瀬戸内寂聴・瀬尾まなほ
いまでもエッセイの連載も
持っている瀬尾さん。
“書くこと”の楽しさ、大変さについて
大先輩である寂聴さんに尋ねます――。
〆書いて生きたい
「先生に初めてほめられました」
まなほ ずっとお伺いしたかったのですが、先生からご覧になって、私の文章は以前と比べて少しは上達していますか?
寂聴 まあ、上達はしていないわね。昔からいまくらいのレベルがありましたから。
まなほ でも先生、私が共同通信社で連載している「まなほの寂庵日記」を読んで、
「すごくよくなった、このまとめ方とかまるでプロみたいだよ」
と、褒めてくださったこともあったじゃないですか。
寂聴 そうね、あのエッセイに関してはとても素直に書いてあって、私が手を入れたりすることはもう全くない。読みやすくて、スラスラ読めるというのは、素晴らしいのよ。
まなほ 何を書くか決めるまでは、すごく悩んで時間がかかるのですけど‥‥。
でも書くことが決まったら、パソコンで文章を打つのは結構早いんです。先生が法話をされている最中の30分くらいで書き上げたこともあるんですよ。
寂庵 この文芸誌の『群像』(講談社)にもエッセイが載ったしね(*’18年5月号「モナへの手紙」として掲載)。
これは本当にすごいことなのよ。載せてもらいたくてもなかなか載せてもらえない作家もいっぱいいるんだから。そんな雑誌を怖がらず、どこにでも書くところも、まなほらしくていいわね。
まなほ はい。それって褒め言葉なんですよね(笑)。
でも『群像』に載ったのは、先生の小説『死に支度』や『いのち』に登場するモナのモデルが私だったらで、”おまけ”みたいなものでしたから。でも、私よりも知り合いたちの方が驚いていました。
寂聴 若い人は文芸誌のことをあまり知らないからね。この前、寂庵に来た若い編集者も『群像』のことを知らなくてびっくりしました。
まなほ 実は私も以前は”先生が連載している雑誌””いつも締め切りに間に合わなさそうで、私がハラハラしている雑誌”ぐらいの知識でした(笑)。
寂聴 谷崎潤一郎の『細雪(ささめゆき)』のことも”細いゆき”とか言っていたしね。
まなほ 「先生、”ほそゆき”って面白いの? “こまゆき”でしたっけ?」って聞いちゃいました(笑)。
それにしても、いまこうやって文章を書くようになったのは、みんな先生のおかげです。私の書いた先生への手紙を、『死に支度』にも使ってくださいましたし、「文章が素直で気取ってなくていい」と、褒めて下さいました。
手紙なんて評価の対象になるものだと思っていませんでしたし、褒められるのも初めてでしたので嬉しかったです。
寂聴 まなほは、よく私に手紙を書いていたね。長いときは便せんに5枚なんてときもあったし、はがきサイズで短いときもあった。
まなほ あるときから、あまり手紙は書かなくなりましたね。誕生日とか特別な日に書くぐらいで。
寂聴 もう忙しくて、そんな暇がないじゃない?
まなほ 昔はどうしてもお伝えしたいことを手紙にまとめていたのですが、いまはいつも密に喋っているので、私の気持ちを理解してもらえているという安心感があるんですよ。
何かあると先生の部屋に行って、ベッドに座って、いろいろ話すこともできますし。
寂聴 あなたがだんだん近寄ってくると、暴力を振るわれるかもしれないと危険を察知して、「もう向こうへ行きなさい!」とか、追っ払うこともある(笑)。
まなほ 何ですか、それは(笑)。
寂聴 そうね、いつでも話せるし、私へ手紙を書く暇があったら早く自分の原稿を書いた方がいい。
権利を勝ち取るために闘った女性たち
寂聴 8年前に寂庵に来た時は、私の本を1冊も読んでいなかったけど、それから何か読んだって言っていたわね。
まなほ はい。もう10冊以上読んでいます。
寂聴 すごい! どの作品が面白かった?
まなほ 『美は乱調にあり』(岩波現代文庫)がいちばん好きですね。
伊藤野枝(*作家・婦人解放運動家)や雑誌『青鞜(せいとう)』ことを知って、女性の権利や自由を得るために闘った女性たちの逞しさに頭が下がりました。
私が生きている時代は、女性も選挙権を持っていますし、職業を選択する自由もあります。
寂聴 でも、昔はそうでなかったの。
まなほ そうです、自分の権利を当たり前だと思って生きていてはダメなんだと気がつくことができました。伊藤野枝は憲兵に連れ去られて、殺されてしまう訳ですが、その激しい生涯にも驚きました。
この人たちがいたから、いまの私たちが男の人と同じように、居酒屋で生ビールを飲んで女子会とかができているのかと思うと、なんだか不思議な感じです。
寂聴 ずいぶん成長したのね(笑)。
まなほ またそうやってからかう! 先生のおかげで、大きな目線で世の中を見ることを教わったんです。
先生が政府や原発に対して、「おかしい」と思う事に声を上げたり、デモに参加したりしているのも、「権利を持っていなかった時代」を知っているからだと気づいたんです。先生と出会わなかったら、きっと自分の尺度だけで生きていたと思います。
寂聴 そうね、私が女が自由になるようにと思って小説を書いてきたの。私が若いときは、結婚するまで処女でいなければいけないとか、結婚後は生涯1人の人を愛するとか、女が自分で自分の人生を考えて生きる事なんてできなかったのよ。まなほは、そんなにしっかり読んでくれたのに、私に感想を言ったりとか、質問したりとかはあまりしないのね。
まなほ 『美は乱調にあり』と続編の『諧調は偽りなり』(岩波現代文庫)のことは、先生が多くの方と対談なさっていて、私はいつもそれを横で全部聞いているので、あえて自分が質問することがなかったのです。
寂聴 私も「これを読みなさい」って、あなたに言ったことはないしね。世の中に本はいくらでもあるんだから読みたいものを読めばいい。そのうち好きな作家もどんどん出てくる、だから「これ読んでみたら」なんて言わないの。
まなほ そうですよね。先生が何も言わないから、逆にいろいろ読んでみたくなるのかもしれません。
先生の連作短編集『夏の終わり』(新潮文庫)も面白かったです。『花冷え』の中の、嫁いだ家を飛び出した知子が、家出の原因になった恋人に幻滅して、
「こんな生活とはちがう。こんなはずじゃない」と、自分に悪態をついて、犬のように哭きながら「成長したいのに、成長したのに」と、自分に言葉をぶつけている場面が好きです。
私はいつも強くなりたいと、思っているから。
寂聴 昔の作品が多いのね。
まなほ 最近のものではやっぱり『いのち』が好きです。
『いのち』は、大庭みな子さんと河野多恵子さんのエピソードを中心にして話が進行していますから、読む人も限られて来るんじゃないかかと思っていたんですけど、読み進むうちに、私にはあの2人が主人公という感じではなくなりました。では主人公は誰なのかと言えば、それは先生自身なんですからね。
先生はこれまで出会った色々な人たちのことを書いていますけが、大庭さんと河野さんは、その中でもすごく個性的ですね。大庭さんのご主人の大庭利雄さんはいまもお元気ですが、河野さんことはあまりよく言いません(笑)。
まなほ 珍しいですね、とても温厚そうな方なのに。
私、先生の本を読んであらためて尊敬し直したというか、小説家ってこんなにすごいものなんだと実感しました。先生が、それこそ命がけで書いていらっしゃる姿も間近に見ていますし‥‥。先生の作品は、とてもインパクトが強いですし、特別なものに思えるんです。文章を書くことが本当に大変だということを、先生の小説を読んですごく感じました。
「書くことが好きだから、ストレスはたまりません」
寂聴 『おちゃめに100歳! 寂聴さん』のときも、なかなか原稿がかけなくて、さすがのまなほも、少しは苦しんだみたいね。
まなほ そんな、私がくるしんでいたのを喜んでいるみたいな言い方はやめてくださいよ(笑)。
それまでは学校の作文とか大学の論文とか、『寂庵だより』の文章しか書いたことがなかったので、大勢の人に読んでもらうような文章を書くのは初めての体験でしたし、書くことってすごく難しいと、つくづく感じました。
短い400字詰め用紙で2〜3枚とかのエッセイだったら、今は書けるようになりましたが、当時はたくさんの量の文章が書けないもので先生に相談したんですよ。
長いものを書けてって言われると、どうしてもダラダラした感じになるし、それを気にし始めると、なかなか進まなくなってしまって。
寂聴 そのとき、そのときの状態があるじゃない。だから、そのときのまなほの状態を見て、パッとアドバイスしたはずです。
まなほ パッと何を言ってくださったんでしたっけ? ・・・・私、先生が何て言ってくれたか覚えていないです。ということは、たぶん先生は何も教えてくれなかったような気がします(笑)。
寂聴 「もう、そこの部分削ったら」ぐらいは言ったんじゃなかった?
