彼女は一人に執着するより、大勢の賛美者を魅惑する方が好きだ。若い娘よりも熱烈で、人馴れしている彼女の媚態は男たちに自分の価値と力を認めさせようとする。家庭に根を下ろし、一人の男を得るのに成功して、たいした希望も危険もなく遊んでいればいるほど、こうした女は大胆であることが多い。

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七章 X 女の不貞・不倫・姦通

本表紙第二の性 U体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

ひとに欲望をもたなければ、ひとに愛されなければ、望ましくも、愛らしくもない。女が結婚にほぼ順応している場合には、他の男たちに彼女が求めるのはとくに虚栄心の満足である。彼女が自分自身に捧げている崇拝に彼らも加わるように誘う。誘惑し、喜ばせ、禁じられた恋を夢見て、私が望みさえしたら・・・・と思って満足する。

 彼女は一人に執着するより、大勢の賛美者を魅惑する方が好きだ。若い娘よりも熱烈で、人馴れしている彼女の媚態は男たちに自分の価値と力を認めさせようとする。家庭に根を下ろし、一人の男を得るのに成功して、たいした希望も危険もなく遊んでいればいるほど、こうした女は大胆であることが多い。

 しばらく貞淑な時期を過ごし後、女は、もう、こうした恋愛遊戯や媚態だけに溜まっていないこともある。夫に対する恨みの気持ちから、夫を裏切ってやろうと決心することも多い。アドラーは女の不貞はつねに復讐であると主張している。これは言い過ぎだ。だが、事実、愛人の誘惑に負けるよりも夫に挑戦したいという欲望に負けてしまう事がよくあるのだ。

 「あの人が世界でたった一人の男というわけじゃない――私が気に入る男は他にもいる――私は奴隷じゃない、あの人、うまくやってるつもりだわ。でも私に騙されてるんだ」。夫は笑いものにされていても、妻の目には基本的な重要性を失っていなこともある。若い娘が母親に対する反抗心から恋人をつくり、両親の不平を言い、両親に逆らって、自己を確立しようとするように、恨みそのものによって夫に執着している女は、愛人に、打ち明け話の相手、自分という犠牲者の証人、夫をこきおろすのを手伝ってくれる共犯者を求めているのだ。

 夫のことを明かして愛人に軽蔑を誘おうと、絶えず夫のことを話す。もしも愛人がうまく役割を果たしてくれないと、彼女は不機嫌に彼から遠ざかり、夫の方に戻るか、別の慰め手を探す。しかし、よくあるのは、恨みよりは失望の気持ちから愛人の腕のなかに飛び込む場合である。結婚生活でこうした女は愛に出会っていない。若い頃から期待に胸をふくらませていた官能の悦びや性の快楽を一度も味わったことがないことになかなか諦めがつかないのだ。結婚で、女はあらゆる性愛の充足に失望させられ、自分の感情の自由と独自性を拒否されて、必然的で皮肉な弁証法によって姦通へと導かれるのである。

 モンテーニュは言う。

 われわれは子どもの頃から愛を仲立ちにして女をしつけ・女のしとやかさ、おめかし、教養、言葉使い。あらゆる教育がこうした目的だけをめざしている。家庭教師は彼女たちにひたすら愛の顔のみを刻みつける。その事ばかり絶えず言うので、それを嫌わせてしまうかもしれないが・・・・

 モンテーニュはもう少し先でこう付け加えている。

  ゆえに、女とってかくも痛烈でかくも自然な欲望を女に抑制させようとすることは狂気の沙汰である。
 また、エンゲルスははっきりと言っている。

 一夫一妻制・娼婦制

 一夫一妻制とともに、ふたつの特徴的な社会的人物像が恒常的に現れる。妻の愛人と、妻に姦通された夫である・・・・一夫一妻制と娼婦性のかたわらで、姦通は不可避ではあるが禁止され、厳しく罰せられるが廃止できないといった一つの社会的制度になる。

