第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳
彼はケチで、卑小で、冷酷で、悪魔か獣だとなると、人は次のように反論をしたくなる。「肯定」の返答を実に稀有なこと驚くなら、なぜ、「拒否」の返答に驚かねばならないのか。拒否はおぞましい男のエゴィズムを示すものなら、なぜ、「肯定」をそれほどまでに賛美するのか。超人と非人間のあいだに、人間のための場所はないのだろうか。
こうなるのは失墜した神は人間ではないからだ。だが、これはまやかしである。恋人の男にすれば、自分は実際にほめそやかされる王であると証明するか、自分が詐称者であると名乗り出るか、二者択一するほかない。男は賛美され亡くなった途端に、踏みつけられてしまう。
恋人の額を輝かしく包んでいた栄光の名において、恋する女は彼にどんな弱さも認めない。恋人の実像の代わりに置き換えたその偶像に波が合わせないと、彼女は失望し、苛立つ。彼が疲れたりぼんやりすると、折り悪しくお腹をすかしたり喉が乾いたりすると、間違えたり、矛盾したことを言ったりすると、彼が「その偶像以下」であると勝手に決め、その事で彼に不満を抱く。
このようにして、彼女は彼の主体性をことごとく非難し、それを評価しない。彼女は彼の判断に判定を下す。彼に自由を認めない。恋人が自分の主人に値するようにするためだ。その見返りに彼を崇拝するには、彼が実在するより不在の方がより都合がよい。
すでに見たように、死んだ英雄かまたは近づきがたい英雄に身を捧げ、彼らと生身の人間とをけっして比較しないですむようにする女たちがいる。生身の人間はどうしても彼女たちの夢と食い違う。そこから、次の覚め切った謳い文句が生まれた。「白馬の王子さまを信じてはいけない。男はみなみすぼらしい生きもの」。男に超人を求めなければ、彼らが小人に見えることもないだろう。
これは情熱的な女を苦しめる不運の一つである。彼女の無私無欲はたちまち要求に変わる。一人の他人に自分を疎外することで、彼女は同時に自分を取り戻すのだ。自分の存在を占有するこの他者を手放しはならない。
自分の全て彼に捧げる。しかし、男がこの贈り物を威厳をもって受け入れるためには、完全に彼女を自由にできなければならない。彼女は彼にすべての瞬間を捧げる。彼はたえずそこにいなければならない。彼女は彼をとおしてしか生きたいと思わない。だが、生きたい。彼は彼女を生きさせるために献身しなければならない。ダグー夫人は次のようにリストに書き送っている。
ときおり、私はあなたを愚かな仕方で愛しています。そういう瞬間には、私があなたのことで頭がいっぱいなように、あなたにとって私がどうしてそうなれないのか、またどうしてそうしてはいけないのか、わからなくなります。
彼にとってすべてでありたいという自然な望みを彼女は迎えようとする。レスピナ嬢の嘆きのなかにも似たような訴えがある。
ああ、毎日がどんなものか、あなたに会うという興味や喜びのない人生がどんなものかをあなたはわかってくださったら。あなたには、遊びや用事、活動があれば満足なのでしょう。でも私の方は、私の幸福はあなたなのです。あなただけなのです。あなたに会って、私の人生のすべての瞬間にあなたを愛してはいけないというのなら、私は生きたいとは思いません。
最初、恋する女は恋人の欲望を満足させるのに熱中する。その結果、仕事を愛しすぎてあちこちに火をつけて歩いた伝説の消防士のように、恋人の欲望を懸命に呼び覚まし、それを満足させなければならなくなる。それが上手く行かないと、彼女は侮辱され、自分は役立たずだと感じる。
それで、恋人は感じていない情熱があるかのような振りをしなければならないほどだ。彼女は奴隷になることで、彼を鎖で縛る最も確実な手段を見つけたのである。これこそ恋愛のもう一つの欺瞞だ。ロレンスやモンテルランなど多くの男たちは恨みをもってそれを暴いた、恋愛が一つの専制となる。
