第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール著 中嶋公子・加藤康子監訳
女性同性愛者
性科学者と精神医学者が、この日常的に観察される事柄が何を示唆しているかを確証している。つまり、「呪われた女たち」の大多数はまさに他の女たちと同じような体質をしているのだ。彼女たちのセクシャリティはけっして「解剖学的宿命」によって決定されるものではない。
たしかに、生理学的条件が特異な状況を生じさせるという事例もある。男女のあいだには厳密な生物学的区別は存在しない。もともとは同じ体細胞形質が、遺伝子的に方向づけられが変わることもあり、その結果、男と女の中間体が生じる。
男でもなかには男性器の成熟が遅れているために外観は女のように見えるという者もいる。したがって、ときとして少女――とりわけスポーツ好きの少女――が少年に変わるということも見受けられているのだ。H・ドイッチュは、ある若い娘について次のように語っている。
その娘はある既婚女性に熱烈な思いを寄せ、彼女連れて逃げて一緒に暮らしたいと思っていたところ、ある日、実は自分が男であるということに気づき、そのおかげで愛する人と結婚して子どもが何人か作ることができたという。しかし、ここから、女性同性愛者はすべて見せかけの姿をとった。「隠れた男」であると結論してはならないだろう。
二種類の生殖器官の原基を併せ持つ両性具有者が女性的なセクシャリティの持ち主であるという場合もよくある。私もその一人を知っている。それはナチスによってウィーンから追放された人で、自分は男しか好きでないのに、異性愛の男にも同性愛の男にも好かれないと嘆いていた。
「男性的な」女は男性ホルモンの影響によって男性的な第二性徴を呈し、発育不全の女の場合は、女性ホルモンが不足しているために発育が完成されずにいる。これらの特徴が多少なりとも直接的に同性愛の性向を生じさせることはありうる。強力で、攻撃的で、旺盛な活力に恵まれた人物は能動的に行動したがり、一般に受動性を拒む。
容姿にめぐまれず、体つきが不格好なために、男性的な性質を身につけることで自分の弱点を埋め合わせようとする女もいるし、性感が未発達なために、男の愛撫を望まない女もいる。しかし、解剖学的構造やホルモンは結局のところ、一つの状況を規定するにすぎず、その状況を乗り越えて向かっていく対象を設定するわけではない。
H・ドイッチュは彼女が第一次世界大戦中(1914-18)に治療にあたったポーランド人の負傷兵の事例を挙げている。その兵士は実は際立った男性的特徴をもつ若い娘であった。彼女は看護婦として従軍し、男性を装うってのちに軍人になるのに成功した。とはいえ、ある兵士――のちに結婚する相手――を恋するようになり、そのために男性同性愛者と思われていた。
彼女の男性的な行動は女性的官能性と矛盾するものではなかった。男そのもの、もっぱら女しか求めていないわけではない。男性同性愛者の身体構造が完全に男性的なものでありうるという事実は、男性的特質をそなえた女がいても、そのために彼女が必然的に同性愛へと導かれるわけではないということを意味している。
生理的に正常な女の場合についても、女は「クリトリス型」と「ヴァギナ型」に区別され、前者は同性愛の性向をもつといった説がしばしば主張される。しかし、すでに見たように、幼児の性感はすべてクリトリス的であり、この性感がこの段階に固定するか、変化するかということはどんな解剖学的条件ともかかわりない。また、幼児期の自慰が原因でのちにクリトリス系が優勢になるという説もしばしば主張されるが、この説も正しくない。
現在、性科学は子どもの自慰をまったく正常な、広く知られる現象と認めている。女の性感の形成は――すでに見たように――生理的要因の包みこまれた心理的問題であり、この心理学的問題は実在に対する本人の総合的な態度にかかっているのである。
マラニョン[1887-1960、スペインの医者、作家]は、性欲は「一方向的」であり、男の場合は完成した形態に達しているが、女の場合は「道半ばに」とどまっていると考えている。ただ女性同性愛者だけは男と同じくらい豊富なリビドー[フロイトが仮定した。性衝動に基づくエネルギー。ユングでは心的エネルギー全般を指す]をそなえもち、したがって女性同性愛者は「高等な」女性類型であるという。
実際は、女の性欲は独自の構造を持っているのであり、男と女のリビドーを序列化するのは不合理である。性欲の対象の選択は女のそなえもつエネルギーの量とは全くかかわりないのである。
精神分析者は、同性愛は心理的現象であり器質的現象ではないと見なすという点で大きな功績をたてた。とはいえ、彼らにおいては、同性愛はやはり外的な事情によって決定されるものとして現われている。もっとも彼らは同性愛についてあまり研究してはいない。フロイトによれば、女の性愛の成熟にはクリトリス段階からヴァギナ段階への移行が不可欠であり、この移行は少女が最初母親に抱いていた愛着が父親に移しかえられるという移行と対をなしている。
さまざまな理由で、この発達が妨げられることもある。女は自分が去勢されているということを受け入れないと、自分にペニスがないことを隠し、母親に固着したまま、母親への代理を求めるという。アドラーの場合は、この停滞は受動的にこうむる偶発事ではない。それは主体が望んだことであり、その主体は、強い意志をもって、成熟を意図的に拒み、自分がその支配を受けまいとする男と同一化しようとするのだという。
幼児期への固着にしろ男性的抗議にしろ、いずれにしても同性愛は未完成なものとして現われている。だが実際には、同性愛の女は「できそこないの」女ではないし、同じように「高等な」女でもない。個人の歴史は宿命的に進行するものではない。動きのあるたびに、過去が新たな選択によってとらえ直されるのである。ただし、選択の「正常さ」は選択にいかなる特権的な価値ももたらさない。
選択の評価は、その本来性に基づいてなされるべきなのだ。同性愛は女にとって、自分の条件を回避する手段となることもあれば、自分の条件を引き受ける手段となることもある。精神分析学者の大きな誤りは、教化的な順応主義によって、結局は同性愛を非本来的態度としてしか考察していないことである。
女とは、客体になるように求められている実在者である。主体としての女は、男の身体を基準にしては満たされない攻撃的な官能性をそなえている。そこから、女の官能性が克服しなければならない葛藤が生じる。女が獲物として男に委ねながら、女の腕に子どもを抱かせることで、女に主権を回復させるというシステムが正常なものと見なされている。
しかし、この「自然主義」は、多少なりともよく考えられた社会的利害の要請に基づいたものである。異性愛そのものは別の解決法も可能にしている。女の同性愛は、女の自律性と女の肉体の受動性とを両立させるための数ある試みの一つである。それに、自然を引きあいにだすならば、自然的に女は全て同性愛者だとも言える。