まなほ だんだん思い出してきました。先生は「がんばれ」って励ましてくださいましたけど、特に具体的なことは何も言ってくれなかったんです。
寂聴 だって、あなたは原稿を私に見せないしね。
でも最終的にはあれだけ書ければたいしたものよ。まなほの本がよく売れた理由は、文章が非常に優しいからです。難しい言葉を使わないで文章を書けるというのは、頭がいい証拠なのよ。
まなほ わっ! 久しぶりにほめてもらいました。もっと、もっとほめてください(笑)。
寂聴 何かね、まなほに話しかけられているようでね。小説とかをあまり読まないような人でも読めるのよ。
まなほ 私の友達も本を読んで、「まなほと話しているような感じだった」って言ってくれたんですよ。その言葉がすごく嬉しかったですね。
寂聴 あなたは、気負ってないからね。
「忙しいときのほうが筆がすすむものです」
まなほ 先生は、小説が書けなくてストレスがたまるということはあるんですか?
寂聴 ない、ない。書けないからって、いちいちお酒を呑んでいたら、時間がもったいない。書くことが好きだから、ちっとも苦痛じゃないし、ストレスなんてたまらないの。
まなほ お酒飲んでしまったら、もう書けないですしね。
寂聴 あなたは、いつも忙しい忙しいと言っているけど、忙しいときのほうがかえって筆がすすむものよ。「明日が締切り、どうしよう?」って追い込まれたときに、一気に書ける。
まなほ 比較の対象にもなりませんけど、何かそういう所だけ先生と私、タイプが似ていますよね。頭の中にはできているけど、書き始めるまでに時間がかかる。無理やり同じタイプにさせて頂いているみたいで申し訳ないんですけど、先生も私もなかなかエンジンがかからない。
寂聴 なんでもギリギリにならないとやらないっていうのは、まなほの性格じゃないの(笑)。 私はエンジンがかかりにくいわりには、若い時からもう自分でも呆れるほどたくさん書いた。
まなほ 徳島県立文学書道館に初めてご一緒したとき、これまでに先生が書いた本がズラッと展示されているのを目の当たりにして、衝撃を受けました。450冊くらいあるということは、作家になってから毎年7冊ぐらいは本を書いてきたっていうことですもの。
寂聴 96歳まで小説を書いた人なんか、日本にはいないからね。新聞の連載も、まだ3つぐらい続けているし。
まなほ そんなに書き続けている方は、世界的にもいないんじゃないでしょうか。先生が世界最高齢の現役作家なんだと思うと、先生の秘書としては誇らしくもあり、心配でもあるんです。
連載とか始まると、もう夢中になってしまって、私が何を言っても聞いてくれないですからね。私が「先生」って呼び掛けても、そのときだけずっと耳が閉じてしまって。
「私は日本で3番目に字が汚い小説家だった」
まなほ 寂庵には大勢の編集者が来ますが、先生は編集者に厳しいタイプの作家なのですか? それても厳しくないタイプ?
寂聴 いやいやいや、全然厳しくないよ(笑)。
でも、いくら寂庵や岩手県天台寺に通ってきてくれても、短い随筆さえ書いてあげられなかった編集者がいたのも確かです本当に気の毒だけど相性が悪いというより、やっぱりご縁がないのね。
まなほ せっかく原稿を書いてもらっても、先生の字は癖があるから、皆さん苦労されていると聞いたことがあります。
寂聴 私はスマホも持っているけど、執筆にはワープロやパソコンを使わない。400字詰め原稿用紙に、使い慣れた万年筆でかくでしょう。その字が癖字なのよ。
まなほ 要するに字が汚ないってことですか(笑)。
寂聴 私には字が汚いという自覚がなかったの。
でも昔、うちに編集者が3人ぐらい集まって、原稿が汚ない小説家の悪口を言い合っていたの。「一番字が汚ない作家は誰か?」という話になって、真っ先に名前が挙がったのが亡くなった丹羽文雄さん(*’05年没)全員が「そうだ、そうだ」で一致したの。
そして2番目が石原慎太郎さん。「じゃあ、3番目はだあれ?」って私がきいたらね、みんな黙ってしまったの。もう一度「3番目は誰なの?」って尋ねたら「知らないのですか、瀬戸内さんですよ」って(爆笑)。それでみんな大笑いしたことがあったの。
まなほ 日本で3番目はすごいですね。確かに汚いですけど。
寂聴 なかなか読めない、新米の若い編集者に原稿を渡したら、こうやって眉間にシワを寄せて見て、そのまま黙って突っ立っていることもあった。
「どうしたの?」って言ったら「読めません」って(笑)。
「お会計では林真理子さんにはかなわない」
寂聴 作家といえば、よく寂庵に遊びに来る林真理子さんも、まなほをとても好いてくださっているわね。
まなほ はい、真理子さんはとってもよくしてもらっています。でも先生はテレビ番組真理子さんは私のことをすごく好きでいてくれるんだけど、私はそれほどでもないのよ」って、言ってしまった事があるでしょう。
寂聴 ほんと!? どうして私がそんなことをと言ったのかしらね。
まなほ すぐそうやって忘れたふりをするんですから(笑)。
寂聴 そんなことはないわよ。私、真理子さんにはいつでも優しいもの。そのときは、きっとそういうふうに言った方が、視聴者も面白いと思ったのでしょうね。
まなほ 真理子さんは、先生がテレビで、そんなことを言う事も含めて、先生が大好きって、『女性自身』のインタビューで話してらっしゃいました。
寂聴 私も大好きよ。グチグチしたところもなく、いつもさっぱりしているからね。
そんな真理子さんのすごいところは、お会計がはやいところ。私は誰かと出かける時も、食事代とかタクシー代とかを人に払わせないことなのよ。動きが素早いから、サッと払ってしまう。
でも真理子さんにだけはいつも負ける。払おうとおもうと、もう払っているの。
レストランで一緒になにかたべても、いつの間にかサッと会計を済ませているの。あの人の実家は本屋さんで、おうちの仕事を見ていたかしら。でも、そんなこと言ったらうちだって仏壇屋だけど、真理子さんにはかなわない。
まなほ 秘書としても、お会計のタイミングってけっこう難しいな、と思います。食事をしていたり、話をしていたりすると、どのタイミングで席を離れるか迷ってしまいます。
そういう意味でも、真理子さんや先生の”所作”を間近で見られるというのは、本当に秘書冥利に尽きると思います。
ですけれどもね、先生・・・・。
寂聴 なによ、改まって。
まなほ 所作といえば、先生は障子や戸の開け閉めを足でしたりしますし、よく足でゴミ箱を蹴飛ばしたりしているので、それはどうなのかなぁ、と思います(笑)。
寂聴 そんなところ、よく見ているね(爆笑)。
手に何かを持っていたら、足で障子を開けるのも仕方ないでしょう。
まなほ いいえ、何を持っていない時でも足でポーンって。ですから先生はサッカーをやれば上手だと思います(笑)。
「人を褒める『コツ』があります」
まなほ さっきの”所作”とも関係してくると思うのですが、寂庵へのお客様や、法話の会に来たお年寄りへの、先生の思いやりや対応がこまやかで、いつもすごいと思っています。
私が気づく前に「今日は暑いからビールを出してあげて」とか、「お茶なくなっているよ。入れてあげて」とか、すごく相手の様子を見ています。
