「エレガントな人ね」だと思っている。
エレガントな女などそうそうはいないが、でもいる。少ないが、本当にいる。年齢や美醜にはあまり関係ない。エレガントな少女も確かにいるし、不美人なのにエレガンスが匂う女も確かにいる。
「エレガント」の定義は難しい。上品ならエレガントかと言うとそうでもないし、気配りができればエレガントかと言うとそれも違う。
ただ上品なだけや、ただ気配りができるだけだと、単に「面白くない女」にもなる。
「エレガンス」を広辞苑で引くと、「優雅、優美、典雅」と書かれている。
つまり、「がさつ」とか「粗野」と対極にある言葉だ。
考えてみれば、
「ブスな女」と言われるよりも、
「がさつな女」と言われる方が、
女にとっては悲しいのではなかろうか。「ブスだけどエレガントな女」は、「美人だけどがさつな女」に勝つ。これは絶対に勝つ。
ふと思いたって、「がさつ」を広辞苑で引いてみた。「言動が粗野で、ぞんざいなさま」と出ている。
「粗野」も引いてみた。「言動・挙動などのあらくて卑しいこと。露骨で礼儀を欠くこと」と出ている。
つまり、エレガントであるためには、言葉使いと行動。立ち振る舞いが粗野であってはならぬということだ。おそらく、「オバサンくさい」と言われる女たちの多くは、言葉使いと立ち振る舞いに問題があると気づかされる。
それについて、私は実体験しているだが、ある晩のことである。私が男友だちとカウンターバーにいると、中年の女が三人入って来た。そして、ボックスに座ると大声で店長に言った。
「ねえ、××ちゃん呼んでよ」
店長は静かに答えた。
「××ちゃんは本日、お休みをいただいております」
すると、女が大声で言った。
「ヤダァ!何それェ。 この二人に『××ちゃんってジャニーズ系だから、会わせたげる』って言って連れて来たのにィ。いいわ、じゃあ○○君、ここに来さして」
○○君とも一人のバーテンらしい。○○君は店長に言われ、奥から出てきて彼女たちのボックスに行った。彼女たちは三人で大はしゃぎで声をあげる。
「ま! いい男。ねえ、幾つ?」
○○君が「二十一です」と答えると、またもキャーと叫び声が上がる。
「いいわァ、若い子はきれいだねえ。オバサン、よだれが出ちゃうぞォ」
「ねえ。まつ毛も長いしサァ」
「ホント。ヤダァ、○○君、怖がらないでよォ。取って食う気なんかないってばァ」
「そ。ちょっとツマミ食いしたいって言うのが本音だけど」
またもキャーと叫ぶ。
「ホラ、座って一緒に飲もうよォ」
カウンターの客たちは眉をひそめ、○○君はやっと魔手を振り切って奥へと戻っていった。
ホストクラブならともかく、ここは普通のカウンターバーだ、○○君は一緒に坐って飲むのが仕事ではない。
あの中年女たちは、がさつと粗野の権化ではなかったか。自戒を込めて、言葉遣い立ち振る舞いに神経を使わねばと思ったりもする。
不愉快な日本語
「あなた、言葉の乱れ? が気になるということは、トシをとった? という証拠? だと思
いますよ。言葉? というものは時代? によって変わるんだし、それはそれで? いいん
です
よ」
こう言われた。文中の「?」の部分は今流行りの半擬問形というか、語尾が上がる言い方
である。これを言ったのが十代や二十代前半の若者なら、私も不快ながらも我慢する。が、
言ったのが五十代の女である。「中年」という域に入って、なぜこういう薄気味悪い言葉使
いをするのか。言葉使いというものは油断するとうつるものだ。だからこそ、油断をして
は中年の名がすたる。
語尾上げ言葉と同じように、私がカンにさわってならないのが「〜の方(ほう)」という言葉使いである。これも昨今の中年にうつっている。銀座のバーで、四十代らしきママが若いホステスに、
「おビールの銘柄の方、伺ってね。それと上着の方、お預かりして」
と言った時は世も末だと思った。この言葉使いは、もうあっちでもこっちでもごく普通に出てくる。
「電話の方、かけておきましょうか」
「お客さん、お釣りの方、お忘れになっていますよ」
「〆切りの日方、わかってますよね」
「コーヒーにミルクの方、いかがなさいますか。こちら、お砂糖の方になっておりますが」
うるせえッ。見りゃわかるよッ。
「方」という言葉は、方角や方向を表す他に、方面や部門をも表す。たとえば、「私はデザインの方に任されています」とか「営業の方を強化しなくちゃね」という具合だ。おそらく、これを拡大して、何にでもくっつけて使っているのだと思うが、「上着の方面」も「ミルクの部門」もおかしい。「上着」「ミルク」と言い切ればいいことだ。
ただ、語尾を上げたり、「〜の方」とつけたりすることは、この「言い切り」をしたくないのだと思う。あいまいな広がりを示すことによって、オーバーに言えば責任の回避をしたいのだ。しかし、たかが上着や砂糖に何の回避がいるものか。情けない。もっとも先日、
「毛利元就? の方、いつも見てます」
と言われ、この時ばかりは腹を立てなかった私も相当情けないが。
前回、私は毎日新聞に「不愉快な日本語」のことを書いた。不気味な語尾上げなどを例にとり、「こういう言葉を使うことを恥と思うべきだ」という内容を書いた。すると、読者から大変な反響を頂いた。毎日新聞宛やら私の事務所宛やらに続々と手紙が届く。その大半が三十代の女たちで、すべてが「よくぞ言ってくれた。もっと言ってくれ」というものであった。
私は意を強くした。で、もっと言わせていただく。まずは、武蔵野市の主婦グループから頂いた手紙の一部をご紹介しよう。
「先日、某女優がトーク番組に出ていて、例の語尾上げ言葉や『とか言葉』『みたい言葉』があまりにも多く、彼女のことをすっかり嫌いになってしまいました。テレビの真似をする人も多いので気を付けとほしい」
文中の「某女優」は実名で書いてあり、かつこんな一文もあった。
「若い女優さんで言葉がきれいなのは沢口靖子さんと田中美里さんです」
視聴者は実によく見ている。怖いと思って肝に銘ずるべきだろう。
前回書ききれなかったが、他にも私がゾッとするのは「じゃないですか」と「てゆーかー」と「わかりますウ?」である。「とか言葉」「みたいな言葉」「語尾上げ」「ら抜き」も加えて一例をあげてみる。
「雪とかって本当に汚いじゃないですか。でも友達とか? が食べれると言うし。汚いけど? おいしみたいな。てゆーかー、冷たいから気持ちいい? わかりますウ?」
「?」の箇所が語尾上げである。「わかりますウ?」「わかるウ?」というのは昨今多用されているが、別に確認すべきところでなくとも使う。相手はこう言われれば、「わかるわ」と必ず答えるわけであり、要は常に相手は自分の味方であるということを確かめつつ話したいのかもしれない。
言葉というものは、他人から言われても直るまい。この手の言葉を使う人は非常に頭が悪そうに見える。それを自覚するしかない。てゆーかー、頭が悪いとか思われたら? 損じゃないですか。彼氏とかもできないな。わかりますウ?