 夫婦の抱擁が女の官能を満足させずに、その好奇心を刺激してきたとしたら、コレットの『淫らなおぼこ娘』のように、女は他の男のペットでこの教育を完成させようとする。夫がうまく妻の性感を目覚めさせると、妻は、夫に個別的な執着を抱かないので、夫のお蔭で発見できた快楽を他の男と味わいたいと思うようになる。

 道徳主義者たちは女が愛人の方を気に入るとことに憤慨してきた。また、すでに指摘したように、ブルジョア文学は夫の人物像の名誉復権に努めてきた。だが、社会の目には――つまり、他の男たちの目には――夫の方がライバルより価値がある場合が多いということを示して夫を擁護するのは不合理である。問題は、夫が妻にどう見えるかという事である。

 ところで、夫を忌まわしいものにする本質的な特徴が二つある。まず、性の手ほどきをするという報われない役割を引き受けるのが夫だということだ。自分が暴行されるのと丁重に扱われるのを同時に夢想している処女の矛盾した要求のせいで、夫はほとんど必然的に失敗する。彼女は夫の腕のなかでは永遠に不感症のままだ。

 愛人が相手だと、処女喪失の苦しみも、羞恥心が打ち負かされるという初めての屈辱も感じない。不意打ちの心的外傷(トラウマ)はない。起こるはずのことは大体わかっている。初夜の時より素直で傷つきにくく、世間知らずではなくなった彼女は、理想の愛と愛人を得るのは愛人が欲しいからである。

 この明快さは彼女の選択が自由だということの一側面である。なぜなら、そこには夫のもう一つの欠陥があるのだから。普通、夫はあてがわれた相手であり、自分が選んだ相手ではない。彼女があきらめて承諾したか、家族が渡したかである。たとえ愛によって結婚したとしても、結婚することによって、彼女は夫を主人にしたのである。

 二人の関係は義務になり、夫はしばしば暴君の姿に見える。おそらく、愛人の選択も周囲の事情に制限されるが、この関係には自由の次元がある。結婚することは義務であるが、愛人を得ることは贅沢である。女が愛人に譲歩するのは彼に心惹かれるからである。彼女は、自分の愛とは言わないまでも、自分の欲望は確信している。
 
 愛人がすすんで事を行うのは法に従うためではない。彼にはまた、日常生活の軋轢のなかで自分の誘惑力や魅力をすり減らさないという利点がある。彼は距離のある一人の他者のままだ。だから、女は、愛人と過ごす時には、自己から出て、新しい豊かさに近づくような気がする。

 彼女は自分を別人のように感じる。これこそ。ある女たちが愛人関係でなによりも求めることである。他者によって占有され、驚かされ、自分自身から引き出してほしいのだ。別れは彼女たちに絶望的な空虚感を残す。ジャネ(*12)はこうした憂鬱症のいくつかの事例をあげている。女が愛人に何を求め、見出してきたかが陰画的に示されている。

 三十九歳の女性。五年のあいだ。ある文学者の仕事に協力してきたが、彼に捨てられたことを遺憾に思って、ジャネに手紙を書いた。「あのひと豊かな生活をしておりましたし、たいへんな暴君でしたので、あのひとのお世話をすることしかできませんでした。他のことは考えられませんでした」

 もうひとりは三十一歳の女性。熱愛していた恋人と別れて病気になってしまった。「あのひとの机の上のインク壺になって、あのひとの姿が見たい、声が聞きたい」と、彼女は書いている。そして説明する。「一人きりで退屈しています。夫は私の頭を十分に働かせてくれません。驚かせてもくれません・・・・夫にはただ普通の良識があるばかり。これにはもううんざりです」。

