世継ぎとなる皇子は、臣下の家で養育されるのが宮中の慣例だ。明治天皇は公家の中山忠能(ただやす)のもとで、大正天皇も同じ中山家で育てられた。昭和天皇も生後70日で大正天皇(当時は皇太子)から離され、枢蜜顧問官の川村純義に預けられている。

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第6章 万歳とファッショ 一

 昭和8年12月、昭和天皇は32歳―。期待と不安に胸を締めつけられながら、それを表にあらわさないようにしていた。
 天皇家に新たな命が誕生する日が、近づいていたのだ。
 大正14年成子(しげこ)内親王を出産した香淳皇后は、昭和2年に裕子(さちこ) )内親王(3年に薨去(こうきょ)、4年に和子内親王、6年に厚子)内親王
と、ほぼ2年ごとに皇女子を産んだが、世継ぎとなる皇男子には恵まれなかった。
 皇統の維持は、天皇家の最重要課題だ、なかなか皇男子が誕生しないことに宮中関係者らは憔悴(しょうすい)し、昭和天皇が確立した“一夫一婦制”をやめ、側室を置くように求める声も上がっていた。
 国民生活の模範であろうとする昭和天皇に、側室制度を復活させるつもりはない。だが、国家の柱である皇統を揺るぎないものにする必要性は、痛いほどよく分っている。第4皇女子の厚子内親王が生まれた直後の6年3月下旬、宮内大臣にこう言っている。
「この際、皇室典範を改正して養子の制度を認めることの可否を元老の西園寺公望(きんもち)に)聞いてほしい」
 昭和天皇は、そこまで考えていたのだ。
 香淳皇后が受けるプレッシャーは、より激しかっただろう。7年10月には流産も経験している。昭和天皇は当時、香淳皇后を気遣い、生まれてくる子の性別を気にするそぶりを、ほとんど見せなかった。
 8年8月に皇后妊娠が公表されて以来、国民が、今度こそはと祈る気持ちでいたことは言うまでもない。吉報をいち早くお知らせるため、帝都にはサイレンを鳴らして速報する仕組みが整えられていた。皇女子ならサイレン1回、皇男子なら2回だ。
 内大臣ら宮中幹部のもとに、「皇后ら御産気の御徴候あり」と緊急電話が回されたのは、8年12月23日午前5時半である。午前6時20分、香淳皇后が産殿に入った。
午前7時、朝日の輝く帝都に、サイレンは鳴った。
内大臣府秘書官の木戸幸一が日記に書く。
「サイレンの二声を聴く、遂に国民の熱心なる希望は満たされたたれ、大問題は解決されたり、感無量、涙は禁ずる能はず」
第5章では、満州事変の勃発から国際連盟脱退まで、軍部の暴走を食い止めようとした昭和天皇の姿をみた。だが、満州事変が一段落したあとも内外の情勢は厳しいままだ。第6章では、皇太子(天皇陛下)のご誕生に力を得た昭和天皇が、高まるファッショの動きに敢然と立ち向かう姿をふり仰ぐ。
昭和9年の宮中は、穏やかな新春を迎えた。

1月2日《「昭和天皇は」しばしばご静養室にお出ましになり、皇太子御分娩以来御静養中の皇后、及び皇太子と御対面になる》
皇太子(現上皇陛下)御誕生後の宮中の課題は、養育方針をどうするのかだ。昭和天皇と香敦皇后は、学齢期になられるまで膝(ひざ)元で養育したいと考えたが、元老の西園寺公望(きんもち)らは否定的だった。将来、万人を赤子とする皇位を受け継がれるにあたり、あまりに濃密な親子関係は好ましくないと考えたのだろう。
 過保護になるかもしれない。という懸念があった。
戦艦芙桑の分隊長となっていた弟の宣仁親王も、1月7日の日記にこう書いている。
「新宮が御誕生になつて皆大よろこびだ。併しお兄様も御仝感の様だが、やはり御教育方法が心配になる。(中略)両陛下は共に極めて御やさしい。おそらくほんとうに御叱りなることはあるまい。(中略)育て方が弱々しくされることによつては男さんについてはたしてどうであろうか」*=昭和天皇実録-21巻5頁引用

 世継ぎとなる皇子は、臣下の家で養育されるのが宮中の慣例だ。明治天皇は公家の中山忠能(ただやす)のもとで、大正天皇も同じ中山家で育てられた。昭和天皇も生後70日で大正天皇(当時は皇太子)から離され、枢蜜顧問官の川村純義に預けられている。
 だが、その頃とは時代が違う。昭和天皇と香敦皇后は、第1子の成子内親王が6歳で女子学習院に入学するまで膝元で養育しており、今回も意向だった。のちに、侍従次長となる木下道雄は日記(昭和20年11月11日付け)に、昭和天皇のこんな言葉をつづっている。
「御幼少の頃、両陛下との御交り、即ちお膝許の御生活をなかりし。御親しみも従って薄し。渡英のとき、エドワード皇太子から、毎日両陛下に逢わるるかと尋ねられて困ったとのお話あり」*=高松宮日記2巻196頁引用

