尊敬する夫に対して不感症の彼女は、夫の死後、同じように芸術家で優れた音楽家の若い男と出会って、その愛人となった。彼女の愛は、これまでも今も、確固としたものなので、彼のそばにいれば幸福だった。
彼女の生活はロタールで満たされていた。しかし、彼を熱烈に愛していながら、彼女は彼の腕のなかでも相変わらず不感症だった。別の男が彼女の行く手に立ちふさがった。それは粗野で屈強な森番の男で、ある日彼女と二人だけになったとき、造作もなく、簡単に彼女の心をとらえてしまった。彼女は茫然自失となって、なされるがままになった。だが、彼の腕のなかで、彼女は最も激しいオルガスムスを感じたのである。
彼女によれば、「彼の腕のなかで、数ヶ月にわたって私は甦ったのです。それは野生状態の陶酔といったものでしたが、ロタールのことを考えたとたん、必ず名状しがたいほどの嫌悪があとに続くのでした。私はポールを憎み、ロタールを愛しました。でも、ポールは私を満足させてくれました。ロタールにあっては、すべてが私を引きつけます。とはいえ、上流社会の女として、私には快楽は認められていませんでしたので、快楽を得るために自分が娼婦に変身したような気がしました」
彼女はポールとの結婚は拒否したが、関係は続けた。ことのあいだ、彼女は「別人のようになり、その唇からは、普通ならとても口にできないようなあけすけな言葉が洩れた」。
動物性への転落はオルガスムスの条件である
シュテーケルは「多くの女性にとって、動物性への転落はオルガスムスの条件である」と補足する。彼女たちは肉体的愛を尊敬や愛の感情と両立できない堕落とみなす。だが逆に、他の女たちにとっては、男の尊敬、やさしさ、称賛をとおして、この堕落は消し去るのである。
女たちは男に深く愛されなければ、男に自分を捧げるのに同意しない。肉体関係をパートナーが平等に得ようとする快楽の交換と考えるためには、女にはかなりの臆面のなさ[シニスム]、冷たさ、誇りが必要だ。
男も同じように――おそらく女以上に――性的に自分を利用する女に対しては憤慨する
(*5)。しかし一般的に、相手が自分を道具として使っているという印象をもつのは女の方である。熱烈な賛美だけが女にとって敗北と思われる屈辱的行為を補ってくれる。
すでに見たように、性行為は女に完全な
自己疎外を要求する。女は受け身のせつなさのなかに沈んでいる。目を閉じ、匿名になって、自分を消し去った女は波に持ち上げられ、嵐の中を転がされ、夜の闇、肉欲の、子宮の、墓場の闇に埋められたように感じる。
自分を無にした女は《全体》と一体となり、自我は消える。だが、男が女から身を離すと、女は大地に、ベッドの上に、光の中に投げ出されている自分を見出す。女は名前を、顔を取り戻す。女は敗北者、獲物、モノだ。
愛が女に必要となるのはこのときである。離乳後に子どもが両親の安心しなさいという眼差しを探し求めると同じように、自分をうっとり見つめる恋人の眼差しを通して、女にとって自分の肉体がつらい思いで離れた《全体》にふたたび戻ったと感じる事が必要なのだ。
女が完全に満足するのは稀である。女は快楽の鎮静を知ったとしても、肉欲の魅力から完全には解放されない。官能の疼きは感覚の中に残っている。女には快感を惜しみなく与えて、男は女を自分に繋ぎとめ、自由にさせない。しかしながら、男は女にもはや欲望を感じない。
女がこの一時的無関心を許せるのは、男が彼女に絶対的で永遠の感情を捧げた時である。そうなると、瞬間の内在は乗り越えられる。灼熱の思い出はもう後悔ではなく宝物となる。快感は消えるが、それは希望と約束となる。快楽は正当化されたのだ。女は自分の性欲を
超越したのだから、それは誇りを持って受け入れられる。官能の疼き、快楽、欲望は一つの状態ではなく、贈り物だ。