この場合の「彼氏」は当然「枯木」と同じイントネーションである。頭の悪さも極まれりだ。
先日、ホテルのロビーで人を待っていると、すぐ近くで五十代らしき女たちが四人で賑やかに話しており、その会話が聞こえてきた。
「ところで、お宅もそろそろ?」
そう問われた女が答えている。
「何か夫婦で海外旅行だのスキーだのって、全然子供なんて作る気がないみたいの」
別の女二人が言う。
「でも、そろそろ考えていると思うわよ」
「お嬢さん、結婚三年目でしょ? 大丈夫、そろそろかなって考える頃よ」
私がチラと見ると、そう言われた女は曖昧に笑い、別の話を始めた。
察するに、四人のうち彼女だけが孫を持っていないらしい。曖昧な笑いや別の話を始めるところからして、触れて欲しくない話題に思えた。
私はこの会話を聞いた時、何ともイヤな気がした。私自身や女友だちも若い頃にはさんざん言われたものだ。「結婚はまだ?」「子供はまだ?」「二人目はまだ?」と。
だが今回、孫のいない女への言葉には、一度も「まだ?」は出てこなかった。すべて「そろそろ」である。「まだ?」はまだマシだと、私はその時に思ったのである。
あくまでも私の推測だが、女たちは「まだ?」よりは「そろそろ」の方が気配りのある優しい言葉だと思っているのだ。「そろそろ」には希望的な励ましのニュアンスがこもるし、ストレートに「まだ?」と聞くといけないことなのだと、彼女たちの教養が押しとどめている。
しかし、自分が言われてみたと仮定すればわかる。「まだ?」よりも「そろそろ」の方が辛いはずだ。何ら希望的な先行きが予測できない状況にあるならなおさらのこと。優しぶった無責任な励ましなぞ、腹が立つだけである。そして、「そろそろ」には「まだ?」よりも、問いかける側の優位が匂う。
私は「まだ?」であれ、「そろそろ」であれ、子供や孫のいない人に向かって聞くことは教養ゼロの人間だと思っている。エレガンスはゼロである。子供や孫がいようがいまいがそんなことは他人が口を挟む問題ではない。中には「内館サンは怒り過ぎよ。単なる世間話よ」という人もあろう。だが、そういう世間話をしていい相手と、してはならぬ相手をわきまえることもできぬなら、孫と一緒に幼稚園でゼロから学び直した方がいい。
『ムーンライト&ヴァレンチノ』を観ている間中、私は映画ファンのA氏の顔を思い浮かべていた。
A氏は仕事でお会いした初対面の席で、私に言ったのである。
「内館さんのお勧めの映画あったら、今後いつでもお知らせください。他人に勧められた映画って、自分からは絶対に観ないものが多いから面白いんですよ」
A氏は分刻みで仕事をしているような人であるだけに、この言葉は脚本家の私に対する初対面の社交辞令だろうと思ったが、かなり日の経ったある日、私は彼のオフィスにファックスを入れた。
「ぜひイラン映画の『白い風船』をご覧になって下さい。絶品です。珠玉の作品です」
これは七歳の少女がお金を落とし、やがて見つけて再び手にするという、ただそれだけの話である。再び手にするまでの曲折がじれったく、そこが唯一のドラマといえようか。
A氏と二度目に会った時、彼は言った。
「観ましたよ、『白い風船』。イャァ、じれったくてまいった。絶対に自分からは観ないな。新鮮でしたよ、実に」
私は彼が劇場まで足を運び、このマイナーな一本を観たことに驚いた。そしてその時、私は映画の良し悪しを測る「尺度」のひとつに気づかされたのである。
つまり、多忙を極めている人から時間を奪うだけの価値がその映画にあるのか、否か。乱暴な尺度ではあるが、私はかなりいいところを突いていると思っている。映画ファンというものは、自分の趣味合わなくても良し悪しは冷静に判断できるものである。それだけに、勧める方もかなり責任を要求される。
で、『ムーンライト&ヴァレンチノ』である。これはどうか。私も責任があるので、思った通りの感想を述べる。
結論から言うと、魅力的な一本ではある。その魅力は、この映画の持つマイナス要素が、プラスに働いているところから生まれている。この摩訶不思議な魅力は、エレン・サイモンのシナリオに起因していると、私は思っている。
エレンのシナリオは、まだ飲み頃に至っていないワインに似ている。これは本来、マイナス要素である。
ワインは酸味、甘み、渋味が味わえるものだが、熟成が進むにつれてそれらは渾然一体になって溶け合う。熟成したワインは口に含んだ時、渋味だけが突出していることもなく、酸味だけがとんがっていることもない。すべてが溶け合い、アロマティックなまろやかさを醸す。
本編におけるエレン・サイモンのシナリオは、成熟していないと私は思う。ワインで言えば、酸味も甘味も渋味も、それぞれが自己主張し、とんがっている。シナリオにおけるセリフ、登場人物のキャラクター、構成、ストーリーが成熟に至っていない、結果、登場人物の女性四人はかなりうっとうしい。セリフも、キャラクターも相当鬱陶しい。
おそらく、パパのニール・サイモンならばこうは書くまい。成熟したワインのパパは、エレンのような青くも固いセリフは書かぬ。登場人物もエレンのようにパラレルワールドには描かず、渾然一体に絡ませて、アロマティックなボデーを感じされる作品にするはずだ。
しかし、実に不思議なことに、エレンのマイナス要素がプラスに働き、『ムーンライト&ヴァレンチノ』は意外な「大きさ」を感じさせている。
つまり、エレンは正面切って女性四人の思いを押し出した。シナリオにおける定石や計算よりも、女たちの心情をグイグイと突き付けた。そこには何らの小細工もなく、あざといテクニックや、客を引っ張るためのけれんも一切ない。これはほとんど力業である。
女性四人が鬱陶しいのは、日頃、女たちが心の中にしまっている感情を、エレンは白日の下に引っ張り出して晒したからに他ならない。おそらく、パパならばもう二ひねりする。が、堂々たるエレンの力業は、女が日ごろ隠している鬱陶しさを暴き立て、パパには作れなかった種類のリアリティを叩き付けた。
このマイナス要素をプラスに働かせたことにより、ウェルメイドの予定調和映画にはない力強さと格を見せている。
キャストもすばらしくいい。中でもルーシー役のグウィネス・パルトロウはダントツであり、彼女を見るだけでもこの映画は多忙な人間から時間を奪う価値がある。
きっとA氏は観た後で言うだろう。
「イヤァ、鬱陶しくてまいった。自分からは絶対に観ないな。新鮮でしたよ。実に」
そう、それこそがこの映画の真骨頂なのである。
老人の海は、格闘の末に巨大なカジキマグロを釣り上げた老人が、それをサメに奪われてしまう話である。
一昼夜の徒労の後に、疲れ切った体を横たえ、彼は夢を見る。
「老人はライオンの夢を見ていた」
これほど美しい結びを、私はほかに知らない。もしかしたら、人間の一生なんて徒労かもしれない。
だが、それでもライオンの夢を見る美しさと強さは、少年には持ちえない。格闘する老人は、新世紀の老人像だ。
某月謀日
夜更け、女友達が桜餅を持って遊びに来た。リビングに座るや、彼女は呆れたように言った。
「またこんな本を読んでいるんだ。何の役に立つんだか。好きねえ、アータ」
そして、テーブルの上に出ていた三冊の本を手に取り、パラパラとめくる。
