天にいる神は女に大臣よりもほんとの少し身近に感じられ、天地創造の神秘は発電所の神秘と結びつく。しかしとくに、女がこれほど簡単に宗教に身を投じるのは、宗教がある深い欲求を満たしてやってくるからなのだ

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十章 X 女は男の世界を前にして尊敬と信仰の態度をとる

本表紙第二の性 U体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

自由――女にとっても――に貢献した近代文明においては、宗教は束縛の道具としてよりも欺瞞の道として現れる。

人は女に、神の名において女の劣等性を受け入れるように求めるよりも、むしろ、神のお蔭で女は領主たる男と同等なのだと信じるように求める。不正を克服するのだと主張しつつ、反抗の誘惑そのものを消し去ってしまう。女は神に自分の内在を捧げるのだから。もう自分の超越を奪われることはない。魂の価値は天上においてのみ評価されるのであり、魂が地上で成し遂げたことによって評価されるのではない。

この地上には、ドストエフスキーの言葉によれば、雑事があるたけだ。靴を磨くのも橋を造るのも、同じようにむなしい。社会的な差別を超えて男女の平等は回復されている。というわけで、少女や若い娘は男の兄弟よりもずっと熱烈に信心に夢中になる。男の子には自分の超越を超越する神の視線は屈辱なのだ。

男の子は、こうした強い保護下にあると、いつまでも子どものままでいることになってしまう。これは、父親の存在によって脅えを感じている去勢よりももっと根本的な去勢である。それに対して「永遠の子ども」[=女]は、自分を天使たちの姉妹に変身させてくれるこの視線のなかに救いを見出す。その視線はペニスの特権を無効にしてしまうものなのだ。

心からの信仰は少女があらゆる劣等コンプレックスを避けるのに非常に役立つ。少女は男でも女でもなく、神の非造物なのだ。偉大な聖女たちの多くにまったく男性的な揺るぎなさがあるのはそのためである。聖女ブリジット、シエナの聖女カタリナなどは尊大にも世界を導こうという強い意志を示した。彼女たちは男のどの権威も認めなかった。カタリナは彼女の指導者たちをたいへん厳しく指導しさえした。

ジャンヌ・ダルクや聖女テレサは男もしのげない勇敢さで自分の道を歩んだ。協会は、神が女に男の保護から逃れることを決して許していないと注意している。協会は、[告解後に司祭が与える]罪の赦しの拒否や破門などの恐ろしい武器を男の手だけに託してある。自分の幻視に固執したジャンヌ・ダルクは火炙りにされた。

しかし、神の意志そのものによって男の掟に従わされても、女は神のなかに男たちの抵抗する確実な手段を見出す。男の理論は、さまざまな神秘によって疑いをもたれる。男たちの傲慢は罪悪になり、男たちの喧騒は愚かしいだけでなく、罪悪でさえある。なぜ神みずからが作った世界を作り直そうとするのか。女が捧げられている受け身の性は神聖化される。

炉端でロザリオをつまぐっている女は、自分の方が政治集会を駆け回っている夫より神のいる天に近いことを知っている。女の魂を救うには何もする必要はない。背かずに生きているだけでいいのだ。生命と精神の総合が成し遂げられる。つまり、母は肉体を生み出すだけじゃなく、魂を神に与えるのである。

これは原子のつまらない秘密をつきとめるより高尚な仕事だ。天の父と結託して、女は男に対して女であることの光栄を高らかに要求するのである。このように神が女の性一般の尊厳を回復させるだけでなく、個々の女は天上に身を隠して自分の支柱を見出すである。

人間の人格として女にはたいして重みはない。しかし、女が神に霊感の名において行動するや、その意志は神聖なものとなる。ギュイヨン夫人[一六四八-一七一七、静寂主義(キエチズム)を主張したフランスの神秘主義者思想家]はある尼僧の病気に関して「《お言葉》によって命令し、その同じ《お言葉》によって服従するとはどういうことなのか」を知ったと言っている。

このように信仰に凝り固まっている女は、自分の権威をへりくだった服従で偽装する。子どもを育て、修道院を運営し、慈善事業を企てる女は、まさに超自然的な手の中の一個の従順な道具である。こういう女に服従しないのは、神自身を侮辱することだ。たしかに男たちもこうした後ろ盾を侮っているわけではない。

