爆撃隊が急降下し、ヒッカム飛行場を攻撃する。続いて雷撃隊が湾内の米艦隊、米巡洋艦を急襲。制空隊も飛行場の敵機を掃射し、真珠湾は猛火と黒煙。瞬時にして迎撃力を奪われた米太平洋艦隊に、なすすべはなかった。軍艦も、軍機も、あらゆるものが燃えている。午前7時58分、ハワイから米本土に発せられた悲痛な警報が、太平洋を越えた。

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第11章 太平洋の死闘

本表紙ふりさけてみれば 川瀬弘至 平成28年版産経新聞引用

1941(昭和16年)12月7日午前7時半、ハワイは、穏やかな日曜日の朝を迎えていた。

 ホノルルのラジオ局は、ジャズを流していた。
 それを市民や米兵は朝食をとりながら、あるいはベッドの中で聴いていた。
 午前7時40分、北の空の雲の切り間に、無数の点が現れ、みるみる大きくなってオアフ島の西を飛んでいく。だが、それを見た者はいなかった。

 無数の点は、日本海軍の九七式艦上攻撃機と零式艦上機(ゼロ戦)。戦闘機に乗る飛行総隊長の淵田美津雄は、無警戒の真珠湾を真下に見て、後続する180機余りの攻撃機、戦闘機に打電する。
「ト・ト・ト」(全機突撃セヲ)
 時に午前7時49分(日本時間8日午前3時19分)。
 勝利を確信した淵田は、ハワイ沖の連合艦隊機動部隊に向けて打電した。
「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)
 直後に爆撃隊が急降下し、ヒッカム飛行場を攻撃する。続いて雷撃隊が湾内の米艦隊、米巡洋艦を急襲。制空隊も飛行場の敵機を掃射し、真珠湾は猛火と黒煙。瞬時にして迎撃力を奪われた米太平洋艦隊に、なすすべはなかった。軍艦も、軍機も、あらゆるものが燃えている。午前7時58分、ハワイから米本土に発せられた悲痛な警報が、太平洋を越えた。

「パールハーバー空襲! これは演習ではない! 演習ではない!」
 それからおよそ2時間、ハワイは地獄化した。2次にわたる攻撃で米軍が被った損害は、戦艦5隻撃沈、3隻大破、戦闘機など約460機撃破…。この日、日本軍は南方にも一斉に進撃し、大戦果をあげた。

 東京の昭和天皇が報告を受けたのは、攻撃開始から約4時間後だ。昭和天皇実録が書く。
《七時十分、御座所におい侍従武官長山県有光・同じく城英一郎より、我が軍のマレー半島上陸、ハワイ奇襲の成功、シンガポール爆撃、ダバオ・グアム島・ウェーキ島への空襲の戦況につき上聞を受けられる。ついで七時十五分、御学問所において軍令部総長の永野修身に、同三〇分、参謀総長の杉山元にそれぞれ謁(えつ)を賜(たま)い、対米英戦の開始につき奏上を受けられる》

 一方、ワシントンでは、大統領のルーズベルトが奇妙な笑みを浮かべていた。
 歴代内閣の奔走と昭和天皇の願いも空しく、ついに日米は開戦した。第11章では昭和天皇実録の記述を中心に、先の大戦における昭和天皇の姿をふり仰ぐ。

 米太平洋艦隊が奇襲を受けた真珠湾攻撃の一報がワシントンの米海軍省に入ったのは、昭和16年12月7日午後1時50分(日本時間8日3時50分)。作戦部長らと会談中だった海軍長官のノックスは、こう言ったという。
「そんなバカなことがあるはずがない。これはフィリッピンを意味しているに違いない」
 日米交渉の終盤、アメリカが日本に「最初の一弾」を撃たせようと画策していたことはすでに書いた。しかし、まさかハワイで、これほどの巨弾になろうとは、誰も予想していなかったのだ。

 ホワイトハウスの様子はどうかー。
大統領のルーズベルトは側近の一人に、趣味で収集した自慢の切手アルバムを見せていたところだった。だが、ノックスから電話連絡を受けて「NO!」と叫び、黙り込んでしまった。
やがてルーズベルトは、意外にもさばさばとした表情になり、こうつぶやいたという。
「自分に代わって日本が決定を下した…」
 すでに戦争を決意していたルーズベルトは当時、大統領選の公約に反するアメリカの参戦を、どうやって国民を納得させるかに頭を痛めていた。日本がシンガポールを攻撃したぐらいでは、世論は参戦を認めないだろう。しかし、ハワイなら違う。

日本側の最後通告の手交が遅れたことも、ルーズベルトに幸いした。日本政府は真珠湾攻撃の30分前に手交できるよう。前夜から通告文を駐米大使館に打電していたが、駐米大使館の不手際で手交が攻撃開始後にずれ込んでしまったのだ。アメリカ側それを奇貨とし、事前に通告文を傍受、解読したにもかかわらず、「卑怯(ひきょう)な騙し討ち」と喧伝(けんでん)して世論喚起に利用する。以後、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンが、アメリカ中を駆け巡った。

英首相のチャーチルも、真珠湾攻撃にほくそ笑んだ一人だ、ルーズベルトから電話で、「日本は真珠湾を攻撃しました。いまやわれわれも同じ船に乗ったわけです」と伝えられたチャーチルは、その時の気持ちをこう書き残している。

「合衆国をわれわれの味方にしたことは、私にとって最大の喜びであったと私が公言しても、私が間違っていると考えるアメリカ人は一人もいないだろう」
「ヒトラーの運命は決まったのだ。ムッソリーニの運命も決まったのだ。日本人についていうなら、彼らはこなごなに打ち砕けられるだろう」

 ルーズベルトもチャーチルも、日本軍の実力を見くびっているようだ。チャーチルはこのあと、人生最悪の日を迎えることになる。

 昭和16年12月8日、真珠湾攻撃の一報を受けた朝

昭和天皇は《内閣総理大臣東条英機に謁を賜い、米英両国に対する宣戦布告の件、並びに本朝閣議決定の宣戦の詔書につき内奏を受けられる》。

 宣戦の詔書は内閣官房が起草し、陸海軍と外務省、宮内省担当者らの協議を経て、11月末に案文が完成していた。その際、昭和天皇は《日英関係は明治天皇以来特別親密にして、自身も皇太子として渡英した際、非常な優遇を受けたため、今回の開戦は全く忍び得ず、自身の意志ではない旨を詔書に盛り込むように希望》したと、昭和天皇実録は書く。

 詔書は、玆(ここ)ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス。(中略)今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端(きんたん)ヲ開クニ至ル、洵(まこと)ニ己ムヲ得サルモノアリ、豈(あに)朕カ志ナラムヤ・(中略)朕ハ汝(なんじ)有衆ノ忠誠武勇ニ信倚(しんい)シ、祖宗ノ遺業ヲ恢弘(かいこう)シ、速ニ禍根ヲ芟除(さんじょ)シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ、以テ帝国ノ光栄ヲ保全セシムコトヲ期ス」
 正午、詔書がラジオ放送で読み上げられる。それを国民はどう受け止めたか。随筆家の高田保書く。
「豈朕カ志ナラムヤ。この御言詞が強く胸を打つ。深く心に浸みると同時に死生を越えた勇気が湧いて出る。聖戦というものはこれだとうなずく。(中略)戦争という不祥事の根本を叩き潰すための最後の戦争を、今や日本はする」

 日中戦争の勃発から丸4年以上。国民生活は疲弊していた。それでも多くの国民が米英との開戦を支持したことは、当時の新聞報道からもうかがえる。

 覚悟を決めた日本の陸海軍は、米英両軍の度肝を抜いた。同日未明、南方では陸軍の第25軍がマレー半島に奇襲上陸。これを阻止しようとシンガポールから英東洋艦隊が出撃すると、仏印の飛行場から海軍の第22航空隊が飛び立ち、10日午後、英戦艦プリンス・オブ・ウェールズと英巡洋艦レパルスを撃沈。開戦3日目にして早くも米太平洋艦隊と英東洋艦隊を撃破し、太平洋の制空、制海権を握った。

 その報告を受けた後の衝撃を、英首相のチャーチルが書き残している。
「私は一人なのがありがたかった。すべての戦争を通じて、私はこれ以上直接的な衝撃を受けたことは無かった。(中略)寝台で寝返りを繰り返していると、この知らせの十分な恐ろしさが私に浸透してきた。カリフォルニアへの帰路を急いだ真珠湾の残存艦を除いて、インド洋にも太平洋にも英米の主力艦は一隻もいなくなったのだ。この広大な海域にわたって日本が絶対の力を誇り、われわれは至るところで弱く、裸になってしまったのである」

 太平洋での戦争が始まり、初めての年明け

 昭和17年1月、昭和天皇は40歳、日本軍が英米両艦隊を駆逐し、国民が戦勝気分に酔う中、昭和天皇は1月26日の歌会始で、こんな和歌を寄せている。
 峯つヽき おほふむら雲 ふく風の
 はやくはらへと たヽいのるなり
 連戦連勝におごらず、一刻も早く平和を回復したい気持ちが、素直に表れている。
 日本軍の快進撃は続いた。
 前年12月8日にマリー半島に上陸した第25軍の将兵3万5000人が、猛烈な勢いで半島を南下する。目指すは大英帝国アジア植民地支配の拠点、シンガポールだ。英軍は当時、英印兵や豪兵も含めて8万8600人の兵力を有していたが、制空権を奪われて思うように抵抗できず、橋梁を爆破しながら後退。それを第25軍の歩兵が自転車で迫った。銀輪部隊の活躍で知られる、疾風のような迫撃戦。作戦開始から55日間で1100キロも進撃し、1月末に半島の最南端、ジョホールに到着する。

 現地の英軍司令官、パーシバルは全部隊をシンガポール島に撤退させ、徹底抗戦の構えを見せた。対する第25軍司令官、山下奉文は2月6日、全軍に同島攻略を下命。両軍の砲弾が飛び交う中、8日夜から上陸作戦を敢行し、激戦の末に橋頭堡(きょうとうほ)を確保した。

