第二の性 U体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳
「そのとおり、女はわれわれの仲間ではない。堕落した怠け者だから、われわれは女を自分の性(セックス)だけが武器の、我々とは別の、わけのわからない存在にしてしまった。そのせいで、永遠に続く闘いが始まった。しかも、この武器は、正々堂々としていなくて、愛するときも憎むときも素直な相手ではない。秘密結社的な一致団結した軍団をなす存在であり、永遠に卑小な奴隷に特有の不信感だらけなのだ」
このジュール・ラフォルグ[1860-87、フランスの詩人]の言葉に納得する男たちはまだ数多くいることだろう。男女のあいだにこれからも、「策略や諍(いさか)い」はあっても、友愛はけっしてあり得ないだろうと思う人は多い。今日、男たちも女たちもお互い満足していないのは確かである。
問題は、ある本源的な呪いによって男女は決裂するよう運命づけられているのか、それともこの対立は人類の歴史における一つの過度期を示すものでしかないのかを知ることにある。
すでに見たように、これまで言い伝えられてきたことは違って、どんな生理的運命も、《雄》と《雌》をそれだけで永遠の敵対関係にあるように定めていない。あの有名なカマキリの雄も、他に食べ物がないときにだけ、ただひたすら種を守ろうとして、雄を食べるのだ。
下等動物から高等動物にいたるまで動物の個はすべてこの種というものに従属している。ところが、人類は種とは別のものである。それは歴史的生成である。人類は自然の事実性をどう引き受けるかで決まっていくのだ。実際、どんなに悪意があっても、人間の雄と雌のあいだに、文字通り生理的なレベルで対立関係があることを示すのは不可能である。
それなら男女の敵対関係を生物学と心理的の中間ぐらいの領域においてみたらどうか。つまり精神分析という領域である。女は男のペニスを羨ましくて、それを切り取りたがると言われている。しかし、この幼児期のペニスへの欲望は、大人の女の生活においては、女にとって女であることが去勢されたことのように感じられるのでなければ、問題にはならない。ペニスが男であることのすべての特権を体現しているからこそ、女はこの男性器官を自分のものにしたいとおもうのである。
男を去勢したいと願う女の夢には象徴的に意味があると言われがちである。つまり、女は男の超越性を奪ってしまいたいのだと思われる。しかし、私たちがこれまで見てきたように、女の願望はもっとずっと両義的である。女は相矛盾するやりかたで超越性を所有したいと望むのだ。つまり、この超越性を尊重している一方で、それを固定してしまいたいと思っているのだ。
「セクシャリティ」
ということは、女のドラマは、性的なレベルでだけで展開するわけではないということだ。そもそも、セクシャリティが、何らかの運命を決定するもとして、また、それ自体で人間の行為を解くカギとなるものとして私たちに見えたことは一度もなかった。セクシャリティは、ある状況を全体的に表わし、それを定義するのに貢献するものだと私たちは思えるのである。
いずれにしろ、男女の闘いは、男女の解剖学に直接的にかかわるわけではないのだ。実は、男女の闘いについて話すとき、人は、《永遠の女性的なもの》と言うよな、あるかどうかもわからない二つの本性のあいだの闘いが、時間の流れを超えた《イデア》の天空だけで展開されているものとして語っている。
そして、この大規模な闘いが地上で起こっており、歴史的な時期に呼応して、二つの全く違ったかたちを取っていることに気づいていない。
まず、女は内在性に閉じ込められているから、この内在という牢獄に男を引き止めようとする。こうすれば、牢獄は世界と見分けがつかなくなり、女はもうそこに閉じ込められていることに苦しまなくてすむからだ。母、妻、愛人は女看守である。男たちによって体系化されたこの社会は、女は劣った者だと宣告する。
女がこの劣等生を消し去るには、男の優越性を破壊するしかない。そこで女は男に傷を与え、男を支配しようとする。女は男の言う事に反対し、男の真実と価値とを否定する。しかし、女がそうするのは、単に自分の身を守りたいからなのである。女にとって内在性や劣等生が運命となっているのは、なにも不変の本性や罪深い選択によるのでない。
こうした
内在性や劣等生は女に押し付けられたものなのだ。すべての抑圧は戦争状態を引き起こす。男女の闘いの場合も例外ではない。非本質的とされた実存者は、必ず自分の主権を立て直したいと思うものだ。
今日では闘いは別の形を取り始めている。女は、もう男を監獄に閉じ込めようとしないで、自分自身がそこから抜け出そうとしている。男を内在性の領域に引きずり込むだけではなく、自分が超越性の光のなかへと浮かび上がろうとしている。
こうなると今度は男たちが新しい軋轢(あつれき)を生み出すような態度をとる。男は、いやいやながら女に「暇を出す」。男は、至高の主体、絶対的優越者、本質的な存在のままでいることが気に入っている。自分の伴侶である女を具体的に対等と見なすことはしない。
女は男のこうした不信行為に対して攻撃的な態度で応えようとする。こうなると戦争はそれぞれが自分の勢力範囲に閉じこもった個々人のあいだで起こることではなくなっている。自分たちの権利を要求する一つのカーストが猛攻撃をしかけ、特権をもつもう一つのカーストによって妨害されるということになる。闘っているのは、二つの超越である。それぞれの自由が、互いに相手を認めるのではなく、相手を支配しようとするのだ。
