愛は最高の天職として女に与えられてきたので、女が一人の男に愛を捧げるとき、女は男に神を求める。状況によって人間の愛が禁じられたり、失望したり、要求が多かったりすると、女は本当の神を崇拝しようとするトップ画像

第十三章 神秘的信仰に生きる女

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

たしかに、この炎[神への愛]に身を焦がした男たちもいた。だが、そんな男は稀であり、男の熱烈な信仰は非常に浄化された知的なかたちをとってきた。逆に、天上の婚礼の歓喜に身を委ねた女は大勢いる。しかも彼女たちは驚くほど感情的にそれを体験している。

女はひざまずいて生きるのに慣れている。普通、女は自己の救済が男の君臨する天から降ってくるのを待っているのだ。男もまた雲に包まれている。肉体的存在を覆うヴェールの彼方に男の威厳が現われる。《愛されている男》は常に多かれ少なかれ現実的存在ではない。彼は曖昧なしるしをとおして自分を崇拝する女と気持ちを通わせる。

女は彼の心を信じることが出来ない。それに、男が優れている思われるほど、女には彼の振舞いがますます謎めいて見えてくる。すでに見たように、恋愛妄想の場合はこの信心があらゆる反証に抵抗するのである。女が《現存》を身近に感じるには、見ることも触ることも必要ではない。相手が医者であろうと、司祭や神であろうと、女は同じように反芻できない確実さを相手に認め、天から落ちてきた愛の潮を奴隷のように自分の心に迎い入れる。

人間の愛と天上の愛と混同してしまうのである。というのも、天上の愛が人間の愛の昇華だからではなく、人間の愛もまた一つの超越的なものに、絶対に向かう運動であるからだ。とにかく、恋する女にとって、一人の至高の《人物》に具現された《全体》に自分を結び付けることによって、自分の偶然的な存在を救うことが問題なのだ。

この曖昧さは、病理的なものであろうと正常なものであろうと、多くの場合に歴然としている。恋人は神格化され、神は人間の特徴をまとうのである。私はフェルディエールが恋愛妄想に関する著書で報告しているケースを引用するにとどめよう。語っているのは患者である。

一九二三年には、私は『プレス』誌の記者と文通していました。毎日、教訓的な彼の記事を読みました。行間を読んでいたのです。彼は私に答えてくれるように思われましたし、助言を与えてくれました。私は彼にラブ・レターを書きました。たくさん書きました・・・・一九二四年に、それは突然やってきました。

神様が一人の女を捜していて、私に話をしにやって来るように思われたのです。神様が私に一つの使命を与えてくださった。寺院を建立するために私お選びになったような気がしていました。自分が大変重要な団体の中心にいるように思いました。

そこには医者の治療を受けている女たちがいます・・・・この時期に・・・・私はクレルモンの精神病院に移されました・・・・そこには、世の中を作り変えたいと思っている若い医者たちが居ました。私の監禁室では指に彼らの接吻を感じ、両手には彼らの性器を感じました。あるとき、彼らは言いました。私に言いました。「君は感じやすくはないが、官能的だ。こっちを向きたまえ」。私は振り向いて、彼らを私のうちに感じました。とてもいい気持ちでした・・・・部長のD博士は・・・・まるで神さまのようでした。

彼が私のベッドのそばにくると、何かあると感じました。彼は「ぼくは君のものだ」とでも言っているかのように私を見つめるのです。彼はほんとうに私を愛していたのです。ある日、彼はほんとうに熱心な目つきで私を見つめていました。・・・・彼のグリーンの目には空のようなブルーになって、恐ろしいほど大きく見開かれました。・・・・彼は患者に話しかけながら、その効果を確かめて微笑んでいました・・・・そして、私はこうしてそこに、D博士に釘づけになってしまって・・・・一本の釘がもう一本の釘を追い払ってしまうという訳ではないので、ほかにも恋人たちがいるにもかかわらず(私には・・・・五、六人も恋人がいました)、彼から離れることが出来ませんでした。

この点、彼は悪い人です・・・・十二年間もずっと、心のなかでいつも彼と話をしてきました・・・・私が忘れようとすると、またもや彼が現れました・・・・ときには彼が多少皮肉屋で・・・・「ほら、ぼくは君を怖がらせてる。君が他の男を好きになっても、君はいつもぼくのとろに戻って来るんだ‥・・」と言います。

