社交生活には、こうしたどうでもいい義理のつきあいよりも魅力的なかたちがある。お客を招くことは単に他人を個人の家に向かえ入れることではない。自分の家を魔法の国に変えることだ。社会的な催しは祝宴であると同時にポトラッチなのだ。

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七章 Ⅲ 社交生活

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

 家の女主人は銀器やテーブルクロスやナップキン、クリスタルの器といった自分の宝物を並べる、家を花で飾る。はかなくむだな花々は浪費と贅沢である祝宴の無償性を体現している。花瓶の中で開き、すばやく散ってしまう運命にある花々は歓喜の炎、香と没薬、献酒、供犠である。

テーブルには、洗練された料理、高価なワインが並ぶ。お客の欲求をあらかじめ心得た優雅な贈物を案出しなければならない。食事は神秘的な儀式になる。こうした特徴を、V・ウルフはダロウェイ夫人[小説『ダロウェィ夫人』の主人公]を描いた一節で強調している。

それから、扉が開いて、白いエプロンに帽子姿の小間使いたちが静かに可愛らしく行き来しはじめた。彼女たちは食欲に仕える侍女ではなく、秘儀の巫女だった。メイフェアの館の女主人たちが一時から二時まで執り行う神秘の儀式に仕える巫女たちだった。

手を一振りすると、行き来は止まって、それに代わって、あの人目を欺くような幻影が立ち昇る。まず、無償で提供された食物だ。それから、テーブルがクリスタル・グラスや銀器、藤の籠、赤い果物の入った器でひとりでに覆われる。

褐色のクリームの膜がカレイを包み隠している。ココット鍋には切り分けたチキンが浮かび、火は鮮やかにうやうやしく燃えている。ワインと、コーヒー――これも無償――が出ると、夢見ごこちの目の前に、楽しい幻覚が立ち昇る。穏やかに眺める目には、人生は音楽のように、神秘のように見えてくる・・・・

この秘儀を司る女は、自分が完璧な瞬間を創造し、幸福や陽気さを分かち与えているような気がして誇りに思う。彼女によって、お客たちは集いあったのであり、彼女によって、出来事が起こる。彼女は歓喜、調和の無償の源である。
これがまさにダロウェイ夫人が感じていたことだ。

しかし、ピーターが彼女こう言うと仮定してみよう。けっこう! でも、あなたの夜会、あれはいったい何のためなんだ? 彼女が答えることができるのはこうだ(誰にも分らなくって仕方がない)。あれは贈物よ・・・・某氏は南ケンジントンに住んでいるの。もう一人はベイズウォーターに、また、もう一人が、たとえば、メイフェアに住んでいるとします。それで、彼女はいつも彼らのことを気にかけている。

それで、彼女は思う。なんて残念なこと! ほんとにつまらない! それで、彼女は彼らを集めることはできないかしらと考えて、彼らを集める。これは捧げ物なの。これは組み合わせること、創造することよ。でも、いったい誰のために?

たぶん、贈物をする喜びのための贈物。とにかく、それはプレゼントなのだ。彼女にひとりにあげるものは他になにもない・・・・
他のひとだって、誰だって、そんなことはやれるだろう、同じくらい立派に。でも、すこし褒められてもいいわと彼女は思う。とにかく自分がやったのだから。

他人にもたらされるこうした敬意に純粋な気前のよさがあるなら、パーティーはまさしくパーティーである。だが、社会的慣例は、たちまち、ポトラッチを制度に、贈物を義務に変え、パーティーはもったいぶった儀式と化す。「よそのディナー」を楽しみながらも、招待された女はお返しをしなければと思う。もてなしがよすぎたからと文句を言う女もいる。

「Xさんご夫婦、私たちをあっと言わせたかったんだわ」と、とげとげしく夫に言う。私はこんな話を聞いたことがある。この前の戦争のあいだ。ポルトガルのある小さな町では、ティー・パーティーはポトラッチのなかで最も費用のかかるものになったという。

集まりのたびに家の女主人は、以前の集まりよりももっとたくさん、いろいろなお菓子を出す義務があった。この負担が非常に重くなってきたので、ある日、女たちは、全員一致で、お菓子はもうなにも出さないことにした。この状況だのパーティーは鷹揚で豪華な性格を失ってしまう。こうなると苦役の一つである。パーティーの楽しさを表現する品々も心配の種だ。

グラスやテーブルクロスに気を配り、シャンパンやお菓子の量を加減しなければならない。カップが一つ割れても、肘掛け椅子の絹が焦げても大変だ。翌日は掃除し、かたづけ、きちんと整頓しなければならない。女はこうした仕事が増えるのを恐れている。

彼女は家庭の主婦の運命を規定しているさまざまな依存状態を実感する。つまり、彼女はスフレやロースト肉、肉屋、料理人、臨時のお手伝いさん次第なのだ。なにか気に入らないとすぐに眉をひそめる夫次第なのだ。家具やワインを品定めして、夜のパーティーが成功したかどうかを決める招待客次第なのだ。