10日以降の戦闘は熾烈を極める。破壊された重油タンクから黒煙が噴き上がり、墨汁のような雨が両軍将兵の服を染めた。その間、絶え間なく続く銃声、砲弾どころか食料も飲料水も枯渇し、15日午後2時、ついにパーシバルは白旗を上げた。100年以上にわたる大英帝国アジア植民地支配の牙城が、ここに陥落したのである。

 一連の戦闘における両軍の死傷者は、日本軍の1万人弱に対し英軍側2万5000人以上、捕虜は増援部隊も含め13万人以上に及んだ。それは、英首相のチャーチルが述懐するように、「イギリスの歴史における最悪の不幸。最大の降伏」だった。

 開戦70日目のシンガポール陥落は、大本営の狙い通りの大戦果だ。先の大戦では後半、日本軍の粗雑な作戦が目立つようになるが、南方作戦は事前に準備と検討を重ねていた。陥落の翌日16日、昭和天皇は《内大臣よりシンガポール陥落につき祝辞を受けられた際、赫々たる戦果が事前の慎重且つ十分な研究に起因していることを痛感する旨の御感慨を述べられる》

 だが、この快進撃が日本軍に、油断と慢心を生んでしまう。

 シンガポール陥落の日後、昭和17年2月18日、昭和天皇は《御料馬白雪に乗御され、宮城正面二重橋鉄橋上にお出ましになる。宮城前外苑における戦捷(せんしょう)祝賀の旗行列を御覧になり、万歳、君が代の奉唱(ほうしょう)を受けられ、御会釈を賜(たま)う。(中略)その後、皇后が皇太子・成子内親王・厚子内親王を伴って二重橋鉄橋上にお出ましになる》。

 日米開戦に、重臣らが最後まで反対していたことはすでに書いたとおりだ。国民の一部にも慎重論が残っていたが、シンガポール陥落の頃には、ほとんど見られなくなったとされる。予想を上回る陸海軍の快進撃に、日本国中が早くも戦勝気分に沸いた。昭和天皇も、やや楽観的になっていたようだ。

 各地の戦況報告が続々と天皇陛下に届く。
 3月1日《侍従武官城英一郎より、我が軍のジャバ島への上陸成功等につき奏上を受けられる》
 3月3日《軍司令部総長永野修身に謁を賜い、2月27日から3月1日のスラバヤ・バタビア沖海戦の総合戦果につき奏上を受けられる》
 3月8日《侍従武官横山明より、ジャバ・バンドンの蘭印軍司令官の降伏申し入れにつ奏上を受けられる》
 翌9日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一に言った。
「余り戦果が早く挙がり過ぎるよ」

国家の破滅をも予期した開戦前の心労は、杞憂(きゆう)だったのだろうか―

この頃の昭和天皇実録には、心にゆとりのできた昭和天皇が、家族との時間を大切に過ごす様子も記されている。
 2月22日《午前、皇太子・正仁(常陸宮さま)・成子内親王・厚子内親王参内につき、皇后とも共に奥御食堂において御昼餐を御会食になる。御食事後、御一緒に映画「水筒」を御覧になる。ついで鬼ごっこにて過ごされる》

 3月25日《皇后と共に道灌掘方面を二時間にわたり御散策になる。その際、桜樹の下の草花を観察され、また土筆・ヨメナ等をお摘みになる》
 この間、陸海軍は1月23日にニューブリテン島のラバウルを占領。3月初めにはジャワ島を攻略し、念願だった南方の資源地帯を確保する。唯一、米領フィリピンではコレヒドール島に立てこもる米比軍に手を焼くが、3月11日、司令官のダグラス・マッカーサーが「アイ シャル リターン(必ず戻る)」の言葉を残して同島を脱出した。昭和天皇は5月6日、《侍従武官山県有光よりコレヒドール島要塞の白旗掲揚につき奏上を受けられる》

 戦勝に次ぐ戦勝。だが、楽観ムードの漂う日本に。ルーズベルトが放った一矢が冷や水を浴びせる。
 開戦早々、連戦連勝を続けていた陸海軍だが、危うい問題もはらんでいた。部隊を展開する戦線が、国力を超えて延びようとしていたのだ。

 先の大戦を振り返る時、日米の国力だけを単純に比較して、開戦そのものが無謀極まりなかったと断罪されがちだが、それは結果論だ。日米の間には広大な太平洋がある。それを越えて来る米軍を、日本の勢力圏で着実に迎え撃つ戦略に徹していれば、負けたとしても違った展開になっただろう。

 この戦略を取らず、暴走したのは海軍である。開戦前の想定では、陸海軍共同でマリー半島やジャワ、スマトラ、ボルネオ各島の資源地帯を攻略し、自存自衛の持久体制を築くはずだった。ところが海軍はそれを越え、フィジー、サモア。ニューカレドニア、さらにはオーストリアまで侵攻しようとした。国力を無視した、無謀な戦略といえる。

 暴走の先頭にいたのは、連合艦隊司令長官山本五十六だ。日本本土が空襲されることを極度に恐れた山本は、北太平洋のど真ん中に浮かぶ島、ミッドウェーの攻略作戦を推し進めた。ここを拠点に米機動部隊を攻撃し、本土空襲を防ぐというのが、作戦の狙いである。昭和17年4月18日のドーリットル空襲に愕然とした山本は、その決心をいよいよ固くする。

 だが、ミッドウェーはアメリカの勢力圏だ。ウェーキ―島にある最短の日本軍基地からも2400キロ離れており、攻撃しても補給が続かない。当然、軍司令部から反対論が巻き起こった。

 連合艦隊参謀の渡辺安次が軍令部を訪れたときのことだ。第1課長の富岡定俊らが攻略作戦に反対し、翻意を求めると、渡辺は「長官に電話する」といって中座し、戻ってきて言った。
「長官のご決意は固く、もしこの計画が入れられなければ、長官の職に留まれないと言っておられます」
 脅しである。真珠湾攻撃の英雄、山本を辞めさせるわけにはいかない。軍令部は作戦を了承した。

 5月27日、空母赤城を旗艦とする機動艦隊が広島湾内の柱島を出撃

29日には戦艦大和をはじめ連合艦隊主力がいかりを上げた。サイパンからは陸戦部隊を満載した輸送船団が進路をミッドウェーにとる。正規空母4隻、戦艦11隻をはじめ主要艦船145隻、艦載機250機以上の、世界最強の大艦隊だ。
 出撃直前、山本は愛人に手紙を書いた。
「三週間ばかり洋上にて全軍を指揮します。多分あまり面白いことはないと思いますが」
 この山本の、機密を平然と漏らす油断と慢心が、日本海軍史上空前の大敗北をもたらすことになる。

 太平洋に浮かぶ島、ミッドウェーの北西約390キロ、どこまでも水平線が続く洋上に、強大な機動艦隊が出現した。空母4隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦12隻―。時に1942(昭和17年)6月4日午前4時半(日本時間5日午前1時半)。夜明け前の空に、108機の攻撃が飛び立った。

 空母赤城で指揮を執る第1航空艦隊司令長官、南雲忠一は勝利を疑わなかっただろう。当時、太平洋で活躍する米空母は計3隻。艦載機パイロットの技量も日本軍が米軍を凌駕(りょうが)している。開戦となれば負けるはずがない。

 だが、南雲は知らなかった。米海軍日本海軍の暗号を解読し、万全の態勢で待ち構えている事を―。
 午前6時半、第1次攻撃隊がミッドウェー上空に到達し、飛行場基地を爆撃する。しかし敵機は上空に退避しており、急襲は空振りに終わった。
 同7時15分、南雲は第2次攻撃に向け、空母各艦で待機していた残存機の兵装を、対艦用の魚雷から対地用の爆弾に切り替える命令を出す。近くには米空母はいないと判断したからだ。

 ところが13分後の7時28分、味方捜索機から「敵らしきもの10隻見ゆ」の打電有り、南雲は7時45分、兵装を魚雷に戻すよう指示した。この措置に、空母飛龍に座乗する第2航空戦隊司令官、山口多聞は「現装備ノママ攻撃隊直チニ発進セシムヲ至当ト認ム」と信号を送ったが、南雲司令官は耳を貸さなかった。爆弾の命中率は10%前後、魚雷なら60%以上だ。飛ばせる攻撃機から「現装備ノママ」出撃させても、小兵力では効果は期待できまい。

「若干攻撃隊の発進を遅らせても、大兵力が整うのを待つ方が有利であると考えた」と、司令部参謀の吉岡忠一が述懐する。
 この判断が、南雲艦隊に重大な危機をもたらす。すでに艦隊は敵機に発見されており、早くも7時過ぎから空襲を受けていた。敵の攻撃をかわそうと、空母は右に左に転舵し、兵装転換が遅々として進まない。ミッドウェーから戻ってきた第1次攻撃隊も収容しなければならず、空母各艦は混乱を極めた。

 危機をしのいだのは、零式戦闘機と各艦の対空砲である。熟練のパイロットと士気旺盛な砲手が、敵機を次々に撃墜する。敵の空襲は7時5分か~7時半の第一波。7時50分~8時半の第2波、9時20分~10時20分の第3波に分かれて繰り返されたが、いずれも撃退し、空中戦では圧勝だった。

 ここまで、南雲艦隊の空母4隻は無傷である。
 だが、敵の最後の魚雷をかわしたかと思った時、警戒が緩んだ上空に、雲の切れ間をついて急降下爆撃機が現れた。

 昭和17年6月4日のミッドウェー海戦

米空母3隻から発進した攻撃隊のうち2隊は、日本の機動部隊を発見できず、燃料不足で母艦に戻ろうとしていた。他の攻撃隊が空襲を始めて3時間余り。時計の針は、午前10時20分を回っていた。

 このとき、たまたま雲の切れ間に日本の空母軍を発見し、2隊は急降下態勢に入った。そのとき、日本側は低空で雷撃する敵機を撃退した直後で、たまたま上空の防空網ががら空きとなっていた。