差し込み文章

 男にとってセックスは自分の立場、男としての有能感を賭けた戦いの場。
 それですべてがうまくいき、満足できればけっこうなことだが、“戦い”に敗れたときは悲惨である。失われた自信はそう簡単に回復できない。まして、女性から「あなたヘタね」とテクニックを批判されたり、「もうイッちゃったの?」と早漏を指摘されたり、「けっこう小さいのね」とペニスの小ささを笑われたりすると、セックスすることがすっかり怖くなってしまつたりする。
演技せざるを得ない女性
 ところで、「どうだった?」「イッた?」と男性から聞かれた女性は、いったいどう答えてよいものか戸惑ってしまうものだ。
 「イカなかった」「ダメだった」と答えれば男性が落ち込むのは目に見えている。
だから本当はイッていなくても、「うん、いっちゃったよ」などとウソをつくか、「イクってどういうことかよくわかんないけど、気持ちよかったよ」などと答えてお茶を濁すしかない。
もうこんな無駄な低いレベルでは一生涯本当のオーガズムを得られるとは思えない。ペニス十二センチ以下で小ささではどう頑張っても膣内オーガズムをえる女性は少ない、特殊のインナーエクササイズを数年以上行っている女性でもオーガズムに達するのは難しいかも・・・・。
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 反対に、愛人にはついて、こう書いている。「驚くべき人なんです。少しでも動揺したり感動したりしたのを見たことがありません。はしゃいだり、なげやりだったりしたことも、あの人はつねに自分自身の主人。皮肉屋で、ひとを悲しみで死なせるほど冷たいんです。それに、傍若無人で冷静。頭脳明晰で知性があふれてる。私の頭がおかしくなるほどに・・・・」

 こうした満足感や楽しい興奮を愛人関係の初期にしか味わない女もいる。愛人がすぐに快楽を与えてくれないと――初めての時には、お互いに気後れしてしっくりいかないので、よくあることだが――相手に恨みや嫌悪を感じる。こうした「メッサリナ」のような女は経験を何度も繰り返し、愛人を次々に捨てる。しかし、夫婦間の失敗に啓発されて、今度は、まさに自分にふさわしい男に惹きつけられ、二人のあいだに持続的な愛人関係が作り出されることもある。彼女が愛人に惹かれるのは、彼が夫とはまったく違うタイプだからということがよくあるのだ。

 おそらく、サント=ブーヴ[十九世紀フランスの文芸評論家]はヴィクトル・ユゴー[十九世紀フランスの小説家、詩人]と対照的だったので、アデルを惹きつけたのだろう。シュテーケルは次の事例をあげている。

 P・H夫人は八年前、陸上競技クラブの会員と結婚した。彼女は軽い卵管炎で産婦人科の医院に診察を受けに行き、夫が放してくれないと訴える・・・・彼女は苦痛にしか感じない。夫は粗野で乱暴だ。ついに夫の愛人ができた。彼女にはそれがうれしい。彼女は離婚したいと思うが、弁護士事務所で夫とはまさに正反対の秘書と知り合いになる。彼はすらりとしていて、ひ弱で華奢だがたいへん親切でやさしい。

 初めてのオルガスムス

 二人は親しくなる。男は愛情を求め、優しい手紙を書いてきて、いろいろと敬意を払ってくれる。二人は精神的に共鳴する・・・・最初の接吻が彼女の知覚麻痺を消失させた・・・・この男の精力は比較的弱いが、女に強力なオルガスムスを引き起こす・・・・離婚後、二人は結婚し、たいへん幸せに暮らした・・・・接吻や愛撫でオルガスムスが起きることもあった。この同じ女性を、精力絶倫の元の夫は不感症だと非難していたのだ。

 すべて愛人関係がこのようなおとぎ話で終わるわけじゃない。若い娘が親の家から引き離してくれる解放者を夢見るように、夫婦生活のくびきから解放してくれる愛人を女が待っていることもある。それまで激しく恋していた男が、相手の女が結婚を話題にしはじめると冷たくなって、逃げ出してしまうというのは、よくあるテーマだ。彼が躊躇するので女が傷つき、恨みや反感から、今度は二人の関係が悪化してしまうこともある。