こうした態度の違いは、性的なレベルだけでなく、精神的レベルでもありありと現れている。「女らしい」女は、自分を受け身の獲物と見せかけながら、同時に男も受け身の肉体にしてしまおうとする。女は、男を罠にはめようとし、従順なモノのふりをすることで男のなかに欲望を引き起こし、それで男を縛ろうと躍起になる。
それに対し、「自由になった」女は、積極的、捕捉的であろうとし、男が女に押し付けようとする受け身的な在り方を拒否する。たとえば、エリーズ[作家ジュアンドーの妻]やそれに類する女たちは、男たちの活動に価値を認めない。彼女たちは、精神より肉体を、自由より偶然性を、大胆な創造力より彼女たちの型にまったく知恵を上位に置こうとする。
しかし「現代的な」女は、男の持つ諸価値を受け入れる。こうした女は、男たちと同じ資格で、考え、行動し、仕事をし、創造することを誇りにする。男たちを貶めようとはしないで、男たちと対等であると主張するのである。
「現代的に」女が具体的な行動で自分をみせるにつれて、こうした権利要求は正当なものになる。そうなれば、男たちの傲慢さの方が非難されるべきものになるだろう。しかし、男たちの弁明のために言っておく必要があるのは、女たちは好んで事態を混乱させるということである。
たとえば、メイベル・ドッジのような女は自分の女らしさの魅力を使ってロレンスら従順なふりをするが、それは精神的に彼を支配するためである。多くの女たちは、成功して男と同じ価値があることを証明するために、先ず男の支えを性的な手を使って確かなものにしようとする。
彼女たちは、二股かけて、昔からの敬意と新しい評価の両方を要求し、古い女の魔力と最近の諸権利の両方に賭ける。そうなれば、男が苛立って防御態勢をとるのも理解できる。しかし、男の方にも女に対してふた心があり、女が正々堂々と勝負することを要求しながら、警戒心と敵対心から勝負に必要な切り札は女に渡そうとしないのだ。
というように、闘いは、男女にあっては、はっきりしたかたちをとらないだろう。なぜなら、女の存在そのものが不透明なものだからだ。女は男に対して主体として立ち向かいはしない。女は、逆説的に、主体性が備わった客体として男に対する。女は自分であることを他者であることを同時に引き受ける。
この矛盾が困った結果を引き起こすことになる。女が自分の弱さと強さの両方を武器にするとき、よく考え、計算したうえでやっているわけではない。つい女はこれまで押し付けられてきた消極性という道のなかに救いを求めてしまうし、同時に。積極的に自分の主権も要求するという訳なのだ。
このやり方はたしかに「正々堂々として」はいない。しかし、これは単に女に割り当てられた両義的な状況を女がそのまま表しているにすぎないのだ。それなのに、男は、自分が女を自由な存在として扱おうとしているのだ。
女が男に罠をとかけると言って怒る。その一方で、男は、女が男の獲物であるうちには女にお世辞を言い。満足させてやるが、女が自律を求めれば、今度は苛立つのである。いずれにしろ、男は騙されたと思い、女は侵害されたと思う。
男女がお互いに同類だと認め合おうとしないなら、つまり、女らしさをそのまま永続させてしまうなら、こうした闘争はいつまでも終わらないだろう。女らしさを維持するのに熱心なのは、男と女のどちらなのだろうか。
女らしさから解放された女でも、その特権だけ取っておきたいと思うものだし、男の方は、それなら、女らしさの中にとどまってもらいたいと言うだろう。「一方の性を非難するのは他方の性を弁護するより容易だ」とモンテーニュは言っている。いずれにしろ、とちらかの性にたいして非難したり称賛したりしても意味がないのだ。
実際、こうした悪循環を断ち切るのがこんなにも難しいのは、両性ともそれぞれ自分の犠牲者でもあるし、相手の犠牲者でもあるからである。しかし、対立する両者が純粋な自由のなかで向かい合うなら、和解は楽にできるはずである。それにこの闘争は誰の得にならない。といっても、この問題全体にわたる複雑さは、それぞれの陣営が敵の共謀者あることからきている。
女は責任放棄の夢を見続け、男は自己疎外の夢を見続ける。非本来的な生き方では何も得られはしない。それぞれが、安易さの誘惑に負けて自ら招いた不幸を相手のせいにする。男も女も、相手の嫌なところを見ている者は、実は他ならない自分自身の自己欺瞞や臆病さによる明白な失敗なのだ。
歴史の起源になぜ男たちが女たちを従属させたかについてはすでに見た。女であることの価値低下は人類の変遷の必要な段階だったのである。しかし、人類の変遷は男女の協力を生み出すこともできたはずだ。抑圧は、存在者が、自分自身から逃げようとして、そのために、自分が抑圧する当の相手のなかに自己を疎外する傾向から説明できる。
今日でもこうした傾向は個々の男の中に見出せる。圧倒的多数の男たちがそれに負けている。夫は妻のなかに、恋する男は愛する女のなかに、石像のかたちをした自分の姿を求める。男は、女のなかに、男らしさの、崇高さの、自分のじかの現実の神話を探し求める。
「夫は映画になど絶対に行きません」と妻は言う。不確かだったおとこの意見は、こうして、永遠という大理石のなかに刻み込まれる。しかし、男の方も自分の分身の奴隷なのである。一つの像を作り上げるのは、なんという苦労なのだろ! しかもその像を作ろうと、それは女たちの気まぐれな自由の上に建てられているからだ。
