女の生涯――女が相変わらず雌の機能に閉じ込められているために――男よりもずっとその生理的運命に左右される。女の生理的運命の曲線はよりギクシャクしており、非連続的である。女の人生は、時期ごとに見ると完結していて単調だか、一つの段階から次の段階への移行は急激で、危険をともなう。この移行は思春期、性への入門期、閉経期というように、男よりずっと決定的な危機となって現れる。

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第九章 熟年期から老年期へ

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳
一般に三十五歳くらいになってやっとさまざまな抑制が克服され、官能がいっぱい開花することになる。この時期には、女の欲望は最も激しくなり、女は最も貪欲に欲望を満たそうとする。男より女の方が自分に備わる性的な価値に重きを置いてきた。

女の生涯――女が相変わらず雌の機能に閉じ込められているために――男よりもずっとその生理的運命に左右される。女の生理的運命の曲線はよりギクシャクしており、非連続的である。女の人生は、時期ごとに見ると完結していて単調だか、一つの段階から次の段階への移行は急激で、危険をともなう。この移行は思春期、性への入門期、閉経期というように、男よりずっと決定的な危機となって現れる。

男は徐々に老化していくことに対し、女は突然、女の特質を奪われてしまう。女はまだ若いうちに性的魅力や出産能力を失うが、それこそが、社会の目にも自分自身の目にも、自分の存在の根拠と幸福のチャンスを引き出すもとになっていたのだ。こうした女は、成人としての人生のほぼ半分を、あらゆる未来を奪われて生きてかなければならない。

「危険な年齢[更年期]は、いくつかの器官的疾患によって特徴づけられるが(*1)、そうした疾患が重要性をもつのは、それらの疾患がおびる象徴的な意味のせいである。何よりも自分の女らしさに賭けてきた女は、この危機をいっそう切実に感じる。家庭内にしろ家庭外にしろ、厳しい労働をしている女たちは、月経の束縛がなくなったことをほっとして受け入れる。

たえず妊娠のおそれを感じている農婦や工事用労働者は、やっとこの危険から免れることを幸せに思う。閉経期においても、他の様々な状況におけるのと同じように、女の体調が悪くなる原因は体そのものよりも、女が体に対して抱く不安感にある。精神的な葛藤は普通、生理的な現象が開始される前に始まり、その現象がおさまった後しばらくして、やっと終了するのである。

身体的な機能障害が決定的になるずっと前から、女は老いの恐怖に取りつかれている。熟年の男は色恋よりも重要な企てに係わっていて、性的な情熱も若い頃より弱くなっている。また男は、客体としての受動的性質を求められていることがないので、容貌や肉体が老化しても、ひとを魅了する力が損なわれない。

逆に女の場合は、一般に三十五歳くらいになってやっとさまざまな抑制が克服され、官能がいっぱい開花することになる。この時期には、女の欲望は最も激しくなり、女は最も貪欲に欲望を満たそうとする。男より女の方が自分に備わる性的な価値に重きを置いてきた。

夫をつなぎ止め、男の気に入られることが必要なのだ。女は男に媒介してもらってはじめて世界に働きかけることもできる。それなのに、男に働きかける手段をうしなったら、いったい自分はどうなることだろう。この問いこそ、女が、自分と同一視しているこの肉体という客体の変形をなすすべもなく見守りながら、不安げに発する問いなのである。女は抵抗し、闘う。

しかし、髪を染めたり、皮膚整形や美容整形をしてみても、いまや死に瀕している若さを引き伸ばすのがせいぜいである。少なくとも鏡は誤魔化せるかもしれない。だが、思春期に作り上げられた構築物が彼女のうちですっかり破壊されていく、決定的、不可逆的なプロセスが開始されるとき、女は死すべきものとしての運命そのものに捉えられたように感じる。

最もひどい動揺を経験するのは、自分の美貌や若さに最も夢中になっている女だと思えるのかもしれない。ところが、そうではない、ナルシストの女は、自分のことを非常に気にかけているので、逃れられない運命の日がくることをあらかじめ見込んでいるし、避難場所も用意してある。

