大橋乙羽
(おおはしおとわ)一八六九~一九〇一.明治昭和にかけて出版界をリードした博文館の敏腕編集者。一葉を、名実ともに一流作家に育て上げた、立役者。
敏腕編集者・乙羽の功績
明治二八年の秋以降、一葉は『文藝俱楽部』に「にごりえ」と「一三夜」を発表し、これによって新進の女流作家として、世に注目されるようになった。この『文芸俱楽部』を出版していたのが、当時の最大手、博物館である。
博物館は明治二〇年、大橋佐平によって創立され、その後続々と人気雑誌を発表して成功を納めていた。特に一葉が関係をもつようになった明治二八年頃、博文館は『太陽』『文芸俱楽部』という二つの人気雑誌を発行しており、思想と文学の先端をリードする出版社として、その名を轟かせていた。
そのような博文館と一葉をつないだのが、これまでも何度か名前が登場している、編集者・大橋乙羽である。
乙羽は明治二年現在の山形県で旅館を営む渡部家の六男として生まれる。小学校卒業後商家に奉公していたが、自ら雑誌の発行や執筆などを試み、やがて東雲堂(しののめどう)の編集者となった。さらに尾崎紅葉らとも知り合い、「硯友社(けんゆうしゃ)の同人となっている。
明治二六年に伝記『上杉鷹山(ようざん)』を博文館から発行し、これが縁となって翌年、博文館の創設者である大橋佐平の長女時子と結婚、大橋家の婿となった。ちなみにこの時、紅葉が媒酌人を務めている。以降、博文館の編集者として活躍、同社のさらなる隆盛に大いに力を発揮した。
星野天知、平田禿木(とくぼく)、馬場孤蝶(こちょう)、戸川秋骨(しゅうこつ)ら『文学界』の同人たちは、いち早く一葉の才能を見出し、彼女に小説発表の場を与えたことは、前述の通りである。しかし実際に一葉を職業作家たらしめ、小説家・樋口一葉の名を文壇に知らしめたのは、この大橋乙羽にほかならない。
当時音羽は、博文館の二大看板であった『文芸俱楽部』『太陽』に、女性読者を引き込もうと考えていた。それには女流作家の発掘と育成が急務であるとし、一葉に白羽の矢を立てたのである。
音羽が一葉とはじめて接触したのは、明治二八年三月二九日付の手紙による。そこで音羽は、未だお会いしたことはありませんが、ご高名は雑誌で存じておりました、かねてから半井桃水(なからいとうすい)、藤本藤蔭(とういん)(『都の花』元編集者)両君よりお話を伺っていましたと前置きして、『文芸俱楽部』への二、三〇枚の短編小説の執筆を依頼している。そこには、一葉の住所は桃水氏から聞いた、とも書いてあった。
一葉はこれを受けて、おそらく四月上旬頃に「ゆく雲」を執筆した。四月一三日付けで乙羽は寄稿御礼の手紙を出しているので、それまでに原稿は仕上げられたと思われる。「ゆく雲」は前章でも触れた通り、野尻理作(のじりりさく)がモデルであると考えられる作品だ。
これは『文芸俱楽部』ではなく、五月五日の『発行の『太陽』に掲載された。当時、『文芸俱楽部」よりも『太陽』の方が格が一段上であり、「ゆく雲」の『太陽』掲載は、乙羽の一葉にかける熱意の表れであったともされる。
乙羽がはじめて直接一葉宅を訪ねたのは、四月二〇日であった。この日の一葉の日記は詳しい記載がなく、何を話したか、一葉がどんな印象を持ったかなどは不明である。だが乙羽は作家・一葉に強い興味を示し、以降、一葉を売り出すために、なみなみならぬ力を注ぐのである。乙羽はその後も一葉に作品を依頼し続け、これが「にごりえ」「一三夜」という名作の完成へとつながっていく。
こうした乙羽の存在は、作家・一葉にとって大きな助けとなっただけでなく、常に家計が切迫していた樋口家にとっても、ありがたい支えとなった。
たとえば、同年五月二四日に一葉の方から乙羽の家を訪れた時のことだ。
ここで一葉は乙羽の妻、時子と出会う。彼女は後に一葉から歌の手ほどきを受けるようになるのだが、その際時子は、何か旧作でもよいから『文芸俱楽部』に載せてはどうかと一葉に勧めている。
一葉は早速、かつて『甲陽新報』に掲載した「経つくえ」に若干の手直しを加えて乙羽に渡し、乙羽はこれを六月二〇日発行の『文芸俱楽部』に掲載した。こうして一葉は、苦労せずにして原稿料を手に入れることが出来たのだ。
また、「にごりえ」は明治二八年七月末に数枚の結末を残した未完の状態で慌ただしく乙羽に手渡されているが、これにも金銭的な理由があった。
実は樋口家は七月一二日に則義の七回忌の法要を営んでおり、その支払いが月末に迫っていた。困った一葉は三〇円ばかりの前借を博文館にお願いしたいと、時子宛てに手紙を出している。乙羽からは「御書きかけのものか御旧作」でもあれば「金子(きんす)は直ぐに御調達可仕候(つかまつるそうろう)」、と返信が来たので、一葉は急いで未完の「にごりえ」を七月中に乙羽のもとへ届けたのであった。
このように乙羽は、常に編集者と作家というスタンスを守った上で、一葉の生活をサポートしていた。
編集者・乙羽の、作家・一葉の売り出し方は実に見事であった。
同年一二月一〇日には『文芸俱楽部』臨時増刊号として「閨秀(けいしゅう)小説」特集を発行している。「閨秀」とは、「学問や芸術に優れた女性」のことで、要するに「女流作家特集」である。
その巻頭グラビアページには、当時女流作家として名を馳(は)せていた若松賤子(しずこ)、小金井喜美子とともに、一葉の写真が掲載された。当時、女流作家が写真で出版物に顔を晒(さら)すなどというのは、破廉恥(はれんち)な行為であると見なす人が多かった。だが乙羽は、一葉の作品だけではなく、一葉そのものも一つの商標、商品として売り出そうと計画していたのである。
乙羽の編集で出版された『文芸俱楽部 閨秀小説』の目次と口絵。左下は一葉の肖像。
さらに乙葉は、書き上げられた「一三夜」に加えて、旧作である「やみ夜」と、一葉の作品を二つも収録した。
「閨秀(けいしゅう)小説」特集号は三万部以上を売尽くしさらに再販がかかるほど、当時にしては前代未聞の売れ行きを示した。こうして一葉の才能の開花とともに、乙羽の戦略も功を奏し、「にごりえ」「一三夜」の発表によって彼女の名前は一躍文壇に躍り出た。その後、乙羽はすかさず翌年二月五日発行の『太陽』に「大つごもり」を再掲している。
そして、なんといっても一葉の名前を決定的なものにしたのは、四月三〇日『文芸俱楽部』での、「たけくらべ」一括掲載であった。これを読んだ幸田露伴(こうだろはん)、森鴎外、斎藤緑雨(りょくう)が、雑誌『めさまし草』の合評欄「三人冗語(さんにんじょうご)において、一葉の才能を絶賛する。
この瞬間、一葉はにわかに脚光を浴び、まさに文壇の寵児(ちょうじ)となった。作家・一葉がここまで到達する過程において、敏腕編集者大橋乙羽が果たした役割はあまりにも大きい。
「一三夜」の成功と名声
乙羽の依頼によって書かれ、明治二八年一二月一〇日発行の『文芸俱楽部』「閨秀小説」特集号に掲載された「一三夜」について、改めて見てみたい。
この作品は、関良一氏の研究によると(『樋口一葉考証と試論』)、明治二八年八月下旬か九月上旬に書き始められ、九月一七日かその直前までに脱稿され、その日の日付で乙羽宛てで郵送されている。
「一三夜」とは、旧暦九月の一三夜のことで、旧暦八月の一五夜、つまり「中秋の名月」に対して、「後の月」と呼ばれ、月を愛でる日であった。両日とも家族そろって団欒する風習があり、どちらか一方だけを観るのは不吉とされていた。また特に一三夜は、「豆名月」「栗名月」と言い、名月とともに枝豆や栗を食べ一家で楽しむ日でもあった。
