私はうまくやりたいと心から思い、力の限り子どもの教育に身をささげてきた。でも、なんてこと! 私は何と短気で怒りっぽいのだろう、どれほど私は泣き叫んだことだろう! ・・・・子どもたちとの永遠の闘いはなんと悲しいことか!

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六章 Ⅴ ソフィア・トルストイのマゾヒスト的安らぎ

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

 彼女は日記を通じて、世の中にあっても彼女自身のなかですべてが無用で虚しく思われると繰り返し書き続けている。子どもたちも彼女に一種のマゾヒスト的安らぎをもたらす。「子どもと一緒にいるともう若くはないと感じる。私は平穏で幸せだ」。青春、美しさ、自分だけの生活の断念は彼女にわずかながらの平安をもたらす。年を取った感じ、これでいいのだと思う。「子どもたちにとってなくてはならない存在だと感じると、とても幸福だ」。

子どもたちは夫の優越性を拒否できる武器である。「私たちのあいだに平等を回復させるための唯一の手段、武器、それは子どもたち、エネルギー、喜び、健康・・・・」。しかし、子どもたちは倦怠に蝕まれている存在に意味を与えられるほど十分な存在ではない。1905年1月25日、一瞬の高揚のあと、彼女は書いている。

私はまた、すべてを欲し、すべてを可能にできるのだ。けれど、この感情が去ってしまうと、何も欲しくない、何もできないことに気づく。子どもたちの世話をすること、食べて、飲んで、眠って、夫と子どもたちを愛するだけだ。これがどののつまりは幸福であるはずのものだろう。けれど、このことが私を悲しませ、昨日のように泣きたい思いにさせるのだ。

そして11年後、

私はうまくやりたいと心から思い、力の限り子どもの教育に身をささげてきた。でも、なんてこと! 私は何と短気で怒りっぽいのだろう、どれほど私は泣き叫んだことだろう! ・・・・子どもたちとの永遠の闘いはなんと悲しいことか!

母親と子どもの関係は、母親の生活が全体的にどのようなかたちをとっているかに規定される。それは彼女が夫、自分の過去や仕事、自分とどのような関係をもつかに左右される。子どもがなんにでも効く万能薬だと思い込むのは愚かで有害な過ちなのだ。これが結論である。

H・ドイッチュも精神科医としての経験を通して母親であることのさまざまな現象を研究した著作――これまで私がたびたび引用した著作――においてこの結論に到達している。彼女は母親の役割を非常に高く位置づけている。

女が実現するのはこの役割をとおしてだとドイッチュは考えている。ただし、この役割が自由に引き受けられ、かつ心から望まれているという条件の下である。若い女はその負担を引き受けられる心理的、精神的、物質的状況にいなければならない。さもなければ、その結果は悲惨なものになるだろう。

とりわけ、鬱病や神経症の女に子どもを治療薬のように勧められるのは犯罪的である。それは女の子どもも不幸にする。健康で安定した、自分の責任を自覚する女だけが「良い母親」になれるのである。

すでに述べたように、結婚にのしかかる不幸、それは、結婚において個人的同士が結びつくのが強さではなく、弱さにおいてであるということであり、それぞれが相手に与えたいと思う代わりに相手にも求めてしまうことである。子どもをとおして、自分自身では作り出せなかった充足、熱中、価値を手に入れたいと夢見るのはさらにいっそう期待外れの幻想である。

子どもは一人の他者の幸福を無私無欲で望むことができる女、過去にこだわることなく自分の存在を乗り越えようとする女だけに喜びをもたらしてくれるのだ。たしかに、子どもは人が正当に志すことができる企てである。

だが、この企ては他のどんな企てよりも紋切り型の正当化ですますことはできない。この企ては当てにならない利益のためではなくそれ自身のために望まれなければならない。シュテーケルはそのことを非常に適確に言っている。

