第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳
ギリシア時代から現代まで、女に浴びせられる非難にはこれほど多くの共通点があるのか、今ではよくわかる。女の条件は、表面的には変化してきたにしても、ずっと同じままなのであり、この条件が女の「性格」と呼ばれているものを決定しているのだ。女は「内在のなかにころがっていて」ひねくれていて、用心深くて、けちくさく、真実や正確さの感覚がなく、道徳性に欠け、いやしい功利心があって、噓つきで、芝居がうまくて、利にさとい・・・・こうした主張にはすべて真実味がある。
ただし、このように非難される女の振る舞いはけっして女性ホルモンによって植え付けられるのでもなければ、女の脳の区分のなかで予め定められているのでもない。女の振る舞いが欠陥のかたちをとっているのは、女の状況のせいなのだ。こうした観点に立って、私はこれからの女の状況を総合的に見ていくつもりである。
やむをえず繰り返しになるところもあるが、女の経済的、社会的、歴史的な条件づけの総体のなかに、「永遠の女性的なもの」を捉える事ができるだろう。
人は「女の世界」を男の世界に対立させることが時としてあるが、女が自律的で、閉鎖的な社会を作ったことは決してなかったということをもう一度強調しておかなければならない。女は男が支配する集団に組み込まれ、そこで従属的な場所を占めている。女たちは単に同類として機械的につながりによって結びついているに過ぎない。
女たちのあいだには統一された共同体すべての成立基盤となる有機的なつながりはないのだ。女たちはいつも――エレウシスの秘教[古代ギリシアのデメテル女神信仰]の時代にも、また今日もクラブやサロンや慈善手芸所などで見られるように――一つの「反・世界」を確立するために結束してきた。しかしそれを打ち建てるのは、やはり男の世界の内部でのことである。
ここから女の状況の逆説が生まれる。つまり、女は男の世界に属していると同時に、男の世界に異議をとなえる領域にも属している。女の領域に閉じこもっていながらも、男の世界にも場を与えられているので、女たちはどこへ行っても安心して身を落ち着けることができない。
女の従順さの裏にはいつも拒否が込められ、拒否の裏には受諾が込められている。この点で、女の態度は若い娘の態度によく似ている。しかしこうした態度は、大人の女にとっては、若い娘よりも難しい。大人の女は、象徴をとおして自分の人生をただ夢見ていればいいのではなく、人生を生きなければならないからだ。
世界は全体として男のものであることを女自身も認めている。この世界を作り上げ、管理し、いまもなお支配しているのは男たちだ。女の方は、自分がこの世界について責任を負っているとは思っていない。女が劣等者で従属者なのはわかりきったことなのだ。女は暴力の訓練を積んでいないし、集団の他の成員に向かって主体として姿を現わしたことが一度もない。肉体や住居のなかに閉じ込められたまま、目的と価値を決定する人間の顔をした神々の前で、自分を受け身の存在と捉えている。この意味では、女に「永遠の子ども」のままでいるように仕向けるスローガンには真実がある。
人々は、労働者や黒人奴隷や植民地の原住民に恐れをいだいていなかった頃は、やはり彼らのことを「大きな子ども」と言っていた。つまり、他の人間たちが示す真理や法律を彼らは文句を言わずに受け入れるべきである、というものなのだ。女の取り分は服従と尊敬である。
女は自分を取り巻いているこの現実世界への手がかりを持っていないし、もてるとかんがえてもいない。現実は女の目には不透明な存在と映る。というのは、女は物質を支配できるようにする技術を習得していないからなのだ。女が格闘している相手は物質ではなく生命であるり、この生命は道具で操られるものではない。