たしかに、そうした女も自分の身体的な損傷に苦しみはするだろうが、少なくとも不意を打たれることはないし、かなり素早く適応するだろう。自分のことを忘れ、献身的で、自分を犠牲にしてきた女の方が、事態を突然認識して、ずっと大きな衝撃を受けることになる。

「私には一つの人生しか生きられなかったというのに。これが私の運命だった、これが私だったなんて」。こうして、まわりの人たちを驚かせるほど根本的な変化が彼女のなかに生じる。隠れていた場所から追い払われ、立てていた計画を取り上げられ、突如として彼女は誰の援助もなく、自分自身と向き合うことになる。彼女には、思いがけず突き当たったこの境界を通り越すと、あとはただ生き延びているだけのように思われる。

自分の肉体にはもう前途はない。自分が果たせなかった夢や願望は永遠に実現されることはないだろう。こうした新たな立場から、彼女は過去を振り返る。過去はご破算にし、決算をする時がきたのだ。彼女は過去を総括する。そして、人生から窮屈な制約を課されてきたことに啞然とする。自分の生涯であった、この短い、失望に満ちた生涯に向かい合うとき、ふたたび彼女は、まだ入れない未来への入り口にたたずむ思春期の少女のようにふるまう。

自分の有効性を拒否し、自分の存在の貧しさ自分の人格の混沌とした豊かさを対比してみる。女として、自分の運命にともかくも従順に従ってきた彼女には、自分が機会を奪われ、騙されたように思われる。青春から熟年へと自覚もなくいつのまにか移行していたように思われる。夫も環境も職業も自分にふさわしいものではなかったことに気づく。

自分が理解されていないように感じる。彼女は自分がすぐれていると思い。まわりから孤立する。心の中に秘密を抱いて、自分のなかに閉じこもる。この秘密だけが彼女の不幸せな運命を解いてくれる深遠な鍵なのである。彼女はまだ残っている可能性をひととおり検討してみようとする。

日記をつけ始めたり、打ち明け話を聞いて理解してくれる相手が見つかると、とめどなくしゃべり続け、心情をさらけ出す。そして、一日中、昼も夜も、後悔や不満を反芻(はんすう)する。若い娘が自分の未来はどんなものになるだろうと夢想するように、彼女は自分の過去がどんなものでありえただろうと想像する。

逃してしまった機会を思い描いてみたり、回顧的な美しい物語を作り出したりする。H・ドイッチュが例として引いているある女の場合、彼女はまだ若いうちに不幸な結婚に破れ、そのあと二度目の夫の下で平和な長い年月を過ごしたが、四十五歳過ぎてから、最初の夫を懐かしがり苦しみ、憂鬱症に陥っている。子供時代や思春期の関心事が蘇って来て、若い頃の話を際限なく繰り返す女もいる。

また、両親や兄弟姉妹、幼友達に対する眠っていた気持ちがふたたび掻き立てられる。時には、夢見がちな受け身で陰気な気分に浸っている女もいるが、最も多いのは、失われた生活を取り戻そうと急に試みる女である。

これまでの貧弱な運命とは対照的な、今になって気づいたこの人格をひけらかし、見せびらかし、長所を自慢し、是非にも正当な評価を要求する。経験によって成熟した今、ようやく自分の真価を発揮できると思う。彼女は自分の運を取り戻したいと願う。

まず第一に、涙ぐましい努力によって、時間を止めようとする。母性的な女は、まだ子どもを産めると請け合う。そしてもう一度、生命を生み出そうと夢中になる。官能的な女は、新しい恋人を獲得しようと努力する。異性を引き付けるタイプの女は、男の気に入ることにこれまで以上に熱心になる。