だからこの自由を絶えず自分にとって都合のいいものにしておく必要がある。そこで、男は、男っぽくて、重要人物で、偉い人間であるように見せようと躍起になる。男は芝居を演じる。相手にも芝居をしてほしいからだ。男もまた攻撃的で心配性である。彼が女たちに敵意をもつのは、女たちを恐れているからだ。彼が恐れるのは、自分と同一化した相手が怖いからだ。
こうしたコンプレックスを精算したり、昇華したり、転位させたりするのに、なんと多くの時間と労力を費やして、男は女について語り、女を誘惑し、女を恐れたりすることか! 女を自由にすれば、男も自由になるというのに。しかし、まさにこのことが男のおそれていることなのだ。男は女を鎖でつないでおくために、さまざまな誤魔化しを施すことしか考えない。
女が誤魔化されていることを、多くの男たちは知っている。「女であることはなんと不幸なことか! しかし、女であることの最大の不幸は、実は、それが不幸だとわからないことである」とキルケゴールも言ってい
る(*1)。もう長い間ひとはこの不幸を包み隠そうとしてきた。
たとえば、女に後見人をつけることはすべて廃止されているので、女に「保護者」をつける。その保護者たちは古代からの後見人の権利を保持しているが、それは女の利益のためだとする。女が働くのを禁止し、家庭に閉じ込めておくのは、女を守るためであり、女の幸福を確かなものにするためだとする。
私たちは、女に任せられた家事、育児など単調な仕事がこれまでどんな詩的なヴェールで隠されてきたかを見てきた。自由と引き換えに、「女らしさ」というももっともらしい宝物を女は贈ってもらったのだ。バルザックは、こうした操作を実にうまく描いた。彼は女を、女王であると思い込ませながら奴隷として扱えと男に忠告していたのだ。
多くの男たちは、バルザックほど臆面ない考えはもてないから、女がほんとうの特権の持ち主だと、自分でも思い込もうとしている。今日のアメリカには、「下級階層の利得(ロウクラス・ゲイン)」なる理論をまじめに教える社会学者たちがいる。
つまり、「劣等カーストの利得」というわけだ。フランスにも――もう少し学問的でないにしても――、労働者たちは「代表者になる」必要がないから、幸運に恵まれているとか、さらに、浮浪者たちは、ボロを着て、歩道で寝ていればいいし、こういう喜びはボーモン伯爵やウェンデルのかわいそうな紳士たちは許されないとか主張するひとはよくいるのだ。
ノミやシラミを無造作にかきむしる気楽な乞食もいれば、いくら鞭打っても陽気に笑う黒人もいる。また唇に笑いを浮かべながら、飢えで死んだ子どもたちを葬るスース[チュニジアの一地方]の快活なアラブ人もいる。女もこうした責任のなさという比類なき特権に恵まれているというわけだ。
苦労もなければ、仕事もなく、気楽である。まさに女は「最上の分け前」を引き当てたのだ。厄介なこと――おそらくは原罪に関係あるらしいのだが――異常な頑固さで、ずっと何世紀にもわたって、さまざまな国で、この最上の部分を引き当てた人たちは、もうたくさんです! と恩人たちに呼びつづけてきた。
あなた方の分け前の方で結構です! と。しかし、気前のいい資本家、寛容な植民者、親切な男たちは頑固にも言いつづける。最上の分け前なんだから、きちんともっていなさい、と。
事実、男たちは、ふつう抑圧者が抑圧する相手に探しあてる共謀性以上のものを、自分の伴侶である女に見つける。彼らはそれを口実に不誠実にも彼らが押し付けた運命を彼女が望んだと言い張る。実際、女への教育のすべてが反抗や冒険の道を閉ざすように仕向けるのを、私たちはすでに見てきた、
尊敬する両親から始まって、社会全体が彼女に嘘をつき、献身的な愛や奉仕の高い価値を賛美して、実は恋する男も夫も子どもたちもこの迷惑な重荷を引き受けるつもりがないのだということを隠すのである。彼女は安易にこうした嘘を信じる。彼らが容易な道を歩むように誘うからだ。これこそが女に対し行われる最悪の犯罪である。
子どもの頃から、女の人生すべてを通じて、甘やかし、だめにし、自分の自由に不安を抱く実存者すべてを駆り立てる、あの責任放棄こそ女の天職であるかのように言うのだ。もし子どもを怠惰(たいだ)のなかに放っておき、毎日遊ばせて、勉強する機会を与えず、勉強が何かの役に立つともいわなないなら、この子が大人になったとき、無能力で無知であることを自分で選んだなどとは誰も言わないだろう。
これがまさに女を育てるやり方である。自分の生を自分で引き受ける必要を女に決して教えない。それなら、女が保護や愛や援助や他人の指導を当てにする方向に喜んで行くのは当然である。自分の存在を実現しようと今何かをする代わりに、いつかできるという希望に魅惑されてしまう。
こうした誘惑に負ける女はたしかにまちがっている。しかし男がそういう女を非難するのも筋違いである。女にそう仕向けたのは男なのだから。こうして両者のあいだに葛藤が生じたときに、この状況の責任は相手にあるとそれぞれが思うようになる。
女は、この状況をつくったのは男だと非難する。「誰も私にじっくり考えること、自分で稼ぐことを教えてくれなかった」・・・・男は、そんな状況を受け入れたのは女だと非難する。「お前は何も知らない、お前は無能力だ」・・・・それぞれが、攻撃することで自分自身を正当化したと信じる。しかし、一方の誤りでももう一方を無実にすることはできない。