三冊の本は『反骨イズムー長州力の光と影』『劣等生』『もう一人の力道山』であり、いずれもプロレスラーの評伝。
私にとって大相撲は主食で、プロレスは副食。気になるレスラーの本は一通り目を通す。中には内容がスカスカで、卍固めをかけたくなるものもあるが、プロレスという激しい世界に身を置く男たちの話を読むと、私は自分の心が優しくなってくるのだ。それだけでも実に役に立つ。
特に『もう一人の力道山』は文句なしに面白い。ここ何年間かに読んだすべてのノンフィクションの中で、私は三指に入れる。
女友達は本を閉じ、洗面所に立った。すると、ドアの前で叫んでいる。
「何これーッ。ここンちのトイレ、大相撲の本屋さんみたーいツ。アータってホントに裸の男が好きねーッ」
こういう女こそ、裸で戦う男の本を読んで心優しくなってもらいたい。
某月謀日
写真集を見るのが好きだ。
濱谷浩写真集『學塾諸家』をまた開く。何回見てもため息が出てくる。
これは詩人や学者や文学者、俳優、画家など日本人九十一人の人物写真集である。藤田嗣治、堀口大學、滝沢修、井伏鱒二、佐多稲子らが収められているが、その顔とたたずまいの品格は、一見の価値がある。
ため息が出るのは、この写真集を見るとハッキリとわかるからだ。「日本人の顔は下品になった。たたずまいなどという言葉が似合う人は希有になった‥‥」と。写真集のページをくるたびにそれを突き付けられる。会津八一、小林古径、伊藤整、正宗白鳥、金田一京助、どうしてこんなに美しい人たちが、昔の日本にはいたのだろう。誰もが実に高潔な雰囲気だ。
彼らが高名な学者や芸術家であるからではあるまい。おそらく、農村にも町にもこんな美しさ持った人々はいっぱいいたのだと思う。日本人の顔は少しずつ少しずつ、下品になっていったのだ。それを「カネがすべての世になったせい」とは言い切りたくないが、やっぱりそうなんだろうなァ。
「パンをしゃぶ」接待の官僚たちの顔を思い浮かべると、またため息が出てくる。あっという間にここまで下品な国にしてしまった今、美しい先人たちに申し訳が立たない。
某月謀日
連続テレビドラマを脱稿し、家中の大掃除をする。昼過ぎ、小休止をとって近くの花屋へチューリップとスイートピーを買いに行く、花の中で特にこの二つが好き。
花を抱えてふと本屋に立ち寄ると、『女の小説』があった。その一冊も抱えて、ふと喫茶店に入ると。「ふと」が多くて掃除の残りが気になったが、コーヒーを飲みながら好きな本を読む至福。
これは紫式部からバイアットまで十七人の女が書いた小説を取り上げているのだが、批評でもなく、随想でもなく、不思議に面白い。ミステリーを解き明かしていくような面白さ。和田誠の絵がすてきで意味シンだ。
こういう本を読むと自分の勉強不足が身にしみる。私は勉強不足を知らされることが結構好き。知らされるだけで勉強になるからだ。
某月謀日
先週、北京に住む弟に何冊か本を送った。私が読んで面白かったものばかりである。
すると今日、弟から電話が入った。
「お前が送ってくれた本の内、二冊が税関で没収されちゃったよ」
驚いたのは私である。没収されるようなワイセツな本なんて送っていない。弟は電話の向こうで言った。
「『天怒』だよ。あれ、こっちで発禁だって知らなかった?」
『天怒』は中国人作家の陳放が書いた小説で、リベロから出ている。小説ではあるがモデルの予測がつく作りで、北京市の汚職事件を扱った実録モノ。そういえば中国では発禁だと耳にしたような気もする。が、本当に厳しくチェックしている事には私は驚いた。
「中国の税関ってすごいね。日本語の本なのによくわかったわねう」
「あのなァ、漢字って中国語なの。お前、その頭でよくモノ書いているよな」
相変わらずのお前呼ばわりで、この口の悪さだ。
「だけどホントに発禁だったわねえ。単なる売り文句かと思っていた」
「没収ってのは俺も初めて。ヘアヌードの週刊誌だって通ってるもんな。税関からの通知書って初めて見たけど、真っ赤なハンコがドンと押してあるんだよ。ファックスで送ってやろうか」
ファックスで届いた通知書は、いささか不気味だ。「《・・・・・・略》」
「俺、日本に行った時読みたいから、もう一冊買っといてくれよ。じゃあな」
何で私がまた買うのかと思ったが、致し方なく買い、仰け反った。『天怒』のタイトルの下、真っ赤な帯に大きな文字で「衝撃の中国発禁本」と書かれていたのだ。これを堂々と、梅干しやソウメンと一緒に送ったのだから我ながら呆れる。
この夜、天の怒りに触れたのか、酷い風邪をひき、体中が痛み始めた。寝返りも打てない痛みに「卍固めはもっと痛いのだから我慢しよう」と思う。プロレス本はいろいろと役に立つのだ。
中学生頃、私は稲垣足穂に興味を持っていた。その頃の私は大相撲観戦が一番の趣味だったのだが、大相撲雑誌とともに『稲垣足穂全集』を小脇に抱えて通学するのが、妙に心地よい。
すでにその頃、日本文学全集や世界文学全集はすべて読み終えていた。小学生の頃からいつでも父に言われていたのである。
「年を取ると、カタい本が読めなくなるからね、若いうちにカタい本を読みなさい」
それを忠実に守って名作文学を読み終えた結果、どうしても稲垣足穂に行きたかったらしい。
らしいが、「少年愛の美学」の作家であるからして、かなり不思議な到達点であり、自分でもよくわからない。
大学生になると、全共闘の嵐が吹き荒れ、ノンポリ学生といえども何らかの問題意識を待たざるを得なくなっていた。あの頃、学生たちの多くは赤線を引きながら『共産党宣言』を読み、『空想より化学へ』を読み、小田実を読み、吉本隆明を読んだ。私のカバンの中にも必ずそんな本が入っていたし、当時読んだ小説でいちばん衝撃を受けたのは、ジョージ・オーウェルの『動物農園』であった。動物を主人公にした寓話でありながら、支配する者とされる者の関係をあそこまで鮮烈に描いた作品はないと、今でも思っている。
こうして、二十代前半までに、誰にもはばかることなく、読みたい本を読んだ。稲垣足穂からジョージ・オーウェルまで、時に「すごい本を読んでるね」と言われてもヘッチャラであった。
が、就職して「結婚適齢期」というものを迎えるようになってくると、どうもそうはいかなくってきた。
昭和四十年代後半のあの頃、会社の上司も若い男たちも非常に保守的であった。女の結婚年齢は「クリスマスケーキ」にたとえられ、二十四歳までは売れるが、二十五歳になると売れ残ると、日常的に言われていた。私も含めて女たちはいつでも「結婚」と「年齢」が頭から離れない。男達の多くは白いエプロンの似合う女を好んだ。むろん、すべての男ではない。すべてでないが、傾向はあった。
そんな中で結婚を勝ち取るには、カタい本など読んでいることを隠さねばならないのである。男好みの女になるしかない。女として『動物農園』より家庭菜園が好きなのだとアピールする方が得なのだ。
そんなある日、私は当時付き合っていたボーイフレンドと書店に立ち寄った。私は吉本隆明の評論集を買いたくて、彼が別の棚を見ているうちにサッとそれを手にした。すると、いつの間にか近くにいた彼が、
「そんな本読むんだ‥‥」
と言った。私は狼狽し、