 ふたつの偶然が、戦局を激変させる。急降下した2隊は訓練さながら爆弾を投下し、空母赤城に2発、加賀に4発、蒼龍に3発が命中。反撃しようとして待機していた各艦内の攻撃機、魚雷、爆弾が次々と誘爆し、大破炎上した。これまで敵の空襲を撃退し続け、無傷だった空母4隻のうち3隻が、一瞬にして火だるまとなったのだ。

 唯一、難を逃れた空母飛龍には名将で知られる第2航空戦隊司令官、山口多聞が座乗していた。山口は即座に反撃を決意し、攻撃隊を集めて訓示した。
「体当たりのつもりでやって来い、俺も後から行く」
 10時54分、飛龍から第一次攻撃隊24機が、午後1時31分には第2次攻撃隊16機が飛び立ち、小兵力ながら米空母ヨークタウン計3発の爆弾と2本の魚雷を命中、大炎上させて一矢を報いる。しかし、それが精一杯だった。午後5時3分、飛龍は敵機の逆襲を受け、山口とともに海に没した。

 虎の子の空母4隻を失う大敗北。この日、ミッドウェー島は、連合艦隊機動部隊の墓標となった。
 敗因は、上層部の油断と慢心に尽きる。開戦初期の連戦連勝に浮かれて、索敵をおろそかにするなど明らかに米軍を侮っていた。
 それより前、両軍の空母部隊が初めて激突した5月の珊瑚海海戦が、明暗を分けたといえよう。 
 海戦後、米太平洋艦隊司令部は損害を受けた味方部隊の報告書を入念に検討し、複数の空母を引き離して運用、防御する作戦を編み出した。一方、連合艦隊司令部は敵を打ち漏らした味方部隊を罵倒し、その報告書に「バカめ」と殴り書きして放置した。

 そのあげく、接近したまま航走する空母4隻を一気に失う惨敗を喫したのである。
 この敗北を、昭和天皇はどう受け止められたか。昭和天皇実録が書く。
 6月7日《軍司令部総長永野修身に謁を賜い、ミッドウェー海戦の戦況につき奏上を受けられる。これに対し、今回の損害により士気の阻喪(そそう)を来さないよう御注意になり、また今後の作戦が消極退嬰(たいえい)とならいようお命じになる》

 昭和天皇は逆境に強い、昭和17年6月5日のミッドウェー海戦で空前の大敗北を喫し

海軍上層部が茫然自失で天を仰いでいたときでも、周囲に気落ちした様子を見せなかった。内大臣の木戸幸一が6月8日の日記に書く。

「航空隊の蒙(こうむ)りたる損害誠に甚大にて、宸襟(しんきん)を悩まされたるはもとよりのことと拝察せるところなるところ、天顔を拝するに神色自若として御挙惜平日と少しも異らせ給はず」
 大元帥として、自らの言動が前線の将兵に与える影響を、十分に認識していたのだろう。7月6日、昭和天皇は《宮内大臣松平恒雄をお召しになり、日光への行幸に先立ち聯合艦隊へ行幸し、海軍を激励したき旨を仰せになる》
 虎の子の空母4隻を失ったとはいえ、太平洋の海軍力は依然として日本が優勢だ。戦訓に学んで無理をせず、日本の勢力圏のサイパン、もしくはトラック諸島の線まで兵を引き、南方の資源地帯をがっちり固めて米軍を迎え撃てば、まだまだ勝機はあった。

 だが、海軍上層部は懲りなかった。勢力圏のはるか外側で、米軍と決戦しようとしたのだ。
 舞台になったのは、日本本土から5000キロ離れた南太平洋の島、ガダルカナルである。千葉県ほどの面積の、密林で覆われたこの島に、海軍陸戦部隊が極秘で飛行場の建設を始めたのは7月1日のこと。しかし米軍は海軍の作戦を察知しており、滑走路が完成した2日後の8月7日、米海兵隊1万7千人が奇襲上陸して横取りしてしまった。

 海軍上層部は我を忘れた。奪還作戦に血眼となり、戦線の拡大に消極的な陸軍を巻き込んで、撮り返しのつかない悲劇を生んでしまった。
 以後、半年にわたるガダルカナルの戦いは、太平洋の死闘の、攻守の転換点となった。
 海軍は同島近海で3次にわたるソロモン海戦、南太平洋海戦を戦い、10月末までは優位を保っていたが、消耗戦を余儀なくされ、11月中旬の第3次ソロモン海戦で戦艦2隻を喪失。ついに南太平洋の制海権を明け渡した。

 この間、陸軍は3万1千人の兵力を逐次投入するも、補給が得られない中で悲惨な戦いを強いられ、1万5千人もの餓死・病死者を出した。
 昭和天皇は、ガダルカナルの戦況に特別の関心を抱いたようだ。それが個々の戦闘の域を越え、日本の運命を決すると察していたのだろう。その頃の昭和天皇実録には、内大臣らと戦況について話す様子がたびたび出て来る。
 昭和天皇は、神に祈るしかなかった。

餓島―。日本本土から5000キロ離れた南太平洋の島、ガダルカナルの異名だ。そこには今も、およそ7000柱の遺骨が祖国に帰れないでいる。
 海軍の要請で同島に逐次投入された陸軍将兵は、敵の砲弾よりも飢餓に苦しんだ。敵の勢力圏のため、補給が続かなかったからだ。
 昭和天皇が憂慮したのは言うまでもない。
 激戦が続いていた昭和17年12月12日、昭和天皇は伊勢神宮を親拝した。「戦時下に於いて、天皇親しく御参拝御祈願あらせられることヽことは真に未曾有のこと」と、内大臣の木戸幸一が日記に書く。

 南太平洋の戦いが戦局全体に重大な影響をおよぼすと察した昭和天皇は、日本に余力があるうちに、好機をとらえて終戦に持つ込みたい考えていたようだ。親拝前、侍従らに《日露戦争・満州事変。支那事変を引き合いに出され、戦争を如何なる手段にて終結するかが重要であることを繰り返し仰せられる》と、昭和天皇実録に記されている。

 親拝の日、昭和天皇は伊勢神宮で御告分を奏した。

 開戦から1年、陸海軍将兵の武勇と感謝した上で、こう結ぶ。
「速けく敵等を事向けしめ給ひ、天壌(あめつち)の共隆(ともにさか)ゆる皇国の大御稜威(おおみいつ)を、八紘(あめのした)に伊照(いて)り輝かしめ給ひて、無窮(とこしえ)に天下(あめのした)を調(ととのはしめ給へと白(もう)す事を聞食(きこしめ)せと、恐(かしこ)み恐みも白す)
 速やかに世界(八紘)の平和を回復したいとする真摯な思いが、御告分に込められている。
 昭和天皇が伊勢神宮を親拝したことはガダルカナルの将兵にも伝えられた。

 参謀の一人が回想する。
「御親拝の報は副官が読み上げた。砲弾と爆弾の相交錯する中で、副官の大きな声が聞こえる。『天皇陛下におかせられては…』。砲弾がジャングルにこだまする。これに負けじと副官が大声で読み続ける。が、その最後の言葉を聞こえなくなった。副官の嗚咽(おえつ)で消えてしまったのだ。第一線から来ている将校あるいは下士官の命令受領者も、感謝の涙で思わず鉛筆も紙もとり落して、ジャングル樹の根元にひれ伏して泣いている…」

 あらゆる戦史の中でも、最も過酷ともいえる戦場で、将兵の熱い思いだ。その象徴である昭和天皇の親拝は、どれほど将兵を勇気づけたことだろう。
 だが、昭和天皇の祈りも、将兵の力戦も、ついに報われなかった。
 12月31日、対本営は昭和天皇臨席の会議で、奪回作戦の中止とガダルカナルからの部隊撤収を決めた。

 先の大戦を振り返るとき、開戦に至るまでは陸軍の暴走が目立ったが、敗戦に至るまでは海軍のほうが無理をした。その典型が、昭和17年6月のミッドウェー海戦と同年8月~翌年2月のガダルカナル戦だろう。日本の勢力圏のはるか外側で行われた2つの戦いは、太平洋の死闘の、攻守の分岐点となる。ここで膨大な消耗戦を強いられた日本軍は、それまでの攻撃から守勢に転じ、二度と主導権は握れなかった。

 同じ頃、欧州の戦局も重大な分岐点を迎える。

 ガダルカナル戦の最中、欧州・東部戦線では独ソ両国がスタリングラド(現ボルゴグラード)で、文字通りの死闘を繰り広げていた。独裁者の名を冠したこの都市に、ドイツ第6軍が侵攻を開始したのは1942年8月23日の朝。猛烈な砲爆撃で市内は廃墟と化したが、がれきの山を防御するソ連第62軍の抵抗はすさまじく、以後5ヶ月間にわたり、市民を巻き込んだ壮絶な市街戦が展開された。

 この間、後方のソ連軍司令官は、独軍陣営の側面を守備するルーマニア軍を撃破し、第6軍を包囲、殲滅(せんめつ)する反攻作戦に打って出る。総指揮を取るのはかつてノモハンいで関東軍と戦ったゲオルギー・ジューコフだ。11月19日、7個軍100万人のソ連軍が猛攻に転じ、装備も士気も劣弱なルーマニア軍の防衛戦を突破。狼狽したヒトラーは、包囲された第6軍にスターリングラードの死守を厳命したが、翌43年1月31日、同軍司令官のパウルスは降伏した。

 くしくもその翌日、ガダルカナルでは日本軍の撤退作戦が始まり駆逐艦が同島に突入。餓死寸前だった陸海軍将兵1万人以上を救出した。日独とも、いわば天王山の戦いに敗れた格好だが、悲惨さの規模ではドイツが上回る。降伏した第6軍の将兵9万1千人は、極寒の雪原を収容所まで歩かされ、戦後にドイツに生還できたのは5千人ほどだった。