しかし、男たちは同じように後ろ盾を要求する同類たちと張り合っているので、そうした後ろ盾はあてにできないのだ。闘争とは結局のところ人間的なレベルで解決されるのである。女は、生来すでに自分に従属している者たちの目に、また自分自身の目に、自分の権威を絶対的に正当化しようとして、神の意志を引き合いに出す。

こうした援助が女に有用なのは、女がとくに自分自身との関係で頭がいっぱいだからである。――こういう関係が他人にかかわる場合でもそうだ。至高の沈黙が掟の力を持ちうるのは、こうしたまったく内面的な葛藤においてのみである。実際、女は自分の欲望を満足させるのに宗教を口実にする。

不感症でサディストである女は、肉欲を断ち、犠牲者のふりをし、自分のまわりの生命の発露をすべて殺して抑えつけることによって、自分を聖化する。自分を傷つけ、無に帰して、選ばれた者たちの位置を獲得する。夫や子どもから地上の幸福をすべて奪って苦しめても、天国には彼らの特等席を用意してある。

マルグリッド・コルトンヌは、「罪を犯した自分を罰するために」、ヘマをした自分の子どもを虐待したと、彼女の敬虔な伝記作者たちは言っている。彼女は通りがかりの乞食みんなに施した後でなければ子どもに食べ物を与えなかった。すでに見たが、望まれずに生まれた子を憎むのはよくあることだ。高潔な怒りに任せてそれが出来るのはもっけの幸いである。

一方では、そんなに道徳的でなくて神と気楽に折り合える女もいる。告解後に司祭が与える罪の赦しによっていずれ罪にから清められるという確信が、信心深い女に踏ん切りをつけることがよくある。禁欲主義を選ぼうと、快楽の追及を選ぼうとも、また自尊心を選ぼうと卑下を選ぼうとも、自分の救済へのきがかりが、何にもまして好きな快楽、すなわち自分に関心をもつことに打ち込むよう女に励ますのである。

自分の心の動きを聞き、肉体の戦慄をうかがっている。妊娠している女が胎内に胎児を宿しているように、自分の内にも恩寵(おんちょう)が宿っているので、そうした行為は正当化される。自分をやさしく用心深く検討するだけでなく、指導者にも自分のことを話す。昔は、公衆の面前で告白する陶酔を味わう事も出来た。

マルグリット・ド・コルトンヌは虚栄心の働いた自分を罰するために自分の家のテラスに登って、出産するときの女のような叫び声を上げ始めたという――「起きなさい。コルトンヌの住民たちよ。起きて、ろうそくとカンテラを持って外に出て、罪の女の告白を聞きなさい」。彼女は自分の罪をすべて教えてあげて星に向かって自分の惨めさを嘆いた。このように喚きながら身を低くすることによって、ナルシストの女に多くの例が見られる露出狂的な欲求を満足させていのだ。

 宗教は世界の秩序を確かなものにし、性のない天により良い未来への希望を託すことで、あきらめを正当化する。女が今までもなお協会の握っている非常に強い切り札の一つであるのはそのためだ。協会が、女の解放を容易にしそうな措置にはすべて強く反対するのも、そのせいである。女には宗教が必要である。ということは、宗教を永続させるには女が、「ほんとうの女」が必要なのだ。

ここにいたって、女の「性格」の全体像が見えてきた。すなわち、女の確信、価値、道徳、趣味、行動は、女の状況によって説明されるものなのだ。女が超越するのを断たれているという事実は、ヒロイズム、反抗、解脱、創造など、最も気高い人間的な態度に女が近づくのを通常禁じているのである。

しかし、男の場合でもこうした態度はあまり見受けられない。女と同じように、中間の領域、非本質的な中ぐらいのものの領域に閉じ込められている男もたくさんいる。労働者は革命の意志を表わす政治的行動によってそのような領域から脱出する。

だが、まさに「中流」と呼ばれる階級の男たちは、故意にそうした領域安住している。女と同じように日々の努めに捧げられ、既成の価値のなかに疎外され、世論を尊重し、地上には漠然とした快適さしか求めない勤め人、商人、官僚などは、その妻より優れたころをもっているわけではない。料理や洗濯をし、所帯を切り盛りし、子どもを育てる妻の方が、命令に隷属している男より多くの進取の精神や独立心を示している。