私は彼によく手紙を書いて、デートの約束までさせては、出かけて行きました。去年、彼に会いに行きましたが、よそよそしい態度でした。熱意がありませんでした。自分が全く愚かしいと感じて帰ってきました・・・・彼はほかのひとと結婚したと聞いていますが、私のことずっと愛してくれるでしょう。彼は私のものですみの。でも、行為は一度もなかったわ。

二人をくっつけるような行為は・・・・「すべてを棄てて」と彼はよく言っていました。「ぼくといっしょなら、君はいつも、いつも高く登っていける。君は地上の存在のようではなくなっている」と。おわかりでしょう。私は神さまをもとめるたびに男を見つけてしまうんです。もうどんな宗教に向かうのがよいかわかりません。

ここで問題になっているのは病理的なケースである。しかし、男と神とのこうした錯綜して混同は、多くの信心深い女に見られる。とくに聴罪司祭は、天と地のあいだで曖昧な場をしめている。自分の魂をさらけ出して告解する女の言うことを、彼は肉体の耳で聴くが、彼女を包み込む彼の眼差しのうちに輝いているのは超自然の光である。

彼は、神のごとく男性、男の外観をした現前する神なのだ。ギュイョン夫人はラ・コンブ神父との出会いを次の言葉で描いている。「恩寵(おんちょう)の力は、彼から私へと魂の深奥をとおしてやって来て、また、私から彼へと戻っていくので、彼も私と同じ力を感じたかのように思われた」。

宗教的なものの介入が、彼女が長年苦しんできた渇きから彼女を救い出し、ふたたび彼女の熱い魂に火をつけたのである。彼女は偉大な神秘主義的時期のあいだずっと彼のそばで暮らしていた。さらに、彼女はこう告白している。「これはもうまったくの一心同体でしかなく、私はもう彼と神を区別することもできないといったふうでした」。

実際には彼女一人の男を恋してしまっただけなりに、神を愛するふりをしているのだと言ってしまってはあまりにも単純すぎる。彼女にはこの男が別のものに見えたのだから、彼女は神とともにこの男もまた愛していたのである。フェルディエールの患者とまったく同様に、彼女が漠然と到達しようと努めていたのは、諸価値の最高の源泉なのだ。これこそ、すべての神秘主義者の目的である。

男という仲介は神秘主義者の女が天の砂漠に飛翔するのに有益なこともあるが、不可欠という訳ではない。女は現実と戯れを、行為と魔術的な振る舞いを、対象と想像的なものうまく区別できないので、ことさら存在しないものを自分の肉体を通して表してしまう傾向があるのだ。

これよりずっとユーモアを欠いているのは、人がよくそうするように、神秘主義と恋愛妄想を同一視することである。つまり、恋愛妄想の患者は愛によって自分が至高の存在[神のごとき存在]として価値づけられたと感じるのだ。

この至高の存在が恋愛関係の主導権をとり、愛される以上に情熱的に愛するのである。この至高の存在は、明白であるが秘密のしるしによってその感情を知らせる。この存在で選ばれ者[女]の熱意の欠如に嫉妬し、苛立つ。だから、この存在は躊躇(ちゅうちょ)せずに彼女を罰するのだ。

この存在が肉体的で具体的な姿をとって現れることはほとんどない。こうしたすべての特徴が神秘主義者には見いだされる。とくに、神はずっと昔からその愛で、神がこの魂にすばらしい絶頂を用意する。この魂にできるのは抵抗せずにその炎に身を委ねることのなだ。

今日、恋愛妄想はときには観念的なかたちを、ときには性的なかたちをおびるということが認められている。同様に、神秘主義者の女が神に捧げる感情のなかには、肉体が多少なりとも場を占めている。神秘主義者の女の感情の吐露は地上の愛人たちが体験するそれをなぞったものなのだ。

アンジェラ・ド・フォリーニョ[1248-1309、イタリアの聖女、幻視で名高い]が、聖フランチェスコを両腕で抱きしめているキリストの画像を眺めていると、キリストは彼女に言う。「おまえを抱きしめてあげよう、肉体の目で見えるよりもずっと強く・・・・お前が私を愛するなら、けっしてお前を見捨てはしない」。ギュイョン夫人は書いている。

