江戸時代の娼婦館で娼婦たちは妊娠を怖れて、和紙を丸めて膣に押し込んで避妊をしたという記述がある。また同時代のフランスやヨーロッパでは上流階級のブルジョア女性たちは、絹のストッキングに詰め物を入れ膣に挿入したり、水道が整備されたことで「膣内水道洗浄」避妊を行っていた

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一葉が残した日記

本表紙樋口一葉と十三人の男たち 木谷喜美枝[監修]
 ひたむきな愛に生き。時にしたたかに振る舞う…
 自らの才能を開花させた、”新しい女性”の本当の姿とは

監修のことば

 人の一生の短さは問題ではない。生きた時間のいかに自覚的で、濃密であるか、そこにこそ人として生きた価値が測れるのではないだろうか。
 もちろん人が最期のときを迎え、そんな風に自己の人生を振り返るかと言えば、疑わしい。多くは、日々のできごとに一喜一憂し、流されているのだろう。

 しかし、当人には迷惑だろうけど、とりたてて文学者の一生はそのエピソードまでを含めて、評価されてきた。文学者もまた、そのような眼に晒(さら)されることを頭のどこか片隅で意識しつつ人生を送り、作品を書き続けてきた。現代のコンセプトのひとつ《スケルトン》はまさに文学者を巡って離れることがすくない。

 二〇〇四年一一月、日本国の五千円札の《顔》として初の女流文学者樋口一葉が登場した。今また改めて、樋口一葉の生涯が《スケルトン》になる。

 樋口一葉は、明治という半封建的時代、家が代々長男をもって継がれていく時代に、当時としては珍しい女戸主として、母と妹と自分と、女三人の口を糊するために小説家の道を選んだ。ただ、ときに挫折し、荒物屋を営み、ときに男に借金を申し入れ、時に自ら学んだ萩の舎(や)の助教を勤めるなど、その道一筋というわけにはいかなかった。ともかくも貧しかったからである。


 それでも、作品を生み出す、自己を表現することへの内なる思いは消えることがなかった。師と仰いだ半井桃水(ながらいとうすい)、そして、平田禿木(とくぼく)、星野天地(でんち)、馬場孤蝶(こちょう)、川上眉山(びざん)など『文学界』の若い人々との出会いによって、その文学は深まった。ここにその主な人を数えると、樋口一葉の生涯には十三人の男と関わっている。その十三人が文学者樋口一葉を誕生させたのだ。

 数学的に示せば、一葉は明治五年東京に生まれ、二九年、二十四歳で亡くなるまで、二十二の作品と日記を残した。作家としての出発は明治二十五からなので、僅か五年間の創作活動だったが、特に代表的と言われる「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」の四大作は最後の一年の間に発表されている。いわゆる《奇跡の一四ヶ月》である。

 思えば、この短い生涯にこれほどの濃密なときを送った一葉が、常に《かね》のために悪戦苦闘した一葉が、その《かね》の《顔》になるということは皮肉なことである。しかし、近代文学史に確かな一歩を記したことであり、だからこそ、わたしどもは五千円を手にするたび、その《かね》の大切さを実感していくことになるのだろう。

 本書は、こうした樋口一葉の生涯を、十三人の男たちとの出会いを軸に、辿ったものである。
 二〇〇四年一一月 木谷喜美枝

凡例
一、 樋口一葉の作品および日記、書簡の文章は【樋口一葉全集】(全四巻六冊 昭和49~平成6/筑摩書房)を参照し、引用させていただきました。ただし、読みやすしさを考慮して、必要に応じて、旧字は新字に改め、゛とルビを補いました、また、一文の切れ目と思われるところは一字アキとしました。
二、 樋口一葉の作品および書簡の文章表記も、原則として一に準じています。

序章
 一葉が残した日記

 明治四五年(一九一二)、樋口一葉が亡くなってから実に一五年以上の歳月が経過した年、前編・後編二冊にわたる『一葉全集』が出版された。それは発表されるとすぐ、大いに人々の注目を集める事になる。それまで公開されていなかった膨大な量の一葉の日記が収録されていたからだ。
 一葉の日記は「若葉かげ」「筆すさび」「蓬生(よもぎふ) 日記」「にっき」「塵日(じんちゅう)日記」「水の上日記」と様々に名前を付され、書き継がれていた。少ないものは半紙で一〇枚足らず、多くても四○数枚のものだったが、全体で四〇冊以上にのぼる。一葉の死後、妹・くにによって大切に保管されてきたものであった。

 全集に掲載された一葉の日記でもっとも最初のものには、明治二四年(一八九一)四月と入っている。一葉はその年、満一九歳。その後日記は、時に数ヶ月途切れるなどしつつも、彼女が亡くなる約四ヶ月前まで続く。そこには、様々な人物や出来事に対する批評、人生に対する思索、当時の暮らしぶりなどが、一葉ならではの鋭い視点で生き生きと語られていた。そして、若き無名の女性が作家として世に知られるようになるまでの、約六年にわたる激動の軌跡が残されていたのである。

 日記には一葉の人生に関わった人々の名前が次々と出てくるが、親兄弟、友人、知人に混ざって、たくさんの男たちが登場する。特に、一葉が小説家として活動を始めて以降亡くなるまでの間は、年を追うごとに文壇関係者の名前が増えている。

 だが、描かれていたのは、一葉がその他の作家、編集者、評論家たちと交わした、小説および文学の世界をめぐるやりとりばかりではなかった。一葉という一人の女性がそれぞれの男たちに抱いていた、私的な感情のやりとりまでもが、克明に綴られていたのだ。

 そこからは、実に様々な一葉の横顔が浮かび上がってくる。年上の男性に恋をし、ひたすら思い続ける初々しい一葉、うら若き文壇の青年たちに慕われ、姉のように振る舞う洒脱な一葉、そして、どうしても必要だった金の為に、捨て身で中年男の懐に飛び込んでいく大胆で計算高い一葉‥‥。日記を読む者たちは、思いがけない彼女の姿を発見する驚きを禁じ得ない。

 そこに浮かび上がってくるのは、ひたすら貧困に耐え忍ぶ控えめな明治の女性ではなく、生きるだめに、時代と、そして己の運命と格闘し続けた、力強い女性であった。

 序章では、一葉がこの世に生を享けてから、彼女の人生に大きくかかわることになる十三人の男たちと出会う以前の、その生い立ちを辿る。それは、両親の駆け落ちに始まる、樋口家の繫栄と没落の物語でもあった。その渦中で、一葉自身は激しく翻弄され、やがて作家を目指すことになる。

江戸へ駆け落ちした一葉の父母

 樋口一葉、本名、樋口奈津(なつ)は、明治五年(一八七二)旧暦三月二五日(太陽暦五月二日)、維新後間もない東京に生まれた。

 一葉の父・則義、母・たきは、二人とも甲斐国山梨郡中萩原村重郎原、現在の山梨県塩山市萩原の農家の出身である。則義の父八左衛門は、漢詩文に親しむなど学問があり、村の農民の相談役的な存在だった。彼は百姓総代として江戸に出て老中に直訴したこともあるほど、気骨のある人物である。たきの実家である古屋家も、その他の農家の中では由緒ある家柄であった。則義は父の影響もあって、幼い頃から学問に親しんでいた。そして、寺子屋に通っていた時にたきと出会い、恋に落ちてしまったのだ。二人は結婚を望んだが、古屋家をはじめ周囲から反対されてしまう。

 そのまま故郷に居ても前途がない二人は、安政四年(一八五七)四月、江戸へと駆け落ちした。時に則義二七歳、たき二三歳。この駆け落ちは、江戸に着いてからの二人の奮闘ぶりによって、意外なことに「出世ストーリー」的な展開を見せる。

 則義はまず同郷で父の友人でもあった真下専之丞という幕臣を頼った。則義は真下の世話を得て藩所調所の小使いになり、これを振り出しに着実に駒を進めていく。たきも長女ふじを出産後、我が子を里子に出して、やはり真下の口利きで旗本稲葉家に乳母として奉公に出た。たきは、この奉公で武家のたしなみを体得した。

 こうした二人の精励はその後も続き、江戸に出てから約一〇年後の慶応三年(一八六七)、則義はいくつかの職を経た後に、南町奉行所の同心となった。経済的には窮地に陥っていた浅井家の同心株を買い取り、幕臣の身分を手に入れたのである。

 だが、時は幕末、翌年の慶応四年(一八六八)、幕府は崩壊してしまった。二人が必死になって手に入れた身分は、もはやその存在意義を失ってしまったのである。しかし、則義は運がついていた。慶応四年は明治元年と改められ、江戸が東京に変わる中で、彼は幕臣から新政府の役人へと転身を果たしたのだ。こうして何とか幕末の動乱をも乗り切った則義は、翌明治二年(一八六九)七月には東京府権少属を拝命する。そして同年一〇月、樋口家は現在の千代田区内幸町にあった東京府構内長屋、つまり官舎に移り住んだ。

 その家において、明治五年(一八七二)、長女ふじ、長男泉太郎、次男虎之助に次いで、樋口家の第四子として。次女、奈津(一葉)が生まれた。則義四二歳、たき三八歳の時であった。

 一葉が誕生した頃の樋口家は決して貧しくはなかった。むしろ庶民の中で比較すれば、余裕がある家庭であった。
 また、一葉が誕生して約二年後の明治七年(一八七四)六月には、後に一葉の大きな支えとなる妹・くにが誕生している。

 その頃、則義は東京府中属に昇進、翌年から「士族」の肩書を得るに至った。甲斐国の農村から江戸に駆け落ちし、苦労して士族という身分まで手に入れた則義とたきが、そこに強い誇りを感じていたことは言うまでもない。

 そうした両親の強い思いは、子供たちにも植え付けられていった。このために一葉は、士族としての誇りを胸の奥に抱きつつ、一生を送ることになる。

ところで、一葉には、一人の姉と二人の兄がいた。このうち、姉と次兄は、早くから樋口家を離れて戸籍上は一葉の家族ではなくなっている。
 長女ふじは安政四年(一八五七)生まれ、一葉より一五歳年長であった。明治七年(一八七四)一〇月、一七歳になったふじは、軍医の和仁元亀(わにげんき)と結婚したがすぐに離婚し、その後、明治十二年十月に久保木長十郎という農民出身の男性と再婚した。

