恋する女は自分自身の人格を忘れなければなりません。これは自然の法則なのです。女は主人がいなければ存在しません。女は主人なしでは、あちこちに散乱する花束に過ぎません。

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第十二章 恋する女

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

「愛」という言葉は男と女では全く異なる意味をもつ。そして、それこそ二つの性を隔てる深刻な誤解の原因である。パイロン[一七八八-一八二四、イギリスの詩人]は次のように的確に言った。愛は女の人生で一つの関心事にすぎない、同じような見解をニーチェは『華やかな智恵』で次のように述べている。

愛という言葉そのものが男女で違った二つのことを意味する。女にとって愛が意味するものはかなり明確である。それは単なる献身ではない。まったく躊躇せず、それが何のために考えることもなく、肉体と魂をそっくり捧げることだ。この条件が一切ないということが愛を一つの信仰(*1)にする。女がもつ唯一の信仰である。男と言えば、一人の女を愛したなら、彼が女に望むのはそのような愛である。したがって、男と女と同じ愛の感情を自分にも当てはめることはあり得ない。全面的に自分を捧げたいと願う男たちがいたとしたら、もちろん、それは男ではないだろう。

男たちは自分の人生のある時期には情熱的な恋人であったかもしれない。しかし、「恋にすべてを捧げる男」と言える男など一人もいない。最も激しく熱中する場合にも、彼らは自分を完全に捨て去りはしない。愛人の足元にひれ伏したとしても、彼らの常に変わらぬ望みは、彼女を所有し、独り占めすることである。

人生のさなかに彼らは絶対的主体にとどまる。恋人は他の諸価値の中の一つの価値にすぎない。男は女が自分の存在に同化してほしいと思う。女のなかに自分の存在が完全に飲み込まれるのは望ましいのだ。反対に、女にとって、愛は主人の為に全面的に自己放棄することである。セシル・ソヴァージュは次のように書いている。

愛するとき、女は自分自身の人格を忘れなければなりません。これは自然の法則なのです。女は主人がいなければ存在しません。女は主人なしでは、あちこちに散乱する花束に過ぎません。

実を言えば、ここに関わってくるのは自然の法則ではない。男と女の状況の違いが、愛について男と女が創り上げる観念のなかに反映されるのだ。主体であり、自分自身である個人が超越への高潔な性向をもつならば、世界への手がかりを拡大しようと努める。

その人間は野心に燃えて、行動する。ところが非本質的な存在は自分の主体性の中心に絶対的なものを見いだせない。内在に捧げられる存在は行為を通して自分を実現できないのだ。女は、子どもの頃から、限定されたものの領域に閉じ込められ、将来男のものになるように決められ、男を自分が対等になれない支配者とみなすことに慣れてしまっている。

それでもなお人間でありたいという自分の要求を押し殺してしまえなかった女が切望するのは、こうした優越的存在の一つに向けて自分の存在を乗り越えることである。絶対的主体に自分を一体化させ、それと一つになるのだ。彼女に対して絶対的なもの、本質的なものに示されたものに肉体と魂を一体化する他に進むべき道はないのである。

いずれにせよ、依存を強いられるのなら、両親、夫、保護者などの専制君主に従うよりむしろ、神に奉仕するほうがいい。彼女は自分の隷属を熱烈に求めることを選択する。それが自分の自由の表現と思えるからだ。自分の置かれた非本質的な客体の状況を徹底して引き受け、感情、行動を通して、愛する男をこのうえないものと称える。彼を価値として、最高の実在として認める。そして、彼を前にして彼女は自分を無にしてしまうだろう。愛は女にとって一つの宗教となるのである。

すでに見たように、若い娘はまず自分を男たちと同一視しようとする。それを断念するとき、今度は、男たちのうちの一人の愛を得て、彼らの男らしさを分かちもとうとする。彼女の心をとらえるのは、この男、あるいはあの男の個性ではない。彼女は男一般に恋をするのである。イレーヌ・ルウェリオティは書いている。

「私が愛するだろう、あなたたち、男たち、何とあなたたちを待ち焦がれてていることか。あなたたちともすぐ知り合えるなんて何と楽しいでしょう。まずは、あなたが最初の人」。もちろん、男は自分と同じ階級、同じ人種でなければならない。

性別の特権が意味をもつのはこの範囲内でだからだ。男が神のような偶像であるためには、当然ながら彼は先ずひとりの人間でなければならない。植民地の官吏(かんり)の娘にとって、原住民は人間ではない。若い娘が「下の階級の者」に身を任せるとすれば、それは、自分にはふさわしい人間ではないと思い込んでいるために、自分の価値をわざわざ下げようとしているのである。