昭和天皇は、皇太子に同じ思いをさせたくなかったのだろう。

一方、西園寺らは、御同居は3歳ぐらいまでと考えた。そもそも天皇と皇后の日常は極めて多忙だ。養育に力を注ぐことが困難なうえ、臣下が「無限の恭敬と絶対の臣従」で奉仕する宮中の環境は、養育の場にふさわしくない。皇太后(貞明皇后)も早くから別居が望ましいと側近らに伝えていた*=木下道雄記「側近日誌」41~42ページ引用
 結局、3歳で皇居を離れて、赤坂の東宮仮御所に移られることになる。しかし、それまでは親子一緒だ。順調に成長される姿を見ながら、昭和天皇は、新たな決意で時代と向き合うようになる。

昭和9年1月23日、満州事変時の朝鮮軍司令官、林銑十郎が陸相に就任した。昭和天皇は、侍従武官長の本庄繁を呼んで言った。
 「林陸相に対し、軍人勅論の精神を遵奉して軍を統率し、再び5・15事件のごとき不祥事件がおこることのないよう伝えよ」
 前々年度の5・15事件後も、青年将校らによる不穏な動きがくすぶっていた。だが、政府に軍部を押さえられる力はなく、昭和天皇は自ら、軍紀の厳正を徹底させようとしたのだ。
 3日後の1月26日、再び本庄を呼んで言った。
「今朝の新聞によれば、陸海両相が議会で、軍人が政治を論じ研究するのは必ずしも不当でないと答弁したようだが、研究も度を過ぎて、悪影響を及ぼすことがあってはならない」
 さらに2月8日、「農村出身の下士官兵と身近に接している将校らが農村の秘境に同情し、政治に関心を持つのはやむを得ないが、持ちすぎると害があり、不可である」と述べた*=昭和天皇実録21巻「本庄日記」

 それまで昭和天皇は、立憲君主としての立場を重んじ、内大臣ら古くからの側近に意向を漏らす程度にとどめていた。だが、皇太子(現上皇陛下)がお生まれになったことをきっかけに、自身の考えを、より積極的に表に出そうとしたようだ。
 陸軍予算が審議を通過した3月16日の翌日、参謀総長と陸相にいった。
《天皇は両名に対し、予算は通過したとはいえ、すべて国民の負担であり、針一本すら無駄にしないようご注意になる》*=昭和天皇実録21巻42頁引用

 昭和天皇は、軍を不快に思っていたわけではない。
一般の将兵には限りない厚情を示し、観兵式をはじめ軍務をおろそかにすることはなかった。ただ、昭和天皇にとって軍事と政事に優劣はなく、軍人も文民も同じ国民だ。満州事変以降、何事も軍事が優先される風潮が強かったのを、正そうとしたのだろう。
 昭和天皇の意向は、軍上層部に浸透し、さらなる暴走の歯止めになったとみていい。
 年明け後の昭和天皇は、意気軒高だったようだ。1月26日、内大臣府秘書官長の木戸幸一が元老の西園寺公望に、こう報告している。
「聖上のご健康は益々御佳良にて、皇太子御降誕以来。御気分も殊に郎なり」「東宮の御体質は内親王方よりもよく、1ケ月目の御体重は一貫(かん)五十八匁(もんめ)なり」
 一方、テロリズムの脅威が薄まるにつれ、今後は別の方向に不穏な動きが出てくる。政党とファッショ勢力が結託し、当確工作が活発してきたのだ。

 議会第一党、立憲政友会による倒閣工作は、早くも5・15事件の半年後、昭和7年11月半ば頃から始まっていた。当時の同党幹部らの考えは、こうである。
 〈犬養毅首相の暗殺後に成立した斎藤実内閣は、政局の混乱が落ち着くまでのピンチヒッターにすぎない。政友会と民政党の二大政党が交互に組閣する憲政の常道こそ、あるべき姿だ。政友会総裁に大命降下する日は、そう遠くないだろう〉―
 だが、秋になっても総辞職する気配がないのを見て、同党幹部らは焦りはじめる。
 〈このままでは、非政党内閣が常態化してしまう。政党のトップになっても首相になれず、幹部らの大臣ポストも遠のくだろう。何とかして、内閣総辞職に追い込めないものだろうか〉―
 倒閣工作にあたり、幹部らが目に付けたのは、蔵相の高橋是清だ、斎藤内閣の大黒柱となっていた高橋を辞めさせれば、内閣は瓦解(がかい)するに違いない。
 8年1月のある夜、政友会総裁の鈴木喜三郎が高橋の私邸にひそかに訪ねた。辞職を促す鈴木に、高橋はこう言ったという。
「どうせ吾輩も、健康に優れないから、時局が許すならば、議会後に辞めたい。この際、政友会としては現内閣を支持し、円満に政権を授受されるようにしたほうがよいだろう」
*=今村武夫著「三代宰相列記、高橋是清」193頁引用

すでに首相を経験している高橋に、執着心はない。
かつて政友会総裁を務めており、憲政の常道に戻したいという思いもある。そこで後輩の鈴木に、予算成立などで協力すれば辞職すると示唆したのだ。鈴木や同党幹部らは小躍りし、高橋の発言を「黙契」として触れ散らした。驚いたのは首相の斎藤である。斎藤は元老の西園寺公望に相談したうえで、高橋に言った。
「公爵(西園寺公望)も、とにかく引き続き一層努力してみたら、といふ御意見だつたし、ここはなんとか一つ考へ直してもらいたい」*=「西園寺公と政局」3巻52頁から引用