 ふじにとって最初の結婚はいわば「親の決めた縁談」であった。これに失敗して出戻った後は、多くの明治の女性がそうだったように、ただ妻として母として、ひっそりと人生を生きた。こうしたふじの生き様は、後に一葉が強く抱くことになる、自分が女であることへの焦燥感、結婚に対する疑問と無関係ではなかっただろう。

 次兄の虎之助は慶応二年(一八六六)生まれで、明治一四年(一八八一)七月、一五歳の時に則義によって分籍されている。虎之助が分家された理由ははっきりしていないが、くにによれば勘当されたということだ。樋口家から分籍された虎之助は、明治一五年(一八八二)二月から成瀬誠至という陶工のもとに弟子入りしている。彼はそこで焼付絵師としての画技を学び、やがて、「奇山」を名乗るまでなり、職人として一生を送った。

 一方、長兄の泉太郎は、元治元年(一八六四)生まれで、一葉より八歳年上であった。樋口家の長男として両親から期待されて育ったが、幼い頃から身体が弱かったという。明治一六年(一八八三)一二月、一九歳の泉太郎は則義から樋口家の家督を相続し、戸主となったが、体調がすぐれず、翌年には熱海に病気療養に行っている。

利発で読書好きだった幼少の頃

 則義は江戸に出てきて以来、常にさらなる成功を目指して突き進んでいた。彼は明治九年(一八七六)東京府を退官し、翌年警視庁に転職している。同時に副業として金融、不動産にも手を出して蓄財に精を出していた。

 そうした中で、同年四月には、樋口家は現文京区の本郷六丁目五番地に屋敷を買って転居していた。この家には、宅地二三三坪、屋敷四五坪、土蔵まで備えたかなり広い家であった。その時、一葉は四歳。彼女はこの家で九歳までの約五年間を過ごした。

 一葉は幼少の頃から言語早熟で、利発な子であった。後に二一歳になった一葉は、明治二六年(一八九三)八月一〇日の日記に、幼い頃を振り返って次のように書き記している。
「七つといふとしより草双紙(くさぞうし)といふものを好ミて手まりやり羽子(はご)をなげうちてよみけるが其中にも一と好ミけるハ英雄豪傑の伝 任侠犠人(にんきょうぎじん)の行為などのそヾろ身にしむ様に覚えて凡(すべ)て凡て勇ましく花やかなるが嬉しかりき」

「七つ」というのは数え年なので、満六歳にあたる。一葉はその頃、手毬や羽子板などは好まず、読書が大好きで、特に英雄伝や任侠伝が好きであったことは確かで、たきの目を盗んで、暗い土蔵の中で草双紙を読みふけったため、近眼になってしまったと、後に一葉本人が語っている。

 日記はさらに次のよう続く。

「かくて九つ斗(ばかり)の時よりハ我身の一生の世の常にて終わらむことなげかはかはしくあはれくれ竹の一ふしぬけ出(い)でしがなぞあけくれに願いける」
 普通の人生で終わるのはいやだ。なんとか他の人々から抜け出たい、竹の一節分でも抜きん出たい。一葉は、則義同様、強い強い上昇志向を持った少女に育っていた。

 明治一〇年(一八七七)三月、一葉は満五歳の時に公立の本郷学校に入学したが、当時にしては年齢が幼すぎたため、すぐに退学している。

 そして同年一〇月には、本郷にあった私立の吉川学校に入学した。もとは寺小屋だったその学校で、一葉は主に読み書きを学んだ。同校への通学は明治一四年(一八八一)四月まで続いた。

 樋口家は、明治一四年(一八八一)七月。現台東区下谷御徒町一丁目へ、さらに一〇月には同町の三丁目へと居を移している。すでに吉川学校を辞めていた一葉は、御徒町への転居にともなって、上野池之端あたりにあった私立青海学校の小学二級後期に入学した。

 妹くにが後に姉の思い出を綴った著書『姉のことども』の中には。この学校に和歌を嗜(たしな)む教師がいて、一葉はその影響で歌を書き始めたとある。

「ほそけれど人の杖とも柱とも思はれにけり筆のいのち毛」(どんなに細くとも、筆の芯になる力毛は人の杖とも柱とも頼りに思われることだ)

 くにの証言によれば、これが一〇歳前後の一葉が詠んだ歌ということになる。
 一葉は約二年ほど青海学校で学び、明治一六年(一八八三)一二月。同小学校高等科第四級を卒業した。山梨県立文学館には一葉が受け取った修了証が残っているが、そこには第一号と記されている。それは、一葉が首席だったことを意味する。

 しかし、成績優秀であったにもかかわらず、女に学問は必要ないと考えていたたきの意見によって、一葉はここで学校を辞めさせられることになる。一葉は後に日記の中で「死ぬばかり悲しかりしかど学校は止(やめ)になりけり」と回想している。

 明治一七年(一八八四)一〇月、一家は下谷区西黒門町に屋敷を購入して転居した。学校を辞めてからの一葉は、家事見習いをしたり、裁縫を習ったりして過ごしていた。

 だがその間も、一葉が文学の世界から完全に離れることはなかった。則義が、知人である和田重雄という人物に一葉の和歌の添削を頼んでくれたのである。ただしこれは、直接会って講義を受ける形ではなく、郵便によるやり取り程度のものであった。

 その後、明治一九年(一八八六)八月、一四歳になった一葉はいよいよ本格的に和歌を学ぶことになる。後々彼女の人生に多大な影響を及ぼすことになる。歌塾・萩(はぎ)の舎(や)への入塾だ。これは則義が知人で医師であった遠田澄庵(とおだちょうあん)の紹介を得て、実現した。

歌塾・萩の舎の日々

 一葉が明治一九年から通っていた歌塾萩の舎は、小石川区水道町、現在の文京区春日にあった。
 塾主の中島歌子は弘化(こうか)元年(一八四四)、武蔵国入間郡、現在埼玉県坂戸市で、太田道灌(どうかん)の重臣の家系に生まれた。十代で水戸藩主と結婚したが、後に夫は天狗党の乱にかかわって自害、二一歳で未亡人になった。その後、和歌や書道を江戸派の歌人加藤千波に学び、旧派の歌人として名を知られるようになった人物である。
萩の舎での記念写真。明治二〇年の発会。最後列、左から3人目が一葉。(日本近代文学館)
一葉の集合写真
 中島歌子は明治一〇年(一八七七)頃、水道町の通称安藤坂に歌塾を開き、上流・中流階級の子女を数多く弟子にとっていた。一葉が入塾した時は、四二歳。その頃はちょうど萩の舎の全盛期であり、梨本宮妃(なしもとみやひ)、鍋島侯爵夫人、前田公爵夫人をはじめ、皇族・華族の夫人、令嬢がずらりと名を連ねていた。門下生は一時千人を超えていたという。

 入塾してからというもの、すぐに才気を発揮した一葉は、師である中島歌子にも見込まれて、やがては跡継ぎにと望まれるほどになっていく。

 彼女は萩の舎で約六年ほど学ぶことになるのだが、和歌の詠み方をしっかり身につけ、教養として『源氏物語』『枕草子』などの講義を受けた。こうして深く古典と親しんだ経験は、後に一葉の小説の執筆に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない。

 また、一葉の筆は、入門当初、まるで小学生が書いたような字であったと伝えられているが、塾において手鑑(てかがみ)や写本の書体を学ぶうちに、美しい千蔭流(ちかげりゅう)の仮名を身につけていった。現存している一葉の筆跡は、流麗で見事なものだ。
明治二七年(一八九四)の日記「水の上」の一部。(日本近代文学館)
筆写真
 現在伝えられる一葉が残した日記のもっとも最初のものには、明治二〇年(一八八七)、一月一五日の日付が入っている。それは、萩の舎に入塾した翌年、二月二一日にはじめての発会を間近に控えた頃から始まって、八月二五日までの間、とびとびで記されている。この日記に一葉は「身のふる衣(ころも) まきのいち」という表題をつけた。ふる衣とは、古い着物のことであり、まきのいちは、巻一の意。ただし、巻二は存在しない。

 上流階級の令嬢や夫人たちが、発会にはどんな晴れ着を着ていく予定か口々に語る中で、一葉はわが身のみすぼらしさに胸を痛めている。当時の樋口家は貧しくなかったものの、娘の歌塾のために晴れ着を用意できるほどの余裕はなかったのだ。

 そんな一葉に、両親は帯と着物をひと揃え調達してくる。一葉曰く、「どん子(す)の帯一筋八丈(おびひとすじはちじょう)のなかばみたる衣一重」だ。「なへばみたる」とは、「着古されてよれよれになった」という意味である。その八丈の古着を見た一葉はますます、「家は貧(ひん)に身(み)はつたなし」(家は貧しく、身分は低い)と落胆してしまう。しかし、気を取り直して古着に火のしをかけるなどし、発会の日を待つのであった。

 やがて、はじめての発会の日に関する記述は、実に喜ばしい話へと発展する。この日の題詠(だいえい)は「月前の柳」。六〇人余りの出席者の中で、一葉は最高点を獲得するのだ。
「打なびくやなぎを見れバのどかなるおぼろ月夜も風ハ有りけり」
 これが、この時の一葉が詠んだ歌であった。

 当初、身のふる衣に恥ずかしさを感じていた一葉だっただけに、和歌の出来、歌の才で居並ぶ子女たちを圧倒したことは、他人が想像する以上にドラマチックな出来事であったに違いない。

 こうして一葉にとって和歌をはじめとした文学の世界は、ますますその重みを増していった。そしてそれは、身を着飾ることなどより、よほど力強く、一葉の誇りと自尊心を保つ術となっていくのである。

 ところで、萩の舎で一葉がもっとも親しかった伊藤夏子と田中みの子は、裕福な商人の娘と宮大工の未亡人である。
 二人とも経済的にはゆとりがあったが、身分的には平民であった。三人は自分たちを内々で「平民組」と呼び、皇族・華族の人々を「別の人種」ととらえていた。門下生に「お嬢様」が多い中で、なりゆきでお茶を入れたり雑用をこなす役割が回ってくることが多く、帰りの方角も一緒で、親しくなっていったのである。

 実際、この二人は、一葉にとって生涯の友となった。田中みの子は安政四年(一八五七)生まれで一葉よりも一五歳も年上であり、既婚者でもあったが、伊藤夏子は明治五年(一八七二)生まれと年齢も同じで、ことさら親しかった。