普通、若い娘は男の優越性を明らかに示している男を探し求める。残念ながら、彼女はすぐに、選ばれた性をもつ人間の多くは取るに足りない俗っぽい人間たちであると認めざるを得なくなる。とはいえ、彼女は初めのうちは彼らに好都合な先入観を抱いている。男たちは自分の価値を証明しなければならないというよりむしろ、それはあまりひどく裏切られなければよいのである。

そのために、しばしば情けない結果に終わるあれほど多くの失敗をするのだ。世間知らずのうぶな若い娘は男らしさの鏡に捕らわれている。場合によるが、娘の目に男の価値は肉体力、洗練さ、富、教養、知性、権威、社会的地位、軍服をとおして現れるだろう。

だが、彼女が常に望むのは、恋人のうちに男の本質が集約されていることである。だが、親しくなるだけで男の威信が失われてしまうことがよくある。最初のキスで、あるいは毎日のように頻繫に合うなかで、または結婚の初夜のあいだにそれは崩れ去る。

とはいえ、遠くからの恋は幻想にすぎず、現実の経験ではない。恋の欲望が実際には情熱的なこいになるのは、それが肉体的に確認されたときである。逆に、恋が肉体的抱擁から生まれる場合もある。性的に支配された女が、初めは何とも思わなかった男を称賛するようになるのだ。

しかし、女が知り合った男たちの誰一人として神に変えられない場合もしばしばある。恋は一般的に主張されているほどには女の人生に場所を占めない。夫、子ども、家庭、楽しみ、社交界の生活、虚栄、性生活、職業の方がずっと重要である。

女たちのほとんどすべてはかつて「大恋愛」を夢見た。が、彼女たちが経験したのはその代用品である。彼女たちはそれに近づいただけなのだ。偽り、不完全、惨め、災い、中途半端といったかたちで、それは女たちを見舞った。けれども、それに自分の存在を本当に捧げた女はごくわずかだった。

一般的に、大恋愛する女は若いときのかりそめの恋に心を消耗してしまわなかった女たちである。彼女たちは、最初は女の伝統的な運命である夫、家庭、子どもを受け入れたか、あるいは、厳しい孤独を経験したか、または、なんらかの計画に賭け、それが多かれ少なかれ失敗に終わった、そういう女たちだ。

一流の人間に自分を捧げて、期待外れの自分の人生を救う可能性を垣間みたとき、彼女たちはこの希望に自分のすべてを夢中で託す。アイセ嬢[1694-1733、コーカサス北部のチェルケスの王妃]、ジュリエット・ドルエ[十九世紀フランスの女優、ヴィクトル・ユゴーの恋人]、ダグー夫人[1805-76、フランスの女性作家、リストの愛人]が恋愛生活に入ったのはだいたい三十歳の頃であった。ジュリー・ド・レスビナス[1732-76、女性文筆家、ギベール伯爵の愛人]は四十歳に近かった。彼女たちは人生に何の目的も見出せず、価値があると思われたことを何もやってみることが出来なかった。彼女たちにとって恋愛以外他に取るべき道はなかったのである。

たとえ自立した生活が約束されている場合でも、この道の方がまだなお大多数の女にとって最も魅力ある道だ。自分の人生の計画を引き受けるのは不安に満ちている。青年もまた一般的には、自分より年上の女たちに目を向ける。彼女たちに、導き手、教育者、母親を求めるのである。

とはいえ、彼が自分自身のうちに見出す命令、慣習、受け身教育が、自己放棄という安易な解決法を最終的に選択することを禁ずる。青年は人生の一つの段階としてそうした恋愛に賭けるにすぎない。幼いときでも大人になってからも、男の可能性は、一番困難だが一番確実でもある道に身を投じるように強いられることである。

女の不幸はほとんど抵抗できない誘惑に囲まれることにある。現れることが安易な方向に従うように女をそそのかすのだ。自分のために闘うように促すかわりに、なされるままにいけばよい、魅惑的な理想郷を待ちなさいと言われるのである。蜃気楼に騙されたと気づいたときには、もう取り返しがつかない。こうした恋愛沙汰のなかで、力は尽きてしまっている。

父親が女の子を魅了したのは、彼が男であるから

精神分析家たちはともかく、女は愛人のうちに自分の父親の姿(イメージ)を追い求めているのだと主張する。しかし、父親が女の子を魅了したのは、彼が男であるからであって、父親であるからではない。男たちは誰でもこの魔術を分かちもっているのだ。女は一人の男のうちにある個人の生まれ変わりを見たのではなく、ある状況、つまり、彼女がまだ大人の庇護にある幼いときに経験した状況を甦らせたいのである。