そうした女はみんな、今ほど自分を若く感じたことはないと言う。自分たちが時の経過にまだほんとには捕らえられていないことを他人に納得させたいのだ。彼女たちは「若づくり」を始め、子どもっぽいしぐさをする。老年にさしかかっている女は、自分の性愛の対象ではなくなったからだけではないことを知っている。というのも、彼女の過去、彼女の経験が否応なく彼女を一人の人間にするからである。

彼女は自分のために闘い、愛し、望み、苦しみ、喜んだ。こうした自主性は男を怖気づかせる。そこで彼女はその自主性を否定しようとする。自分の女らしさを誇張し、着飾り、香水をふりかけ、自分を色気と魅力のかたまりに、純粋な内在性(用語解説)にする。無邪気な眼差しと子どもっぽい口調で、相手の男を称賛する。

小さかった頃の思い出をまくし立てる。話をするというよりもさえずるのであり、手を叩き、けらけら笑い転げる。彼女はそのある種の真面目さでこうした喜劇を演じるのだ。というのも、彼女が抱いている新しい関心、これまでの習慣から抜け出して新たに出直したいという願望は、ふたたびやり直せるという印象を彼女に与えるからである。

実際には、ここで問題になっているのは真の出発ではない。彼女は世界のなかに自由で有効な動きによって自分を投企(プロジェ「用語解説」)できるような目的を見つけないからだ。彼女の落ち着きのない動きは、突拍子もなく、一貫性のない、無駄な形で現われる。それは過去の過ちや失敗を補おうとするポーズに過ぎないからである。

この時期の女は、とりわけ、幼年期や思春期の頃のあらゆる願望を手遅れにならないうちに実現しようと努めるだろう。ピアノを再開する女もいれば、彫刻をしたり、文章を書いたり、旅行をしたりする女もいる。スキーや外国語を習う女もいる。それまで自分で拒否していたものすべてを――やはり手遅れにならないうちに――受け入れようと決心する

以前には我慢していた夫への嫌悪を告白し、夫に抱かれると不感症になる。あるいは逆に、それまで抑えていた情熱に身を任せる女もいる。そうした女は夫に欲望をぶつけたり。子どもの頃からやめていたマスターベーションをまたするようになる。同性愛的な傾向――これは、ほとんどすべての女に潜在的なかたちで存在する――がはっきり現れる。この傾向を自分の娘に向ける場合も多い。しかしまた、通常とは異なる感情が女の友人に対しても生まれることもある。ラム・ランドウは『性・人生・信仰』という著書のなかで、患者から聞いた次のような話を語っている。

同性愛

それまで彼女は同性愛というものを全く知らなかったし、「こんなこと」が存在することさえ知らなかった。彼女は夢中になってY嬢のことを考え、生まれて初めて、夫の愛撫や単調なセックスがあまりよくなかったことに気づいた。それまで彼女は同性愛というものを全く知らなかった。

X夫人は五十歳に手が届こうとしていた。結婚生活二十五年、すでに成人した三人の子の母で、住んでいる町の社会慈善団体でも傑出した地位を占めていた。
彼女はロンドンで彼女と同じように社会事業に献身している十歳年下の女性と出会った。二人は友だちになり、そのY嬢はX夫人に次にロンドンに来たには彼女の家に停まるようにと提案した。X夫人は承知した。

彼女がY嬢のところに泊まった二日目の夜、突然、彼女は自分がY嬢を情熱的に抱擁していることに気づいた。どうしてそんなことになったのかは全然わからないと彼女は何度も確信した。彼女はその夜を女友だちと過ごし、自分の家に帰ったときは、恐ろしかった。

それまで彼女は同性愛というものを全く知らなかったし、「こんなこと」が存在することさえ知らなかった。彼女は夢中になってY嬢のことを考え、生まれて初めて、夫の愛撫や単調なセックスがあまりよくなかったことに気づいた。それまで彼女は同性愛というものを全く知らなかった。「こんなこと」が存在することさえ知らなかった。彼女は夢中になってY嬢に会う決心をしたが、彼女の情熱は募るばかりだった。この関係は、それまで経験したことのなかった喜びで彼女を満たした。