 高橋の進退をめぐり、8年4~5月の政局は揺れに揺れた。閣僚の大半が留任を求め、高橋は5月に辞意を撤回したものの、それでは政友会が収まらない。以降、政府と議会の関係は悪化し、政友会内部の派閥争いも激化する。
 政党の混乱を見て、首相の座を狙う司法界の重鎮、枢密院副議長(元大審院検事総長)の平沼騏一郎を中心とする勢力も倒閣に動き出す。斎藤内閣の支持基盤は、一気弱体化したといえるだろう。
 そして、9年1月、ある新聞の連載記事が政界、財界、官界を巻き込んだ奇怪な疑獄事件に発展し、斎藤内閣のとどめを刺す。

 『番町会』を暴く―

 昭和9年1月19日の時事新報に掲載された、連載記事のタイトルだ。番町会とは、日本経済連盟会会長の郷誠之助が主宰する実業家グループで、東京・番町にある郷の私邸に毎月集まったことから、その名がついた。連載記事は、こんな調子で書き始める。
「何が目覚ましいといって、近頃番町の暗躍位(くらい)目覚ましいものはない。寧(むし)ろ凄まじいと云つた方が良かろう。いや凄じいでもまだ足りぬ。全く戦慄に値するものがある…」
 以後、3月まで続く連載記事が暴いたのは、帝国人造絹糸(帝人)株の売買をめぐる疑惑である。
 帝人は昭和2年の金融恐慌で破綻した鈴木商店の系列会社で、株の過半数を台湾銀行が担保として所有していた。この帝人株が値上がりしたことから、民間で取得しようとする動きが強まり、8年6月、生保会社などのグループが買い受けた。その際、売買を周旋した番町会の一部メンバーらが不正利益を得て、政界や官界に贈賄をばらまいた―という内容だ。
 この疑惑は、斎藤実内閣の倒閣を画策する勢力に格好の攻撃材料を与えた。9月2日以降、立憲政友会の一部や国民同盟など少数野党が議会質問で政府を追及。首相の座を狙う枢密院副議長(元大審院検事総長)の平沼騏一郎が影響力を持つ検察当局も捜査に乗り出し、商工相や鉄道相、大蔵事務次官、帝人社長、台湾銀頭取らが次々に検束された。

 取り調べは過酷を極め、各界の名士らもほとんど検察の筋書き通りの“自白”をしたという。
 事件はその後、異例の展開をたどる。疑惑を報じた時事新報の社長は殺害され、主任検事も病死した。そして裁判では、事件そのものが検察のでっち上げとされ、被告16人全員に無罪判決が下るのだ、倒閣が目的の、検察フアッショとまで批判された。*=帝人事件の経緯は、前島省三著「帝人事件とその後景」昭和30年11月号収録、その他多数に収録されている。

 だが、でっち上げと分るのは3年後で、閣僚から検挙者を出した斎藤内閣はひとたまりもなかった。9年7月、内閣は混迷のうちに総辞職する。
 海軍重鎮の斎藤は穏健な国際派で、昭和天皇の信頼も厚かった。首相在任中、昭和恐慌後経済立て直しや農村救済に尽力。満州国の承認と国際聯盟脱退は失政といえるが、以後は英米との関係改善に努めた。昭和天皇は、斎藤の退陣を惜しんだことだろう。
 この穏健路線を、なんとか引き継いでもらいたい―。
昭和天皇は元老の西園寺公望(きんもち)に、次期首相の選定に当たり⓵憲法の精神を遵守(じゅんしゅ)すること②外交にも内政にも無理をしないこと―を求めた*=昭和天皇実録21巻より
 これを受けて西園寺は、より広い支持を国民から得るため、新たな手法で首相選びを進める。
 
 帝国人造絹糸(帝人)株の売買をめぐる疑惑(帝人事件)で、政、財、官界の有力者らが次々と検束された昭和9年5月半ば以降、元老の西園寺公望の周辺は、にわかに慌ただしくなった。
 近く斎藤実内閣が総辞職するとみた政党、軍部、右派勢力などが、自らに有利な後継首相を選んでもらおうと、陰に陽なたに運動しだしたからだ。
 元老私設秘書の原田熊雄によれば、議会第一党の立憲政友会幹部らは憲政の常道を大義名分とし、「政友会に政権が来なければ次の内閣には大臣を送らない」と強弁した。陸海空軍の一部は、「平沼騏一郎枢密院副議長(元大審院検事総長)が最も適当だ」といい、一部は「宇垣一成(朝鮮総督)でいいじゃないか」と訴えた。首相の斎藤実は「どうしても岡田啓介(海軍大将)が一番適当だと思う」という考えである。
 慣例上、次期首相を天皇に推奨するのは元老の役目だ。だが、西園寺は自薦他薦の要望が乱れ飛ぶ中で、歴代首相ら重臣と協議して次期首相を選ぼうとする。
第二の5・15事件を怖れる西園寺は、一人で決定することに自信が持てなかったのだろう。
 7月3日斎藤内閣が総辞職した翌日、宮中に西園寺をはじめ斎藤、元首相の若槻礼次郎、高橋是清、清浦奎悟、枢密院副議長の一木喜徳郎、内大臣の牧野伸顕が集まった。
「陛下の思し召しは、どこまでも憲法の精神を尊重すること、外交でも内政でも無理をしないことである。誰がふさわしいか、意見を聞きたい」
 こう述べた西園寺は、まず斎藤に発言を促した。
「自分は当面の責任者であって、口を出すべき筋合いではないと思います」
 「遠慮することはない。あなたは一番事情に通じているかのだから、忌憚(きたん)のない意見を述べてほしい」
「それならば自分の考えは、岡田大将です。国際的にも内政的にも、政府の方針を急激に変更してはならず、岡田大将ならば最も適当と思います」
 斎藤の意見に、若槻や高橋らも同調した。清浦は宇垣の名を挙げたが、固執はしなかった。
 西園寺が最後に言う。
「それでは、全会一致で岡田に決したということを陛下に上奏する」 *=原田熊雄述「西園寺公と政局」(岩波書店)3巻より
 岡田は海軍穏健派の筆頭だ。昭和天皇は、この決定を喜んだことだろう。
 同日、《公爵西園寺公望に謁を賜い、海軍大将岡田啓介を後継首班に推薦する旨の奉答を受けられる。西園寺に対しては、暑中にも拘わらず老躯(ろうく)を提げて上京したことを多とし、慰労の御言葉を賜い、併せて岡田ならば最も安心すると述べられる》*=宮内庁編集「昭和天皇実録」21巻104頁から引用
 