女は家族のなかに深く組み込まれ、そこで、ほとんど受け身の安らかさを味わっている。恋愛は彼女に父親と同時に母親も取り戻してくれるだろう。子どもを時代も返してくれる。彼女は頭上を覆う天井を、世界のただなかに見捨てられ孤独した状態を隠してくれる壁を、自分の自由から自分を守ってくれる決まりをふたたび見出したいと望んでいるのだ。

この子どもじみた夢は女の恋愛の多くにまとわりついている。女は、恋人から「私のちっちゃな娘の、愛しい子ども」と呼ばれるとき、幸福を感じる。男たちは、「君はまったくちっちゃな娘のようだ」という言葉が最も確実に女の琴線に触れるということをよく心得ている。

どんなに多くの女たちが大人になることに苦しんできたかはすでに見てきた。女たちの多くは執拗に「子どもっぽく振る舞い」態度や身なりにおいても自分の子ども時代を無限に引き延ばそうとし続ける。男の腕のなかでふたたび子どもに戻ることは彼女たちの欲求を満たしてくれる。これは大ヒットした流行の唄のテーマでもある。

あなたの腕に抱かれて、わたしはかえる、ちっちゃなとてもちっちゃな子どもに、ああ、わたしの恋は・・・・

このテーマは恋人どうしの会話や手紙のなかでたえず繰り返される。「ベイヒ゛ィ、私の可愛い子」と恋人はつぶやく。そして、女は「あんたの可愛い子ども、ちっちゃな娘」と自分を呼ぶ。イレーヌ・ルウェリオティは書いている。「それで、いつ、その人は、私を支配する術を心得たその人は、やって来るのでしょうか」。そういう男と出会ったかと思えば、「あなたを私より優れた男だと直感的に感じるのが私は好き」。

ジャネ(*2)観察したある精神薄弱児の患者は印象的な仕方でそのような態度を例証している。

覚えている限り、私がしたかもしれない愚かな言行や良い行ないはすべて同じ理由から発していました。それは、理想的で完璧な愛への憧憬です。その恋では、私はすべてを捧げられます。男であれ女であれ、神さまのような、私よりはるかに優れた存在に私の全存在を委ねるのです。

だから、自分の人生をどう導くとか自分を見守っていく必要はないほどです。それは養う労苦を厭わないほどに私を十分愛してくれる誰か、安心して盲目的なまでに従っていけるだろう誰かを見つけることなのです。その人は私が犯すかもしれないあらゆる過失を免れさしてくれ、溢れる愛情をもって、とてもやさしく、まっすぐに、私を完成へと導いてくれると確信しています。

マグダラのマリアやイエス・キリストへの理想的な愛を私はどんなに羨ましくおもっているでしょう。崇拝されていて、それに値する師の熱烈な弟子であること。崇拝の対象のために生き、死ぬこと。微塵の疑いも持たずにその人を信じること。動物に対する天使の決定的な勝利をついにはもたらすこと。彼の腕のなかしっかり包まれ、彼に守られて身を丸め幼いときに戻り、もはや自分が存在しないほどに彼と一体になること。そうなりたいのです。

多くの事例がすでに示したように、こうした自分を無にしたいという夢は、本当に存在を渇望する意志なのである。あらゆる宗教において、神への崇拝は信者にとっては自分自身の救済と一体となっている。女は偶像にすべてを捧げながら、その偶像が自分自身と偶像のうちに集約される世界と世界を同時に彼女に所有させてほしいと願う。

女が恋の相手に要求するのはまず彼女の自我(エゴ)の正当化、賛美である.

たいていの場合、女が恋の相手に要求するのはまず彼女の自我(エゴ)の正当化、賛美である。大多数の女は愛する代償として愛される場合にしか恋に自分を委ねない。しかも往々にして、彼女たちを恋人にするには愛が示されるだけで十分である。若い娘は男の目を通して自分を夢見た。つまり、男の眼差しのなかに、女はついに自分を見出したと思い込むのである。
セシル・ソヴァージュは書いている。

あなたのおそばを歩き、あなたが大好きな私のとっても小さな足を前に進め、フェルトの踵とのハイヒールにその細かな動きを感じると、私はそれらをくるんでくれるあなたの愛のすべてを愛に抱くのです。マフ[筒型の手の防寒具]のなかの私の手、腕、顔のほんのささいな動き、わたしの声の変化が私を幸福で満たしてくれます。