バンジャマン・コンスタンは、『アドルフ』[コンスタンの代表作の心理分析小説]のなかで、一人の女の子のいきすぎた献身的情熱が男を縛り付ける鎖となるさまを手厳しく描いている。「彼女はとれぐらい自分が犠牲を払っているか考えてもみない。私にそれを受け入れさせるのに夢中だからだ」と、彼はレオノールについて残酷な言い方をしている。つまり、受け入れることは一つの契約であり、それは男を束縛する。
だからといって、彼が与える人とみなされる特権すらもてない。女は自分が彼に負わせる重荷を彼が感謝の念を持って受け入れるよう要求する。しかも、彼女の専制はとどまるところを知らない。恋する男も専制的だ。しかし、彼は自分が望んだものを手にすれば、それで満足する。
一方、女の要求の多い献身には際限がない。恋人を信頼する男は、彼女が留守にして、彼から離れて過ごすことを嫌がらずに認めてくれる。恋人を自分のものだと信じる彼は、モノより自由を所有する方がいいと思う。反対に、女にとっては、恋人の不在はつねに耐え難い苦痛だ。彼は一つの眼差し、一人の裁判官である。彼が彼女以外のものに目を向けるや、彼女を裏切る事になる。
彼は自分の見るものすべを彼女から奪ってしまう。恋人から離れたら、彼女は自分自身も自分が生きる世界も奪われてしまうのだ。彼女のかたわらに座っているときですら、読んだり、書いたりすることで、彼は彼女を見捨て、裏切っている。彼女は彼の眠りを憎む。
「疲れし君が美しき目、哀れなる恋人よ」と、ボードレールは眠る女に感動する。ブルーストは眠るアルベルチーヌ
(*8 )をうっとりと見つめる。男の嫉妬は独占的所有への意志にすぎない。眠りが恋人を子ども時代の無防備な純真さに連れ戻すとき、彼女は誰のものでもない。男にとって、この確信で十分だ。
しかし、神、主人は内在の休息に身を委ねてはならない。敵意の眼差しで、女はそうした眠りに襲われた
超越を見つめている。彼女は、男の動物的怠情、もはや彼女のためでなく、彼のうちに存在するその肉体、彼女自身の偶然性を代償に身を委ねたその肉体を憎む。ヴィオレット・ルデュックはこの感情を激しく表現している。
眠る男たちを私は憎む。私は悪意から彼らの上に身をかがめる。彼らの降伏にはイライラする。その意識を失った平穏を、偽りの知覚麻痺を、勤勉なる盲人の顔を、分別ある酩酊を、無能ぶりを私は憎む・・・・眠る恋人の口からバラ色の泡がこぼれるのを私は見張り、ずっと待ち続けた。私がひたすら彼に求めたのは存在の泡。私はそれを得られなかった・・・・私は彼の夜のまぶたは死の瞼ただと知った・・・・この男が手に負えないとき、私は彼の瞼の陽気さのなかに逃げ込んだ。眠りが始まるとき、それが耐えられない。眠りはすべてを盗んでいった。
私には無縁の安らぎを自分のために無意識で作り出せる私の眠る男を憎む。気持ちよさそうな額を憎む・・・・彼は自分自身の奥底で自分の休息のために忙しい。彼は私にはわからない何かを再検討している・・・・私たちは二人で羽ばたきして飛び立ったのだった。
私たちは二人の気質を利用して地上を立ち去りたいと願っていた。私たちはともに飛び立ち、よじ登り、見張り、待ち続け、口ずさみ、到達し、呻吟(しんぎん「うめく」)し、勝ち、失ったのだった。それは学ことの多い真剣な道草だった。私たちは新しい種類の無を見つけたのだ。いま、あなたは眠っている。あなたの消滅は誠実ではない・・・・私の眠る男が身動きをするとき、私の手は思わず精液にふれる。
それは横暴で窒息しそうに種子の入った五十の袋を詰めた貯蔵庫だ。一人の眠る男の性器の陰嚢が私の手の上に落ちてきた・・・・私は小さな精液の袋をもった。耕される畑、手入れされる果樹園、変えられる水力、釘を打たれる四枚の板、高く上げられる帆布を私は手に握っている。
果物、花、選び抜かれた動物的が私の中にある。メス、ハサミ、ゾンデ、ピストル。鉗子を私は手に持っている。それでも、私の手は一杯にならない。世界の眠る精液は魂の長く続く無益なたるみでしかない・・・・
あなた、あなたが眠るとき、私はあなたを憎む
(*9)。