 岡田啓介内閣の発足から約3か月後の昭和9年10月1日、昭和天皇は、皇居内につくられた水田で稲刈りをしていた。《まず農林1号、続いて信州早生の稲を刈り取られ、終わって愛国・撰一・小針儒等の成熟状況をご覧になる》
 昭和天皇が自ら稲作をするようになったのは、天皇になって間もない昭和2年の春からだ。赤坂離宮に住んでいたころは2畝20歩(約265平方㍍)を耕し、皇居に移ると面積を2倍に広げ、全国から取り寄せたさまざまな品種を毎年育てた。
 多忙な公務の合間を見て、春は水田に膝まで没して苗を一つ一つ植え、秋はたわわに実った稲穂を鎌で収穫する。そのあとも脱穀から精白まで、米作りの全作業を待従らとともに行った。昭和天皇は、農家の苦労を少しでも分かち合いたかったのだろう。
 この年、昭和9年の東北地方は冷害で記録的な凶作に見舞われ、幾つかの小村が飢餓に直面するなど深刻な状況にあった。岩手県などの農村を視察した社会主義者の山川均が、こう書いている。
「子供は驚くほど生れて、驚くほど死んでゆく。(中略)岩手県の御堂村は、乳児死亡率90%だといふから驚くのほかない。奥中山でも、栄養不足のためだらう、目の見えなくなるのが、ことに年寄りに多かった。こうなると飢餓の問題でなくて、なし崩し的な餓死なのだ」
 「蒲団(ふとん)のある家は、まづ一軒もないと云つていいだらう。(中略)ただ床張りの片隅に、長いままの藁(わら)が置いてある。でなければ鼠(ねずみ)の巣のようにボロ屑(くず)が積んである。その中へもぐって寝るのだ。(中略)新家新町付近の農家を訪づれたときのことだが、ふとその中のボロ屑が動いたので、私は猫かと思ったが、よく見ると赤ん坊だつた」*=山川均著「東北飢餓農村を見る」(雑誌『改造』昭和9年12月号収録)から引用
 発足したばかりの岡田内閣も、農村救済に予算をつぎ込んだが、社会保障制度が十分てなかった当時、政府のできることには限界があった。
「今思い出しても涙を催すような哀話ばかりだった。東北地方から上野に着く汽車で、毎日のように身売りする娘が現れたのもそのころで、身売り防止運動が盛んに行われていた」と、のちに岡田自身が述懐している。

 こうした中、常に国民と苦楽をともにしようとする昭和天皇の姿勢は、多くの人々に勇気と希望を与えたに違いない。
 昭和天皇は地方に行幸すると、分刻みのスケジュールで現地の小中学校や商工業施設を視察して回った。その姿を見て、国民がどれほど励まされたかが、各地の郷土資料などに残されている。

 岡田啓介内閣が発足した昭和9年、欧州では、ファシズムの嵐が吹き荒れていた。

 台風の目になったのは、ナチス・ドイツである。1920(大正9)年に誕生した国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)は、強烈なカリスマを持つアドルフ・ヒトラーの指導の下、急速に勢力を伸ばして1933(昭和8)年1月に政権を獲得した。*=ナチスの前身は1919年設立のドイツ労働党で、20年にナチスと改称、21年にヒトラーが指導者になった=

 首相となったヒトラーは同年2月以降、ドイツ共産党などの大弾圧を行い。3月には内閣に絶対的権限を付与する全権委任法(民族および国家の危機を除去するための法律)を制定、ナチスによる一党独裁体制が確立する。

 1920年代にベニト・ムソリーニが独裁体制を築いたイタリアと並び、ドイツにファシズムが形成された背景には、第一次世界大戦後のベルサイユ体制に対する不満とコミンテルン(共産主義インターナショナル)に対する脅威がある。
 ドイツに過酷な賠償金を押し付けた1919年のベルサイユ条約と英仏が主導するベルサイユ体制は、ドイツ一般国民の生活を困窮させた。コミンテルンが指導する共産革命運動の世界的な広がりは、資本家層を震え上がらせた。この2つの課題を、独裁による全体主義で強権的に打破するファシズムは、ドイツの各界各層に熱狂的支持されたのである。