満月である一五夜に対して、一三夜は欠けた月である。また、旧暦九月の半ばといえば、もう秋も深まる頃で、哀感漂う季節だ。一葉は「鬼」のような夫のもとに幼い長男を置き去りにして実家に戻ってくるお関が主人公であるこの物語に、一家の団欒を欠いてしまった者たちの悲哀と、実際に彼らを照らす物悲しい月の光を表す意味で、「一三夜」というタイトルを付けたのであった。
お関は、奏任官(そうにんかん=戦前の高等官)である原田勇(いさむ)に見染められて、身分違いながらもその家に嫁ぎ七年が経っていた。しかし、夫が彼女を大事にしてくれたのはほんの最初の半年だけだった。一三夜の夜、夫の冷たい仕打ちに堪えかねたお関は、つい離婚を決意し、長男の太郎を置き去りにして、実家である斎藤家に戻ってきた。
両親の歓待に真相を言い出しかねていたお関であったが、やがて涙ながらに夫の冷たさを訴え、離縁状をとってくれと哀願する。母親はそんな娘を哀れに思って原田に腹を立てるが、父親は、幼い太郎はどうなるのだ、原田の縁で役所勤めに出たばかりの亥之助(いのすけ=お関の実弟)はどうなると、お関に深く同情しつつも、太郎のため、弟のため、原田の妻として生きていけないかと、運命共同体としいの生を説く。お関は、この言葉を聞いて、死んだ気になって太郎を守ると決心し、両親に見送られて実家を後にした。
その帰り道、お関が乗った車を引いていたのは、偶然にも昔馴染みの高坂録之助(ろくのすけ)であった。彼はかつて煙草屋の若旦那にして、巷(ちまた)の評判も良かった男である。緑之助は、その頃好きだったお関の結婚をきっかけに身を持ち崩し、自分も一度は結婚して妻子もいたがそれすら失い、今は車夫にまで落ちぶれたとお関に告白した。
二人は暗い道を月影を踏んで歩きながら語り合った。実はお関も、原田に嫁ぐにあたり、録之助への想いを諦めたのだ。お関の胸に込み上げるものがあったが、見ると録之助はただ茫然としているだけで、久しぶりに会ったのに嬉しそうにも見えなかった。二人は明るい広小路まで辿り着くと、それぞれ別々の道へと別れていった。
ここに描かれているのは、「にごりえ」のお力のように、社会の最下層を生きる女性ではない。お関は、金も地位もある。お関はその美貌をもってして”玉の輿”に乗ったわけで、一般的に見れば、女としての成功を手に入れていた。
しかし、実際には、それでは彼女は幸せになれなかった。玉の輿に乗った先には、子供のため、実家のためにすべてを諦めて耐え忍ぶだけの人生が待っていたのである。この作品を通して浮かび上がってくるのは、社会と家と制度に抑圧されて生きる明治女性の実態と、他力本願なお関の生き様だ。
「にごりえ」に続いて「一三夜」も発表当時からおおむね好評で、年が明けて明治二九年になる頃には、一葉の評判はいっそう高くなっていた。かつてまだ子供の頃から「くれ竹の一ふしぬけ出(いで)しがな」と、少しでも他人より抜きん出たいと考えていた彼女にとって、それは本望としたところであった。
しかし、名声を得た一葉の感想は大変冷静なものであった。たとえば明治二八年一〇月の日記には次のように書かれている。
「やう乀世に名をしられ初てめづらし気にかしましうもとはやさるヽ うれしいなどいはんハいかぞや これも唯(ただ)めの前のけぶりなるべきのふの我れて何事のちがひかあらん(中略) 今の我ミのかヽる名得つるが如くやがて秋かぜたヽんほどハたちまち野末にミかへるものなかるべき運命あやしうも心ぼそもある事かな」(ようやく世間に名を知られ始めて、珍し気にうるさいほどもてはやされる。嬉しいことと言っていいのだろうか。これもただ目の前の煙のようなもので、昨日の私と何も違いはない。今の私がこのようにぱっと名声を得たのと同じように、やがて秋風が立つ頃にはたちまち野末に捨てられ、見返る人もない運命だろうと思うと、訳が分からず心細く思う)
翌年、「一三夜」が発表された後の日記でも一葉は、「一三夜」も褒め騒がれて、女流作家中並ぶ者はいないと、大変な批評が聞こえてきて本当に心苦しいと書いている。一葉はそれを、女義太夫(おんなぎだゆう)の三味(しゃみ)の音色も聞き分けられない人々たちが一時的に熱狂しているようなものだと喩(たと)え、さらに名声がもたらせることによって、友のねたみや、先生の怒り憎しみなどが出てくるのは本当に嘆かわしいことだと、心情を吐露している。
「奇跡の一四カ月」に書かれた作品群
乙羽と一葉と最初に接触を持った明治二八年の春、すでに「奇跡の一四カ月」は始まっていた。この期間、一葉を燦然(さんぜん)と輝かせその名を文壇において不動のものとした最大の功労者が乙羽であったことは、今まで述べてきた通りだ。ここで、明治二八年から翌年にかけて書かれた、一葉のもとに原稿依頼が舞い込んでいた。
明治二八年七月一二日には、読売新聞の記者であった関如来(にょらい)が、手紙で同紙への寄稿を依頼している。これに応じて一葉は、「うつせみ」を執筆した。気が狂っている名家の一八歳の美少女・雪子を主人公とした物語で、同年の八月二七日から三一日にかけて連載された。
さらに一葉は、如来の依頼に応じて同紙に「雨の夜」「月の夜」(九月一六日)、「雁がね」「虫の音」(一〇月一四日)と、四つの随筆を書き上げている。ちなみにこれらの作品は「あきあはせ」というタイトルに前書きが付され、翌年の五月二六日、『文学界』同人たちが新たに創刊した『うらわか草』の創刊号に掲載された。
明治二九年一月一日には、『日本乃家庭』に「この子」が発表される。この雑誌はいわゆる婦人雑誌で、当時の世相を反映して良妻賢母の思想に合った記事を収録していた。一葉は「文字に乏しい女子にも、容易(やさし)く読ましめんが為め、極めて容易の文を以て、有益なることを、分かり易く説」という『日本乃家庭』の編集方法に合わせて、母の子供への愛情物語を一人称回想形式で書き上げた。それは、一葉唯一の口語体作品となった。
さらに同月四日発行の『国民之友』には「わかれ道」が掲載される。こちらは、一六歳の傘屋の小僧吉三と、二十余りの美しい女で針仕事をしながら長屋に一人住まいをしているお京の恋物語だ。
「わかれ道」には、冒頭から「出世」という言葉がよく出て来る。明治は「立身出世を目指せ」という気風に満ち満ちた時代であった。それは、則義(のりよし)の生き様にも表れているし、一葉自身も幼い頃から抱き続けていた思いの一つであった。そして一葉は、この作品の中で「出世」という言葉の意味を自ら問い直している。
お京は、この時代にしては珍しく、針仕事で自分を養っている自立した女であった。彼女は親しくなった吉三を、「出世」の言葉で勇気づけようとしている。しかし実際には、もともと孤児の生まれである吉三にとっては、出世は所詮、夢でしかなかった。
結局、お京は針仕事で自立して生きる道を捨てて、妾として生きる道を選択してしまう。吉三はお京を必死に止めるが、聞き入れられずに仕方なくお京の部屋を出て行こうとする。お京は吉三を後ろから羽交い締めに抱きしめるが、吉三が涕(なみだ)目でそれを拒否するとこで物語は終わる。
当時も一般に、男性はその「才」によって、つまり学問に精を出して出世できる可能性があった。だが女性は、「色」によってしか自分の階級を上昇させることはできなかった。経済力のある男の嫁になる以外に、出世の道はほぼ閉ざされていたのだ。