男女間の数え切りない葛藤は、一方が提案し、もう一方が受け入れるこの状況の結果すべてにたいして、両方とも責任を負うとはしないことから来ている。「不平等のなかの不平等」というこの疑わしげな観念は、一方が自分の横暴を、もう一方が自分の無気力を隠すために使うものだが、経験かれば、それが偽りであることがわかる。
女は保証してもらった抽象的な平等をよこせと要求するし、それと交換に、男は具体的な不平等を認めるよう要求するからだ。ここから、与える。取るという曖昧な言葉をめぐって、果てしない論争があらゆる男女関係のなかで続くことになる。女は自分がすべてを与え不平等を言うし、男は、すべてを取るのは女だと抗議する。
女が理解しなければならないのは、――経済学の基本法則なのだが――提供される商品の値段が、売り手でなく買い手によってつけられ、この値段によって交換がおこなわれるということである。女に無限の値があるかのように思わせて、人は女を騙してきた。実際には、男にとって女は一つの気晴らし、快楽、つきあい、非本質的な財産に過ぎないのに。
女という存在に意味と理由を与えるのは男だ。だから交換は同じ価値をもつ二つの物のあいだ行われるわけでないのである。この不平等は、二人で過ごす時間が――あたかも同じ時間であるかのように見えながら――二人にとって同じ価値を持たないことにはっきりと表れてしまう。愛する男は、女と過ごす夜に、自分のキャリアに有益な仕事をしたり、友だちに会ったり、人間関係を育てたり、気晴らしをしたりするだろう。
ふつう男は社会の正社員だから、かれにとって時間は金、名声、快楽になる積極的な富なのである。これに対し、暇で退屈している女にとって時間はどうにかして潰さないといけない重荷である。うまく時間をつぶせば、彼女は得をしたことになる。男の存在は、だから、まったくの純益なのだ。
たいていの場合、女との関係で男が何よりも関心をもつのは、そこから引き出す性的な利益である。つきつめれば、彼は愛の行為をするのに必要な時間だけ女と過ごせればいいと思っている。それに対し――例外を除いて――女は、何をしていいかわからない。有り余る時間を「流して」しまいたいと思っている。そこで、――カブを「買う」のでなければ、ジャガイモは売らないという八百屋と同じで――、女は男がおしゃべりと外出の時間というおまけを「つけて」くれないと、体を任せたりはしない。
男にとって引き当てる商品全体の値段がそれほど高くなければ、釣り合いは取れたことになる。つまり、釣り合いは、当然、彼の欲望の強さと彼が犠牲にする活動が彼にどれほどの重要性をもって映るかにかかっているといことだ。
しかし、もし女があまりにも多くの時間を要求する――提供する――なら、彼女は、氾濫した川のように、迷惑そのものになってしまう。男は、こうなれば、もちすぎるより、何も持たない方を選ぶだろう。だから女は、要求を少々控える。とはいえ、均衡は、たいていの場合、双方の強力な引き合いによって保たれる。つまり、女が男を安値で女を「手に入れた」と思うし、男は高すぎる値段を払ったと考えている。
もちろん、こういう言い方は少々ユーモアがすぎるかもしれない。しかし――男が女の全体を所有したいと思うような嫉妬や排他的な情熱に駆られていないかぎり――このような葛藤は、やさしさ、欲望、愛のなかにさえ、表れているのである。男はいつも自分の時間のなかで「何か他にすること」があるし、女は、自分の時間をどうにかしてしまいたいと思っている。
男は二人の時間を女がくれる贈り物ではなく、一つの負担だと考えている。一般的に言って、男はこの負担を我慢しようと思っている。なぜなら男は自分が恵まれた側にいることをよく知っていて、「やましさ」があるからだ。もし男に何らかの親切な気持ちがあると、寛容な心をもって、不平等な状態の埋め合わせをしようとする。
男には憐れむという美点があるのに、諍いが始まればすぐ、女を恩知らずだと思い、腹を立てる。ああ、おれは人が良すぎたか、と。女の方は、自分が要求がましい女だったと感じる。しかし、自分の贈り物の価値は高いと思い込んでいるから、自分が屈辱を受けたと思う。よく女が残酷になるのも、これで説明できる。女に「疚(やま)しさがない」のは、彼女が恵まれていない側にいるからである。
彼女は特権カーストに対してどんな手加減も必要もないと思う。彼女はただ自分の身を守りたいだけだ。自分を十分に満足させてくれなかった恨みを恋人にみせる機会でもあれば、彼女はとても幸せな気持ちになるだろう。彼が十分にくれないから、彼から取れるだけ取ろうとする粗暴な喜びに浸るだけなのだ。
そうなると、男は傷つけられ、いつも侮っていた関係の全体の価値に改めて気がつく。彼はどんな約束でもしようとする。しかし、その約束を守るべき時が来ると、また付け込まれたと思う。そこで彼は自分を脅したと言って、女を責め、彼女の方は、男のけちさ加減を責め、こんなふうにして二人とも傷つけられたと思うのである。
ここでもまた、弁解と非難を振りまいても無駄な事だと分かる。不正義のなかに正義を打ち立てようとしても無理なのだ。つまり、植民地の行政官が土地の人々に対してよい行いをすることは、どの点からも、あり得ないし、将軍が自分の兵士たちに対するのも同じである。
