精神科医によって報告された膨大な数の症例のなかから、以上に挙げるのは、極めて典型的な一例で、フェルディエール(*4)にしたがって私が要約したものである。それは四八歳の女性、マリー・イヴォンヌで、彼女は次のような告白をしている。

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十一章U 恋愛妄想はさまざまな精神病のさなかに現れてくる

本表紙第二の性 U体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

その内容はつねに同一である。主体は、絶対的価値を備えた男の愛によって照らされ称賛される。女は男に何も期待していなかったにもかかわらず、彼が突然彼女の魅力に魅惑されたのである。そして、彼は遠回しに、だが有無を言わせぬ調子で自分の思いを彼女に打ち明ける。

このような関係はときには観念的なものにとどまるが、ときには性的な形態を帯びる。しかし、この関係の本質的特徴は、権力をもち栄光に満ちた半神獣が、自分が愛される以上に相手を愛すること、また奇妙であいまいな振る舞いを通して自分の情熱をしめすことである。

精神科医によって報告された膨大な数の症例のなかから、以上に挙げるのは、極めて典型的な一例で、フェルディエール(*4)にしたがって私が要約したものである。それは四八歳の女性、マリー・イヴォンヌで、彼女は次のような告白をしている。

元国会議員であり政務次官であった、弁護士会および弁護士会評議会会員のアシル先生のことです。彼とは一九二〇年五月一二日に知り合いになりました。その前日、私は裁判所で彼に会おうとしました。遠くから彼の頑健な体躯に注目したことはありましたが、彼の顔は知りませんでした。私は背筋がぞっとしました・・・・そうです、彼と私には恋愛感情、相思相愛の感情があるのです。

目と目とが、視線と視線が交わされました。初めて彼を見た時からすでに彼にぞっこんになってしまいました。彼も同じです・・・・とにかく、彼が最初に愛の告白をしました。それは一九二二年の初めの頃でした。彼はいつでも私を客間に迎えてくれました。

ある日は、息子さんを追い出しさえしました・・・・ある日・・・・彼は立ち上がると、会話を続けながら私の方へ来ました。私はすぐに、それは感情のほとばしりだとわかりました・・・・彼は私に深遠な言葉を語りました。さまざまに心を尽くして、相思相愛の感情があることを解からせてくれました。

別の時には、つねに彼の事務所でのことですが、「あなたなのです、あなた一人なのです、あなた以外の人ではないのです、マダム、よくおわかりでしょう」と言いながら、私に近づいてきました。私はすっかり動転して、なんと答えたらよいのかわかりませんでした。

私はただ「先生。ありがとうございます」と言いました。また、別の時には、彼は事務所から通りまで私を送ってくれました。彼はついてきた男を追い払いさえしました。彼はエレベーターの中でその男に二〇スー渡して、「きみ、私を解放してくれたまえ。ご覧のとおり。ご婦人の連れがいるんだよ」と言いました。

これらのことはすべて、私に付き添って、二人だけになるためにしたことでした。彼はいつも私の両手を強く握りました。最初の弁論の最中に、彼は自分が独身であることをわからせるために巧みに口上を並べました。

彼は私の家の中庭に歌い手をよこし、自分の愛を私にわからせようとしました・・・・彼は私の部屋の窓の下から見つめていました。私は彼が作った恋愛詩を歌って聞かせできるでしょう・・・・彼は、私の家の扉の前で民謡を歌い続けました・・・・私は愚かでした。彼がこうして言い寄ってきたすべてに応えるべきだったのでしょう。

私はアシル先生の気持ちを冷ましてしまいました・・・・そのとき、彼は、私が彼を拒んでいるのだと思い、行動しました。率直に話してくれたらよかったのですが、彼は復讐しました。アシル先生は、私がBにある感情を抱いていると思っていました・・・・そして、彼は嫉妬深かったのです・・・・彼は私の写真を使って呪いをかけて私を苦しめました。