よほど寛大で自分に自信のある女でないと、このような試練を冷静に乗り切ることはできないだろう。称賛が得られれば、彼女は大満足だ。しかし、この点では、多くの女はV・ウルフが述べるダロウェイ夫人に似ている。「こうした勝利・・・・そして、それがもたらす輝かしい興奮を愛しながらも、彼女はその虚しさをみせかけのごまかしを感じてもいた」。女がそれを本当にうれしく思うのは、それはあまり重要視していない場合だけだ。

そうでない場合には、決して満足することのない虚栄心に苦しめられるだろう。もっとも、「社交」に自分の人生の使いみちを見出すほど裕福な女は、ほとんどいないのではあるが、社交をとおして自分を崇拝しようとするだけでなく、この社交生活をいくつかの目的に使おうとする。ほんとうの「サロン」には文学的な、あるいは政治的な性格がある。

彼女は社交という手段で男を支配する力をもち、個人的な役割を果たそうと努める。彼女は、結婚した女の条件を逃れているのだ。結婚した女はふつう快楽を束の間の勝利に満たされてはいない。そんなものにはめったに恵まれていないし、彼女にとってそんなことは気晴らしと同時に疲労を意味している。

社交生活は「見せる」こと、自分を誇示することを彼女に要求するが、彼女と他人のあいだにほんとうのコミュニケーションを作り出すことはない。社交生活は彼女を孤独から救い出すことにはならないのである。

不感症を打ち明けたり、自分の男の性欲や不器用さを臆面もなく嘲笑したりして、男の性的支配を否定、中絶や姦通、過失、裏切り、嘘に女が追いやられる
「考えるのも痛ましいことだが、二人でなければ生きられない相対的な存在である女は、男よりも孤独であることがよくある。男は至る所に社会を見つけて新しい関係を創る。女は家族なしでは無だ。そして、家族は女にのしかかる。すべての重みが彼女にかかる」とミシュレは書いている。

実際、女は閉じ込められ、切り離されて、何かの目的を共同で追求するといったことを含む交友の喜びを知らない。女の仕事は知性を使わない。女の教育は女に自立の意欲も習慣も与えてこなかった。それにもかかわらず、女は孤独のなかで日々を過ごすのだ。

これはソフィア・トルストイが嘆いていた不幸の一つである。結婚のせいで、彼女は、しばしば父親の家庭や娘時代の友だちから遠ざけられてしまった。コレットは『私の修業時代』で、田舎からパリに移ってきた若い夫婦の根無し草状態を描いている。母親とやり取りする長い手紙だけが彼女の唯一の救いである。

しかし、手紙はそばにいることには代えられないし、彼女は[母親の]シド自分の失望を打ち明けられない。ほんとうの親密さが若い女とその家族のあいだにはもはや存在しないことも多いのだ。母親も姉妹も友だちではない。今日では、住宅難のせいで、多くの若い夫婦が夫や妻の家族と同居している。しかし、このやむを得ず一緒に暮らす家族は、女にとって、いつでも本当の話し相手になるというにはほど遠いものなのである。

うまく維持したり生み出したりすることができた女の友情は女にとって貴重である。女の友情には男たちが知っている人間関係とは非常に異なった性格がある。男たちは、それぞれに固有の企てを自分の考えを通して個人として伝え合う。女たちは女の運命という一般性に閉じ込められていて、一種の内在的共謀、暗黙の了解によって結びついている。

そして、まず、女たちがお互いに求めるのは、自分たちに共通の世界を確認することである。女たちは意見を競いあわない。打ち明け話や対処の仕方を交換する。女たちは結束して、男の価値に優価値をそなえた一種の反・世界を作り出す。集まることで、自分たちの鎖を揺るがす力を見出す。お互いに不感症を打ち明けたり、自分の男の性欲や不器用さを臆面もなく嘲笑したりして、男の性的支配を否定する。

自分夫や男性一般の精神的・知的優越性に対して、皮肉たっぷりに異議をさしはさんだりもする。お互いの経験を比べてみる。妊娠、出産、子どもの病気、自分の病気、家事一般は人間の歴史の本質的な出来事になる。女たちの仕事は技術ではない。料理や家事のやり方を伝え合うことによって、口伝えに基づく秘密の知識のような権威を自分の仕事に与える。

時には、道徳上の問題を一緒に検討することもある。女性雑誌の「投稿欄」はこうした意見交換のよい見本である。男性専用の「身の上相談欄」など、ほとんど想像できない。男たちの世界であるこの世界でお互いに出会う。ところが、女たちは自分たちに固有の領域を定め、推し量り、検討しなければならない。女がとくに伝え合うのは美容のアドヴァイスや料理や編物のやり方であり、女たちはお互いに意見を求めるのである。