子どもは愛の代用品ではない

 子どもは愛の代用品ではない。子どもを挫折した人生の目的に置き換えることはできない。われわれの人生は空虚を満たすための材料ではない。子どもは責任、重い義務である。自由な愛の最も惜しみない価値ある宝である。彼らは親の生きる欲求の現実でも果たせなかった野心の代用品でもない。子どもたち、それは幸福な存在を育てる義務なのだ。

このような義務に自然的なところはまったくない。自然は倫理的な選択を命じることはけっしてできないだろう。倫理的な選択は世界への参加(アンガーユマン)を前提としている。子どもを産むこと、それは参加を選ぶことである。産んだあと母親がそこから逃げるとすれば、彼女は一人の人間的実存、一つの自由に対して過ちを犯しているのだ。

しかし、誰も彼女にそれを強要はできない。親子の関係は夫婦の関係と同じように、自分から望むものでなければならない。それは、子どもは女にとって特権的な自己実現だというのも正しくない。ひとは、女について、あの女は「子どもがいないから」男に媚びる、浮気だ、同性愛者だ、野心家だと、とかく言いがちである。女が追及している性生活、目的、価値は子どもの代用品というわけだ。

実際には、こうした言い方にはもともとの曖昧さがある。なぜなら、女が子どもを欲しいと思うのは愛情の対象がないから、やる事がないから、同性愛の傾向を満足させられないからということもまたできるからである。似非(えせ)・自然主義の下に隠されているのは社会的・人為的モラルである。子どもは女の最高の目的であるというのは、まさに宣伝用のスローガンの価値をもつ確言なのだ。

第二の偏見は、第一の偏見から直接出て来るのだが、それは子どもの母親の腕のなかで確かな幸福を見出すというものだ。母親の愛には自然的なものは何もないのだから、「母親の本性を欠いた」母親というものは存在しない。しかし、まさにそれだからこそ、悪い母親がいるのである。

母親のサド=マゾヒズムは娘に罪悪感を植えつける

精神分析が明らかにした重要な真実の一つは、「正常な」両親でさえ子どもにとって危険となるということである。大人が悩まされるコンプレックス、強迫観念、神経症は彼らの過去の家族生活に根差している。対立、不和、葛藤を抱えた親は、子どもとって一緒にいるのが最も望ましくない人間である。自分の親との家庭生活を深く刻印された彼らは今度はコンプレックスと欲求不満を介して自分の子どもに接する。

しかも、この悲惨な連鎖は際限なく続く。とくに、母親のサド=マゾヒズムは娘に罪悪感を植えつけ、それがまたその子どもたち対する果てしないサド=マゾヒズム的行動となって現れる。女に向けられる軽蔑と母親を飾り立てる尊敬とが両立するというのはまったくおかしな欺瞞である。

女の公的活動をいっさい認めない、男の職業活動を女には閉ざす、あらゆる領域で女の無能力を言い立てる。人間を育てるという最も難しく重大な企てを女に任せる、こうしたことは矛盾に満ちた犯罪行為である。

慣習や伝統のせいで、男たちの特権である教育、文化、責任、活動をいまだに与えられない女たちが数多くいる。にもかかわらず、そういった女たちの腕に子どもたちがなんのためらいもなく委ねられる。昔お人形を与えられて幼い男の子に対する劣等感を慰められたように。女が生きているのは禁じておいて、その埋め合わせに、生身の玩具と遊ぶことは許すのである。

それで女は完全に幸福なはずだ、あるいは、女は聖人君主であり自分の権利をふりまわしたい気持ちを抑えられるはずだ、というわけなのだろう。

モンテスキュー[1689-1755、フランスの思想家]が、女には家庭の統治より国家の統治に任せた方がよいと言ったとき、彼は多分正しいかった。女はその機会をあたえられさえすれば、男と同じくらい女は思慮分別があり有能なのだから、抽象的思考と具体的行動においてこそ女は最も容易に自分の性を乗り越えるのだ。