自分の肉体はもうモノではない。それは一つの賛歌、一つの炎である。そうなって、女は性愛の魔術に情熱的に自分を委ねことが出来る。夜は昼に変わる。恋する女は目を開け、彼女を愛してくれ、彼女を讃える眼差しをした男をじっと見つめることができる。彼によって、暗闇の海にもう沈んではいない。翼に乗って大空へと舞い上がり、たかめられる。
自己放棄は聖なる恍惚となる。愛する男を受け入れるとき、女は聖母マリアが精霊によって、信者が聖体パンによってそうなるように、それを宿し、訪れをうけるのである。このように、敬虔な讃美歌と露骨な猥褻(わいせつ)さとの類似を説明できる。これは神秘的な愛は常に性的性質をおびるというわけではない。
とはいえ、恋する女の性欲は神秘的色彩で覆われている。「私の神さま、私の崇拝するもの、私の主人・・・・」、同じ言葉がひざまずく聖女とベッドに横たわる女の唇から洩れる。一方の女はキリストを刺す矢に我が身を与え、聖痕を受けるために、手を差し伸べ、神の《愛》に焼かれることを求める。
他方の女もまた我が身を差し伸べ、待ち望む。槍、矢は男の性器を表す。二人の女において、これが同じ夢、子どもじみた夢、神秘的な夢、愛の夢なのである。つまり、他のものの懐に包まれて自分を無にすることで、最高のかたちで、存在するのだ。
かれ少なかれ長期間続く発作のあいだ、それはしばしば生涯にわたるのだが、彼女は自分から犠牲者を装い、恋人を満たせなかった自分をひたすら傷つける。そうなると、彼女の行動はまさしくマゾヒズムの行動そのものである。
自分を無にしたいという欲望はマゾヒズムに行き着くとしばしば言われ
た(*6)。しかし、エロチシズムに関してすでに触れたように、私が「他人による私の客体化をとおして自分を魅惑させよう」と勤めるとき
(*7)、すなわち、主体の意識が自我に向けられて、屈辱的な状況のなかでそれをつかむとき、そういう場合でなければ、マゾヒズムとは言えない
さて、恋する女は単に自我に自分を疎外するナルシシズムではない。彼女はまた自分自身の限界を超え、無限の実在に到達する一人の他者を介して、自分も無限になりたいという激しい欲望を抱く。彼女はまず自分を救うために恋に身を委ねる。しかし、偶像崇拝的愛の矛盾は、自己を救うために、ついには自己の完全否認にいたることである。
彼女の感情は神秘的な次元を見せる。彼女は神に対してももはや自分を賛美するように、自分を認めるように求めない。神のうちに自分を合体したい、神の腕の中で我を忘れたいと願う。「私が出来ることなら恋の聖女でありたかった(と、ダグー夫人は書いている)。高揚と熱狂的禁欲の瞬間には殉教者を羨みました」。これらの言葉に表れているのは、最愛の人と自分を隔てる境界をなくし、自分自身を完全に解体してしまいたいという欲望である。
それはマゾヒズムではなく、忘我的結合への夢である。ジョルジェット・ルプランの言葉から吐き出されるのも同じ夢である。「その頃、この世で一番の望みは何かと訊ねられたら、躊躇なく言ったでしょう。”彼のために糧であり焔であること”」
この結合を実現するために、まず女が望むのは仕えることである。恋人の要求に応えることによって、自分を必要な存在に同化され、彼の価値にあずかり、正当化されるだろう。アンゲルス・シレシウスの言によれば、神秘家たちですら神が人間を必要としていると思いたがる。さもなければ、彼らが自分自身を贈り物にしたのが無駄になる。男が要求を増やすほどに、女はそれだけ幸せになる。ユゴーがジュリエット・ドルエに課した蟄居(ちっきょ「虫などが地中にこもること)は若い娘には重荷であったにもかかわらず、彼に従うことに彼女が満足しているのが感じられる。
炉辺に座っていることは、主人の幸福のために何かをしていることなのだ。彼女は積極的に彼の為に役立とうと一生懸命努める。彼の為に美味しい料理をこしらえ、家庭を築く。それを彼女は可愛らしく小さな「マイホーム」と呼んだ。彼女は彼の衣服の手入れにも気を配る。