 一葉(奈津、夏とも書いた)と伊藤夏子は名前も一緒なので、互いに「イ夏ちゃん」「ヒ夏ちゃん」と呼び合っていたという。伊藤夏子は早く父を亡くしていたので、余計に気持ちが通じ合ったのだろう。お互い、心の内を語り合った間柄であった。

 そのため、伊藤夏子は後に一葉について様々な証言を残した。たとえば「一葉さんが初めて萩の舎へ入門した当時には、なにしろ強度の近眼ですから、こごんで自分の膝ばかり見ておりました」(『一葉の億ひ出』)と語っている。

 さて、一葉と師である中島歌子との関係は、時に間をおきながらも長く続いた。明治二七年(一八九四)、二二歳になった一葉は、五月より月二円の手当てで萩の舎の助教になっている。子供がいなかった中島歌子は一葉を養女に望んだり、萩の舎の後継者と考えたこともあった。やがて一葉が小説家として有名になると、彼女の一葉を見る目は冷たくなり、二人は疎遠になっていく。

 歌塾萩の舎は、一葉の文学的基盤を育てた”女の園”であった。
 やがて一葉はそこから抜け出して、当時はまだ男ばかりだった、小説の世界へと乗り込んでいくことになるのだ。

樋口家の没落と女戸主一葉

 明治二〇六月、則義はそれまで勤めていた警視庁を依願退職し、第二の人生を送ることを考えていた。
 しかし、この頃から樋口家の家運は傾き始めていた。間もなく、泉太郎が気管支カタルを発症したのだ。実際には肺結核と考えられている。結局、その年の一二月二七日、泉太郎は二三歳という若さでこの世を去った。

 そのため明治二一年(一八八八)、泉太郎が亡くなった翌年の二月、則義が後見人となり、一葉は樋口家の女戸主となった。未だ一六歳の時である。先に述べた通り、長女は嫁に行き、次兄の虎之助はすでに分籍していたため、一葉が相続するほかなかったのだ。ただ、この時点では則義が健在であったので、戸主になったからといって、すぐに一葉の生活に大きな影響が出ることは無かった。

 同年六月、則義は西黒門の屋敷を売却し、財産をつぎ込んで、荷車請負業組合の設立に乗り出した。同郷人たちによって計画されたその組合で、則義は事務総代に祭り上げられたのだ。
 だが、事業は失敗に終わる。そして多額の借金し社会的責任だけが、則義に重くのしかかってきた。

 結局則義は、失意のうちに病に倒れ(病名は不明)、わずか二ヶ月足らずの後、明治二二年七月一二日、あっけなくこの世を去る。
 享年五九歳。たき五五歳、一葉一七歳、くに一五歳、一葉が戸主になってからわずか一年五カ月後の夏であった。

 こうして一葉の女戸主としての苦難の日々は始まった、当時の戸主の、家族に対する権限は責任重大で、家族全員の扶養義務は、一葉ただ一人に課せられていた。つまり、とにもかくも、一葉は金を稼ぐ必要に迫られたのである。

 則義の死後、明治二二年九月より、三人はいったん分家していた虎之助の借家に身を寄せた。
 どうやって生計を立てるか悩んだ一葉は、明治二三年四月頃、上野で開催されていた政府主催のイベント、内国勧業博覧会の売子にでもなろうかと考えている。

 結局、その年の五月から、一葉は萩の舎の内弟子になることになった。師である中島歌子が、父を亡くした一葉が困窮している姿を見て声をかけてくれたのだ。

 一葉の日記によると、この時中島歌子は学校の教師として一葉を推薦すると約束し、一葉も先生という職業を得られるものと期待を抱いた。だが、約束は果たされることはなく、その上、塾では下女のような仕事をさせられたため、耐えかねた一葉は九月になると母とくにのもとへ戻っている。

 折からたきと虎之助の関係が悪かったこともあって、樋口家の女三人その家を出る決心をする。そして本郷菊坂町に家を借りて移り住んだ。そしてこれより先は、女三人で洗濯や針仕事など、手内職をして生活を立てるほかなかった。
写真下左から母たき、一葉、姉ふじ、妹くに
写真
 樋口家はすぐに金に困るようになった。そして追い詰められた女戸主・一葉は「小説を書いて収入を得る」という、当時にしては相当に大胆で無謀な考えを抱き始めるのだ。
 実は、一葉は萩の舎に内弟子に入る頃、すでに小説の習作を書いている。主人公は、貧しい中で母や兄と助け合って暮らしているお八重という名の娘で、第三回内国勧業博覧会の売子になろうとしている話が出てくる。病床の父親を看病したり、貧しい暮らしぶりの描写があり、一家のために働こうとするお八重は、まるで一葉自身のようだ。一葉は当時の実体験を素材として、はじめての小説を書こうと試みていたのだ。

 一葉が作家という職業をはっきりと意識するまでには、まだもう少し時間が必要であった。しかし、彼女が若くして父を亡くし。名実ともに女戸主になったその時から、小説家・樋口一葉誕生に向けて、すでにその運命は動きだしていた。そしてその激しい流れは、一葉を小説家・半井桃水(ながらいとうすい)のもとへと走らせるのだ。

 それからわずか五年ほどの間に、一葉は作家としてデビューし、当代随一の女流作家へと上りつめていくことになる。五年の間に、彼女は桃水に始まり、幸田露伴に至るまで、一三人の男たちに次々と出会っていく。

 ある男は彼女を作家へと導き、ある男は彼女を悩ませ、ある男は彼女を絶賛した。その中には彼女を愛した者、彼女を求めた者、彼女を拒否した者もいた。だが、いずれの男たちとの出会いも、一葉はそのすべてを飲み込み、人の人間として、作家として、自分が成長していく糧として生きていくのであった。

第一章 師として、男として愛した人

半井桃水(なからいとうすい)一八六〇~一九二六。小説家。小説記者として『東京朝日新聞』に執筆。代表作に「胡砂吹く風」。一葉が小説の師として頼った。一葉の初恋の人。
なぜ一葉は小説家を志したのか?

 樋口一葉をめぐる男たちについて語る時、誰よりも特筆されるのは半井桃水だ。一九歳の一葉が初めて出会った頃の半井桃水き、東京朝日新聞の小説記者だった。彼は万延元年(一八六〇)生まれの三一歳、若くして妻を亡くし、弟や妹たちとともに、当時、芝の南佐久町に暮らしていた。

 父の死後に、女戸主として家族を養わなければならなくなった一葉が、小説家として金を稼ぐことを思い立ち、小説の師として、また新聞社や出版業者へのつてとして頼ったのが、この桃水である。桃水は一葉にとって最初で最後の小説の師となるわけだが、二人の間柄は決して師弟関係という言葉だけでは語り尽くせないものになる。一葉が桃水に恋してしまったからだ。一葉の日記や残された書簡などの資料をあたると、桃水も一葉を憎からず思っていたことは明白で、二人が親しかったことは事実である。

 ただそれが男女の関係として一線を越えたものであったかどうかは不明で、一葉の死後、彼女の日記が公表されてからというもの、常に人々の興味の的とされてきた。本章では、その点についても考察しつつ、半井桃水が小説家としての一葉に、そして一人の女としての一葉に与えた影響について追ってみたい。

 明治は女性を家庭に閉じ込める思想が一層強くなった時代であった。女性は嫁に行き、子を産み育て、夫に仕えて一生を送るのが王道であり、さもなくば、金と権力のある男の妾になるか、芸者が遊女になるしか道はなかったと言っても過言ではない。

 もちろん家業を手伝ったり、今でいう職業斡旋所である口入屋を通じて女中や乳母などの仕事に就くことはできたが、家族を養えるほどの収入は得られなかった。だから、女三人暮らした樋口家などは、もっぱら裁縫や洗い張り、手内職などで少しずつ金を稼ぐほかなかったのだ。

 その頃、女性が一人で自立できる可能性を持つ数少ない職業に、教師があった。女学校の教師や、中島歌子のような歌塾の師匠などである。実際、一葉がそれを夢見た時期もあった。中島歌子からは淑徳女学校の教師の職を世話すると言われ、期待に胸をふくらませたが、結局は果たされず終わっている。理由は青海学校第四級卒業では学歴が足りなかったからだろう。また、歌塾を開くように勧められたことも何度かあり、この道については一葉も長年迷い続けるが、最初にまとまった金が必要だったし、彼女が積極的にそれを推し進めることはなかった。そして一葉は、自ら小説家という職業を選んだのだ。

 一葉を形容する際「日本初の女流作家」という言葉が使われることがある。これはなぜか。あの『源氏物語』を書いた紫式部を筆頭に、一葉以前にも物語や随筆を発表した女性は存在する。一葉と同時代にも、フェリス女学院の卒業生で同校の教師でもあった若松賤子(しずこ)、女性民権家として名を馳せた岸田俊子、森鴎外の妹で翻訳家としても活躍した小金井喜美子などが小説を執筆している。

 しかし、彼女たちはいずれも、もともと中流・上流階級の出身であり、ほかの仕事による収入があるか、そもそも生活費の心配をする必要のない女性たちであった。彼女たちが筆をとったわけは、あくまでも自己表現の一手段としてであり、基本的には金を稼ぐ手段としてではなかったのである。つまり彼女たちが行ったのは”売文”ではない。その点から言えば、厳密には職業作家ではなかった。

 そうした時代に女性が職業作家を志すということは、大胆で無謀な考えだった。いくら金を稼ぐ必要に迫れていたからといって、何が一葉をここまで駆り立てたのだろうか。

 一葉が職業作家を志すきっかけを作ったのは、歌塾萩の舎の先輩であった田辺花圃(かほ)だ。本名は田辺龍子(たつこ)。明治元年(一八六八)生まれの、一葉より四歳年上の才媛(さいえん)である。元幕臣で後に貴族院議員となった田辺太一の長女で、跡見花蹊(あとみかけい)の塾、桜井女学校、明治女学校に学び、明治二二年(一八八九)に東京高等女学校専修科卒業という、良家の子女として、堂々たる学歴の持ち主であった。

 田辺花圃は明治二一年処女作「藪の鶯」という小説を書き上げ、それは坪内逍遥(しょうよう)の校閲を得た上で、金港堂(きんこうどう)より出版それた。彼女はこの時、三三円という大金を手にしたのである。

