攻撃が始まった。
1,939(昭和14年)5~9月のノモハン事件―。前半に力戦した関東軍だが、終盤は一方的に押された。8月20日、圧倒的火力を有する5万7000人のソ連軍が、砲弾が乏しかった2万人弱の関東軍に襲いかかる。関東軍第23師団は包囲され、ノモハンの地を明け渡して敗退した。ソ連軍の司令官、ジューコフがスターリンに打電する。
「当地時間八月二八日二二時三〇分、敵の最後の拠点高地が一掃されました」
この日、関東軍の不敗神話は崩れた。ある砲兵隊の最後の状況を、九死に一生を得た軍曹が述懐する。
「やがて自爆するための最後の一発の弾丸までことごとく撃ち尽くしてしまった。山崎大尉の命令で、火砲に最敬礼したのち、その重要部品を土中に埋めた。残された道は、敵戦車への肉弾攻撃。(中略)私は日記帳に最後の模様を書き込んだ。わずか八行だった。走り書きの文字は私以外に判断できないが、『天皇陛下万歳』という最後の六文字だけは誰が見てもわかる。これを書き終えて、私は『いつ死んでもよい』と気が楽になった」
敗退の理由は、上級司令部のずさんな作戦指導だ。
ソ連軍の兵力を過小に見積もり、十分な砲弾を準備しなかったうえ、近代的な機動戦に無理解だった。にもかかわらず上級司令部は、自らの責任を現場に擦り付け、砲弾が尽きて後退した司令官に自決を強要するなどの醜態をさらした。
張作霖爆殺事件以降、陸軍の軍紀が乱れ、昭和天皇を悩ませてきたことは何度も書いた。しかしそれは、すべて陸軍師範学校および陸軍大学校卒業のエリート軍人によるものだ。一般の将兵の規律は極めて高く、どんな過酷な戦闘にも耐え抜いた。5月以降の全期間を通じた両軍死傷者は、関東軍の1万7405人に対し、ソ連軍は1万8721人。ノモハンの地を奪われたとはいえ、ソ連軍に多大な出血を強いた一般将兵の力戦は、称賛されるべきだろう。
翌年5月、大将に昇進してモスクワに凱旋(がいせん)したジューコフに、スターリンが聞いた。
「君は日本軍をどのように評価するかね」
ジューコフは答える。
「彼らは戦闘に規律をもち、真剣で頑強、とくに防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。(中略)高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切型の行動しかできないようです」
ジューコフは、見抜いていたのだ。
一方、欧州と東京では、ノモハン事件にかまっていられないほどの、複雑怪奇な事態が起きていた。
ノモハン事件の勃発により、陸軍が日独伊三国同盟の締結を急いだのは言うまでもない。
ソ連軍の猛攻で関東軍が敗退するほぼ半月前、昭和14年8月8日に開かれた五相会議。陸相の板垣征四郎は、「ドイツが提案する三国同盟を、至急、保留なしで締結すべき」と力説した。
ドイツの提案は、ソ連だけでなく英仏も攻撃対象としている。それに留保をつけることは、昭和天皇に念書まで提出して裁可された不動の方針だ。首相の平沼騏一郎は突っぱねた。
「自分としては苟(いやし)くも一旦お上の御允裁(いんさい)を経てゐる概定方針以外のことを申し上げることはできない」
同意が得られなかった板垣は、「驚くべき行動にでる。11日、駐日ドイツ大使と駐日イタリア大使に、「同盟の締結を実現させるために、最後の手段として辞職を賭して争う決意である。(中略)辞職は八月一五日にする積もりだから、独、伊両国が譲歩によって援助を与えてくれるよう希望する」と申し入れたのだ。一国の大臣が他国の大使に倒閣の陰謀を打ち明けるなど、前代未聞の愚行だと言えるだろう。
だが、その後に世界中が驚くことが起きる。23日、ノモハンで関東軍がソ連軍の猛攻にさらされている最中に、ドイツがソ連と不可侵条約を締結したのだ。
その第2条は、こう規定する。
「締結国(独ソ)の一方が第三国(日本を含む)による交戦行動の目標となった場合、他の一方はいかなる方法によっても第三国に援助を与えない」
明白な裏切り行為である。三国同盟に奔走していた駐独大使の大島浩は抗議したが、ドイツ外相のリッべントロップに軽くあしらわれただけだった。
ドイツの狙いは、ポーランド侵攻だ。東のソ連と西の英仏に鋏撃されることを避けるため、侵攻前にソ連と手を組んだのだ。日本の事など、考慮していなかったのである。
陸軍の面目は丸つぶれだ。当然、三国同盟の交渉は打ち切られた。一方、もともとナチス・ドイツを信用していなかった昭和天皇は、むしろ安堵(あんど)したようである。23日、侍従武官長に言った。
「これで陸軍が目覚めるこヽなれば却て仕合せなるべし」
首相の平沼も、内心は昭和天皇と同じ気持ちだったのではないか。周囲に誤解されながらも、英仏を攻撃対象とする同盟は結ばないと心に決めていたことはすでに書いたとおりだ。初志貫徹した平沼に、政権への未練はない。28日、「欧州の天地は複雑怪奇」の言葉を残し、内閣総辞職した。
独ソ不可侵条約により日独伊三国同盟の交渉が打ち切られ、近く予想される欧州の戦争に日本が巻き込まれる恐れはひとまず遠のいた。この交渉打ち切りに、昭和天皇の意向が影響しいたことは疑いない。
平沼騏一郎内閣時代、英仏を敵に回す三国同盟に反対だった昭和天皇は、同盟を急ぐ陸軍の手綱を引こうと、立憲君主の枠内でさまざまなアプローチを試みている。昭和14年5月25日には、侍従武官長の宇佐美興屋を交代させた。昭和天皇は宇佐美を、「人格者ではあったが、政治的才能に欠ける」とみており、自身の意向を陸軍に浸透させることが、なかなかできなかったからだ。
後任の武官長は、中支那派遣軍司令官だった陸軍大尉、畑俊六である。昭和天皇は宮内大臣に命じ、畑が三国同盟に反対である事を確かめてから、この人事を裁可した。畑は、温厚にして誠実な武人だ。交代後、昭和天皇は侍従武官の一人に、「今度の武官長はいヽよ」と語っている。