「愛は一時も私を休ませてくれなかった。私は愛に言ったものです。おお、わが愛よ。もう十分です。ほうっておいて」「いわく言い難い戦慄で魂を貫くような愛、私を失神させるような愛がほしい・・・・」「おお、わが神よ! あなたがもっと官能的な女たちに私が感じていることを感じさせてくださるなら、彼女たちは偽りの快楽を捨て去ってこんなにも真実な善を享受するでしょうに」。聖女テレサの有名な幻視はよく知られている。

天使は両手で長い黄金の槍をもっていました。時々、天使は私の心臓にその槍を刺し、内臓まで突き刺すのでした。天使が槍を抜き取るときには、まるで内臓が引きちぎられるようで、私は神への愛にすっかり燃え上がったままでした。たしかなのは、苦痛が内臓の奥底まで貫くということです。私の精神的な夫が内臓を貫いた矢を引き抜くとき。内臓が張り裂けるようにおもわれました。

言葉がないために、神秘家の女はこうした性的な語彙(ごい)を借りざるを得ないだと、敬虔な念をもって主張する人々もいる。だか、神秘主義者の女もまた、たった一つの肉体を自由にできるだけあり、地上の愛から言葉を借りるだけでなく、肉欲的な態度もかりるのである。

神に自分の身を捧げるのに、彼女は一人の男に身を捧げるときと同じ振る舞いをする。とはいえ、このことは彼女の感情の価値をいささかも減じるものではない。アンジェラ・ド・フォリーニョが、心の動きに従って、かわるがわる「青ざめて干からびたり」あるいは「脂ぎって赤ら顔」になったりするとき、涙の洪水(*1)に溺れるとき、その高みから落下するとき、こうした現象を単に「精神的なもの」と見なすことはほとんどできない。

だが、それをもっぱら、ケシの「催眠効力」をもちだすようなものだ。身体はけっして主観的な経験の原因ではない。というのは、身体はけっして主観的な経験の原因ではない。というのは、主体は主体の実存のまとまりのなかで主体の態度を生きるのである。

神秘主義者の敵も賛美者も、聖女テレサの忘我状態(エクスタシー)に性的内容を与えることは彼女をヒステリー患者の列に貶めることだと考えている。しかし、ヒステリックな主体の価値を減じているのは、彼女の身体が活発にその妄想を表現するという事実ではない。

それは、彼女の身体が憑かれているせいであり、彼女の自由が呪われ、無効にされているからである。苦行僧は自分の身体組織をコントロールする力を得ているから、身体の奴隷にはならない。身体の身振りを自由の躍動で包むこともできるのだ。

聖女テレサの著作はあいまいさをいささかももたず、めくるめくような悦びの過剰に恍惚としている聖女を私たちに見せてくれるあのベルニーニ[1598-1680、イタリアの画家、彫刻家、建築家]の彫像を裏づけている。彼女の感動を単なる「性的な昇華」だと解釈することは、やはり間違いだろう。

まず最初に密やかな性的欲望があって、それが神への愛という形態をとるのではない。恋する女は、まず第一に対象のない欲望の餌食になって、それから、その欲望がある個人に定められるというのではない。恋人の現存が即座に彼に向けられた官能の疼きを彼女の内に引き起こすのである。

こうして、聖女テレサはたった一つの動きで一挙に神との結合を求め、この神との結合を肉体において生きるのである。彼女は神経やホルモンの奴隷ではない。だから、自分の肉体のもっとも奥底を貫いている彼女の信仰の強さをむしろ称えなければならないのだ。

実のところ、聖女テレサ自身がわかっていたように、神秘体験の価値は、主観的なその体験のなされ方によってではなく、客観的なその影響力によって測られる。エクスタシーという現象は聖女テレサにあってもマリー・アラコック[1647-90、サレジオ会修道女]にあってもほとんど同じだが、二人の使命への関心は非常に異なっている。

聖女テレサはまったく知的なやり方で、個人と超越的な《存在》の関係という劇的な問題を提出する。彼女はあらゆる性的な特定化を超えた意味をもつ経験を女として生きたのである。彼女をシュゾ[1295-1366、スイスの神秘主義者]や聖ファン・デ・ラ・クルスレサ[1542-91、スペインの神秘主義者。協会博士。聖テレサと協力してカルメル修道会の改革に尽くした。十字架の聖ヨハネ]と同列に置かなければならない。とはいえ、彼女は輝かしい例外である。

