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第二章 縁のあった男たち

本表紙木谷喜美枝[監修]

渋谷三郎

 一八六七~一九三一.判事、秋田県知事、山梨県知事、早稲田大学法学部長、東北興行長、報知新聞社副社長など、立身出世を極めた。一葉の元許婚。

 半井桃水のもとを離れて『都の花』に作品を掲載した一葉は、それから先、たくさんの男性と出会ことになる。その多くは、基本的に文学の世界の男達であり、彼らとの関係性は小説家を抜きにして語ることはできない。

 だが一方、一葉の短い人生において、文学を抜きにしたところで彼女の男性観、経済観に影響を及ぼしたと思われる人物が、桃水の他にも数人いる。本章ではそうした男たちに注目しつつ、一葉の暮らしぶりを追ってみることにしたい。

 実は一葉には一〇代の頃、許婚がいた。その相手は、父則義とたきが江戸に駆け落ちした際の恩人・真下専之丞の妾腹の孫、渋谷三郎である。彼には慶応三年(一八六七)、現在の東京都町田市にあった宿『武蔵野』の息子として誕生した。一葉より五歳年上である。明治二二年(一八八九)には東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業し、翌年には高等文官試験に合格して、明治二四年には新潟で裁判所の司法官試験補になっている。

 一葉が渋谷三郎と出会ったのは、明治一八年、彼女が一三歳の年であった。青海学校を辞めさせられて以降、裁縫などを習っていた頃のことである。裁縫を習いに通った知人の家で、渋谷三郎を紹介された。

 後に、一葉は渋谷三郎との思い出を、明治二五年九月一日の日記に記している。それによれば、則義は三郎に望みをかけて一葉の婿に望んでいた。三郎ははっきりと返事をしないままに、その後も時々樋口家を訪れ、一葉やくにと話をし、時には三人で寄席に行くこともあったという。

 そして明治二二年七月、則義が亡くなる。その後、三郎の態度がどうもはっきりしないので、たきが一葉との縁談について問詰めてみると、その日は帰っていった。しかしその後、仲介人を建てて、「怪しう利欲にかヽはりたることいひて」届いたというのだ。そのためにたきはたいそう立腹して、この話は破談になったという。

 具体的にははっきりしていないが、おそらく渋谷家側は没落した樋口家の様子を察して、わざと経済的に無理難題を言ってきたと思われる。
 この時のことを一葉は、「我もとより是れに心のに引っかるヽにも非(あら)ず、さりとて憎くきにもあらねバ」と記している。この言葉をそのまま信じるなら、その時点では一葉は三郎に特別にどういう感情を抱いていなかった、ということになる。

 日記によると、その後も渋谷三郎が則義の一周忌に訪ねてきたり、仕事で彼が新潟へ行くまでは礼儀を尽くしてきたので、それなりに樋口家との付き合いは続いたという。
 渋谷三郎はやがて再び一葉の眼の前に登場することになるのだが、その前にもう一つあった一葉の幻の縁談話を、参考までにあげておこう。

 明治二〇年一二月、長兄泉太郎が亡くなった際、その葬儀の会葬者名簿に、夏目直克(なおかつ)という名を見つけることができる。これは、夏目漱石の父親である。実は夏目直克は、則義が警視庁に勤務していた頃の上役であった。

 夏目漱石の妻、夏目鏡子が著した『漱石の思ひ出』の中に、次のような話がある。
 直克の下役だった則義は、学問もある働き者で、直克はたいそう重宝に使っていた。時々金も貸していたという。その頃、直克の長男、つまり漱石の兄である大一(だいいち)も、同じ職場で翻訳係をして働いていた。大一は年頃で、男前にして、名主の長男という申し分のない男である。樋口の娘は字も立派で歌も作る大変な才媛がいるから、あれを嫁に貰ってはどうかと言う話が持ち上がったというのだ。

 これによると、ただの上役・下役の関係でさえ時々貸した金が帰ってこないのに、娘を嫁に貰ってはどうなることかと、話はそれっきりとなったという。

 おそらく、縁談というよりは、流れでちょっと話題になったという程度のことだろう。だからこの話について、当時一五歳前後だった一葉はまったく知らなかったと思われる。この縁談に関する記録や伝承は、樋口家側では何も発見されていない。

 実際には、夏目大一は明治二〇年三月、三一歳で病死している。そして泉太郎の葬儀には、則義の職場の上司として、また若くして長男を亡くすという同じ悲しみを知る人間として、夏目漱石の父、直克が樋口家の葬儀に訪れたことになる。

 一葉が夏目家の嫁になったらと空想して見るのは、実に面白い。しかし、もしそうなっていたら、小説家樋口一葉は生まれていなかったかもしれないのだ。

自立と結婚の間で

 明治二五年八月二二日の夜、それは一葉が桃水との決別を心に決めた数ヶ月後のこと、突然、久しぶりに渋谷三郎が樋口家にやってきた。彼は検事として新潟に赴任していたが、その日は暑中休暇で帰省中だった。一葉はこの日の出来事を、日記に詳しく書き記している。三郎は、知人から一葉が小説を書いていると聞いたと言って、とにかく頑張るように一葉を励ました。そして次のように語ったという。

 私は昔はあなたの家がお金持ちだしばかり思って、無理な事を言ったことがありました。今にして思えば、気の毒で心苦しいばかりです。もし相談したいと思うことがあれば、遠慮なく言ってください。小説出版などのために費用が必要なら私が立て替えましょうと。