ノモハン事件の勃発で陸軍の焦燥が激しくなり、同盟締結の圧力が強まった8月初旬、昭和天皇は首相の平沼に言った。「統師権につい―言葉を換えていへば陸軍について、何か難しいうるさいことが起こったならば、自分が裁いてやるから、何んでも自分の所に言ってこい」
平沼は感激しつつ、内大臣に「陛下を御煩はせすることはよくないから、よくよくでなければ、さういふことは願ふまい」と伝えている。
8月28日、平沼内閣の総辞職を受け、組閣の大命が下ったのは、台湾軍司令官などを務めた予備役陸軍大将、阿部信行だ。内大臣の湯浅倉平らは「阿部は経験に乏しい」などと難色を示したが、陸軍がごり押ししてきたのである。
その安部が参内したとき、昭和天皇は「憲法を厳に遵守すること」を求めるとともに、こう言った。
《陸軍には久しく不満足であり粛正しなくてはならず、陸軍大臣には侍従武官長畑俊六又は陸軍中将梅津美治郎の他には適任者がいないように思われ、たとえ三長官の反対があっても実行するつもりであることを述べられた上で、困難を排し努力することを望む旨の御言葉を賜う》
昭和天皇が閣僚人事で、具体名を挙げて指示を出すのは初めてのことだ。立憲君主の枠組みからも逸脱しかねないが、破滅の戦争を回避するため、あえて自らの意思を表明したのだろう。
だが、いかに昭和天皇でも、世界的な歴史の流れは変えられない。安部内閣の発足直後、欧州で、やがて全世界を巻き込む大戦が勃発する。
1939(昭和14)年9月1日、欧州の戦雲に、雷光が走る。
夜明け前の空はドイツ軍機に覆われ、地上はドイツ軍戦車に埋め尽くされた。午前4時45分、第二次世界大戦の序曲となるナチス・ドイツのポーランド侵攻作戦が、ついに発動されたのだ。
この日、アドルフ・ヒトラーは仕立て下ろしの軍服を身につけ、グロールオペラハウスで演説した。
「わたしはいま自分がドイツ最初の兵士となることしか望まない。従ってわたしは再び軍服を身にまとった。わたしにとっては常に神聖かつ貴重なものであった軍服を。わたしは勝利の日までこの軍服を脱ぐつもりはない」
聴衆は熱狂し、「ジーク・ハイル!」の絶叫がクロールオペラハウスで響きわたった。
これより前、恫喝外交で領土を拡張してきたヒトラーは、軍幹部らに「ポーランドに侵攻しても英仏との戦争にはならない」と言い聞かせていた。ヒトラーの情勢判断は、半分当たり、半分外れたといえよう。9月3日、英仏両国はドイツに宣戦を布告。ヒトラーを愕然とさせたが、国境沿いに部隊を展開しただけで、攻撃してくることはなかった。
英仏両国の軍事支援が得られず、ドイツ軍の機動力に圧倒されたポーランド軍にとどめを刺したのは、9月17日に突如攻め込んできたソ連軍である。開戦9日前に締結された独ソ不可侵条約の秘密協定により、ポーランドは分割されて独ソ両国の勢力圏に組み込まれることが、決まっていたのだ。28日、自主独立国としてのポーランドは消滅した。
ドイツの電撃侵攻とソ連の非情行為に、世界中が震撼(しんかん)した。昭和天皇も、強い関心を抱いたようだ。
9月1日《午後9時、常侍官候所に出御され、当直常侍官を御相手に、世界情勢などにつき種々お話しになる》
3日《(夕方に当番常侍官らと欧州情勢などにつき話した後)午後九時前、再び常侍官候所に出御され、当直常侍官を御相手に、世界情勢など種々お話しのところ、同四十分、英国の対独宣戦布告のニュースをお聞きになる》
もしも日独伊三国同盟が締結されていたら、この時点で日本は戦争に巻き込まれただろう。昭和天皇は、改めて安堵したのではないか。
4日、発足直後の安部信行内閣が声明を出した。
「今次欧州戦争勃発に際しては帝国は之に介入せず専ら支那事変の解決に邁進せんとす」
昭和天皇の意をくんだ安部は、この機会に、外交政策の大転換をはかろうとする。
安部信行内閣が発足する2日前、昭和14年8月28日、昭和天皇は、参内した安部に言った。
《時局並びに財政に関する顧慮は英米との調整を必要とし、それゆえ外務・大蔵・内務・司法の人選には特に注意すべきこと…》
ドイツがポーランドに侵攻したのは、組閣の2日後だ。昭和天皇の意をくんだ安部は、ドイツに傾斜していた外交政策を切り替えようとする。問題は、外相を誰にするかだ。外務省内には、日独伊三国同盟をごり押しした駐伊大使の白鳥敏夫を推す声もあったが、問題外だろう。悩んだ末、安部が白羽の矢を立てたのは、学習院長の野村吉三郎である。
海軍予備大尉でもある野村は、誰もが認める親米派だ。野村が駐米大使館付武官だった大正4年頃、当時海軍次官だったルーズベルトの私邸を訪れて歓談するほどだった。日米関係を好転させるには、うってつけの人事といえる。
一方、阿部から外相就任を打診された野村は戸惑い、こう言った。
「来年は皇太子(現上皇陛下)が学習院にお入りになる。それについて、今日院長が代わることは面白くないと懸念する」
学習院長としての野村の評価は高い。宮中側近の中からも、院長を交代させるべきじゃないと否定的な声が上がった。しかし、話を聞いた昭和天皇は言った。
「国家の為ならば、学習院の方はどうでもいヽぢやないか」
9月25日、首相が兼務していた外相に、野村が就任した。以後、野村は米大使のグループや英大使のクレーギー会談を重ね、対米英関係の改善に奔走する。
喫緊の課題は、日米通商航海条約をいかに継続するかだ。アメリカは7月、同条約を昭和15年1月26日をもって廃棄すると通告しており、これを回避しなければ石油、資材、原料を輸入できる保証がなくなる。
野村は10月20日、伊勢神宮へ参拝に向かう車中で敢然と所信を明らかにした。
「日米両国が堅く協力して、その属する太平洋地域の平和確立に協力したい」