これが少なくとも、私が今年、本や辞典から学んだお蔭で発見したことです。彼はこの写真をたっぷり苦しめました。すべてはそこから来ているのです・・・・

このような妄想はたしかに、容易に迫害妄想に変化する。そして、このプロセスは正常な症例においても見られる。ナルシシストの女は、他人が自分ら熱心な関心を持っていないということを認めることができない。自分が熱愛されていないという明白な証拠を得ると、すぐに嫌われていると推測する。彼女は、批判はすべて嫉妬や恨みのせいだとする。

彼女の失敗は邪悪な陰謀の結果である。そのために、そうした失敗は、自分は重要視されているのだという彼女の考えを強固にすることになる。彼女は簡単に、誇大妄想あるいはそのまったく逆のかたちである迫害妄想に移行する。自分の世界の中心にいて、自分の世界以外の世界を知らない彼女は、いまや世界の絶対的中心なのである。

しかし、現実生活を犠牲にするかたちで、ナルシシストの喜劇は展開する。想像上の観客の称賛を乞うのだ。自分の自我の餌食になっている女は、具体的な世界に働きかける手がかりをすべて失い、他人とのどんな現実的な関係も作り上げようという気がない。

スタール夫人は、「彼女の称美者たち」がその夜手帳に書き留めるであろう揶揄(やゆ)を予感したなら、『フエードル』をあれほど喜んで朗読しなかっただろう。だが、ナルシシストの女は、自分が見せているのとは別な風に見られることもあるというのを認めようとしない。

これが、夢中になって自分を見つめているにもかかわらず、ナルシシストの女がうまく自分を判断できない理由であり、また、実にたやすく奇行に走る理由でもある。彼女はもはや人の言う事を聞かず、話す。そして、話すときには、自分の役のセリフを喋りまくるのである。
マリー・バシュキルツェフは書いている。

それは私を楽しませてくれます。私は彼氏と話をしません。私は演じているのです。そして、良い観客の前にいると感じると、私は、子どもっぽく風変わりな抑揚と演技によって素晴らしくなるのです。

彼女は、あまりにも自分を見つめすぎるので、他のものは何も見えない。他人については、自分の認めることだけしか理解しない。自分の場合や自分の身の上と同じだと見なせないものは、彼女には関係ないものである。

彼女は様々な経験を積むのを好む。酩酊、恋する女の苦悩、母になる純粋な喜び、友情、孤独、涙、笑いを体験したいと思う。しかし、自分を捧げることが決してできないので、彼女の感情と感動は作りものである。たぶん、イサドラ・ダンカンは自分の子ともたちの死には本当の涙を流すだろう。

だが、芝居がかった大袈裟な仕草で子どもたちの遺骨を海に投げるときには、彼女はまさに女優でしかない。また、『わが生涯』の次の節を読む人は不愉快にならざるを得ない。彼女はそこで自分の心痛を思い起こしている。

私は自分の体の温もりを感じています。のばした脚のうえに、柔らかい乳房のうえに、けっしてじっとしていることなく絶えず穏やかに波打っている両腕のうえに、視線を落とし、眺めます。そして、私にはわかっているのです。この十二年来自分に疲れ切っていて、この胸には尽きることのない苦悩が閉じ込められ、この両腕には悲しみが刻まれ、独りのときには、この目がめったに乾くことがないことが。

自我を崇拝することで、思春期の娘は不安な未来に立ち向かう勇気をえることができる。しかし、それは速やかに乗り越えられるべき一つの段階である。そうしなければ、未来は閉じられる。恋人をカップルの内在性のなかに閉じ込める恋をする女は、自分とともに彼を死に捧げる。想像上の分身のなかに自己を疎外しているナルシシストの女は、自分を無にする。