 当時、ナチスの躍進は日本でも大きな話題になり、宮中に思わぬ珍事までもたらした。ドイツで唯一、ヒトラーを押さえられる存在だった大統領のヒンデンブルグが1934(昭和9)年8月2日に死去したとき、昭和天皇は弔電を送ったが、その宛先を宮内省などのミスで間違ってしまうのだ。(弔電は同国首相アドルフ・ヒトラーが大統領に就任したとの認識のもと新大統領に宛てられたが、ドイツ国においてはそのような事実はなく、七日、首相たるアドルフ・ヒトラーより礼電が寄せられる)と、昭和天皇実録に記されている。ヒトラーの存在感の大きさがうかがえよう。

 欧州のファシズムが、日本に及ぼした影響は小さくない。資源の少ない国として、全体主義によって危機を乗り切ろうとするファッショの動きが、この頃から勢いづいていくのだ。
昭和天皇が全体主義に強い警戒感を持ち、5・15事件後の首相選定の際。「ファッショに近き者は絶対に不可なり」との意向を示したことは既に書いた。だが、時代の流れをとめることは難しい。10年2月、帝国議会で取り上げられたある問題が、穏健路線の岡田内閣を揺さぶり、全体主義の風潮に拍車をかけることになる。
 昭和10年2月18日の貴族院本会議。陸軍予備中将の男爵議員、菊池武夫の演説が波紋を呼んだ。
 「憲法上、統治の主体が国家にあると云うふことを断然公言するやうなる学者著書と云ふものが、一体司法上から許さるべきものでございませうか、是は暖慢なる謀反になり、明らかなる反逆になるのです」
 菊池が「反逆」と批判したのは、東京帝大名誉教授の貴族院勅選議員、美濃部達吉が主張する「天皇機関説」(天皇機関説とは、前宮内大臣で枢密院議長の一木喜徳郎らも提唱しており、当時の通説だった。一方、陸軍はもともと機関説を批判しており、議会での追及が青年将校らを刺激して排撃の声が一段と強まった)。 
統治権の主体は国家にあり、天皇は国家の最高機関であるとする美濃部の学説に対し、菊池は「天皇を機関とは何事か」「わが国体を破壊するもの」などとかみついた。
 政府側は、「斯かる点は学者の議論に委して置くことが相当」と答弁して深入りしなかったが、問題はそれでおさまらなかった。政権が取れず政府批判を強める議会第一党の立憲政友会などが、倒閣に向けて走り出したのだ。

 以後、天皇機関説は国体に反する主張する野党議員は、厳格に処分しようとしない岡田啓介内閣を責め立て、議会に機関説排撃の嵐が吹き荒れた。岡田の回願録によれば、こんな不毛な質疑が何度も繰り返されたという。
 議員「総理は日本の国体をどう考えているのか」
 岡田「憲法第一条に明らかであります」
 議員「では憲法第一条はなんて書いてあるか」
 岡田「それは第一条に書いてある通りであります」
 立憲君主の立場を重んじる昭和天皇は、美濃部の学説を支持していた。岡田に「天皇は国家の最高機関である。機関説はいいではないか」と漏らし、岡田も穏便におさめるようと努力したが、排撃の声は強まる一方だ。

 政府は8月3日、機関説を「我が国体の本義を愆(あやま)るもの」とする声明(第一次国体明微声明)を発表。

事態の収束をはかったが、議会の追及はやまず、10月15日に「厳に之を芟徐(さんじょ)せざるべからず」との声明(第2次国体明微声明)を出して排除した。この間、美濃部は不敬罪で告発され、貴族議員の辞職に追い込まれている。
 そもそも美濃部の天皇機関説は、明治45年刊行の著書「憲法講話」に書かれたものだ。それから20年以上もたって排撃するフアッショの高まりを、昭和天皇は深く嘆いたことだろう。

 同年4月、待従長にこう漏らした。
 「美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠な者ではないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。あゝいふ学者を葬ることは頗(すこぶ)る惜しいもんだ」 

 帝国議会に天皇機関説排撃の嵐が吹き荒れた昭和10年5月、東京日日新聞の主筆を務めた阿部真之助が雑誌『改造』に書いた。
「政友会がこの問題を取り上げたのは、国体精神の明澄(ママ)ならざるを優へたといふよりは、恰かも問題となつたのを好期として、倒閣の道具に使ったものと、一般に信ぜられてゐる」「それは政権に目が眩(くら)んだ政党の自殺行為であつた」

 統治権の主体は国家であり、天皇は国家の最高機関であるとする天皇機関説は、天皇の行政権を輔弼(ほひつ)する閣僚と、天皇の立法権に協賛(同意)する議会の役割を重複する。一方、統治権の主体を天皇とし、機関説を批判する天皇主体説は、天皇大権を唯一、絶対、無制限の権力とし、閣僚と議会の役割を軽視する。議会での機関説排撃は、まさに「政党の自殺行為」だったといえるだろう。