たしかに、同性愛者の女の特徴は男を拒否すること。女の肉体を好むことである。しかし、思春期の娘は誰もが性器挿入、男の支配を怖がり、男の肉体に対してある程度の嫌悪感を抱く。逆に女の肉体は、男と同じように彼女にとっても、欲望の対象となる。
すでに述べたように、男は自分を主体と定めると、ただちに自分を分離したものと定める。他の男を所有するべき物とみなすのは、その男について、またそれと連動して自分自身についても、理想の男性像を侵害することである。反対に、自分を客体と認めている女は同類の女と自分自身を獲物とみなす。
男性同性愛者は男女の異性愛者に敵意を抱かせる
というのも、異性愛者は男の支配的主体であるように求めるからである
(*1)。逆に、男女とも自然的に女性同性愛者のことは寛大に考える。「実を言えば、これはまったく不愉快でないライバル関係だ。反対に、それが私を楽しませてくれるし、私は不謹慎にもそれをからかっている」と、ティリー伯爵[1559-1632、ドイツ皇帝軍の将軍]は語っている。
コレットも、クロディーヌがレズィと作っているカップルを前にしたルノーに、これと同じように愉快気で無頓着な態
度(*2)を取らせている。男は攻撃的でない同性愛の女よりも、能動的で自律した異性愛の女に不快感を抱く。男の特権に抗議するのは、こうした異性愛の女だけなのだ。女性同性愛は伝統的な性区分の形態にはまったく反していない。
大半の場合、女性同性愛は女であることを拒否しているのではなく、それを受け入れているのである。すでに見たように、思春期の娘の場合には、同性愛は、まだ体験する機会や勇気のない異性愛の代用品として現われている。同性愛は一つの段階、見習い期間であり、同性愛にひたすら熱中している娘が、将来、極めて熱烈な妻、愛人、母親になることもある。
したがって、女性同性愛者について説明するべきことは、その選択の肯定的な側面ではなく、否定的な側面である。つまり、女性同性愛者の特徴とは女を好む性向をもっていることではなく、この性向しかもっていないことである。
しばしば――ジョーンズ[1879-1958、イギリスの精神分析学者]とエナール[1886-1569、フランスの精神分析学者]の説にならって――同性愛の女は二つの類型に分類される。一方は「男を模倣したがる」という「男性」型、もう一方は「男を恐れる」という「女性」型である。たしかに、大雑把に言って、女性同性愛者には二種類の傾向があると見なせる。
受動性を拒否する女たちもいる一方、受動的に抱かれるために女の腕を選ぶ女もいるのである。しかし、これらの態度は互いに反応し合っている。選ぶ対象との関係、拒否する対象との関係は、互いに他方の関係によって説明される。以下に見るように、多くの理由から、上記の区分はかなり恣意的なもののように思われる。
「男性的な」女性同性愛者を「男を模倣する」意思によって定義づけるのは、彼女を非本来性と定めることである。精神分析学者が、男――女というカテゴリーを現在の社会が規定しているとおりにうけいれることによって、どれほど多くの曖昧なものを造り出したかは、すでに述べた。事実、男は今日、陽性ならびに中性、つまり男性ならびに人間であるが、一方、女はたんに陰性、つまり女性であるにすぎない。
だから、女は、人間として行動するたびに、自分を男と同一視していると言われる。女がスポーツ活動、政治的活動、知的活動をしたり、他の女に欲望を抱くことは「男性的抗議」と解釈される。女がそれに向かって自分を
超越(用語解説)する諸価値は考慮されず、そのため当然、女は主観的態度で
非本来的な選択をしているとみなされることになる。
こうした解釈の仕方は次のような大きな誤解に基づいている。つまり、雌の人間にとっては女らしい女になることが自然なことであると認められているのだ。そして、この理想像を実現するには異性愛者であるだけでは十分でなく、さらには母親になっても十分でない。「本当の女」とは。かつてカストラート[ソプラノ音声を保持するため、少年時代に去勢された歌手。17,18世紀に流行]を作ったのと同じように、文明が作る産物である。
媚態、従順さといった、いわゆる女の「本能」は、男に男根(フアルス)的自尊心が教え込まれるのと同じように、女に教え込まれるのである。男は男という使命をつねに受け入れているわけではない。女も自分に割り当ている使命をそれほど素直に受け入れるわけではなく、それは正当な理由がある。
「劣等コンプレックス」、「男性コンプレックス」という観念は、ドニ・ド・ルージュモン[1908-85、西欧の恋愛の情念を論じたスイスの評論家]が『悪魔の分け前』のなかで語っている挿話を連想させる。ある淑女が、自分が野原を散歩していると鳥たちが襲ってくると思い込んでいた。数ヶ月にわたる精神分析療法も彼女の強迫観念を消すことはできなかった。
その頃、彼女に付き添って病院の庭にいた医師は、彼女の思い込みでなく、本当に鳥たちが彼女を襲っているのに気づいたのだった。女は自分が傷ついていると感じる。というのも、実際に、女らしくさせるためのさまざまの禁止事項が女を傷つけているからである。自発的には、女は完全な人間、主体、自分の前に世界と未来が広がっている自由性になろうと決める。女であることが今日、去勢を意味しているかぎり、こうした選択は男性的なものの選択と混同される。
ハヴェロック・エリスとシュテーケルの記録している女性同性愛者――最初の事例はプラトニックなもの、次の事例は明白なもの――の告白には、この二人の人物が憤慨しているのは女性としての特定化であるということがはっきりと見て取れる。
その一人は次のように言っている。覚えているかぎり昔から、私は自分を女の子だと思ったことは一度もなくて、たえず落ち着かない気持ちでいました。五、六歳の頃、他人がどう考えようと、私は男の子でないとしても、ともかく女の子ではないのだと思いました。
・・・・・私は自分の体の構造をわけのわからない災難のように思っていました。・・・・よちよち歩きができるようになった頃、金槌と釘に興味を持ち、馬の背に乗りたがりました。七歳の頃、自分の好きなことはどれも女の子にはふさわしくないものだということがわかりました。私は少しも幸せでなく、よく泣いたり怒ったりしました。男の子、女の子を話題にした会話には腹が立ってたまりませんでした。
・・・・日曜日はいつも、兄弟の通っていた学校の男の子たちと外出していました。・・・・11歳の頃、・・・・私の行状の報いとして、私は寄宿学校に入れられました。・・・・・15歳の頃、どんな方面のことを考えるにしても、私の見方はいつも男の子の見方でした。・・・・私は女の人が可愛そうでなりませんでした。・・・・私は女の保護者、救援者になったのです。
シュテーケルの記録にある女性同性愛者の場合はこうだ。
六歳まで彼女は、まわりの人がいくら言っても、自分は男の子で、理由は分からないが女の子の服装をしているのだと信じ込んでいた。・・・・六歳のとき、彼女は「中尉になろう。そして、神さまが長生きさせてくださったなら、元帥になるんだ」と思った。彼女は、自分が馬に乗り、軍団を率いて町を出ていくという夢をよく見た。とても聡明だった彼女は、師範学校から女子中等学校に転校させられたのを残念に思った。彼女は女性的になるのを恐れていたという。