妾になることが「女の出世」の一手段であると考えられていた時代に、一葉は生きていた。その時代性は、他の小説家の作品にも表れている。たとえば、明治三〇年に発表された尾崎紅葉の『金色夜叉(こんじきやしゃ)』だ。資産家の御曹司のダイヤモンドに目がくらみ、結婚の約束を交わしていた幼馴染の貫一を裏切ってしまうお宮は、その美貌によって玉の輿に乗ることが女の出世であり、幸せであると信じていた女性として描かれている。
「わかれ道」には、嫁にも行かず、妾にもならず、筆一本で家族を養おうとしていた一葉自身の執念と諦観(ていかん)が込められているように思われる。彼女が描いたお京の人生の選択は、女性が自立して生き抜くことの困難さを一葉自身が実感していたことの表れとも言えるだろう。
さて、一葉の執筆活動に話を戻そう。明治二九年二月五日、『太陽』に「大つごもり」が再掲されると同時に、『新文壇』には『裏紫(うらむらさき)』(上)が掲載されている。西洋小間物屋を営む財産家・小松東二郎(とうじろう)の妻お律が、仏性(ぶっしょう)の旦那に偽って昔の恋人・吉岡のもとへ急ぐという話だ。
姦通に走る女性を一葉が描こうとした作品として注目されるが、残念ながら未完に終わっている。
これらの作品は、「たけくらべ」「にごりえ」などと同時期に書かれた物である。こうして並べてみると、「奇跡の一四カ月」の一葉がいかに多作であったかに驚かされるばかりだ。
大橋乙羽と一葉の、その後の仕事を追ってみると、明治二九年四月三〇日発行『文芸俱楽部』に「たけくらべ」が一括再掲された後、五月一〇日号には一葉最後の小説となった「われら」が発表された。
貧しさゆえに母屋に捨てられ、その後蓄財にのみ生涯をかけた父親に育てられた美貌の娘お町は、婿を取り、財産で贅沢な暮らしを送っていた。しかし夫は留守がちで、しかもその夫には結婚前から女がいて、すでに一〇歳になる子供までいたことが発覚する。さらにお町と書生の間にはよからぬ噂がたって、彼女は追い詰められていく。
この小説では、はっきりとは書かれていないものの姦通がモチーフの一つとなっており、一葉がここへきて新境地を切り開こうとしていた姿勢が窺(うかが)える。
さて、一葉が乙羽の依頼を受けて最後に執筆したまとまった文章は、明治二九年五月二五日に発行された単行本、『通俗簡文(つうぞくしょかんぶん)』である。ただしこれは、いわゆる小説ではなく、『日用百科全書』の第一二編として出版された手紙の文例集で、つまりは実用書であった。
『通俗書簡文』は一葉の生前に出版された唯一の単行本である。この本はその後約一〇年以上にわたって版を重ね、合計五万部以上を売り上げ、一葉の隠れたベストセラーとなる。
実は、明治二八年の暮れにこの本の執筆を一葉に依頼すべく樋口家を訪れたのは、当時は博文館の社員であった泉鏡花(きょうか)であった。
鏡花と一葉はその後かなり親しかったようだ。それは鏡花が一葉に宛てた手紙の文面でも認められるし、危機に陥った一葉の臨終の数日前に鏡花は見舞っているのだが、どういうわけか一葉の日記には鏡花のことがまったく書かれてない。このため、一葉が一つ年下の鏡花をどのようにとらえ、二人がどう付き合っていたかなどは、何もわからない。
一葉は『通俗書簡文』を生活費のために執筆したのである。それは、貧している一葉のために乙羽が用意した金が手に入る仕事であった。
乙羽は、ただで一葉に金を貸すことをしなかった。それは一葉を常に自分と対等で仕事ができる立場に置くという配慮であり、編集者として一流の心遣いであったとして、後世の人々に評価されている。
だが皮肉な事に、そうした乙羽の心遣いは、結果的には一葉の命を縮める結果となってしまった。『通俗書簡文』の執筆期間はっきりしていないが、これに取り掛かった明治二九年春以降、一葉にはすでに肺結核の兆候が現れていた。このため、その無理な執筆は一葉の死期を早めてしまったと言われている。
斎藤緑雨(さいとうりょくう)一八六七~一九〇四.小説家、評論家、随筆家。森鴎外が中心だった『めざまし草』で活躍。文壇きっての皮肉屋で知られる。評論家として一葉近づく。
文壇きっての皮肉屋からの手紙
明治二九年は一葉最期の年である。この年、一葉はすでに、すっかり有名人になっていた。川上眉山との婚約話が噂になったのも同年一月頃のことだ。
そんな折に、一月八日、とある文人から突然、妙な手紙が送られてきた。
「われは申すまでもなく君に処縁(しょえん)あるものに候(そうら)はず唯わが文界の為に君につげ参(まい)らしたくおもふ事二つ三つ有之候(これありそうろう) 筆にてすべきか口にてすべきか但(ただ)し我れに一箇(いっこ)の癖(へき)ありわれより君を訪(と)ふ事を好まず候 きヽ給はんとならばいかなる親しき人の間にも必ずよく秘蜜(ママ)を保たるべき事を先(ま)づ誓はれ度(たく)候 然(しか)らざれば君に不利なりと信じ候により勿論強てには及ばずわれも又強ひて人の為に言をすヽめんにも候はねば」
要するに、自分は君に縁のある人間ではないが、文壇のために君に言いたいことがある。だが、自分から君に訪ねるのは好まない。もし話を聞く気があるなら、秘密を守ると誓ってほしい。そうしないと、あなたのためにも自分の為にもよろしくない、と。なんとも高飛車で思わせぶりな書きっぷりである。しかも、手紙は読み終わったら使いの者に持ち帰らせてほしいとまで書いてある。
差出人は「正太夫(しょうだゆう)」。これは「正直正太夫」というペンネームであり、この変わった手紙を一葉に書き送ったのは、当時文壇に敵も多く、変わり者、皮肉屋として知られていた、斎藤緑雨であった。
一葉は、何のことかわからないが、皮肉屋のことだからきっと面白いに違いないと思って、他人には決して言いません、お宅には尋ねられないので手紙を下さると嬉しいです、と返事を書き送った。
こうして緑雨と一葉の交流が始まる。緑雨は慶応三年(一八六七)生まれで、一葉より五歳年上であった。伊勢国神戸藩(いせのくにかんべはん)の典医の長男として生まれ、明治九年(一八七六)に一家で上京、数々の中学をみな中退し、仮名垣魯文(かながきろぶん)の弟子となって新聞社で働いた。以降、いくつかの新聞社に入退社を繰り返しながら、小説や評論など発表し、明治二二年、作家評論『小説八宗(はっしゅう)』で世に知られる存在となった。
明治二九年一月からは鴎外が中心になって創刊した『めさまし草』にも参加、幸田露伴とともに、重要メンバーの一人として活躍していた。
実は、一葉と緑雨の接点は四年ほど前に遡(さかのぼ)ることができる。緑雨は朝日新聞に勤めていたこともあり、半井桃水と知り合いであった。しかも『武蔵野』の創刊号にも寄稿していたのである。
先に挙げた手紙は、いわば文壇の先輩が後輩に教えを授けてやるという体裁(ていさい)であるが、ずいぶんと常識外れな物言いであったことは確かだ。それでも、そんな緑雨のやり方に対して、一葉は不快感を抱くどころか、反対に興味を示したのであった。
一葉の返事を受けて、後日緑雨は長い手紙を書き、使いの者をよこしてきた。この手紙についても一葉は日記に記している。
そこには「にごりえ」や「わかれ道」について触れてあり。現代の評論家は見る目がなく、作家は柄が悪いから、人の言うことは気にしないで、あなたは自分の道を真っ直ぐに進みなさい、というようなことが書かれていたという。
一葉は日記に、「正太夫ハかねても聞けるあやしき男なり」としながらも、しばらく様子を見る事にした、と書いている。