人の生命の隠された法則を受け入れる以外ない。世界は、ハイデガー[一八八九-一九七六、ドイツの哲学者]が定義したように、意志と目的のあいだを仲介する「用具の総体」であるとは、女は思えない。それは、逆に、頑固で制御しがたい抵抗がある。世界では宿命に支配され、気まぐれな神秘に浸透されている。母の胎内で人間に変わる一塊の血の神秘、これはどんな数字でも方程式に置き換えられはしないし、どんな機械でも急がせたり遅らせたりはできない。
女は最も精巧な装置でも割ったり掛けたりはできない時間の抵抗を体験する。女はそれを、月のリズムしたがう肉体のうちに、年月がまず成熟させやがて腐食させる自分の肉体のうちに体験する。日常的には、料理が女に忍耐と受動性を教える。それは錬金術である。火や水に服従し、「砂糖が溶けるのを待ち」、パン生地が膨らみ、洗濯物がかわき、果実が熟するのを待たなければならない。
家事は技術的な活動に似ている。しかし、技術の因果律を女にわからせるには、そうした仕事はあまりに初歩的で単調すぎる。だいいち、こうした領域でさえも物は気まぐれだ。洗って「もとどおりになる」布もある。消えるシミもあれば頑固なシミもあり、ひとりで壊れてしまう物もあれば、植物のように芽を出すゴミもある。
女の思考様式を受け継いでいる。女は魔術を信じているのだ。
女の受動的なエロチシズムは、欲望が意志や攻撃ではなく、水脈占い師の振り子をゆらす引力に似たようなものであることを女に明かす。女の肉体が目の前にあるだけで男の性器は膨張し立つ。見えない水がハシバミの棒をふるわせないともかぎらないか。女は自分や電波や放射能や超能力に取り囲まれているように感じる。
テレパシーか占星術、放射線感応能力、メスマー[一七三四-一八一五、ドイツの医学者。動物磁気治療法をとなえる]のためらい、神智論[人間は神秘的霊智をそなえ、直接に神を見うるとする説]心霊術の動くテーブル、占い女、祈禱師を信じる。宗教のなかに、大ロウソクだとか奉納物といった原始的な迷信を持ち込む。聖人たちに古代の自然の精霊たちを見ようとする。
この聖人は旅人を守り、この聖女は産婦を守り、あの聖人は失くしたものを見つけてくれる、といったように、勿論、どんな超自然的な現象も女を驚かすことはない。悪魔祓いや祈禱をするが女のやり方なのだ。なんらかの結果を得ようとして、信頼のおける特定の儀式に従う。女がなぜ因習にこだわるのかもたやすく理解できる。時は、女にとっては新しさの次元をもたず、創造的な発現ではないのだ。
女は反復に捧げられているので、未来のなかに過去の写ししか見ない。言葉や表現を知っていれば時間を生殖能力と結びつけることができるが、この生殖そのものが月や季節のリズムに従っている。妊娠や開花の周期はそのたびに前の周期の繰り返しである。
こうした円運動における時の唯一の変転とは、暖慢な破壊だ。時は、顔を崩していくのと同じように、家具や衣類を傷める。生殖力は年月の流れによって少しずつ破壊されていく。女は容赦ない破壊力に信頼をおかないのだ。
女は、世界の様相を変えることのできる真の行動とはどのようなものか知らないだけでなく、広大で混沌とした星雲の真ん中にいるかのように、この世界の只中で途方に暮れている。女は男の理論を使うのが下手だ。スタンダールは「必要に迫られれば女も男と同じくらい巧みに男の理論を用いる」と指摘した。
しかし、この理論は女がほとんど利用する機会がない道具なのだ。三段論法はマヨネーズを上手に作るのにも、子どもを泣きやませるのにも役立たない。男の理論を女が経験する現実には適さないのだ。そして男の王国では、女は何もする訳ではないので、女の考えはどんなプロジェにも当てはまらず、夢想と区別がつかない。女は、有効性に欠けているので、真実の感覚をもてないのだ。
女が格闘しているのはイメージと言葉だけである。そのために、きわめて矛盾した主張もあっさり受け入れてしまう。いずれにしろ、自分の理解の範囲を超える領域の不可解を解明する気などほとんどない。自分に関しては、ひどく漠然とした知識で満足してしまう。党派、意見、場所、人間、事件を取り違える。女の頭のなかには奇妙な混沌状態である。