神は眠ってはならない。さもなければ、神は粘土、神体となってしまう。神はそこにいるのを辞めねばならない。さもなければ、神の被造物は無のなかに沈んでしまう。女にとって、男の眠りは物惜しみ、裏切りである。恋する男もときには恋人を眠りから起こすことがある。それは彼女を抱きしめるためだ。
だが、恋する女が恋人を目覚めさせるのは、ただ恋人を眠らせないために、遠くに行かせないために、彼女のことだけを考えるようにするために、彼が部屋に、ベッドに、彼女の腕の中に、つまり彼をそこにいさせるようにするためである。ちょうど聖櫃(せいひつ)のなかの神のように。それが恋する女が望むことである。彼女は牢獄の番人なのだ。
しかしながら、恋する女は、男が自分の囚人だけにとどまるのはけっして認めない。ここに恋愛の苦しい矛盾の一つがある。囚われの神がその神性を失ってしまうからだ。女は自分の超越を男にむけて行うことによって、それを救う。しかし、男は全世界に対して優位に立たなければならない。
愛し合う二人がともに情熱の絶対性のなかに飲み込まれてしまったら、すべての自由は内在に堕落する。そのときは、死だけが彼らにとって唯一の解決となる。それが『トリスタンとイズー』[ケルト伝説に基づく中世恋愛物語]の神話の一つの意味である。
互いを互いのためにのみあると運命づけた二人の恋人はすでに死んでいる。彼らは倦怠から死ぬのである。『見知らぬ土地』のなかでマルセル・アルラン[1899-19986、フランスの作家]は、こうした自らを食い尽くしていくある恋愛の緩慢な苦しみを描いた。この危険を女は知っている。嫉妬に狂った発作を除けば、女は男が企て、行動することを要求する。彼がいかなる偉業も成し遂げなければ、彼はもはや英雄ではない。
新しい勲章に向かって旅立つ騎士は彼の貴婦人の自尊心を傷つける。だが、彼が自分の足元で現状に甘んじていれば、貴婦人は彼を軽蔑する。これこそ不可能な愛の責め苦である。女は男の全てを所有したい。だが、彼女は手にしえるすべての条件を乗り越えように男に要求する。
彼は一つの自由すらもたないのだ。女は、ハイデガーの言葉によれば「彼方の存在」である実存者をここに閉じ込めようとする。この企てが無理強いであるのを彼女はよく承知している。
「あなた、私はあなたをそう愛しなさいといわれているとおりに愛します。過剰なほどに、無我夢中で、陶酔し悲嘆にくれながら」とジュリー・ド・レスビナスは書いている。
偶像崇拝的恋愛は、たとえ明晰なものであっても、絶望的なかたちでしかありえない。なぜなら、恋する女は恋人に英雄に巨人、半神であることを要求し、彼によって、自分がすべてでないことを求めながら、自分のうちに彼を完全に所有できなければ幸福を実感できないからである。
ニーチェ
(*10)によれば。
自分の権利を一切放棄するという女の情熱は、他方の性にとって、放棄の感情と欲望はまったく同じ形ででは存在しないということを明確に前提としている。なぜなら、二人とも恋愛によって自己放棄をするならば、その結果として、確かに、なんと言えばいいかわからないが、つまり、空しい憎悪が生まれるだろう。
女はつかまえられたいと思う・・・・だから、つかまえてくれるが、自分の身を捧げたり、自分を放棄したりしない、逆に、恋愛において自我を豊かにしたいと欲するような誰かを女は求める・・・・女は身を捧げ、男は女によって大きくなる・・・・。
少なくとも、女は恋人を豊かにすることに喜びを見出すことができる。彼女は彼にとって《すべて》ではない。しかし、彼女は自分が彼に必要な存在なのだと信じようとする。必要性に程度はない。恋人が「彼女なしでいられない」なら、自分は彼という貴重な存在の根拠だ。そして、そこから自分自身の価値を引き出す。
彼に奉仕するのは彼女の喜びである。だが、恋人の方でもこの奉仕を感謝の念を持って受け入れなければならない。自己犠牲の通常の弁証法からすれば、与えることは要求にかわる
(*11)。それに、生真面目な性格の女は次のように自問する。