 愛人関係が安定すると、ついには家庭的になり夫婦のようになってしまうこともしばしばある。そこから見出されるのは倦怠、嫉妬、用心、策略、結婚生活のあらゆる欠陥である。そこで、女はこうした日常的惰性から救い出してくれる別の男を夢見るのである。

 とはいえ、姦通には慣習や状況に応じてたいへん異なった特徴がある。家父長制の伝統が存続している私たちの文明では、夫婦間の不貞は男より女にとってずっと深刻なものとして現れる。
 モンテーニュは言う。

 悪徳の見方が不当なのだ! われわれは自然によってではなく、利害によって悪徳に走ったり、さらにひどい悪徳を犯すのであって、そのために、悪徳にはあれほど多くの違った形があるのである。われわれの掟が過酷だから、女の状況がもたらすことは取るに足りない、悪徳に女はかえって熱中してしまい、もとの状況よりも悪い結果に導かれてしまうのだ。

 こうした厳しさの本来の理由はすでに見た。女の姦通には、よその男の息子を家庭に加えて、法定相続人の取り分を奪う危険がある。夫は主人であり、妻はその所有物だ。社会の諸変化や「バースコントロール」の実践によって、こうした動機はその力の多くを失ってきた。だが、女は依存状態にしておこうという意志がタブーを永続させており、女はいまだにタブーに取り囲まれている。

 しばしば女はこれを内面化している。夫婦間のとっぴな行為に目を閉じる。宗教や道徳や「貞淑さ」のために、女はどんな相互関係も考えられないのだ。周囲の人たちが行う規制は――新旧大陸の「小都市」ではとくに――夫を圧迫する規制よりずっと厳しい。夫は妻よりよく外出し、旅行するし、その逸脱行為はずっと大目にみられている。妻の方は自分の評判や結婚している女という立場を失ってしまうかもしれないのだ。

 こうした監視の目を欺くにいたる策略がしばしば描かれてきた。私はポルトガルのある小都市を知っているが、古臭い厳格さをそなえた町だ。そこには若い女が外出する時には必ず義理の母か姉妹がついてくる。しかし、美容師が仕事場の上にある部屋を貸してくれ、髪の「セット」と仕上げのブローのあいだに愛人同士は急いで抱き合うのである。大都市では見張りはずっと少ない。だが、以前よくあった「五時から七時までの」逢引きも、もう非合法の感情を幸せに花開かせるものでなくなった。

 いそいで、隠れて行われる姦通は人間的な自由な関係を作り出しはしない。そこに含まれる嘘がついには夫婦関係のいっさいの尊厳を否定してしまう。

 多くの階層で、女は、今日、性的自由を部分的に獲得している。しかし、夫婦生活と性的満足とを両立させることは、女には相変わらず難しい問題である。結婚には肉体的愛が一般に含まれていないとしたら、両者をはっきり分離してしまったほうが合理的だと思われるのだが。人も認めるように、男は素晴らしい夫にもなれるのが、それにもかかわらず浮気である。

 実際、夫が性的に気まぐれでも、共同生活という企てを妻と二人で友好的な者にしていくことは可能である。この友情は、それが束縛にならなければならないほど、それだけ両面感情(アンビヴアレンツ)が少なくなり、純粋にさえなるだろう。妻にも、同じことが認められるだろう。

 妻は夫と生活を共にし、子どもたちのために家庭を一緒に作り上げたいと望むが、それにもかかわらず、他の人との抱擁を経験したいのである。姦通を卑しいものにするのは、用心深くて偽善的な妥協である。自由で誠実な契約なら、結婚の欠陥の一つはなくなるだろうに。とはいえ、アレクサンドル・デュマ・フィス[1824-95、フランスの作家]の『ラ・フランション』のヒントになった「女は男と同じではない」という苛立たしい言葉には、今日でもまだ、かなりの真実味がある。

 男女の違いには自然的なものはなにもない。女は男ほど性的活動を必要としていないと言われているが、これほど不確かなことはない。性的に抑圧された女は気難しい妻、サディスティックな母親、偏執的な主婦、不幸で危険な人間になる。とにかく、女の欲望が男より希薄だとしても、このことは女が欲望を満足させるのは余計なことだとするための理由にはならない。