野村の誠意を、グルーもしっかり受け止めたようである。12月22日の会談で、グルーは野村に、米大統領の緊急措置により日米貿易の現状を維持する案などを示したという。
だが、昭和初期の歴史は、平和を願う保守派にどこまでも冷淡だった。日中戦争で疲弊した国内情勢と、欧州で急展開をみせる国際情勢とが、野村の努力を潰してしまうのである。
欧州で戦端が開かれた昭和14年、日本の国民生活は、窮乏の一途をたどっていた。
政府は2月、軍需物資の不足を補うため製鉄不急品の回収を開始。ポストやベンチが木製となる。3月、国民精神総動員委員会が設置され、贅沢品全廃運動がスタート。10月、インフレ抑制のため価格統制令が施行。12月、ネオンやエスカレーターなどの電力使用が禁止され、木炭の配給も始まった。
昭和天皇が、心を痛めたのは言うまでもない。自ら率先して、生活を切り詰めた。
5月19日《時局を考慮され、金製品の使用を控えるべき旨のお思召しにより、従来御試用の金縁眼鏡をお止めになり、この日よりサンプラチナ縁の眼鏡を御使用になる》
6月5日《葉山におい採集に御使用の三浦丸は、支那事変以来、油の消費節約の思召しを以て、葉山には回航せず海軍横須賀工廠(こうしょう)に依託保管中のところ、この際海軍において活用させるため、下賜されることとなる》
9月1日《震災記念日につき例年御昼餐は簡素な御食事とされてきたところ、思召しにより、この日より毎月一日は朝・昼・夕を通じて一菜程度の極めて簡単な御食事とすることを定められる》
物資の欠乏だけでなく、思想統制が始まったことにも、昭和天皇は危機感を抱いていた。
10月27日《(進講者の人選などをめぐり侍従長に)国史研究者につき、皇室に関することは何も批評論議せず、万事を可とするが如き進講は、聴講しても何の役にも立たずと評される。(中略)新経済学者などの極端な学説は、それに化せられる憂いがあり不可にして、穏健なる進講者にして各種学説を紹介する程を可とする御意見を述べられる》
一方、国民生活が悪化する中、阿部信行内閣が国政の求心力となるには、荷が重すぎたようだ。近衛文麿。平沼騏一郎と大物政権が続いたあとで、首相の安部は、力不足と見られたのである。
最初に見切りをつけたのは、政党だ。阿部信行は11月に内閣改造を行い、立憲民政党総裁の町田忠治らに入閣を懇請したが、拒絶された。12月の議会には一部の政党から内閣不信任決議案と辞職勧告が出され、民政党と立憲政友会の有志議員も含めて200人以上が内閣に善処を求める決議まで行った。
翌15年1月16日出身母体の陸軍からも見放された安部は、在任4カ月ほどで内閣総辞職する。
次期首相の大命降下を受けたのは海軍大将、米内光政だ。しかし、欧州の戦局が新たな展開を迎えたことで、米内内閣も短命に終わってしまう。
西ひかし むつみかはして 栄ゆかむ
世をこそいのれ としのはしめに
阿部信行内閣の総辞職からほぼ半月後の昭和15年1月29日、皇后の歌会始で詠まれた昭和天皇の御製(ぎょせい)である。欧州の戦雲がアジアにも伸びようとする中、平和を祈る心が、一字一句に込められている。
次期首相、米内光政は昭和12~14年の海相時代、英仏を敵に回す日独伊三国同盟に体を張って反対した硬骨漢だ。昭和天皇の期待は高かっただろう。ただし、陸軍が協力的でなければ内閣は持たない。大命降下の日、昭和天皇は陸相の畑俊六を呼んで聞いた。
「陸軍は、新しい内閣に対してどういうふ風な様子か」
「陸軍は纏(まと)まって、新しい内閣に随いて参ります」
「それは結構だ。協力しろ」
米内は、安倍内閣がとった米英重視の外交路線を引き継ぎ、外相に有田八郎を迎えた。近衛文麿内閣の後半以降、ともに閣僚として三国同盟を阻止してきた盟友である。だが、欧州の戦局が、米内に腕をふるうことを許さなかった。
1940年(昭和15)年4月、ナチス・ドイツはノルウェーに侵攻。
5月にはフランスに攻め込み、西部戦線で独軍と英仏両軍がにらみ合いを続けていた「まやかしの戦争」は、膨大な出血を強いる「凄惨(せいさん)な戦争」へと一変した。東部戦線ではソ連がバルト三国に大軍を送り込んで占領。戦禍が一気に拡大する。
世界は、独軍の電撃戦を驚愕の目で見つめるしかなかった。仏軍は西部戦線に66個師団の大兵力を展開していたが、独軍の機甲3個師団が防備の手薄なアルデンヌの森を突発。戦略予備軍を用意していなかった仏軍は総崩れとなり、英軍の遠征部隊もダンケルクから英本土へと撤退する。6月14日、作戦発動から1カ月余りでバリは陥落し、それより前にオランダとベルギーも降伏した。
独軍の快進撃に、強く刺激されたのは日本の陸軍と革新新勢力である。独ソ不可侵条約で棚上げされた三国同盟の動きが再燃し、「バスに乗り遅れるな」の大合唱とともに、同盟反対の米宇都内閣を揺さぶった。
7月16日、陸相の畑が辞職し、内閣は瓦解(がかい)する。畑は昭和天皇に「協力」を言明していたが、倒閣に走り出した陸軍を抑えきれなかったのだ。
昭和天皇は嘆息したことだろう。ただ、畑の辞表は従来の陸相と異なり、理由が明確にしてあった。翌17日、恐懼(きょうく)して参内した畑に、昭和天皇は言った。
「今回のことは誠に遺憾に思ふ。而(しか)し今迄兎角曖昧な態度が多かったが、今回責任を明にしたのは不幸中の幸いと思ふ」畑の頬を、涙がつたった。
昭和天皇が期待をかけた米内光政内閣が退陣した背景には、欧州の戦乱という国際情勢に加え、政党の変革という国内問題があった。元首相で枢秘院議長の近衛文麿を担ぎ出し、全国民的な新党をつくろうという、新体制運動の盛り上がりである。