 実は、花圃の父・田辺太一は、明治維新後、政府の清国代理公使や元老院議官なども務めた大物であったが、花柳界(かりゅうかい)に遊び、豪奢(ごうしゃ)な暮らしぶりであったため、家計は常に火の車であった。そうした状況の中で、三井物産のロンドン支店長を務めていた花圃の兄が、かの地で客死(かくし)してしまう。その一周忌の法要を営むために田辺家はまとまった金が必要だった。そこで「藪の鶯」を著したのだと、花圃自身が後に語っている。

 当時、このエピソードは有名であった。同じ歌塾にいた一六歳の一葉の耳にも当然入り、彼女を刺激していたのである。自分の身近にいた先輩が小説の処女作でまとまった金を手に入れたという事実。これこそが、一葉を職業作家に向かわせたのだ。こうして一葉は、明治二四年(一八九一)一月には、小説家になることをはっきりと意識している。本格的な日記の記述も、この年の四月から始まった。

 伊藤夏子とともに「萩の舎の三才媛」と呼ばれていた一葉と花圃は、萩の舎においていわばライバルであった。一葉の日記からは花圃に対する複雑な思いが見て取れる。称賛していたかと思えば、後に花圃が歌塾を開くと聞いて、批判の言葉を書き連ねたりもしている。

また花圃にしても、一葉が亡くなった後、随筆や談話などで一葉に関する思い出を数多く語っているが、それらはあまり好意的ではない表現が見受けられる。

 しかしながら、後に一葉が半井桃水と決別し、出版社との道が閉ざされて途方に暮れていた時、花圃は一葉に雑誌の『都の花』を紹介し、『文学界』への寄稿を促すなど、作家樋口一葉が成長するきっかけを作ったことは見逃せない。

 花圃は明治二五年(一八九二)、評論家の三宅雪嶺(せつれい)と結婚し、その二年後に歌塾を開いている。日本女子大や学習院女子大部で教師を務めたが小説家としては大成せずに終わった。

 さて、先述した通り、花圃は文壇にデビューする際、坪内逍遥の力添えを得ていた。一葉も小説を書くにあたって、力になってくれる師の必要性を感じたのだろう。

 そんな折に、くにの友人である野々宮菊子という女性の紹介を経て、彼女は半井桃水と知り合った。はじめは洗濯や針仕事をさせてもらうために半井家に出入りすることになっていたが、桃水が小説記者だったので、一葉は思い切って弟子入りを願い出たのだ。

 桃水の文壇における力は、逍遥とは比べものにならないほど小さかったが、それでも一葉は藁にもつかむ思いで、桃水を頼ったのである。

ただ一人の小説の師

 半井桃水は、対馬藩典医の長男として生まれた。半井家は和気清麻呂(わきのきょまろ)の後裔(まつえい)と伝えられ、代々、対馬藩に仕えていた。桃水は一一歳で上京し、共立学舎で学んでいる。三菱、次いで大阪魁(さきがけ)新聞社に勤めたが同紙は廃刊、その後釜山に渡る。そこで壬午事変(じんごじへん)を朝日新聞の特派員として報じ、その能力を買われて小説記者として朝日新聞に迎えられた。

 釜山滞在中に結婚したが、一年後には妻と死別、東京に戻ってからは、弟二人、妹一人を引き取って生活していた。桃水は代表作である「胡砂吹く風」など、朝日新聞に作品を連載し、作家としての活動は大正前半まで続く。作品は通俗性の強いものが多く、現在文学的価値が高く認められているとは言い難い。

 先に述べた通り、一葉は野々宮菊子の紹介で、はじめて桃水と直接顔を合わせた。その初対面の印象を、明治二四年(一八九一)四月一五日の日記に次のように記している。
「君はとしの頃、卅斗(さんじゆうばかり)にやおすらん(中略)色と白く面(おも)ておだやかに少し笑(え)み給(たま)へるさま誠に三歳の童子(どうし)もなつくべくこそ覚(おぼ)ゆれ、丈けハ世の人にすぐれて高く肉豊かにこえ給へばまことに見上る様(よう)になん」
 確かに、残されている写真を見ても、桃水はなかなかの美男子である。
半井桃水写真
 一葉の日記の続きによれば、桃水は一葉が小説を書こうとしている理由は野々宮菊子から聞いていて、さぞかしお辛いことでしょうがしばらくの間はご辛抱なさることです、と語ったという。さらに、自分は師というほどの能力はありませんが、話し相手ならいつでもなりましょう、遠慮なくいらっしゃいと優しい言葉をかけた。これには、一葉も「限りなく嬉しきにもまづ涙こぼれぬ」と感激している。

 一方、桃水はその時のことを、後に次のように書いている。
「遠慮がちな低声で誰やら音訪(と)う者がありました、執次(とりつぎ)に出た妹に伴(ともな)はれて玄関からしづ乀と上がって来たのが、樋口一夏子さん、(中略)袷(あわせ)を着て居られましたが縞(しま)がらと言ひ色合いと言ひ、非常に年寄りめいて帯も夫(それ)に適当な好み、頭の銀杏返(いちょうがえ)しも余り濃くない地毛ばかりで小さく根下(ねさが)りに結った上、飾りというものが更(さら)にないから大層淋(たいそうさび)しく見えました」
(「一葉女子」)
「自分は小説を書いてみたい、ぜひ書かせてくれ」と申し込んできた一葉に対して、桃水ははじめ反対した。男でさえ小説を書く時は道楽者のように世間から思われる。いわんや婦人の身で種々の非難を受けるのはずいぶん苦しいことだろう。身体も強くはなさそうだし、ほかの職業を探すようにと、言葉を尽くして諫めた。

 しかし、一葉は「針仕事ぐらいでは母と妹を充分に養う事も出来ません。どんな批評も甘んじて受けるから、どうしてもやってみたい」と、決意のほどを表明している。

 この日も一葉は桃水の家で夕飯を御馳走になった。外は暗くなり、雨も降って来たので、桃水は人力車を呼んで、一葉を自宅まで送らせている。一九歳で女戸主(おんなこしゅ)になり、これからどうやって家族を養っていこうか不安でたまらない、精神的に孤独な一葉にとって、桃水の優しさは心に染み入るものがあったのだろう。それは、父のようでもあり、兄のようでもあり、頼れる存在として、一葉は桃水と出会った。桃水は一葉に小説の指導をはじめ、以降、一葉は頻繫に桃水のもとを訪れるようになる。そしてそれは、翌年の六月、二人の関係に一葉自身が終止符を打つまで続くのであった。

桃水の小説指導と一葉の初期作品

 桃水は「我は名誉の為著者するにあらず、弟妹父母に衣食させんが故他(ゆえなり)」と一葉に語っている。そして、新聞小説は大衆的でなければならないと言った。彼女は、芸術のためではなく、自分たちが食べていくために、読者が喜びそうな小説を書いていた、ということになる。もともと母と妹を養うために小説家を目指した一葉にとって、志は同じはずであった。

 桃水は新聞に小説を売るには「奸臣賊子(かんしんぞくし)の伝や奸婦淫女(かんぷいんじょ)の話」を書かなければだめだと一葉に語っている。そして、一葉が見せた習作に対しては、まず、もう少し俗調に、と指導した。一葉の小説は他の文を雅文(がぶん)、会話は俗文で書く雅俗折衷体(がぞくせっちゅうたい)である。それは一葉が萩の舎で学んできた王朝文学の流れを汲(く)む文語体が中心で、当時の一般の人々にとっても、親しみやすい文章とは言えなかった。

 とにかく、こうして一葉は小説家としての道に、一歩足を踏み出した。この年は、しばしば上野の東京図書館に通って、自分で小説の勉強もしているし、習作も数編書き上げている。

 少し話はそれるが、この年の八月八日の日記は、東京図書館を利用していた様子をよく伝えている。
 ここには婦人室という女性専用の閲覧所があって、一葉は落ち着いて本を読むことができた。その日は一日中本を読み、夕暮れ時に汗を拭いながら本郷の家へと急いだ。家に着くと、くにが夕食の支度をしている。そして、「いざ帯とけよ 衣ぬげよ あつかりし成(なる)くべし つかれつらめ 湯もわきてあればあびてこよ」と、一葉に労(ねぎら)いの言葉をかけた。このくにの台詞には、一葉が樋口家の戸主であったことがよく表れている。戸主に課せられた義務は大きかったが、同時に与えられた特権も大きかったのだ。

 さて、一葉の小説家修業に話を戻そう。彼女は、同年の秋頃から「一葉」というペンネームを使うようになった。この名前にはどんな思いが込められていたのだろうか。実は、達磨(ダルマ)が乗ってきたという葦の葉のことだという。「お銭(あし)がない」という洒落(しゃれ)だ。一葉は女戸主という重圧に苦しみながらも、わが身の貧しさを自らユーモアをもって語る余裕をも併せ持っていたのである。

 翌年の明治二五年(一八九二)二月四日、雪の日。一葉は平河町の「隠れ家」(桃水が仕事の為に借りていた家)を訪ね、そこで桃水から同人誌『武蔵野』創刊の計画を聞かされる。桃水は、作家志望の若者たちが作品を掲載できる雑誌にしたいと説明し、そのために作品を一つ、二月一五日まで仕上げるよう一葉に話した。

 一葉の日記によれば、彼女は同年の一月二七日から一つの作品を書き始めていた。一葉はこの草稿を持って、その日、桃水を訪ねたのだ。彼女は二月一〇日ごろから本格的な執筆にとりかかり、一三日には徹夜をして、一四日の夜までに書き上げ、翌日桃水に原稿を手渡した。この作品は桃水によって添削され、同年三月二三日に創刊された『武蔵野』第一篇に、樋口一葉作として掲載された。これが一葉の処女作「闇桜」である。

『武蔵野』の発行に際しては、一葉も企画や編集に参加し、第二篇、第三篇では表紙の題字まで書いている。一冊一四〇ページ前後で定価一〇銭であった。

 第一篇は三月二三日、第二篇は四月一七日、第三編は七月二三日に出て、一葉は第二篇に「たま襷(だすき)」、第三篇に「五月雨(さみだれ)」を書いた。しかし雑誌の売れ行きは減退し、桃水の多忙もあって、三号までで終わってしまった。