彼女まではいかなかった彼女の姉妹たちが伝えているのは、世界と救済についての本質的に女性的な心象(ヴイジョン)である。彼女たちがめざしているのは一つの超越的なものではなくて、自らが女であることの贖(あがな)いなのだ(*2)。

女は、神の愛のなかに、まず第一に、恋する女が男の愛に求めるもの、つまり、自己のナショナリズムの極致を求める。自分に注意深く愛情をこめて注がれるこの至高の存在の眼差しは、女にとって奇跡的な幸運である。娘時代、若い女だった頃をとおしてずっと、ギュイヨン夫人はいつも愛されていた、称賛されたいという欲望に苛(さいな)まれてきた。

現代のプロテスタントの神秘主義者であるヴェー嬢は「私にとって、私の心のなかで起こっていることに、共感をもって特別な関心をもってくれる人が誰もいないことほど、私を不幸にすることはない」と悔いている。

クリューデナー夫人は、神が絶えず彼女のことを気にかけていると思い込んでいた。サント=ブーヴの語るところによれば、「愛人とのもっとも決定的な瞬間に、彼女は”神様、私は何て幸せなんでしょう。  ありあまる幸福をお許しください”と、うめいた」ほどである。

天上全体が彼女の鏡になったときナルシシストの心を満たす陶酔は理解できる。彼女の神格化されたイメージは神そのもののごとく無限であり、けっして消えることはない。と同時に、燃え上がり、動悸を打ち、愛に溺れた彼女の胸のなかに、彼女は敬愛する《父なる神》によって自分の魂が創られ、贖(あがな)われ、慈しまれるのを感じる。

彼女が抱きしめるのは彼女の分身、神の媒介によって無限に高められた彼女自身である。聖女アンジェラ・ド・フォリーニョの次の文章はとくに意味深い。イエスは彼女にこう話しかける。

私の優しい娘、私の娘、私の愛するひと、私の神殿。私が娘、私の愛するひとよ、私を愛しておくれ。私がおまえを愛しているのだから。おまえが私を愛すことができるよりずっと、ずっとはるかにおまえを愛しているのだか。おまえの生のすべて、おまえが食べるのも、飲むのも、眠るのも、おまえの生のすべてが好きだ。私はお前のうちにあって、諸国民の目に偉大に見えることをなすだろう。お前のうちにあって私は知られ、お前のうちにあって私の名は多くの人々から称えられるだろう。私の娘、私に優しい妻よ。おまえをとても愛している。

そしてさらに、

私がお前にやさしくするよりはるかにやさしく私の娘よ、私の悦びよ、全能の神の御心は今おまえの心の上にあり・・・・全能の神は、多くの愛を、この町のどんな女よりも多くの愛をおまえにそそいだ。神はおまえをこのうえない悦びとされたのだ。

別の所ではこう書いている。

お前を愛するあまり、私はもうおまえの無能も気にならず、目にとめることもない。私はお前に大いなる財宝を預けたのだ。

[神に]選ばれた女はこんなに熱烈でこれほどの高みから降ってきた愛の告白に、状熱をもって応えずにはいられないのだろう。彼女は恋する女の常套手段、つまり自己滅却によって、愛する人と結ばれようとする。「私の唯一の仕事は、愛すること、自分を忘れて、自分をなくすこと」と、マリー・アラコックは書いている。[宗教上の]エクスタシーはこの自我の放棄を身体的に模倣しているのだ。

主体はもはや見もせず感じもしない。自分の身体を忘却し、それを否認する。この放棄の激しさによって、受動性の熱烈な受容によって、輝かしい至高の《現存》は陰画的に示される。ギュイョン夫人の静寂主義(キエチズム)[17世紀のモリスらの神秘主義思想。外的活動をせず、自分を完全に捨てた受動的立場におくことで神との合一を求めようとする]はこの受動性を体系として打ちたてられた。彼女自身は、大部分の時間を一種の全身硬直のうちに過ごしていた。彼女はまったく目覚めたまま眠っていたのである。

ほとんどの神秘主義者の女は自分を受動的に神に委ねるだけでは満足しない。自分の肉体の破壊によって、積極的に自己を無に帰そうとするのだ。たしかに、禁欲主義は修道士や僧侶によっても実践された。だが、女が自分の肉体を辱めるときの激しさには独特の性格がある。