彼女の記憶は擬固し、行動は型にはまり、言葉をくどくど繰り返し、少しずつ中身が空辣になっていく身振りを繰り返す。こういうわけで、多くの「日記」や「女の自伝」は貧しい印象を与えるのだ。自分を称賛するのに夢中な女は、何もせず、自分は何者にもせず、無を称賛するのである。

彼女の不幸は、自己欺瞞のせいだとはいえ、この無を体験することである。ある個人とその分身のあいだには実質的な関係はありえない。なぜなら、この分身は存在しないからである。ナルシシストの女は徹底的な敗北を喫する。彼女は自分を完全なものとして把握することができず、自分が即自―対自在性であるという幻想を抱き続けることができない。

彼女は孤独を、すべての人のそれと同じように、偶然的なものとしてまた見捨てられた状態として体験する。それゆえ、――回心しないかぎり――彼女は絶えず群衆へ、噂へ、他人へと逃避せざるを得ない。自分を最高の目的として選択することで、自分は従属を免れられると信じるのは重大な誤りであろう。

というのも逆に、彼女は極めて窮屈な隷属に身を捧げるからである。彼女は、自分の自由を足場にするのではなく、自我を客体にし、世界のなかでまた他人の意識のなかでそれを危険にさらすのだ。彼女の身体と顔は傷つきやすい一つの肉体であり、時がそれらを損なうだけではない。偶像を飾り立て、そのために台座を据え、一つの寺院を建てることは、実際には多くの犠牲を要する企てでもあるのだ。

すでに見たように、自分の姿を不滅の大理石に刻みつけるために、マリー・バシュキルツェフは金目当ての結婚に同意した。男の財産は、イサドラ・ダンカンやセシル・ソレルが自分の王座の足元に置いた、金、香、没薬(もつやく)の代金を支払ってきた。女にとって運命を具現するのは男である。だから通常、女が自分の成功を評価するのは、自分の力に服従する男の数と質によってである。

しかし、ここで再び相互性が働く。夫を亡くし、「喪のヴェール」をかぶる女は男を道具にしようと試みるが、そうすることによって首尾よく男から解放されるわけではない。なぜなら、男を服従させるためには、男に気に入られなければならないからだ。

アメリカの女は、偶像になりたいと望んで、彼女の崇拝者の奴隷となり、男を通してだけ、男のためにだけ、装い、生き、呼吸する。本当は、ナルシシストの女も高級娼婦と同じように依存しているのだ。もし彼女が特定の男の支配を免れるとすれば、それは世論の圧力を受け入れることによってである。

彼女を他人に縛り付けるこの絆には、交換の相互性は含まれない。もし彼女が活動をとおして他者の自由を目的として認めているならば、彼女はナルシシストであることを辞めるだろう。彼女の態度が矛盾しているのは、彼女には自分だけかが重要であるにもかかわらず、自分が評価を完全に否認している人々によってより高い評価を与えられたいと思っている事である。

他人の賛同は、情け容赦のない、謎めいた、気まぐれな権力であり、魔法によってそれを巧みに引き寄せよとしなければならない。ナルシシストの女は、表面的には傲慢だが、自分が脅されているのを知っているから、不安で、傷つきやすく、怒りっぽく、絶えず様子をうかがっている。彼女の虚栄心が満たされることはけっしてない。歳をとればとるほど、不安に駆られて称賛と成功を求め、周囲の人に陰謀の嫌疑をかける。

彼女は、取り乱し、強迫観念に取りつかれて、自己欺瞞の夜に沈み、しばしば最後には自分の周囲に偏執狂的妄想を築きあげる。「自らの命を救わんと欲する者は、それを失うであろう」という言葉がとりわけ当てはまるのが、ナルシシストの女なのである。
つづく 第十二章 恋する女
キーワード、恋する女、男たちは自分の価値、男の価値は肉体力、洗練さ、富、教養、知性、権威、社会的地位、恋は幻想、恋が肉体的抱擁から生まれる、エロチシズム、ナルシシズム、