こうした反抗はけっして同性愛になる宿命につながるわけではない。自分の偶然的な身体構造のせいで自分の嗜好や願望が禁じられているということを知ったとき、ほとんどの少女が同じように憤慨し絶望感を抱く。コレット・オードリーは12歳のとき、自分はけっして船乗りになる事が出来ないのだと知って怒りを感じた
(*3「第四章」)。やがて女になる人間が、性別のせいで自分は制約が課せられていることに憤慨するのはまったく当然のことだ。
なぜ彼女はそれらの制約を拒否するのかと問うのは、問題のたて方が間違っている。問題は、むしろ、なぜ彼女はそれらの制約を受けるのかを理解することにあるのだ。彼女の同調は、彼女の従順さ、気の弱さからきている。しかし、社会のもたらす補償が十分なものと思えない場合には、このあきらめの気持ちは反抗の方向を辿りやすい。
こうしたことが起こるのは、思春期の女の子が自分のことを女として容姿に恵まれていないと思う場合である。解剖学的な条件が重要になるのは、とりわけ、こうした回り道を経てのことなのである。醜い、不格好な女、またはそう思い込んでいる女は、自分に生まれつきその素質があるとは感じられない女としての運命を拒否する。
しかし、男性的態度をとるのは女らしさを拒否する。しかし、男性的態度をとるのは女らしさの欠如を補うためであると言えば、間違いになるだろう。というよりはむしろ、思春期の女の子にとって、自分に犠牲にするように求められる男性的な利点にひきかえ、自分に認められる機会はあまりにも貧弱なものに思えるのだ。
女の子は皆、男の子の着易い服を羨ましがる。鏡に映る自分の姿、その中に見てとれる将来の可能性のせいで、女の子には自分の服のごてごてした飾りが次第に大切なものではなくなっていく。鏡が変わり映えのしない顔をそっけなく映して見せるとすれば、その顔が何も約束していないとすれば、レース飾りやリボンはじゃまで、そのうえ、滑稽な制服のようなものでしかなく、「おてんば娘―できそこないの少年」はあくまで男の子でいようとする。
たとえ容姿に恵まれた美しい女でも、独自のプロジェに身を投じている女。あるいは、一般に自分の自由を主張する女は、他の人間のために自分を放棄するのを拒む。そうした女は自分の内在的な存在のなかではなく、自分の行為のなかに自分自身を認める。彼女をその肉体だけに限定してしまう男性的欲望は、若い男の子にショックを与えるのと同じように、彼女にもショックを与える。
従順な女の友人たちに対して彼女は、男性的な男が受動的な男性同性愛者に対して感じるのと同じような嫌悪を感じる。彼女が男性的な態度をとるのも、部分的には、そうした友人たちとともに複雑さすべてを拒否するためである。彼女は、男の服装、男の振舞方、男の言葉遣いをし、女友だちとカップルを作って自分が男役を講ずる。
この芝居は、たしかに、「男性的抗議」である。しかし、それは副次的な現象として現れている。自然発生的なもの、それは征服的で支配的な主体が自らを官能的な獲物にするという考えに対して感じる憤慨である。
スポーツ好きの女には同性愛者が多い
筋肉、動き、ばね、躍動である身体、彼女たちはこうした身体を受動的な肉体として捉えたりしない。身体は魔法のように愛撫を求めはしない。身体は世界を捉える手掛かりであり、世界の物体ではないのだ。
対自的な身体と対他的な身体とのあいだにある溝は、この場合、越えることができないもののように見える。行動的な女、「しっかりした」女にも同じような抵抗が見受けられる。そのような女にとって、たとえ官能的なかたちであっても、自分を放棄するのは不可解なのだ。
男女の平等が具体的に実現されていれば、こうした障害はたいていの場合なくなるだろう。しかし、男はいまだに自分の優越性をかたく信じ込んでいるし、女がそのように考えていないとすれば、これは女にとって迷惑な確信である。しかし、最も意志的な、最も支配的な女たちがほとんどためらいなしに男に立ち向かうことは指摘しておかなければならない。
いわゆる「男のような」女はたいてい、明白な異性愛者である。そうした女は自分が人間であるという権力の主張を否認するつもりはない。しかし、自分が女であることに負い目を感じるつもりもなく、男の世界に近づくこと、そのうえ、それを自分の支配下におくことに決める。
彼女の頑健な官能性は男性的な荒々しさにたじろぐことはない。男の身体に快楽を見出すために彼女が克服しなければならない抵抗感は、臆病な処女の場合よりも少ない。きわめて粗野な、きわめて動物的な性質の持ち主は性交の屈辱感を感じない。大胆な気質の知的な女はこうした屈辱感を認めない。自分に自信のある、抗戦的な気性の女は、自分が勝つと確信している決闘によろこんで身を投じる。
ジョルジュ・サンド[1804-76、フランスの女性作家。ミュッセ・ショパンとの恋愛が有名]は若い男、「女性的な」男を特に好んだ。しかし、スタール夫人[1766-1817、フランスの女性作家]が愛人たちに若さと美貌を求めたのは、かなり年配になってからにすぎない。精神力の強さで男たちを支配し、彼らの賛美を尊大な態度で受け入れる彼女は、彼らの腕に抱かれても自分を獲物と感じる必要は全くなかったのだ。
ロシアの女帝エカテリーナ二世のような女性君主はあえてマゾヒスト的な陶酔に浸ろうということすらあった。こうした駆け引きにおいても、いつも彼女だけが支配者であったのだ。男装をして、馬でサハラ砂漠を駆け巡ったイザベル・エペラルツは、何人かの逞しい狙撃兵に身を任せたときも、屈辱を受けたとは全く思わなかったという。男に従属したくないと思う女は、つねに男を避けるどころか、むしろ、男を自分の快楽の道具にしようとする。
好都合な状況――大部分は相手の男にかかっている――のもとでは競争という考えそのものが消え去り、女は、女であるという自分の条件を、男が男であるという自分の条件を生きるのと同じように、満足しきって生きる事になるだろう。
しかし、能動的な個性と受動的な女という役割を調和させるのは、やはり、女の場合の方が男の場合よりもはるかに難しい。こうした努力で身をすり減らすよりも、努力を試みるのを諦めてしまう女が多い。女の芸術家や作家には同性愛者が多い。それは、彼女たちの性的独自性が創造的なエネルギーの源になっているとか、その卓越したエネルギーの存在を現わしているということではない。
むしろ、彼女たちは、重大な仕事に没頭しているため、女の役割を演じたり、男と闘ったりするのに時間を費やす気にならないという事なのだ。男性の優位を認めてはいないので、彼女たちはそれを認めるふりをしたり、わざわざそれに抗議したりしようとは思わない。彼女たちの官能的快楽に休息、やすらぎ、気晴らしを求める。敵対者の姿をとって現れる男のパートナーからは遠ざかっている方が得策だと思う。そして、そうすることによって彼女たちは女であることにまつわる束縛から解放されるのだ。