ただ一つの解決策は、植民者にも軍隊の長にもならないことである。しかし、男が男をやめることはできない、ここに、男が、人の意に反して、また自分で犯したわけでもない誤ちにより、犯罪者となり抑圧者となる理由がある。それと同じで、女は、自分の意に反して、犠牲者になり、うるさい人間になる。
時に、男は反逆を試み、残酷になる。すると、彼は不正義に加担することになり、誤ちは、正真正銘、彼自身の誤ちとなってしまう。時に彼は、権利要求がましい、自分の犠牲者の言うままになり、食いつくされてしまう。そうなると彼は騙されたと思う。
たいていの場合、彼は、自分を貶め、居心地の悪くなるような妥協をする。善意の男は、こうした状況に、女自身よりも悩むものだ。この意味では、負けた側の方に、いつも良いつけが回ると言えるかもしれない。しかし、女もまた善意である場合、やる気があっても自立できない。かといって、自分の運命の重荷で男をつぶすのも嫌だなとなると、彼女は複雑に入り組んだ混乱のなかでもがくだけになってしまう。
日常生活でこうしたケースは山のようにあるが、これには満足できる解決策は見つからない。というのも、こうしたケースの前提条件そのものが満足できないものだからだ。もう愛していない女を物質的、精神的に生かしておく義務が自分にあると思う男は、自分を犠牲者だと感じる。しかし、もし彼のために全人生を費やした女を何の生活手段もないままに彼が棄てるとしたら、彼女もまた同じような不正義の犠牲者となるだろう。
悪は個人的な背信行為から来るのではない。悪はすべて個的な行為が無力である状況から来るのだ。それで、お互いが責任をなすりつけようとすると、自己欺瞞が始まる。女たちは「つきまとい」、重くのしかかり、そうすることで苦しむ。彼女たちは自分でない生物体の生命を吸い取る寄生物であるという運命を背負っているからだ。
もし彼女たちが、自律した生物体を授けられ、世界に対して戦いを挑み、自分の生きる手段を世界から手に入れることが出来るなら、彼女たちの依存は消滅するだろうし、男たちの依存もまた消滅するだろう。こうなれば、間違いなく、男も女もずっと気分よく生きられるだろう。
男女が平等である世界を想像するのは難しくない。それは、まさに、ソ連の革命が約束していたものだからだ。女たちは、男たちとまったく同じ条件で育てられ、教育を受け、そして同じ条件で
(*2)で、同一賃金を貰って、働くだろう。慣習として性的な自由は認められるだろうが、性行為はもう金になる「勤め」とは思われなくなるだろう。
女は他の稼ぎで身を立てなくてなければならなくなるし、結婚は、二人が望めばそのまま解消することのできる自由契約に基づくものになるだろう。母になるのも自由に任されるだろう。つまり、バースコントロールや妊娠中絶が許可され、その代わりに、母にも子どもにも、結婚するしないに関係ない、まったく同じ権利が与えられるだろう。
妊娠・出産休暇手当は、共同体が支払うことになるだろうが、この共同体はまた、育児を引き受けてくれるだろう。これは何も両親から子どもたちを取り上げるのではなく、彼らに任せきってしまわないという事である。
しかし、女と男がほんとうに同類になるためには、法律、制度、慣習、世論そしてすべての社会的な背景を替えるだけで足りるのだろうか。「女はいつまでも女だ」と疑り深い人たちは言う。見通しをつけたがる他の人たちは、女らしさを脱ぎ捨てても、女は男に生まれ変われないし、かえって化けものになるだけと予言する。
これは、今日の女も自然の産物だとする言い方である。もう一度繰り返さえなければならない。人間の集団にあっては何ものも自然のままではない。とりわけ女は文明が作り上げたものである。最初から女の運命には他人が介入している。この介入が他の方向でされてすれば、全く別の結果になっていることだろう。女はホルモンや謎めいた本能によって定義されるのではなく、自分でない意識をとおして、間接的に、自分の身体や世界との関係を理解するそのやりかたによって定義される。
青年期の男女を隔てる深淵は、子ども時代のごく初期の頃から周到に準備されてきた。後になって、女がつくられたとおりのものにならないように試みてももう遅い、女はいつも背後にこの過去の重さを測ってみれば、女の運命が永遠のなかに固定されていないことが、はっきりとわかるだろう。
とはいえ、女が変わるには、その経済的な条件を変えるだけですむと思ってはならない。経済的要因は、たしかに、女を変えるのに基本的なものだったし、今もそうだろう。しかし、この要因が生み出すと同時に必要ともしている精神的、社会的、文化的な成果がついてこなかったら、新しい女は生まれないだろう。今のところ、こうした成果は、どこにも、ソ連にも、フランスにも、アメリカにも、実現されていない。
そのせいで、今日の女は過去と未来のあいだで引き裂かれている。今日の女は、たいていの場合、男に変装した「ほんとうの女」のように見え、自分の女としての身体のなかでも、その男っぽい衣服のなかでも居心地悪そうにしている。女は、生活を一新し、自分に合った服装を身に着ける必要がある。
それは集団が変化しなければできないだろう。今日、どんな教育者も、一人では、「男の人間」とまったく同等の「女の人間」を作ることはできない。女の子は、男の子のように育てれば、自分が例外だと思うだろうし、そうなれば、また新しい種類の差別を受ける事になる。