「ううん。こんな難しいのわかんなーい」
とか何とかブリっ子した。そして、
「ホントはこれが欲しかったの」
と、抜き出した本は『たんぽぽのお酒』だった。これなら可愛いと計算していた。
二十代半ばからの読書生活は、何とバカバカしかったことかと思うと。どうブリっ子したところで、今もって結婚できずにいるのだから、思うように読めばよかったのだ。
今、私が外出する時には必ず、読みたい本と一緒に大相撲雑誌かプロレス週刊誌を持つ。中学時代と同じであり、このバランスが一番心地よい。
「出発点」を「自分がいつでも立ち戻れるところ」と解釈した場合、自分にとって本当の出発点は何かという事が見えてくる。
それは実家であったり、故郷であったり、夫であったり、子供であったり、百人いたら百通りあるだろう。
私が武蔵野美大に入学した直後、クラスメートのM子が落ち込み始めた。M子は静岡から出て来てアパートで自活していたのだが、食欲がなくなり、ぼんやりしていることが多くなった。私たちは、
「五月病よ、すぐ治るわ」
と、タカをくくっていた。
が、ある日、M子がアパートを出たまま、教室に来ない、誰かが、
「さっきフラフラと屋上に上がっていくところを見たわよ」
と言う。私たちは慌て、屋上に駆け上がった。すると、M子は手すりから身を乗り出し、今にも飛び降りそうにしている。
「M子ツ! 待ってツ!」
私たちは三人がかりでM子を押さえつけた。
「M子、何なのよ。死んでどうするのよ」
私たちが叫ぶと、彼女は笑った。
「死ぬ? イヤだ、死ぬ気だと思ったの?」
そして、空のかなたを指して言った。
「富士山を探していたの。あの方向に見えるはずだから」
わけがわからずにいる私たちを前に、M子はやがて涙ぐんだ。
「富士山が見たいに。ホームシックっていうより、富士山が見えないと安心していられないの。富士山が見たい‥‥」
聞けば、静岡の実家の窓からはいつでも富士山が見え、その麓を歩いて小学校から高校まで通ったのだと言う。
M子は翌日から静岡に帰り、再び登校してきたのは夏休み明けだった。
すっかり元気になった彼女は、私達に笑って言ったものだ。
「ごめんね、心配かけて。富士山は逃げないってわかって、すっごく安心した」
これと同じ話を、つい最近も聞いた。私はNHKのテレビ小説『私の青空』で、青森を舞台にした。その関係で、青森県の木村守男知事とお話しする機会があった。
木村知事は中学までは津軽で過ごし、その後、高校入学のために一人で上京したそうだ。入学後暫くすると、東京生活がどうにも耐えられなくなった。そう、岩木山が見たくて見たくてである。
「卒業するまで帰って来るなと言われていましたから、帰れません。でも、お岩木への想いは募る一方なんです」
とうとう、夜汽車に乗った。そして、わざわざ誰も知らない町の駅にこっそり降り、岩木山を見た。
「落ち着きました。それでそのまま、また汽車で東京に戻りました」
おそらく、M子も木村知事も、故郷が出発点であり、いつでも立ち戻れるところなのだ。それは「安らぎ」という地点でもあるし、「いざとなったらここに戻るだけのことだ」という覚悟の地点でもある。
私の場合は、そこまで想える故郷がない。生まれは秋田だが、育ちは東京の大田区だ。鳥海山に特別な思いは無いし、隅田川は東京下町のもので、やっぱり私は川ではない。
そう考えると、自分が最も虚しい時代を過ごしたところ、つまりOL時代の日々と町が私の出発点であり、「いざとなれば、あの日々に戻ればいいだけのことよ」という覚悟の地点という気がする。
そしてそう気づくと、不思議なことに、あれほど虚しく情けなかった日々が、甘酸っぱさを持って甦ってくる。私を育ててくれたのは両親やたくさんの友人、教師、そして数多くの町、時代である。だが、とりわけ、あの虚しい日々はとてつもなく大きな影響を与えている。
少なくとも、あの日々がなければ、私は決して今の仕事を手にしていなかっただろう。
SPEEDの電撃解散記者会見を、テレビのワイドショーで見た。
メンバーの島袋さんは十二歳の時にデビューしたというのだから、一般小学生や中学生がごく当たり前にやっていることの数々を、何ひとつできなかっただろうと思う。トップアイドルグループとしてやるべきことが山のようにあったはずだ。
そんな彼女たちが、芸能生活の中でふと立ち止まり、
「私達、このままでいいのかな‥‥。三年間に何の悔いもないけれど、芸能人としてというよりもまず人間として、女の子として、何が大切なものを忘れているんじゃないだろうか…」
と考えた気持ちはよく分かる。芸能界というところは、本当に過酷な「大人の世界」である。ビジネスとして大きなお金も動くし、アーティストたちが小学生であろうと中学生であろうと、その肩にかかる責任は大人と同じである。
さらに大変なことに、名前と顔が日本中に知られていれば、自由に外も歩けないだろう。ストーカーもいるかもしれない。そしてもっと悲しいことに、一般人の友達が離れていってしまう。忙しくて約束もできないのだから、それも当然だ。以前、あるアイドルが、私に悲し気に言ったことがある。
「僕のところにはクラス会の通知も来ないんです。どうせ忙しいから出席しないだろうってみんな思っちゃっているから。でも、通知ぐらいは欲しいですよ‥‥」
そう言った後で、彼は無理に笑ってつけ加えた。
「でも、ホントに僕は出席しない方がいいんです。一回、大喜びで出席したら、他のクラスの子たちもみんな待っていて、サインとか写真とかって、会場がパニックになっちゃった。もうクラス会はメチャメチャで、僕は裏口から逃げました。だから、幹事が懲りちゃって通知もくれないのも分かります」
トップアイドルともなれば、これが現実だろうと思う。しかし、この彼は一緒にいたずらをした昔の友達と会うのが楽しみで、前夜はドキドキして眠れなかったと言う。
むろん、読者の中には、
「それでも有名になれたんだからいいじゃない。私らが会えないようないろんな芸能人とも会えるし、友達にもなれるし。別に一般人の友達がいなくったって問題ないんじゃん」
と思う人たちもいよう。それは確かにそうなのだ。ただ、そういう生活は小学校や中学生には、耐えるのがきついと思う。一般人が会えないようなアイドルと友達になったり、有名になったりすることに引き換えに、やはりいろんなものを捨てなければならないのだ。
それは共通の話題で盛り上がる学生生活であったり、彼と手をつないで歩く渋谷であったり、お母さんと一緒に行くスーパーマーケットであったり、お小遣いをやりくりしてえらぶ家族へのクリスマスプレゼントであったりする。こんなことは別に何でもない事のように思うかもしれないが、こういう何でもないことが実はとても大切なのだと、アイドルたちの多くが気がついているように思う。
SPEEDの電撃解散については、週刊誌などにもいろいろ書かれているが、多くの理由が絡み合っているものであろう。しかし、私はその理由のひとつにはきっと、「何でもないことをする時間が欲しい」という彼女たちの思いがあると、ワイドショーを見ながら確信していた。