寂聴 まなほと私では、この世に生きている長さも違うからね。
まなほ 経験と差だけではないと思います。先生はいつも周りを見ている。
私も、先生が言い出す前にやらなければと、一生懸命考えるようになりました、「先生が気っとこうしろと言うんだろうな」と、予測したことを少しだけ先回りしてやれるようになった気がします。先生と一緒にいるからこそ学べたことで、私はとてもラッキーだと思います。
寂聴 私は作家だから、想像力が働くのね。
まなほ でも作家だからって皆さんができるわけじゃないと思います。きっと先生が人に喜んでもらうのがお好きだからではないでしょうか。
寂聴 この人がいま何を求めているかということを、反射的に想像できるのね。それはやっぱり作家ならではの想像力で、逆に言えば作家に一番必要なのかが想像力なの。
まなほ 先生は相手の方の洋服やアクセサリーやバック・・・・、そしてヘアースタイルや顔立ちとかの外見を、たとえば法話の会の質疑応答のために立ち上がった方のことを自然に褒めますよね。
寂聴 人を褒めるコツがあるとすれば、その人が褒めてほしいところをほめることです。私には、それが一瞬でわかるの。
まなほ 勘が働くということですか?
寂聴 いや一瞬の判断なのね。たとえば、いつもネクタイをしていない人が、その日はネクタイをしていたら、スッとほめる。
ほめられれば相手が若返ったりするのよ。
まなほ そうですね、寂庵のスタッフも、ここに遊びに来る人も、みんなとっても若々しいです。
寂聴 お堂を守っているスタッフも70代なのに、みんな「50代にしか見えない」って言うでしょう?
まなほ みんな本当の年齢を聞くと驚いていますね。
寂聴 「今日の髪型はいいわね」とか「今日のお化粧はいいわね」とか、毎朝必ずほめているの。
ある程度の年齢になると、みんな自分の容姿の衰えを指摘されるのを怖がるようになります。「私の肌はシワだらけに見えないだろうか」って。そういう人も「若い、若い」って褒めてあげると、どんどん若返るのです。
まなほ 若い人のときは、どうやって褒めていますか ?
寂聴 誰でもみんな、ひそかに自信がある部分がある。「私は顔はマズイけれど、手はきれい」とか「首筋はスッとしている」とか。そこを一瞬で判断して、褒めてあげれば絶対に仲良くなれます。さりげなく褒めてあげるのもコッね。
まなほ すごい! 褒められるのは誰だって嬉しいですよね。でも何で、私の外見のことはそんなふうに褒めてくださらないのですか? 私が着ている服を見ては、「安物買いの銭失い」とか言うし‥‥。
寂聴 そうかしら。
まなほ だから先生とよく賭けをするじゃないですか。「そんなに安いと思うなら、いくらだと思いますか?」って。
寂聴 「じゃあ賭けましょう!」なんて言って、酷いわね。
まなほ 先生だって、「うーん、賭ける!」って言っています。そして必ず負けるのに、ふくれちゃう。そして支払いを放棄!
寂聴 あははは。
まなほ 本当に賭けしたいわけじゃないんですよ。似合うと思って買ってきたのに、酷いことばかり言うからです(笑)。
「寂庵には『ケンカ薬』があります」
まなほ エッセイが思った以上に売れたお蔭でもあるのか、小説に挑戦することを勧めてくださった編集者の方もいるんです。
でも、先生がこれほど命がけで闘っている小説という分野に、私なんかが手を出していいものかという思いもあって‥‥。
寂聴 あなたの本は売れるわよって、私は言ったけれど、まさか18万部(*’18年11月時点)も売れるとは思わなかったの。
出版元の光文社の社長さんと、5万部売れたら自転車を買ってもらう約束をしていたら、本当に電動自転車が寂庵に届いた。こんなに簡単にくれるなら、自動車をくださいと言っておけばよかったのに(笑)。
まなほ 社長さんには「自動車は200万部売れたら」って言われました(笑)。
寂聴 まぁ、あまり難しく考えないで、2冊目にも挑戦してみたらいいんじゃない。でも、2冊目は3千部売れたら大したものと思わなきゃだめですよ。
まなほ そうですね。そもそも私はたとえ「一発屋だね」って人に言われても「はい、ありがとうございます。一発屋で、これだけ売れました」という感じなんです(笑)。でもそれが自分の弱さかなとも思います。それで物書きとして生きて行くという覚悟がまだできていない、自信がない。いまはまだそういう気持ちです。
寂聴 大丈夫、能力はあるんだもの、まなほなら書けますよ。
あなたは手紙が上手だから、手紙形式の小説もいいかも知れませんね。ただ「ここを直していらっしゃい」って編集者から何度も言われるでしょうけど、書くしかないじゃないの。だって、いい結婚相手が出て来ないんだもの(笑)。
まなほ すごい選択ですね、結婚するか小説を書くかって(笑)。
寂聴 作家というのはもう才能だけです。その人に書く才能が無かったら、いくら努力したってだめなのよ。
まなほ はい― がんばってトライはしてみます。
寂聴 小説を書き始めたばかりの人は、1人の編集者に会ってもらうことだって大変なのよ。それなのに、書いてみたらと勧めてくれる編集者がいるなんて、滅多にあることではありません。
まなほ それは全部、先生の七光りのお蔭ですよ。ネットでも「コバンザメ」って、言われましたし(笑)。
寂聴 コバンザメ。けっこうじゃない。おうおうにして、そのコバンザメが宿主より輝くようになるのよ。
まなほ でも先生、最初はコバンザメがどんな魚かご存知なかったんですよね(笑)。
寂聴 小判がついているサメなんて、なんか可愛じゃない、なんて思っていたけど、写真を見てびっくりした。
まなほ ずいぶん気に入ったみたいで、最近は悪口にも使いますよね。
寂聴 「まなほ、このコバンザメが!」って(笑)。
まなほ 私たちのやりとり聞いて、寂庵に来た編集者さんたちも笑ってましたよ。
「瀬尾さんとケンカしたり、笑ったりしているのが、先生の活力になっているのですね」って、フォローしてくださいましたが。
寂聴 関西には「日にち薬」という言葉あるけれど、寂庵の場合は「ケンカ薬」かも。
まなほ 「笑い薬」もありますからね(笑)。
寂聴 小説の話に戻ると、まなほのエッセイは天性の才能で書いているけれど、もっといろいろなジャンルの小説を読んでいけば必ず「あ、こういう作品を自分でも書きたいな」というものにぶつかりますよ。
まなほ はい。寂庵にきて、以前よりは本を読むようにはなりましたけど、先生がおっしゃる”読む”というレベルには達しないと思います。
ですからいまは「本が好き」とか、ネットの書評サイトを読んだりして、新しいジャンルの本を探しているところなんです。
2018年5月、瀬尾さんは母校・京都外国語大学で講演を行いました。
寂聴さんとの出会い、
そして感謝の思い・・・・。
新入生たちに語った内容を紹介します。
特別章「瀬戸内寂聴が、私の中に眠る才能を開花させてくれました」
〆瀬尾さんが母校で語った寂聴さんとの絆
皆さん、こんにちは。瀬戸内寂聴の秘書の瀬尾まなほです。
私が。ここ京都外国語大学を’11年に卒業してから、いま7年がたちます。卒業と同時に、瀬戸内寂聴が嵯峨野に開いた寺院・寂庵で働き始めました。
なぜ私が瀬戸内の秘書になったのか?