彼に必要なのはほんとうに私なんだろうか。男は彼女を深く愛し、やさしさと彼女に対する特別な欲望から彼女は求める。でも、別の女にも同じように特別な感情をもつのではないだろうか。恋する女の多くは知らぬふりをする。
彼女たちは個別性に一貫性が含まれるのを見たくないと思う。しかも、男が女たちの幻想を助長する。なぜなら、男は最初にこの幻想を共有するからである。男の欲望にはしばしば時間に挑戦するように見える激情がある。彼がその女を欲する瞬間に、彼は情熱的に彼女を求め、彼女にしか欲情を感じない。
そして確かに、瞬間は一つの絶対である。しかしそれは一瞬の絶対である。騙された女は永遠に向かう。主人の抱擁によって神聖化された女は、自分はずっと神に捧げられ、神のものであったのだと考える。それも自分一人だけが。だが、男の欲望は絶対的であると同時に移ろいやすい。
一度欲望が満たされると、それはたちまち消える。一方、女が男の虜(とりこ)になるのはたいてい恋の後からである。これがすべて通俗的な小説や歌の主題である。「若者が通りかかり、娘が歌っていた・・・・若者が歌っていて、娘が泣いていた」
男が女を永続的に愛着を持ったとしても、それは男にとって彼女がまだ必要だという事を意味しない。しかし、必要だということこそ女が求めることである。なぜなら、女にはその絶対的権威が返されるという条件のもとでなければ、自己放棄しても女は救われないからだ。
人は相互性の作用を免れることはできない。となれば、恋する女は苦しみ、あるいは、自分を欺かなければならない。たいてい女はまず最初に噓にしがみつく。彼女は男の愛を彼女が男に与えた愛の正確な代償と考える。彼女はごまかして欲望を愛と、勃起と欲望と、愛を一つの宗教と見なすのである。
彼女は男に嘘をつくように仕向ける。私を愛している? きのうと同じくらい? ずっと私を愛してくれる? 細かい誠実な答えをする暇がないときに、または、答えられない状況のときに、彼女は巧みにいろいろ問いかける。愛の抱擁のさなかに、病気の快復期に、泣崩れながらあるいは駅のプラットホームで、彼女は有無を言わさない調子でたずねる。
無理やり答えを引き出して、それに満足する。そして、答えがないと、沈黙に語らせようとする。多かれ少なかれ、本当の恋をする女はすべてパラノイア的である。私は或る女友だちのことを思い出す。彼女は遠くに離れている恋人から長いこと音沙汰がないのに対してこう言い切ったのである「別れたいのなら、手紙を書いて来るわ。解消を告げるために」その後、はっきりした手紙を受け取ると、「本当に別れる気なら、手紙なんてよこさないわ」。
打ち明けられた秘密について、どこから病的妄想が始まっているのかを見極めるのはしばしば非常にむずかしい。パニックに陥った恋をする女が描き出す男の行動はつねに常軌を逸したものに見える。それはノイローゼ患者、サディスト、欲求不満のかたまり、マゾヒスト、悪魔、気まぐれ、卑怯者、それらすべてを合わせたものである。
それは微に入り細に入った心理的説明にさらされる。「Xは私を崇拝している。彼は狂ったかと思うほど嫉妬深い。私が外出するときにはマスクをつけて欲しいらしい。でも、彼は変わった人で、私の愛を疑っている。それで彼の家のベルを鳴らしたとき、踊り場で私を迎え、中に入れてくれなかった」。
あるいはまた、「Xとは私を賛美していた。けれど、彼はあまりにも誇り高いので自分が住むリヨンにきて暮らさないかと私に言い出せないでいた。私は自分からリヨンに行って、彼の家に泊まった。一週間目に、喧嘩したわけでもないのに、彼は私を家から追い出した。その後、彼には二度あって、三度目に電話したら。彼は話の途中で電話を切ってしまった。彼はノイローゼだ」。
こうした訳の分からない話の謎は、男が「ぼくは君を全然愛していない」とか「君には友情は感じていたが、君と暮らしてもひと月と我慢できなかっただろう」と言ったときに明らかになる。あまりにも激しい自己欺瞞は逃げ場へ導くのだ。
つづく
十二章Ⅳ 恋愛妄想の恒常的な特徴
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