 ドイツは、北アフリカ戦線でも敗走する。独軍司令官ロンメルの戦車軍団が快進撃続けていたが、英軍の最終防衛線エル・アラメインを突破できず、42年11月以降、じりじりと後退。43年5月に独伊両軍の拠点チュニスが陥落した。

 昭和天皇は欧州の戦況も踏まえ、日本の行く末を予見しつつあったようだ。
 昭和18年8月30日《午前10時35分、(昭和天皇は)内大臣木戸幸一をお召しになり、正午まで御談話になる。戦争の前途のお見通しは決して明るいものではないとして種々お考えを述べられ、木戸よりも腹蔵なき意見をお聞きになる》
 もう一つ、昭和天皇が心を痛めたことがある。国民生活が、一段と悪化していたのだ。

 戦局が下り坂になった昭和18~19年、国民生活は悪化の一途をたどっていた。
 兵力不足を補うため、20歳以下の文学系学生らも出征させることになり、18年10月、明治神宮外苑で出陣学生壮行会が行われた。

 文化、スポーツ、娯楽施設なども次々と姿を消す。18年4月に東京大学野球連盟が解散して六大学野球などが中止に。19年3月には宝塚歌劇団が休演、松竹少女歌劇団も解散した。

 19年2月、政府は1、中学生以上の学徒全員を工場に配置2、14~25歳の未婚女性を女子挺身隊として軍需工場に動員―することを決定

空襲の恐れが強まった同年7月以降は学童集団疎開も始まり、都市部の親子は離れて暮らすことになる。

 皇室も例外ではなかった。7月9日《皇太子(現上皇陛下)参殿につき、皇后と共に御対面になる。その後、和子内親王・厚子内親王・貴子内親王参殿につき、お揃いにて御昼餐を共にされる。御食事後、御団欒あり。翌日、皇太子は疎開のため、東宮仮御所より日光田母沢御用邸に行啓、滞留する》
 昭和天皇は43歳、皇太子は学習院初等科5年の10歳。長期の離別を前に、親子で何を話され、どんな気持ちでいただろうか。
戦争終盤の、昭和天皇の生活はいたって質素だ。19年8月に侍従長となった藤田尚徳によれば、食事は一汁一菜。「七分搗(つ)きに麦を交ぜた御飯で、国民の食生活と大差のないものであった。配給量も一般国民と同じにせよと何度も仰せられた」

 戦前には週1回、生物学御研究所に通うのを楽しみにしていたが、18年4月以降はまれにしか行かなくなり、趣味も自粛するようになる。一方、内親王が参内したときは一緒に映画を見ることが多く、それが唯一の娯楽と言えるものだった。

 18年10月13日に長女の成子(しげこ)内親王と厚盛王が結婚したときも、前日に家族で夕食を共にした後、《ニュース映画を御覧になり、しげこ帰嫁前夜の御名残を惜しまれる》

 その頃、宮中側近らが懸念したのは、昭和天皇の健康状態である。アッツ島で日本軍守備隊が玉砕した直後の18年6月1日、侍従の入江相政が日記に書く。
「この間から願出てゐた吹上の御散策をオススメ申し上げたところアッツの事など考へると遠慮しようとまで仰せになつた。誠に畏き極みではあるがさういふ非常の際になればこそ陛下の御健勝を亘らせられることが願はしい所以を極力申し上げお許をいたヾく」

 昭和天皇の心から、戦地の将兵らの苦境が離れることはなかったのである。
「この前線で敵と対峙して三ヶ月になるが、何一つ補給されない。三本あったパパイヤの木を切り倒し、根も幹も全部食い尽くした。上等の食べ物である。しかし、鬼ゼンマイや芭蕉の根っこは糸を引き、(中略)下痢を覚悟して食べる。草・昆虫・爬虫類も少なくなり。兵隊の元帥といわれる古参准尉も、ミミズを食っている‥‥」

 日本から5000キロ離れた南太平洋のブーゲンビル島で、終盤まで戦い抜いた日本兵の手記だ。昭和17年8月~18年2月のガダルカナル戦で、万余の餓死者を出して敗れた陸海軍将兵だが、その後も補給が続かない南の島々に兵を送り続けた。

 昭和天皇が心を痛めたのは言うまでもない。
 18年9が10日《午前、内大臣の木戸幸一をお召しになり、種々御談話になる。天皇は南方への兵力増強問題に関連し、大正天皇が「義は君臣、情は父子」と仰せられたことを述懐され、自身も同じ考えであるとし、南方への増兵に際し、補給の困難から兵士が窮地に陥るが如きことは実に忍びないため、補給に一段と万全を期すようご希望になる》

 ようやく陸海軍が方針を改め、日本の勢力圏を意識するようになるのは、同年の秋以降だ。9月30日の御前会議で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」が確定し、千島、小笠原、マリアナ。西部ニューギニア。ビルマなどを「絶対確保スヘキ要域」と定めた。いわゆる絶対国防圏である。
 だが、遅すぎたといえよう。それまでの消耗戦で、米軍の侵攻を食い止める戦力を失っていたからだ。

 しかも海軍は、なおも勢力圏の外側で決戦を挑もうとし、その後もいたずらに損害を重ねた。陸軍も無謀なインパール作戦を強行。主力3個師団の損耗率がいずれも75%を超える空前の死傷病者を出し、自ら絶対国防圏を弱める結果を招いた。

 破滅の足音が、駆け足で近づいてくる。

 19年6月11日、空母15隻を擁する米海軍の大艦隊がサイパン島に接近。空襲や艦砲射撃による猛攻撃を開始し、15日に上陸した。

 これを撃滅しようと聯合艦隊の機動部隊が出撃。19~20日にマリアナ沖で米艦隊と激突するも、訓練不足のパイロットに長距離攻撃を強いる作戦が裏目に出て、空母3隻を失う惨敗に終わる。

 サイパン島では4万人余りの日本守備隊が、6万人余りの米軍上陸部隊と死闘を繰り広げたが、7月9日、約1万人の在留邦人とともに玉砕した。
 1年も持たずに破られた絶対国防圏―。だが、戦争を止めるわけにはいかなかった。米大統領のルーズベルトが、非情な要求を突き付けていたからである。

「ドイツと日本の戦力を完全に除去しないかぎり、世界に平和が訪れることはない」「戦力の除去といのは、無条件降伏を意味する」
 1943(昭和18)年1月24日、モロッコのカサブランカで行われた米英首脳会談後の記者会見で、ルーズベルトが発した声明である。ルーズベルトは記者団に、こうも言った。
「カサブランカ会談を無条件降伏会談と呼んでほしい」

 会見した同席のチャーチルは仰天した。そこまで発表するとは思わなかったからだ。日独に公然と「無条件降伏「を突きつければ、死に物狂いで抵抗され、膨大な犠牲と破壊を伴う戦争がますます長引くに違いない、随員の回想によれば、チャーチルは内心、怒り心頭に発していたという。

 無条件降伏は、単なる軍事上の敗北ではなく、国家そのものの否定を意味する。いかなる戦争にも双方に言い分があるが、無条件降伏する敗戦国には一切認められていない。和平交渉すら許されない。ルーズベルト声明により、日本もドイツも、戦争を続けるしか道はなくなったといえよう。

 そもそも当時の戦況は、米英が優位とはいえ、無条件降伏を要求できるほどではなかった。ガダルカナルから日本が撤退し、スターリングラードでドイツが敗退したものの。日独はまだ、戦争継続の余力を残していたからだ。にもかかわらず、ルーズベルトはなぜ、無条件降伏を打ち出したのか。

 背景の一つに原子力爆弾の開発、

「マンハッタン計画」があったとされる。アメリカが同計画に着手したのは42年8月。同年12月にはシカゴ大学で核分裂の連鎖反応に成功し、ルーズベルトは開発に確信を持った。無条件降伏要求は、この究極の兵器を使う大義名分にもなるだろう。

 43年12月1日、エジプトのカイロで会談したルーズベルト、チャーチル、蔣介石の米英中3首脳は、世界に向けて宣言した。

「三大同盟国ハ(中略)野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ…」
「三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ…」
「日本国ノ無条件降伏ヲ齎(もたら)スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スシヘシ…」
 非常極まる「カイロ宣言」。日本国民は激高した。だが、当時の東条英機内閣に、国民の怒りをひとつにまとめる求心力はなかった。東条の弾圧的な政治手法に怨嗟(えんさ)の声が上がり、倒閣に向けた動きが、皇族の間に広がっていたのだ。

 昭和19年3月14日《夜、御文庫に宣仁親王参殿につき、皇后と共に文化映画「転換工場」等を御覧になる。終わって、茶菓を共にされる》
 昭和天皇実録の記述はこれだけだが、この夜、宣仁親王は昭和天皇に、重大な提案をした。東条英機内閣を退陣させ、陸軍皇道派の重鎮で元第10軍司令官の柳川平助を首相に、第2方面軍司令官の阿南椎幾を陸相にしたらどうかと話したのだ。

 その頃、東条の信望は地に落ちていた。戦局が悪化し、社会が疲弊する中、東条が憲兵を使って反軍的、反政府的な言論を封じ込めていることに、重臣や政府高官、さらには国民の間からも、怨嗟(えんさ)の声が高まっていたのである。

 事実、東条の言論弾圧には目に余るものがあった。反東条派の急先鋒(せんぽう)だった右派衆議院員の中野正剛が18年10月に逮捕され、自決に追い込まれている。19年2月に「竹槍をもつては戦ひ得ない」と書いた毎日新聞記者の新名丈夫は、当時37歳にもかかわらず2等兵で懲罰招集された。

 東条に私利私欲はない。だが、いたずらに権力を握りたがる悪癖があった。19年2月には首相兼陸相兼軍需相に加えて、参謀総長をも兼任する。それで戦局がよくなるはずもなく、近衛文麿らが倒閣を画策するようになったが、政府と軍部の頂点に立つ東条に、辞職を迫ることはできなかった。