だが結局のところ、物事を明瞭に見ることは、女にかかわりのないことなのだ。女は男の権威を受け入れるように教えられた。だから、女は自分で批判したり、調べたり、判断するのをあきらめ、上層カーストに自分を委ねてしまう。男の世界が女には超越的な現実、絶対的なものと見えるのはそのためである。「男が神をつくり、女がそれを崇拝する」とフレーザー[一八五四-一九四一、イギリスの人類学者]は言っている。
男は自分たちが作り上げた偶像のまえに全面的な信念をもってひざまずくことはできない。しかし、女は道すがらそうした偉大な像に出会うと、それらが誰かの手で作られたものだとは思いもせずに、従順にぬかずく、とくに
女は、「秩序」や「法」が一人の指導者のなかに具現されているのを好む。どのオリンボスにも最高の唯一神がいる。威信ある男性的本質は一つの原型のなかに集められていなければならず、父や夫、恋人はそのぼんやりした反映にすぎない。女たちがこの偉大なトーテムに捧げる崇拝を性的なものだと言うのはいささか滑稽である。
実際は、それを前にしたときの女たちは、自己放棄と拝跪(はいき)という幼年時代の夢を完全に満足させているのだ。フランスでは、ブーランジェ[一八三七-九一、フランス第三共和政下の陸軍大臣。対独強硬策で人気を集め、反共主義運動の指導者にまつりあげられる]、ペタン、
ドゴール(*2)といった将軍たちはつねに、自分に賛同する女たちをもっていた。
最近『ユマニテ』紙[フランス共産党の機関紙]の女性記者たちがどれほど感激にペンをふるわせてチトー[旧ユーゴスラビアの元帥、大統領]とその立派な制服を描き出したかも記憶に新しい。将軍、独裁者――鷹の目つき、意志の強そうなあご――それは謹厳の世界が要求する天上の父、いっさいの価値の絶対的な保証者なのだ。女たちが男性世界の英雄や法に払う尊敬の念は、彼女たちの無能と無知から来ている。彼女たちはそれらを、判断によってではなく、信仰の表明によってそれを認めるのである。
信仰は、それが知識ではないところから、その狂信的な力を引き出す。信仰は盲目的で、情熱的で、頑固で、愚かしい。信仰が提起するものは、無条件で、理性に反し、歴史に反し、いっさいの反駁(はんばく)を寄せ付けないといったかたちで提起される。
こうした一途な尊敬の念は、場合に応じて二つのかたちをとる・つまり女が情熱的につき従うのは、ある時は法の内容であり、ある時は法の単なる空辣な形式なのだ。既成の社会秩序から利益を得ている特権的なエリートに属している女であれば、秩序が揺るがないことを望み、その非妥協性で際立っている。
男は他の制度や他の論理、他の法律を作れることを知っている。自分を
超越と捉えているので、歴史をも一つの生成と見なす。極め付きの保守主義者であっても、ある程度の進歩は避けがたく自分の行為や考えをそれに適応させなければならいことを知っている。だが女は、歴史に参加していないので、そうしたことの必要性がわからない。未来を警戒して、時をとめたがる。
父や兄弟や夫から差し出された偶像がうち壊されてしまうと、どのようにして天にふたたび偶像を住まわせたらいいのか、いくら考えても考えつかない。だから、それらの偶像を必死で守ろうとするのだ。アメリカの南北戦争のとき、南部連合のなかでも女ほど熱心な奴隷制度擁護論者はいなかった。
イギリスでは戦争の際、フランスでは、パリ・コミューンに対して、最もいきたっていたのは女だった。女たちは感情の激しさを誇示することによって、行動の欠如を埋め合わせようと努める。勝ったときは倒された敵にハイエナのように襲い掛かり、敗けたときはいっさいの和解を激しく拒絶する。女たちの考えは態度にすぎないので、とっくに時代遅れになっている主義主張を平然として守ろうとする。
一九一四年に正統王朝派になることもできるし、一九四九年に帝政派になることもできる。男は時に微笑みながら女たちを励ます。男は、自分がなるべく節度をもって表現している意見が狂信的なかたちで反映されるのを見るのが嬉しいのだ。しかしまた男は、自分の考えがそのように愚かしく頑固な様相をおびるのに苛立つこともある。