けれども彼女は、罪を犯したという考えに苦しめられて、自分の状態は「科学的に説明」できるかどうか、なにか道徳的な論拠で説明できるかどうか知りたくて医者に相談したのだった。

このケースでは、当人は自然な衝動に身を任せたのであり、また、彼女自身それによって深く動揺させられている。しかし、それまで経験したことのない、そしてやがてもう経験できなくなる小説めいたことを意図的に体験しようとする女も多い。そうした女は家庭から遠ざかる。

家庭が自分にふさわしくないと思うと同時に独りになりたいと思うからである。情事に巡り合うと、むさぼるようにそれに熱中する。
シュテーケルが報告している話の場合もそうである。

B・Z夫人は四十歳で、三人の子どもがいた。結婚後二十年たって、彼女は自分が理解されていない、自分の人生は失敗だったと思い始めた。彼女は熱心にさまざまな活動を始めたが、そのうち、スキーをしに山にでかけた。彼女はそこで三十歳の男と出会い、その愛人になる。ところが、やがてこの男はB・Z夫人の娘に恋をする。

男を自分の傍にひきとめておくために、彼女は娘との結婚に同意する。母と娘のあいだは意識されないが非常に強い同性愛的な感情があり、それが、なぜこうした同意を決心したかを一部分説明している。しかしながら、やがて状況は耐え難いものになる。夜、男は母親のベッドから出て娘のそばに行くというようなことが起こる。

B・Z夫人は自殺しようとする。彼女がシュテーケルの治療を受けたのは、その当時――彼女は四十六歳になっていた――である。彼女は男と別れる決心をし、娘の方も結婚の計画をあきらめる。B・Z夫人はふたたび模範的な妻にもどり、信仰に没頭した。

品位や貞淑の伝統に抑えつけられている女は、行動にまでいたらないこともある。しかし、彼女の見る夢にはエロチックな亡霊がつきまとい、起きている時でさえ悩まされる。彼女は自分の子どもに熱狂的で官能的な愛情を示す。息子に対して近親相姦的な妄想を抱く。若い男に次々と密かな恋心を寄せる。思春期の少女のように、犯されはしないかという考えにとりつかれる。

また、売春の誘惑に目がくらむ。欲望と恐怖を同時に感じることで不安が生じ、時にはその不安が神経症を引き起こす。こうした彼女は奇妙な振る舞いをしてまわりの顰蹙(ひんしゅく)をかうが、そうした振る舞いは実は彼女の空想の生活の表れなのだ。

空想と現実の世界の境界線は、この動揺期には思春期よりもいっそう不確かになる。老年期の女に最も特徴的な兆候の一つは、自分を確認するためのあらゆる客観的な目印を失う人格喪失の感覚がある。まったく健康な人が死を間近に経験したとき、自分が二人いるような奇妙な感じがしたと言う。

自分を意識であり、行動であり、自由であると感じているときに、運命に弄ばれる受動的な客体が自分とは別人に思えるのは当然である。いま車に轢かれたのは私ではない。鏡に映っているこのお婆さんは私ではない、という訳だ。「いまほど自分を若く感じたことはなく」、そして、いまほど年老いた自分を見たことがない女には、自分自身のこの二つの側面を一致させることができない。

女は恍惚と幻想と妄想に身を任せる

時の流れ、時間が彼女を蝕むのは、夢の中のことである。こうして現実は遠ざかり、薄れていく。同時に、幻影し自分自身の区別がつかなくなる。時間が後ずさりしていくこの奇妙な世界、自分の分身がもう自分に似ておらず出来事が自分を裏切るこの奇妙な世界よりも、自分の心中の紛れもない事実の方を信用するようになる。こうした彼女は恍惚と幻想と妄想に身を任せるようになる。

いまや恋愛はこれまでにもまして彼女の主要な関心事なのだから、自分が愛されていると錯覚するのは当たり前だ。色情狂の一〇人中九人は女である。そしてほとんど四十歳から五十歳である。