 さらに何かあなたが書いたものをください。形見にもするし、持ち歩いて自慢します、と一葉の気を引くようなことを言ったりもしている。

 彼は、一葉をはじめ、たき、くにらと、桃水の話や、一葉の近眼をなんとかして治そうという話など、いろいろ語り合って、一一時頃になってようやく帰っていった。

 一葉はそんな三郎を「身形(みなり)などはよくもあらねど金時計も出来たり、髭もはやしぬ」と描写している。そして、一葉がはじめて会った頃の彼は、何の見識もなく学問も浅かったのに、「思へば世は有為転変(ういてんぺん)也けり」と、彼の変貌ぶりにショックを受けている。
 さらに、それに比べて自分は進歩どころかむしろ後退していると書き、三郎が出世したことに対して、「浅はかぬ感情有けり」と複雑な心境を表している。

 渋谷三郎はその翌日にも樋口家を訪れた。この日の一葉の日記によれば、またいろいろと話は弾み、最後には手紙を約束しあって帰ったという。
 今頃になって三郎はなぜ連日、樋口家を訪ねたのか。彼はこの時、一葉との縁談話を復活させる動きを見せていたのである。それについて一葉は、九月一日の日記で、自ら戸主としての誇りと、小説家として生きる決意のほどから、次のような思いを書き記している。

 彼は検事として正八位に叙されて月給は五〇円だという。今この人に頼れば、樋口家も立派に成り立つだろうが、それは一時の栄誉に過ぎない。私はもともと、富貴を願っているわけではない。位などどれほどのものだろうか。母に心安らかな住居を得させ、妹に良縁を与え、私は養う人がいないで、道端にも寝ようし、乞食行的暮らしもしよう。

今更この人の世話になろとは決して思わない。それはこの人が憎いわけではなく、はたまたやせ我慢でもない。人の世のはかない富貴栄誉はなげかわしいものとして捨て去って、私は小野小町の末路のようにやってみたいと思う。心変わりがあるかもしれないが、見比べる時があるかもしれないと思い、今日の心はこんな風に記した、と。そしてその日の日記は「今日はいとものうくて何事もなさずに日を暮らしぬ」で終わる。決意とは裏腹に、一葉の心はどこか重かったのだろう。

 一葉の三郎に対する気持ちはゆれ続けていたに違いない。後に、明治二七年の日記で、三郎から年賀状を貰ったので、返事に書いた旨を記している。そこには次の歌が書かれていた。

「わすれぬもさすがにうれしからころもつまにといひしなごりとおもえば」(忘れられず、さすがに嬉しい。美しいこの衣が妻にと望んでくれたなごりと思うと)

 渋谷三郎は東京地裁判事などを経て、明治三三年にはドイツに留学、帰国後、法政局参事官、早稲田大学法学部長、秋田県知事、山梨県知事、早稲田大学学長などを歴任、東北興業社長、報知新聞副社長も務めるなど、立身出世を極めた人生を送った。

 一葉はその短い人生を一生独身で過ごした。その理由もあえて探るなら、戸主であったため婿をとるしかなかったことと、桃水を思い続けていたことがあげられる。だがさらにもう一つも文学の道を極めたかったから、とは言えないだろうか。

 渋谷三郎が樋口家を訪れてから数ヶ月後の一一月、田辺花圃が三宅雪嶺と結婚した。翌年の六月四日に花圃の家を訪れた一葉は彼女のことを、「ひたすら家事に身を委ねて世上の事文事の事何事も耳に入らずとて極めて冷やかに成給へり」と評している。

 ここからは花圃に対する相変わらず複雑な感情とともに、結婚に対する否定的な気持ちが間接的に伝わってくる。妻になれば夫に尽くすのが当然であった時代、結婚してしまったら文学が疎かになると一葉が危惧していたとしても、不思議ではない。

 また、一葉が結婚そのものに疑問を抱いていたことは確かである。伊藤夏子の証言によると、「ある人に、金がなくて食えないなら親を連れて嫁にいけといわた、夏ちゃん、お嫁っていうものは、食べるためにいくのかい」(『一葉の憶ひ出』)と語ったという。

 一葉は一人の男と夫婦になるのがいやだったというよりも、女が生きるための手段として結婚することに反発を感じていたのだ。金や権力、生活力のある男と一緒になって裕福な暮らしをすることより、貧しくても自分だけの力で家族とともに倹(つま)しく生きていくことの方がずっと価値があると、一葉は信じていたのである。

 女性の社会的進出、自立にはまだまだほど遠かった時代、一葉は一人の女性として、一人の人間としての尊厳を守るために、本当の意味での自立を目指そうとしていた。
 彼女は「男に食べさせてもらう」ことを拒否し、自らの力で、筆一つで自分と家族を養おうと、闘っていたのである。一葉がフェミニズムの視点から語られることが多いのは、このためだ。

 ところが、明治二七年『文学界』一九号、二一号に文載された「やみ夜」に登場する浪崎漂(なみざきただよう)は、渋谷三郎がモデルであると指摘されることが多い。

 主人公は親に死なれた二五歳の独身の美女お蘭。彼女には衆議院議員の浪崎という許婚がいたが、お蘭の父親が投機に手を出して破産し、山崎の汚名を着て自殺してから、外聞をはばかって彼女の家に近寄らなくなる。お蘭はたまたま浪崎の車にはねられて負傷していた男・高木を助けて介抱してやった。やがて彼女は高木に浪崎の暗殺を頼む。