中絶や姦通、過失、裏切り、嘘に女が追いやられる

彼女たちのお喋り好きや見せびらかし好きをとおして、時には本当の苦悩がやっとわかったように感じる。女は男の規範が自分たちのものではないことを知っているし、男の規範が公然と弾劾している中絶や姦通、過失、裏切り、嘘に女が追いやられるのは男の規範のせいなのだから、女がそれを守ることなど男でさえ期待できないのを女は知っている。

だから女は、女たちに協力を求めて、一種の「仲間の規範」、女に固有の道徳の掟を定めるのである。女たちが女友だちの行動をあれこれと論評したり、批判したりするのは単に悪意からだけではない。女は、それを判断し、自分自身で行動するために、男よりずっと多くの道徳規範を考え出す必要があるのだ。

こうした女どうしの関係に価値があるのは、そこには真実が含まれているからだ。男の前では、女はいつも演技している。女は非本来的な他者として自分を受け入れるふりをすることで、噓をつく。身振りやおしゃれや慎重な言葉遣いをとおして、男の前に想像上の人物を創り上げることで、噓をつく。こうしたお芝居には絶え間ない緊張が必要とされる。夫の傍で、恋人の傍で、女という女はみな、多少とも「私は私自身じゃない」と思っているのだ。

男の世界は厳しい。そこにはくっきりとした稜線があり、そこでは声はあまりにも響き、光はあまりどぎつく、接触はつらい。女たちのそばでは、女は舞台裏にいる。武器は磨いているが、戦ってはいない。おしゃれを工夫し、メイクを考え、策略を練る。つまり、舞台に出る前にスリッパと部屋着姿で楽屋をうろついているのだ。女はこの生暖かく、穏やで、くつろいだ雰囲気が好きだ。たとえば、コレットは女友だちのマルコと過ごした時のことをこう描いている。

短い打ち明け話、人里離れて閉じこもっている時の気晴らし、慈善手芸所で過ごす余暇にも似た、病後のつれづれにも似た時間(*9)・・・・

コレットは年上の女に対して助言者の役をするのが好きだ。

暑い日の午後、マルコはよくバルコンの日除けの下で下着を繕っていた。彼女はへたでも丁寧に縫っていたが、私は彼女にいろいろと言ってやれるのを誇らしく感じた・・・・「シュミース゛には空色のリボンをつけちゃだめよ。下着にはバラ色の方がすてきだし、肌の色に近いわ」。白粉や口紅の色、瞼の美しい輪郭を描くくっきりとしたアイラインについてもアドヴァイスするのを忘れなかった。

「そうかしら? 本当にそう思う?」と彼女は言った。年下とはいえ、私の権威は揺らがなかった。櫛をとって、顔を縁取る前髪をちょっと優雅にふわっとさせてあげた。燃えるような眼差しを作り上げたり、こめかみ近くの頬骨のあたりに曙の赤をつけてあげたりして、私はエキスパートぶりを見せるのだった。

もう少し先の方で、コレットは、夢中にさせたいと思っている青年に会いに行く支度を不安そうに整えているマルコの姿を描いている。

・・・・彼女は涙を浮かべた目を拭おうとした。私はそれを押しとどめた。
――私にまかせて。
私は両方の親指で彼女の上瞼の方に持ち上げて、瞬きでまつげのマスカラが崩れないようにと、今にも流れ出しそうな涙を止めた。
――さあ、ちょっと待って。もう少し。
私はメイクをすっかり直してあげた。口元がすこし震えていた。彼女はじっと我慢して、まるで包帯をしてもらっているかのようにため息をついて、されるがままだ。仕上げに、私はローズがかった白粉をパフにとった。私たちはお互い口をきかなかった。
――何が起きても、泣かないの。と、私は彼女に言った。絶対に涙を見せてはだめよ。
・・・・彼女は前髪と額のあいだに手をやった。
――前の土曜日に古着屋さんで見たあの黒のドレス、買っとけばよかった・・・・ねえ、上等なストッキング、貸してもらえない? もう時間がないの。
――もちろん、いいわ。
――ありがとう。花をつけるとドレスが明るくなると思わない? やっぱりだめ、胸元には花は。アイリスの香水は流行遅れって本当? あなたに教えてもらいたいこと、たくさんあるような気がする。山ほども・・・・
『トゥトゥニエ』という別の作品でも、コレットは女の生活のこうした裏面を描いている。恋に悩んだり、不安になったりしている。姉妹に、毎晩。子どもの頃からなじみの古いソファーのあたりに集まってくる。そこで、彼女たちはその日の心配事を思い返したり、明日の闘いにそなえたり、心地よい休息やよい眠り、湯上がりや涙の発作といった束の間の快楽を味わって、くつろぐのである。

つづく 七章 Ⅳ 女同性愛者の官能的悦楽
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