瀬戸内寂聴という人なのか?
いま瀬戸内と私は何をしているのか?
今日は、そういったことを話ししたいと思います。
私はこんな大勢の前に1人で立ったこともありません。果たしてうまく喋れるのかな、皆さんが寝ちゃわないかな、と心配なのですけれども、頑張って話します。最後まで聞いていただけると嬉しいです。
無視されていた中学時代
今日、ひさしぶりに母校に来て、学食を食べました。私が在学していた時は、天かすを卵で閉じた「天かす丼」が人気でしたけれど、今はもうメニューになく、「カフェごはん」というすごくおしゃれなものに変わっているのでびっくりしました。それを注文したら量がものすごく多くて、食べきれずにちょっと残しちゃったんですけど、学生の時はこれを全部食べていたんだなと思うと、現役の皆さんはやっぱり若いんだな、自分も歳をとったなと、感慨深いものがありました。
最初から、話が脱線してしまいましたね(笑)。それでは私がなぜこの外大に入ったかというところから、私のキャンパス生活を話そうと思います。
私は中学の時、クラスでみんなからハブられていた(*無視されていた)時期がありました。誰にも口をきいてもらえなくて、すごくつらく、恥ずかしいし、相談する友達もいなくて、ふさぎ込んでいました。でも、学校に行かず1日でも2日でも休むと、もうそのまま不登校になってしまいそうな気がして、毎日つらい気持ちで学校に通っていたのです。
そんなとき、たまたま家でアメリカの高校を舞台にしたテレビドラマを見て、「何てアメリカの学生は自由なんだろう」と、びっくりしました。
私の中学校は兵庫県の田舎にあったのですが、「こんな狭い田舎の中学校で、私はこれからもずっと、人の目を気にしながら、縮こまって生きていかなければいけないのは嫌だ」と、思ったのです。
「アメリカの高校に3年間留学したい」という目標が湧いてきたのは、そのときでした。その気持ちを父に打ち明けたのですが、「留学にはすごくお金がかかるので、それはできない」と言われたため、それならば英語を学べる国際系の高校に行こうと、目標をチェンジしました。
私が見つけたのは、1年間の留学制度があり、留学先で取得した単位も高校の単位として認めてもらえる高校です、一生懸命受験勉強をしてそこに進学しましたが、残念なことに当時はアメリカ留学枠がなく、隣国のカナダの高校に留学することにしました。
カナダ人の彼氏ができるはずだったのに
日本を発つときには、自分が日本人留学生ということですごく人気者になれるんじゃないか、カナダ人の彼氏ができるんじゃないか、すごくワクワクしていったのですけれども、その高校のある町にはアジア系の人が少なく、アジア人への偏見もあったりして、最初は友達もできず自分が思ったような高校生活にはなりませんでした。
そのためにホームシックにもなりましたし、英語が話せないのでこんなお喋りなのに私がどんどん喋らなくなって、「私ってこんなに物静かな性格だっのか」というような時期もありました。
ですが、だんだん相手の言葉を耳で聞けるようになり、自分も喋れるようになりました。
その高校にはいろいろな国からの留学生がいました。中東のドバイやサウジアラビア、アジアの韓国や台湾、東ヨーロッパのポーランド、ドイツ、ラトビアそしてメキシコ・・・・、いろいろな国のお友達ができたのが、いまでも私の財産だと思っています。
あっという間に1年が過ぎて帰国したら、今度は大学進学が迫っていました。当時、海外留学をしたいという夢をすでに果たしてしまっていた私には、あまり明確な目標がなく、「せっかく留学してきたし、外国語系の大学かなぁ」といった軽い気持ちで、この京都外国語大学と関西外国語大学のオープンキャンパスに行きました。
どちらの外大にしようかなって、皆さんの中にも悩んだ方がいらっしゃると思うのですけれど、私は母の「京都外大のほうが街中に在って、便利だよ」の一言でここに決めたのです。
大学を辞めようと考えたことも
この大学の目の前に青いマンションがありますよね。私、入学当時はあそこにすんでいました。なので、もうギリギリまで寝ていて、授業の始まるちょっと前に道を渡って教室に駆け込むという感じでした。
そのときは彼氏が居たりして、ダラダラした生活を送っていました。田舎から京都に出てきた私には、すごくおしゃれな人が周りにたくさんいるように思えたのです。
四条河原町などにはおしゃれなカフェやレストラン、そして服屋さんもいっぱいあって、そんな街並みを見て歩きながら、「おしゃれっていいなぁ。何かアパレルの仕事をしたいなぁ」と、思うようになったのです。
次第に「アパレル系の服飾専門学校に行きたい」という新しい夢が芽生え、そのことを父に相談しました。すると、
「今すぐ外大を辞める必要はないよ。とりあえず1年間休学して、アルバイトでもいいからアパレルの仕事をしてごらん」
と、アドバイスを受けました。
それで2回生になる前に1年間休学して、河原町のカフェやアパレルショップで働いて、いわゆるフリーターになったのです。その間は両親の仕送りがなく、自分で働いて家賃や食費を払っていました。本当は友達と遊んだりもしたいし、おしゃれもしたいのですが、経済的には両方は無理です。風邪をひいて高熱で寝込んでいるときに頭をよぎるのは、「ヤバイ、今日休んだら給料が減って、家賃が払えなくなる」という不安だけでした。
それでもいろいろアパレルやカフェで働けたことで気が済んだのですね。
「やっぱり大学は卒業しよう」という気持ちになれたのです。
2回生から復学をしたら、もちろん友人たちは1年上の3回生です。私が在学していたころは3回生はみんな早くから就活をし始めていて、私にとっては遠い存在でしたし、クラスメイトは知らない人ばかりで、自分だけホツンと浮いた感じでした。
そんなとき、京都の大学には「単位交換制度」、ほかの大学の授業を受けても京都外大の単位をもらえるという制度があることを知って、私はほかの大学で2つ授業を受け始めました。
1つは広告の授業です。たとえばユニクロのCMとか、だれでも聞いたらわかるような人気CMを制作した方たちが講師に来てくれて、毎回グループワークの形態で授業を進めていくものでした。
もう1つ受けたのは現代詩、ボエム授業でした。京都外大の外国語だけじゃなくて、広告やボエムとかの授業を受けられたことが、私にとってはすごく刺激的で楽しかったのです。
今日ここへ来る前に、その単位交換制度がまだ生きているのかなと思って調べて見ましたら、まだ続いていました。ここにいらっしゃる皆さんもせっかくほかの大学の授業を受けられる制度があるのですから、ぜひそれを使ってほしいなと、と思います。
京都は狭い街に多種多様な大学がたくさん集まっていますよね。せっかくですから、もっといろいろな大学の授業を受けて、そこでも新しい友達ができたら、さらに素晴らしい学生生活になるのではないでしょうか。
京都外大ライフでの、唯一の後悔は
あと1つ、京都外大に入って良かったことは、外国語漬けの授業が毎日続くことです。
皆さんはまだ新入生なので、英語をよく喋れる人と、ほとんど喋られない人がいると思います。相手が話す英語が理解できない、外国人の先生の授業が何を言っているかわからない、という人もたくさんいるでしょう。でも、その人が2回生、3回生になると、先生の言葉が自然に分かるようになったり、英語の質問にもスラスラと答えられるようになったりします。
外大では、毎日毎日英語漬けで授業を受けるので、たとえ海外留学をしなくても英語は喋るようになるんだな、ということを実感しました。