 あらすじをざっと追っただけでも、破産した父親、没落した家、世間体を気にして許婚を捨てる男と、確かに一葉の実体験とがだぶる部分が多い。
 ただし、いわば悪役である浪崎の描き方を、そのまま一葉が渋谷三郎に抱いていた感情と解釈するのは誤りだろう。

野尻理作(のじりりさく)

 一八六七~一九四五.『甲陽新報社』主幹。一葉の両親と同郷の出身。帝国大学通学中は則義が保証人となった。一〇代の一葉の、もっとも身近にいた異性。
一葉姉妹と親しかった異性
 もう一人、一葉の身近にいた異性に野尻理作がいる。彼は渋谷三郎と同じ、慶応三年生まれ。甲斐国(現山梨県)にあった造り酒屋の次男で、則義とたきにとっては同郷人であった。理作は、則義の存命中に東京に出てきて、帝国大学文化大学(現東京大学)に通っていた。則義は彼の保証人になってやり、何かと面倒を見てやっている。そのため当時から理作は樋口家に出入りしており、一葉やくにとも親しかった。

 明治二二年、則義が亡くなった折、たきは即座に葉書を出して理作を呼び寄せている。この時、理作は葬儀の手配や新聞の死亡欄への連絡など手伝った。また、翌年の一月には樋口家に宿泊し、翌朝一葉と一緒にくにの奉公口探しに歩き回っている。

 同じ年の三月二日には、則義を亡くして経済的に先が見えない状態にありながら、樋口家は理作に二〇円という大金を貸していた。理作がこれを何のために必要だったかなどはわからないが、樋口家と理作がよほど親しい間柄であったことが窺える。

 その翌年一〇月の一葉の日記には、山梨の理作から葡萄が届いたという記録がある。つまり理作は、この間に東大を中退して故郷へ帰っていたことになる。

 山梨に帰った理作は、明治二五年に現甲府市に甲陽新報社を設立、自ら主幹となって新聞を発行している。時に自分でこの新聞に掲載する小説も執筆していたらしい。そして同年九月二三日、理作から一葉のもとに葉書が届く、『甲陽新報』のために、小説を書いてほしい、という連絡であった。一葉が小説を書いていることを知った理作が、彼女の発表の場を提供してくれたのである。

 こうして一葉は「春日野しか子」というペンネームで、同紙に「経つくえ」を書いた。この作品は同年一〇月一八日から二五日まで、七八~八四号に連載されている。
 評判も良く、前途有望な医学博士松島は、父親同士が同じ幕臣として親しかったという香月の娘園(その)を熱心に世話していた。園はすでに両親を亡くしていた。園の乳母は彼女に松島と結婚するように勧めるが、園はどうも松島を避けてばかりいた。やがて松島は札幌赴任することなり、園は別れて見てようやく松島への想いに気づく。しかも彼は一人札幌に旅立ち、かの地で病死してしまうのであった。

「経つくえ」が書かれたのは、ちょうど渋谷三郎が一葉に復縁を望んできた少し後のことである。一説には、主人公松島は三郎をイメージしたものではないかと言われている。

 実はこの作品は、明治二八年六月、『文芸俱楽部』に若干の改訂が加えられて再掲された。主人公の名前が「松島」になったのはこの時で、初出ではこの男の名前は、「やみ夜」に登場する衆議院議員と同性の「浪崎」であった。

 一方、理作とくに、あるいは理作と一葉がモデルであると言われている作品に「ゆく雲」がある。明治二八年五月、『太陽』五号に発表されたもので、山梨県の富豪の養子で東京に遊学中の野沢佳次(けいじ)を主人公にしている。

 養家からは娘との結婚の為に帰郷を催促されていた野沢は、実は東京で世話になった上杉家の娘お縫(ぬい)を慕っていた。お縫の方は積極的な反応を示さないままで、やがて野沢は一生君のために手紙を書くからと言い残していった。しかし、最初のうちは頻繫にきていた便りも、次第に少なくなり、故郷で経済的に成功したせいか、最後には年賀状と暑中見舞いだけの間柄になってしまった。

 実は、くには理作に想いを寄せていた。明治二六年三月一六日の一葉の日記には、理作が結婚したという話を知人の手紙で知った時のことが書かれている。「国子の心をおもひやるに我ももの悲しさ堪えがたし」とし、姉妹で歌を詠みあっているのだ。
「いにしへにためしも有とあきらめて夢のうきよをうらミしもせじ」
 と言うくにに対して一葉は、
「身にちかくためしも有をくれ竹のうきよとはしもうらむなよ君」
 と、好きな人とうまくいかなかた例は身近にあるでしょうと、自分と桃水のことを詠んでいる。くにが理作を想っていたことは前々から知っていた。十代の頃から親しかったもっとも身近な異性の一人として、また、くにの失恋の対象として、一葉の中で男性が構築されていく上で、理作の存在は決して小さくはなかったのだろう。

