訳者あとがき
第T巻の「訳者あとがき」で述べられているように、旧訳(生島遼一訳、新潮社、1953)の五巻本では、原書U巻(「体験」)がT巻(「事実と神話」)の先にきて、構成が大きく変えられている。
T巻では、なぜ歴史の初めから、男女という性別に序列がつけられ、女は男より劣った性、「第二の性」、《他者》とされているのか、男たちは法と慣習を通じて歴史的にどう女の地位を決定したのか、神話をしおして女のイメージはどう作り上げられてきたのか、こうしたことを解き明かしたT巻を読んではじめて、U巻の女が誕生してか老いるまで日々生きる生涯の体験の構造と意味が明らかになる。そして、有名な書き出し――「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」、つまり体が個々の女の状況をとおして、女をいまあるような女に作り上げたのだという強力なメッセージをより深く理解できる。
また、最終部「解放にむかって」で示される主張、男女の関係はこれまでの抑圧関係から、現在の闘争関係を経て、将来の友好関係に向かうべきであり、それは可能なのだという展望への道すじは、T巻の序文からの一貫性ある論理展開を読み取って、はじめて説得力のあるものとして納得できるのだ。
U巻では、個々の女が、生まれた時から《他者》になるように仕向けられ、《他者》となることをどのように内面化し、《他者》としての女の人生をどのように受け入れ老いていくのか、男が超越へと向かうのに対し、どうして女は内在にとどまってしまうのか、それが女のうちにどのように葛藤を生み出すのか、こうしたことが女の視点から、女の具体的な体験をとおして語られる。
このようにU巻は、女の視点から語られる体験の書であると同時に、性というものがいかに社会・文化的に作られた虚構であるかということを、女の体験の構造から明らかにしたジェンダー論とも言える。生物学的な性であるセックスと社会・文化的に作られるジェンダーの関係は、『第二の性』においては非常に微妙で、ジェンダーが、セックスを意味づけする、セックスに先行すると読み取れる箇所が多い。たとえば、U巻第一部第一章で、ボーヴォワールは「他人の介在があってはじめて個人は《他者》となる、という。
子どもは自分に対してだけ存在している限りは、自分を性的に異なるものとして捉えることはできない」と言う。これは、現在でもセックスとジェンダーをめぐる大きな問題点となっていることを記しておきたい。
第一部「女はどう育てられたか」では、まず、人間の性別というものが幼児期に認識されていく過程が明らかにされる。男も女も母親と融合状態にいる乳児は、離乳期になって初めて遺棄(見捨てられた独りぽっちの状態)を経験し、すべての実存者が生きる《他者》との関係という根本的なドラマを直接的に生きることなる。
三、四歳から子どもはこの遺棄と闘おうとする。この遺棄に対する埋め合わせとして、大人が子どもに接する態度、育て方は、男の子と女の子では明確に異なっている。逆に、性別を意識しなかった子どもたちに自分たちの身体的構造の違い(ペニスの有無)をはっきり認識させることになるのだ。
次いで、性別に基づいて大人が仕向ける「男らしさ」、「女らしさ」が、思春期の男女のうちに、能動的、受動性の意識・行動として現れてくる過程が示される。そして、女に押し付けられた受動性が、思春期の女のセクシャリティ。エロチシズムにどんなかたちをとらせるか、同性愛へと向かわせる場合もある、その複雑な様相が描かれる。
第二部「女が生きる状況」では結婚制度を背景に女の生き方が描かれる。結婚することで女は夫を介して社会的尊厳を得るが、一方で、依存状態に置かれ、内在に閉じ込め込められていく。また、女は母親になることで、その生理的運命を全うする。しかしボーヴォワールは、母性本能というものは存在しない、子どもに対する母親の態度は母親が置かれた状況全体、そして本人がそれをどう引き受けるかによって決まると言うのだ。
ボーヴォワールは母性を否定したとよく誤解されるが、否定したのではなく、それが女を《他者》にしておく一つの罠だと言っているのである。だから、罠とならなかった場合について、次のように言うのだ。個人生活が最も豊かな女こそ、子どもにとって最もよき母親、教育者となると。だが、実際の母子関係は葛藤に満ちている。そこに女の状況が反映されているのだ。