 議会だけでない。一般社会も“心中”を強いられた。機関説を主唱した美濃部達吉の著書が発禁処分となり、美濃部が貴族院議員の椅子を追われたことで、言論の自由をおびやかす風潮が一気に強まるのだ。
 先の見えない立憲政友会の一部幹部は、攻撃の矛先を昭和天皇の側近たちに向けた。
10年6月、政友会の派閥の領袖、久原房之助が新聞にこう語っている。
「重臣ブロックの指導精神は連盟脱退、軍縮問題の実例に見ても判るやうに今や清算すべき時に直面して居る、それは欧米追随主義で御都合主義、穏健主義だ」「この際政友会は殊更に更生などをする必要はない、更生しなければならぬのは重臣ブロックだ、政友会は伝統の積極政策で一路邁進するのみだ」

 久原らは、昭和天皇が平和主義であるのは側近たちがブロックして「真実」を伝えないからだと触れ散らした。まずやり玉に挙げたのは、美濃部と同じく天皇機関説を唱えた枢密院議長(前宮内大臣)、一木喜徳郎である。陸海軍の一部も一木を批判したため、体調を崩していた一木は元老の西園寺公望(きんもち)らに、辞職したいと訴えるようになった。

 昭和天皇は嘆息(たんそく)した。
 3月11日《(昭和天皇は待従武官長に)一木には非難すべき点のない旨を仰せになり、その根拠として同人の宮内大臣時代の事例を挙げられる》
 7月9日《待従武官長をお招しになり、天皇機関説を明確な理由なく悪いとする時は必ず一木等にまで波及する嫌(きら)いがある故、陸軍等にいて声明をなす場合には、余程研究した上で注意した用語によるべきとのお考えを述べられる》=*「昭和天皇実録」22巻28頁、77頁から引用
 だが、さらなる悲嘆が昭和天皇にふりかかる。この問題が一段落した後、内大臣の牧野伸顕が辞職してしまうのだ。

「重臣『ブロック』とか宮中の陰謀とか云ふ、いやな言葉や、これを真に受けて恨む一種の空気が、かもし出された事は、後々迄大きな災を残した。かの二.二六事件もこの影響を受けた点が少なくないのである」*=「昭和天皇独白録」(文芸文集)28頁引用

 先の大戦後、昭和天皇が側近らに漏らした言葉だ。

 首相経験者ら重臣、ことに内大臣や待従長ら側近に対する批判は、昭和4年7月の田中義一内閣総辞職以降、主に右派勢力から強まっていた。元蔵相の井上準之助らが暗殺された血盟団事件でも重臣らが襲撃目標とされ、五・一五事件では内大臣官邸に爆弾が投げ込まれている。
 10年2月に発火した天皇機関説で、枢密院議長(前内大臣)の一木喜徳郎がやり玉に挙げられたことは既に書いた。そのころ警視庁では、機関説排撃の真の狙いは一木と牧野伸顕内大臣を排除することだとみて、警戒を強めている。
 牧野は、自身への批判が昭和天皇に累を及ぼさないかと、苦悩したことだろう。6月18日に元老、西園寺公望の別邸を訪れ、宮内省在職が15年に及ぶこと、健康にも不安があることを理由に加えて辞意を示唆した。西園寺は取り合おうとしなかったが、牧野の決意は固かったようだ。

 政府の2度にわたる国体明微声明 (*=政府として、天皇機関説は国体に反すると否定し、統治権の主体は天皇であると明示した声明=)で天皇機関説問題が一段落した11月20日、牧野は内大臣府秘書官庁の木戸幸一に、正式に辞意を伝えた。同じ頃、一木も辞職したいと訴えており、困惑した木戸が西園寺に相談したところ、こんな答えが返ってきた。

 「事情はよく判ったが、実は自分ももう八十八で、最近は朝云ったことを午後は忘れると云ふ様な次第で、(中略)そう云ふ話なら先ず私を御免蒙らして貰いたいものだ」(*=10年12月4日の「木戸幸一日記」上巻444頁引用)

 もちろん、3人一緒に辞めるわけにはいかない。西園寺は「誠に御同情に堪へないがお互い死ぬ迄やらうじゃないか」と木戸に言づてたが、結局、牧野だけは12月26日、病気を理由に辞職した。
 その日、内大臣更迭の上奏を裁可した直後、昭和天皇は「お声を上げてお泣き遊ばした」と、待従の入江相政(すけまさ)が日記に書いている。
 フアッショが進む苦難の時代、皇室の藩屏として、命を狙われるほど尽くしてくれたことへの感謝と、最も頼りにしていた相談相手を失うことへの寂しさとが、一気に押し寄せてきたのだろう。
 後任の内大臣は、海軍重鎮の前首相、斎藤実だ。しかし、その斎藤も、就任わずか2カ月で非業の死を遂げる。

 天皇機関説問題で議会、政府、宮中が揺れた昭和10年、陸軍も、かつてない混乱をきたしていた。いわゆる皇道派と統制派の派閥争いが、激化したのである。
 陸軍内に派閥があり、対立していると昭和天皇が耳にしたのは、9年3月である。
 3月2日《待従武官長本庄繁をお召しになり、昨日外務大臣の賜謁の折、御下問に対し、軍部内部の派閥間の対立と意見の相違のために困難を生じていると奉答があったとして、かかる事実の有無について御下問になる》(*=昭和天皇実録21巻34頁)