久佐賀義孝(くさかよしたか)一八六四~没年不詳。占い師。自ら「顕真術会」を創設。明治二七年二月二三日に突然訪ねてきた一葉と、一年以上にわたって付き合いがあった。

糊口的文学との決別

 一葉の交友関係の中でも、もっと謎が多く、また、もっとも後世の人々をとまどわせたのが、占い師、久佐賀義孝との交渉である。この男は元治元年(一八六四)の生まれで、一葉がはじめて出会った時点では三〇歳であった。
『京浜実業鑑』に掲載されたプロフィールによると、久佐賀は熊本県生まれ、幼い頃から禅、中国語、易経などを学び、後に朝鮮、清国、印度、米国などを歴訪、時には山や沢で断食をして修業し、明治一九年に帰国。東京本郷区で「顕真(けんしん)術会」なるものを創設した ことになっている。

 さらにそこには「人身の吉凶諸相場の高低一として適中せざるはなし世人似(よひともつ)て神となす」と、大仰(おおぎょう)に形容されていた。要するに、占い鑑定師、身の上相談、相場のコンサルタントであった。

 一葉がなぜこの男を知ったのか、そのきっかけははっきりしていない。木村真佐幸氏は『一葉文学成立の背景』において、明治二七年当時の新聞に度々掲載されていた久佐賀の広告ではないかと指摘している。

 おそらく新聞に大きく載っていた久佐賀の広告を見た一葉は、明治二七年二月二三日、本郷真砂町にあった顕真術会を自ら訪れる。一葉がなぜこの男に会い、この男に何を求め、そして二人の間に何があったのか、正確なところは誰にもわからない。

 この件については、困窮していた樋口家の経済状況抜きに語ることはできない。一言で言ってしまえば、一葉が久佐賀から金を引き出そうとしていたことだけは、確かだからだ。そこでまず、明治二六年、一葉が『都の花』に作品を掲載するようになった頃から、樋口家の窮状(きゅうじょう)を追ってみることにしたい。

 則義が亡くなってからというもの、たきも一葉も人から金を借りる事が度々あったが、それは日増しに頻繁になり、額も大きくなっていった。たとえば明治二六年五月二九日には、一緒に親友の伊藤夏子から八円というまとまった金を借りている。

 その時代、知り合い同士の金銭の貸し借りは、返済されないことが多かった。まさに”ない袖は振れぬ”わけで、貸した側も、取り立てようにも取るものがない場合は諦めざるを得なかった。

 そんな時代にあって、一葉はこれから先もあちこちで金を借りまくるが、かなりの額について、返済された気配がない。伊藤夏子も、金を貸した友達からはあまりよく思われていなかったと証言している。
 明治二六年三月一五日、 一葉とくにが、野尻理作が結婚したということを知った日の前日の日記の書き出しは、「昨日より家のうちに金といふもの一銭もなし 母君これを苦るしミて姉君のもとより二十銭かり来る」となっている。さらに三〇日には、
「我家貧困日ましにせまりて今は何方(いずかた)より金かり出すべき道もなし」と書いている。
 その前年の秋に「うもれ木」を発表して以降、『文学界』の星野天地や平田禿木(とくぼく)らから、一葉に小説の依頼が来るようになっていた。しかし一葉の筆は遅く、次から次へと作品を発表することはできず、原稿料を思うように稼ぎ出すことはできないでいた。

 三月三〇日の日記には、一葉がたきから一日も早く小説を書けと急き立てられて苦しんでいる様子が伝わってくる。この時のたきはかなり手厳しい。
 少しは気に入らないところがあっても辛抱して作品を発表しなさい。仮に一〇年後に名声が上がったとしても、それまで食べていけなかったどうするの。こんな苦しい思いをするよりは、定収のある小役人か小商人の方がいい、と。

 家族のために小説を書こうと苦しんでいる一葉に対して、なんという辛らつな言葉だろうか。それでも一葉は、申し訳ないことだと、日記に書いている。

 その約三か月後、行き詰った一葉はついに小説を書いて家族を養う道を断念するに至る。六月二九日、「此夜一同熟議(このよいちどうじゅくぎ)実業につかん事を決す」。
 この時もたきはひたすら嘆いて、お前の志が弱いからとうとうこんなことになってしまったと言い、一葉をなおも責め立てたという。さすがの一葉もこれには閉口して、家財を売ろうが商売を始めようが文学への志は変わらないのに、老いた人はただ物事の表面だけを見てすぐに良し悪しを定めるようだと、たきに対する憤懣(ふんまん)を日記に漏らしている。

 さらに七月一日の日記には、一葉の新たな決心が切々と綴られた。
「人つねの産(さん)なければ常のこヽろなし」(定職定収入のない人間には、安定した心はない)まるで自分に言い聞かせるかのように書きはじめられるその文章は、次のように続く。
「文学ハ糊口(ここう)の為になすべき物ならず おもひの馳(は)かるまヽこころの趣くまヽにこそ筆は取らめ いでや是れより糊口的文学の道をかへてうきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商ひという事はじめや」

 そして、きちんと商売をして親子三人で暮らしていこう、その上で暇があれば月も眺め、花も眺めよう。興がのれば歌も詠み、文章も書き、そして小説も書こう、と続く。
 かくして樋口家の三人は、商売を始める行動を開始した。店を開くために金をかき集め、着物などほとんど売り尽くした。一五日から物件を探し歩き、17日には下谷区の龍泉寺町に間口二軒、奥行六間ほどの手頃な二軒長屋を見つける。店は六畳、五畳と三畳の座敷があり、ささやかながら庭がある家。家賃は一円五〇銭であった。一家は二〇日にも新居に引っ越しをすませている。左隣は酒屋で、長屋の壁一枚へだてた向こうには人力車夫たちが寝泊まりしていた。こうして、竜泉寺町における一葉の新しい生活は始まった。