自分の身体に対する女の態度がいかに両義的であるかすでに見てきた。屈辱と苦痛をとおして女は身体を栄光に変える。快楽のためにモノとして恋人に委ねられて、女は殿堂になり、偶像になる。出産の苦痛に引き裂かれて、女は英雄を創造する。神秘主義者の女は自らの肉体を汚辱に還元することによって、女は自己の救済の道具として肉体を称揚するのである。何人かの聖女たちが身を委ねた奇妙な行き過ぎはこのように説明される。聖女シジェラ・ド・フォリーニョは、ハンセン病患者の手と足を洗ってやった水を美味しく飲んだと語っていた。

この飲み物は私たちをとても心地よく潤したので、その悦びは家に帰るまで続いた。こんなにもおいしい水を飲んだのははじめてだった。ハンセン病患者の傷口からうろこ状に剝がれた皮膚が私の喉につかえていた。私はそれを吐き出すかわり、呑み込もうと努めて、それに成功した。私は聖体を拝領したようなに感じた。私が浸った至上の悦びはけっして言い表せはしないだろう。

マリー・アラコックが自分の舌で病気の女性が吐き出したものを清めたことはよく知られている。彼女は自伝で、下痢になった男の大便を口にほおばったときに感じた幸福を描いている。イエスは、彼女が三時間も《聖心》[イエスの心臓の象徴]に唇を押しあてたままにさせておくことで、彼女に報いた。

信仰が肉体的な色彩をおびるのは、とくにイタリアやスペインのような激しい官能の国である。アブルッツォ[イタリア中部]の村では、女は今日でもなお十字架の道にそって地面の砂利をなめて自分の舌を裂く。こうした行為によって、彼女たちは、自分の肉体を辱めることによって肉体を救った《贖主(イエス・キリスト)》を模倣し続ける、男よりもずっと具体的なかたちで、彼女たちはこの偉大な神秘をはっきりと感じ取るのである。

ほとんどの場合、神は夫の姿をとって女の前に現われる。ときには、神は栄光のうちに白さと美しさに輝いて、支配者として姿を現すことである。神は女にウェディングドレスを着せ、冠を被せ、手を取り、天上の栄誉を約束する。だがたいていは、神は肉体をそなえた存在だ。イエスが聖女カタリナに与えて、彼女が指にしていた目に見えない結婚指は《割礼》によって彼から切り取られたあの「肉の指」だった。

とくに、イエスは虐待された血まみれの肉体である。彼女が最も熱心に没頭するのは、《十字架にかけられた人》[イエス・キリスト]を眺めることだ。彼女は《息子》の亡骸を腕に抱きしめる《聖母マリア》や、十字架の下に立って《最後の息子》[イエス・キリスト]の血を浴びるマダダラのマリアに一体化する。こうした、彼女はサド=マゾ的な幻想(フアンタスム)を満足させるのである。

神の屈辱のうちに、彼女は《男》の失墜を称賛する。ぐったりとして、受け身で、傷に覆われ、十字架にかけられたキリストは、猛獣や短剣や男に捧げられた赤い[血を流している]白い肌の殉教の女の転倒したイメージであり、少女はこうした殉教の女に非常にしばしば自分を同一化してきた、

《男》が、《神になる男》がその役割を引き受けるのを見て、彼女は動揺する。《復活》の栄光を約束されて、十字架に横たわっているのは、彼女なのだ。これは自分なのだ。彼女はそれを証明する。彼女の額はいばらの冠の下で血を流し、両手、両足、脇腹は、目に見えない剣に貫かれる。

カトリック教会が数える三二一人の聖痕をもつ者のなかで、男性はたったの四七人である。その他は――ハンガリーのエレーヌ、十字架のジャンヌ、G・ドスタン、オザーヌ・ド・マントゥー、クレール・ド・モンファルコンたちにしても――女たちであり、平均して、更年期を過ぎた女たちである。

もっともと有名なカトリーヌ・エメリックはあまりにも早く聖痕を受けた。二十四歳のとき、いばらの冠の苦しみを願っていると、彼女のもとにまばゆいばかりの若者が現われて、彼女の頭にいばらの冠をしっかりと被せた。翌日、彼女のこめかみと額は腫れあがり。血が滴りだした。その四年後、忘我状態(エクスタシー)のなかで、彼女は傷を負ったキリストを見た。その傷口から、鋭い刃物の尖った光線がほとばしりでて、聖女の両手、両足、脇腹から血の滴りを噴き出させた。