もちろん、異性愛の経験の性質が「男性的な」女に自分の性を受け入れるか、それとも拒否するかの選択を決心させる場合が多い。男の軽蔑は醜い女の自分が醜いという気持ちを固めさせる。愛人の傲慢さは自尊心の強い女を傷つけることになる。
不感症の理由
すでに検討した不感症の理由――恨み、悔しさ、妊娠の不安、妊娠中絶によって引き起こされる心的外傷など――に接するときの不信感が大きいほど、それだけ重みを増すのである。
しかし、支配的な女に関する場合は、同性愛がいつでも完全に満足のいく解決策として現れるわけではない。支配的な女は自分を確立しようとしているのだから、自分の女としての可能性を全面的に実現しない事には気が済まない。異性愛の関係は彼女にとって自分が縮小されることがあると同時に豊かになる事であるように思える。
自分の性にともなう限界を否定することによって、彼女は別のやり方で自分を制限しているという結果になる。不感症の女が快感を否定しながらも快感を求めているのと同じように、同性愛の女もたいてい、正常で完全な女になるまいと思いながらも、そうした女になりたいと思っているようだ。こういったためらいは、シュテーケルの調べた女性同性愛者の事例にはっきりと現れている。
先に見た通り、彼女は男の子としか遊ばず、「女性的になる」の拒んでいた。16歳のとき、若い娘たちと最初の関係を結んだ。彼女の相手の娘たちに対して深い軽蔑の気持ちを抱き、そのせいで、彼女の性愛はすでにサディスト的な性格をおびるようになった。
尊敬していた一人の級友に熱烈な思いを寄せたが、プラトニックなものであった。肉体関係を持った娘たちには嫌悪を感じていた。彼女は難しい勉学に熱中した。最初の同性愛の大恋愛に失恋した彼女は、ただ単に官能的な経験に猛烈ないきおいで没頭し、酒を飲み始めた。17歳のとき、若い男と知り合い、結婚した。しかし、その男を自分の妻であると考えていた。
性交でオルガスムスに達することは決してしなかった
彼女は男装し、酒も勉学もつづけた。彼女ははじめ膣痙攣を起こし、性交でオルガスムスに達することは決してしなかった。彼女は自分の体位を「屈辱的」だと思っていた。攻撃的で能動的な役を演じるのは、いつも彼女の方であった。「彼を熱列に愛して」いながら、彼女は夫を捨て、ふたたび女たちと関係を結んだ。
男性の芸術家と知り合い、身を委ねたが、やはりオルガスムスは得られなかった。彼女の生活ははっきりと断絶した周期に分かれていた。ある時期には、執筆し、創作者として働き、自分を完全に男だと感じている。その時期には、時おり、サディスト的に女と寝る。次に、女としての時期がくる。彼女はオルガスムスに達したいと思って、精神分析を受けたのである。
女性同性愛者は、それとひきかえに誇らしい男性的特質を獲得することができるならば、女性的特質を失うことになんなく同意できるかもしれない。ところが違う。彼女は明らかに男性器を欠いたままなのだ。手で愛人の女の処女を奪ったり、人口ペニスを使って性交のまねごとをすることはできる。
とはいえ、自分が去勢者であることに変わりはない。女性同性愛者がそのことに深く悩む場合もある。女としては不完全であり、男としては不能という不安感は時として精神病となって現われる。ある患者はダルビエに次のように語っている
(*4)。
「私に何か挿入するためのものがついていれば、もっとうまく行くでしょうに」。別の患者は自分の乳房が固ければいいのにと思っている。女性同性愛者が自分の男性的な弱点を横柄さ、自己露出的な態度で補おうとすることがよくあるが、それは、実際は、内的な不均衡を表しているのである。
また女性同性愛者が、他の女を相手に、「女性的な」男や自分の男性的特徴にまだあまり自信のない青年期の男と女のあいだに保つ関係とまったく似通うった関係を結ぶのに成功することもよくある。このような運命の最も際立った事例の一つは、クラフト=エビングの報告している「サンドール」の場合である。彼女はこの方策によって完全な均衡に達していたが、ただ、この均衡は社会の介入によって破られたのである。
サロルタは風変わりな一族として有名なハンガリー貴族の家に生まれた。父親は彼女を男の子として育てた。彼女は乗馬や狩りなどをしていた。こうした感化は寄宿学校に入れられる13歳のときまで続いた。
学校時代、彼女はイギリス人の少女に恋をし、自分は男だと称して少女を誘拐した。彼女は母親の家に戻ったが、まもなく、「サンドール」と名乗って、男装し、父親と旅にでた。彼女は男性的なスポーツに熱中し、酒を飲み、売春宿に通った。彼女は自分がとくに女優や、身寄りのない女、それもできるだけ青春期を過ぎている女にひきつけられるのを感じていた。
彼女は本当に「女性的」女が好きだったという。彼女はこう語っている。「私は詩的なヴェールをまとって現われる女性的な情熱が好きでした。女がまったく厚かましいふるまいをするのには嫌悪を感じました。・・・・私は女の衣装、また、一般的に、女らしいものすべてに対して言いようのないほどの反感を抱いていました。でも、それはもっぱら私自身について、私自身のなかにあるものについてだけのことでした。なぜなら、逆に、私は女性に情熱を感じていたのですから」。
彼女は女と数多くの関係を結び、その女たちの為に多額の金を費やした。また、その間に、首都の二大新聞に寄稿していた。彼女は10歳年上の女と三年のあいだ夫婦のように暮らし、その女に別れを認めさせるのに非常にくろうした。
彼女は相手に激しい情熱を抱かせるのだった。彼女は若い女性教師を好きになり、結婚式の真似事をして一緒になった。婚約者とその家族は彼女のことを男だと思っていた。義父は将来の婿のペニスが勃起しているのに気づいたと思い込んでいた(おそらく、人口ペニスだったのだろう)。彼女は形式的に髭を剃っていたが、彼女の下着のあとを見つけた小間使いが鍵穴から覗いてサンドールが女であることを確信した。
正体を暴かれたサンドールは投獄されたが、無罪になった。彼女は最愛の人マリーと引き離されていることを深く悲しみ、独房からマリー宛にきわめて情熱的な手紙を送った。彼女は全く女性的な体つきをしていなかった。骨盤が非常にせまく、腰の括れがなかった。乳房は発達していたし、性器も完全に女性のものであったが発育不全であった。
サンドールは17歳まで月経がなく、月経現象に嫌悪感を抱いていた。男と性関係をもつと考えるとぞっとした。だが、彼女の羞恥心が発揮されるのはもっぱら女と一緒にいるときだけであり、彼女は女より男と寝床をともにする方を好んだほどであった。
とはいえ、自分が女として扱われると非常に気詰まりであったので、女の服装にもどらなければならなくなったときには、まったくの不安に襲われた。彼女は自分が「24歳から30歳くらいの女たちにまるで磁石に引かれるように引きつけられる」のを感じていた。
彼女が性的満足を得られるのはもっぱら相手の女を愛撫するときだけ
で。場合によっては、麻屑を詰めた靴下を人口ペニスとして使った。彼女は男を嫌悪していた。彼女は他人の論理的評価にとても敏感で、豊かな文才、広い教養、並外れた記憶力に恵まれていた。