龍泉寺町での荒物屋稼業

 下谷区龍泉寺町は、俗に大音寺前と言い、遊郭・𠮷原と隣り合う町であった。当時、この辺りには長屋が並び、貧しい人々がひしめきあうようにして暮らしていた。

 一葉はこの町に越してからの日記を「塵の中」と名づけている。新しいその住まいは、一葉にとっては没落を感じさせるに十分な、文字通り「みじめ塵の中」であったのだ。
 八月六日、樋口家はそこで雑貨と駄菓子を売る店を始めた。品物は紙類、蚊遣(かや)り香(こう)、糸と針、石鹼、ロウソク、団扇、それに子供のおもちゃと駄菓子だ。開店当時は雑貨が中心だったが、後に子供向けの商品が増えている。お客の中心は、周辺に住む子供たちだったことが窺える。
写真下 明治四〇年頃の𠮷原仲之町通り。一般の女性が中に入ることはできなかった。
荒物屋写真
 はじめは、商品の値段や受け取る代金を間違えたり、玩具を仕入れに行ってその活気に圧倒されたり、はじめて背負った紙の重さに驚いたりと、一葉とくには新しい商売に大わらわだった。これではいつになったら儲けが出るようになるのかと不安になっていたが、それでも九月頃になると店はだいぶ忙しくなってくる。

 とはいえ単価が低い商品が中心なので、利益はなかなか出ない。一葉は九月二一日の日記に「此頃の売高多き時は六十銭にあまり少なしとしても四十銭を下る事はまれ也 されど大方ハ五厘六厘の客なるから一日に百人の客をせざることはなし 身の忙しさかくてしるべし」と記している。

 仮に毎日五〇銭売り上げたとして三〇日で一五円。ここから仕入れのための一〇円を引くと残るのは五円。これではとても暮らしていけないので、くには仕立物や洗濯の仕事もしている。さすがにこの頃の一葉の日記には、文学に関する話はほとんど出てこない。
 
 それでも細々と日記はつけられていたが、九月二四日から二週間ほどはまったく書かれていない。そして新たに書きつけられた一〇月九日からの日記には、一変して文学や社会情勢に関する記述が増える。転居、出店にともなって中断していた図書館通いや読書も再開されていた。おそらくその二週間の間に、一葉の目を再び文学の世界へ向かわせる、精神的変化が起こったのだろう。

 一〇月二五年には、すでに三月に会っていた平田禿木(とくぼく)が樋口家を訪ねてくる。一葉は『文学界』への寄稿を約束し、再び小説の執筆を再開、「琴の音」を一一月二五日までには書き上げた。作品は『文学界』一二号に発表されたが、原稿料は一円五〇銭.困窮している樋口家にとっては焼け石に水であった。

 そんな中で、二月二日、一葉は転居以来足が遠のいていた萩の舎を久しぶりに訪れている。そこで歌子は田辺花圃が歌塾を開くという話をし、一葉にも塾を開くように熱心に勧めたという。一葉はこれを断って帰り、その日の日記にはそれ以上のことは記していないが、かつてのライバルであった花圃が塾を開くと聞いて、一葉の心中は決して穏やかではなかった。

 二月二五日にやって来た平田禿木から、同門の花圃と鳥尾ひろ子の二人がそれぞれ歌塾を開くという話が雑誌に掲載されていると再び聞かされた一葉は「万感むねにせまりて今宵ハねぶること難し」と書き記している。

 そして、そんな一葉の思いは、その二日後に田中みの子を訪ねた日の日記で爆発する。その日一葉は田中みの子と伊藤夏子の母のぶ子と三人で、歌子や花圃らの陰口を交わしており、それに関する記述の中で「おもて清くしてうらにけがれを隠す龍子などのにくヽいやしきに」「右もにごれり左もにごれり 師も龍子も此人(田中みの子)も何れにごりのうちなるを」と、萩の舎の人々を罵(ののし)っている。

 この一葉の心の乱れは、要するに嫉妬としか考えられない。彼女は自分も塾を開きたいとは決して言っていないが、心の底では、萩の舎の誰よりも歌の才があるはずなのに、そんな自分が貧乏ゆえに塾が開けないというのはあまりにも理不尽だと、現実の世を呪っていたのだろう。

 同門だった上流階級の子女たちが歌の師となって世に出て行くのに、自分は竜泉寺町という町で塵にまみれて子供相手に商売をしているという事実。さらには、そんな嫉妬心と己の動揺に自分で気づけば気づくほど、腹立たしが次から次へと湧き上がり、一葉は高ぶる感情をどうにもできなくなっていた。

 一葉が占い師である久佐賀義孝を訪ねたのは、実は、ちょうどその頃のことである。花圃が塾を開くという話を中島歌子から聞いた日から三週間後の二月二三日であった。この日の日記は一葉は、久佐賀を訪ねる理由を自分なりに記している。
「久佐賀はまさご丁に居をして天啓(てんけい)顕真術をもて世に高名なる人なり うきよに捨ものヽ一身を何処(いずこ)の流れにか投げ込むべき 学あり金力ある人によりておもしろくをかしくさわやかにいさましく世のあら波をこぎ渡らんとてもとより見も知らざる人のちかづきにとて引合せする人もなければ我れよりこれを訪(と)ハんとて也」