いわゆる近衛新党の動きは、第一次近衛内閣の昭和13年夏頃から強まっていた。最初は前のめりになったのは、日中戦争で右傾化した社会大衆党や中野正剛の東方会など左右両翼の革新系だ。立憲政友会の領袖らにも波及し、15年2月の衆議本会議で「反軍演説」をした立憲民政党の斎藤隆夫が除名されたのを機に、政・民二大政党の保守派は総崩れとなる。
米内内閣は、内大臣の湯浅倉平らが後ろ盾となって発足した。全体主義的な風潮が強まる中で、自由主義的な米内内閣は「重臣の秘めた切り札」だったと、当時の新聞が書く。その切り札への揺さぶりは重臣にも向けられ、湯浅は健康を悪化させて15年6月1日に辞職する。後任の内大臣は近衛の盟友、木戸幸一である。
7月17日、米内内閣が瓦解し、昭和天皇から後継首班の下問を受けた木戸は、宮中に首相経験者に7人を集めて重臣会議を開き、わずか30分ほどで近衛の推薦を決めた。新体制運動が盛り上がる中、近衛以外では国民の支持は得られないだろう。何より、陸軍によって潰されてしまうことが目に見えていた。
首相選定は本来、元老の西園寺公望(きんもち)の役目だ。しかし、西園寺は第一次近衛内閣を最後に、内大臣らが持ち込んだ案に賛同するだけで、深くかかわろうとしなかった。自身が推薦した首相が陸軍に次々と潰されていくことに、うんざりしていたのではないか。
今回は、賛同することさえ辞退した。4カ月後に死去する西園寺には、第2次近衛文麿内閣の行く末が見えていたのかもしれない。
17日夜《(昭和天皇は)お召しにより参内の公爵近衛文麿に謁を賜い、組閣を命じられる。その際、内外時局重大につき外務・大蔵両大臣の人選には特に慎重にすべき旨を仰せになる》
近衛の人事は、良くも悪くも斬新だ。昭和天皇から「特に慎重にすべき」と指示された外相には、国際連盟脱退で名を売った元外交官の満鉄総裁、松岡洋右を起用した。軍部統制のカギを握る陸相は、統制派を束ねる航空総監、東条英機である。
この2人を、新聞各紙は「登場した両巨星」などともてはやし、こぞって歓迎した。
だが、近衛も新聞も、見る目がなかったといえよう。この2人が、やがて近衛が命がけで取り組む和平工作をぶち壊してしまうのだ。
第2次近衛文麿内閣の外相となった松岡洋右は、自己顕示欲が強く、はったりの多い人物とされる。日中戦争が始まる前の昭和11年12月、日独防共協定の成立を受け、こんな演説をしていた。
「日本人は心中といふことを知ってる筈だ。(中略)ドイツと結婚した許(ばか)りなるに直ぐ(英米など)他所の女に色目を使ふとは一体何事であるか、今少し国民の気節なり気品と云ふことを考ふるがよい。手れん手管が外交の総(すべ)てヾはない」
この”心中方針”を4年後も包懐していたとすれば、松岡洋右を外相にしたのは亡国人事といえよう。だが、近衛は松岡流のはったりとみたようだ。組閣2日前の15年7月20日、近衛は元老私設秘書の原田熊雄に、こう言っている。
「松岡は、日米戦争でもやるやうな風に言ひ出すので、初めての内は海軍大臣なども驚いてゐたやうだが、結局は非常に穏健な論で安心したやうだつた。あヽいふ柄にもないことを一応言って、人を驚かしたりすることは、どうも彼の欠点だ」
近衛が松岡を起用したのは、松岡のはったりで陸軍を抑えるためだったとの見方もある。これまで陸軍は、外交に口を出しして政府を振り回して来た。しかし、ときに陸軍を上回るような強硬論を唱えつつ
「結局は非常に穏健な」松岡ならば、陸軍の介入を容易に許さないのではないか―。
結論をいえば、見込み違いだ。のちに近衛は、陸軍よりも松岡に振り回されることになる。
7月22日に発足した第2次近衛内閣は、早くも27日の大本営政府連絡会議で「世かいヽ情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」を決定した。ドイツに降伏したフランスとオランダが東南アジアにもつ植民地を日本の勢力下に置くため、1、独伊両国との政治的結束の強化 2、対ソ国交の飛躍的調整 3、対米英開戦の覚悟―を規定した政軍連携の外交方針で、阿部信行内閣以降の「中道外交」を一気に転換するものといえよう。
昭和天皇が憂慮したのは言うまでもない。参謀総長と軍令部総長に説明を求め、軍令部総長から《日米開戦の場合、持久戦になれば不利が予想されるため、特に資材の準備が完成しない限り軽々に開戦すべきではない旨の言上》を受けると、翌日、侍従武官長に
《(陸軍)両軍の歩調が十分に揃わない観があることから、陸軍が無理に海軍を引き摺(ず)らないよう注意することを御下命》になったと、昭和天皇実録に記されている。
一方、松岡は日独伊三国同盟の締結に向け、猛然と走り出した。9月7日にドイツ特使が来日したことを受け、松岡主導による、本格交渉が始まったのだ。
第2次近衛文麿内閣が発足して間もない頃だ。外相の松岡洋右が外務省欧亜局の主管課長に、日独伊の提携強化についてただした。欧亜局では、「参戦にいたらざる限度における最大限の提携」を目指す案を文書で提示したが、それを一読した松岡は言った。
「こんなものではダメだ」
松岡は、その案に「虎穴に入らずんば虎児をえず」の一文を書き込んで突き返したという。以後、松岡は省内の幹部らにも相談せず、ほぼ独断で三国同盟を推し進めていく。
昭和15年9月7日、ドイツ本国から特使のスターマーが来日すると、松岡は私邸に招いて会談を重ね、早くも10日、日本は欧州における独伊の指導的地位を、独伊は東アジアにおける独伊の指導的地位を認めて尊重するとした同盟案を提示。これに対してスターマーは、日独伊の1国が「現在の欧州戦争又は日支那紛争に参入し居らざる一国」から攻撃を受けた場合、「有ゆる政治的、経済的及軍事的方法により相互の援助」すべきとする修正案を申し入れた。
ドイツの狙いは、イギリス支援動くアメリカの参戦を、日独伊の軍事同盟により牽制(けんせい)することだ。武力的な威嚇でアメリカを刺激する同盟案は本来、穏健保守派の重臣や宮中側近らが憂慮してきたことだが、松岡は原則同意した。