スタンダールはこうしたことがよくわかっていた。彼は「森林は一気に植えないとだめだ」と言っていた。しかし、もし私たちが、逆に、男女平等の具体的に実現されているような社会を想定できるなら、その平等が個々の人のうちに新たに確立されるかもしれないのだ。
もし、女の子が、幼年期のごく初期から、男の子と同じ要求、同じ敬意、同じ厳格さ、同じ自由で育てられ、同じ勉強、同じ遊びに参加し、同じ将来を約束され、周囲の女たちと男たちが完全に平等であるように彼女に見えるなら、「去勢コンプレックス」とか「エディプス・コンプレックス」の意味は根本的に修正されるだろう
もし母親が、父親と同じ資格で、夫婦の物質的、精神的な責任を引き受けるなら、その母親は父親と同じ長続きする威信を手に入れる事になるだろう。子どもは、母親のまわりに、男性的でなく、両性的な世界を感じることだろう。女の子が父親の方に強く愛情を持っているとしても――それさえ確かなことではないが――、父親に対する愛は、よい意味での競争意識がともないこそすれ、もう無力な感情につきまとわれはしないだろう。
女の子はもう受け身の方向に自己形成しないだろう。自分の価値を仕事やスポーツのなかに見せることが許されれば、そして男の子と活発に競争できれば、ペニスのないこと――その代償として女は子どもを持つことになっている――が、「劣等コンプレックス」を引き起こすことにはならないだろう。それと同じで、男の子も、ひとから吹き込まれたりせず、男を尊重するのと同じように女も尊重するようになれば
(*3)、「優等生コンプレックス」など、自然に、持たなくなるだろう。こうなれば、女の子はナルシシズムや夢想のなかに、空しい埋め合わせを探さなくてもすむ。
自分をあらかじめ定められたものと思わず、自分が創るものに興味を持ち、自分が計画することに、ためらいなく、飛び込んでいくだろう。これまで繰り返し言ってきたように、もし女の子が、男の子と同じように、大人へと向かう自由な将来を約束されて、月経の開始を通り越すなら、どんなに楽だろう。月経が、突然やって来る女らしさへの転落と見えるからこそ、女の子はあれほど恐怖を感じるのである。
また、自分の運命全体に対して、度をはずれた嫌悪を感じないで済めば、彼女は自分の未熟な性の喜びをより穏やかに受け止めるだろう。一貫性ある性教育はこうした危機を乗り越えるのに大きな助けになるだろう。そして、男女共学になれば、《男》というこのおごそかな秘密が生まれる機会さえなくなるだろう。この観念は、日常の親しさと自由な競争で死滅してしまうだろう。
こうした教育システムに反対する意見には、いつも性をタブー視する考えが潜んでいる。しかし、子どもの性への好奇心や喜びを抑制しようとしても無駄である。そんなことをすれば、抑圧、固定観念、ノイローゼなど行き着くだけだ。だが、若い女の子にありがちな高ぶった感傷癖、同性愛的な熱情、プトニックな情熱には、ばかばかしさや気まぐれが山ほどつきまとっていて、子どもの何とごっこや何かはっきりした経験より、はるかに有害である。
だから、若い女の子にとって、とくに有益だと思われることは、男を半ば神のような人と思わず、ただ単に、一人の仲間、友だち、パートナーと見なすことである。そうすれば、彼女は自分自身の存在を自分で引き受けるようになるだろう。
性の喜びや恋愛、それは自己放棄ではなく、自由な超越としての性質を備えるようになるだろう。女の子はこうした恋愛を対等な関係として生きる事だろう。もちろん、子どもが大人になるときに乗り越えなければならない困難すべてを一筆で消すことが問題なのではない。最も知的で寛容な教育とは、子どもが自分自身で経験するのを邪魔しない教育である。
少なくとも今できることは、子どもが歩む道に、意味なく、障害物を積み重ねないことだろう。例えば女の子に「不品行」の烙印を押さないだけでも、すでに進歩である。精神分析に両親は少しは学ぶことがあったはずだ。とはいえ、女の性的な形成、性への入門の現状は、あまりにも嘆かわしいから、根源的に変えなければだめだという考え方に反対の意見は、どれも確かな論拠をもてないだろう。
問題にしたいのは、人間の条件につきものの偶然性や悲惨さを女からなくすることはできない。そうではなく、それらを乗り越える手段を女に与えることなのだ。
女はどんな謎めいた宿命の犠牲者でもない。重要なのは、女を特色づけるものではなく、その特色に被せられる意味づけの方は、新しい展望のなかで捉えなおしたとたんに、乗り越えることができるはずだ。たとえば、これまで見てきたように、女は自分の性的な体験をとおして、男の支配を感じている――たいていは嫌悪している。だからといって、そのことで、卵巣が永遠に女をひざまずかせていると結論付けてはいけない。
何もかも一致して、男に主権を認める一つのシステムのなかでだけ、男の攻撃性が君主の特権のように見えるのだから。そして女が自分を受け身だと考えるからこそ、彼女は愛の行為のなかでこれほど心底から受け身だと感じるだけなのだから。現代の女たちの多くは、人間の尊厳を欲しがりながら、相変わらず自分の性生活を奴隷の伝統によって捉えようとしている。
だから彼女たちには、男の下で身を横たえ、男によって貫かれるのが屈辱的だと見えてしまう。こうして彼女たちは不感症に陥り、イライラする。しかし、もし現実が違っていれば、愛の身振りや姿勢が示す象徴的な意味もまた違ってくるだろう。