 また、第一篇創刊の直後、桃水は『改進新聞』を一葉に紹介し、一葉は三月末か四月のはじめ頃から一五回連載で、同紙に『別れ霜』を寄せている。ただしこの時のペンネームは浅香のぬま子であった。

 ここで、これからの一葉最初期の作品のあらすじを見てみよう。
「闇桜」の主人公、お隣同士に住む良之助と千代は、幼い時から兄弟のように仲が良かった。ある日、縁日で仲良くしているところを千代の学友たちにからかわれる。以来、千代は良之助への想いを意識して恥ずかしさの余り会えなくなってしまう。ついには病に臥(ふ)し、良之助に見舞われるが、命はその夜限りとみえた。

「たま欅(だすき=意「けやき」)では、両親と死に別れ、維新後に一人虚しく生きている旗本の娘が登場する。娘を世話してくれている家臣から愛され、ほかの青年との板挟みに苦しんで、死を決意する。

「五月雨」は、深窓の令嬢と、その乳姉妹である仲の良い娘が、同じ男に恋をする。二人の前から姿を消した男は雲水になっていた。
「別れ霜」は、元許婚同士だった。呉服屋の本家の息子と分家の娘の悲劇の話だ。分家の策略によって没落させられた本家の息子が車夫として働いていたところ、たまたま娘と再会し、二人は心中を図る。娘は助けられて生きながえられるが、七年後に男の後を追って死んでの旅に出る。

 この通り、新聞に連載された「別れの霜」以外は、王朝物語的色彩が強く、どこか現実離れした夢物語のような小説である。この初期の四作品の結末は、三作が死、残る一作も出家と、展開としてはいささか安易である。

 また、この四作品は、いずれも悲恋がテーマになっている。そして、良家の子女が多く登場し、彼女たちは早く親を亡くしたり、没落したりしている。そこに一葉自身の生い立ちや実際の経験が深く関係していることは明白である。

「別れ霜」は話の展開も凝っていて、王朝物語的色彩からも脱している。当時の世相を反映して東京の街を人力車が駆け回るシーンを挿入するなど、読者の期待に応えようという努力も見受けられる。新聞小説という媒体の特性を知り尽くした桃水の指導が功を奏した結果だろう。

 ここで、人力車について、捕捉しておきたい。維新後、士族はまともな職を失い没落する者が多かったが、彼らが最後に就いた職業の代表が、車夫であった。そしてそれは、賃金のもっとも安い最下級の職業の一つであった。

 実際、かつて江戸に出てきたばかりのたきが乳母奉公に入っていた稲葉家は、維新後に没落していた。その家の跡取り娘お鉱(こう)に婿入りした寛(ひろし)は、様々な仕事に失敗して最後には車夫になっている。

 一葉にとって乳姉妹であったお鉱は、没落後も樋口家の女たちと付き合いがあった。そのため一葉は旗本の姫君であった彼女が落ちぶれていく様子と、その夫が車夫にまで身を落としていく経緯を、身近で見て、知っていたのである。

 以降、一葉の作品の中では、車夫は没落の象徴として度々登場することになる。たとえば「十三人夜」では、主人公お関がかつて思いを寄せていた煙草屋の若旦那録之助が、後に落ちぶれて車夫になって現れる物語になっている。

「雪の日」の思い出

 桃水の平河町の借家で『武蔵野』創刊の話を聞いた明治二五年(一八九二)二月四日、この日は彼女にとって生涯忘れられない一日になった。後に日記にも「かの雪の日」と何度も登場し、そのたびに一葉は桃水との淡い恋の思い出を反芻(はんすう)することになるのだ。
 この雪の日について一葉は、日記に何があったのか詳しく書き残している。それは詩情あふれ、短い小説のような趣すら感じさせる、一葉の日記の中でも大変有名な一節である。日記をもとに、その一日を追って見ることにしよう。

 その日、朝から空模様が悪く、一〇時頃より霙(みぞれ)まじりの雨が降り出す中を一葉は家を出た。やがい雨は雪に変わった。
「真砂町(まさごちょう)のあたりより綿をちぎりたる様に大きなかなるもこまなるも小止(おやみ)なくなりぬ」

 途中人力車をひろって桃水のもとへと向かう。九段坂を上る頃には道が白く見えはじめた。桃水の家に着いたのは一二時を少し過ぎた頃だった。
 訪れてはみたものの、誰もいない。留守かと思って、しばらく上がりかまちに腰掛けて待つことにした。

「雪はたヾ投ぐる様にふるに風さへそひて格子の隙より吹入るヾ寒さもさむし」
 寒さに耐えかねた一葉は、障子を細めに開けて二畳間に上がる。唐紙(からかみ)一枚向こう側は桃水の居間だ。開けてみようかと逡巡するが、思い切ることが出来ない。耳をそばだてみると、桃水がまだ眠っているのがわかった。いびきの声がかすかに聞こえて来る。

 時計が一時を打つ、心細くなって、咳などしてみると、桃水は目覚めたのか、跳ね起きる音がしてやがて襖が開かれた。
 昨日は歌舞伎に行って午前一時に戻ってから原稿を書いていたのでと、桃水は説明する。どうして起こしてくれなかったの、遠慮が過ぎるよと笑いながら、彼は雨戸を開けた。

 桃水は部屋に一葉を迎い入れるために、顔を洗い、火を起こし、湯を沸かすなど、忙しく立ち振る舞う。一葉は、そんな桃水と部屋の様子を事細かく描写している。
「枕元にかぶき座番付さては紙入れなど取り散らかしあるに紋付の羽織糸織の小袖など床の間に釘に吊るしてあろうがわしさも又極まれり」(枕もとには歌舞伎の番付、さらに財布などが散らかっていて、紋付の羽織、糸織などが床の間の釘に吊るしてあるなど、大変な散らかりようだ)

 一段落したところで、例の『武蔵野』の創刊の話が桃水から出る。そして、一回、二回は原稿料を出せないけれど、少し売れるようになったらまずあなたに支払いましょうと桃水は言った。そこで一葉は、「闇桜」の草稿を持ってきたことを話す。

 やがて、桃水は隣の家へ鍋を借りに行った。
「とし若き女房の半井様お客様か お楽しみなるべし 御浦山(おうらやま)しうなどいふ声垣根一重(かきねひとえ)のあなたなればいとよく聞こゆ イヤ別してもあらずなどいふはうし也 先頃仰(おお)せられしあのおかたと問(と)はれて左(さ)なりといひたるまヽかけ出して帰り来(た)まへり」
(年若い女房の「半井様お客様ですか。お楽しみのことでしょう。羨ましいです」などという声が、垣根一重の向こう側なのでよく聞こえる。「いや、別に楽しみではありませんよ」と言うのは先生だ。「いつか言っていたあの方ですか」と問われて、「そうです」と言ってすぐに駆け出して帰ってこられた)

 桃水を冷やかす女房と桃水のやりとりが外から聞こえてくる。そして桃水は自慢の写真を見せたりもしている。
 一葉が暇(いとま)を請(こ)うと、ここで桃水は一葉を動揺させるような台詞を口にした。
「暇をこへば雪いや降りにふるを今宵(こよい)は電報を発してこヽに一宿(いっしゅく)し給えと切にこの給ふ」
 あわてた一葉は、そんなことをしたら母に叱られますと真顔で答える。すると桃水は笑って、自分は小田(親戚の家)に行って泊まって来るから、あなたが一人でここに泊まってもかまわないでしょうと言う。結局、一葉はこれを断って、人力車に乗った。

「白(はく)がい乀たる雪中(せっちゅう)りん乀たる寒気(かんき)ををかくして帰る」(一面真っ白くなった雪中を、凛々とした寒気ほを冒(おか)して帰る)
 吹きかかる雪に顔を向けられず、頭巾(ずきん)の上から肩かけをすっぽりとかぶって目だけを出した姿で菊坂の家へと向かう一葉。

「種々の感情むねにせまりて雪の日といふ小説一篇あまばやの腹稿(ふくこう)なる 家に帰りしは五時、母君妹女とのものがたりは多ければかかず」(様々な感情が胸に迫り、「雪の日」という小説を一篇書こうと、およその構想が浮かんできた。家に帰ったのは五時。母上や妹との話は多すぎるので、ここには書かないでおく)
 この日の日記はここで終わっている。

 この部分に限らないが、一葉は日記の執筆に、多少なりとも脚色や創作を加えていたと考えられる。ゆえに、日記に書かれていることを丸ごと事実ととらえるわけにはいかない。特にこの日の記述については、一日に体験したこと、目にした情景などを、胸の中で、いわば一つの作品として塗り替えていったのだろう。

 実際、この日について桃水は、次のように証言している。夜を徹して仕事をし、朝の九時に寝た。午後二時頃目を覚ましてふすまを開けると玄関に一葉が座っていた。慌しく座席を整えて話を聞くと、一葉は「なんだか可笑しく申出しかねますから今日はこのままお告別(おかれ)いたしませう」と言って、雪の小降りになった頃帰っていった。

 この通り、二人の話には大きな食い違いがある。どちらが真実かはもはや誰にもわからない。ただ一つ明らかなのは、一葉にとってこの雪の日は、桃水との思い出の中でも、もっとも心に残るものになったということだ。

 一葉は、誰もいない平河町の桃水の家で、ふすま一枚隔てた隣で眠っている桃水が起きるのを何時間もじっと待っていた。外は大雪、家の中は男女二人きり、この時間の流れの中で、一葉は桃水を男性としてはっきりと意識し、また彼を恋焦がれる気持ちが胸の隅々に広がっていったのだ。

 一葉はこの約一年後、『文学界』に『雪の日』を発表している。人妻である珠(たま)が、自らの駆け落ちの過去を後悔する、一人称による独白である。それは「かの雪の日」の体験をそのまま小説化したものではない。

 あの雪の日の帰り道に一葉が考えていた腹稿の時点では、もう少しその日の実体験に近いものだった可能性はある。しかし、その後明治二五年六月、一葉は自ら桃水と別れを決意する。二人の関係が短期間に変化する中で、小説「雪の日」は徐々に変容を重ねていったに違いない。
 そしていま一つ言えるのは、「かの雪の日」を体験して、一葉にとって「雪」は、恋を象徴する、特別なものになったということだ。だから小説「雪の日」における「雪」も、狂おしい恋心を表現する上で、一葉には欠かせない風景だったのである。