「今もはや日独伊を蹴って英米の側に立つか、日本としてハッキリした態度を決めなければならぬ時期に来ている」
松岡が、首相や陸海軍上層部を説いた言葉である。
松岡の案は四相会議や臨時閣議でも了承され、9月19日の御前会議で最終確認された。その際、枢秘院議長の原嘉道が、同盟によりアメリカの対日圧力が強まり、石油や鉄の禁輸措置に踏み切るだろうと懸念を示したが、松岡は強気だった。
「今や米国の対日感情は極端に悪化しありて、僅かの気嫌取りして恢復(かいふく)するものにあらず。只々我れの毅然たる態度のみが戦争を避くるべし」
昭和15年9月27日、ついに三国同盟は成立する。
もっとも、同盟締結の責任を松岡だけに背負わせるのは酷だろう。当時、新聞をはじめ世論の大多数が早期締結を熱狂的に支持していたからだ。
締結後、東京朝日新聞主筆の緒方竹虎が前首相の米内光政に聞いた。
「米内、山本五十六の海軍が続いていたら、徹頭徹尾反対したでしょうか」
米内は、「無論反対しました」と答えた後、しばらく考えてからこう付け足した。
「しかし殺されたでしょうね」
日独伊三国同盟が成立した昭和15年9月以降、日米関係は、一気に危険域へと達した。
同盟締結後の10月12日、米大統領のルーズベルトは
「独裁者たちの指示する道を進む意図は毛頭ない」とする強硬な演説を行い、同月30日に蔣介石政権への1億ドル追加支援を発表。12月には対日禁輸品目の範囲を拡大するなど、日本への圧力を強めていく。
いわゆるABCD包囲網が急速に形成されていくのも、この頃である。
自信家の外相、松岡洋右が同盟締結に踏み切った根底には、欧州で快進撃を続けるドイツとの関係を強化し、ドイツの斡旋により日ソ関係を修復し、日独伊にソ連を加えた威圧によってアメリカの妥協を引き出す狙いがあった。松岡の目論見は、無残に打ちのめされたと言えるだろう。
アメリカからの原料輸入がストップすれば、日本は資源を求めて南方に目を向けざるを得ない。南方に植民地を持つフランスの降伏で南進論が一気に高まり、日本軍は9月、蔣介石支援の郵送ルート遮断を名目に北部仏印(フランス領インドシナ)へ進駐。これに反発してアメリカがくず鉄の全面禁輸に踏み切ると、日本軍はさらに南部仏印への進駐を本格検討するなど、悪循環に陥ってしまう。
それより前、昭和天皇は三国連盟の危険性を、周囲に繰り返し指摘していた。7月29日には参謀次長に、こう言っている。
「独蘇共ニ不信ノ国ナリ 我国カ対米戦争ノ為メ国力ヲ疲弊シアルニ乗シ我国ニ対シ不信行為ニ出ツル時ハ困ラサルヤ」
9月21日にも、内大臣に「此の同盟を締結すると云ふことは結局日米戦争を予想しなければならぬことになりはせぬか」と憂慮を示した。
昭和天皇は、当時の国際情勢を正確に把握していたといえるだろう。その危惧は、不幸にしていずれも的中する。
昭和天皇と同じく、三国同盟を強く懸念したのは元老、西園寺公望だ。私設秘書の原田熊雄に反対の意思を何度も示し、政治問題も含め「馬鹿げてゐる…」とまでこぼしている。
その西園寺も、11月24日、腎盂炎(じんうえん)をこじらせて死去した。享年90。末期の病床で「外交もどうもこれぢやあ困る」と独り言をいうなど、どこまでも国家を案じた、最後の元老だった」。
翌日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一に、《一時間余りにわたり公爵西園寺公望の死去を悼まれ、種々思召しを示される》
第2次近衛文麿内閣の発足により、急変したのは外交政策だけではない。議会情勢も激変した。近衛を中心とする新体制運動に乗り遅れまいと、各政党が雪崩を打って解散したのだ。
早くも組閣前の15年7月6日に社会大衆党が解散したのをはじめ、16日には立憲政友会久原派、26日に国民同盟。30日に政友会中島派、8月15日には議会中心主義の立憲民政党まで解党し、帝国議会は無政党状態となってしまう。
一方、近衛は8月下旬に新体制準備会を立ち上げ、政界、財界、言論界、右翼の有力者を委員にして挙国一致体制づくりを本格化する。従来の権力分立主義では国家の総力を一元化しにくいと、憲法改正まで匂わせるようになった。
一段と強まる政治の統制色―。それを憂慮したのは、昭和天皇である。8月31日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一に《憲法改正が必要ならば、正規の手続きにより改正することに異存はないが、総理がとかく議会を重視していないように思われること、また我が国には歴史上、蘇我と物部、源氏と平氏を始め常に相対立する勢力が存在していることに鑑み、相対立する二つの勢力を統一することは困難と思われる旨の御感想を述べられる》。
この年は皇紀2600年。皇室の傘の下、対立する勢力も共存してきたのが日本の歴史だ。昭和天皇は、ファシズムのような権力集中体制は国柄に合わないと、考えていたのだろう。
近衛の新体制運動は、10月12日に発足した大政翼賛会に帰着する。しかし、途中で嫌気がさした近衛が投げ出したため、同会はやがて、近衛の真意とは正反対の、軍部の方針を支える組織になっていく。
この間、日中戦争も行き詰まっていた。親日派の汪兆銘が1940(昭和15)年3月、日本の意を受けて新政府を樹立するも中国民衆の支持は得られず、参謀本部などが密かに進めてきた蔣介石政権に対する裏工作(桐工作)も、10月には頓挫した。何をやってもうまくいかなかったといえよう。
昭和天皇は、破滅の戦争の足音が近づいてくるのを、感じ取ったのではないか。9月16日、参内した近衛に言った。