できるだけ、洋服に染みをつけたり、破いたりしてほしいわ、それを繕ったり、すっかり綺麗にしたり、それをやるのは私ひとりだけでいたいの、と彼女は彼に書いている。
彼の為に、彼女は新聞を読み、記事を切り抜き、手紙やメモを整理し、原稿を書き写す。詩人がこうした仕事の一部を彼の娘のレオポルディーヌに任せたとき、彼女は悲嘆に暮れた。同じような特徴が恋する女たちすべてに見出される。必要とあれば、恋人の名において、彼女は自分自身を暴君にする。彼女という人のすべて、彼女が持つものすべて、彼女の人生のすべての瞬間が彼に捧げられなければならず、そのようにして、それらの存在理由を見出さなければならない。
彼女は彼のうち以外にはなにものも所有したいと思わない。彼女を不幸にするのは、彼から何も要求されないことである。思いやりのある恋人なら何か要求を作り出さなければならないほどだ。彼女はまず恋にかつての彼女、彼女の過去、彼女と言う人間の確認を求めた。しかし同時に、彼女は恋に自分の未来を引き込む。未来を正当化するために、彼女はすべての価値を占有する男に自分の未来をとっておく。
そうすることで、彼女は自分の超越から解放される。つまり、自分の超越を本質である他者の超越に従属させるのである。彼によって、彼女は家来兼奴隷となる。
自分を見出し、自分を救うために、彼女はまず彼に自分を一体化することから始める。だが、事実は、彼女はすこしずつ彼の中に自分を見失っていくのだ。すべての現実はこの他者のなかにある。
初期にはナルシシズムの崇高化という性格をもつ恋愛は、献身という厳しい喜びの中で完成するが、それが自傷にまで至る場合もしばしばある。燃えるような情熱の始まりの頃、女はこれまでになくきれいに、優雅になる。「アデールが髪を結ってくれるとき、私は自分の額をしけしげと眺めました。あなたが愛してくれる額ですもの」とダグー夫人は書いた。
この顔、身体、部屋、自我、彼女はそれらに存在理由を見出し、自分を愛してくれる恋人を媒介にしてこれらを慈しむ。だが、少したつと、彼女は逆に媚びを一切やめる。恋人が望むなら、最初は恋そのものより大切であった自分の顔を変える。そういうことに関心がなくなるのだ。
彼女は自分という人間、自分の持ち物を支配者から与えられた領土に変える。彼が軽蔑するものは彼女も認めない。心臓の鼓動の一つひとつ、血の一滴ずつ、骨の髄まで彼に捧げようとする。これが殉教者の夢として表れされるものである。
つまり、耐え難い苦痛となるまで、死に至るまで自分を捧げると大げさに考え、愛する男が踏みしめる大地となり、ひたすら彼の呼びかけに応え、それ以外のものであってはならない、というのだ。恋人に無用なものはことごとく必死になって消してしまう。この自己献身が全面的に受け入れなければ、マゾヒズムは現れない。たとえば、ジュリエット・ドルエにはその痕跡はほとんど見られない。
過剰なほど恋人を崇拝して、ジュリエットはよく詩人の肖像の前にひざまずき、自分が犯したかもしれない過ちの許しを乞うた。彼女が自分自身に怒りを向けることはなかった。
しかし献身的な情熱からマゾヒズムの熱狂に移行するのは簡単である。両親を前にした子どもの頃と同じように、恋人を前に恋する女は、かつて両親に感じた罪悪感をふたたび見出す。彼女は、彼を愛しているかぎり、彼に反抗しようとはしない。彼女は自分に怒りを向けるのだ。望むほど彼が愛してくれず、その心をつかむのに失敗するならば、彼を幸福にできず、満足させられないならば、彼女のナルシシズムはそのまま自分への嫌悪、侮辱、憎悪に変わり、自己懲罰へと彼女をかりたてる。
多かれ少なかれ長期間続く発作のあいだ、それはしばしば生涯にわたるのだが、彼女は自分から犠牲者を装い、恋人を満たせなかった自分をひたすら傷つける。そうなると、彼女の行動はまさしくマゾヒズムの行動そのものである。