サンドールは精神分析を受けていないが、たんなる事実の報告からも、際立った点がいくつか明らかになる。彼女は、「男性的抗議」をするのではなく、自分の受けた教育と体質のおかげで、ごく自然に、自分のことをいつも男だと思っていたようだ。父親が彼女を旅につれていき自分と共に生活をさせるというやり方は、明らかに決定的な影響を及ぼした。
彼女の男性的特質は非常に確実なものであったので、彼女が女に対してアンビヴアレンツ(両面感情)を示すことはまったくなかった。彼女は男として女たちを愛したのであり、自分が女たちによって妥協させられていると感じはしなかった。
彼女は女たちをまったく支配的で能動的な仕方で愛し、相互性は認めていなかった。しかし、彼女が「男を嫌悪した」ということ、とりわけ年配の女を深く愛したということは強い印象を与える。これはサンドールが母親に対して男性的なエディプス・コンプレックスを抱いていたということを示唆している。
彼女は、ごく幼い娘の小児的態度、つまり、母親とカップルになっていて、いつかは母親を保護し、支配したいという願望を育んでいるという態度を永続させているのである。子どもが母の愛に満たされなかった場合、この愛を求める欲求が大人になってからも終生つきまとうということがよくある。
父親に育てられたサンドールは愛情豊かな、愛しい母親というものに憧れはもったはずであり、のちに、他の女を通じてそうした母親を求めたのだ。このことは、彼女の目には神聖な性格を帯びているように見えた「身寄りのない」年配の女たちに対する彼女の尊敬の念、「詩的な」愛情と結びついた、他の男たちに対する彼女の根深い嫉妬心を説明づけている。
彼女の態度はまさに、ヴァラン夫人[1700-62、ルソーの保護者、愛人]に対するルソーの態度、シャリエール夫人[1740-1805、オランダ生まれ。スイスのフランス語圏の女性作家]に対する若き日のバンジャマン・コンスタン[1767-1830、フランスの作家。『アドルフ』、『シャリエール夫人への書簡』など]の態度である。感受性の強い、「女性的な」青年たちもまた、母性的な愛人に頼る。
女性同性愛者にも、多少なりとも際立った人物像として、こうしたタイプがよく見受けられる。彼女たちは、母親に敬服するあまり、あるいは母親を嫌悪するあまりに、自分は母親と決して同一視することがなかったが、しかし、女になる事を拒否しながらも、自分の周りに女性的な保護がほしいと思っている。この暖かい母体の内部から、彼女は男の子のような大胆さをもって世界へ飛び出すことができる。
彼女は男のように振舞うが、男としては弱さがあり、この弱さゆえに年上の愛人の愛情がほしいと思う。このカップルは威厳のある年配の女と青年という古典的な異性愛カップルを再現することになる。
精神分析学者は女性同性愛者がかって母親とのあいだに保っていた関係の重要性を的確に指摘している。思春期の娘が母親の支配を逃れるのに苦労するという場合は二種類ある。心配性の母親に熱心に庇護されてきた場合と、深い罪責感を吹き込む「悪い母親」に虐待されてきた場合である。
第一との場合には、母娘の関係はたいてい、同性愛すれすれのところにあった。彼女たちは一緒に眠り、互いに愛撫したり、乳房にキスしあったりしていたのだ。娘はこれと同じ幸福を新しい腕に求めることになる。
第二の場合には、娘は最初の母親から自分を守ってくれ、自分の感じている呪いを頭から追っ払ってくれる「良い母親」を激しく求めている。ハヴェロック・エリスがその経緯を語っている患者の一人、子ども時代ずっと母親を嫌っていたという人は、16歳のとき年上の女に感じた愛情を次のように描いている。
私は自分が突然母親を手に入れた孤児であるかのように感じ、大人たちにそれほど敵意を感じなくなり、尊敬の気持ちを抱くようになりました。・・・・彼女に対する私の愛情はまったく純粋なものでしたし、私は彼女のことを母親というものと同じように考えていました。・・・・私は、彼女に触れ、時には腕に抱き締めたり、膝に座らせてくれたりするのが好きでした。・・・私が床につくと、彼女はおやすみを言いに来て、唇にキスするのでした。
年上の女にその気があれば、年下の女はより熱烈な抱擁に喜んで身を任せるだろう。ふつう、年下の女が引き受けるのは受け身の役である。というのも、彼女は支配されたい、保護されたい、子どものようにあやされ、愛撫されたいと思っているからだ。
こうした関係は、プラトニックなものにとどまるにしろ、肉体的なものになるにしろ、本当の恋愛感情の性格をおびることが多い。しかし、こうした関係が思春期の娘の成長において普通の段階として現われるからといっても、この関係だけでははっきりとした同性愛の選択を説明づけることはできないだろう。
若い娘は同性愛に開放を求めると同時に安心感を求めているが、こうしたものは男の腕のなかでも見出すことが出来るのだ。熱愛の時期が過ぎると、たいていの年下の女は年上の女に対して、かつて自分が母親に対して抱いていたようなアンビヴアレンツ(両性感情)を抱く。彼女は年上の女の支配を受け、そうするなかで、この支配から逃れたいと思っている。年上の女があくまでも彼女を引き止めておこうとすれば、彼女は、しばらくは、「囚われの女
」(*5)となっているであろう。
しかし、激しいケンカ騒ぎの末に、あるいは円満に、彼女は結局そこから逃れ出ることになる。思春期を清算した彼女は、自分が正常な女の人生に立ち向かっていくのにちょうどいい時期にいると感じる。女の同性愛傾向が確立されるには、女が――サンドールのように――自分が女であることを拒否するか、あるいは、それが女の腕の中で見事に開花する必要がある。
つまり、母親の固着というだけでは同性愛の説明がつかないのだ。そして、同性愛がまったく別の理由から選ばれることもありうる。女が完全または不完全な体験を通じて、自分は異性愛から快楽を引き出すことはない、または、自分を満足させてくれるのは女だけだという事を、発見したり予感したりすることもある。とりわけ、自分が女であることに愛着を持っている女にとって、同性愛的な抱擁が結局のところ最も満足のいくものであるのが明らかになる。
次のことを強調しておくのは非常に大切である。つまり、自分が客体になるのを拒むことが、つねに女を同性愛に導くわけでないのである。女性同性愛者の大部分は、逆に、自分が女であるという財宝を占有しようとする。受動的な物体に変身するのに同意することは、主体的な権利要求をすべて放棄することではない。
女はそのようにして即自の形をとりながら事故に到達したいと願っている。しかし、そのとき、女は自分の他者性において自分を取り戻そうとする。独りきりでいるのでは、女は実際に自分を二つに分けることができない。自分の胸を愛撫してみても、自分の乳房が他人の手にどのような姿を現すのかも、他人の手元でどのように実感されるのかもわからない。
男は女に彼女の肉体の対自的な存在を気づかせることはできるが、その肉体が対他的にどのようなものであるかを気づかせる事は出来ない。もっぱら、彼女の指が女の肉体をなぞり、その女の指も彼女の肉体をなぞるときだけ、鏡の奇跡が実現する。男と女のあいだでは、肉体関係は行為である。それぞれが自分から引き離されて他者になる。