「自分は、この時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となった時に、(中略)総理も、自分と労苦を共にしてくれるだらうか」
これまで、多くを中途半端に投げ出してきた近衛だが、この一言は胸に重く突き刺さったはずだ。以降、近衛は人が変わる。決死の思いで、日米開戦の回避に奔走するのである。
アメリカの首都ワシントンの冬は、東京よりも気温が5度ほど低い。だが、新任の駐米大使、野村吉三郎を凍えさせたのは、首都の外気ではなくも対日世論の険悪な空気だっただろう。
1941(昭和16)年2月12日、野村は着任早々、米国務長官のコーデル・ハルを訪ねて会見した。時間はわずか4分。現地の新聞は、短い会見時間のレコードだ」などと報じた。
14日は信任状奉呈式。いよいよ米大統領、フランクリン・ルーズベルトに会う日である。野村は大正4~7年に駐米大使館付武官を務め、同時期に米海軍次官だったルーズベルトとは旧知の仲だ。その後も文通を続けていたが、再会するのは二十余年ぶりとなる。
御名御璽(ぎょじ)の入った信任状を手に、ホワイトハウスの門をくぐった野村は身を硬くした。出迎えた旧友の表情も、どこかぎこちなかった。両者は型通りの挨拶をかわし、奉呈後に少人数での歓談が始まると、ルーズベルトはとたんに相好を崩した。
「アドミラル野村、あなたは一向も変わらない」
この一言に、野村は生気を取り戻したことだろう。
続けてルーズベルトは言う。
「私は日本の友であり、米国をよく知る君は米国の友である。だからお互い、率直に話ができるはずだ」
ルーズベルトは、日本の南進政策と三国同盟に懸念を示した。口調は穏やかだが、日本への不信感を隠そうとはしなかった。野村は、返す言葉に力を込めた。
「自分は、日米は戦うべきでないと徹底的に信じている。両国は協力すべきだと確信しています」
ルーズベルトが表情を緩める。
「私は今後、いつでも喜んで君に面会するだろう」
それまでの張りつめた空気が、うそのように打ち解けた歓談だった。3日前には野村の着任に冷淡だった現地紙も、この歓談を好意的に報じた。以後、野村は精力的に動く。3月8日にはハルと2時間にわたり会談。ハルは改めて三国同盟と南進政策への警戒感を示し、野村は日本の立場を説明した。
別れ際、ハルは言った。
「自分はあなたとのみ、この問題を非公式に、あるいは個人的に、オフレコで話をすることが出来る。大統領と自分とは同じ意見だが、あなたが大統領と会見を望まれるなら、自分が仲介しよう」
滑り出しは上々だ。野村は、第一のハードルを乗り越えたと手応えを感じたのではないか。だが、障害はむしろ東京にあった。外相の松岡洋右が、アメリカを刺激するような行動を起こしたのである。
ワシントンで駐米大使の野村吉三郎が米国務長官のハルらと会談していた頃、東京では外相の松岡洋右が首相の近衛文麿らに見送られ、欧州歴訪の旅に出た。出発は昭和16年3月12日の夜。自ら渡欧して独伊との関係強化を誇示するとともに、ソ連と不可侵条約を締結し、アメリカに圧力をかけて譲歩を引き出そうというのが、松岡の狙いである。
この時代、その方向性はともかく、松岡ほど馬力のある日本人はいなかっただろう。知略に富、語学に秀でている。最初に目指したのはモスクワ。シベリア鉄道の車中で、松岡は随員らにしゃべりまくった。
…ロシア革命に干渉したシベリア出兵はアメリカの謀略だった…、アメリカの策略が日本の真意を誤らせた…、日本はソ連と結ばなければならぬ…
車内に盗聴器が仕掛けられていることを知っての、リップサービスである。こういう芸当ができるのも、松岡の持ち味といえよう。
モスクワに着いた松岡は3月24、クレムリン宮殿にソ連外相のモロトフをたずねた。しばらくしてスターリンも姿をみせ、2人は固い握手を交わす。
その場で松岡は、臆することなく一席ぶった。
「日本人は道義的共産主義者である。この理念は遠い昔から子々孫々受け継がれてきた…」
松岡流のはったりだ。スターリンは煙に巻かれた。松岡は不可侵条約を提案すると、ソ連側の回答を待たず、その日のうちにモスクワを離れた。
次の目的地はベルリン。26日にアンハルター駅に到着した松岡を待っていたのはリッべントロップをはじめずらりと並ぶナチス高官である。宿泊所までの沿道は日独国旗を振る約30万人の群衆で埋め尽くされた。
大国の元首級の扱いで松岡をもてなしたドイツの狙いは、大英戦に日本を巻き込むことだ。27日から29日まで、リッべントロップは松岡と3回会見し、日本にシンガポール攻撃を求めた。27日にはヒットラーが直々に交渉し、熱弁をふるって日本の奮起を促した。
だが、ドイツの誘いにうかつに乗るような松岡ではない。会見に同席したドイツ側関係者は後日、「松岡は決定的な言葉を一つも与えなかった」(通訳を務めたシュミット)、「松岡が八紘一宇論で長広舌をふるったので、ヒットラーは不機嫌になった」(駐日大使のオットー)は話している。
31日からはローマを訪問。ここでもムソリーニから異例の歓待を受け、独伊訪問中、枢軸強化の新聞報道が世界中を駆け巡った。
4月5日、松岡は再びモスクワに向かう。ここで松岡は、外交の”電撃戦”を行うのである。
ドイツとイタリアで華々しい外交を展開した外相の松岡洋右が、世界中の耳目を集めながら再びモスクワ入りしたのは1941(昭和16)年4月7日である。松岡の狙いは、日ソの勢力範囲を双方が承認して侵略しないとする、不可侵条約の締結だ。
日本に有利な条件を引き出すため、松岡はドイツの斡旋を期待したが、独ソ関係は急速に悪化しており、訪独中に色よい返事は得られなかった。しかし、松岡は意に介さなかったばかりか、むしろソ連を揺さぶる好機とみたようである。