そう考えると、私たちはもっともっと普通の暮らしを大切にし、友達に優しくし、彼と一緒にいろんなことを始めてみないともったいない。SPEEDが富も名声も地位も捨てて手にした暮らしを、あなたはとっくに持っているのだから。
このクリスマスはそんなことを考え直してみたらどうだろう。考えるだけで必ず気持ちが優しくなってくる。その変化は、周囲の人々にとっても、すごいプレゼントに違いない。
このほど、イタリアのフィレンツェ、ヴェニス、ミラノを取材して帰ってきた。
今回の旅では、各地に住む日本人とじっくり話す機会があったのだが、会う人はみな、異口同音に言う。
「イタリア人は、とにかく自分の生まれた故郷の都市が一番いいと思っている。この意識は強烈ですよ」
私は興味を覚え、さらに詳しく聞いてみたところ、
「たとえば、フィレンツェの出身なら自分を『イタリア人』とは言わず、『トスカーナ人』だと思って言う人が多いのよ。だから、たとえミラノに住んでいてもトスカーナ産以外のオリーブは買わないなんてザラよ」
「ローマに一度も行ったことがないと自慢する人も少なくない。生まれたところで生きて死ぬことへの誇りは聞いていて気持ちがいいほどです」
などと、こういう具体例が数限りなく出た中で、私も最も驚いた例がある。
「ニュースキャスターは標準語で話しますが、生まれ故郷の訛りを直そうとはしません。
ですから、ニュースを語りを聞けば出身地がすぐにわかる。訛りを直さないのは、生まれ故郷へのプライドであり、彼ら自身のプライドなんです」
イタリアという国は、いわば自由都市の集合体であり、中央集権とは言えまい。それだけに、一極集中の「東京」を抱える日本にそのまま当てはめることはできないにしろ、日本人はもう少しイタリア人的なプライドを持ってもいいように思う。
日本ではかって。方言や訛りは物笑いのタネにされた。今は少し薄らいでいるとは思うが、何よりも全国各地の人があまり方言を使わなくなっている。笑われたくないせいなのか、テレビの影響なのか、若い人は訛ることさえ少ないのではないか。その中で、関西人だけは堂々と訛っていることを考えると、これは関西人の「アンチ東京意識」の表れであり、気骨であり、プライドであろう。
日本でも、影響力の大きいニュースキャスターが率先して、柔らかなお国訛りでニュースを語る場合があってもいい、それはきっと少しずつ地方礼賛に進んでいこうし、地方色を持っていることは「個性」なのだと気付かせてくれるはずだ。
昔、東北地方のローカル番組に出演したことがある。司会アシスタント嬢は東北人ではなく、番組の中で彼女は言った。
「東北の人って、やっぱり無口で素朴で我慢強いし、地味で暗めですね」
一言一句は定かでないが、その女はこうぬかした。私はそれを聞いて腹の中で思っていた。「もう一言、何か言ってみろ。脳天かち割ってやる。こっちは東北の女、気が短けンだ」と。
東北がどれほど豊かで、どれほど気っ風がよくて明るい地方かは、祭りが物語っている。東北三大祭りだけを考えても、それは歴然としている。
我が故郷、秋田の竿灯。あれは稲穂が揺れるさまを表している。米と酒と美人がふんだんにとれる地の、豊かな祭りだ。
仙台の七夕は、独眼竜伊達政宗の豪奢な匂いを伝えるような祭りだ。現代でもお洒落な人を「伊達者」と言ったり、粋な姿を「伊達姿」と言うのは、伊達政宗からきている。彼は戦いの鎧などもカラーコーディネートするほど派手好みであった。
そして、青森ねぶた。素晴らしいプロボクサーは青森と沖縄から多く出ているが、それは両県には「リズム」があるからだという。青森のリズムは、ねぶたの「ラッセーラ」だ。青森人は生まれながらにして、この陽気で激しいリズムを体内に宿している。何よりもリズムを重視するプロボクサーが、青森から多く生まれるのは祭りのお蔭なのだ。
「東北の人って、無口で素朴で我慢強くて、地味で暗め‥‥」と、マニュアル通りの答えをする前に、東北の祭りを見るがいい。近寄ると火傷しそうな男と女ばかりだから。
今から三十年近く昔、私が通っていた頃の武蔵野美大には、ある種のいかがわしさがあった。多少の年齢差はあるが、黒鉄ヒロシ、影山民夫、戸井十月、村上龍さんら通っていた頃のことだ。
あの頃の、あのいかがわしさは何だったのだろう。
俺達は美校の学生であり、総合大学と一緒にして欲しくないという誇り。
芸術で暮らしを立てる事が困難だと認識すればするほど、湧きあがって来る恍惚と不安。
権威にそっぽを向き、野にあることのナルシシズム、その一方で、東京藝術大学に覚える一抹のコンプレックス。
多くの要素が混じり合って。独特ないかがわしさを醸し出していた。それは、えも言われぬ不健康であり、悪くなかった。
世の中には「正」の価値、「負」の価値があるはずだ。一流総合大学、一流企業、そして健康さ、明るさ、社交的であることなど、すべてからく正の価値である。その一方で、不健康と、陰、暗、コンプレックスなどにも価値はある。認められにくいとはいえ、「負」の輝きた。
あの頃、武蔵美大に限らず芸術系大学の学生の多くは、認められがたい「負」の価値に陶酔せざるを得なかったのかも知れぬ。
玉川上水沿いのこの小径は、西武国分寺線の鷹の台駅と武蔵野美大を結んでいる。美しい雑木林のこの小径を、武蔵野美の学生たちは「ロマンス・ロード」と呼んだ。ここを並んで歩くうちに、必ずやロマンスが芽生えるのだと語り継がれてきた。
いかがわしくて不健康な美大生にしては、「ロマンス・ロード」とは他愛ないネーミングだ、しかし、私たちにとって、この小径だけが「正」の価値だったのだ。清らかで爽やで、初々しい伸びやかで。「ロマンス・ロード」という真っ正直な名前は、「正」の価値への憧憬だったようにも思う。
私は昨年から、再び武蔵野美でいくつかの講義をうけているが、当時のいかがわしさは、もはやない。私が尋ねた限りでは、学生は誰一人として「ロマンス・ロード」の名を知らなかった。
世の中すべてが「正」の方向に走り、「正」の価値のみを認めたがる以上、美大でさえ健康的になる。これも時の流れだ。ただ、「負」にも価値があるのだと伝えることを、我々大人たちはさぼりすぎてはいまいか。
この雑木林だけが「正」の価値だったという日々は、今も私の深い所で生き続けている。
この写真は二十四歳の春、千葉に花を摘みに出かけた時のスナップである。
‘72年頃、房総の花畑で。専業主婦になることしか考えておらず、今に必ず小林旭タイプの夫と出会えると確信していた。
「ンまあ! 何て愛らしいお嬢さん!」
「こんなお陽さまのような笑顔のお嬢さんですもの、たちどころに決まるわ」
小母さまたちは、誰もがこう言った。ウソではない。本当にこう言った。私は指示されるままにこれをたくさん焼き増して、お見合いの話があるたびに、「お陽さまの笑顔」を添付した。そして、必ず小母さまたちにもうひとつのことを指示された。
「牧子チャンはお背が高すぎるから、履歴書には五センチくらい低く書いてね。絶対に一六八センチなんて書いちゃダメよ。お見合いの男の方って、なぜか背の高い人が少ないものなの。とにかく、会うところまで漕ぎつけなきゃいけないのだから、お願いね」
この写真と、ウソの身長一六三センチのおかげで、本当に縁談は多かった。ところが、