私が「海外旅行に行こうよ」と誘うと、うちの両親はちょっと億劫な反応を示します。ハワイやグアムなら日本語が通じるからそうでもないのですけど、まったく日本語が通じない国に行くのは、英語が喋れないと気持ち的に重くなるのです。
ここにいる皆さんが4回生になって卒業するときは、もう英語はある程度喋れる聴けるという状態ですから、きっと、どこに行くのも億劫じゃなくなります。
現在、英語は国際語として非常に多くの国で通用しますけども、外大には米英語学科のほかに、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、そして広範囲で通用する中国語科などもあります。
今のグローバル社会では、英語はプラス、ほかの言語が喋るのが当たり前になっています。それを日本で修学できるというのは、外大の最大の強みと思います。
そのように楽しい思いでいっぱいあった外大生活でしたけれども、いま私が後悔しているのは、サークルに入らなかったことです。
初めは美術部に入ったのですけれども、雰囲気が濃すぎる人がいっぱいいて(笑)。「ちょっとここは無理だな」と、辞めてしまったのです。いま思えば、サークルで3年間、4年間と、同じ仲間と一緒にいろいろなことをするのは、すごく楽しいことだっただろうと思います。
この時期は、外大サークル勧誘も落ち着いて来たでしょうけれども、同じ京都の他大学のサークルでも参加できるところがいっぱいあります。そちらにも積極的に参加することをお勧めします。
就職活動で大きな挫折感を
私は就職活動で大きくつまずきました。
周りの学生はみんな入学した早い段階から「航空会社のCAになりたい」「金融系の会社に入りたい」「広告系に行きたい」などの、しっかりとした目標を持っていました。
ダブルスクール(*大学に在籍しながら別の専修学校に籍を置いて学こと)をしたり、資格を取ったり、目標に向かって突き進んでいく人がたくさんいた中で、私だけは「何が何でもこれがしたい!」という目標を持っていなかったのです。
自分が将来何をしたいのか分からないまま、「京都の家から通える職場がいいな」「営業職はたぶん無理だろうから、事務職だな」と、「京都の事務職」に絞って就職活動をしていました。
ここの企業に入りたい、こういうふうな仕事がしたいといビジョンが全くないので気持ちが燃え上がらないし、就職活動といっても何からやったらいいかわからないような状態がくすぶっていました。
しかも、みんなのように大学にいる間にサークル活動をしたとか、TOEICの勉強をしたりとかもしなかったので、エントリーシート(*志望動機などを書いて会社に提出する書類)に自分の経歴を書くときも、本当に内容がスカスカでした。
確かにいろいろなアルバイトはしていましたけれど、「アルバイトを2〜3個掛け持ちしていました」なんて書いてもしょうがないから、書くことが何もないのです。
それでも初めのうちは、「アルバイトの面接もたくさんしてきたけど、ほとんど受かって来た。会社だって面接に行けば採ってもらえるんじゃないか」という自信があったのです。でも、エントリーシートでふるいにかけられて、面接まで進めません。
「ああ、紙だけで判断されてしまうんだ」と、あらためて自分のスカスカのエントリーシートを見て、「私って、自分が思っている以上に何もない人なんだ」という劣等感を抱き、まったく自信がなくなりました。
男子と女子で、最終面接までこぎつけても、やっぱり(女子である)私が落とされることもあり、もう最後のほうは就活そのものがイヤになってしまい、就職が決まっている友達とも会いたくなくなってきて、「ああ、どうしようかなぁ、もう契約社員でもいいかな。派遣でもいいかな」と、ほとんど諦めていました。
「瀬戸内寂聴・・・・、えっ、あの尼さん?」
そんなある日、私の高校のときの友人から電話がありました。友人は京都・祇園のお茶さんでアルバイトをしていました。芸妓さんや舞妓さんがお客様と遊ぶお座敷に料理を運んだり、お酒を用意したりする「お運びさん」という仕事です。
その友人が、
「まなほ、まだ就職決まってないよね。まなほさ、ぴったりのところがあるんだよね。何かパソコンが使えたらいいぐらいなんだけど、どうかな?」
と、言うのです。
「え、ちょっと待って! もっと詳しく教えて?」
「おかみさんから詳しくは教えられないって、口止めされているの。だけど、まなほにぴったりだから、絶対あった方がいいよ」
そんなことを言われても、もう少し詳しく聞かないと怖いし、そのころの私は祇園の格式や伝統のことを知りませんから、「詳細に教えられないなんて、もしかしたらヤクザ関係かな・・・・」という不安もちょっとあったんです(笑)。
それからさらに懇願すると、友人は「絶対にほかの人には言わないでね」と前置きして、「瀬戸内寂聴さんのところだよ」とだけ、教えてくれました」
後でしったんですけど、そのお茶屋さんは出家する前の瀬戸内が常連として通っていた祇園でも老舗の「みの家」さんでした。瀬戸内晴美の名前で祇園に生きる人々の色恋を描いた小説『京まんだら』(講談社文庫)の舞台にもなっていました。
ちょうど私が就活に挫折していたタイミングに、その「みの家」へ顔を出した瀬戸内が、おかみさんに、
「うちのスタッフに若いコが欲しいの。おかみさん、誰かいない?」
と、相談して、おかみさんが「お運び」の私の友人に声をかけ、友人はパッと私を思い出して電話をしてくれたのです。
瀬戸内寂聴の名前が出た瞬間、私は、「え、あの尼さん?」と聞き返していました。そのころの私はあまりテレビを見ませんでしたし、純文学もほとんど読んでいませんでした。ですから瀬戸内が小説家ということすら知らず、「尼さん」ぐらいの認識でした。それで、「え、私が知っているということは、たぶん有名人なんだ」と気づきました。
友人に口止めされていたのですけど、帰ってすぐに母に相談したら、いつも冷静な母が「エーッ!」って、腰を抜かしそうなほど驚いたんです。
「母がこんなに驚くなんて、やっぱり超有名人なんだわ。もう私、ここに就職する」
と、勝手に自分の中で決めていました。私ってかなりミーハーですよね(笑)。
履歴書を送って、面接をしてもらったのが卒業1ヵ月前の2月。嵯峨野の寂庵で初めてお会いしたのです。そのとき88歳の瀬戸内は歩行器を使っていました。
88歳って・・・・・、こんなことを言ったらダメですけれど、もう死んでいてもおかしくない年じゃないですか。「ここに就職しても、あとどれくらい働けるのかな」という危惧もあったんですけど、当時の私はそんなことを言っていられない状況ですし、とりあえずどこかに就職したいと思っていました。・・・・・それにスーパー有名人ですから、「何か楽しいことありそう」というワクワク感もありました(笑)。
「”私なんか”と言うコは寂庵には要りません」
もちろん私は相当緊張していたのですけど、瀬戸内がすごく気さくなので、すぐに和みました。
「パソコンを使えるの?」とかの簡単な質問がいくつかあって、さらに「彼氏いる?」とかの、「え! それって仕事と関係ないですよね」というような質問が続きました。
そして、「これ、あなたが来たら食べようと思っていたのよ」と、ゴディバのチョコレートを出してくれました、私、それまでゴディバの実物を見たことがなかったので、それだけでテンションが上がって、すごく喜んで食べまくりました(笑)。
瀬戸内はそんな私を、あのまん丸い笑顔で見守っていて、帰り際に言ったのです。
「じゃ、来月からおいでよ」
振り返ってみても、女友達というのは本当に頼りになります。祇園でアルバイトをしていた彼女が、就活で困っていた私を思い出してくれたおかげで、私は縁もゆかりもなかった瀬戸内と出会えたのです。