たとえば、金を払って愛する男を支配する女は、自分のすばらしい暇な生活に誇りをもち、進んで力を尽くす男を服従させていると思うだろう。今では、すでに勝ち負けの発想が交流という考えに変わって、性的に均衡の取れているカップルがいくつも生まれてくる。
実際、男も、女と同じようにも一つの肉体であり、したがって受け身の存在であり、ホルモンや種のおもちゃであり、自分の欲望に捕らわれた不安な獲物である。女もまた、男と同じように、肉体の熱気のさなかにあっても、合意、意志の力、行為である。男女は、それぞれのやり方で、身体としての存在という不思議な曖昧さを生きている。
自分たちが敵対していると信じるこうした闘争のなかで、それぞれが闘っているのは、実は、自分自身に対してであり、相手のなかに投影した自分自身の一部に対してなのである。自分の条件で曖昧さをいきようとしないで、それぞれが自分のおぞましさを相手に我慢させようとし、自分の名誉は自分のためにとっておく。
しかし、もし二人とも、ほんものの誇りに備わっているあの明晰な慎み深さで、自分の条件の曖昧を生きるなら、彼らはお互いを同類だと認め合い、友情をもって性愛のドラマを生きられるだろう。人間であるという事実は、人間同士を区別するそれぞれの独自性より無限に重要である。
優位性がはじめから決められていたことなど一度もない。昔の人々が「美徳」と呼んでいたものは、「私たち次第で決まる」レベルのものとして定義できる。男においても女においても、同じように、肉体と精神、有限と超越のドラマが演じられている。男も女もともに時間によって蝕まれ、死につけ狙われ、どちらも、同じように、相手を本質的に必要としている。
男女は、それぞれの自由から、同じ栄光を引き出すことができる。もし彼らがこの栄光を味わうすべてを知っているなら、彼らはもう偽りの特権を争う気持ちにはなれないだろう。そうなれば、両者のあいだには友好関係が生まれるだろう。
以上の考えすべてはきわめてユートピア的だと言われてしまうかもしれない。なぜなら、「女をつくり直す」には、すでに社会が現実に女を男と同等に扱ったことがなければならないからだ。保守主義者たちは、同じような事態があれば必ず、こうした悪循環を見せつけてくれた。しかし、歴史は堂々巡りしているわけではない。
たしかに、あるカーストを劣等の状態に放っておけば、そのカーストは劣等のままでいる。しかし、自由がこの循環を断ち切るだろう。もし黒人たちに投票を許すなら、彼らはやがて投票にふさわしくなってくる。女にさまざまな責任を与えれば、女はそれらを担うようになれる。
実際、抑圧者が理由なく寛容さの衝動に駆られることは期待できない。しかし、時には特権カースト側の変化そのものが新しい状況を生み出す。このように男たちは、自分の利益のためにも、部分的に女を解放するようになってきた。あとは、女たちがこの向上を続けていけばよい。女たちが手に入れる成功は彼女たちをさらに勇気づけくれるだろう。
女たちが経済的・社会的な完全平等に到達するのはほとんど確かなことだろう。この平等が内的な変貌を引き起こすに違いない。
いずれにしろ、ある人たちはこう反論するだろう。そうした世界は可能かもしれないが、望ましくはない、と。女が男と「同じ」になってしまったら、人生には「味をつける塩」がなくなるだろうと。こうした議論もまた、新しいものではない。現在を永遠化したいと思う人たちは消えていく美化された過去に涙を流すのが常で、これからの未熟な将来に微笑みかけようとはしないものだ。
たしかに、奴隷市場を廃止したせいで、アザレアや椿であれほど見事に飾られた大農園は死滅したし、アメリカの優美な南部文明すべてが崩壊してしまった。いにしえの手編みレース飾りは、システィーナのカストラート声楽隊のあの清らかな響きと混ざり合い、時代を経た屋根裏部屋で眠っている。
そして、ある種の「女らしさの魅力」もまた、風化しようとしている。私も、稀有の花々、レース飾り、去勢歌手のクリスタルのような声、女らしさの魅力など評価しないのは粗野な事だと思っている。「魅力的な女」がその輝きのなかで現われるなら、彼女は、ランボーの心をかき乱す「愚劣なペンキ絵、扉の飾り、室内装飾、大道芸人たちの絵、看板、大衆的な彩色挿絵」などよりはるかに気持ちの高鳴るオブジュとなる。
最も現代的な技巧を施され、最新の技術により洗練されて、「魅力的な女」は、テーベ[古代ギリシアの遺跡]、ミノス[同上]、チチェン・イッツァ[マヤ文化の遺跡]などの諸時代の奥深くからやって来る。彼女はまたアフリカの茂みのなかに植えられたトーテムである。
それこそ時代を越えて舞うヘリコプターであり、鳥である。まさに、最も偉大な傑作と言っていい。絵に描かれた彼女の髪のもとで茂みのざわめきは一つの思想となり、彼女の胸からは言葉が漏れ出す。男たちは驚異の作品には貪欲な手を差し伸べるものだ。しかし、彼らが掴み取ろうとしたとたんに、それは視界から消えてしまう。
妻や愛人は、唇を使い、皆と同じようにおしゃべりをする。彼女たちの言葉は、その言葉に相応しい価値しかない。彼女たちの胸もまた同じである。こんなにも移ろいやすく――そしてこんなにも稀な――驚異のために、男女両性にとって有害な状況を永続化していいのだろうか。花々の美しさ、女たちの魅力を評価するのは当然だが、それらの価値にふさわしく評価したらいい。もしこれらの宝物が血と不幸で贖われるなら、宝物を犠牲にすることも知るべきだ。