「たちどころに決まる」どころか、全然決まらない。当然である。お見合いに当日に現れる私は一六八センチであり、あげく、見知らぬ男を前に、「お陽さまの笑顔」なんてふりまけるわけもない。
やがて、小母さまたちも「この写真ではダメだ」と思ったらしく、
「あまり笑わずに、でも優し気な雰囲気の写真がいいわ」
と言い始めた。それがこの写真である。
‘72年頃、横浜で。結婚のことと大相撲のことしか考えていなかった。有給休暇はすべて力士の追っかけに使っていた。
こういう毒にも薬にもならいタイプがいいのだと言われていたが、それでも決まらない。ついには、
「自分で縫った服を着て撮って。針が持てるお嬢さんは家庭的に思われるから、きっと決まるわ」
と言い出した。それがこの写真である。
‘73年、駒沢公園で。洋裁や料理など13種もの花嫁修業をしながらも、どこか虚しく、切ないOL時代であった。
三枚を比べると、私の顔にだんだんと屈託が出ているのがよくわかる。思えば、輝く二十代を「結婚」のことばかりに費やしていたのだなァと情けないほどだった。
実はこの三枚、当時のボーイフレンドにわけを言わずに撮らせた。この根性だから決まらなかったのだと、今になるとそれもおかしい。
私が高校生の頃だったろうか、母が言ったことがある。
「初めは牧子を幼稚園に通わせるつもりはなかったのよ。内気だったし、体は細くて弱いし、何も無理して遠くまで通わせる必要もないと思ったの」
昭和二十七年当時、幼稚園は自宅から徒歩四十分のところにひとつだけしかなかった。
スクールバスなど考えられぬ時代であり、四十分の道のりを歩いて行くしかない。
「だけど、近所の子たちがみんな行くと言うし、一人だけ行かせないのも可哀想だと思ったのよね。いい友達が出来るかも知れないと期待もしたし」
が、両親のこの想いは見事に裏切られた。病的な内気に加えて、社会性がまったくない私は恰好のいじめの対象にされたのである。
何しろ人前で声を出すのが恥ずかしく、出席をとられても「ハイ」と返事さえできない子なのだ。加えて、動作がのろくお遊戯もお片付けもみんなと同じペースでできない。他人の目がある所ではお絵描きもできないし、お歌を合唱するなどとんでもない話。
いつもじっと膝に手を載せて俯いている上、小枝のように体が細くて目だけがギョロギョロしていたのだから、実に愛らしくない子だったと思う。それだけに、ぶたれたり、つねられたり、棒で追われたり、あらゆるバリエーションの虐めを受け、声をあげずにシクシクと泣いてばかりいた。
そんな私によって、何よりの苦痛はお弁当の時間であった。他人の前で物を食べるという事ができないのである。
母は赤いアルマイトのお弁当箱に、きれいにおかずを詰合わせ、毎日持たせてくれていたのだが、私は一度たりともふたを開けたことはないはずだ。今にして思えば、せいぜいタバコの箱の二倍くらいの、小さな小さなお弁当箱であった。包んでいるハンカチを開くことさえなく持ち帰られるそれを、母はどんな思いで見ていたのだろう。
そんなある日、家に帰る途中、道の向こうにいじめっ子の姿が見えた。彼はコウちゃんという男の子で、いじめっ子グループの中で際立って乱暴な子だった。
友達のいない私は、いつでも一人で四十分の道のりを歩いて帰る。その日、コウちゃんの姿に震え上がった私は、立てかけてあった材木の蔭にとっさに身を隠した。
ところが、コウちゃんは私を待ち伏せているのか、その場を動かない。私は時折、材木の陰からそっと覗くのだが、コウちゃんはデンと立って動こうとしないのである。
細かいことは覚えていないが、私は材木の蔭にしゃがみ、カバンを抱いてじっと地面を見ていたと思う。ハッキリと覚えているのはそこでお弁当を食べたことである。
おそらく、抱いているカバンの中にお弁当が入っていることを思い出したのだ。材木の陰で赤いアルマイトのふたを開け、そして小さなお箸を使った。
それから後のことはどうしても思い出せない。コウちゃんがいついなくなったのか、あるいは見つかって虐められたのか、空っぽのお弁当箱を母が喜んだのか、何も覚えていない。ただ、大きな材木の陰にしゃがみ、四歳の私が一人でお弁当を食べたことだけは、今でもくっきりと思い出せる。
それはシーンとしては、実に哀れな惨めな姿である。が、何度思い出しても、私は笑ってしまう、オカッパ頭の内気な幼女が、材木の陰にしゃがみ、黙々と玉子焼きやらゴハンやらを口に運ぶ。その図は愛らしくない私の、唯一可愛い姿だったのではないか。
そして間もなく、私は苦痛なお弁当の時間から解放された。「社会性の欠如」を理由に幼稚園から退園勧告を受け、辞めさせられてしまったのである。
あの赤いアルマイトのお弁当箱は、私が大学に入る頃までは確かに自宅の食器棚にあった。
私が生後十ヶ月の写真である。
この頃、父はまだ現役の水泳選手として、毎年国体に出場していた。体はずいぶん細く見えるが、岩手の盛岡中学(現・盛岡一高)から早稲田大学まで、筋金入りの体育会水泳部である。その鍛え抜いた四肢は、七十八歳で他界するまでまったく衰えを見せなかった。
当然ながら、父は私と弟に徹底して体育会的な躾をした。それはゲンコツではない。父は「殴る」ということは一度もしなかった。そうではなく、いろいろな「規律」を課すのである。それを破った時は震え上がるほど怒られた。
規律には「目上の人への言葉使い」「だが「挨拶」だとかまっとうなものもあったが、理不尽なものも少なくなかった。たとえば、
「寒がるな」
「食べ物は一切残すな。嫌いな物でもおいそうに全部食べろ。何を食べても絶対に不味いというな」
「面倒臭いと言うな」
という項目もあった。寒い冬の朝、起きて「ウー、寒い」と言っただけでカミナリが落ちる。言わずにして我慢して震えていると「震えるなツ」と怒られる。また、電車やバスをいくつも乗り継いでどこかに行く時、つい「面倒臭いねえ」など言ったらオシマイである。食べ物に関しては特に厳しく、規律を破ったら「食べなくていい!」と、部屋からつまみ出された。
晩年、父が、ふと漏らしたことがある。
「寒がったり、面倒臭がったり、食べ残したり、好き嫌いが多い人間は貧乏くさく見えるからね」
この写真の私は何だかバイ菌のように小さいが、この頃から躾けられていたと母は言う。それがおかしくて、父と一緒の写真の中で、私が一番好きな一枚である。今でも遺影がわりに飾っている。
そして、「バイ菌時代からの筋金入りで、今でも食べっぷりだけは褒められるからね」と報告しているのである。
昨年(九六年)のNHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』――私には大変興味深い番組でした。
華美を抑え、きちんとした生活をしようとする吉宗に対し、尾張の殿様・宗春は華美こそが人にやる気を起こさせるんだという人物です。この二人がことごとくぶつかるわけですけど。これはまるで我が家の両親にそっくりなんですよ。
父(内館洋さん・七十八歳)は、岩手県盛岡の出身です。文化的でアカデミックな街に育ち、父親、つまり私の祖父は大学病院の薬剤師サラリーマンです。