私が働き始めたころの寂庵には5人のベテランスタッフたちがいて、ほとんどが20年、30年と瀬戸内のもとで働いている、自分の母親より年上の方ばかりでした。
そこに23歳の私がフワ〜ッと入ったのですけれども、皆さんすごくよくしてくださって、お茶の入れ方、出し方とか、掃除の仕方とか、いろいろなことを優しく教えて頂きました。
ただ、そのころの私はまだ就活のときの自信喪失状態を引きずったままでした。
寂庵には編集者やいろいろな文化人がひっきりなしに訪ねてきて、そのたびに、「わかいコが入って来たのよ。可愛でしょう」と、瀬戸内が紹介してくれるのです。ただ20代というだけで、自分には何の取柄もない」という気持ちがあって、どういう態度をとったらいいのかわかりませんでした。
ですから何か重要そうなことを「これやってみて」と言われた時に、いつも「私なんて無理ですよ」「私なんかでは絶対できません」などと、「私なんか」という言葉をしょっちゅう使った私を、瀬戸内はピシャリと叱りました。
「”私なんか”と言うコは寂庵には要りません。まなほは、この世でたった1人の貴重な存在なんです。”私なんか”という言葉はたった1人の自分に失礼でしょう。そんなことを言うなら、寂庵を辞めなさい」
怒られながら、実は私、すごく嬉しかったのです。私のために怒ってくれたのだと。人に怒られて嬉しかったことは、これが初めての経験でした。
そのころから瀬戸内は、何かあるごとに、私のことをすごく褒めてくれるようになりました。
春の革命――先輩たちが全員退職
寂庵で働き始めて3年がたった25歳のとき、ベテランの方々全員が突然、「私たちを辞めさせてください」と、言い始めました。
それは何故でしょう? 寂庵はお寺としてお金儲けをしていないので、寂庵ができて以来ずっと赤字でした。だからスタッフの給料は、瀬戸内が連載している新聞の原稿料や出版した本の印税から払っていました。
しかし90歳を超えた先生が1人で大勢の人間を養い続けるのは大変で、荷が重すぎます。それを気遣ったみんなが、
「これまで私たちは十分よくしていただきました。もう辞めさせてください」
そう瀬戸内に申し出たのです。
「せっかくこれまで一緒にやって来たのです。もう私も長くないから、みんな最後までいて」と瀬戸内は引き止めたのですけれど、「もう先生、ゆっくり休んで下さい」と、5人が一度に退職し、私が秘書として残る事になりました。
瀬戸内から「まなほ、できるわね?」と訊かれた時、「えっ、この瀬戸内寂聴という人を私が支えるの?
25歳の私が1人でやっていけるの・・・・」という不安とプレッシャーが、ドシッとのしかかってきました。
「1人でなんて、私にできるかなぁ」と、お風呂で独り言を言いながら何度も泣いて、とうとう父の所に、「どうしたらいいのかわからない」と、相談に行きました。
すると父は、
「先生はまなほに、完璧を求めていないと思う。だからやってごらん。失敗したって死ぬわけじゃないから」
「あ、そうか。先生は25歳の私が完璧にできるなんて思っていないよね。もしかしたら私がここで何か変わるかもしれない、大きく成長できるかもしれない」
そう思いなおしました。そして先生との二人三脚の新しい日々が始まったのです。
「人間はいくつになっても生活を変えられる」
広い寂庵に、瀬戸内と私しかいないのです。
長年したことのない皿洗いとか雨戸の開け閉めを瀬戸内がしたりして、2人でてんやわんやしていて、2人とも同時に疲れが出て倒れて、病院で2人並んで点滴を打ったりもしました。
そういうことをしているうちに、私より若い女性が寂庵にスタッフとして入って来てくれたり、さらにベテランの方もお堂を守る係として復帰してくれたりして、なんとか生活も落ち着いてきました。
再出発の中で、あれこれ指示しなくても阿吽(あうん)の呼吸で何でもちゃんとやってくれるベテランがみんな辞めていくこと、新しい生活に変わることに対して億劫にならないのかということなど、私がそうしたことを話題にすると瀬戸内は、
「人間は何歳になっても生活を変えられるのよ。それに私は、ちょうどいい感じの生活になったときに、それを打ち破りたくなる。何かを変えたくなる。改革したくなるの。人間はたとえ90歳になっても、現状を変えたりすることができるのよ」
そう言うのです。
瀬戸内には、とてもいい状態なのに、それを壊して、大変なほうを選ぶ、いろいろなことを変えていくというすごい力があります。
90歳になってそんなことができるのは大変な事です。寂庵では、ベテランの皆さんが一斉退職した時のことを「寂庵 春の革命」と呼んでいます。大袈裟なんですけど、今まであった生活をガラッと変える、それは本当に「革命」でした。
「瀬尾さんにしか書けない寂聴さんがいる」
「春の革命」があってから、私と瀬戸内の間の距離はグッと縮まりました。
それと同時に、それは瀬戸内だけかもしれないのですけど、小説家だけあって私が話したことを何かすごく盛って、話を付け加えて、いろいろな人に話したりしています。
それで私が誤解されて、「えっ、私そんなことは言っていないですけど」と言うようなことが度々起きました。
また瀬戸内の耳が遠くなっていることもあって、私が伝えたかった真意がちゃんと伝わっていないようなこともありました。そこで私は手紙を書いて、瀬戸内の仕事机の上に置いておくようにしたのです。
いくら忙しい瀬戸内でも、小説家はものを書くのと読むことのプロ。手紙ならちゃんと自分の思いが伝わるのではないかと思ったのです。
時には感謝の気持ちを伝えたり、ときには「先生はこう受け取られたようですけど、私はそう言うつもりではなかった。本当はこう言いたかったのです」と言うようなことを書いたりもしていました。その手紙の内容に関して瀬戸内は、何も言わずに、ただ読んでくれていただけなんですね。
そうこうするうちに瀬戸内が文芸誌に連載していた『死に支度』という題の小説が講談社から出版されました。
連載の最終回で私が「モナ」という名前で登場していて、私が瀬戸内に出した手紙を「モナから先生へ」という見出しで、そのまま小説の中で使ってくれていたのです。
出版社の編集者が寂庵に来ると必ず、「これ、まなほの手紙をそのまんま使ったのよ」と瀬戸内が言ってくれたおかげで、編集者の方々が小説の手紙を私が書いたと知ってくれました。
そして`17年の年明けに編集者の方から、「瀬尾さん、よかったら本出しませんか」という提案を頂いたのです。
「私が?」と驚いたのですけど、「瀬尾さんにしか書けない寂聴さんがいますよね。それを書いてください」と、言って下さり、それを瀬戸内に伝えたとたんに、「やったね!」と、瀬戸内と私はもう飛んで跳ねて、すごく喜びました。
それから、共同通信社といういろいろな情報やニュースを全国各地の新聞社に発信する会社があるのですけども、その記者の方からも、「連載をしてくれませんか」というお話を頂きました。
文学とは全く無縁だった私が突然、全国の地方紙に毎月1回、「まなほの寂庵記」という連載をさせてもらえるようになったのです。
憧れの篠山紀信さんに撮影してもらった
私は瀬戸内寂聴の小説を1冊も読んだことがなかったのに、その秘書となって、毎日がすごく楽しくて、瀬戸内のことがすごく好きなので、その瀬戸内を支えることが天職で、こんなに幸せなことはないと思っていたのに、さらに「本を書きませんか」という思いがけないお話をいただいたのでがんばりたいと、と思いました。
それから約10カ月かけて、私が見た瀬戸内の魅力、すごさ、尊敬するところとか、自分がこう感じたということをすべて書きました。