しかしながら、恋する女が自分に復習するために自虐的になろうとする場合と、彼女が求めるものが男の自由と力の確認である場合とを混同してはならない。よく言われることだが――そしてそれは本当らしいのだが――、売春婦は情夫に殴られるのを誇りにする。だが、彼女を高揚させるのは、自分が殴られ服従させられていると考えるからではなく、彼女が依存している男の力、権威、絶対性なのである。
それに、彼女は他の男を虐待するのを見るのが好きだ。危険な争いをけしかけたりもする。自分の主人に彼女が属する階層で認知されている価値を持ってほしいのである。また、男の気まぐれに喜んで従う女は、自分にふるわれる横暴のなかに至高の自由の明白な証拠をみて感嘆する。
なんらかの理由から恋人の威信が損なわれたら、男の殴打やわがままは憎むべきものとなるだろう。それらが恋人の神性を示さないならば、なんの価値もない。このようなケースでは、自分を他人の自由の餌食と感じるのはうっとりするような喜びである。
実存者にとって、自分とは異なる一人の他者の高圧的な意志によって自分を正当化されるのは、最も驚くべきアバンチュールなのだ。つねに同じ皮膚を着た自分から抜け出れないのはうんざりする。盲目的服従は人間が体験できる根源的変化への唯一の可能性である。
それで愛する男の気まぐれな夢、絶対的命令に従って、女は奴隷、王妃、花、雌鹿、ステンドグラス、おべっか使い、家政婦、高級娼婦、詩の女神、伴侶、母、姉妹、子どもに変幻するのだ。いつも唇に服従の同じ味を漂わせているのに気づかないかぎり、女はこのような変身に恍惚として従う。エロチシズムの次元と同じく恋愛の次元においても、マゾヒズムは、他者と自分自身に満足できず、期待を裏切られた女が身を投ずる道の一つであるように思われる。それは、幸福な自己放棄への生まれつきの性向ではない。
マゾヒズムは、打ち痣のついた傷ついた姿で自我の存在を保持する。反対に、恋愛は本質的主体のために自我の忘却を目指すのである。
人間の愛の最高の目的は、神への愛と同じように、愛する人との一体化である。価値の尺度、世界の真実は恋人の意識のなかにある。だから、恋人に仕えるだけではまだ十分ではない。女は彼の目を通して見ようとする。彼が読む本を読み、彼の好む絵画や音楽を好み、彼と一緒に見る景色、彼の頭に浮かんだ考えにしか関心を示さない。彼の友情、彼の反感、彼の意見をわがものとする。
何か自問するとき、彼女が聞こうと努めるのは彼の答えだ。胸には彼がすでに吸った空気を吸い込みたい。彼の手から受け取らない果物や花には何の香りも味もない。彼女の場所の空間の感覚そのものがひっくり返される。
世界の中心は、彼がいる場所すべての道は彼の家から始まり、そこに通じている。彼の言葉を使い、身振りをまね、彼の癖、チックまで取り入れる。「私はヒースクリフだ」と『嵐が丘』[エミリィ・ブロンテの小説。キャサリンとヒースクリフは主人公]のキャサリンは言った。これは恋する女女すべての叫びである。彼女は愛する男のもう一つの姿、反映、分身である。彼女は彼なのだ。自分自身の世界は偶然性のなかに埋没するままにする。彼女が生きるのは愛する男の世界だから。
恋する女の至上の幸福は、自分が恋人の一部であったかのように彼と出会うことだ。彼が「私たち」というとき、彼女は彼と結合し、一体となる、彼女は彼の威信を分かち持ち、彼を通して他の人々に影響力をもつ。この「私たち」という含蓄のある言葉は何度くり返してもあきない。言い過ぎてしまうほどだ。
絶対的必然性である一つの存在、必然的目的に自分をプロジェし、必然というかたちで世界を自分に返す一つの存在、その存在に必要となって恋する女は責任放棄するなかで絶対の所有がいかに素晴らしいかを知る。この確信が彼女にこれほど高い喜びをあたえるのである。