女がこのように断固として見えるのは、高度に組織化された文明や階級だけである。一般的には女の信仰は盲目的で、女が法律を尊重するのはそれが法律だからである。法律は変わっても、その威信を保つ。女の目には、権利を創り出すのは力であると映る。女が男に認めている諸権利は、男の力から生じるものであるからだ。
一つの集団が解体するとき、まず女たちが勝者の足元に身を投げ出すのはそのためだ。女たちは、いまあるものを受け入れる。女を性格づける特徴の一つは、あきらめである。
ポンペイ[古代ローマの都市。ベスビオ火山の噴火(七九年)で埋没、十九世紀後半に発掘される]の灰のなかから遺骸が発掘されたとき、男は天に立ち向かったり逃げようとしたりして、反抗の動作のまま硬直していたが、それに対し、女は体を曲げ、うつ伏せになって顔を地に向けていた。
女たちは、火山、警官、主人、男など、事物に対して自分が無力であることを知っている。「女は苦しむようにできている。それが人生・・・・どうしようもない」女たちは言う。このあきらめが、よく称賛される女の忍耐を生み出す。女は男よりもずっと肉体的苦痛に耐える。必要に迫れば毅然として勇気も出せる。
男のような攻撃的な大胆さがないかわりに、多くの女たちはその受け身の抵抗の穏やかな粘り強さで優る。夫より精力的に危機や貧困、不幸に立ち向かう。いくら気が流行ってもどうにもできない時間の流れを尊重する女は、自分の時間を惜しまない。なにかの企てに持ち前のおだやかな頑固さを発揮することもあれば、時としてめざましい成功を収めることもある。
「女の一念・・・・」と、ことわざで言っている。寛大な女の場合、あきらめは寛容のかたちをとる。彼女は、人間も物もあるがままのものでしかありえないと考えるで、すべてを許し、誰のことも非難しない。自尊心の強い女は、頑なな克己心をもったシャリエール夫人のように、こうした態度を尊大な美徳にしてしまいかねない。しかしまたそうした態度は、無益な慎重さを生み出しもする。女はいつも、破壊してまた新しく建設するよりも、保存し、修繕し、調整しようとする。
革命より妥協や和解の方を好むのだ。十九世紀に、労働者解放の努力がなされていたときに、女たちは最も大きな障害の一つとなっていた。一人のフロラ・トリスタン[作家、社会運動家。フランス・フェミニズム運動の先駆者]、一人のルイーズ・ミシェル[女性革命家。パリ・コミューンで活躍]に対して、いかに多くの主婦たちが臆病さにとり乱して夫に危険なことは絶対にしないように懇願したことか。彼女たちはストライキや失業や貧困を恐れただけではない。
反逆は間違ったことではないかと恐れたのだ。耐えるために耐える女たちが、冒険より習慣的な行動を好むのはよくわかる。街頭より家のなかでのささやかな幸福を自分のものにする方がたやすいのだ。女たちの運命は、はかない物の運命と一体になっている。物を失えば、すべてを失う事になるのだ。
自由な主体だけが時間を超えて自己を確立し、いっさいの破滅を防げることができる。この最高にして最後の手段が女には禁じられている。女が解放を信じないのは、何よりも、女がただの一度も自由を経験したことがないからである。世界は見えない運命に支配されていて、それに立ち向かうのは思い上がったことだと女には思えるのだ。
そんな危険な道に進むように強いられても、女は自分でそれを切り開いたことがない。熱意をもってそこに飛び込んでいかないのも無理はないのだ
(*3)。女に未来を開いてやれば、女はもう過去にしがみついてはいないだろう。具体的に行動を促して目標を指し示してやり、その目標のなかで女が自分を確認したら、女は男と同じくらい大胆で果敢になれるのだ
(*4)。
つづく
十章 Ⅱ 女の受動的なエロチシズム
キーワード、女の条件、女の経済的、社会的、歴史的な条件づけ、従属者、エロチシズム、真実の感覚、偶像、奴隷制度擁護論者、フェミニズム運動、