ところが、男たちにとって、この犠牲はとりわけ、大きいものに見える。男たちのなかで心の底から女が自己実現するのを望む者はほとんどいない。女を軽く見ている男たちは、そうなれば自分が得るものは何もないと思う。
女を大切にする男たちは、失うものが多すぎるとおもう。たしかに、現在の変化は女らしさの魅力を脅かしているだけではない。女は女自身のために存在するようになれば、男の世界で女に特権的な地位を与えてくれた、男の世界で女に特権的な地位を与えてくれた、男の分身の役割、仲介者の役割を女は放棄するだろう。
自然の沈黙と、自由な他者たちの要求がましい存在とのあいだに捕らわれた男にとって、自分の同類でありながら受け身のモノという存在は大きな宝のようにみえる。彼が自分の同伴者に見る姿は神話的なものだが、にもかかわらず、彼女が原因となりきっかけとなる数々の経験は現実である。
これほど貴重で、内密な熾烈な経験はない。こうした経験に、女の依存、劣位、不幸が独特の性格を与えていることは否定できない。確かに、女の自律は、男たちから厄介事をなくすとしても、同時に、さまざまな便利さまで奪ってしまう。また、たしかに明日の世界では、ある種の性的な冒険を生きるやり方は消えてしまうだろう。
しかし、そうだからといって、愛や幸福や夢まで追い出すことにはならない。私たちの想像力のなさがいつも未来を貧しくすることに気をつけよう。未来は私たちとって一つの抽象概念にすぎない。私たちは皆、密かに、自分であったものの不在を嘆く。しかし、明日の人類は、明日を、自分の肉体と自由とで生きるだろう。それは彼らの存在になるだろう。そして今度は彼らがその現在を過去よりも好きになるだろう。
そして今度は彼らがその現在を過去よりも好きになるだろう。男女の間には私たちには想像もつかない肉体と感情の新しい関係が生まれるだろう。すでに、男と女のあいだには、性的な関係のあるなしにかかわらず、過去の世紀が生み出すことのできなかったと友情、ライバル、共謀、仲間などの関係が現われてきている。
とりわけ。私にとって、新しい世界が画一性に向かっている。したがって退屈に向かっているとするスローガンくらい疑わしくみえるものはない。私は、なにも新しい世界には退屈がないとか、自由が画一性を生み出すことはないなどと思ってはいない。だいいち、男と女のあいだで、いくつかの差異はこれからもずっと残るだろう。
女のエロチシズム、したがって女の性的世界は、固有の在り方をしているから、女のうちに固有の官能性、感受性を生み出すにちがいない。女が、自分の身体、男の身体、子どもとのあいだにもつ関係は、男が、自分の身体、女の身体、子どもとのあいだにもつ関係とはけっして同じにならないだろう。あれほど「差異における平等」を主張してきた人たちは、平等における差異が存在しうるという私の考えに同意しないわけにはいかないだろう。
それにまさに制度こそ、単調さを生み出すものなのである。スルタンの腕の中では、ハレムの若くて美しい女奴隷たちはいつも同じである。キリスト教は、人間の雌に魂を授けるのと引き換えに、性愛は罪と伝統とで味付けをしてきた。女がその崇高な主権を取り戻すからといって、それは愛の抱擁から感動的な味わいまで奪ってしまうことにはならない。
男と女が具体的に同類となったら、性の饗宴、不品行、エクスタシー、情熱が不可能になるなどと主張するのはばかげている。肉体と精神、瞬間と時間、内在の目くるめきと超越への呼びかけ、快楽の絶対性と忘却の虚無などの対立は、けっして消える事がないだろう。
セクシャリティには、つねに、存在することの緊張、苦しみ、喜び、失敗そして勝利が具現化されるだろう。女を解放することは、男との関係を否定することではなく、女をその関係のなかにだけ閉じ込めてないようにすることである。女が自分のために存在するようにするにしても、女は、同じように、男の為に存在し続けるだろう。
お互いが主体として認め合っても、それぞれは相手とって他者でありつづけるだろう。両者の関係の相互性は、人類が二つの違ったカテゴリーに分化していることで生まれる欲望、所有、愛、夢、冒険などの奇跡を取り除くことにはならないだろう。そして、与える、征服する。結ばれるなどの私たちを感激させる言葉は、それら自身の意味を失わないだろう。
それどころか、人類の半分の奴隷状態とそれにともなう偽善のシステム全体が廃止されれば、人類という「区分」はその本当の意味づけを明らかにするだろうし、人間のカップルはその本当の姿を見つけるだろう。
「人間と人間の直接的で自然で必然的な関係は、男と女の関係である」
とマルクスは言った(*4)。「この関係の性格から、人間がどこまで自分の類としての存在、あるいは人間として理解したかがわかる。男と女の関係は人間と人間の関係のなかで最も自然的な関係である。
だからこの関係は、人間の自然な行為がどこまで人間的になったか、あるいは人間的存在であることがどこまで人間の自然的存在になったか、どこまで人間的自然が人間の自然になったかを見せてくれる」
これ以上巧みな言い方はできないだろう。すでに在るこの世界の只中で、自由の時代を勝利させるかどうかは人間しだいである。この至高の勝利を得るためには、男と女が、その自然の分化を越えて、友好関係をはっきりと肯定することが何よりも必要なのだ。
訳者あとがき
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