女の不貞

 男女の違いは、伝統と現在の社会が決定づけているような男女の性的状況の総体から生じるのだ。女においては、性行為は男にする勤めであり、男は、そこでは女の主人となると考えられている。すでに見てきたように、男は劣った者としての女をいつでも自分のものにすることが出来るのであり、女は自分と同等の身分ではない男に身を委ねると、品位を落とすことになる。

 とにかく、女の同意は降伏、堕落に見えるのだ。夫が他の女をもつことを妻が喜んで受け入れる場合も多い。それを自慢に思う妻さえいる(*13)。アデル・ユゴーは精力のありあまる夫がその激しさを他のベッドに向けるのを残念だとは思わずに見ていたらしい。ボンバドゥール夫人をまねて、夫に他の女をとりもってってやる妻さえもいる。反対に、抱擁においては女を対象物に、獲物に変えられる。

夫には、彼女はよそのマナ[人や人物などあらゆるものにこもり畏怖の念を起こさせる超自然的な力。原始的な信仰の元と考えられる]をおびて見える。自分のものであるのをやめ、誰かに奪われてしまったように見えるのだ。さして、事実、ベッドでは、女はしばしば支配されていると感じ、そうされたいと望んで、その結果、支配されるのである。男の威信のせいで、女は、自分を所有して、男全体を具現化していねように見える相手の男を称賛し、まねる傾向があるのも、また、事実である。

夫が慣れ親しんだ妻の口からよその男の考えの木霊を聞いて苛立つのも理由のないことでもない。彼は、いくぶん、自分が所有され、凌辱されたような気がするのである。シャリエール夫人が若きバンジャマン・コンスタン――彼は二人の男性的な女とのあいだで女の役割を果たしていた――と別れたのは、彼にスタール夫人の嫌な影響が刻印されていると感じて耐えられなかったからである。

女が「身を任せた」男の奴隷となり、反映となるかぎり、自分の不貞は、相互の不貞よりも徹底的に夫から自分を引き離してしまうということを女は認めなければならない。

 女は清廉潔白を保っていても、夫が愛人の意識のなかで悪く思われたのではないかと心配することもある。女でさえ、男と寝ると――それが一度だけ急いでソファーの上であっても――、正妻に勝ったとすぐに想像する。まして、愛人を所有した気になっている女は夫に一杯くわしていると思うのだ。だから、バタイユの『愛情』やケッセルの『昼顔』では、女は気を付けて身分の低い愛人を選んでいる。

愛人に官能的な満足を求めるが、自分の尊敬している夫に対して愛人が優越感を抱いてほしくはないのである。『人間の条件』で、マルローは、お互い自由という契約を交わしたあるカップルを描いている。しかし、メイを「所有した」と思い込んだのではないかと思って悩む。キヨはメイの自立を尊重することを選ぶ。

ひとは誰をもけっして所有などしないということは知っているからである。だが。他の者が自己満足していると思うと、それがメイをとおして彼を傷つけ、辱しめるのだ。社会は自由な女を混同している。愛人さえ、自分を利用している自由をすすんで認めようとはしない。彼は、自分の愛人である女が負けた、引きずられた。自分に征服された、誘惑されたと思いたいのだ。

自尊心の強い女は個人的に相手の男の虚栄心を認めることはできるが、尊敬する夫が愛人の傲慢に耐えているのは我慢ならない。男女の平等が普遍的に認められ、具体的に実現されないかぎり、女が男と同等なものとして行動することは非常に困難である。

いずれにしろ、姦通、友情、社交生活は夫婦生活において気晴らしにしかならない。夫婦生活の束縛に耐えるのには役立つが、束縛を打ち砕きはしない。それらは、女は自分の運命を本来的に引き受けるようには絶対になれないのである。

つづく 第八章 売春婦と高級娼婦
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