一方の母(洋子さん・七十歳)は、秋田県の港町・土崎で生まれました。秋田でも、角舘とか湯沢は小京都みたいな匂いがあるんだけど、土崎は港町特有の、陽気で気っ風のいい人が多い所です。
特に、母の父親という人が、さっぱりとした勇気のある人だったんですね。東京で新聞記者をしていたんですけど、秋田に戻り、市会議員になりました。その傍ら、建設会社を起こして成功し、母は八人きょうだいですけど、子供一人一人にお手伝いさんがつくという裕福な育て方をされました。
私には祖父に当たるわけですが、資本家でありながら左翼思想の持ち主で、同志たちの生活の面倒をずいぶん見ていたようです。裕福な生活と思想のギャップをこういう形で埋めるしかなかったんでしょうね。
祖母もわがままなお嬢さんで、家事は一切しない。毎晩、料亭から仕出し料理をとって夕食をするという生活だったそうです。サラリーマン家庭とは対極にあるわけです。
こういう家庭に育った母ですから、几帳面のカケラもない(笑)。割り切りは早いし、こだわらないし、とにかく普通じゃないですね(笑)。
たとえば、こういう取材のたびに困るのは、母の写真がほとんどないことです。
母に聞いたら「古い写真? 全部捨てたわ」って。
「あんなにいっぱいあったじゃない?」
「古い写真をとっていてどうすんのよ。あんなもん振り返ってみたってしょうがないわよ。じゃま、じゃま」
そんな母に似て、私もすて魔なんです。「物と男は棄てるべし」で、部屋の中はすごくきれい。そして、現在まで独身(笑)。
母は二十二歳の時、父とお見合い結婚しました。すぐに私と弟が生まれ、私が三歳の時、父の転勤で秋田から新潟を経て東京へ。
つくづく思いますよ、私。「どうして父と母は別れなかったのだろう?」って。堅実な吉宗みたいな父と、正反対の宗春みたいな母ですよ。上手くいくわけないですよね。
五歳の頃、自宅近くにて。この頃も父は、水泳の国体選手として合宿に参加していたので留守がちだった。写真左は弟。
実際、夫婦喧嘩はするんです。いまだにしています。でも、それでいて今まで持っているんですから、夫婦って不思議です。
父と母の差はあらゆるところに出ていましたが、一番顕著だったのは「お金」に対する考え方でしょうね。父はいつでも、
「お金の大切さを弁えなさい。そして、身の丈に合った暮らしの中で楽しむ工夫をしなさい」
と言い続けていました。母は逆で、
「家庭の経済とかは一切、気にするな。父親の給料なんて知る必要もないし、私も教えない。親のふところを考えて、子供の行動を規制するような、そういう貧乏くさい育て方は絶対にしたくない」
と言い続けていました。吉宗と宗春そのものですよね。
ですから私と弟は、社会人になってからも家に生活費を入れたことがないんです。
「子供からお金をもらうなんて、まっぴら。自分のために使って頂戴」
父はそんな母とはもちろん、正反対の意見です。
「食費を入れてもらわないといけないほど、うちは困っていないけど、独立したら食費を入れたり、計画的に使ったりする、それが社会人なんだ」
ただ、父は仕事が忙しく、結局は母の宗春流で育てられましたね。
私も、分相応な買い物をしたり、身の丈に合わないことをしたりということは少なくありません。でも、それによって元気が出て来ることは確かにあるんです。
OL時代も、私は会社の天引預金というものを絶対にやらなかったんです。
母が、
「お金は天下の回りものよ。チマチマと貯めるより、使うべき時に使った方が為になるわ」
って言うものですから。
でも、羽振りの良かった祖父も、母が結婚後、事業の失敗で没落してるです。祖母は没落後、夕食に平然と家族に水を飲ませていたって(笑)。いい時は料亭の仕出しで、だめなら水。ダメな時のために蓄えを残しておこうなんて、まったく考えなかったんですね。
私の今の職業も将来のことはわかりません。でも、祖父母と母の影響を受け、「ま、いい時期もあったから」と思って、だめになったら水を飲みますよ(笑)。
母はいまだかつて、一度も働いたことがないんです。父親の羽振りのいい時期に育ち、父と結婚してからは主婦業のみ。そんな母が六十歳過ぎてからいろんなことを始めました。ゴルフを始めたり、学校に行ったり、そんな母を、父はまったく規制しません。勝手にさせて、自分は家で油絵を描いています。
本当はね、夫婦でゴルフへ行ったりすればいいんだけど、父にはプライドがあるようです。父は体育会水泳部出身で、私が生まれてからもずっと国体の選手でした。そんなスポーツマンだけに、今からゴルフなんか習いたくないのね。だから母を送り出し、「迎えに来て」と連絡があると、父が迎えに行きます。
母は態度が大きい割りには方向音痴で、初めのところには絶対に一人では行けないし、帰ってこられないんです。だから、旅行や温泉より、都心のホテルが一番のリフレッシュと必ず言いますね。
「誕生日のプレゼント、何にしようか?」と言うと、「ホテルをとって」と必ず言いますね。
父と泊まったり、お友達と泊まったりして、アーケードでお買い物し、ホテルのレストランで食事をするのが一番だわ、って。
とにかく、すべてが「ケ・セラ・セラ」なので、家族は楽です。
私がOLを辞める時も、朝、二階から降りて来て「辞めるわ」と言ったら、「アッ、そう、コーヒー、沸いているわよ」、そう言っておしまいでしたから(笑)。
怒られたと言えば、大学の時とOL時代に一度ずつあります。
私が入った美大なんていうところは、学科の成績よりも美術の才能が重視されて当然ですよね。でも、私はあの頃、「勉強ができる」ということを価値観にしているところがあり、「みんな勉強ができな過ぎてイヤ」と、中退を考えました。それを聞いて、母は怒った、怒った。
「一芸に秀でる、ひとつのことがものすごくできる人たちの価値が分からないの!」
もう一度OL時代。ちょうど、私の女友達が遊びに来て泊まった夜のことです。
たまたま、共通の男友達から電話がかかってきました。私が話をし、彼女に代わる。
二人で、結構ハシャグというか、キャーピーしてしまったのね。その受け答えは、母のキャパシティーを超え、母はキレました。ただ、女友達がいたので、その日は我慢。翌日、私が会社で仕事をしていると、昼休み、母からの怒りの電話です。
「ああいう品のないハシャギ方、浮ついた物言いはやめてもらう。あんな下品な娘に育てたつもりはないわよ!」
これからも好き勝手に宗春流の生き方をしてほしいと思いますね。私の手には負えませんから(笑)。
私は父の足首が好きだった
父は早稲田大の体育水泳部出身で、その鍛えられて引き締まった足首は、晩年になってからも見事に美しかった。私はいつも、
「若乃花の足首みたいね」
と言い、見惚れていたものである。
その父が、突然の心筋梗塞で逝き、この四月(九七年)で一年がたった。心筋梗塞で最期を迎えようとは、予想もしていなかった。と言うのも、父は人間ドックなどで非常に優れた「スポーツマン心臓」と診断されていたのである。シロウト目には、心臓で死ぬなど考えられぬことであった。
当然ながら、死の兆候は何もなかったのだが、一週間ほど風邪気味であった。そんなある日、父は遠くを見る目をして、母に言ったそうである。