 自分は浮世にこの身を捨てしまった者、どこの流れに身を投げ込もうとかまわない。どうせなら、学あり力あり金力もある人に頼って世の荒波を渡ってみようというわけだ。まったく見知らぬ人で紹介してくれる人もいないから、これから自分で訪ねてみることにした、と一葉は決意も新たに書き記している。こうして、一葉は久佐賀義孝と対面したのであった。

占い師の懐へ

 一葉は日記を「日記ちりの中」として改め、久佐賀義孝にはじめて会った日のことを、実に詳しく書き残している。まるで半井桃水との「かの雪の日」の日記同様、一つの小説のごときおもしろさに満ちた内容で、長さなどは「雪の日」のほぼ二倍に匹敵する。

 例によって、一葉はこの長い日記を脚色も加えつつ綴ったものと考えられる。それにしても、この久佐賀との対面が一葉にとって非常に印象深い体験であったことだけは確かだ。
 日記は久佐賀の家に着くまでの描写に始まり、取次ぎの者とのやりとり、通された部屋の様子などが微細に表され、さらに、二人の長い会話のやりとりが描かれている。これによると、一葉は「秋月」という偽名を使っていた。

 一葉は、紹介もなしに女の身でありながらおしかけた罪は浅くはないと思いますし、気が狂ったのではなかろうかと思いになるでしょうが、これには訳があるのですと前置きして、「我れハまことに窮鳥(きゅうちょう)の飛入るべきふところなくして宇宙の間にさまよふ身に侍(はべ)るあはれ広き御むねはうちにやどるべきとまり木もや」、私の言うことを聞いていただけますかと言って、自分の身の上話を始めている。

「我身父をうしなひてことし六年うきよのあら波にたヾよひて昨日は東今日はにしあるは雲上の月花にまじはり或ハ地下の塵芥(ちりあくた)にまじハり老たる母世のことしらぬいもとを抱きて(以下続く)」
 
 この名台詞のうち、「雲上の月花にはじはり」は萩の舎において上流階級の人々と和歌を交わす暮らし、「地下の塵芥」は竜泉寺町での暮らしを指している。ただし一葉は、自分が誰であるかを伏せているので、この時点では文学や小説の話はしていない。とにかく今は貧しくてこのままでは生きていても仕方ないと嘆いて見せている。

 そして、「さらバ一身をいけにゑにして運を一時のあやふきにかけ相場といふこと為し而(て=”読み=しこう”)見ばや」つまり、この身を犠牲にしても、危険を冒して相場をやってみたいのです、と訪ねてきた理由を述べた。

 その上で、「されども貧者一銭の余裕なく而(て)我が力に而我がことを為すに難くおもひつきたるハ先生のもと也」と言って、久佐賀に教えを請いている。金は一銭もありませんが、どうか助けてくれませんか、というわけだ。

 これに対して久佐賀(くさが)は、一葉の生まれ年を聞き、それはなかなか運気の良い歳に生まれていると、最初は占いの鑑定者らしき受け答えをしている。
 一葉は即座に鋭い切り返しをし、あげくには「先生久佐賀様この好死処(よきしどころ)をなしへ給(たまわ)らずや」(久佐賀先生、どうか私に良い死に場所を教えてください)と、媚態(びたい)を見せた。

 さらなる一葉の巧みな言葉にのせられて、久佐賀もどんどん饒舌(じょうぜつ)になっていく。やがて二人の会話は、人生を観や運命論などに及び、四時間も続いた。
 読んだ者を驚かせるのは、まず二二歳になった一葉の成長ぶりである。ここに描かれている「秋月」という女性には、かつて桃水の一挙手一投足に胸を打ち震わせていた初々しさなど微塵も感じられない。むしろ、同情を引いて年上の男を手玉に取とろうとしている、人生経験豊富な中年女の如くである。一葉の弁舌に魅せられて口数を増やしていく久佐賀の様などは、まるで映画のドラマのワンシーンのようだ。これらの文章からは、少なくとも、作家としての一葉の著しい成長ぶりが感じられる。

 久佐賀が一葉に求めたもの

 さて、一葉に興味を持った久佐賀は、さっそく二月二八日、一葉に手紙をよこしてきた。あなたの精神の非凡なことに感激しました。今後親しくご交際してくださるなら、私も本望です、と。そして、一葉を梅見に誘っている。

 これに対して一葉は日記に、歌も下手で書も上手くないが、才能をもって有名になろうとする人なのだろうと書き、さらに梅見への誘いは何か企みがあるのだろうとして
「我れハ彼れが手中に入るべからずとほヾ笑みて返事をしたヾむ」その手に丸め込まれるわけにはいかないと笑って、あなたのお志を月とも花とも思って、(梅の代わりに)味わせていただきますと、上手に断りの返事を送っている。ここには、あの手練手管(てれんてくだ)で久佐賀の気持ちを己にひきつけた「秋月」の片鱗が見え隠れしている。しかも、その後の二人の交渉を追ってみると、その感はいっそう強くならざるを得ないのだ。