実際、ソ連は日独に鋏撃されることを恐れていた。この時点で日本もソ連も、何らかの安全保障を求めていたと言えるだろう。後はどちらが大きなパイを得るかだ。ソ連はこの機会に、ロシア革命後に日本が獲得した北樺太の石油利権を取り戻そうとする。
交渉は、弱みや焦りを見せた方が負けだ。松岡とモロトフの、息詰まる駆け引きが始まった。
7日、松岡が改めて不可侵条約が適当だと主張し、あわせて日本の北樺太利権の放棄を迫った。9日、松岡は一歩引いて中立条約に同意し、北樺太問題とは切り離して即時調印するよう求めた。しかしモロトフはかたくなに、北樺太問題の解決が不可欠だと言い張った。
ここで松岡が手腕をみせる。「これ以上、会談を続けるのは無駄なようですな」と、帰り支度をはじめたのだ。モトロトフは慌てた。「11日にもう一度お会いしたい」と引き止め、10日に作戦を練り直す。一方で松岡は10日、もう交渉には興味がないといった様子でバレエ鑑賞を楽しんだ。
11日、モロトフのもとを訪ねた松岡は、これまでの歓待に感謝し、別れを告げた。モロトフはそれを制し、従来の主張に多少の色をつけた条約案を手渡した。松岡は納得せず、条約とは別に北樺太問題の「解決に努力する」とした非公式文書を手交するという、いわば最後の妥協案を提示し、モロトフがためらっていると、未練も見せずに辞去した。
その夜、松岡の宿泊先に、スターリンから連絡があった。
「明日、何時でもいいから面会したい」
12日、松岡の妥協案をもとに、スターリンとの間で合意が成立し、13日、日ソ中立条約が調印される。そのニュースは、世界中をあっと驚かせた。
松岡外交の、”電撃的”勝利といえるだろう。
一方、アメリカでもその頃、野村吉三郎の地道な努力が、ひとつの成果を上げようとしていた。
自信家の外相、松岡洋右とスターリンが合意し、日ソ中立条約が電撃的に調印される。1カ月前のことだ。
1941(昭和16)年3が14日、駐米大使の野村吉三郎と米大統領のルーズベルトが非公式に会談した。海軍出身の野村に、松岡のような駆け引きはできない。交渉を進めるにあたり、まずは言った。
「自分は水兵の素直さをもってお話をするが、礼を失することがあってもその点ご容赦を乞う」ルーズベルトは、「きみの英語は大丈夫である」といって笑った。
野村は会談で、もしも日米が開戦すれば長期戦となり、仮にアメリカが勝ったとしても極東が不安定となるので、アメリカに不利であることを切々と説いた。
ルーズベルトは、日米関係の重要性に同意したものの、日独伊三国同盟と日本の南進政策に、改めて危惧を示した。
両者の主張に隔たりはあったが、野村の誠実さは、米首脳の心に届いたようだ。別れ際、同席していた国務長官のハルは満足の表情を浮かべ、こう言った。
「当面の問題のため、日本からイニシアチブをとってくれないか」
以降、イニシアチブをとるにあたり野村が目を付けたのは、米カトリック系メリノール宣教会などが進めていた、日米首脳会談工作である。
話は松岡の渡欧前、昭和15年11月にさかのぼる。
晩秋の寒風が吹く横浜港に、2人の聖職者を乗せた貨客船が到着した。埠頭(ふとう)に降り立ったのは、メリノール宣教会のウォルシュ司教とドラウト神父だ。東アジアの布教に力を入れる同宣教会は、日米関係を何とか修復したいと考えていた。来日した2人は、日米首脳の直接交渉で事態打開を図るとする私案「ドラウト覚書」を手に、各界有力者の間をひそかに回った。
日本政府は、2人のアプローチに興味を示したが、深入りはしなかった、2人がどんな立場で動いているのか、米政府と繋がっているのか、不明だったからだ。このため首相の近衛文麿は、ドラウトらとの交渉を政府高官ではなく、産業組合中央金庫理事の井川忠雄に任せた。
だが、ドラウトらの背後には、米郵政長官のウォーカーがいた。2人は、米政府と繋がっていたのである。翌年1月下旬、帰国したドラウトから、ルーズベルトとの間に交渉の糸口ができたとの連絡を受けた井川は、近衛とも相談した上、2月に渡米する。
ドラウトと井川は極秘に会談を重ねた。国交調整の基礎案ができたのは、3月17日のことだ。
この基礎案が、いわゆる「日米諒解(りょうかい)案」につながり、近衛と昭和天皇を歓喜させるのだが…。
昭和16年2月以降、米メリノール宣教会神父のドラウトと、産業組合中央金庫理事の井川忠雄との間で極秘に進められた和平工作―。3月17日に国交調整の基礎案がまとまるが、それは必ずしも、日本政府の後ろ盾を得たものではない。外務当局はむしろ、井川の素人外交を危ういものとみなしていた。
だが、ここで2人に新たな助っ人が現れる。駐米大使の野村吉三郎の要請もあり、陸軍省が工作活動のスペシャリストを派遣したのだ。陸軍中野学校を設立したことで知られる、軍事課長の岩畔(いわくろ)豪男(ひでお)である。
岩畔の参入で、和平工作は現実味を増した。それまでノータッチだった駐米大使館も側面支援し、4月、ドラウトらの基礎案を岩畔が修正して「日米諒解(りょうかい)案」が作成される。それは、次のような内容だった。
まず、日米両国が「伝統的友好関係ノ回復ヲ目的トスル責任ヲ受諾ス」とした上で、日独伊三国同盟については、アメリカがドイツを積極的に攻撃しない限り日本の軍事上の義務は生じないとし、その効力を大幅に弱める。日中戦争については、1、中国の独立2、協定に基づく日本軍の撤退3、中国領土の日併呑、非賠償4、門戸解放方針の復活―を日本政府が保障し、米政府が5、蔣介石政権と汪兆銘政権の合流6、満洲国の承認―を受容すれば、米大統領は「蔣介石政権ニ対シ和平ノ勧告ヲ為スヘン」とされた。
三国同盟で日本が譲歩し、日中戦争でアメリカが妥協した内容と言えるだろう。4月16日、野村と会談した米国務長官のハルが言った。