男は一日中、上役に服従し、取り外し式のカラーをつけ、社会的地位を確保しなければならない。女は部屋着で家の中をうろついたり、歌ったり、近所の女と笑ったりできる。女は思うままにふるまい、ちょっとした危険を冒したり、効果的になんらかの結果を出そうとする。

女はその夫の慣習や外観には生きていないのだ。カフカが――他の何にもまして――描いた官僚の世界、あの儀式と、意味のない身振りと、目的のない行動の世界は、主として男のものである。女はもっと現実に食い込んでいる。

男が数字を並べたり、イワシの缶詰を金銭に替えるときには、抽象的なもの以外のなにものも把握していない。揺り籠で満ちたりている幼児、白い下着、焼肉の方が手で確かめられる財産である。だか、まさにこうした目的を具体的に追及するなかでそれらの偶然性を――また相関的に自分自身の偶然性を――感じるので、女がそうしたもののなかに自分を疎外してしまわないことが多いのだ。

女は自由なままだ。男の企ては、投企(フロジェ)であると同時に逃走である。男は自分の経験や人前での態度でもっと自分を消耗させる。男は偉そうにしたり、真面目ぶりたがる。女は男の論理と道徳を疑っているので、そんな罠にはかからない。まさに女のなかのこうした点を、スタンダールは大いに評価したのだった。女は自分の身分のあいまいさを自尊心のなかに逃げて避けたりしない。

人間の尊厳という仮面の後ろに隠れたりしない。女は自分の筋の通らない考え、感動、自発的な反応を男より素直に発見する。主君の忠実な半身としてではなく、自分自身として話すかぎりのことではあるが、妻の話の方が夫の話より退屈ではないのはその為だ。男は、いわゆる一般的な考え、つまり自分の読む新聞記者や専門書のなかで見つかる言葉や決まり文句を出まかせにしゃべる。

女は、限られてはいるが、具体的な経験をさらけだす。よく言われている「女らしい感受性」には、神話と芝居が少しずつ含まれている。とはいえ、女の方が男より自分自身や世界について注意深いことも事実である。性的には、女は過酷な、男性的環境条件のなかに生きている。その代償として、女は「きれいなもの」好む。

ここから女の媚びるような態度が生まれるのだが、また繊細な感覚も生まれる。女の領域は限られているので、女の手に届く対象は慎重なものに思えるのだ。その対象を概念や企画のなかに閉じ込めてしまわないで、女はその豊かさを明かす。女の逃避願望は、お祭り好きに表されている。花束、お菓子、立派に用意された食卓の無償性にうっとりし、自分の暇の空虚を気前のいい贈り物に変えて楽しむ。

笑い、歌、装身具、骨董品を愛する女は、通りの光景、空の光景など、自分のまわりで動いているものは何でもすぐに受け入れようとしている。招待や外出は新しい領域を女に開く。男はこうした楽しみに参加するのをたいがい断る。男が家に入ってくると陽気な声はやみ、家庭の女たちは男から期待されている、物憂げて、慎ましやかな態度になる。

孤独や別離のただなかから、女は自分の生活の個別性の意味を引き出す。過去や死の時の流れについては、女は男より内面的な体験をしているからだ。女は地上ではその唯一の運命しか持たないことを知っているので、自分の心と肉体の出来事に関心をいだく。また、女は受け身であるために、どっぷりとつかっている現実を、野心とか職業に没頭する人間よりも情熱的に、悲壮に耐え忍ぶ。

女には自分の感動に身を委ね、自分の感覚を研究し、その意味を引き出す暇と嗜好がある。女の想像力がむなしい夢想のうちに消えてしまわなければ、それは共感となる。女は他人をその個別性のなかで理解し、自分のうちにその人を再創造しようと試みる。夫や恋人とは、ほんとうに同一化することができる。男には真似のできないようなやり方で、相手の企てや心配事を自分のものにする。

女は世界全体に自分の注意を行き届かせる。女には世界が謎のように思える。一人ひとりの人間、一つの物がその謎に答えてくれそうだ。女は貪るように問いかける。年を取ると、その裏切られた期待はしばしば味のある皮肉や冷笑的態度に変わる。男のまやかしは認めず、男か打ち建てた威圧的な建造物の偶然的でも愚かしく、根拠のない裏側が見て取れる。