緑雨はこの手紙で「わかれ道」について、「明らかに御作(おんさく)の漸(ようや)くミだれんとするの(乱にはあらず寧(むし)ろ濫也(なり))傾向あるをみとめ得らるべく候」として、明らかに作品にだんだんとみたせれる(乱ではなくむしろ濫)傾向があったことを認める方が良いと、一葉を批判している。
彼はそのみだれの原因は、一葉が評論家の批評に心を動かされてしまっているためだとして、だからこそ、周囲の声に惑わされないようにと、忠告の手紙を書き送ってきたのである。
この手紙についても、使いの者に持ち帰らせるように書いてあったが、なんと一葉は、前の手紙もこの手紙も、その場で大急ぎで書き写した上で返却していた。このあたり、実に一葉の方が緑雨より一枚上手であった。
ところで、その頃の一葉は、すでに一種の諦観ともいうべき心境に達していた。それはまだ肺結核の症状が出る前のことだ。
机でのうた寝から目覚めた一葉が、二月二〇日に書きつけた日記には次のようにある。
「ミたりける夢の中(うち)にハおもふ事こヽろのまヽにいひもしつ おもへることさながら人のしりつるなど嬉しかりをさめぬれば又もやうちせミのわれにかへりていふまじ事かたりがたき次第などさま ぐぞ有る」(見ていた夢の中では、思うことを思いのままに言いもし、思ったことはそのまま人も理解してくれて嬉しかったけれど、覚めてみると再び現実の自分にかえって、言ってはならない事や言いにくいことなどが様々出て来る)
一葉は、所詮、 人と人はわかりあえるものではないと孤独をかみしめ、虚無感に包まれている。そしてさらに言う。
「しばし文机に頬づえつきておもへば誠にわれは女成けるものを、何事のおもひありとてそはなすべき事かは」(文机に頬杖を突きながらしばし考えてみるに、本当に自分は女なのだ。何か考えるところがあったとしても、それらはどうせ実行できない)
しかも、これとほぼ同じ内容の文章を、次の段落の最後でもう一度繰り返している。一葉はあと二か月足らずでやっと二四歳を迎えようとしていた。彼女は短い人生の間に、「塵の中」も「水の上」も経験して、その世間や人生を見る実年齢よりも遥かに成長していたのだろう。
自分は女にすぎない‥‥。これが、その時代を自力で生き抜こうとしていた一葉の一つの結論であった。
辛口評論家緑雨VS新進小説家一葉
緑雨と出会った頃の一葉は、自分の作品をただ大げさに褒めちぎるだけの批評に、うんざりしていた。五月二日の日記を見ると、自分をはやし立てる批評家たちは、自分の作品に欠点があっても発見できず、良い点があっても指摘できない、ただ、一葉はうまい、上手だと連発するばかりで呆れている。だからこそ、緑雨のような批判は、かえって彼女の胸に新鮮に響いたようだ。
さて、自分から一葉を訪ねるのはいやだと書いてあった、やがて一葉のもとにやってくるようになる。彼が樋口家をはじめて訪れたのは、五月二四日であった。最初に手紙のやりとりをしてからずいぶんと日がたっている。その間、二人の間にはおそらく書簡での付き合いがあったものと推察されているが、この時期一葉の日記が欠けており、手紙も残っていないので不明である。
しかも、緑雨初の来訪にもかかわらず、一葉の日記には「正太夫はじめて我家を訪ふものがたること多かり」としか書かれていない。だが、以降、緑雨は頻繫に一葉を訪ねるようになって、一葉晩年の日記でもっとも多く登場する最重要人物となる。
一葉が日記に緑雨のことを詳しく書き始めたのは、同月二九日からである。この日、緑雨は『めさまし草』で鴎外、露伴、緑雨が匿名で評論を交わす「三人冗語(さんにんじょうご)」で、「われから」の解釈について、露伴と意見が分かれたという話をし、その創作意図について作者である一葉に質問を浴びせている。
また、翌日発刊される『通俗書簡文』についても尋ね、書簡文といってもあなたが書いたものならおもしろいでしょうと緑雨は言った。一葉は、ただの書簡文集だし、読まれるのはいやだから勘弁してくれと答える。だが緑雨は、すでに印刷して世にでているものは仕方ないと言って笑ったという。
日記に書かれているのは、確かに癖のある緑雨の語り口と、その話術をむしろ楽しんでいる一葉の姿であった。
そしてこのエピソードの後に、一葉は緑雨について、今まで何人もの文人たちを描写してきたように、緑雨について次のように書き留めている。
「正太夫としては二十九、瘦せ姿の面(もん)やうすご味を帯びて唯口もとにいひ難き愛敬(あいきょう)あり(中略)其眼(そのまなこ)の光りの異様なるといふこと乀゛の嘲罵(ちょうば)に似たる 優しき口もとより出(いず)ることながら人によりてハ怖ろしうも思はれぬべき事也 (中略)この男かたきに取てもいとおもしろし、ミかたにつきなば猶(なお)さらにをかしかるべく眉山禿木が気骨なきにくらべて一段の上ぞと見えぬ 逢へるハたヾの二度なれど親しみハ千年の馴染にも似たり」(正太夫、年は二九歳。瘦せ形で、顔は凄味を帯びているが、ただ口元には何とも言えない愛敬がある。その眼光は異様で、言うことはすべて嘲(あざけ)り罵(ののし)りの言葉のようだ。優しい口元から出ることはあるが、人によっては恐ろしく思われるのも当然だろう。この男、敵にしてもおもしろいし、味方にすればなおさらおもしろいだろう。眉山禿木の気骨のなさに比べて、一段上と見た。会ったのは二回だが千年の馴染みのような親しみを感じる)
一葉の耳に届いていた緑雨の噂話や彼が書いた評論から想像するに、彼の人物像は決して良くはなかった。
実際に来た手紙を見ても、顔を合わせてみても、その男は確かに噂通りの、一筋縄ではいかない、ひねくれ者であった。
それでも一葉は、緑雨に対して確かに好感を抱いたのである。ただしそれは、あくまでも緑雨の人間的おもしろみに惹かれたのであり、男としての魅力うんぬんというものに惹かれたのではなかった。
その後も、日記の最後の日まで、緑雨に関する記載は圧倒的に多く、一葉の彼に対する並々ならぬ興味の深さを窺わせる。
ところで、緑雨はどういうわけか、必要以上に一葉との接触を”秘密裏”に進めようとした。七月一〇日、夜更けにやって来た緑雨は、『国民新聞』に「正太夫。一葉を訪う」という記事が掲載されてしまったことに触れて、自分たちが会っていることは鴎外と露伴以外には話していないのに、いったいどこからこうした噂が出るのか、その自分なりの推測を一葉にくどくどと説明している。
こうした緑雨の、一見妙な言動については、当の一葉も「あやしげ」と感じていた。緑雨が神経質な変わり者だったゆえのことなのか、それとも何か一葉に対して作為的な裏があったからなのか、真相は不明である。
それにしても、なぜ緑雨はこうして一葉に近づいてきたのだろうか。これについては、後の桃水の証言がある。緑雨は桃水に、「夫(それ)は貴君(きくん)の処だけで殊勝げに見せ掛けるのだ僕一番近寄って化けの皮をむいてくれる」(「一番女史」)と言っていたという。
推測の域は出ないが、おそらく緑雨は「にごりえ」あたりから一葉の作品を読み、評判になっている作家の正体をこの眼で見ようという好奇心から、一葉に接触を試みたのだろう。純粋に、評論家としての血が騒いでいたのかもしれない。
ところでこの頃の一葉は、緑雨と頻繫に会話を交わし、それについてまるで録音していたかのように詳細に日記に記している。そのような暮らしの中で、彼女の病は着実に進行していた。
一葉の日記には、体調不良について記している記述が少ない。もともと頭痛持ちであったため、頭が痛い、という言葉は時々現れる程度である。ゆえに、一葉の病がいつ頃からどのように重くなっていったのか、その様子を伝えている資料はほとんどない。