 宣仁親王は、焦燥したのだろう。東条に引導を渡せるのは昭和天皇しかいないと、この時期、内閣更迭をたびたび促している。兄の雍仁(やすひと)親王が結核で療養中のため、兄弟として意見できるのは自分だけだという思いもあったようだ。

 一方、昭和天皇は立憲君主として、閣内不一致などの理由がない限り、首相を辞職に追い込むことはできない。むしろ皇族が政局に深入りすることを憂慮し、19年6月22日、宣仁親王が皇族を相談相手にするよう求めたとき、昭和天皇は《政治に対する責任の観点から、皇族を御相談相手とすることはできない旨を述べられる》

 昭和天皇が立憲君主の立場を貫いたことは、結果的に日本を救うことになる。どんな形であれ、昭和天皇が立場を越えて政治の主導権を握れば、戦後に責任を問われ、日本の歴史の終焉(しゅうえん)を意味する。

 同年7月、サイパン島を失陥した東条内閣は、ついに退陣した。

後継は、大命降下を受けた朝鮮総督の小磯国昭と海相に復帰した米内光政の、事実上の連立内閣だ。この内閣のもとで、和平を手繰り寄せられるかもしれない一大決戦、「捷(しょう)一号作戦」が発動する。

 昭和19年10月18日《(昭和天皇は軍司令部総長から)国軍の決戦要塞を比島方面とする捷一号作戦発動につき奏上を受けられる。これに対して、皇国の興廃がかかる重大な一戦につき、陸海軍真に協力、現地軍・中央一体となり、万遺憾なきを期し、邁進(まいしん)すべき旨の御言葉を賜(たま)う》

 昭和天皇が「皇国の興発がすする重大な一戦」とまで言い切るのは異例だ。この決戦にかける期待の大きさが窺える。

 それより前、サイパン陥落で勝利の見通しを失った大本営は、米軍の戦力を集中し、大打撃を与える決戦構想を立案した。成功すれば、さらなる犠牲を避けようとする米軍との間に、興和の道が開けるかもしれない。いわゆる「一撃講和」である。

 10月20日、マッカーサー率いる米第10、第24軍団がフィリピンのレイテ島に上陸を開始した。敵の輸送船団と護衛艦隊は総計734隻。空前の大兵力だ。対する聯合艦隊も、総力を挙げて迎撃に向かう。その作戦はこうだ。

 空母中心の第3艦隊がおとりとなって米機動部隊を引きつけている間に、戦艦中心の第2艦隊が南北からレイテ湾に突入し、敵の輸送船団を撃滅する。補給が途絶えて孤立したマッカーサーの上陸部隊を、現地で待ち構える陸軍の第14方面軍が殲滅(せんめつ)するー。
 肉を切らせて骨を断つ、捨て身の戦術といえよう。だが、実戦は思わぬ展開をたどる。

 23日未明、史上最大というわれる海戦の火ぶたが切られた。聯合艦隊は当初、戦艦武蔵を失うなど損害を重ねたが、24日夜に風向きが変わる。おとりの第3艦隊17隻に、敵の主力空母、高速戦艦など65隻が誘い出され、レイテ湾から離れて北上したからだ。そのすきに戦艦大和をはじめとする第2艦隊の主力15隻が、敵の輸送船団がひしめくレイテ湾に迫った。

 25日午前10時、北上した米機動部隊を指揮するハルゼーに、輸送船団護衛の米第7艦隊から救援を求める緊急電が届く。
「全速力にて戦艦隊を送られたし。空母隊を送られたし」
 輸送船団の危機を知ったハワイの米太平洋艦隊司令長官、ニミッツもハルゼーに打電した。
「味方の戦艦隊はいずこにありや、いずこにありや、全世界は知らんと欲す」
 米軍はパニックに陥った。それまでの激戦で、満身創痍(そうい)となった聯合艦隊が最後の最後につかんだ、千載一隅のチャンスが訪れたのだ。
 しかし、大和の巨砲はついに火を吹かなかった。
 世界の海戦史上、最大規模となった昭和19年10月23日~25日レイテ沖海戦。その結果は不可解な謎に包まれ、現在も多くの議論を呼んでいる。

 25日午後1時10分、レイテ湾口にあと80キロまで迫った戦艦大和座乗の第2艦隊司令長官、栗田健男は各艦に反転を指示し、敵の輸送船団を目前にしながら引き返してしまった。米空母隊が出現したとの誤情報に惑わされたとか、栗田に積極性が欠けていたとか、様々に言われるが、真相は今も不明だ。

 聯合艦隊司令部は栗田艦隊に、「レイテに突入せよ」と繰り返し命じていた。突入を支援するため、空母主体のおとり部隊(小沢艦隊)が敵艦隊の主力を引きつけ、旧式戦艦で作る別働隊(西村艦隊)が敵の水雷戦隊、駆逐艦、戦艦隊と果敢に砲戦を挑み、いずれも壊滅に近い損害を受けたが、すべての犠牲、あらゆる努力が水泡に帰したと言えよう。

 神風特攻隊が組織され、米空母セント・ローを撃沈する成果を挙げたのもこの海戦だ。翌26日、軍令部総長が、「特攻第一号」を報告した際に、昭和天皇はしかしよくやった」と話したという。

 栗田艦隊の”謎の反転”により、一撃講和をもくろんだ「捷一号作戦」は失敗に終わる。聯合艦隊の損害は大きく、大和を除く主力艦の大半を失い、艦隊としての決戦力を喪失した。

 そもそも海軍は、決戦前から大失態を犯していた。レイテに向かう米海軍が台湾沖に現れた10月12~16日、空から迎撃した基地航空兵力の戦果を過大に誤算し、敵空母11隻撃沈、戦艦2隻撃沈…などと大々的に発表してしまったのだ。実際には1隻も撃沈もなく、あとで”幻の大戦果”と分かるが、今さら取り消すこともできず、陸軍にも事実を隠したため、その後の戦局に重大な悪影響を及ぼししまう。

 その頃、欧州でも敗色が濃厚となっていた

 すでにイタリアは前年7月に内部崩壊して首相のムソリーニが解任、逮捕され、9月に降伏した。戦後は王制が廃止されて共和国となる。

 ドイツも敗走を重ねた。1944(昭和19)年6月、米英など連合国軍32万5千人がドーバー海峡を越えて、フランス北西部のノルマンディーに上陸。8月にパリを開放する。東部戦線では総兵力170万人のソ連軍が史上最大の反撃戦「バグラチオン」を発動。ソ連領内から独軍を追い払った。

 大勢は決した。一撃講和も絶望的となった。だが、大本営も政府も相変わらず「戦争完遂」「必勝あるのみ」だ。そんな中、昭和天皇は立憲君主の立場を維持しながら、自ら和平への一歩を踏み出そうとする。

 戦争の最後の年、昭和20年の新春を、昭和天皇は、ある決意を秘めて迎えたようだ。
 1月6日《内大臣の木戸幸一をお召しになる。その際、比島戦況の結果如何により重臣等から意向を聴取することの要否につき御下問になる》

 当時、フィリピンでは捷(しょう)一号作戦の失敗により、山下奉文指揮の第14方面が、マッカーサー率いる上陸軍に苦戦を強いられていた。政府も軍部も依然として「戦争完遂あるのみ」だが、昭和天皇は、終戦に向けた地ならしが必要だと考えていたのだろう。重臣からの意見聴衆は「和平の第一着手」だったと、侍従長の藤田尚徳が戦後に書き残している。

 敗勢の中での和平は、降伏を意味する。それを口にするのはタブーであり、政府高官でも特別警察隊や憲兵隊に拘引された時代だ。相談を受けた木戸は慎重になり、《ともかくも数日の推移をご覧ありたき旨》を奉答したが、昭和天皇の決意は固かった。

 13日、再び木戸を呼び、《重臣からの意見聴衆の必要につき述べられる》
 歴代首相ら重臣7人に極秘で意見聴衆が行われたのは、2月7日から26日にかけてである。軍部を刺激しないよう、天機奉伺(ほうし)として一人ずつ参内した際に、昭和天皇が内々に話を聞く形をとられた。

 平沼騏一郎は7日、戦争施策を重点的に行うことと、官史が国民に慈愛をもって接することの必要性を説き、和平問題には触れなかった。
 広田弘毅は9日、日本と中立条約を結ぶ対ソ交渉の重要性を指摘し、間違ってもソ連と戦争をしてはならないと強調。昭和天皇も大きく頷いた。

 若槻礼次郎は19日、「勝敗なしという状態で戦争を終結させる」必要性を訴え、そのためには「戦い抜いて、敵が戦争継続の不利を悟る時をくるのを待つほかはございませぬ」と述べた。

 岡田啓介も23日、国力の減退に言及しつつ「残された全力を挙げて戦争を遂行に邁進(まいしん)することは勿論でございますが、一面には我に有利な時期を捉えて戦争をやめることも考うべきでございます」と奉答した。

 東条英機は26日、「我国は作戦的にも余裕あることを知るべし」とし、和平工作を「敗戦思想」として痛烈に批判した。

 侍従長の藤田尚徳によれば、昭和天皇は重臣の誰かが、条件はともかく一日でも早く終戦にすべきだと進言するのを待っていたようだが、それをきっかけに、調整に乗り出すつもりだったのだろう。
 だが、重臣らは「即時和平「を口にしなかった。ただ一人、14日に参内した近衛文麿を除いては…。

 昭和天皇は20年2月14日《(昭和天皇は)午前十時二十分より一時間にわたり、御文庫において元内閣総理大臣公爵近衛文麿に謁を賜い。近衛は自ら起草し、元駐英大使吉田茂と協議の上完成した上奏文に基づき奏上する》

 昭和天皇が「和平の第一着手」として行った重臣らへの意見聴取

誰もが早期終戦を口に出せない中で、近衛の上奏文は異彩を放った。
 冒頭、「戦局ノ見透シニツキ考フルニ、最悪ナル事態ハ遺憾ナガラ最早必至ナリ」と敗戦を明記。その上で、最も憂慮すべきは事態は敗戦よりも「共産革命ナリ」と言い切ったのだ。理由として、ソ連が戦争に乗じ、欧州で共産主義を浸透させていること、日本でも国民生活の窮乏により、共産革命の条件が整いつつあることを指摘し、こう訴える。

「勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之以上継続スルコトハ全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト云フベク、従ッテ国体護持ノ立場ヨリスレバ、一日モ速ニ戦争終結ノ方途ヲ講ズベキモノナリト確信ス」
 近衛はまた、共産革命の中心となるのは統制派が牛耳る軍部内の「一味」だと強調した。「満州事変・支那事変ヲ起シ、之ヲ拡大シ、遂ニ大東亜戦争ニ迄導キ来レルハ、是等軍部内一味ノ意識的計画ナリシコト今ヤ明瞭ナリ」として、戦争終結のために「此ノ一味ヲ一掃シ軍部ノ建直ヲ実行スルコト」が不可欠だと進言したのである。

 昭和天皇は驚いた。にわかには信じられなかっただろう。近衛が話し終えるのを待ち、こう聞いた。
「軍部の粛正が必要という事だが、結局は人事の問題になる、近衛はどう考えているのか」

 近衛は、皇道派の山下奉文(第14方面軍司令官)と派閥色のない阿南惟幾(これき=航空総監)の名を挙げたが、第1候補の山下奉文はフィリピンで激戦の真っ最中だ。昭和天皇は、頷くことはできなかった。
「もう一度、成果を上げてからでないとなかなか話は難しいと思う」

 結局、重臣らへの意見聴取は、この時点では実を結ぶことなく終わる。昭和天皇は早期終戦の進言を待ち望んだものの、近衛の上奏を採用すれば軍部の猛反発は必至で、かえって終戦が遠のきかねない。

 そもそも近衛は、国体を護持しての終戦、すなわち条件付き講和を前提にしていた。しかし、米大統領のルーズベルトは無条件降伏に固執しており、近衛の前提は楽観論というのだろう。

 事実この後、ルーズベルトの非情な戦略を裏打ちするように、一般国民を無差別に焼き尽くす本土空襲が激化していく。

 悪魔の火炎が、未明の帝都を焼き尽くした。昭和20年3月10日、東京大空襲―。この日、279機米爆撃機B―29が、計約1600トンもの焼夷弾を投下し、浅草、本所、城東、↓などの住宅密集地に地獄絵図を描き上げた。夜が明けて、生き残った者が目にしたのは、一面の焼け野原と、道路や河川に折り重なった黒焦げの焼死体―。被害は死者10万人超、罹災者100万人超に達した。

 くしくもこの日、皇室に新たな命が誕生する、盛厚王に嫁いだ昭和天皇の長女、成子(しげこ)内親王が空襲下の麻布・鳥居坂御殿の防空壕で男子を出産したのだ。

 だが、昭和天皇に初孫を喜ぶ余裕はなかった。帝都の被害に愕然(がくぜん)とし、その日のうちに被災地を見て回りたいと、侍従らに話したという。
 18日、昭和天皇は車と徒歩で、深川、本所、浅草、本郷神田を巡視した。

《御視察の間、沿道の片付けをする軍隊、焼け崩れた工場や家屋の整理に当たる罹災者に御眼を留められ、しばしば自動車を徐行せしめられる。(中略)途中、車中において侍従長の藤田尚徳に対し、焦土と化した東京を嘆かれ、関東大震災の巡視よりも今回の方が遥かに無残であり、一段と胸が痛む旨の御感想を述べられる》

 B―29による本土空襲が本格化したのは、サイパン陥落後の19年11月下旬以降だ。当初は軍需工場などを狙う精密爆撃だったが、東京大空襲を機に、都市部に焼夷弾の雨を降らす無差別爆撃に切り替わる。明白な国際法違反にもかかわらず、無条件降伏に固執する米軍は躊躇しなかった。日本家屋を効果的に焼き払うため、ユタ州の試爆場に木造2階建ての長屋12棟をつくり、家具や畳まで備え付けて焼夷弾の実証試験を行うほど念を入れた。

 終戦までに出撃したB―29は延べ約3万8千機、投下した爆弾は計約14万7千トン、死傷者80万人超に達する。その大半が、幼児を含む非戦闘員だ。
 5月25~26日の空襲では、皇居も炎上した。
26日未明《警視庁方面からの飛び火により正殿にも出火あり。(中略)皇宮警察部。警視庁特別消防隊・近衛師団の主力が消火に尽力するも、五時頃、宮殿はわずかに御静養室を残して灰燼(かいじん)に帰す》

日に日に増大する空襲被害に、昭和天皇は「たいへんおやせになった。(中略)われわれは、お慰めする術も言葉も知らなかった」と、侍従次長の甘露寺受長(おさなが)が書く。
絶体絶命の日本―。だが、ここで戦地の将兵が祖国を救う。名もなき日本兵の驚異的な粘りが、米軍の意識を徐々に変えていくのだ。

日本本土への無差別爆撃を本格化させた米軍にとって、何としても手に入れたい戦略拠点があった。サイパンと東京の中間にある、硫黄島である。
超空の要塞と呼ばれたB-29も、完全無欠ではない。護衛機なしでは日本機に迎撃される危険があり、損傷や故障でサイパン周辺の飛行場に戻れない恐れもあった。B-29の中継基地となり、護衛機の発信基地ともなる、硫黄島の確保が不可欠だったのだ。

本土空襲の指揮を執る米第21爆撃集団司令官、カーチス・ルメイが言う。
「硫黄島がなければ、日本を効果的に爆撃することはできない」

 米海兵隊3個師団、総兵力11万人が硫黄島への上陸を開始したのは、昭和20年2月19日である。

事前に猛烈な空爆と艦砲射撃を行い、日本軍はほぼ全滅したかに見えた。だが、栗林忠道率いる小笠原兵団2万人余りは、賢固な地下陣地を構築し、健在だった。

 栗林は従来の水際作戦を放棄し、敵を内陸部に誘い込む戦術をとっていた。すんなり上陸した米海兵隊は、前進しはじめたところで日本軍の集中砲火を浴び、大打撃を受ける。上陸一日目の米軍の損害は戦死548人、負傷1755人、行方不明18人‥‥浜辺は将兵の鮮血で染まった。
 以後、圧倒的な火力と兵力の米軍を相手に、寡兵の日本軍は奮闘し、1ヶ月以上にわたり戦い続ける。日本軍は9割以上の1万9千人が戦死、1千人が負傷して捕虜となったが、米軍も6千8百人が戦死、2万2千人が負傷し、勝者の損害が敗者を上回る、異例の展開となった。

 驚異的な粘りをみせる日本兵は、硫黄島が奪われれば本土が危ないと知っていた。彼らは、愛する者のために戦った。死を覚悟していた栗林は、当時10歳だった次女のたか子に、こんな手紙を送っている。
「たかちゃん元気ですか? お父さんが出発の時、お母さんと二人で御門に立って見送って呉れた姿がはっきり見える気がします」「たかちゃん、お父さんはたこちゃんが早く大きくなって、お母さんの力になれる人になる事を許(ばか)りを思っています。体を丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させて下さい。戦地のお父さんより」

 3月26日、栗林は生き残りの400人とともに最後の夜襲を敢行、壮絶な戦死を遂げた。
 一方、硫黄島を攻略した米軍は勝利よりも損害の大きさに驚き、戦略の見直しを迫られるようになる。その頃、空と海の戦いでも、日本兵の決死の反撃が米軍の度肝を抜いていた。

 先の大戦の終盤、米軍を最も悩ませいたのは神風特別特攻隊と陸軍特別攻撃隊だろう。カミカゼの名は、今も特別な響きをもって、世界中に知れ渡っている。

 対戦初期、日本軍は米軍機に対し、圧倒的に優勢だった。しかしガダルカナルの消耗戦でベテラン搭乗員の大半が戦死し、急速に劣勢となる。昭和19年6月のマリアナ沖海戦では、米艦隊を長距離攻撃した日本軍機が次々に撃墜され、米軍から「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されたほどだった。

 この状況を変えたのが、特攻隊だ。19年10月のレイテ沖海戦以降、終戦までに出撃、散華した特攻隊は約2600機、うち420機以上が米艦隊に命中もしくは至近命中し、大損害を与えた。
 米太平洋艦隊司令長官、ニミッツが言う。
「カミカゼ特攻隊はわれわれにとって最大の悩みのタネとなった。われわれは水兵たちの間にパニックが起こらぬよう、あらゆる手段を講じなくてはならなかった」

 いわゆる「一撃講和」は、軍上層部の作戦ミスなどで失敗したが。それと同じ効果を、現場の将兵がもたらしつつあったのだ。
 
 昭和天皇は特攻隊にどう向き合ったのか―。報告を受けると必ず立ち上がり、敬礼したという。「体当リ機ノコトヲ申上タル所 御上ハ思ハス 最敬礼ヲ遊ハサレ 電気ニ打タレタル如キ感激ヲ覚ユ」と、侍従武官が日記に書く。

 特攻隊が命と引き換えにつかもうとしたのは、祖国の平和と、愛する家族の幸福だ。レイテ沖海戦で散華した神風特攻隊の大和隊第1隊長、植村真久は生後間もない愛児に、こんな手紙を残している。

 ――素子、素子は私の顔を能(よ)く見て笑いましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。
 素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうに思って、お父様が考えたのです。

 私はお前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、幸せになったのを見とどけたいのですが、若(も)しお前が私を見知らぬまヾ死んでしまっても、決して哀しんではなりません。

 お前が大きくなって、父に会い度(た)いときは九段へいらっしゃい、そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびます。父は常に素子の身辺を護っております。優しくて人に可愛がられる人になって下さい、お前が大きくなって私のことを考え始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい――