 大正期までの陸軍は、元老の山県有明ら長州閥がにらみを利かし、政府に悪影響を及ぼすような派閥争いはほとんどなかった。昭和に入ると長州閥は後退し、陸相だった宇垣一成の統制力が強まるが、昭和6年の三月事件 (*=大正期の陸軍にも上原勇作元帥を中心とする薩摩閥、宇都宮太郎大将を中心とする佐賀閥などがあったが、山形有明の存命中は長州閥に対抗できなかった)で宇垣は中堅将校、青年将校らの反感を買うようになる。

 かわって青年将校らの信望を集めたのは、犬養毅内閣で陸相となった荒木貞夫だ。日本軍隊の正式用語を「国軍」から「皇軍」に改称した精神主義者の荒木は、陸相となるや親友の真崎甚三郎を参謀次長に起用するなど、陸軍要職を自派で固めて一大勢力を築いた。いわゆる皇道派である。
 荒木は、青年将校らの人心掌握が巧みだった。上官に対する無礼な振る舞いも「元気がいいのう」の一言で許し、過激思想を抱く急進派から絶大な人気を集めた。半面、下剋上的な風潮を助長したともされる。

 一方、荒木ら皇道派の勢力拡大に危機感を抱いたのは、陸軍随一の英才といわれた永田鉄山を中心とするグループ、いわゆる統制派だ。軍の組織力、統制力で国家改造を進めようとする永田らは、青年将校らの政治運動を抑えようとした。
 9年1月に荒木が陸相を辞任し、前朝鮮軍司令官の林銑十郎が後任になると、やがて陸軍内の勢力図は一変する。昭和天皇が軍紀の厳正を再三指示したことは既に書いた。林はそれを重く受け止めていたのだろう。永田を軍務局長に昇格させて重用し、皇道派の締め出しにかかった。
 だが、林と永田による急激な人事刷新は青年将校らの反感を買い、さらなる対立を生んでしまう。

 林は10年7月、教育総監を務める皇道派の重鎮、真崎の更迭を断行し、皇道派一掃の総仕上げとした。その際、昭和天皇は本庄に言った。
 「この人事が、陸軍の統制に波及を起こすようなことはないか」*=本庄日記<普及版>原書房より引用
 昭和天皇の懸念は、翌月、現実のものとなる。

 昭和10年8月12日は、格別に暑い日だったという。
 午前9時45分、陸軍省内の執務室で東京憲兵隊長と面談していた事務局長、永田鉄山は、無言で入室してきた男の存在に、最初は気付かなかった。殺気を感じて振り向いたとき、男は、すでに軍刀を抜いていた。とっさに立ち上がり、逃げようとした永田の背中に白刃一閃(はくじんいっせん)、軍刀は振り下ろされた。男は、なおも逃げようとする永田の背中に軍刀を突き刺し、側頭部を叩き斬った。制止しようとした東京憲兵隊長も振り払い、左腕に重傷を負わせた。
 男の名は相沢三郎、陸軍歩兵中佐である。犯行当時は45歳。長身屈強、剣道四段の達人で、「純情朴直にして尊王の念厚きものがあったがやや単純の嫌」いがあったとされる。歩兵第41連隊に所属していたが、同月の人事異動で台湾転勤を命じられ、その直前に凶行に及んだ。

 相沢は、皇道派にシンパシーを抱いていた。敬愛する教育総監の真崎甚三郎が更迭されたことに憤慨し、統制派の領袖である永田を斬れば、陸軍は「正道」に戻ると信じていた。自身の行為が重大な犯罪とは思わず、憲兵隊に拘束後、今後どうするつもりかかと聞かれて「さあ(台湾の)任地に行くべきだろう」と答え、正気を疑われている。
 一方、斬られた永田はどうなったか。騒ぎを聞いて軍務局長室に駆け込んだ同局政策班長の池田純久が見たのは、凄惨(せいさん)な血の海だった。
「局長は鮮血に染って、肩肘をついて絨毯(じゅうたん)の上に倒れている。まだ息はあるようだ。でも頭は、ざくろのように割れて、そこからドクドクと血が迸(ほとばし)り出ている。(中略)暫くして最後の息を大きく吸って、ガックリと首がたれてしまった」
 統制派を主導し、皇道派の暴発を抑えようとした永田は、尉官時代から「将来の陸相」といわれていた。陸軍士官学校と陸軍大学を抜群の成績で卒業。陸軍省軍事課長、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などの要職を歴任し、一糸乱れぬ軍の統制力により、憲法の枠内での国家改造を遂げようとしていた。

 「永田の前に永田なし」といわれた、陸軍随一の英才の死―。

白昼の惨劇により陸軍は「バラバラになって滅茶苦茶になった」と、同じ統制派の池田が述懐する。
 永田の死後、統制派の中心となったのは1年後輩の東条英機、日米開戦時の首相だ。池田は言う。
 「頭脳の上では東条大将も仲々切れていたが、永田中将のそれには到底及ばない。(中略)永田中将が存命だったら日本歴史の歯車は逆転していたであろう」*=池田純久著から引用。事件当時、永田も東条も少尉だったが、永田は殉職で中将に特進、東条は首相就任の際に大将となった。