それが『おちゃめに100歳! 寂聴さん』という、この本です。(本を掲げて)このカバーは写真家の篠山紀信さんが撮影してくださいました。
瀬戸内が『婦人公論』(中央公論社)の表紙の撮影で、篠山さんに撮ってもらっているのをいつも私はスタジオの端から見ていて、「うらやましいなあ、私もいつか撮ってもらいたいな」とおもっていたのです。
まさか自分の本のカバー写真を篠山さんに撮っていただけるなんて、大感激でした。
この本の表紙のイラストは、私が描いたイラストで、本文の中にも、イラストを描き下ろしさせていただきました。すごく分厚いように見えるんですけど、簡単な文章で書いているので、すごく読みやすいと思います。
でも私はまったくの素人で、名前は知られていないし、本が出ても売れるわけはないと思っていました。
これは偶然の一致なんですけど、私の本が出た半月後に瀬戸内の『いのち』という長編小説が講談社からでたものですから、「一緒に頑張って、宣伝しよう」と、私たち2人でテレビに出ることにしました。
それまで瀬戸内はあまり民放のテレビ番組に出なかったのですけれども、「まなほのためだったら、東京にも出ていくよ」と言ってくれたので、2人一緒に十数本の番組に出してもらいました。
瀬戸内は忙しくて出演できない時にも、明石家さんまさんの番組に私1人で出たり、『セブンルール』(フジテレビ系)という、私個人の密着番組にも出させてもらいました。
さらに嬉しかったのは、今まで愛読していたファッション誌の『JJ』『STORY』『Oggi』『anan』『Domani』『CLASSY.』などの雑誌に、自分が出られたことです。
「よいところが何もないという人は誰一人いません」
テレビに新聞にと本当にたくさんの取材を受けて、いろいろな経験をして、そのおかげもあって、半年足らずで18万部、たくさんの人に読んでいただいている本になりました。
寂庵に入ったころは「自分は何もない」「私なんか」と思っていた私が、瀬戸内の秘書に起用され、「まなほの手紙って、すごく素直でいい文章だよ」と、褒めてもらったことによって、「書く」ことに目覚めたのです。
瀬戸内に出会って、褒めてもらって、書くことの楽しさ教えてもらいました。自分で言うのはちょっと言い過ぎかもしれないのですけど、私自身も知らなかった私の中に眠っていた才能を瀬戸内が見出し、開花させてくれたのです。
実は母校で話をしてくれというお誘いを受けたとき、一度はお断りしました。人前で話す自信がなかったのです。ですが担当者の方に熱心に依頼していただき、学生の皆さんに話すことはとても意味があると思い、引き受けました。でもいざ本番が近づいてくると不安になって、私は瀬戸内に頼みました。
「うまく話せるかどうか不安です。一緒に来てください」と。
そうしたら、「大丈夫。まなほならできるから、1人で行ってきなさい」と背中を押してくれました。そして、
「あなたの母校の学生さんに伝えてほしいことがあるの」と、言われました。
その瀬戸内からのメッセージをお伝えします。
《自分にはよいところが何もないと思っている人がいますけども、人間として生まれた以上、よいところのない人は誰一人いません。それに気づいていないだけか、あるいは、その才能がまだ芽を出していないだけなのです》
瀬戸内は「自分は料理が好き、走ることが好き、服を見て歩くのが好き…‥、その”好きなこと”がイコールその人の才能だ」と、よく言っています。
それでは、それを職業にできるかできないか? 好きだけは食べていけないから、やっぱりちゃんと仕事をしたほうがいいと思う人がまだ多いかもしれませんけども、いまは好きなことが仕事になる時代になりました。
大きな会社に所属していないと生活ができないのかというと、そうとは限りません。たとえば、自分のインスタグラムにたくさんのフォロワーがいる人は、自分の生活の一部をインターネット上にアップするだけでお金がもらえて、立派に暮らしていけます。いまは好きなことが仕事になる時代なのですから、好きなことをやったらいいと、私は思うんです。
たとえば、いまの瀬戸内寂聴は尼さんというイメージがすごく強いのですけど、小学3年生のときに「小説家になりたい」と思って、作家となり、いまも現役で仕事をしています。
寂庵に来て、そんな瀬戸内が原稿を書く姿を間近で見ました。
瀬戸内とは比較の対象にもなりませんけど、私も本や随筆を書いてみてわかったのは「小説や随筆の原稿を書くのは簡単な事ではない」という事です。
400字詰め原稿用紙一枚を書いて原稿料はいくら頂けるのか? 本当に少ない金額で、たとえ1ヵ月に何十枚書いても生活になりません。
1年がかりで長編小説を出版しても、純文学は3千部売れるか売れないかというのが出版界の現状です。
小説を書いて生活をしていくというのはすごく難しいことなんですけれど瀬戸内は、
「原稿料が一枚何円かなんて気にしていたらやっていけないのよ。いままでそんなこと考えたことは一度もない。書くのが楽しいから書いている。もつともっといいものを書いていきたい。ペンを持ったまま原稿用紙に突っ伏して死ぬのが私の夢なのよ」
そう言い切ります。
瀬戸内が小学3年生のときの気持ちを持ったまま96歳のいまも書き続けることが出来るのは、小説を書くのが何より楽しい、好きだからなのですね。
「『おかしい』と声に出して言わないとダメ」
瀬戸内は書斎の机に前に座って小説を書いているだけではありません。
たとえば原発再稼働問題について、戦争放棄を明記した憲法第九条を守る運動について、あるいは安全保障関連法案が国会に提出された時など、瀬戸内は必ず自分の意見を発言しています。
その方法は新聞への寄稿だったり、テレビのインタビューだったり、もしくは車椅子に乗ってまま街頭演デモや集会に参加したりとさまざまです。
私は瀬戸内と出会うまではデモとかストライキとは全く無縁でした。私の父も学生運動を経験したことがなく、私もたとえ自分が通っている大学に不満があったとしても、みんなから署名を集めるとか、改革を求める運動をするとかいうことは、まったく頭に浮かびませんでした。
ところが瀬戸内は背骨の圧迫骨折などで車椅子生活になっても、東京で安全保障関連法案反対集会やデモ行進があると車椅子に乗って参加して、そこで自分の意見を話します。しかも、全額自費です。
どこの政党にも属さず、ホテルの宿泊費とか交通費とか、どこからも出してもらうわけではなく、「私1人で行く!」と言い出すのです。
「待ってください! 明日は出版社の人が打ち合わせに来るんですよ」と引き留めても、「いますぐ電話して、お断りして」と・・・・。
「私は日本の平和が脅かされたり、何処かで戦争が起こったりしたとき、そのたびに必ず自分の意見を述べてきたの。今回、たとえ自分の体が病気だったとしても、それを理由に何もしないときは、いままでの私の行動に反するから嫌なのよ」
そんなことを言って、聞き入れてくれません。
私は出版社の人に「すいません、すいません。ちょっと明日の約束は無理になりました」と謝って、急いでホテルと新幹線を予約して、瀬戸内について東京へ向かいます。
それは国会議事堂周辺だったり、大きな広場だったりと、さまざまです。
そこに全国から何万人もの人が集まって、反対運動をしていました。国会前の坂道を家族連れ、お年寄り、大学生らしい若いカップル・・・・、さまざまな年代の人々が政府への反対の声を上げながら歩いています。
国会周辺での護憲集会は、10万人以上の老若男女のエネルギーでむせ返っていました。瀬戸内の車いすを押しながら、私は考えました。
こんなにたくさんの国民が反対を表明しているのに何で政府はその声を無視するのですか?