女の依存性のせいで女は超然とした態度を取る事ができないが、時には女は自分に課された献身のなかから真の寛大さを汲みだすこともある。夫のために、恋人のため、子どものため、女は自分を忘れ、完全に捧げ物、贈り物となる。

女は男社会にうまく適応できないため、しばしば自分で自分の行動を考え出さなければならない。女は既成のやり方や紋切り型には男ほど満足できないのだ。やる気のある女なら、夫の偉そうな確信よりも、もっと本来性に近い不安をもっているものだ。

しかし女が男に対してこうした優越性をもつには、女に差し出されている欺瞞を押しのけるという条件が必要である。上層階級の女は主人が確保してくれる利益を利用することに執着しているので、すでに見たように、大ブルジョア階級の女や貴族の女はいつも夫よりずっと頑固に階級の利益を守ってきた。

人間である自律性をすべて夫の為に犠牲にするのもためらわないほどだ。彼女たちは自分の全ての考え、批判力、自発的な心の躍動を抑えつけてしまう。正しいと認められた意見をオウムのように繰り返し、男の法典が押し付ける理想と一体化し、心や顔にも、誠実さはことごとく死んでしまっている。

家事をする女は、自分の仕事や子子どもの世話のなかに自立を見出

そこから、限られてはいるが、具体的な経験を汲み取る。「奉仕されている」女はもはや世界になんの手がかりももたず、夢と抽象のなかに、空虚のなかに生きている。彼女は自分でひけらかしている考えがどんな程度のものなのかがわからない。

出まかせにいう言葉は、すでに口の中でまったく意味を失ってしまっている。金融家、実業家、時には将軍でさえも、疲れ仕事や心配事を引き受け、危険を冒す。彼らは自分たちの特権を不公正な取引で買っているのだから、少なくとも体をはって支払っていて。妻たちは受け取るだけ受け取って、何も与えず、何もせず、それだけに盲目的な信念で時効にかかることのない自分の権利を信じている。

そうした女たちの空虚な傲慢さ、徹底的な無能、頑固な無知が、彼女たちを、人類がこれまでに生み出した最も無益で、無価値な存在にしているのだ。だから、「女」一般を語るのは、永遠の「男」を語るのと同じように無意味なのだ。女は男より優れているか、劣っているか、同等かを決めようとする比較論がなぜすべて無駄なのかもこれでわかる。男と女の状況は根底から違うのだ。

状況そのものを対照するなら、男の方が無限に好ましいのは明らかである。つまり、男は世界のなかに自分の自由をプロジェする具体的な可能性をずっと多くもっている。その結果、必然的に、男の成果の方が女の成果よりはるかに優ることになる。女にはなすことがほとんど禁じられているのだから。だが、男と女のそれぞれの限界内での自由の使い方を対照するのは、もともと意味のない試みである。

男も女もまさに自由を自由に行使するからである。欺瞞の罠や謹厳さのまやかしが、様々な形をとって、男をも女をもうかがっている。自由は一人ひとりが完全なかたちでもっているものである。ただ、女の場合、自由は抽象的で空虚なままなので、反抗することでしか本来的に自分を引き受けることができない。反抗こそは、なにも建設する可能性のない者たちに開かれた唯一の道なのだ。

そのような者たちは自分の状況の限界を拒否して、未来への道を開くように努めなければならない。あきらめは責任放棄と逃避でしかない。女にとっては、自分の解放に努力を傾ける以外に、どんな出口もないのだ。

この解放は集団でしかできないだろうし、また、なによりも、女の条件の経済的発展が完全に行われることが必要とされる。ところが、自分一人で、自分の個人的な救済を実現しようと努力する女が過去にも多くいたし、今もいる。彼女たちは自分の実存を自分の内在性のただなかで正当化しようと試みる。つまり、内在のなかで超越を実現しようと試みる。

それは自由を奪われた女が牢獄を栄光の天に、隷属状態を至高の自由に変えようとする究極の――時に滑稽な、しばしば悲壮な――努力である。こうした努力を私たちは、ナルシシストの女、恋する女、神秘的信仰に生きる女のなかに見出すのである。
つづく 第三部 自分を正当化する女たち
つづく 第十一章 ナルシシのスト女
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