 一葉は三月一三日にも久佐賀を訪ね、翌日には手紙を出した。そこには、昨日のお言葉が偽りでないのであれば、まだお付き合いが浅いのに無遠慮なことですが、私が事を成し遂げるまでの間、援助してくれませんかと、はっきり要望を述べている。

 この時一葉が求めていたのは、歌道のための援助であったことが、残された久佐賀の手紙によって明らかになっている。つまり彼女は、歌塾を開くために、その資金援助を久佐賀から引き出そうとしていたのである。それは、先述した通り、花圃らが歌塾を開くという淡い夢を捨てきれずにいたのである。新しく始めた竜泉寺町の店が思うようにいかなかった彼女は、起死回生を狙って久佐賀に賭けてみたのかもしれない。

 一四日の手紙に対して久佐賀がどう応じたかは不明だが、こうしたやりとりの末に六月九日、ついに久佐賀は一葉に交換条件を提示してきた。
「貴女の身上を小生が引受くるからには貴女の身体は小生にお任せ被下積(くださるつも)りなるや否やの点なり」
 久佐賀は金と引き換えに一葉の身体を要求したのである。一葉は憤激(ふんげき)して、その頃の日記で「あはれ笑ふにたえるしれものかな」(笑うに笑えない不届き者よ)と、久佐賀をこき下ろしている。

 だがなおも二人のやりとりは続く。その年の一二月七日には、久佐賀は「月に一五金位ひは毎月交はりの情を以て手許より補助するは心安し」、月々一五円で妾になれとまで言って来ているのだ。しかも、その手紙によると、一葉は久佐賀に千円という法外な金額を要求している。千円といえば、現在で一千万円以上という大金である。

 久佐賀がここまで食い下がったという事実を見るに、一葉が彼に期待を抱かせるような態度をとっていたと考えるのが自然だ。一葉は一連の久佐賀の要求に対して、日記には憤慨した言葉を書き連ねつつ、実際には、彼の要求には応じないままでも、はっきりと拒絶する態度はとらずに、思わせぶりな対応を続けていたことになる。

 事実、明治二八年の四月二〇日になっても、一葉は久佐賀に金六〇円という多額の借金を申し入れている。久佐賀は翌月これを手紙で拒否。以降、二人の交渉を伝えるものはほとんどなくなる。唯一知られるのは、その年の年末、久佐賀より一葉に送られた転居届けだけだ。

 一葉が久佐賀に近づいた理由ははじめから金であったかどうかはわからない。しかし、「しれもの」と蔑(さげす)みながらも一葉が縁を切らずに付き合い続けたのは、金銭的援助が目的だったとしか考えられない。要するに金を稼ぐという行為において、小説家という仕事にも、小商いにも行き詰った一葉は、”パトロンを得て文学をする”という方向を模索していたのではないか。そこにはあれほど高潔で誇り高かった一葉の姿を見出すことは難しい。しかしそれは、樋口家の窮状がどうにもならないところまで来ていたことを物語っていると考えられると、また哀れである。

 久佐賀は結局、一葉の才能ではなく、女の部分に最後までこだわった。久佐賀からその身を求められた一葉は、小説を書こうが才能があろうが、自分はただの女であり、男にとっては単なる性の対象でしかなかったことを思い知らされたのだ。

 結果的に、そうした経験は、作家としての一葉をさらにひとまわり成長させた。久佐賀との交渉後、一葉の作品は、以前よりも性に対する視線が鋭くなっている。

村上波六

 一八六五~一九四四・小説家。『東京朝日新聞』に「破太鼓」「深見重左」などを発表、大衆の人気を集める。一葉とどのように知り合ったかは不明。
流行作家への接近
 一葉が経済的援助を主な目的として近づいたと思われる男は、実は久佐賀だけではなかった。もう一人の相手は、当時、人気作家として知られていた村上波六である。
 久佐賀との交渉が続いていた明治二七年の秋、一葉は面識のなかった波六にも自ら近づき、借金を申し込んでいたのである。久佐賀との対面で度胸がついたのか、よほど切羽詰まっていたのか、一般常識では考えられない大胆な行動といえるだろう。

 一葉がいったどのような経緯を経て波六の元を訪ねることになったのか、またその初対面の様子など、はっきりしたことは何もわかっていない。ちょうどその時期、一葉の日記が欠けているからだ。

 ただし、並六は朝日新聞に勤めていたので、半井桃水とは知り合いであった。さらに一葉の「うもれ木」が載った『都の花』には波六の「斯豪傑」も収録されており、一葉と
しては会う前から、親近感を抱いていたのかもしれない。あるいは、桃水から紹介された可能性もあるだろう。いずれにせよ、一葉は久佐賀の他にも、この波六に狙いを定め、自らその懐に飛び込んでいったのである。

 波六は、一葉より七歳年上で、慶応元年(一八六五)、堺に生まれた。明治二三年に上京した際、『郵便報知新聞』に校正係として入社、翌年創刊された『報知叢話(そうわ)』に「三日月」を発表し、一躍人気作家となった。その後明治二五年から二九年まで朝日新聞社に勤務し、同紙に「破太鼓」「深見重左」などの作品を発表した。波六の作品は、男の心意気と儒教論理に満ちた通俗小説で「撥鬢(はちびん)小説」と呼ばれ、当時、大衆に大変人気があった。