「この民間のアメリカ人と日本人が用意した非公式な文書は、大使が日本政府に伝達して、承認を得、さらにアメリカ側への提議についての訓令をえる場合、話し合いに入る基礎となるであろう。
ゴーサインが出たのだ。野村は歓喜し、ただちに外務省に打電する。モスクワで外相の松岡洋右が電撃的に日ソ中立条約を調印した、4日後のことである。
日米諒解(りょうかい)案の全文を外務省が受電し終わった18日、首相官邸では閣議が開かれていたが、外務省の大橋忠一が飛び込んできて首相の近衛文麿に報告した。大橋の声は、上ずっていたという。
万歳したいのは近衛も同じだ。同日夜に大本営政府連絡懇談会が開かれ、早くも交渉開始を決定した。開戦の危機が遠のいたと、誰もが思ったことだろう。懇談会の出席者が言った。
「野村大使に、原則賛成と返電したらどうか」
だが、近衛は顔を曇らせた。まだ帰国していない松岡がどんな反応をするか、不安になったのである。
昭和16年4月に作成された日米諒解案は、第2次近衛文麿内閣の外相の松岡洋右が待ったをかけて棚上げされた。松岡はなぜ、賛同しなかったのか。
松岡はもともと、日米関係の”電撃的”解決を目指していた。日独伊三国同盟や日ソ中立条約でアメリカに圧力をかけ、最後は自らホワイトハウスに乗り込んでルーズベルトと直接交渉し、譲歩を引き出そうというのが、松岡の構想である。
ところが、外相の自分の関知しないところで話が進められてしまった。要は、むくれたのである。
一方で松岡は、日米諒解案が”捏造”であるとも思っていたようだ。これは、半ば当たっている。そもそも同案は民間主導で作成された、交渉のスタートラインにすぎない。しかし、現地で関与した陸軍省前軍事課長、岩畔豪男(いわくろひでお)の手により、米首脳が提案したかのような形で日本側に伝えられた。昭和天皇が内大臣に、「米国大統領が今回の如く極めて具体的な提案を申し越したことはむしろ意外」と話したことはすでに書いたが、誤解だったのだ。
岩畔が原案に多少の色をつけたことは、陸軍上層部も感づいていた。それでも陸相の東条英機は、近衛に「この機会を外してはならぬ。断じて捕えねばならぬ」と交渉開始を迫った。日中戦争を終わらせるため、藁にもすがりたかったのだろう。
4月22日の大本営政府懇談会で、「二週間くらい静かに考えさせてほしい」と言った松岡は、持病の悪化と称して自宅に引きこもってしまった。
近衛や東条らが代わる代わる説得を試みたが、松岡は原則賛成の訓令を出そうとしない。しびれを切らした岩畔が、アメリカから国際電話をかけてきた。
岩畔「こちらから送った魚ですが、至急料理しないと腐敗する恐れがあります」
松岡「わかっちょる。野村(吉三郎駐米大使)に余り腰を使わぬように伝えておけ」
岩畔「あなたがそんな吞気でおられるなら、魚は腐るに違いありません」
松岡「わかっちよる、わかっちょる」
だが、松岡は分かろうとしなかった。
この間、野村が焦燥したのは言うまでもない。5月2日、米国務長官のハルに面会して言った。
「日米諒解案について、まだ政府の訓令はありませんが、予想外のことが起きない限り近日中にあると期待しています。ただし若干の修正は免れないだろうから、しばらくご辛抱いただきたい…」
翌日、野村の元に、ようやく松岡から訓令が届く。だが、内容とは「若干の修正」どころか、”魚を腐らせる”ものだった。
昭和16年5月6日、宮中に慶事があった。
《この日、成子(しげこ)内親王と盛厚王の結婚内約が公表される。午後、(昭和天皇は)皇后と共に奥内謁見所において稔彦王妃聰子内親王と御対面になり、御礼の言上を受けられる》
当時15歳の成子内親王は昭和天皇の長女、24歳の盛厚王は東久邇宮稔彦王の長男、またとない良縁だ。2人の将来の為にも、昭和天皇の平和を願う思いは一段と強まったのではないか。昭和天皇は翌日、婚約のお礼で参内した稔彦王に外交問題を語り、《日本の前途如何は日米交渉の成否にありとして、交渉の成立を特に希望される》。
だが、アメリカでは同じ日、駐米大使の野村吉三郎が暗澹(あんたん)とした想いで米国務長官のハルを訪ねていた。それより前、外相の松岡洋右から野村に、日米諒解(りょうかい)案の大幅修正が訓令されたからだ。
同案をめぐるアメリカの狙いは、日独伊三国同盟の無力化だが、松岡の修正案はそれを真っ向から否定するように求めていた。しかも松岡は、修正案を示す前に、欧州での戦争にアメリカが参戦すればただでは済まないと牽制(けんせい)する「オーラル・ステートメント」当該口述書を渡すように指示していた。
ちゃぶ台をひっくり返すような訓令だ。野村はハルに、オーラル・ステートメントを口頭で説明したものの、「内容に誤りも多いから」と手交しなかった。今後に悪影響がでることを懸念したのである。
松岡の修正案を、アメリカ側が歯牙にもかけなかったのは言うまでもない。12日から野村とハルの間で日米交渉が正式にスタートするが、アメリカ側の要求は日米諒解案を越えて次第に硬化し、両国問題の主張の隔たりが鮮明になっていく。加えて、野村を一層困惑させたのが、妥協を一切認めない松岡の姿勢だ。
松岡は、昭和天皇にも強硬論を唱えた。
5月8日《外相は天皇に対し、米国が欧州戦争に参加する場合には、日本は独伊側に立ってシンガポールを攻撃せざるを得ないため、日米国交調整もすべて画餅に帰すること、また米国が参戦すれば長期戦となるため、独ソ衝突の危険もあるやもしれず、その場合我が国は日ソ中立条約を破棄し、ドイツ側に立って対ソ攻撃をせざるを得ないこと等を奏上する》
昭和天皇は、松岡の正気を疑ったのではないか。松岡が退出したあと、内大臣の木戸幸一に言った。
「外相を取り換えはどうか」
松岡の強硬姿勢ではより、再び近づく開戦の危機―。
そのとき、欧州で起きた新たな事態が、日本の亀裂を決定的なものにしてしまう。
つづく
第10章 開戦前夜