幻となった尾崎紅葉との出会い

 後世の人間の目から見れば、一葉の桃水への思いは、「かの雪の日」が一つの頂点であった。なぜならそれから僅か三ヶ月後、一葉は自ら桃水に絶縁を申し入れているからだ。その理由は、桃水と一葉の関係が彼女の周辺の人々の間でスキャンダルに発展してしまったことにあった。

 実は、桃水にまつわる悪い噂は、その前年である明治二四年九月二六日、すでに一葉の耳に届いていた。その出所となったのが野々宮菊子である。彼女はくにがかつていた裁縫学校の友人で、後に東京府高等女学校を卒業して小学校の教師になった女性だ。一葉とくにに対して、桃水は品行不良で信用できない男だと話している。

 野々宮菊子の桃水に関する噂話の中には、かなり具体的なものがあった。一葉が桃水と出会った頃から半井家に同居していた福井出身の鶴田たみ子という女性にまつわる話だ。彼女は桃水の妹幸子(こうこ)の学友で、半井家に寄宿して高等女子校に通っていたが、七月に桃水の平河町の「隠れ家」で女児を出産していた。野々宮菊子はくにに、その父親は桃水ではないかと告げていたのだ。

 一葉はさっそく桃水に手紙を書き、一〇月三〇日には、直接会って彼から釈明を聞いた。
「君と我とは長火桶(ながひおけ)ひとつ隔てヽ相対座(あいたいざ)しぬ 例のこやかに打笑(うちえ)ミつヽへ寄給(よりたま)へなどの給ふ 七歳にして席を同じうせざるなん行(おこな)ひがたる業(わざ)ながらかう人気(ひとけ)なき所に後ろめたうも有る事よと思うにひやヽかなる汗の流るヽ心地す」

 一葉の複雑なときめきと緊張感が伝わってくる。この後の記述よると、鶴田たみ子の相手は桃水の弟・浩であり、桃水は野々宮菊子に詳しく話しておいたと語ったという。

 実際のところ、その女児の父親は浩であった。子を産んだたみ子はすぐに郷里に帰っている(後にこの子供は桃水が東京に引き取って扶養した)。

 桃水の言うとおりであれば、野々宮菊子は故意に桃水の伝言を翻したことになる。彼女はもともと桃水と引き合わせた人物であったが、こうして桃水から一葉を遠ざけるきっかけも作った。野々宮菊子も桃水を慕っていたらしく、一葉が桃水と親しくなってくると、二人を引き離しにかかったのだ。野々宮菊子から先に話を聞いていた一葉には、桃水の釈明も言い訳がましく聞こえたようで、彼女は生涯この噂を信じていたという。

 それでも一葉は、この時点ではその噂は自分の胸にしまい込み、桃水との小説修業と交際を止めようとしなかった。そして「かの雪の日」を経て、「闇桜」の執筆、同人誌『武蔵野』の創刊へと続いていくのである。

 桃水と一葉の関係はその間も続いた。桃水が樋口家を訪れることもあって、母たき、妹くにも、直接会っている。一葉の日記によれば、たきは桃水を、とても美男子だ、亡き泉太郎にも似て温厚そうだと言っている。しかしくにの方は、野々宮菊子から桃水に関する悪い噂をいろいろ聞いていたので、彼のことは快く思っていなかった。

 そんな妹の心配をよそに、一葉と桃水の仲は、着実に近づいていた。この頃になると一葉は桃水に借金を申し入れ、桃水もこれに応えている。

 明治二五年春、小説家としてデビューを果たした一葉だったが、まだまだ原稿料を手にできる段階ではなかった。暮らし向きに大きな変化はなかったが、五月五日には、同じ本郷菊坂町内で引っ越しをしている。

 一葉が桃水との絶交を考え始めるのは、その間もなく後、五月二二日のことである。この原因を作ったのもまた、野々宮菊子であった。前日、樋口家を訪れた彼女はその晩そこに泊まり、一葉と一一時頃まで話をした。
「野々宮君と種々(しゅしゅ)」ものがたる。野々宮菊子が何を語ったのかは書かれていないのでわからない。
 一葉は、まだ桃水のもとを訪れることを止めなかった。六月七日も彼に会いに行っている。そこで一葉は、尾崎紅葉に引き合わせるという話を、桃水から聞かされるのだ。
 
 娯楽性の強い絵入りの新聞小説は一葉には無理なので、紅葉に会わせるから彼によって読売などに執筆できるようになったら良いだろう、委細は瑞嶋(『武蔵野』の同人の一人)に頼んであるので、二、三日中に会うようにと、桃水は一葉に語った。

 尾崎紅葉は明治二二年「二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)で人気を博し、読売新聞に連載した「伽羅枕(きゃらまくら)」「三人妻」と次々と作品を発表、立て続けに評判を取り、随一の花形作家として世に知られていた。その心理描写も文章表現も、桃水とは比較にならないほど優れた文学性を持っていた作家である。一葉は「二人比丘色懺悔」も「三人妻」も読んでおり、彼女にとって、幸田露伴と並び、もっとも注目している作家の一人であった。

 一葉は桃水に感謝し、この時点では紅葉に会えるということで、期待と不安に胸をふくらませている。そして話は、紅葉側が一葉に会うことを承諾したところまで進んだ。
 ところがこの計画は、その直後に一葉が桃水との絶縁を決意したことによって、果たされずに終わってしまうのだ。もしもこの出会いが実現していたなら、一葉は紅葉から何を学んでいたであろうか。その後の一葉の作品にはどんな影響を与えたであろうか。想像は広がるばかりである。

桃水との絶交を決めた日

 さて、野々宮菊子から桃水の噂話を聞いてからというもの、一葉の心は揺れ動いていた。そんな彼女に桃水との絶交を決意させたのは、実は萩の舎で
の人々だった。

 六月に入って、中島歌子の母親が病気で亡くなっている。一二日に法事があり、その席に中島歌子以下、萩の舎の門下生たちが大勢集まった。すでにその頃には、一葉と桃水のことは萩の舎中に知れ渡っていたのである。もともと桃水に関して悪い評判ばかり聞いていた一葉の親友伊藤夏子は、舎中において一葉の評判までもが汚されいくことに堪えかねて、一葉に桃水の師弟関係は断つように忠告した。

 伊藤夏子がここまで言わざるを得なかったのは、すでに舎中で一葉と桃水のことがただの噂話というよりは醜聞(しゅうぶん)の域に達していたからだ。これを肌身で感じた一葉は、その二日後、師である中島歌子に自ら相談している。

 この時一葉は師匠に、その半井という人と結婚の約束をしているのか、と聞かれ、言葉を失っている。そして日記には「我いさヽかもさる心にあるならず」と書き、「師の君までまさなき事の給ふ哉(かな)と口惜しきまでに打恨(うちうら)めば」(師の君は中島歌子のこと)とその時の気持ちを表現している。

 そして中島歌子は「実はその半井といふ人君(ひときみ)のことを世に公に妻也(つまなり)といふらすよしさる人より我も聞ぬ」と言って、一葉を驚愕させた。時代は明治である。士族の娘としとて慕っていても、こうした発言は彼女にとって決して喜ばしいものではなかったのだ。中島歌子は一葉に半井との別れを勧めた。

 師の教えに従って、明くる日一葉は桃水を訪れ、萩の舎の手伝いを口実に、今後訪ねることは難しくなったと言っている。そしてこの日、尾崎紅葉との面談についても自ら断ってしまったのである。

 一葉は桃水に完全に絶交を申し入れたのは、その後日、六月二二日のことである。結局彼女は再び桃水のもとを訪れ、自分たちが世間の噂になってしまった、だからもう会わないことにしたなど、切々と語っている。この日の出来事は、日記に詳細に綴られた。それによれば、一葉は桃水に次のように語っている。

「実は我がかく常に参り通うこといかにしてもれにもけん 親しき友などいへば更に師の耳にもいつしかいりて疑はるヽ処かは君様と我れまさしく事ありと誰も乀信じめる(中略) 我君のもとに参り通ふ限りは人の口をふさぐこと難かるべし、依りて今しばしのほど御目にもかヽらじ御声も聞じとぞおもふ」

 対する桃水は「さりながら我は今更に驚きはせずかヽる事いわれんとはかねて覚悟なり」と語り、「我は御前様よかれとてこそ身をも盡(つく)すなれ 御一身の御都合よき様が我にも本望也 今よりは可成吾(なるべくわが)家にお出あるな」とさらりと受け止め、一葉をなだめている。

 日記によれば、桃水はどこまでも優しく、一葉が帰ろうとすると、今日はお別れの日で、またいつか一緒にお茶を飲むこともあるかもしれませんが、それもあてにできないので、もう少し、もう少しだけ、と一葉を引き止めたという。

 やがてくにが迎えに来て、一葉はようやく家路についた。そして日記には「哀に悲しく涙さへこぼれぬ 我ながら心よはしや」と書き記した。こうして二〇歳の一葉は、短く熱い恋に自ら終わりを告げようとしたのである。

 一葉の桃水に対する真意はどこにあったのだろうか。一葉は本当に桃水と結婚したいとは考えてはいなかったのか。伊藤夏子は「好きは好きだったかもしれませんけども、あの人の奥さんになりたいとは思っておりませんでした」(『一葉の憶ひ出』)と語っている。

 仮に二人が思い合っていたとしても、結婚となると確かに障害があった。第一に、二人とも戸主だったことだ。女戸主である一葉は、結婚するには婿をとるか、樋口の家名を捨てて外に出るしかなかった。桃水は戸主であり、弟や妹を養っている身であった。彼が家を捨てて婿に入るとは考えにくい。それは一葉とて、同じである。

 一葉自身についても、日記を辿れば桃水を慕っている表現はいくらでも読み取られるが、結婚に結び付くような確かな表現は見当たらない。おそらく、彼女は桃水との結婚は考えていなかったのだろう。

開かれた職業作家への扉

 明治二五年五月一六日、つきり、一葉が中島歌子に勧められた通り、萩の舎の手伝いを口実に、桃水にもう会えないと話しに行った翌日のことであった。この日、萩の舎の先輩にして、すでに小説家として作品を世に出していた田辺花圃が一葉のもとを訪れ、自分も作品を発表している『都の花』に執筆してはどうかと勧められている。