最初で最後の真の理解者
緑雨はその後も、頻繫に一葉を訪ね、文壇の批判や『めさまし草』の内情、一葉の作品についての評論などを語っている。中でも、七月一五日の来訪で語ったことは、一葉にとってもことに印象深く、胸の奥に響くものであったと思われる。
その日の夜遅く、大雨で通りに人気も全くないような晩に、緑雨が俥でやってきた。彼は「文界の総まくり」という評論を書くことにしたと言う。今度はいよいよあなたのことを悪く書きますよと笑い、その本の六分の一はあなたのことを書く、と話した。
やがて話は緑雨による「一葉論」に展開する。緑雨は「にごりえ」以下の作品は一葉が「熱涙(ねつるい)」をもって書いたと言っている人が多いが、私は「泣きて後の冷笑」をもって書いたのだろうと見たとして、あなたの作品は冷笑に満ち満ちている、と熱心に語ったという。
日記の記述では、これに対して一葉は、自分はそこまで深く考えて書いているわけではなく、ただその時の拍子で書いただけ。と受け流したことになっている。
だが、現在では、緑雨の一葉評は常に鋭く、的を射たものであったと評価されている。そして、一葉は緑雨の言葉を聞いて、はじめて自分の考えと作品を真から理解する人間に出会ったと感じていたのだろう、とする声が研究者の間でも多数を占める。
何より、一葉が日記にこれほどまで詳細に緑雨の言葉を書き留めているのは、緑雨の言い分に一葉がひきつけられ、その男の中に自分と似たような視線を感じ取っていた証しである。
緑雨は同じ日に、自分がこんなにあなたを訪ねてくるのは、あなたのことが本当にわからないので、その疑問を解き明かしたいからだと言っている。
当初、「化けの皮をむいて」やろうかと思って一葉に近づいていった緑雨であったが、結局は彼の方も、一葉の作家としての面白さ、彼女の心の奥に潜むものに、深く魅せられていったのだ。
それにつけても、緑雨は本当に評判が良くなかった男であった。一葉のまわりにも、緑雨を彼女から遠ざけようとする者たちが何人かいた。
その一人は、あの桃水である。古くから緑雨とは知り合いであったわけだが、六月二〇日の夜に、わざわざ俥で樋口家にかけつけて「斎藤緑雨には気を付けなさい」と言っている。
一葉の日記に書かれている桃水の弁によれば、緑雨は彼の所にもやってきて、一葉についての評論を書きたいので何か材料はないかとか、二人は特別な関係にあったのだろうとか、聞いて行ったという。桃水は一葉に、緑雨は全く油断できない男だと語っている。
また、詳細に次に述べるが、『めさまし草』の仲間で、鴎外の弟であった三木竹二(たけじ)でさえ、六月二日にはじめて一葉を訪ねた際、緑雨には心を許してはいけません、決して騙されないように、と注意している。このあたり、『めさまし草』の内情や、文壇の裏事情などいろいろと想像される。
それでも緑雨は、一葉にとってはおもしろき友人にほかならなかった。彼女はかなり病が重くなっても、緑雨との交流を止めようとはしていない。むしろ一葉は。もっともっと緑雨と話したかったに違いない。
そんな彼女の思いが日記の終わりに近づくほど読み取れるのだ。しかしやがて一葉は、日記の記述も続けられなくなってしまう。
緑雨はそんな一葉に対して実に親身であった。病気が進行していく彼女の為に、彼は鴎外を通して高名な医師・青山胤道(たねみち)に診察してもらえるよう取り計らっている。
そして、彼の一葉に対する献身は、彼女の死後も続いた。まず、一葉の葬儀の費用や借金の始末にも力を尽くした。明治三〇年一月博文館から発行された最初の一葉全集の校訂版(同年六月発行)制作において、実際の編集と校訂を担当した。
緑雨は「一葉全集の校訂に就(おい)て」で、この仕事は個人の遺言により遺族から依頼されて行ったものだと述べている。やはり一葉にとって緑雨は、最初で最後の、真の理解者であったに違いない。
森鴎外(もりおうがい)
一八六二~一九二二.明治大正期を代表する文豪。陸軍軍医。『めさまし草』において一葉を絶賛した。一葉を同誌に引き入れる計画を立てた。
一葉の名声を確実なものした『めさまし草』
作家・樋口一葉を文壇の寵児とした決定打が雑誌『めさまし草』の評論であったことは、先述した。
この『めさまし草』の中心人物であったのが、かの文豪・森鴎外である。文久二年(一八六二)生まれの鴎外は、当時、三四歳の軍医官僚であった。明治二一年(一八八八)ドイツ留学から帰国後、翌年『しがらみ草紙』を創刊して戦闘的啓蒙活動を開始していた。明治二三年(一八九〇)には「舞姫」を発表、文豪の中でも別格の存在であった。
明治二七年鴎外の日清戦争出征により『しがらみ草紙』は終刊していたが、戦後、明治二九年になって、代わって創刊されたのが、文芸誌『めさまし草』であった。鴎外はその創刊号に、一葉を賞賛する文章をはじめて書いている。新作の紹介や批評を行う頁において、「わかれ道」「一三夜」「やみ夜」の三作品をとりあげ、まず「わかれ道」を「作者」一葉樋口氏は処女にめづらしき閲歴(えつれき)と観察とを有する人と覚ゆ。筆路(ひつろ)は暢達人(ちょうたつひと)に越えたり」とし、他の二作品についても評価した。
こうした鴎外の一葉に対する賛辞の最たるものが、これまで何度も触れてきたが、同年四月発行『めさまし草』(巻の四)に掲載された、「たけくらべ」評である。それは鴎外、露伴、緑雨の三人がそれぞれ偽名で行う創作合評「三人冗語」で繰り広げられた。ここで鴎外と露伴の二人は、これ以上言葉の尽くしようがないほど、一葉を絶賛したのだ。
『めさまし草』の中心メンバーであった3人。左から、森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨。鴎外の住居・観潮楼にて。
まず。露伴だが、「此作者の此作の如き、時弊(じへい)に陥らずして自ら殊勝の風骨態度を具せる好文字を見ては、我知らず喜びの余りに起(た)つて之を迎へんとまで思ふなり」とし、さらに「多くの批評家多くの小説家に、此あたりの文字五六字づヽ技裲(ぎりょう)上達の霊符(れいふ)として呑ませたきものなり」とまで書いている。
そして鴎外は、「われは縦令(たとえ)世の人に一葉崇拝の嘲りを受けんまでも、此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり」と書き、「たけ競(ママ=くらべ)出でヽ復(ま)た大音寺前なしともいふべきまで、彼(かの)地の『ロカアル、コロリット』を描写して何の窘迫(きんぱく)せる筆痕を止めさせるこの作者は、まことに獲易(えやす)からざる才女なるかな」(「たけくらべ」出ずして、また大音寺前なし、ともいうべきまで、かの地の「独語Lokal Kolorit=地方職員共済組合」を描写して、追い詰められて苦しむ筆痕を少しも留めていないこの作者は、本当に得がたき才女である)と、最上級の賛辞を送った。
これを読んだ文壇関係者たちが、遅れてなるものかとこぞって一葉賛辞の声を次々と発表し、一葉はまさに”時の人”となったのである。鴎外と露伴という文豪二人による『めさまし草』の一葉賞賛は、結果的に、晩年の彼女の人生を大きく動かすことになったのであった。
『めさまし草』での「たけくらべ」絶賛について、一葉は五月二日の日記に次のように記している。
夜になって平田禿木と戸川秋骨の二人がやって来て、「今夜はあなたから奢(おご)ってもらおうと思ってやってきました」と言って、二人ともにこにこしている。一葉が「何のことでしょう」と尋ねると、秋骨が懐(ふところ)から『めさまし草』巻の四を取り出して言った。