恋する女を驚嘆させるのは、彼女の肉体の受動的な活気のなさが男性的精力の激しさという形に反映されることである。しかし、ナルシストの女はこの直立した性器にごく漠然と自分の魅力を確認するだけである。女どうしの場合、肉体関係は観照である。愛撫は相手の所有するためのもというよりもむしろ、相手をとおして自分を再現するためのものである。
分離というものがなくなっているので、闘いも、処理も敗北もない。まったくの相互性において、それぞれ同時に、主体かつ客体であり、支配者かつ奴隷である。この二重性は暗黙の合意である。
コレット(*6)はこう言っている。「ぴったりと似通っていることは快楽までも確実にする。女の愛人は自分がその秘密を知っている肉体、自分自身の肉体がその好みを明らかにして見せる肉体を、確信を持って、愛撫するのを楽しむ」。また、ルネ・ヴィヴィアンは次のように言っている。
私たちの心は私たち女の胸に似ている
とてもいとしいひと! 私たちのからだは同じようにできている
同じ重たい運命が私たちの魂にのしかかっている
私はあなたの微笑み、そしてあなたの顔のかげりの表われ
私のやさしさはあなたの深いやさしさと同じもの
時には私達は同じ血筋のように思える
私があなたのなかで愛するのはわが子、わが友、わが
姉妹(*7)
こうした二重化は母性的な形態をとることもある。自分の娘のなかに自分自身を認め、自分自身を疎外する母親は娘に性的な愛着を感じている場合が多い。ひ弱な肉体を保護し、自分の腕の中であやすのを好む気持ちは、女性同性愛者と共通している。コレットは『葡萄の巻ひげ』で次のように書くとき、この類似性強調している。
あなたは、母親のような心配にあふれた目をして、私のうえに身をかがめて、私に快楽をもたらす。あなたは、情熱的な女友だちを通じて、自分が持つことのなかった子どもを探し求めている。
また、ルネ・ヴィヴィアンも同じ気持ちを表現している。
おいで、私はあなたを病気の女の子のように連れていく
悲しげで、不安げで、病んでいる女の子のように
私の元気な腕のなかにあなたの軽いからだを抱きしめる
きっとわかりますよ 私が治して守ってあげられるということが
そして私の腕があなたをうまく守ってあげるようにできていること
が(*8)
そしてまた、
私の腕のなかで弱々しく静かにしているあなたが好き
温かな揺籠で眠るのと同じようにしているあなたが
あらゆる愛――性愛でも母性愛でも――には、貪欲さと寛大さ、相手を所有したいという願望と相手にすべてを与えたいという願望が同時に存在する。しかし、母親と同性愛の女がとりわけ一致するのは、この両者がナルシストであって、娘や愛人の女の中に見られる自分の延長や反映を愛撫している限りにおいてのことである。
ときいえ、ナルシストもやはり、つねに同性愛に通じるわけではない。マリー・バシュキルツェフの例がそれを証明している。彼女の著作には女に対する情愛のこもった気持ちが全く見受けられない。彼女は感覚的というよりもむしろ頭脳的で、きわめて虚栄心が強く、子どもの頃から男に評価されることを夢見ている。
自分の栄誉に役立つこと以外は何も彼女の関心を引かないのだ。もっぱら自分を熱愛し、抽象的な成功を目指している女は他の女たちとの暖かな共謀関係を結ぶことが出来ない。他の女たちのことをライバル、敵として見なさないのだ。
実際は、どんな要因もけっして決定的なものではない。重要なのはつねに、複雑な全体のなかで行われる、自由な決定に基づいた選択である。どんな性的運命も個人の人生を支配していない。逆に、個人の官能性が実存に対するその人間の全体的な態度を表しているのである。
とはいえ、この選択には状況も大きくかかわっている。今日もまた、男女の大部分は離れて生活している。女子寄宿学校、女子高校では、親密な関係がすぐに性的な関係へと移りやすい。女子と男子の交友が異性愛の経験をしやすくしている環境では、同性愛の女はずっと少ない。
作業場や事務所で女だけ雇っていて、男と交際する機会がほとんどない女たちの多くは女同士で恋愛関係を結ぶことになる。物質的にも精神的にも、女同士で生活を共にすれば彼女たちにとっては好都合なのだろう。
異性愛の関係の欠如または失敗が女たちを同性愛へと導くことになる。あきらめと好みの境界線を引くのは難しい。女が男に失望させられたために女に身を委ねることもある。しかしときには、その女が男に求めていたのは女であったがために、男が彼女を失望させたということもある。
以上のような理由から、異性愛の女と同性愛の女を根本的に区別するのは間違いなのである。思春期のあいまいな時期がすぎると、正常な男はあえて同性愛的な過ちを犯そうとはしなくなる。しかし、正常な女が青春時代に魅惑のされた恋愛関係――プラトニックなものであれ、そうでないものであれ――に立ち戻る場合がよくある。
男に失望した女は女の腕のなかに自分を裏切った愛人を探し求める。コレットは『さすらいの女』において、禁じられた快楽がしばしば女の人生のなかで慰めを与える役割を演じていることを指摘している。なかには慰めあって生涯を過ごす女たちもいる。
男の抱擁によって満ち足りている女でさえ、もっと穏やかな快楽を無視できないこともある
受動的で官能的な女は、女の愛人の愛撫を不快には思わない。なぜなら、彼女はそのようにして自分の身を任せきって、満足させてもらえばすむのだから。能動的で情熱的な女は「両性具有者」のように見えるが、それは、謎めいたホルモン配合のせいではなく、もっぱら、攻撃性と所有欲は男性的特性であると見なされているせいである。
クロディーヌはルノーに恋しているが、それだからといってレズィの魅力に欲望を抱かないわけにはいかない。クロディーヌは完全に女であるが、それでも絶えず自分を捕らえ、愛撫したいと思っている。もちろん、「淑女な女」の場合には、こうした「変態的な」欲望は用心深く抑圧されている。
しかし、こうした欲望は純粋だが情熱的な友情のかたちをとったり、あるいは母性的な愛情に見せかけたりして現われる。ときには、精神病の信仰の過程で更年期の危機的時期に突発的に出現することもある。
また同性愛の女を二つの明確なカテゴリーに分類しようとするのは、なおさら意味がない。社会で起きる滑稽な出来事が自分たちの実際の関係とダブる場合が多いので、彼女たちはバイセクシャルのカップルを面白がってまねて、自ら「男役」と「女役」の区分をほのめかす。
しかし、一方の女が地味な男物仕立てのスーツを身に着けていても、誤魔化しははかない。もっと注意深く観察すると彼女たちの性行動が――ごく限られた場合を除いて――曖昧であると言うことが分かる。男の支配を拒否しているために同性愛者になっている女は相手の女に同じように尊大な男まさりの女を認めて喜び味わうことが多い。
かつて、男と離れて共同生活をしていたセーヴルの女子高等師範学校の学生のあいだでは、数多くの禁断の恋が花を咲かせた。彼女たちはエリート女性に属しているのを誇りに思い、自律的な主体でいた。特権カーストに対抗して彼女たちを団結させていたこの複雑な感情のおかげで、彼女たちはそれぞれ、女友だちのなかにある威信ある存在、つまり自分自身のなかで慈しんでいるものに感嘆することができた。