 軍旗―。それは帝国軍人にとって、神聖かつ絶対の存在である。天皇から直接親授(しんじゅ)される軍旗は天皇の分身しとされ、その下で軍人は死地にも赴く。
 軍旗は、天皇の前では水平に傾けられ、敬礼する。だが、天皇以外には、たとえ皇族であっても敬礼しない。軍旗の方が上位だからだ。
 この慣例が、溥儀の来日にあたり問題になった。観兵式の際、溥儀に軍旗を傾けたくないと、陸軍が強硬に主張したのだ。昭和天皇は、驚くよりもあきれたのではないか。
そもそも溥儀を担ぎ出して満州国の元首としたのは、陸軍である。当初は反対だった政府も、陸軍に押されて満州国を承認した。今や政府も宮中も、溥儀を対等の国家元首として迎えようとしているのに、陸軍の対応は国際儀礼上、非礼といえよう。
 溥儀の来日前、昭和天皇は待従武官長に言った。

「朕は、一兵卒に対しても答礼を為すに、(中略)軍旗は朕より尊きか」待従武官長は恐懼(きょうく)しつつ、「国軍の忠勇は実に崇厳なる軍旗に負ふ所多し、従て軍旗に対する信仰を、幾分にも減ずるが如き事は御許を願ひたし」と深く頭を下げた。*=本庄日記202頁から引用。

 昭和10年4月9日、代々木練兵場で挙行された陸軍観兵式は、荘厳そのものだった。近衛師団1万2千人の精鋭は、昭和天皇と同列で閲兵する溥儀に特別丁重な敬礼をささげた。
 だが、軍旗が傾くことはなかった。
 もっとも、内情を知らない溥儀は観兵式に大満足だったようだ。昭和天皇の真心のこもった応接も、溥儀の自尊心をくすぐったことだろう。
 皇太后(貞明皇后)も、溥儀を温かく迎えた。赤坂離宮の茶室でもてなし、日本庭園を親しく案内した。別れ際、皇太后は「毎日、日が没するのを見るたびに陛下のことを考えます」といい、溥儀は「朝日の昇るの見るたびに東天を思い、両陛下および皇太后陛下を思い出すでしょう」と応じたという(*=高橋紘著引用)
 溥儀を送迎した雍仁(やすひと)親王を含め、皇室全体で国際儀礼を尽くした様子がうかがえる。
 24日に離日した溥儀は、のちにこう書いている。
 「日本皇室のこもったもてなしによって私はますます熱にうかされ、皇帝になってからは空気さえ変わったように感じた。私の頭には一つの理論が出現した、天皇と私は平等だ、天皇の日本おける地位は、私の満州国における地位と同じだ、日本人は私に対して、天皇に対するのと同じようにすべきだ…・」(*=愛新覚羅溥儀著「わが半生<下>64頁引用)

 残念ながら溥儀は、絶対権力でなく最高権威として君臨する天皇の地位を、少し勘違いしていたようだ。この勘違いがやがて溥儀を苦しめることになる。

昭和10年の晩秋、全国の町や村に、再び国民の万歳が響いた。

11月28日《午前五時、(昭和天皇は) 待従牧野貞亮より皇后が産殿に入られた旨の奏上を受けられ、直ちに御起床になる。七時五十七分、親王が誕生し、即刻、待従小出英経より報告を受けられる。(中略)九時、親王と御対面になる》

この日は終日曇天だったが、親王がお生まれになった一瞬だけ、雲の切れ間から皇居に日が差した。「不思議に思はれた」と、待従の入江相政(すけまさ)が日記に書いている。
皇太子につぐ皇位継承資格者のご誕生だ。母子ともに健康で、昭和天皇の喜びもひとしおだっただろう。皇族や首相、重臣、側近らも続々と参内し、シャンパンで乾杯して「大騒ぎ」となった。
12月4日、昭和天皇は親王を正仁と名付け、義官の称号をおくった。のちの常陸宮さまである。
 皇太子(天皇陛下)も順調に成長されていた。
 12月23日《皇太子誕生(満2歳の誕生日)につき、(中略)御学問所において内宴を催され、皇太子・成子(しげこ)内親王・和子内親王・厚子内親王と御会食になり、宮内大臣湯浅倉平以下の側近高等官四十二名に御陪食を仰せ付けられる》
 年が明けてからも、宮中では穏やかな日が続いていた。
 11年1月4日《午後、この年初めて生物学御研究所にお出ましになる。以後、主に土曜日と月曜日に同所にしばしばお出ましになり、研究をされる》
 1月18日《午後、この年初めて呉竹寮にお出ましになり、成子内親王・和子内親王とご一緒に過ごされる。以後、土曜日または日曜日に呉竹寮に度々お出ましになる》
 2月5日《午後、天皇は、(前日から雪が降り積もった)内庭において、待従武官を御相手にスキーをされ、九日には、参内の成子内親王・和子内親王のソリ遊びをご覧になりながらスキーをされる》
 だが、昭和天皇は知らなかった。そのころ、皇道派と統制派の派閥争いで揺れる陸軍で、一部の青年将校らが秘密裏に会合を重ねていたことを―。永田鉄山惨殺事件に刺激を受けた彼らは、日本の歴史を変える大事件を企てていたのだ。
 この年、昭和11年の冬、帝都は度々大雪に見舞われた。とくに2月23日未明から吹雪となり、記録的な積雪をもたらした。
 空一面を覆う暗雲―。帝都は、2月26日の朝を迎えようとしていた。 
 つづく 第7章 二・二六事件