彼女は血の汗をかき、血を吐いた。現在でもなお、聖なる金曜日には、テレーズ・ノイマン[1898-1962、聖女テレーズの示現に会って、病が全快した後、金曜日ごとにイエス・キリストの傷痕を自分の身体に示すという]がキリストの血を滴らせた顔を見物人に見せている。聖痕において肉体を栄光に変える神秘的な錬金術は完成される。なぜなら、聖痕は血まみれの苦痛と言うかたちでの神の愛の現存そのものであるからだ。

女たちが血潮を純粋な黄金の炎に変貌させることに異常に執着する理由はかなりよくわかる。人間たちの王[キリスト]の脇腹から流れ出る血という理念に取り憑かれてるのだ。シエナの聖女カタリナはほとんどすべての手紙でこれについて語っている。

アンジェラ・ド・フォリーニョはイエスの心臓と脇腹に開いた傷をひたすら見つめていた。カトリーヌ・エメリックは「血まみれの布切れ」のようだったイエスに似ようとして、赤い肌着を着るのだった。彼女はあらゆるものを「イエスの血を通して」見ていたのである。マリー・アラコックは、すでに見たように、三時間もイエスの《聖心》に浴していた。愛の炎に燃え上がる矢の光輪に包まれた大きな赤い血の魂を信者の礼拝に共にしたのは彼女である。これが、愛によって血から栄光へいたるという女の大いなる夢を要約する象徴なのだ。

エクスター、幻視、神との対話、ある種の女にはこうした内的体験だけで十分だ。こうした体験行為をとおして世間に伝える必要を感じる女もいる。行動と観想[神との内的合一]の結びつきには非常に異なった二つのかたちがある。聖女カタリナ、聖女テレサ・ジャンヌ・ダルクのような行動的な女がいる。彼女たちは自分のめざす目的を十分に承知していて、それに到達する手段を冷静に考え出す。彼女たちの啓示その確信に客観的な形を与えるに過ぎない。

こうした確信に勇気づけられて、彼女たちは自分が正確に描いていた道を進む。一方、ギュイョン夫人、クリューデナー夫人のようなナルシシストの女がいる。彼女たちは密やかで熱烈な信仰心のはてに、突然「使徒の状態(*3)」あるのを感じる。彼女たちは自分の使命をあまりはっきりとは自覚していない。

そして、――しょっちゅう動き回っていない気のすまない慈善団体のご婦人方のように――彼女たちは何かしてさえすれば、自分が何をしていようとあまり気にかけはしない。こうして、大使夫人として、小説家として自分をひけらかしてしまうと、クリューデナー夫人は自分の価値について抱いて来た考えを自分のものとした。彼女がアレクサンドル一世[177-1825、ロシア皇帝]の運命を掌中におさめたのは、明確になった考えを勝利させるためではなくて、神から霊感を受けた者という役割のなかで自分を確かめるためである。

自分に聖なる資質があると女が感じるには、普通、ほんのすこしの美貌と知性があれば十分であるとすれば、まして、自分が神から選ばれた者であると知ったとき、女が自分は[宣教の]使命を担っていると考えるのは当然だ。彼女は不確かな教義を伝え、すすんで宗派を起こす。そうすることによって、自分の人格の増大に陶酔することができるのである。

神秘主義的な熱情は、恋愛やナルシシズムのように、活動的で自立した生活に組み込のれることもある。だが、個人的救済のこうした努力はそれ自体として失敗に終わるしかないだろう。

女は自分の分身や神といった非現実的なものと関係をもったり、現実の存在と非現実的な関係を作り出したりするが、いずれにしても、女は世界に働きかける手がかりをもってはいない。自分の主観性から抜け出せない。女の自由は神秘化されたままである。

女の自由をほんとうに実現するやり方は一つしかない、それは、能動的な行動をとおして自分の自由を人間社会にプロジェすることである。
つづく第四部 開放に向かって
第十四章 自立した女

キーワード、女の状況、経済的自立、従属者、自由を獲得、工場労働者、特権カースト、禁欲主義、フェミニスト、女嫌いの男、性的価値、同性愛、劣等コンプレックス、幸せなアヴンチュール、人間の尊厳、官能の疼き、女の種の奴隷、