互いに抱き合うとき、それぞれが男であると同時に女であり、自分の両性具有的な美点にうっとりとしていたのだ。その逆に、女の腕のなかで自分が女であることを楽しみたいと思う女はどんな支配者にも服従しないという自尊心ももっている。
ルネ・ヴィヴィアンは女性美を熱烈に愛しており、自分が美しくありたいと思っていた。彼女は着飾り、長い髪を自慢にしていた。しかしまた、自分が自由で、元のままであると感じたがっていた。その詩作品のなかで、彼女は結婚によって男の奴隷になることに同意する女たちに対する軽蔑の気持ちを表現している。彼女が強いリキュールを好み、しばしば猥雑な言葉使いをしたことは、男らしさを求める彼女の願望を示していた。
実際は、大多数のカップルにおいて、愛撫は相互的である。その結果、配役の仕方はきわめて漠然としている。子どもっぽい方の女が保護者役の威厳ある年配女性に対しする成年の役を演じることもある。彼女たちは対等に愛し合う事が出来る。相手役が同質であるということから、あらゆる組み合わせ、転換、交換、芝居が可能になる。愛人それぞれの心理的傾向に応じて、また状況全体に応じて、関係は均衡を保つ。
相手の女を助けたり、世話したりする方の女は、専制的な保護者、つけこまれ、騙されやすい人物、尊敬される領主、また時には売春婦のひもといったような男の役割を引き受ける。精神的、社会的、知的な優越性が彼女に権威を与えることが多い。しかし、愛されている方の女は、博愛を寄せる方の女の情熱的な愛着が彼女に与える特権を享受する。
男と女の組み合わせと同じように、女同士の組み合わせも多種多様な形態をとる。この組み合わせは感情や利害や習慣に基づいて成り立っている。夫婦のような形もあれば、ロマネスクなものもある。サディズム、マゾヒズム、寛大さ、誠実さ、献身、わがまま、利己主義、裏切りにも通じている。同性愛の女のなかには、売春婦もいれば、恋多き女もいる。
しかし、特定の事情がこうした関係は制度や慣習によって是認されることもすくなくないし、契約によって規制されることもない。その結果、より誠実な体験される。男と女は――たとえ夫婦であろうと――多かれ少なかれ相手の前で気取ってみせる。
とくに女はそうだ。女は男からいつも命令を押し付けられているからだ。模範的な貞淑さ、魅力、愛嬌、子どもっぽさ、厳格さなどといったように、夫や愛人のそばでは、けっして女は自分自身になりきれない。女の愛人のそばでは、女は気取らないし、本心を偽る必要もなく、彼女たちはあまりによく似ているので自分をさらけ出さないわけにはいかない。
この類似性が最も全面的な親密さを生み出す。性愛はこうした結合にあってはかなり小さな部分を占めないことが多い。快感は男女の結合の場合よりも電撃的、眩惑的でない性格のもので、それほど驚異的な変身をもたらしもしない。
しかし、男女の愛人たちは体を離すと、他人に戻る。しかも、男の体は女にとって厭わしいものに見える。そして、男はときには自分の伴侶の体を前にしてむかついた嫌悪感のようなものを感じる。女同士の場合には、肉体の愛はもっと同等で、もって持続性がある。彼女たちは狂おしい恍惚感にとらわれはしないが、敵意のある冷淡さに立ち戻ることはけっしてない。
互いに見つめ合い、触れ合うことは、共寝の快楽を密かに延長する安らかな快楽がある。サラ・ボゾンビと愛人の女との結合は50年近くにわたって一点の曇りもなく続いていた。彼女たちは世界の周縁に平和な楽園を造り出すことが出来たようだ。しかし、誠実さにも報いがある。
女はどうしても隠し立てをしたり自制したりする気遣いなしに自分をさらけ出すので、互いに刺激し合って、とんでもなく激昂してしまう。男と女は互いに異なっているから、遠慮しあう。男は女を前にして憐憫(れんび)と不安を感じる。男は女を丁重に、寛大に、控えめに扱うように努める。女は男を尊重し、少しばかり恐れており、男の前では自制しようとする。
それぞれが、その感情、反応がよくわからない謎めいた相手を傷つけないように気遣う。女同士だと、女は情け容赦がない。互いに相手の裏をかき、相手を挑発し、しつこく責め、激しく攻撃し、卑劣のどん底まで引きずり込む。
男の冷静さ――冷淡さにしろ、自制にしろ――は防波堤のようなもので、女の起こす騒ぎはそれにぶつかると砕け散ってしまう。しかし、女の愛人どうしでは、涙と痙攣がエスカレートしていく。非難と言い訳を繰り返す彼女たちの根気のよさはとどまるところを知らない。
要求、苦情、嫉妬、横暴といった、結婚生活にまつわる厄災すべてが猛烈に荒れ狂う。こうした性愛関係がたいてい波乱に富んでいるのは、一般に異性愛よりも脅威にさらされているからである。社会から非難され、社会にうまく溶け込むことができないのだ。男性的態度を――自分の性格、自分の状況、自分の情熱の強さによって――引き受ける女は、愛人の女に正常な立派な人生を送らせられないこと、彼女と結婚できないこと、彼女を奇異な道筋に誘い込んだことを後悔する。
ラドクリフ・ホールが『孤独の井戸』で女主人公に与えているのが、こうした感情である。この後悔の念は病的な不安と、とりわけ身を焦がすような嫉妬となって現れる。一方、もっと受動的な、あるいは、それほど惚れこんでいない相手の女の方は、したがって、社会の非難にくるしむことになる。彼女は自分が堕落し、退廃し、欲求不満に陥っていると思い、自分にこうした運命を押し付けている女に恨みを抱くようになる。
二人の女のうち一方が子どもを欲しがるということもありうる。その女が子どもを産めないことを悲しみながらあきらめるか、それても、二人で養子をもらうか、それても、子どもを産みたい方の女が男に助けをたのむ。子どもはときには絆になるが、またときには、新たな軋轢の原因にもなる。
同性愛に閉じこもる女に男性的な性格を与えているのは、彼女たちの性生活ではない。その性生活は、逆に、彼女たちを女の世界に閉じ込めているである。彼女たちに男性的性格を与えているのは、彼女たちが男なしですましているために、自分たちで引き受けざるをえない責任全体でる。
彼女たちの状況は高級娼婦の状況の裏返しである
高級娼婦は、男の間で生活しているおかげで男性的な気風を身につくこともある――例えば、ニノン・ド・ランクロ[17世紀後半の女性作家、サロンを主宰]のように――が、男に依存している。同性愛の女たちのまわりに漂う独特な雰囲気は、彼女たちの私生活がくり広げられる女性部屋的環境と彼女たちの公的生活の男性的自立とが対照的である事に由来している。
彼女たちは男抜きの世界で男のように振舞っている。独りきりの女は、つねに少し異様に見える。男が女を尊重するというのは本当ではない。男たちは自分たちの女――愛人、「扶養している」娘――を通じて、自分たち男どうしを尊重しているのだ。男の保護が女に及ばなくなると、女は攻撃的、嘲笑的、敵対的な態度を示す上層カーストに対して無力になる。