『都の花』は日本最初の商業文芸誌である。明治二一年に「夏木立(なつこだち)」で大成功を納めた山田美妙(びみょう)が実質的編集の中枢にあって企画・制作されていた雑誌で、七〇ページ、定価一〇銭だった。

 山田美妙は、明治一八年に尾崎紅葉らと文学結社「硯友社(けんゆうしゃ)」を結成した詩人、小説家として、評論家、編集者であったが、『都の花』に迎えられ、口語体小説を積極的に取り入れるなど斬新な企画で、同誌を当時の一流雑誌に仕立て上げた。

 幸田露伴「露団々」、尾崎紅葉「二人の女房」、田山花袋(たやまかたい)「新桜川」など、いずれも同誌に掲載されたものだ。一葉が『都の花』への執筆を喜ばないはずはなかった。彼女はその後桃水と決別し、花圃を頼りに小説を書き続ける事を心に決める。そして、そこに掲載するための作品執筆を全力で傾けたのである。

 こうして完成したのが、薩摩焼陶器の絵師を主人公にした「うもれ木」である。一葉はこの作品を執筆するために、次兄虎之助に取材したり、図書館に足を運んで陶器の専門知識を調べたりしている。そして、九月一五日に書き上げられた「うもれ木」は『都の花』に、一一月二〇日発行の九五号から三号続けて掲載された。

「うもれ木」のあらすじは、次の通りだ。主人公の入江籟三(いりえらいぞう)は妻子なく、妹のお蝶と二人暮らし。あくまでも芸術性を重んじて片意地を張りながら、貧乏生活を甘んじて送っていた。ある時籟三のかつての相弟子の篠原がやってきて、金のために入江兄妹を騙す。それがきっかけでお蝶は自ら命を絶つことになり、籟三はやっと完成した傑作を叩き割る。

 幸田露伴の名作「風流仏(ふうりゆうぶつ)」の影響が窺われるこの作品は、それまでの一葉にしては珍しく、男性を主人公にした力強い作風に仕上げられた。

 さて、当時無名であった女流作家「樋口一葉」のこの作品を読み、大いにひきつけられた人物がいた。その頃、星野天地とともに新雑誌『文芸界』の創刊準備にとりかかっていた平山禿木(とくぼく)である。

 禿木は「うもれ木」を読んで「異才り」と天知に伝える。天知は「うもれ木」に対して、「筆は着想の凡ならざると共に鋭く」「人をして婦人の作なるを疑はしるものである」と評価した。そして二人は、『文学界』に一葉を招き入れることを計画し、これがやがて実現するのである。

 つまり「うもれ木」の発表こそが、一葉に本格的な職業作家への扉を開いたのであった。もともと一葉は作家として立ちたいために、自ら桃水を頼った。その道は途中で絶たざるを得なくなり、一度は作品発表の術を失いかけて、彼女は落胆する。しかし、桃水との決別があったからこそ、一葉の作家としての前途は開けたのである。

 一葉は「うもれ木」の執筆により、一〇月二一日に原稿料一一円七五銭を受け取っている。さらにこの年の一一月か一二月には『都の花』一〇一号のために「暁月夜」を書き上げ、一二月八日に原稿料一一円四〇銭を受け取った。

 この時一葉は、かつてたきが乳母をしていた。元維新後にすっかり零落した生活を送っている稲葉鉱の家を訪ね、歳暮としていくらかのお金を渡している。そして一葉は日記に、そのお鉱の様子を「昔は三千石のお姫と呼ばれて白き肌に綾羅(りょうら)を断(た)たざりし人の髪は唯(ただ)かれのヽ薄(すすき)の様にていつ取あげん油気もあらず」(昔は三千石の姫君と呼ばれていつも白い肌に綾羅を着ていた人が、髪はただ枯れ野の薄のゆうで、いつ結い上げたのか油気もない)と記した。

 お鉱は、樋口家以上に高低差の激しい生活を味わざるを得なかった没落士族として、人生の栄枯盛衰の空しさと厳しさを、身近にある現実として、常に具体的に一葉に感じさせていた。そうした意味において、稲葉家、特にお鉱の存在が一葉の作風に与えた影響は計り知れない。

 ところで、「暁月夜」の原稿料を計算すると、一枚につき二五銭~三〇銭ほどで、これは当時の人力車夫の日当に相当する。一〇円あれば、樋口家はなんとか一ヶ月暮らすことができた。もしも毎月必ず一作ずつの依頼があり、またきちんと一作ずつ仕上げられれば、一葉は一家を養うことが出来たかもしれない。しかし、樋口家には借金もあり、また、士族としての体面を保つために倹約しきれない出費もあった。一葉が作家としてデビューしても、樋口家の家計が苦しいことには変わりはなかった。

 自ら語っていた通り、桃水の小説は大衆に迎合したものであった。一葉は、その枠を離れる事によって、さらにその後の『文学界』の同人たちと交流することによって、己の文学性を新たに練り上げていくことになる。ヽ

 口では金のために小説を目指すと言っていた一葉であったが、本来彼女は作品の中に芸術性を求めないではいられず、桃水の指導を受けながらも、心の奥には常に悶々としたものを抱いていた。そんな一葉の迷いは、明治二五年の早春に書かれたと考えられる随筆にも表れている。

「衣食の為になすといへど雨露しのぐ為に業といへど拙(せつ)なるものは誰が目にも拙とミゆらん」そして、私も小説家である以上は、ありふれた作者の作品のように「一(ひと)たび読ミされば屑籠に投げいらるヽものハ得かくまじ」。

 残念なことに、桃水にはそんな一葉の思い受け止めて開花させるまでの力はなかつた。だが、一葉に小説の基本形とその体裁を整えることを教えたのは、紛れもなく桃水である。その点で、小説家樋口一葉の誕生に桃水が成した功績は大きい。彼の指導なくしては、一葉が一人でここまで歩んでくることはできなかっただろう。

 さて、一葉と桃水の関係だが、実は完全に絶交したわけではなかった。一一月一一日には、去る七月に神田三崎町に転居した桃水を、一葉は約五カ月ぶりに訪ねている。桃水はここで新たに葉茶屋を開店していた。

 この日、『都の花』に小説が掲載されたことを報告に行った一葉を、桃水は笑顔で迎えた。彼は、何か自分に話がある時は、裏通りが人目につき難いのでそちらからいらっしゃいと一葉に言っている。
 また、一二月七日には、桃水の依頼により彼の「胡砂吹く風」に、一葉は和歌を一首寄せた。
 そしてこの年の大晦日、一二月三一日の一葉の日記は、桃水のことで終わっている。
 大掃除を終えた一葉とくには、一緒に下町に出かけ、買物等をしている。神田三崎町の桃水の店の前を通り、一葉は店先を眺め、次のような情景を目にする。
「年わかき女の美くしく髪などをかざりて下女にてハ有るまじき振舞ハ大方大人(おおかたうし)が妻君(さいくん)なるべし国子のかたる」(大人は桃水のこと)

 その女性は実は桃水の従姉妹だったのだが、そんなことは思いもよらない一葉は、日記の中で、大阪の富豪の娘が桃水にご執心だと聞いていたが持参金でも持って嫁に来たのではないかと憶測している。こんな店を元手なしにできることはできないので、お金の出所がどこかにあるに決まっていると。

 そして、世の中とはこんなに金がものを言うものかと、ため息をついている。一葉の桃水への想いは、完全に消え去ることはなかった。

消えることのなかった桃水への想い

 年が明けて明治二六年二月二三日の晩、思いがけず、桃水が樋口家にやってきた。「胡砂吹く風」の単行本ができあがり、そこには一葉が寄せた短歌も掲載されているので、お礼方々、本を届けに来たのである。
 戸を叩き音を聞き、誰だろうと玄関に向かった一葉の、やって来たのは桃水だと知った時の喜びと興奮は大変なものであった。
「其人なりと聞くまヽに胸はたヾ大波のうつらん様に成ておもひがけずたヾ夢とのミあきれにけり 立出て門のと開けば例のもの静かに立入る姿うれしなどはしばしばし心地さだまりての後こそ 何事も靄(もや)の中にさまよふ様なり」

 一葉の胸はもう大波が打ったようで、ただ夢のようだと驚いている。しばらくして気持ちが落ち着くまでは、嬉しいということさえわからなかった、すべては靄の中をさまよっているようだと、その動揺を表現している。

 彼女は桃水との絶交を決意してからというもの、寝ても覚めても桃水のことが頭から離れず、互いに許されない間柄とは知りながら、せめて人づてに様子だけでも聞ければと思っていた、と日記に記している。

 さらに一葉は、桃水来訪の記述に続いて、「胡砂吹く風」について自分なりの評論を日記上で繰り広げる。これほど思慕している師匠の作であれば、ただひたすら素晴らしいと評価しがちなものだが、その点、一葉は違っていた。

「桃水うしもとより文章粗(そ)にして華麗と幽棲(ゆうせい)とをかき給へり 又ミづからも文に勉(つと)むる所なくひたすら趣向意匠(しゅこういしょう)をのミ尊び給ふと見えたり」

 一葉は、桃水の文章を、粗く、華やかな美しさや世間を離れた静かを欠いている、ご自身文章に力を入れることはなく、ひたすら筋立てや構成のみを重んじているように見えると言っているのだ。

 さらに、それぞれの登場人物について十分に表現されていて、読み進むにつれて喜びべきところは本当に喜ばしく、悲しい所は本当に涙がこぼれるが、それは作中の人物が活動しているのからではなく、自分の心の奥深くにある何かが自分にそう感じさせているのだろうと、非常に冷静な評価を下している。

 その上で、一葉は「胡砂吹く風」について、「とまれ完美の作はあらざるべし」(ともかくこの作品は素晴らしく完成した作品とは言えない)と結論づけている。

 この日記の記述から、一葉はこの頃、作家としての桃水の才能はさして評価していなかったことがわかる。彼女は絶交によって、表面上桃水のもとから離れたようにしたわけだが、創作活動の面においては、すでに彼の手の内から飛び立っていたのである。

 こうして、一葉にとって桃水は小説の師という意味合いは薄れ、ひたすら思いを寄せる忍ぶ恋の対象となっていく。そして、やはり一葉は桃水と会うことを完全に止めることはできなかった。