女としての自分の過去から自由になって、安定した感情――それを助長するような状況がまったくないのだが――見出すのは、現在のところ、女にとってはよりいっそう難しいとだ。男もまた、家庭より仕事にかかわっているときの方がずっと感情が安定し理性的だ。数学的正確さで計算するのに、女はそばでは非論理的で噓つきで気まぐれである。

男は女を相手にもとめてしまうことである。していると自分のことは「なげやりになる」。同じように、女も子ども相手だと自分のことは「なげやりになる」。このような迎合は、子どもとってはもっとも危険である。妻は夫に対して身を守ることができるが、子どもは母親に対してそのように身を守ることはできないからだ。

母親が歪んだところのない完璧な人格であって、子どもをとおして専制的に自己実現を図ろうとするのではなく、仕事や社会との関係のなかに自己実現を見出す女であれば、子どものためには明らかに望ましいことだろう。

また、子どもが親に委ねられる度合いが今よりずっと少なくなって、勉強や娯楽が、子どもと全く個人的な関係のない大人の監督のもとに子ども同士で行われることが望ましいだろう。

幸福な生活または少なくとも安定した生活のなかで子どもが自分を豊かにしてくれるものとみなされている場合でさえ、子どもは母親の視野を限定してしまうことはできないだろう。子どもは母親をその内在性から引き離すことはない。母親は子どもの肉体を作り、養い、世話をする。妻の、母親は一つの実質的状況を作り出すことが出来るだけで、その状況を乗り越えるのは子どもの自由にのみ属することなのだ。母親が子どもの未来に賭けるとき、彼女はまたもや他人の手で、全世界と時間を通して自己超越しようとしているのである。

言い換えれば、彼女はふたたび依存に自分をささげているのだ。息子が恩を忘れるだけでなく、挫折しても、母親のすべてと同じように、彼女が一人の他者に自分の人生の正当化の責任を委ねるからである。唯一の本来的行動は自分の人生を自由に引き受けることであるにもかかわらず。すでに見たように、女の劣等性はまず第一に女が生活の反復に自分をとどめてしまことから根本的に生じてきたものだ。

一方、男は存在の純粋な事実性より彼の目にはより本質的に思われる生きる理由を発見してきた。女を母親であることに閉じ込めるのは、女は劣っているという状況を永続させることになるだろう。今日、女は、人類が自分を乗り越えながら絶えず自分を正当化しようとしてきた活動に参加することを要求している。女は自分の人生に意味をもたらす場合にしか子どもを産むことに同意できない。

経済・政治・社会生活のなかで一つの役割を果たそうとせずに母親であることはできないだろうそれは、兵隊、奴隷、犠牲者、自由人を作り出すのと同じことではない。子どもの養育の大部分は共同体が引き受け、母親が大切にされ援助されるというように、適切な仕組みができている社会では、母親であることは女が働くことと両立できないことはまったくないはずだ。

かえって、農婦、化学者、作家などの働く女は、自分個人に幻想を持っていないので、最も気楽に妊娠できる。
最も豊かな個人生活をもつ女こそ子どもに最も多くを与え、最も少なく要求する。努力し闘うなかで人間の真の価値について理解している女こそ最もよき教育者であろう。

家庭の外に女を数時間引き止める仕事と子どもの利益のために女の全精力を奪っていく養育の仕事との両立に、現在これほど多くの女が苦労しているのは、一方では女性労働者がほとんどの場合いまだに奴隷状態にあるからであり、他方では家庭外での子どもの世話、保護、教育を保証するための努力がまったくなされていないからである。社会の怠慢こそが問題なのだ。

だが、天上にまたは大地の胎内に記載されている法が母親と子どもはもっぱら互いに属するものであるよう求めていると主張して、この怠慢を正当化するのは詭弁である。実際、この相互に属するという関係は二重に有害な抑圧を生むだけなのだ。