 先の大戦で、230万人に上る日本の軍人軍属が戦死した

約6千人の特攻隊をはじめ、地雷を抱えて敵の戦車に突っ込んだ日本兵は数知れない。
 しかし、彼らを戦争被害者、あるいは犠牲者と呼んでしまえば、先の大戦は理解できないだろう。
 決死の作戦に臨む日本兵の「大義」とは何だったのか。学徒兵(國學院大)の神風特攻隊、山口輝夫少尉が遺書に書く。
―御父上様
 急に特攻隊員を命ぜられ、愈々(いよいよ)本日沖縄の海へ向けて出発致します。命ぜられば日本人です。ただ成功を期して最後の任務に邁進(まいしん)するばかりです。
生を享(う)けて二十三年、私には私だけの考えへ方もありましたが、もうそれは無駄ですから申しません。特に善良な大多数の国民を偽(ママ)瞞した政治家たちだけは、今も心憎い気が致します。併(しか)し私は国体を信じ愛し美しいものと思ふが故に、政治家や総帥の輔弼(ほひつ)者たちの命を奉じます。

 実に日本の国体は美しいものです。古典そのものよりも、神代の有無よりも、私はそれを信じて来た祖先達の純心そのものヾ歴史のすがたを愛します。美しいと思ひます。国体とは祖先達の一番美しかったものヾ蓄積です。実在では、我国民の最善至高なるものが皇室だと信じます。
 私はその美しい尊いものを、身を以て守ることを光栄としなければなりません――

 むろん、誰もが大義を感じていたわけではあるまい。自らの意志に反し、特攻や肉攻を強いられた日本兵もいるだろう。少なくとも、純真な気持ちで決死の作戦に臨んだのではないか。
 数え年18で陸軍特攻隊となった相花信夫少尉は、育ての母にこんな気持ちを綴っている。
――母上お元気ですか
 永い間本当に有難うございました。我六歳の時より育ててくださし母、継母とは言え世の此の種の女にある如き不祥事は一度たりとなく、慈しみ育て下されし母。有難い母。尊い母。
 俺は幸福だった。遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺。幾度か思い切って呼ばんとしたが、何と意志薄弱な俺だったろう。

 母上お許し下さい。さぞ淋しかったでしょう。今こそ大声で呼ばして頂きます。お母さん、お母さん お母さんと――
 昭和20年5月4日、相花少尉は鹿児島の知覧飛行場から出撃し、沖縄の海に散華する。
 その沖縄では、陸海軍将兵と県民が一体となった、壮絶な防衛戦が繰り広げられていた。

「本職(沖縄)県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ代ツテ緊急御通知申上グ…」
 昭和20年6月6日、海軍沖縄根拠地隊司令官、大田実が発した海軍次官あての電報である。
「沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇(いとま)ナカリキ然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛招集ニ捧ゲ 残ル老婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト財産ノ全部ヲ焼却セラレ (中略)乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ 而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊婦ハモトヨリ 砲弾運ビ 挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ…」

 沖縄戦の終盤、陸軍(第32軍)は首里から撤退し、海軍部隊にも南部に後退するように求めたが、大田は首里に近い小禄陣地を死守するとして動かなかった。

やがて米軍に包囲され、自決の一週間前に発したのが右の電報だ。大田は、激戦に巻き込まれた沖縄県民の苦難と献身的協力を報告し、最後をこう結ぶ。
「…一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

 事実、県民に支えられた陸海軍の奮闘は、かつてないほど米軍を苦しめた。米軍は当初、1ヶ月で沖縄を攻略できると見込んでいたが、3ヶ月近くたっても激戦は終わらない。この間、特攻隊による攻撃も熾烈を極め、沖縄戦で損傷した米艦隊は空母13隻、戦艦10隻をはじめ368隻に達した。

 あまりの損害に太平洋艦隊司令長官のニミッツは焦燥し、上陸軍司令官のバックナーを面罵した。
「このまま戦線が膠着(こうちゃく)するなら、別の誰かを司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍は忌々しいかみかぜから開放される。
 そのバックナーも、6月18日に戦死した。
 翌19日、ついに日本軍は力尽き、沖縄の組織的戦闘がほぼ終了する。日本軍の死者は約6万5000人、県民の犠牲は約10万人に達した。一方で米軍も戦死者7613人、戦傷3万Ⅰ807人、戦闘神経症など2万6211人の大損害を被り、無条件降伏要求の見直しを迫られるようになる。

 組織的戦闘の終了について、昭和天皇が参謀総長から報告を受けたのは20日の夕方である。
 その夜、昭和天皇は《皇后と共に観瀑亭・丸池付近にお出ましになり、一時間にわたり蛍をご覧になる》
 淡い光を発し、皇居内を飛び交う蛍―。2日後、昭和天皇は重大な決断をする。

 時計の針を少し戻そう。
 米軍が沖縄本島に上陸した昭和20年4月1日の4日後、昭和天皇は《内閣総理大臣小磯国昭に謁を賜い、全閣僚の辞表の棒呈を受けられる。終わって内大臣の木戸幸一をお召しになり、辞表を披露され、後継内閣首班につき御下問になる》
 当時、木炭自動車と揶揄(やゆ)それるほど非だった小磯内閣は、戦争完遂を声高に求める陸軍からも、ひそかに終戦を模索する近衛文麿ら重臣からも見放されていた。戦争完遂か終戦か、どちらにして、小磯では国内をまとめきれないと思われていたのだ。

 次期首相が誰になるかで、日本の運命は決まる。陸軍は現役将校を首班とする軍人内閣をもくろんだが、重臣らが期待したのは、昭和天皇に近い枢秘院議長、鈴木貫太郎への大命降下だった。

 5日夜、昭和天皇は《内大臣の木戸幸一に謁を賜い、この日の夕刻、御文庫に開催の重臣会議に置いて協議の結果、男爵鈴木貫太郎に組閣を命じられたとき旨の奉答を受けられる》

かつて侍従長を務めた、鈴木に対する昭和天皇の信頼は厚い。重臣会議の推薦を喜び、鈴木ならばと思ったことだろう。問題は、鈴木が引き受けそうになかったことだ。

 鈴木は海軍出身である。はたして昭和天皇に拝謁した際、首相就任を固辞した。
「鈴木は一介の武臣、従来政界に何の交渉もなく、また何等の政見も持っておりません。鈴木は軍人は政治に干与せざることの明治天皇の聖諭をそのまま奉じて、今日までのモットーとして来て参りました。聖旨に背き奉ることの畏(おそ)れ多きは深く自覚致しますが、何卒この一事は拝辞の御許しをお願い奉(たてまつ)ります」
 昭和天皇は言う。
「鈴木がそういうであろうことは、私も想像しておった。鈴木の心境もよく分かる、然し、この国家危急の重大時機に際して、もう他に人はいない。頼むからどうか枉(ま)げて承知して貰いたい」

 鈴木、このとき77歳、昭和天皇に「頼む」と言われて首を横に振るわけにはいかない。当時の心境を、のちにこう述懐している。
「陛下の思召はいかなるところにあったであろうか。それはただ一言にしていえば、すみやかに大局の決した戦争を終結して、国民大衆に無用の苦しみを与えることなく、また彼我共にこれ以上の犠牲を出すことなきよう、和の機会を摘むべし、との思召と拝された」

 鈴木は、この「思召」に身をささげ、火の中の栗を拾うとする。
 鈴木貫太郎が大命降下を受けた昭和20年4月5日、鈴木派出身母体である海軍は、戦艦大和に沖縄への”海上特攻”を命令する。大和は6日に出撃し、鈴木が組閣名簿を捧呈した7日に撃沈された。鈴木内閣は、悲壮な運命を背負って船出したといえよう。

 昭和天皇の「思召」を知る鈴木だが、当時はまだ、「終戦」を口にできる状況ではなかった。鈴木自身、「深く内に秘めてだれにも語り得べくもなく、余の最も苦悩せるところであった」と述懐する。
 陸軍はなおも強気だ。組閣にあたり、3つの条件を求めてきた。
1、 あくまでも戦争を完遂すること
2、 陸海軍を一本化すること
3、 本土決戦必勝のための陸軍の企図する諸政策を具体的に躊躇なく実行すること
陸軍にそっぽを向かれては終戦工作どころではない。鈴木は3条件とも了承した。表向きは「戦争完遂」を唱えながら、「和の機会」がくるのを辛抱強く待ったのである。

 1か月後、欧州戦線が終結する。ドイツ国内は米英ソ連に蹂躙(じゅうりん)され、市民は凌辱(りょうじょく)され、4月30日はヒトラーが自殺。5月7~8日に無条件降伏した。
 さらに1カ月後、6月8日御前会議で「今後採ルベキ戦争指導ノ基本大綱」が確定する。「飽ク迄戦争ヲ完遂シ 以テ国体ヲ護持シ 皇士ヲ保衛シ 征戦目的ノ達成ヲ期ス」として、本土決戦態勢を強化する内容だ。内閣発足から2ヶ月。鈴木はまだ、「和の機会」をつかめないでいた。

 天機がおとずれたのは、6月22日である。昭和天皇が首相、外相、陸海両相、両総長を宮中に呼び、懇談会を開いたのだ。昭和天皇実録が書く。
《天皇より、戦争の指導については去る八日の会議において決定したが、戦争の終結についても速やかに具体的研究を遂げ、その実現に努力することを望む旨を仰せになり、各員の意見を下問になる》

 2日前、沖縄で組織的戦闘が集結したとの報告を受けた昭和天皇が、皇居を飛び交う蛍をじつと見ていたことはすでに書いた。昭和天皇は、これ以上の犠牲を避けるため、自ら「和の機会」をつくろうとしたのである。懇談会後、官邸に戻った鈴木は内閣秘書官長の迫水久常に、こう漏らした。

「今日も陛下から、われわれが言いにくいけれどもいうことを憚(はばか)るようなことを率直に御示しがあつて、洵(まこと)に恐懼(きょうく)に堪えない」
 
 ようやく到来した「和の機会」。だが、鈴木はつかみそこねてしまう。ソ連と交渉しようとして、その術中にはまってしまうのだ。

 昭和20年7月、終戦に向けた対ソ交渉をめぐり、昭和天皇から特使派遣の提案を受けた首相の鈴木貫太郎は、ある大物の顔を思い浮かべていた。
 3次にわたり首相を務めた、華族出頭の重臣、近衛文麿である。世界的に名の知られた近衛なら、スターリンが相手でも不足はあるまい。