けれども、誰もがこれほど大胆に現実の壁を突破できるわけではない。人間の愛に夢の中でさえ裏切られた多くの女たちは神に救いを求める。浮気女、恋多き女、移り気な女が信心家になるのは閉経時である。人生の秋を目前にした女が、運命、神秘、理解されない人格について抱く漠然とした考えが、宗教のなかに合理的な一貫性を見出すのだ。

信心深い女は自分の失敗した人生を主のくだされた試練だと考える。彼女の魂は不幸をとおして例外的な功徳を汲み取り、それによって特別に神の恩寵(おんちょう)に浴する。ともすればそうした女は、天から啓示を賜るとか、さらには――クリューデナー男爵夫人[一七六四-一八二四、ロシア生まれの文学者、神秘家]のように――天から緊急の使命を託されるのだとか信じるようになる。

彼女たちは多かれ少なかれ現実感覚を失くしているので、この老年期の危機のあいだ、さまざまな暗示にかかりやすい。霊的指導者は、こうした女の魂に強い影響力を及ぼすのに適した立場にいる。彼女たちはもっと疑わしい権威でも熱狂的に受け入れるだろう。

彼女たちは、さまざまな宗派や、交霊術者、予言者、祈禱師にとって、あらゆるいかさま師にとって、絶好の餌食なのだ。それは単に彼女たちが現実世界との接触を失い、いっさいの批判的感覚を失っているためばかりではなく、決定的な真実を希求しているからである。

ある日突然、世界を救済することで自分も救われるような方策、処方箋、鍵を必要としているのだ。彼女は自分の個別的ケースには明らかに当てはまらない論理をこれまで以上に軽蔑する。自分のために特別に用意された議論だけが説得力をもつと思われる。啓示や、霊感、天命、おしるし、さらに奇跡といったものが彼女のまわりに花開く。

彼女が見出したものが彼女の行動へと導くこともある。なんらかの助言者や内心の声に動かされて、商売や事業や冒険に身を投じるのだ。また時には、真実や絶対的な英知の所持者であると自認するだけにとどまることもある。行動的であるにしろ、瞑想的であるにしろ、彼女の態度には熱をおびた高揚がともなっている。

閉経期の危機

は女の人生に容赦なく真っ二つに分断する。この断絶こそが女に「新しい人生」という幻影を与えるのだ。彼女の前に開けているのは別の時であり、彼女は改宗者の熱意を持っていて、その時に向かっていく。彼女の恋愛に、人生に、神に、芸術に、人類に目覚めたのである。こうしたものに没頭し、自分を高める。自分は一度死んで生き返ったのであり、あの世の秘密を知った目で地上を眺め、未踏の頂に向かって飛び立つのだと信じる。

しかしながら、地上は元のまま変わりはない。頂は依然として手の届かないところにある。天命は授かっても――それは眩しいほど明白なものであっても――その意味を解読するのは難しい。心の中の光は消え、鏡の前には、前日よりも一日分さらに年老いた女が残っているだけである。

熱狂の瞬間の後に、憂鬱な消沈の時が続く。身体はこのリズムを告げている。というのも、ホルモンの分泌の減少が脳下垂体の異常活動によって補われるからだ。けれども、こうした変化を支配するのはとりわけ心理的な状況である。なぜなら、興奮や、幻想、熱狂は、過ぎ去った宿命に対する防御策にすぎないからだ。

その生命はすでに燃え尽きたのに、まだ死が迎えに来ない女の喉を、ふたたび不安に締め付ける。彼女は絶望に対して刃向かうかわりに、しばしばそれに麻痺してしまう。不満や後悔や不平をくどくどと繰り返し、隣人や身近な人たちが意地の悪い策略をしているのではないかと邪推する。
つづく 九章 Ⅱ 女の病的嫉妬
キーワード、被害妄想、病的な嫉妬、閉経期を迎える女、男女の闘いは搾取者と非搾取者の決闘、老年の女、