「何だかきれいなモザイク模様に見えるんだけど、何だろう。お前にも見えるか?」
母には何も見えなかった。
「何も見えないわよ。モザイク模様ってどんな風に?」
「黒とピンクがモザイクみたいに輝いて、すごくきれいなものが見えるんだよ。何だかわからないけど、とにかくきれいなんだ。本当に見えないのか?」
最初、母は気にも留めなかった。しかし、父は毎日、遠いところを見る目をしては言う。
「今日も見える。何だろう。キラキラしてピンクと黒がきれいだなァ」
母は風邪薬が強すぎて幻影が出ているのではないかと心配になってきた。
「もう一度診てもらった方がいいから、病院に行きましょう」
父は頷き、軽やかに立ち上がった。
「じゃ、今から行くか。ちょっと着替えて来るよ」
そう言ってリビングを出たものの、支度に手間取っているのか戻ってこない。母が、
「いつまで着替えてるの、
何処にいるの?」
と言いながら探しに行くと、父の倒れている姿があった。
通夜の席で、母はポツンと言った。
「きれいなモザイク模様って、極楽浄土だったんじゃないかしらね…」
そうに違いないと思った。死期が迫っていた父に、仏はこれから行くべきところを見せてくれたに相違ないと思った。何も怖くないんだよ、こんなにきれいで楽しい所だよと。
私は父の言葉から、極楽浄土とは噂に違わぬ美しさと輝きを持っているところだと知っ
た。そして、父は地獄ではなく極楽に飛んでいったという証をつかんだ気がして、通夜の
席で思わず笑みがこぼれた。
翌日、納棺の際に見た父の足首は、いつにも増してきれいであった。私は幼い頃から好
きだった足首を、脳裏に焼き付けるほど見つめた。
以前、山田風太郎さんが「筆を持つ娘がいる父親は幸せだ。神格化して書くからね」と
おっしゃっていたが、私は今、あの足首を思い出にしながら「本当にそうね」と笑っている。
父が急死したのは平成八年四月二十二日の朝であった。急性心筋梗塞で、あっ気なく旅
立ってしまった。
その朝、私はNHKラジオの生放送に出演することになっており、終了後には大河ドラマ『毛利元就』の主役発表記者会見に同席する予定でいた。
記者発表の方は私がいなくてもかまわないが、生放送にはアナはあけられない。私はラジオのスタッフには一切を秘密にし、出演した。終了後、そそくさと帰り支度を始める私に、スタッフが怪訝そうに聞いた。
「お茶でも。お急ぎなんですか?」
その時、初めて打ち明けた。
「今朝、父が亡くなりまして」
スタッフは絶句し、私の方が困惑するほど青くなった。が、当の私は妙に落ち着いていたのである。長患いでもしたならともかく、まったく予期せぬ死であったというのに、妙に落ち着いていた。
私はNHKから都内の自宅に戻ると、すぐに横浜の実家に帰る準備を始めた。喪服や必要なものをスーツケースに詰め、仕事を離れる期間の指示を細かく秘書に伝えた。ちょうど『毛利元就』の脚本を書き始めたところであり、分刻みのスケジュールで動いている時期である。そんな時に脚本家が戦線を離脱するのは、スタッフにとって大変な痛手である。それだけに、私の指示は微に入り細にわたり、秘書が思わず、
「もう私に任せて、早く横浜に行ってくださいッ」
と叫んだほどである。さらに私は、玄関で一人呟いた。
「こういう時は、自分で運転すると危ないわ。タクシーで行こう」
まったくこの落ち着き方は異常であり、自分でも信じられなかった。
それから三十分後、私はハッとした。気づくと、自分でハンドルを握り、第三京浜を横浜に向かってぶっ飛ばしていたのである。ガレージから車を出したことも、第三京浜に至る道を走ったことも、まったく覚えていなかった。ハッと気づいた時には、スピードメーターが百二十キロを示し、愛車はうなりを上げて横浜に向かって疾走していたのである。
私は何一つ落ち着いていなかったのだと、思い知らされていた。秘書に指示を出したのかも全然覚えていないのである。
後になって、その指示が的を射ていたと言われ、不思議だった。どう考えても、何もかも無意識のうちに動いていたとしか思えない。空白の意識の中で、妙にキビキビと動き、落ち着いている自分をきちんと意識している。何とも不思議なことであった。
そんな自分にやっと気づいた私は、車をとにかく路肩に停めた。このまま横浜まで走るのは危険だと、今度は本当に意識していた。ハンドルから離した手は、びっしょりと汗をかいている。
私はその汗を拭いながら、運転席からふと空を見上げた。四月の柔らかな青空が広がっている。それはキーンと張りつめた秋の空と違い、ふんわりと優し気な青空だった。
その青空を見た時、私は初めて、父はもうあの空に行ってしまったのだと思った。そして、優し気な青空でよかったと思っていた。
考えてみれば、祖父母の死以来、私は肉親の告別をまったく経験していない。最後に亡くなった祖父とて、十三年も昔のことである。そこに突然、父の死が訪れたのだから、実はその動揺は計り知れないほど大きかったのである。
そんな中で私が何よりも恐れたのは、ショックのあまりに母や私が精神に異常をきたすのではないかということだった。弟は仕事の関係で北京に駐在しており、葬儀が終わると再び日本を離れている。日本にいないということは、つらさも今ひとつ現実感が少ないのではないか。それは幸せなことである。
しかし、私と母はそうはいかない。父が消えてしまった日々を重ねる中で、ジワジワと精神が壊れていくことはあり得る。それでも死に際して失神したり、号泣したりと言うような激情の発露があったならまだしも、母にも私もそういう形ではなく、「空白」「無意識」という形で悲しみが訪れていた。この方がずっと怖いような気がしてならなかった。
肉親の死に際し、精神が壊れてしまうことは、ある意味では当然だ。が、私は『毛利元就』の現場が待っている。それも、スタッフは私の心中を察し、「早く復帰してくれませんか」などとはひと言も言わない。彼らの厚情を思うと、精神などこわす暇はないのである。
私が「これはもう、力ずくで立ち直るしかないな」と腹を決めた時、思わぬ精神的バックアップをして下さったのが、菩提寺のご住職である。
父は高輪の東禅寺で眠っているのだが、当時の松田住職と、現在の千代城住職がそれぞれ細やかに話し相手になって下さった。それは決して、仏の道を説くというような大上段から振りかぶるものではなく、ご自分の人生の話など含め、茶飲み話をしているかのような時間であった。
常日頃は忙しさにかまけて、墓参りも菩提寺もどこ吹く風の私であったのに、この時ばかりは救われた。妻帯もせずに仏に仕える宗教家の佇まいは、父に極楽浄土で幸せに生きていることを信じさせてくれた。父の幸せを感じると、力ずくではなく自然に私自身が解き放されていく。
こうして、私は精神が壊れるどころかスタッフも驚く速さで、大河ドラマの戦線に復帰した。
父の死は辛かったが、あの柔らかな四月の青空を思いて出す時、そして私を立ち直らせてくれた多くの方々を思い出すとき、自分が以前よりちょっぴり優しくなったように思ったりもするのである。
2000年12月20日 内館牧子
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