女は自分が高くて確かな価値を備えていると感じている。女は自分が相手に呼び起こした愛を通してお互いに慈しみ合うことについて同意するのだ。彼女は恋人のなかに証人を見つけたいのである。コレットの『さすらいの女』が打ち明けているのはそのことだ。

白状すると、私は負けたんです。その男のなかに、恋人でもなく、友人でもない、私の人生と私という人間の熱心な観客を求めたいという思いに負けて、彼が明日もまた来るのを許したのです。恐ろしいほどに老けなければ、人は誰かの前で虚栄をはって生きるのを辞めることはできないと、ある日マルゴが私に言いました。

ミドルトン・マリー[18891957、イギリスの批判家、マンスフィールドと結婚]に宛てた手紙の一つで、キャサリン・マンスフィールドは、薄紫色のすてきなコルセットを買ったばかりだという話を書いて、すぐにこうつけ加えている、「見てくれる人が誰もいないなんてなんと残念なこと」。自分を誰の欲望も引き起こさない花、香り、宝と感じるのは最悪のつらい経験でしかない。

自分自身を豊かにしない、誰も贈り物に欲しいと思わない財産とは一体なんなのだろう。恋は、白っぽいネガと同じくらい空しく色褪せた陰画からポジの輪郭を鮮明に浮かび上がらせる現像液のようなものだ。

恋によって、女の顔体の曲線、子どもの頃の思い出、昔流した涙、ドレス、習慣、世界、彼女であるすべてのもの、彼女に属するすべてのもの、それらが偶然性を免れ、必然的なものとなる。女は自分の神さまの祭壇の足元に捧げられた素晴らしい贈り物なのだ。

彼が優しく彼女の肩に手をかけるまで、彼の目が彼女で満たされる前は、彼女はくすんで生彩を欠いた世界のなかのそれほど美しくもない一人の女でしかなかった。彼が彼女を抱きしめた瞬間から、彼女は真珠のような不滅の輝きのなかにたっていた(*3)

だから、社会的威信をもち、女の虚栄心をくすぐるのに長けている男たちは、たとえ肉体的な魅力がまったくなくても、恋心をかきたてられるのだ。その高い地位によって、彼らは《法律》、《真理》を体現する。彼らの意識は揺るぎない現実を示している。彼らが称賛する女は、自分が値のつけようもない宝物に変わったと感じる。たとえば、イサドラ・ダンカン(*4)の言うところによると、ガブリエーレ・ダヌンチオ[1863-1938、イタリアの作家]の成功はそのせいであった。

ダヌンチオが一人の女を愛するとき、彼はその女の魂をこの地上を越えて、ベアトリーチェが輝いて暮らす彼方の地にまで高めるのです。次々と、彼はどの女も神の本質に預からせてやります。彼は女を高く、それはとても高く運び去るので、女は本当にベアトリーチェの場所にいるようなつもりになります・・・・とっかえひっかえ、気に入った女に彼はきらめくヴェールを投げかけます。彼女は普通の人々のはるか彼方の高見までのぼり、不思議な輝きに囲まれて進みます。

しかし、詩人の気まぐれが終わりを告げ、別の女のために捨てられたとき、光のヴェールはなくなり、後光は消え、女はふたたびもとのありふれた人に戻るのです・・・・ダヌンチオ特有の魔法をかけた称賛の言葉を聞くのは、イヴが天国で蛇の声を聞いたときに感じた喜びに匹敵するほどの喜びなのです。ダヌンチオはどの女にも彼女が《宇宙》の中心にいるかのような印象を与えることができます。

女がエロチシズムとナルシシズムをバランスよく両立できるのは恋愛においてだけである

すでに見たように、この二つの心的装置のあいだには対立があり、それが女の性的運命への適応を非常に困難にしている。自分を肉欲の対象、獲物にするのと、自分を崇拝の対象にするのとは相反する行為である。

そのために、女には、抱擁が自分の肉体を傷つけ汚すように、あるいは自分の魂の価値を低めるように思われる。一部の女たちが不感症を選ぶのは、そのためだ。そうやって、自我の統一性を維持しようと考えるのである。他の女たちは動物的快楽と高尚な感情を切り離す。極めて特徴的なケースは、シュテーケルが報告したD・S夫人のケースである・・・・。これは、私が前に「結婚した女」[第一部第一章]のところで引用した。
つづく 十二章 Ⅱ不感症の女が最も激しいオルガスムスを感じたとき、マゾヒズムとエロチシズムが顕れる。
キーワード、マゾヒズム、エロチシズム、不感症、オルガスムス、性行為、自我、快楽、官能の疼き、性欲、自己放棄、