 とはいえ、ソ連に終戦の仲介を求める特使は、至難かつ危険な役回りだ。成功するとしても過大な要求をのまされ、帰国後に暗殺される恐れもある。鈴木は、近衛の名誉のためにも、自分が直接依頼するのではなく、昭和天皇から声をかけてもらいたいと考えた。

 7月12日、近衛が重臣会議に出席したときのことだ。鈴木が入室し、大声で言った。
「近衛公に宮中からお召しです」
 突然のことで国民服のまま参内した近衛だが、昭和天皇の、すっかりやつれた様子に、はっと息を吞む。昭和天皇は、こう語りかけた。
「ソ連に使して貰うことになるかも知れないから、そのつもりに頼む」
 当時、近衛はソ連と共産党に強烈な不信感を抱いていた。最も憂慮すべきは敗戦よりも「共産党革命ナリ」と上奏したことはすでに書いたとおりだ。しかし、近衛は昭和天皇の苦衷(くちゅう)を思い、凛(りん)として奉答(ほうとう)する。

「三国同盟の際、陛下から苦楽を共にせよとの御言葉を頂きましたが、陛下の御命令とあらば、身命を賭(と)して参ります」
 特使は、近衛と決まった。その日の夜、外務省は駐ソ大使の佐藤尚武に緊急電報を発信。外相のモトロトフに至急面会して特使を受け入れ要請するとともに、以下の聖旨を極秘で伝えるように訓令した。

「天皇陛下ニ於カセラレテハ 今次戦争カ交戦各国ヲ通シ 国民ノ惨禍ト犠牲ヲ日々増大セシメツツアルヲ御心痛アラセラレ 戦争カ速カニ終結セラレムコトヲ念願セラレ居ル次第ナルカ 大東亜戦争ニ於テ米英カ無条件降伏ヲ固執スル限リ 帝国ハ祖国ノ名誉ト生存ノ為 一切ヲ大ナラシムルハ誠ニ不本意ニシテ 人類ノ幸福ノ為成ル可ク速カニ平和ノ克服セラレムコトヲ希望セラル」

 だが、ソ連はこの聖旨を握りつぶす。「近衛特使の使命は明瞭でない」として、受け入れるとも、受け入れないとも明らかにしなかった。対日参戦の準備が整うまで、時間稼ぎをしていたのである。
 追い詰められた日本―。
 一方、アメリカである大物の死をきっかけに、日本に有利な風も吹き始めていた。

鈴木貫太郎内閣が発足した昭和天皇20年(1945)4月、海外では、戦争指導者が相次いで姿を消し、国際情勢は激しく揺れ動いた。

 30日に独・ヒトラーが自殺したことはすでに書いた。その3日前、27日には伊・ムソリーニがパルチザンに捕らえられ、翌日処刑されている。

より衝撃的だったのは12日、米・ルーズベルトが急死したことだ。

 その日、ルーズベルトはジョージア州ウォームスプリングの私邸で、肖像画を描きたいという女性画家の求めに応じ、ポーズをとっているところだった。欧州戦線でも太平洋戦線でも、勝利はほぼ間違いない。ルーズベルトの表情は、穏やかだったことだろう。それが突然、苦痛に歪んだ。

 午後1時15分、頭を抱えて前のめりに倒れたルーズベルトは、3時35分に息を引き取る、死因は脳出血。63歳だった。
 ルーズベルトの死は、日本の運命を変える。同年2月の硫黄島戦以降、米軍は勝利しつつも予想外の損害を重ねており、ルーズベルトが固守する無条件降伏要求に疑問を持ち始めたからからだ。

 沖縄戦後、連合司令長官のマッカーサーが九州上陸作戦で予想される米軍死者数を算定したところ、上陸後30日までに5万800人、60日までにプラス2万7100人という数字が出た。本土決戦を合わせると、最終的な損害が50万~100万人に達するとの分析もある。

 ルーズベルトの後任、トルーマンは仰天した。すでに大勢が決した戦争指導者に、これほどの犠牲は割に合わない。加えてトルーマンは、ルーズベルトほどにはソ連を信用していなかった。このまま無条件降伏要求にこだわり、戦争が長引けば、ソ連を利するだけだろう。

 6月18日、トルーマンはホワイトハウスに陸海軍首脳を集め、戦略会議を開いた。軍首脳の意見は日本本土への上陸作戦決行で一致するが、会議の終了間際無条件降伏要求の修正が持ち出される。
 陸軍次官補のマックロイが言った。
「(戦争の早期終結には)日本が国家として生存することを許し、また立憲君主制という条件付きでミカドの保持を認めてやるという事です」
 トルーマンが相づちを打つ。
「それはまさに私が考えたことだ」
 以後、陸軍長官のスチムソン、海軍長官のフォレスタル、国務次官のグルーが中心となり、日本への降伏案が検討される。ルーズベルトの死と日本軍将兵の壮絶な戦いが、無条件降伏の壁を崩したのだ。
 日本への勧告案は紆余(うよ)曲折の末、7月26日に発表された「ポツダム宣言」として結実する。

――(米英中3国首脳は)吾等ノ数億の国民ヲ代表シ 協議ノ上 日本国ニ対シ 今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
 日帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ 日本国カ引続キ統御セラルヘキカ 又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ 日本国カ決定スヘキ時期ハ到来セリ――
 1945(昭和20)年7月26日、降伏したドイツ北東部の都市ポツダムで発表された米英支三国共同宣言、すなわち「ポツダム宣言」である。
――吾等ノ条件ハ左ノ如シ
 日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及び四国 並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
 日本国軍隊ハ 完全に武装ヲ解除セラレタル後 各自ノ家庭ニ復帰シ 平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ 
 吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ 厳重ナル処罰ヲ加ヘラルヘシ
 吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ(中略)適当且充分ナル保証ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス――

 ポツダム宣言を主導したのは、米大統領のトルーマンだ。

7月18日に、原爆実験が成功したとの報告を受けたトルーマンは、ソ連が参戦しなくても勝利できると確信し、ソ連の影響力が増大する前に、日本に降伏勧告しようと決意したのである。

 陸軍長官のスチムソンらが策定した宣言の原案には「現皇統による立憲君主制を排除しない」との文言も入っていたが、対日強硬派のバーンズ(国務長官)らの巻き返しで直前に削除された。ただし米国務省でも、日本が皇室制度の存続に固執する場合は口頭で保証する方針だとされる。

 重要なのは、ポツダム宣言が「条件」を明記している点だ。「無条件降伏」の文言はあるが、それは国家に対してではなく、軍隊に対して求めている。日本民族が綿々と受け継ぎ、日本軍将兵が命に代えて守ろうとした国体は、明文化こそされなかったものの、保持されると読み取れるだろう。

 翌日、27日の早朝に開かれた外務省の定例幹部会。次官の松本俊一は言った。
「之を受諾することに依って戦争を終末させる以外にない」
 反論はなく、同省幹部は原則受諾の方針で一致かる。外相の東郷茂徳が直ちに参内し、ポツダム宣言の内容について昭和天皇に報告した。
 だが、受諾の交渉を米英にではなく、ソ連の仲介に頼ろうとしたため、さらなる悲劇を生んでしまう。
「1ページ新聞記事失損」
 インドネシアには、12世紀前半に東ジャワ・クディリ王国のジョヨボヨ王が言ったとされる。こんな「予言」が古くから伝えられている。
「我が王国は、どこからか現れる白い人々に何百年も支配されるだろう。彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことが出来る。しかしやがて、北の方から黄色い人々が攻めて来て、白い人々を追い出してくれる。黄色い人々は我が王国を支配するが、それは短い期間で、トウモロコシの花の咲く前に去っていく…」
 現在、東南アジア諸国連合の加盟国は10カ国に上る。だが、戦前の独立国はタイ1国で、残りは自決権のない植民地だった。結果論とはいえ、日本軍が東南アジアから欧米勢力を駆逐したことが、その後の独立に及ぼした影響は決して小さくはないだろう。

 資源のない日本は、石油などの禁輸を直接のきっかけとし、自存自衛のために開戦に踏み切った、その際、大義として掲げたのはアジア諸民族の”解放”による共存共栄体制、大東亜共栄圏である。
 もっとも、その実態は理想を踏み外しも占領地で日本の価値観を押し付けるなどしたため、かえって反感を買ったことは事実だ。しかし昭和天皇は、当初から各地の民族性を重んじていた。昭和17年11月に大東亜省が新設された際にも、こう言ってくぎを刺している。

「各民族の特性を尊重し決して搾取とならざる様せよ」
 戦時中の昭和18年11月5日、独立したビルマ、フィリピン、タイ、中国(汪兆銘政権)、満州、自由インド仮政府の代表が東京で大東亜会議を開催した。翌日に採択された「大東亜共同宣言」がうたう。

一、 大東亜各国ハ相互ニ自主独立ヲ尊重シ互助敦睦ノ実ヲ挙ゲ大東亜ノ新和ヲ確立ス
一、 大東亜各国ハ万邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廃シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ解放シ以テ世界ノ進軍ニ貢献ス
 いずれも事態は日本の傀儡(かいらい)国家であり、各国の民意を反映していないとする批判もあるが、当時、日本国民の多くはこの大義を信じ、この大義に殉じた。

「白い人々」の植民地支配に抑圧されてきたインドネシアに、「黄色い人々」が攻めて来て「白い人々を追い出した」のは17年の春だ。ジョヨボヨ王の予言通り、黄色い人々との支配は短期間で終わり、大戦に敗れ去っていった。だが、自主的に残り、インドネシア独立戦争に身を投じた元日本兵が多数いたことを、忘れてはならないだろう。

つづく 第12章 占領下の戦い