「この巻よけふ大学の講堂に上田敏氏の持来てこれミよと押開きさしよせられぬ 何ぞ乀と手に取りミればこれ見給へ かく乀しか乀゛の評森鴎外、露伴の手に成て当時の妙作これにとヾめをさしぬ うれしさハ胸にミちて(以下続く)」
「当時の妙作」とはつまり「現代の名作」のことである。禿木も、鴎外と露伴からこれだけの言葉を送られたら、文士の身としては死んでもいいほどだと言う。やがて二人は気も狂わんばかりに喜んで帰っていった。
しかし、当時の一葉はこうした世の評判に対して終始冷静であった。一〇人のうち九人は自分がただの女の作家だから面白がっているだけ、と相変わらず冷めた気持ちで捉えている。
一方、鴎外の一葉への執心は並々ならぬものがあった。彼は一葉を『めさまし草』に引き入れようとしたのである。かくして、彼は明治二九年六月二日、実弟で『めさまし草』の同人の一人であった三木竹二を樋口家に使わせた。
これについても、一葉の日記に記録が残っている。竹二は、「三人冗語」に一葉を加えて「四つ手網」にし、それぞれの署名記事として掲載したいのだと、訪問の理由を述べた。さらには、緑雨が訪ねてきたと聞いているが、彼に心を許してはいけないと言い、我々も表面は親しくしているが、やはり隔てて物を言っているのだと忠告した。そして。合評会の日取りが決まったら知らせるので出席してほしいと言って、樋口家を後にしている。
結局この計画は、一葉の病状がその後悪化したこと、もともと一葉が遠慮気味であったことなどから、実現しなかった。
実はもう一つ原因と思われることがある。それは緑雨と鴎外・露伴の間で何かしら問題があったらしく、緑雨がこの二人から一葉を遠ざけようと動いたことだ。実際、緑雨は竹二が一葉宅を訪れたその晩さっそくやってきて、彼は何を言いに来たのかと一葉に根掘り葉掘り聞き、どうも話が違うと訝(いぶか)って見せている。そんな緑雨の牽制も邪魔をして、一葉と鴎外の距離はそれ以上縮まることはなかった。二人は一度も会わずに終わっている。
しかしながら、鴎外の一葉を賞賛する気持ちは、確かに真心からのものであった。ゆえに、彼と一葉を繋ぐ細い糸は、彼女の最期の時まで切れることはなかった。一葉の死に際して鴎外がとった行動とその後の顛末(てんまつ)については、終章で語ることにする。
幸田露伴(こうだろはん)一八六七~一九四七.一葉を絶賛したもう一人の文豪。一葉が生きた時代、尾崎紅葉と並んで花形作家として知られていた。一葉の憧れの作家でもあった。
最後の訪問者
『めさまし草』への参加を三木竹二が一葉に勧めてから約一ヶ月後、樋口家に思いがけない人が訪ねてきた。当時、鴎外や紅葉らと並び、文壇の中心に君臨していた幸田露伴その人である。
露伴は明治二九年七月二〇日午後二時頃、三木竹二にともなわれて、突然樋口家にやって来た、露伴といえば、一葉が小説家を目指して修行を始めた頃の、彼女の憧れの作家である。一葉の病が重くなっていた頃のことである。その日はたまたま、状態が良かったのだろうか。七月二〇日の日記には彼女の体調のことは少しも書かれていない。
露伴は慶応三年(一八六七)生まれだ、一葉より五歳年上であった。明治二二年「風流仏(ふうりゅうぶつ)」を発表、すぐさま「天才露伴」の名は文壇に広まった。同年一二月、尾崎紅葉とともに『読売新聞』に入社。明治二四年(一八九一~二五年)にかけては「五重塔」を発表してその地位を不動のものにし、「名人物」を得意とする花形作家として活躍を続けていた。
一葉も露伴の作品は数多く愛読しており、特に小説家として活動を始めた初期においては、よき手本として、彼の作品から多くのことを学んだ形跡が見受けられる。特に、「うもれ木」が露伴の「風流仏」の影響を色濃く受けていることについては、前章でも述べた。その他にも、作品の着想や文章の運び方など、一葉が露伴から受けた影響は大きく、その点に関しては、後の研究者によって多く論文が発表されている。
それだけに、この文豪との出会いは、一葉にとっては感慨深いものであっただろう。一葉は二人の出会いを、かなり詳細に日記に書き残している。
「色白く胸のあたり赤く丈はひくヽしてよくこえたり、物いふ声に重みあり」これが、一葉の露伴に対する第一印象であった。
二人が訪ねてきたのは、露伴、鴎外、緑雨、竹二、一葉の五人で合作を書いて『めさまし草』に発表しようという計画を、一葉に勧めるためであった。露伴の説明によれば、その作品は大筋だけ決めておいて後はそれぞれの著者が書簡文と日記文の体裁で著していくものと想定されていた。
そこで、誰がどんな登場人物になって書くか、どんな大筋がいいか、という話が樋口家において始まるが、一葉は露伴に担当する人物の要望を聞かれて、中級の士族ぐらいならば、と答えている。
日記によると、三木竹二は、露伴は一葉の恋人役をやるしかないとか、それぞれの役を歌舞伎役者に喩えてむしろ芝居にしたいとか、次々に自分の意見を述べていく。こうして竹二を中心に話はどんどん盛り上がるが、一葉は、みなさんと同じ舞台に上がるのは心苦しい、といって、この話を辞退しようとしている。
これに対して露伴は、そのような遠慮は全く無用、自分も鴎外もあなたと同じくまだ修行中の者です、作品の出来、不出来はその時々によるもの、人生は長いのです、と説いて一葉を励ました。
結局この日、三人は三時間にわたって話し込み、露伴と竹二は、この後鴎外を訪ねると言って、樋口家を後にしている。
これが幸田露伴と樋口一葉の、最初で最後の面談の時であった。この『めさまし草』の合作小説は実現せずに終わってしまったが、もしも、鴎外、露伴、一葉らが揃って一つの小説を書き継いでいたとしたら、いったいどんな作品ができあがっていたであろうか。
一葉が小説家を志した明治二〇年代前半、露伴とともに尾崎紅葉が文壇の中心で活躍しており、「紅露(こうろ)時代」と称せられていた。だが、露伴が樋口家を訪れた頃には、文壇では一葉は露伴と並び称されるほど、その名声は高まっていた。明治二五年三月、一葉が処女作「闇桜」を半井桃水が始めた同人誌『武蔵野』に発表してからわずか四年と数ヶ月の間に、一葉は名実ともに、かつて憧れた露伴と肩を並べるところまで、到達していたのである。
露伴と一葉が顔を合わせたのはたった一度きりであったが、むしろ二人の関係は一葉の死後に深まっていく。後に、妹くにはその人生をかけて、亡き姉とその作品のために力を尽くすことになるのだが、彼女と幾度も会い、相談に乗り、その大きな助けになったのは、ほかならぬ露伴であった。
さて、露伴が一葉にはじめて会った日の翌晩にも、緑雨がやってきて、一葉に『めさまし草』への参加をやめるように延々説得している。緑雨の理屈としては、ただでさえ世間にあれこれ言われるようになっているのに、この上『めさまし草』に参加したらつまらない悪名まで立てられるかもしれない、というものだった。
この緑雨の言い分に対して、一葉は日記に次のように記す。
「此男が心中いさヽか解せぬ我れにもあらず 何かは今更の世評沙汰」(この男の心の中は、いくらかは理解できない私でもない。しかしどうして、今さら世間の評判など)
一葉の長い日記はここで終わっている。
その日付は明治二九年(一八九六)七月二二日。すでに一葉の健康状態は深刻な段階に入っていたのだ。緑雨と出会った頃からの一葉の日記は、まさに言葉がほとばしるような筆致で、その文章は体調の悪さなど微塵も感じさせないものであった。