女は母親になる事で男と実質的に対等な人間になると主張するのは欺瞞である。精神分析家は、子どもは女にペニスの等価物を与えるのだということを証明するために多くの労力を割いて来た。しかし、この付属物がどんなに羨望の的であろうと、これを所有することが最高の目的であるなどと誰も主張していない。

また、母親の神聖な権利については実は多くのことが語られてきたが、女たちが投票用紙を獲得したのは母親としてではない。未婚の母はまだ軽蔑されている。母親が讃えられるのは結婚においてだけ、つまり夫の従属物であるかぎりにおいてのことだ。夫が家族の経済的責任者であるかぎり、母親が子どもたちを夫以上に世話したとしても、子どもたちは母親より父親により依存していることになる。

だから、すでに示したように、母親と子どもの関係は彼女が夫とのあいだに保つ関係によってじかに支配されるのである。

このように夫婦関係、家庭生活、母親であることは一つの全体をかたちづくっていて、そこにはすべての契機が相互に規制し合っている。夫と愛情のこもった結びつきを持っている女は家庭の責任を楽に担うことができる。

子どもたちに囲まれて幸福を感じている女は夫に寛大になれるだろう。けれども、このような調和は簡単には実現されない。女に割り当てられた異なる役割はうまく折り合わない。女性誌が多くの紙面を割いて家庭の主婦に教えているのは、家事をこなしながら性的魅力を保つ法、妊娠中も美しく洗練されている秘訣、おしゃれ・母親でいること・家計を両立させる法などである。

しかし、こうした忠告をことごとく守ろうとする主婦は、気を遣うあまりたちまち混乱に陥り、顔つきも醜くなってしまうだろう。出産によって手がひびわれ、体の形が崩れてしまったとき、セクシーでいるのは非常に難しい。

それで、夫を熱愛している女はしばしば子どもたちに恨みを抱く。彼らの魅力が台無しになり、夫は愛撫してくれなくなってしまうからだ。逆に、女が心底から母親である場合には、子どもは自分のものであると主張する男に嫉妬する。そのうえ、すでに見たように、理想的家事は生活の流れに逆らうものである。

子どもはワックスを塗った寄せ木張りの床の敵だ。母親の愛はしばしば𠮟責と怒りに変わる。掃除の行き届いた家庭にしておきたいという気遣いからだ。こうした矛盾のなかで悪戦苦闘している女がたいてい苛立ちながら、とげとげしく日々を過ごすのは、別に意外な事ではない。一覧表を作ってみれば、彼女はいつも負けている。勝っても一時的だ。勝利がたしかな成功と記されていることはまったくない。彼女が自分を救う事ができるのは、けっして家事よってではない。

この仕事は彼女の時間を奪うが、彼女を正当化しはしない。正当化は、自分の外にある自由に根拠づけられて行われるものだからである。家庭に閉じ込められている女は、自分で自分の存在を正当化することはできない。彼女は個別性において自分を示す手段しかもたない。したがって、この個別性が彼女には認められないのである。

アラブ人、インド人、農村の多くの人々にあっては、女は飼いならされた雌でしかなく、果たす労働によって評価され、いなくなれば惜しまれることなく取り換えられてしまうのである。現代文明では、妻は夫の目には多少とも個別化されて見える。しかし妻は、ナターシャ[トルストイ『戦争と平和』の女主人公]のように、家族に対して情熱的だが一方的な献身に没入し、自我を諦めない限り、完全な一般性にされてしまうことに苦しむ。


彼女は同じようで区別できない主婦、妻、母親というものなのだ。ナターシャはこのような最終的な自己消滅に満足し、衝突をことごとくしりぞけ、他者を否定したのである。しかし現代の西欧の女は、逆に、この主婦、この妻、この母親、この女として他の人に認められたいと望んでいる。こうしたことが社会生活のなかで満足させられるよう求めているのだ。

つづく 第七章 社交生活
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