女も社会のなに個別の自由な人間として認められたいと思っている。結婚した女のなかには、社交生活、女どうしの友情、姦通などを通じて、この願望を果たそうとしている者もいるが、実現は難しい。また、性愛の面では、自分の個別性を認めさせることで自由を達成する高級娼婦は別として、妻も売春婦も女一般のなかで女は熟年期、老年期へと移っていく。
更年期と前後して精神的危機に見舞われる女が多い。女として魅力を失うまいとあがく者も多い。性は失ったが完成した女という現実を受け入れると、この危機は回避される。しかし、自分自身の目的をもてないまま、自分が役に立つ存在として認められたいと懸命になる女は、成人した子どもに過剰に干渉したり単なる暇つぶしの活動にたずさわったりする。
そうした報われない行動は、空しさ、冷淡さ、辛辣さをともなった態度として現われる。最終章「女の状況と性格」で、ボーヴォワールは、女の生涯を見ていくと、古来から女の性格として非難されてきたものは、女の状況のせいであることがわかる、と言う。
女には行動することがほとんど禁じられているので、女が自分の自由を引き受ける反抗を通じてということになる。しかし《他者》の運命を逃れるには自分自身で解放に努力を傾ける以外にない。この解放は集団でしかできないだろうし、経済的自立が不可欠である。(なお、旧訳では、この章が「永遠の女性とは?」と題され、第三部冒頭に組み入れられていて、原書の意図が正確に伝わっていない)。
第三部「自分を正当化する女たち、内在のただなかで超越を実現しようとする女たちの滑稽で悲壮な努力が、ナルシシストの女、恋する女、神秘的信仰に生きる女のなかに描き出される。
第四部「解放に向かって」では、「女らしさ」の神話をくつがえそうとしている女たち、経済的、精神的に自立しつつある女たちにいまどんな問題が突きつけられているかが明らかにされる。そしてボーヴォワールは主張する。人間の集団のなかだ自然のままのものは何もない。
とりわけ女は文明が作り上げたものであって、最初から女の運命は他人の介入が他の方向でなされるなら、まったく別の結果になる。だから、女が変わるには経済的要因はたしかに重要だが、これに精神的・社会的・文化的成果が伴わなければ新しい女は生まれない。
一方、男女が互いに主体であり、他者であるという相互性のある関係が打ち立てられても、男と女のあいだにいくつかの差異はこれからもずっと残るだろう、と。
ボーヴォワールは膨大な知識と資料を駆使し、強靭な論理で、いかに社会・歴史・文化が女という性を「第二の性」に作り上げたか、その壮大な性の支配装置を解き明かし、そこからいかに女が自己解放していくべきかの展望を拓いた。この本は、女が自分の可能性をどこまで拓き、男女のあいだに、どのように平等な相互性が打ち立てられたかを見るとき、つねに立ち返る指標となるだろう。
人類がもっと優れた女性解放論、ジェンダー論、の古典として、これからも読みつがれ、多くの女たち自分を思考するてがかりを与えて励まし、男たちも、女は一人ひとりが個別で自由でありたいと願っていることを理解させ、納得させていくだろう。
U巻の翻訳に参加したのは日仏女性資料センターの「『第二の性』を原文で読み直す会」のメンバーのうち、石川久美子、井上たか子、加藤康子、木村信子、坂井由香里、塩川浩子、芝崎和美、杉藤雅子、棚沢直子、中嶋公子、支倉寿子の十一名である。監訳は序文、第一部、第三部、第四部第十四章を中嶋公子。第二部、第四部結論を加藤康子が担当、チェックした訳稿を最初の担当者に目をとおしてもらい、T巻の監訳者とも検討を重ね、最終的な訳注とも最終的な責任は監訳者にある。
ここに、本書を訳し直す機会を与えてくださった方々に心から感謝する次第である。
1997年3月 加藤康子・中嶋公子
シモーヌ・ボーヴォワール[1908-86]
フランスの女性作家。ソルボンヌ大卒。哲学教師を経たのち、小説『招かれた女』(1943)を発表し、作家生活に入る。戦後、実存主義の観点に立つ画期的反響を呼んだ。終生、サルトルのよきパートナーとしてエネルギッシュな活動を続けた。主な作品に『他人の血』(45年)、『レ。マンダラン』(54年)、『老い』(70年)、自伝三部作などがある。1966年サルトルとともに来日した。