「性的倒錯」としての女性同性愛者は苦笑を誘うくらいである。しかし、これが一つの生活様式を意味している限りでは、女性同性愛者は軽蔑や反感をかう。同性愛の女たちの態度に挑戦的なところやわざとらしいところが多いのは、彼女たちが自分の状況を自然に生きるのはまったく無理だからである。
自然的というのは、自分について深く考えないこと、自分の行動についてあれこれ想像せずに行動することを意味する。しかし、他人のふるまいが絶えず同性愛の女に自分自身を意識するように仕向ける。かなり年配であったり、高い社会的威信にめぐまれているという場合だけは、同性愛の女は冷静に平然として自分の道を進んでいくことができるだろう。
たとえば、同性愛の女がよく男装するのは好みからか、それとも防衛反応からかを判断するの難しい。もちろん、そこにはかなりの部分にわたって自発的な選択が働いている。だが、女の服装をすることほど自然でないものではない。たしかに、男の衣服も人工的だが、しかし、女の衣服より便利で簡素であり、働きを押さえるのではなく、働きやすいようにできている。
ジョルジュ・サンド、イザベル・エペラルツは男物の衣服を着ていた。ティド・モニエは最新の
著書(*9)において、自分は好んでパンタロンをはいていると語っている。活動的な女は誰しもローヒールの靴、丈夫な布地の服を好む。女の化粧の意味は明らかである。つまり、自分の「身を飾る」という意味であり、自分の身を飾るということは自分を売りだすということである。
異性愛のフェミニストたちも最近までは、この点について同性愛の女たちと同じように非妥協的であった。フェミニストたちは自分自身を人目にさらされる商品にするのを拒み、男物のスーツ、地味なソフト帽を身に着けることにしていた。飾りのついた、襟ぐりの深いドレスは彼女たちには、自分たちの攻撃している社会秩序の象徴に思われたのだ。今日では、彼女たちは現実に打ち勝つことに成功しているので、この象徴は彼女たちの目にそれほど重要なものとはみえなくなっている。
だが、同性愛の女たちが自分をいまだに権利要求者と感じているかぎりにおいて、この象徴は同性愛の女たちにとって重要性を保っているのだ。また――身体的な特徴が同性愛の性向の原因となっている場合には――簡素な衣服の方がその女によく似合うということもある。さらに、服装の演ずる役割の一つは、女の補足的な官能性を満足させることであるという点も付け加えておかなければならない。しかし、同性愛の女はビロードや絹の慰みものを軽蔑する。
だが、サンドールのように、同性愛の女はそうした慰みものを愛する女たちが身に着けているのを好む、あるいは、愛する女の肉体そのものがそれにとって代わる。同性愛の女が好んで強い酒を飲み、強い煙草を喫い、下品な言葉使いをすることがよくあるのも、やはり同じ理由からである。
官能性の面では、同性愛の女は生まれつき女性的な柔和さをもっている。だが、彼女はそれと対照的に活気のある環境を好む。こうした側面が、彼女が男と一緒にいるのを好むようになることがある。しかし、ここで新たな要素が関わってくる。彼女が男とのあいだに保つのはたいてい紛らわしい関係なのである。
自分の男性的特質を十分に確信している女は友人や仲間として男しか求めない。こうした確信が見受けられるのはまず、男と共通の利害を持ち、また――事業や運動や芸術の分野で――男の一員として働き、成功している女の場合だけだ。
ガートルード・スタイン[1874-1946、米国出身の女性作家]は、友人たちを招待するときはいつも、男たちとしか会話を交わさず、彼らの同伴した女たちをもてなす役はアリス・トクラスに任せきってい
た(*10)。非常に男性的な同性愛の女は、女に対しては両面的な態度を示す。女を軽蔑しているが、女たちの前では女としても男としても劣等コンプレックスを抱くのだ。
彼女たちに自分ができそこないの女、不完全な男と見えはしまいかと恐れ、そのために、尊大な優越性を誇示したり、女に対して――シュテーケルの報告にある女性同性愛者のように――サディスト的な攻撃性を示すようになる。しかし、こうした事例はかなり稀である。すでに見たように、大多数の同性愛の女はためらいながらも男を拒否している。
こうした同性愛の女たちは、不感症の女たちと同じように、嫌悪、恨み、臆病さ、自尊心がある。彼女たちは、自分が本当に男と同類だとは感じていない。女としての恨みに、男としての劣等コンプレックスが加わる。男たちは彼らの獲物を誘惑し、所有し、引き止めておくのに有利な手段をそなえたライバルなのだ。彼女たちは女に対する男の権威を憎み、男が女に課す「汚れ」を憎む。また、男が社会的特権を握っているのを見たり、男が彼女たちよりも強いと感じては苛立ちを覚える。
ライバルと闘うのが不可能だということ、ライバルが自分を一撃のもとに叩きのめすことが出来ると分かっているという事は、ひどい屈辱である。こうした複雑な敵意が、一部の女性同性愛者にこれみよがしの態度をとるようにさせる理由の一つになっている。彼女たちは自分たちのあいだでしか交際しない。クラブのようなものを作って、自分たちにはもう社会的にも性的にも男は必要でないという事を見せつける。ここから、いつのまにか、むだな虚勢や、非本来性にまつわるあらゆる喜劇へと移っていくということになりやすい。
同性愛の女はまず初めに、男であるふりをする。ついで、同性愛者であるということ自体が一つの遊戯になる。仮想衣装が変装衣装から制服に変化する。そして女は、男の抑圧を逃れるという口実のもとに、自分の役の虜になる。
女という状況に閉じ込められたくないと思っていたのに、同性愛の女という状況に閉じ込められているのだ。こうした解放された女たちの徒党ほど、偏狭な意識と去勢されたものという悪印象を与えるものはない。
打算的な迎合から自分を同性愛者であることを告白するにすぎない女が多いという事も付け加えておかなければならな
い(*11)。彼女たちは意識的にあいまいなふるまいをするようにしているにすぎず、しかも、「背徳的な女」を好む男たちの気を引けるものと思っている。こうした大袈裟な熱狂的信奉者たち――明らかに最も人目を引く者たち――が、世論が悪徳、気取りと見なしているものの評判を傷つけるものになっているのである。
実際には、同性愛は故意の背徳行為でもなければ、宿命的な不運でもない。これは、状況のなかだ選択された態度、つまり、理由があると同時に自由に採用された態度である。主体がこの選択によって引き受ける要因――生理的条件、心理的経歴、社会的事情――は、これらすべてがあいまいに同性愛を説明づけているにしてもどれ一つとして決定因ではない。
同性愛は女にとって、彼女の総体的条件、とくに官能性にかかわる状況によって課される問題を解決するための数ある手段の一つなのである。あらゆる人間の行為と同じように同性愛も、それが欺瞞、怠情、非本来性のなかで生きられるか、それとも、明晰さ、寛大さ、自由のなかで生きられるのかに応じて、悶着、不均衡、挫折、噓をともなうことにもなり、また逆に、豊かな経験の源泉ともなるのだ。
つづく
第二部 女が生きる状況
第五章 結婚した女