 それから約二カ月後の四月一五日、一葉は『都の花』の編集者藤本藤蔭から、桃水の近況を聞き出している。それによると、桃水は内腿にできた腫れ物が酷くなって、本郷の親戚の家で療養しているという。

 一葉は居ても立っても居られなくなって、たきに一度だけいいからお見舞いに行かせてほしいと、許可を求めた。
 結局許可は下りず、「身にあやまちすべきわれにもあらぬをなどかうはつらうの給はすらん」(過ちを犯すような私でないのに、なぜこうも辛い言い方をするのだろうか)と、落胆している。

 しかし、一葉は思いを止められない。その一週間後、母親に内緒で、知っている人に会わないようにと祈りながら、こっそり桃水を見舞いに行った。
 日記によれば、わりと気分が良かった桃水は一葉を喜んで迎い入れ、床から起き上がってしばらく話をしている。そして、なんでも良いから歌を一、二首短冊に書いていってほしいと一葉に頼んでいる。
 一葉は戸惑いながらも筆を取り、二首ばかり書いた。
 その出来を不満に思って、後日新たに書き直したものを持ってくると言う一葉に対して桃水は、「たれにも見することには侍(はべ)らず、朝夕にながめて身のたのしミ(以下のページは散逸)」(誰にも見せたりしません。朝夕にながめて、自分の楽しみ)と答えたことになっている。

 桃水の言葉の途中で日記は次のページから破られていた。おそらく、一葉自身が後に破り捨てたのであろう。
 一葉はその後、歌を書き直して、もう一度人目を忍んで桃水を見舞っている。このことも日記の断片に記録が残されているが、同じように、書き出し部分が失われている。

 一葉はその日、桃水が奥様をもらわれたとある人から聞いたと言い、桃水に事の真相を確かめている。彼はこれを否定し、一葉はどうしているか、くには結婚しないのか、あなたは頭痛があると聞いているが大事にしなさいとか、相変わらず優しい言葉を次々とかけている。
「我ながら心よはしや今日を置きてまたの逢日もはかられなくに」(我ながら心が弱いと思うことよ。今日をおいて、またいつ逢える日が来るかわからないのに)
 一葉は、心に思っていた半分も、桃水を前にすると口にできないのであった。

一年にわたる桃水との断絶を経て

 その後、明治二六年四月に病気療養していた桃水を見舞って以降、日記で見る限り、一葉は一年近く桃水に会わずに過ごしている。
 明治二六年七月五日の日記に一葉は、「恋ハ」という二文字を書いてわざわざ改行し、自分の恋愛観を書き記している。
 そこで彼女は、心をふっと引かれる恋、相手に会いたいと願い続ける恋などは、まだまだ浅い恋に過ぎない。そのもっと奥に或るものは、「みぐるしくにくヽうくつらく浅ましく、悲しく、しかなしくさびしぐ(ママ)恨ましく」(見苦しく、憎く、切なく、つらく、浅ましく、悲しく、寂しく、恨めしく)、一言で言えば、「厭(いと)ふ恋こそ恋の奥成けれ」(厭わしい恋こそが恋の極致だ)という結論を書きつけた。

 一葉は、桃水を思い続けるしかないと思うようになっていたのだ。そして実際に、桃水に会わない日々が続いた。
 この後、一葉は一度小説の道を諦め、荒物屋を経営して生計を立てることにして、一家で下谷区竜泉寺町に引っ越す。以降、彼女は度々桃水のことを思い返し、会えない淋しさを書き記したりもしているが、日記を見る限り桃水には会っていない。

 𠮷原と隣り合った龍泉寺町での荒物屋稼業は、一葉にとって”没落”を意味し、恥を感じさせるに十分な状況であった。彼女は伊藤夏子にさえ、絶対に来ないでほしいと頼んでいる。だから、一葉は、自分がそこで働いている姿を桃水に見られるのはいやだったのだ。

 おそらく、それまで断ち切ろうとしても断ち切れなかった桃水への想いを胸の内に押し留め、なんとか彼に会わずにすんだ最大の理由は、一葉の竜泉寺町転居にあったと思われる。実際問題として、店の開店当初は慣れない商売の準備や仕入れなど、恋に思いを馳せている暇などなかった。

 時は流れ、明治二七年三月二六日、それはすでに、樋口家が竜泉寺町で開店した荒物屋の経営に行き詰まっていた頃のことだが、一葉は久しぶりに桃水のもとを直接訪ねている。
 この時、彼女は改めて小説に取り組んでいこうと決心した直後であった。これにともない、店をたたんで引っ越しすることも考え始めていたのかもしれない。

「此人(このひと)の手あらば一(ひと)しほしかるべしと母君もの給へば也 年此(としごろ)のうき雲唯家(ぐもただや)のうちだけにはれて此人のもとを表だちてとはるヽ様に成ぬるうれしいも嬉し」
 たきも、これから一葉が小説を書くにあたって、桃水の助けがあればいっそう良いであろと言ってくれたと、日記に書かれている。

 ここ数年の浮き雲が、ただ家の中だけとはいえすっきり晴れ、あの人の元を表だって訪ねられるようになって、本当に嬉しいと、一葉はたいそう喜んでいる。やはり、母親が交際を認めてくれるかどうかは、娘にとって大問題だったのだ。

 あいにくこの日は桃水の体調が極めて悪く、一葉は挨拶した程度で帰っている。しかしその後、一葉と桃水の交流は再び復活し、二人は頻繫に連絡を取り合うようになるのだ。
 ただし、日記を丹念に追っていくと、一葉の桃水に対する気持ちが、以前とは微妙に異なるものになっていったことがわかる。

 たとえば、その四ヶ月後の七月一二日にも、一葉は桃水宅を訪れている。彼女はその日の日記で、桃水に絶交を申し入れてからというもの自分の心は常に変化し続けてきたと回想している。ある時はもう二度とこの人を思うまいと思い、ある時は無理に諦めようとしても無駄だと思ったと。そして一葉は言う。これからは、お互いに悟りの道を志して、兄と妹のように、潔白清浄な関係で一生を送っていきたい。
 それこそが、この時点での、一葉のささやかな願いであった。

最後に辿りついた二人の関係

 実はその直後、明治二七年七月後半頃から、一葉の本格的な作品執筆が始まるのだが、これに伴って、日記は滞るようになる。七月二三日を最後に、日記の執筆が再開されるまで、約八ヶ月以上も途切れるのだ。一時、一一月九日から五日間ほど書かれたこともあったが、その後はまた五カ月も飛んでしまう。

 これについては、その間には「やみ夜」「大つごもり」が書かれ、「たけくらべ」の連載が開始されており、小説の執筆に追われ、日記どころではなかっただろうと推測される。
 しかし一説には、その間も日記が書かれていたが、後に破棄されたのではないかと言われている。そして、日記が欠けている間に、再び連絡を取り合うようになった一葉と桃水の間に何かがあり、それについて詳しい記載があったのではないか、とも考えられるのだ。もちろんこれは推測にすぎず、日記を読む限りは、二人の間は一線を越えることはなかったと捉えられるしかない。

 当の桃水は、一葉の日記が公表された後に、二人の関係について周囲から詮索されて、止むに止まれず自ら声明を発表している。その時彼が何を語ったかについては、本書の最後で明らかにしたい。

 さて、桃水のことが書かれた日記文で、その後注目すべきは、明治二八年六月三日だ。すでに、少しずつ作家としての一葉の家を訪れ、本人の他、その妹幸子、弟浩の娘千代らと、団欒の一時を過ごしている。

 この千代というのは浩が鶴田たみ子に産ませ、その後桃水が引き取って育てた子供で、一葉が桃水の本当の子であると思い込んでいた、あの娘である。その子ももう、四歳になっていた。
「鶴田ぬしがはらにまうけし千代と呼べるがことしハ五つに成しがいとよく我れに馴れて離き風情まことの母とや思ひ違へたる哀れ探し」
 一葉は、千代の相手をしながら、もし自分がこの娘の本当の母親であったとしたらと、ふと考えてしまったことだろう。

 この日、一葉は半井家で、鮨や果物でもてなされた。桃水も元気で美しく、機嫌もたいそう良かった。「四年ぶりにて半井ぬしが誠の笑がほを見るやうなるが嬉しく打くもりたる心のはれる様也」、「たヾ誠の兄君伯父君などのやうにおばゆ」と、日記に書いている。

 さらには、桃水があまりに気兼ねなく話してくるので、この人のおかげで自分は人生の苦しみを深く味わい、何度も悲しい涙をのんだ身であるのに、この人はそんなことも知らずに私をただの友達と思っているのでしょうかと、心の中で思ったりもしている。

 だが、一葉が四年にわたる苦闘の末に辿り着いた心境は次のようなものであった。
「今の我身に諸欲脱し盡(つく)して仮にも此人と共に人なみのおもしろき世を経んなどかけても思ハず はた又過(またすぎ)にしかのくやしさを呼おこして此人眼の前に死すとも涙もそヽがじの決心など大方うせたればたヾなつかしむつまじき友として過さんこそ願ハしけれ」(今の私はすべての欲望を捨て去っている。仮にもこの人と一緒になって世間なみのおもしろい人生を送ろうなどとは、まったく思っていない。かといって、昔うけた悔しさを思い起こして、この人が目の前で死んでも涙など流すものかと思った決心なども大方消え失せたし、これからはただ懐かしく仲睦まじい友として過ごしたいと願っている)

 仮に、日記が明らかにしていないところで二人の仲が深く進行し、一葉にとって狂おしい出来事や辛い出来事があったとしても、いずれにせよ、それらすべて乗り越えて、彼女はこの心境まで辿り着いたのである。一葉は桃水との絶交を誓って以降、ここに至るまでには、後述する通り、生活の苦労、社会や人生に対する絶望感などを十分に味わってきていた。

 言うまでもなく、それらは彼女を大人にした。そして一葉は桃水に対する想いを、自分の胸の中で、美しく理想的な愛情へと昇華させたのだ。
 以降、一葉が死ぬまで、二人の交流は続く。その後の日記に桃水は三回登場するが、もはや一葉が熱い視線を持って桃水を描いた箇所は一つもない。
つづく 第二章 縁のあった男たち
 渋谷三郎 一八六七~一九三一.判事、秋田県知事、山梨県知事、早稲田大学法学部長、東北興行長、報知新聞社副社長など、立身出世を極めた。一葉の元許婚。