彼女は神の座する栄光の座に高められたように感じる。完璧に秩序づけられた世界で永久に自分の場所が与えられるならば、二番目の地位でしかなくてもそれはどうでもよいことだ。愛し愛されているかぎりは、愛する男に必要とされるかぎりは、彼女は完全に正当化されるのである。
彼女は安らぎと幸福をかみしめる。信仰上のためらいに魂を悩ませる以前のアンディ騎士に寄り添っていた頃のアイセ嬢の運命、あるいはユゴーに影のごとく付き添うジュリエット・ドルエの運命はおそらくそういうものであった。
しかし、この栄光の至福が続くのは稀である。どんな男も神ではない。信仰に生きる女が神の不在に対して持つ関係はひとえに彼女の情熱にかかっている。だが、神ではない、神格化されただけの男は現にそこにいる存在だ。そこから、恋する女の苦悩が生まれる。最も一般的な恋する女の運命はジュリー・ド・レスビナスの言葉に集約される。
「人生の一瞬一瞬、愛しい人、私はあなたを愛し、苦しみ、待ち焦がれるのです」。たしかに、男にとっても、苦悩と恋愛は結びついている。しかし、彼らの苦しみは長くは続かないし、心身を苛むほどではない。バンジャマン・コンスタンはジュリエット・レカミエのせいで死まで考えたが、一年後には、立ち直っていた。スタンダールは何年ものあいだメチルドのことを悔やんだ。しかし、それは彼の人生を破滅させるというよりむしろそれをかぐわしいものにする後悔であった。
非本質的な物として受け入れ、全面的な依存を認めるかぎり、女は一つの地獄を作り出す。恋する女は誰もが、アンデルセンの描く、愛によって魚の尻尾を女の脚と交換し、燃える石炭と針の上を歩いた小さな人魚に自分の姿をなぞらえる。愛される男は無条件に必要とされ、愛する女の方は彼に必要とされないというのは本当ではない。ただ男は彼の崇拝に身を捧げる女を正当化できないし、また彼女に所有されるままになっていないという事なのだ。
本来的な恋愛は他者の偶然性を、つまり、その欠点、限界、もともと無償性を引き受けなければならない。それは救済ではなく、一つの人間関係と言えるだろう。それこそ誰の目にも一目瞭然な最初の錯覚である。「あの男はそんなに惚れるほどのやつじゃない」と。恋する女の周辺で囁かれる。
ジュリー・ド・レスビナスがギベール伯爵の青白い顔を描くとき、後世の人々は哀れみをもって微笑む。女にとって、自分の偶像の欠点、凡庸さに気づくのは狂おしいばかりの失望だ。『さすらいの女』、『私の修業時代』においてしばしば、コレットはこうした苦悶をほのめかしている。この幻滅は、親の威信が消えていくのを見る子供の幻滅よりもずっと残酷である。
なぜなら、自分の全てを捧げた男を選んだのは女自身であるからだ。選んだ男が心底愛するにふさわしくても、男の真実は世俗的である。最高の存在を前にひざまずく女が愛するのは彼その人ではない。彼女は生真面目な気質にまどわされて、価値を「脇に」除けておくこと、つまり、価値は人間存在そのものに由来することを認めることができない。
自己欺瞞から自分と自分が崇拝するおとことのあいだに障壁を立て、男をほめそやし、ひれ伏す。だが、彼女は男が世界のなかで危険にさらされ、彼の企てや目的が彼自身のように危うく弱いものであるのに気づかない。となれば、彼にとって彼女は友人ではない。
彼女は彼を信念、《真実》とみなして、彼の自由がためらいと苦しみであることを見抜けない。このように恋人に人間の尺度を適用するのを拒む態度から女の矛盾の多くは説明がつく、女は恋人に特別待遇を要求し、男はそれを与える、彼は寛大で、お金持ちで、素晴らしい。彼は王であり、神だ。
つづく
十二章V 彼女が彼を拒否するとしたら、彼はケチで、卑小で、冷酷で、悪魔か獣だ
キーワード、男のエゴィズム、恋する女は恋人の欲望を満足させる、精液、彼に奉仕するのは彼女の喜びである、自己放棄、病的妄想、