きっとこの頃の一葉の気持ちは、あくまでも前を向いていたに違いない。しかし、病には勝てず、ついに日記は途絶えた。一葉がこの先どう語りたかったのか、それはもはや永遠に知ることはできない。
終章
一葉の死
明治二九年の春までには、すでに一葉は肺結核の症状が表れていた。四月には咽喉が腫れて治らなくなっていたという。緑雨が樋口家を頻繫に訪れていた七月頃には、三九度の熱が出る日もあり、やがてそれは連日続くようになった。
一葉の日記は七月で終わっているが、実はその後病床で記された無題の雑記帳が残っている。書かれているのは断片的な文章やメモ書き、数首の歌である。以下に、ほんの一例をあげる。
「病人でも夏は暑い」
「わづらつてしる病人の味」
「大かたの人にはあハで過ごしてしやまひの床に秋は来にけり」
八月はじめ、くには一葉を駿河台の山龍堂病院へ連れて行く。しかし、院長の診断は”絶望的”であった。
それでも九月頃の一葉は、日によって、まだ起き上がることができた。九日には、無理を押して萩の舎の歌会に出席している。これが、中島歌子、田辺花圃ら、萩の舎関係者と顔を合わせた最後となる。
一葉の病状が悪化してからというもの、斎藤緑雨は何くれとなく、樋口家を助けた。先にもふれた通り、彼は森鴎外に頼んで、一葉が医師・青山胤道(たねみち)に診察してもらえるように取り計らっている。だがこうした周囲の思いも空しく、もはや、時はすでに遅し、であった。
一葉の最期については、何人かの友人たちが、後にその思い出を語っている。
一葉の容態が悪くなってから毎日のように見舞いに訪れていた親友の伊藤夏子は次のように記している。
「森先生のご依頼で青山先生が、来診下さいましたあくる日、行きましたら。妹さんが忍び足で、入り口にかけ出して来て、『姉は結核ですって。どうしてもだめなんですって』と、青山先生がされるように手を振って、見せました」(『一葉の憶ひ出』)
一葉の容態を知った『文学界』の友だちも、彼女を訪ねている。その一人、戸川秋骨の回想によれば、「皆様が野辺をそヾろ歩いてお居での時には蝶にでもなつて、お袖の辺りに戯れまつはりましよう」(「一葉女史の追憶」)と語ったという。
彦根に赴任していた馬場孤蝶は、一一月三日も四日頃に樋口家を訪ねてきた。この時彼にくにから「会つて呉れとは云ひ兼ねる、唯(ただ)見て行つて呉れ」(「一葉全集の末に」)と言われている。六畳間で寝ていた一葉に孤蝶が「この暮にまたお目にかかりませう」と言うと、一葉は「その時分には私は何に為つて居ましよう、石にでも為つて居ましようか」と、とぎれとぎれに語った。
かして明治二九年の一一月二三日、一葉はその短い、波乱の生涯を終える。
当時新聞は、「もっとも優れた女流作家の死」として、一葉の訃報を発表しているが、いずれも死亡時刻はばらばらで、彼女が何時に亡くなったのか、その臨終の様子などは、はっきりしていない。
伊藤夏子は、その翌日のことを、次のように語っている。
「あくる日行きましたら、入り口にお線香が、置いてあったので、いよいよ生きていないなと、はっきり感じました。妹さんがかけ出して来て、「あなたにみせるまではと、思ふて棺に納めないで、寝かしておいたのに、なぜ昨日来てくれなかつた」と、私をゆすぶつて泣きました」(『一葉の憶ひ出)
二四日に行われた通夜には、緑雨、秋骨、そして川上眉山が列席した。そこで緑雨は、
「霙(みぞれ)降る田町に太鼓聞く夜かな」
という句を詠んでいる。当時福山町の近くにあった病院が夜警に太鼓を打っていたのだが、これが通夜の席に寂しく響いてきたのであろう。
葬儀は翌二五日に行われ、一葉は荼毘(だび)に付された。その葬儀はごく質素であったという。立派な葬儀や会葬御礼をする余裕がなかったので、格式を重んじたたきとくにが、弔問をみな断ったと言われている。萩の舎関係者さえ、葬儀に出席したのは伊藤夏子
田中みの子の二人だけであった。
一葉の葬儀に際して、ぜひとも一葉に弔慰を表したいと願う人物がいた。森鴎外である。かれは生前の一葉にはついに一度も会うことがなかったが、葬儀に際して、軍服姿で騎乗して棺に付き添うことを自ら申し出た。樋口家が謹んで辞退したために、鴎外は代わりに大ろうそくを送っている。
後に当時の香典帳が発見されたが、そこには伊藤夏子、田中みの子、斎藤緑雨、川上眉山らのほかに、中島歌子、田辺花圃、野尻理作、星野天知、大橋乙羽夫妻、そして幸田露伴らの名前がみられる。
一葉最愛の人であった半井桃水(なからいとうすい)が病床の彼女を見舞ったことを示す記録は残っていない。一葉は自分の病み疲れている姿を桃水に見られたくなかったのではないだろうか。通夜、葬儀にも桃水は出席していない。遅れてその事実を知ったと思われ、多くの知人同様、後から香典だけを樋口家に届けている。
一葉の遺骨は樋口家の菩提寺である築地本願寺に葬られた。関東大震災の後、杉並区和泉の本願寺墓所に移され、彼女は現在そこに眠る。
生前の一葉を常に支え、死後はその作品の保管と発表に力を尽くしたのは、一葉の妹くにである。今日、くにの力なくしては、一葉文学は存在し得なかったと言われているほど、彼女の果たした役割は大きい。
特に、数々の名作とともに、その文学性を高く評価されている日記はついては、くにの尽力なくしては、とうてい後世に伝えることはできなかった。
くにによれば、一葉は自分が死んだら日記はすぐに焼き捨ててくれと言い、一葉の死後間もなく、くにがその日記を焼き捨てたという記事が新聞に掲載されたという。だがそれは、日記を出版したいと押し寄せて来る出版社をかわすためのポーズであったらしい。くには残った膨大な日記を整理し、書き写して写本まで作り、手元で大切に保管した。
一葉の母たきは、一葉が亡くなってから一年を過ぎた明治三一年(一八九八)二月、この世を去っている。
この時、一人残されたくにを助けたのは緑雨であった。彼はたきの葬儀を仕切っただけではなく、香典として金一〇円という大金と、さらに追加で五円までも樋口家に渡している。緑雨自身、経済的には逼迫(ひっぱく)しており、常に借金取りに追いかけられていたにもかかわらずの心遣いであった。
だが、くにの身にふりかかってきた樋口家の借財は大変なものであった。彼女は借金取りからの追跡を逃れるために、一時大橋乙羽宅に身を寄せている。その後は転々としたことが、則義の時代からの知人であった西村釧之助(せんのすけ)が経営する文房具店礫川堂(れきせんどう)に出入りしていた吉江政次いう男性と明治三二年一一月に結婚する。やがて夫妻は釧之介から礫川堂を譲り受け、その経営で生計を立てた。
ちなみにくにが落ち着くまで、何かと彼女の面倒を見たのもまた緑雨であった。
さて、一葉の日記を保管してきたくには、明治三六年(一九〇三)八月か九月頃、一葉の親友の一人であった馬場孤蝶に日記を手渡して、その発行について相談した。これを受けて孤蝶はまず、緑雨に事の次第を話している。
そして、孤蝶から日記を預かって読んだ緑雨は、幸田露伴と森鴎外に相談する。この時、鴎外は、差し支えのある部分は削ってすぐに出版するように、と言ったと伝えられている。
こうして緑雨と孤蝶は日記の出版に向けて動き出したのだが、翌明治三七年の春、緑雨もまた結核に倒れてしまう。
四月一一日に緑雨危篤の知らせが孤蝶に入り、駆け付けた孤蝶には、日記を樋口家に返してほしいという遺言が残された。
緑雨は、一葉と同じ病で、その翌々日この世を去った。