 一葉はすでに明治二四年、波六の作品を読んでいた。二六年八月八日の日記には、「朝日の小説一昨日よりなみ六になる 出しものは深見重左なり例によって例之如し」と書き記している。「例によって例の如し」と書くぐいだから、一葉が波六の作品をよく読んでいたのは確かだ。

 また、同年一一月に書いていた雑記帳では、波六のことを露伴、紅葉
並べて記載している。これらのことから、一葉が作家としての波六に一目置いていたことが窺える。
 一葉の日記に波六自信が登場するのは、明治二七年一一月一〇日である。
「けふはなみ六のもとより金借りる約束ありけり 九月の末よりたのみさかはし置きしに種々かしこにもさし(さ)わる事多き折柄にてけふまでに成ぬ」
 この文によれば、一葉はその年の九月より以前に波六のもとを訪ねて既知(きち)の仲になった上で、九月末には借金を申し入れていたことになる。そして、この日記が書かれた時点では、まだ波六から金が渡されていなかった、というわけだ。

 一葉の催促に対して波六は、度々来てもらっているのにご要望に応えられずにお恥ずかしい。ご婦人から話を聞いてそのままにするような私ではないのでいずれ何とかいたしましょう、まずまずご安心くださいといった内容の手紙を書き送っている。

 彼は一葉に文章も書き下手だと言わせた久佐賀とは違い、さすがに上手い文を書いてよこし、いつも一葉を期待させた。また、久佐賀のように代償を求めることも、またそれを匂わせる表現もせず、文面上は常に紳士的で優しく、一葉の申し出を断ることもしなかった。

 結局一葉は、久佐賀同様、波六からも金を引き出すことはできなかったようだ。年が明けて明治二八年、波六は二月二七日付けの葉書で金を都合できないことを詫び、三月一日頃まで待ってほしいと書いている。

 その後も樋口家の経済状況はまったく改善されず、五月一日、一葉は久佐賀に対して、おそらく最後と思われる手紙を送って借金を頼み込んでいる。だが、あいにく彼が旅行中と知って、その日の日記で一葉は苦笑している。そして、いずれの金策もうまくいかずに苛立ちを募らせた一葉は、次のように筆を走らせた。

「波六のもとへも何となくふミいひやり置しに絶て音づれもなし 誰れもたれもいひがひなき人々かな 三十金五十金のはしたなるに夫(それ)すらをしみて出し難しとや さらば明らかにとヽのへがたしといひたるぞよき ゑせ男を作りて髭かきなぜあはれ見にくしや」

 波六にもそれとなく手紙で金のことを言っておいたが、まつたく音沙汰がなかったというわけだ。一葉は言う。誰も彼も、言いがいのない人々だ、三〇円、五〇円といったはした金すら出し難いというのか、と。そして、それならばはっきりと調達できないと言えばいい、見せかけで男らしくして髭などなでている様子こそ醜いことよと、浪六や久佐賀を激しく罵っている。

 さらに一葉はこの文章に続いて、引き受けたことを実行しないのはこちらの責任ではなく、自分はまったく悪くない。自分は贅沢をしたいのではなく、ただ母と妹を養うためにわずかばかりの援助を願うだけで、もともとそれが無理な人にはこんなお願いなどしない、相手が引き受けたからこそ、こうして言っているのだと、自分を正当化しようと、身勝手な理屈を書き連ねている。客観的に見ると、ずい分と虫のいい言い分である。しかし繰り返しになるが、この時期の一葉は、とにかく金に困っていたのだろう。そのどうにもならない現実に飲み込まれまいとして、必死にもがく彼女の姿が目に浮かぶようである。

 一葉は日記において、浪六のことを「なみろく」と、仮にも経済的援助をしてくれるかもしれない目上の人間をつかまえて、呼び捨てにしていた。そして、一葉と浪六の関係は意外に早く終わり、以降、彼の名前は一葉の人生から消える。

 それにしても、当の波六が金の無心に来た一葉をどう思っていたのか、本当に金を貸す気があったのかどうかは、もはや知る由もない。波六の手紙には、たいてい、もう少し待ってほしいと、といったことが書かれてあり、彼がきっぱりと一葉の申し入れを断っていなかったことがよくわかる。その対応で、体を求めてきた久佐賀に対してきっぱり断ることなく、上手い文章でのらりくらりと付き合いを続けた一葉の姿とだぶってくるだろう。

 一葉が久佐賀から手紙で「一身」を要求されたのは、同年の六月、妾になるように申し入れたのは一二月だ。一葉はまさにその間に、波六に近づき、借金を申し入れたことになる。この状況から判断すると、一葉がこの時期、金づるとして二人の男に二股をかけていたと思われても致し方ない。

 手紙のやり取りと結びから判断すると、一葉は波六からもいい顔をされて、適当にあしらわれた感が強い。見方によっては、正直な久佐賀に比べ波六は要領の良い男であった。こうした関係が同時期に進行していたとは、実に皮肉な話である。

 浪六側は、昭和九年、『現代』での『明治文壇を語る座談会』において、一葉について「よく私の家へ来たが、つつましやかな小柄な女だった」と述べ、その頃ずいぶんとお金に困っていたようだと言ったものの、一葉が自分に借金を申し込んだことにはふれていない。「現在一葉女史とか何とか言ひますが、普通の女ですよ」と切り捨てている。久佐賀義孝と異なり、浪六は女として一葉にまったく興味がわかなかったということだろう。
つづく 第三章 文学界の男たち