時は経ち、明治四一年それは一葉の一三回忌にあたる年だった。その年の六月、川上眉山は自ら命を絶ち、この世を去っている。創作活動に行き詰まったためと言われている。
同じ年、暗礁(あんしょう)に乗り上げたかに見えていた日記出版の計画が、くにの奔走(ほんそう)によって復活した。日記を博文館(はくぶんかん)から発行すべく、企画を推し進めたのだ。
くにの努力が実って出版が決定し、間もなく準備が進められたのも束の間、この計画はまたもや思わぬ方向へと迷走を始める。そのきっかけとなったのが、森鴎外と幸田露伴に宛てに書かれた手紙である。
先に述べたとおり、緑雨によれば鴎外は一度は発行に賛成したはずだった。
しかしこの時の彼ははっきりと難色を示しているのだ。鴎外は手紙で以下のように露伴に意見している。
「一、 一葉の日記ハ出版するがよきかせぬがよきかと申せばせぬがよしと存候(ぞんじそ
うろう)。二、出すならば十分の手入を要し候ある部分をあのまヽ出すは一葉を傷くること甚だしと存候」
一葉の日記をめぐって二人の意見は食い違い、これが後に二人が疎遠になる一因になったとも言われる。
これを機に鴎外は一葉に関する一切から手を引き、この件について沈黙を守った。鴎外の真意はもはや確かめようがない。
一方の露伴は、その後日記をはじめ一葉作品の出版について常に協力を惜しまず、くににとって頼れる相談相手となった。
こうして紆余曲折(うよきょくせつ)はあったものの、明治四五年(一九一二)、実に一葉が亡くなってから一五年以上の歳月を経て、日記は馬場孤蝶の編纂(へんさん)による『一葉全集』に収録され、ついに博文館から出版される。
全集発行に際して、力のこもった長編の序文を寄せたのは、やはり幸田露伴であった。
日記に隠された謎
明治四五年五月、博文館より『一葉全集』が発行された。ここに一葉の日記がはじめて公開され、それは瞬く間に世間の評判となる。
人々の好奇の目は、一葉の私生活、特に男性関係に集中した。そして、日記は修正が加えられたり、意図的に削除されたりしているのではないか、という疑いが向けられたのである。
この点については、現代においても明確な答えは得られていない。確かに、これまで述べてきた通り、一葉の日記は所々欠けているのだ。
また、たとえば晩年の一葉が親しくしていたことがわかっている島崎藤村と泉鏡花(きょうか)については、どういうわけかほとんど名前が出てこない。
特に、一葉が危篤と聞いて、死の数日前に見舞うほど親しかった泉鏡花について、完全に無視されたかのように一度も名前が登場しないのは実に奇妙な話である。
欠けている箇所の中には、生前の一葉が自ら処分してしまった部分もあるだろう。しかし、それ以外にも、関係者が公表をためらい、意図的に削除した部分がある可能性は否定できない。
ただし、これについて編纂にあたった馬場孤蝶は、「『日記』には私の手で省略した処はない。多分全体を通じて何処にも省略した処はあるまい」と「一葉全集の末に」で断言している。
あるいは、孤蝶の手に原稿が渡る以前に、誰かの希望によって数箇所が削除されてしまっていたのかもしれない。
その張本人は藤村、鏡花、もしくはくにか緑雨だったのだろうか。いずれも単なる憶測でしかなく、真実は闇の中である。
さて、一葉の日記が公開されて、誰よりも注目を集めてしまったのはやはり半井桃水であった。もともと一葉の生前から二人の噂はあったが、日記の出現により、やはり事実であったのかと、人々は騒ぎ立てた。
日記を最初から最後まで読むとよく分かるが、そこには二人の間に具体的に何があった、という話は一切出てこない。しかも、記述が欠けている時期もままあり、これが余計に憶測を呼んで、桃水は好奇の目に晒されることになったのである。
同年八月。桃水は雑誌『女学世界』において、「一葉女史の日記に就(おい)て」というタイトルで文章を発表した。その中に、以下のような記述がみられる。
「私は何人に対しても、故女史とは親友であった。言得(いいう)べくんば兄妹であったヨリ以上の何事もなかったと、常に明言して居たのである」
明治二七年七月、桃水とは兄と妹のように潔白清浄な関係で一生を送っていきたいと日記に書いていた二二歳の一葉、死ぬ前年には、四年わたって桃水との間に積み重ねてきたすべての想いと現実を乗り越えて、「たヾなつかはくむつまじき友として過さんこそ願ハしけれ」と言っていた一葉。
桃水は、そんな一葉の気持ちを日記から汲み取り、もはやこの世にはいない一葉に代わって、彼女の気持ちを代弁しようとしたのだろう。
さらに同じ文章の中で桃水は語る。
「女史は恋を歌う人で、実行し得る人ではない、女史は恋を理想化せしめたいと力める人で同時に理想の恋は歌ふべくして実現せぬという事を知りぬいて居る人であると」
つまり日記に書かれていることは、一葉が理想とした恋の姿を描いたものだとした。
「私は日記に書かれて居る女史の文を見て、初めて女史が理想の恋の研究材料の一部分に使はれて居た事を知(ママ)た。それ以前は何事も一切知らなかったという外(ほか)はない」
桃水は、二人の間には何もなかった、としただけではなく、日記に書かれている自分とのことの多くは彼女が”理想の恋”を描いた創作である、と言い切ったのである。
その後も、桃水は何度か一葉とその日記について文章などで発言しているが、彼はこの姿勢は最後まで貫き、大正一五年(一九二六)、六六歳でこの世を去った。
一葉自身は、まさか自分がしたためてきた日記が出版されるとは夢にも思わなかったに違いない。彼女の魂は、かつて愛した桃水の発言を、どのような気持ちで聞いたのであろうか。
樋口一葉がわずか二四年という短い人生の間に紡(つむ)いできた一三人の男たちとの物語はここに完結する。振り返ってみると、彼女は心から愛した桃水以外の男性とは、常に対等か、それ以上の立場で交わっていたように思える。
元許婚(いいなずけ)である渋谷三郎に未練を示すこともなく、久佐賀義孝や村上浪六の経済力に対しても精神的に屈服することはなかった。
そして、『文学界』の同人たちの前では姉のごとく振る舞い、星野天知や大橋乙羽といった切れ者を相手にしても、なぜかはじめから臆するところがなかった。
さらには幸田露伴や森鴎外といった文壇の頂点にいた人々に対しても、一葉は尊敬の念は抱きつつも、媚(こ)びることも、下手に出ることもなかったのだ。
彼女は表面的には、一見、慎ましやかで、大人しい女性であったかもしれない。しかし、実際には、相手がどんな男であっても、決して恐れることはなかった。
おそらく一葉は、自分という人間に対して、常にゆるぎない自信と誇りを抱いていたのではないか。
そこにいたのは、「大つごもり」のお峰よりも大胆で、「にごりえ」のお力よりもしたたかな女であった。さして「一三夜」のお関や「わかれ道」のお京のように明治という時代に飲み込まれることなく、なんとかして自分の力で生き抜こうと試みた、まさに”新しい女性”であった。
2004年11月15日第一冊発行。
監修者紹介 木谷喜美枝(きたに きみえ)1945年山口県生まれ。69年、日本女子大学大学院文学研究科日本文学専攻修士課程修了。現在、和洋女子大学人文学部教授。尾崎紅葉などの近代文体や明治以来の女流文学の研究を続けている。著書に「尾崎紅葉の研究」、共著に「論集 樋口一葉」「近代文学」などがある。
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