何で強行採決してしまうのですか?
1千万人以上の署名を集めて、何度陳情をして、何度デモをしても、政府も社会も何も変わらない。これって。虚しくないですか?
そして何だか悲しくなって、瀬戸内に問いかけたのです。
「先生、いくらこんなことをしたって、政府は何も変わらないのに、虚しくなります」
「私だってわかっているのよ。私がここで発言したって、デモ行進したって政府が簡単に変わるなんて思っていません。でも、おかしいと思ったことは、『おかしい』と、声を出していわないとダメなのです。
原発稼働にせよ、戦争を可能にしてしまう法案にせよ、反対した人がいた、ということは歴史に残るでしょうそれが大切なことなのよ」
私の目を真っ直ぐに見て、そう瀬戸内は言いました。
言って変わらないからと黙ってしまっていてはいけない。おかしいことは「おかしい」と言う権利があるし、政治のことは政治家に任せておけばいいわけではない。ということを、瀬戸内は私に教えてくれたのです。
瀬戸内はいつも「忘己利他」という仏教の言葉を口にします。それは「自分の損得を忘れて、人の為に何かをする」という仏教の言葉です。
瀬戸内寂聴という人は、小説は自分が好きだから書き続けます。でもほかのこと、たとえばイラク戦争のときイラクまで医薬品を自分で届けに行ったのも。法話の会を開くのも、抗議デモや反対集会に参加するのも、自分のためでなくて、すべて人の為にやっているんだな、誰かのためにしているんだな‥‥、デモの帰りの新幹線の中で眠りこけている瀬戸内の小さな体を見守りながらそう思って、ますます私は瀬戸内を尊敬しました。
「私の人生は瀬戸内寂聴との出会いで変わりました」
「私の人生は瀬戸内寂聴との出会いで変わりました」
私たちは未来は無限大です。そして人との出会いが私たちの人生を変えます。
最初に言いましたように、私が大勢の人の前で話をするのは今日が初めてです、それで、何を皆さんに話したいのかなと考えてみました。
寂庵に入る前の私は自分というものが何もなかったし、自信も無かったと、まさか母校の皆さんを前にこんなふうに偉そうな話をするなんて、夢にも思っていませんでした。
寂庵に入る前の私は、その辺の会社に就職して、そこで出会った人と結婚して、子供を産んでというぐらいのことしか、自分の未来を思い描けませんでしたし、それが当たり前だと思っていました。
そんな私が当時88歳の瀬戸内寂聴という人と出会っただけで、こんなに人生が変わりました。誰もがそれを望んでいるわけではありませんけれど、私と同世代の人のうちの何人が自分の本を出版して、テレビに出演して、こうやって人の前で話せるのでしょうか。
人生の中で何がいちばん大切かと考えると、それは人との出会いです。
もちろん勉強することも大切だし、資格を取ることも大切だし、お金を稼ぐことも大切です。しかし、その3つが揃ったとしても、人生を変えてくれる人に出会えるという保証は一切ないのです。
たった1人の人との出会いで、こんなに人生が変わるということは、私だけでなくて、誰にでもあり得ることだと思います。
それはたとえばアルバイト先の店長であったり、恋人だったり、友達だったり、あるいは街中でたまたま道を聞かれた人かもしれない。
どんな人に出会えるかによって人生が変わっていくかわかりません。自分がある人と出会ってしまったからって、そこで終わりではなくて、その人から別の人、またさらに別の人へと、人のつながりは枝分かれするように広がっていくのです。
人との出会いは、お金では買えません。それは予測もできません。出会える保証もありません。
でも、人との出会いで私たちの人生は大きく変わる、それをいま本当に実感しています。
「自分の夢は、口に出して言いましょう」
私が皆さんにすごく言いたいのは、とりあえずいろいろなところに行ってほしい、いろいろなものを見てほしい、いろいろな経験をしてほしいことです。
私の座右の銘は、
《1つでも多くの場所に行き、多くのものを見て、たくさんの人と出会うこと》
18歳や19歳、あるいは20歳になったらもうダメだとか、そんなことはありません。
何でもかんでもやった者勝ちです。
もちろん、やって後悔することはありますけど、やらない後悔よりはやった後悔の方が私はいいと思うのです。いろんなことをやって1つでも多くのことを経験したほうが人生は潤うし、多くの人と出会っておけば、きっと自分の財産になります。
そして、もし自分の夢があったら、その出会った人たちに口に出して言うことです。するとそれを聞いた人がどこかで、じゃあ、この仕事は瀬尾さんに頼んでみようかな」「瀬尾さんはこれが好きって言っていたよね。じゃあ瀬尾さんにこれ上げようかな」
自分がしたいこととか好きなことは、口に出して言いまくった方が勝ち。そうすると、誰かがそのチャンスをくれたりすることがある。
最後になりますが、皆さんはまだ学生でお金がないかも知れませんけど、アルバイトをしてでも旅行をして下さいね。日本だけでなく海外のいろんな国に行って、いろんな文化を見て、さまざまな人と出会ってほしいです。それは学生の間だからできることで、社会人になると、なかなかそうはいきません。
私は寂庵で働いて7年です。社会人になると、なかなか長い休みが取れません。ですから海外旅行には、ずっと行けませんでした。
でも30歳の内にイタリアに行くという夢だったので、年明けから50回ぐらい瀬戸内にお願いして、来月に1週間の休みが取れて、やっと行けることになりました(笑)。
時間が作れる学生のうちに「弾丸旅行」でも「貧乏旅行」でもいいですから旅行に行ってください。
かっての私がそうであったように、自分には何の夢もないとか、楽しくないとか思う人がここにもいらっしゃるかと思いますけれども、まだ皆さんの未来と可能性は無限大です。
とりあえずやってみたいことがあったら、うじうじ迷わないで、すぐ行動に移してください。あなたが一歩踏み出すことで世界が変わるのです。
どうぞ皆さん、自分の未来にどんなことが起きるだろうと、それにワクワク、ドキドキして生きてほしいと思います。
今日は長々と私のつたないお喋りを最後まで聴いてくださって、ありがとうございます。(会場・大拍手)
*本章は’18年5月に瀬尾まなほさんが母校。京都外国語大学の「言葉と平和T」の授業で講演した内容を再構成したものです。
つづく
現在、婚活中という瀬尾さん。彼女の結婚の条件から、
寂聴さんの恋愛遍歴、
そして家族愛へと、話題はどんどん広がっていきました――。
第四章 「お金によって幸せになった人を見たことがありません」
〜愛して生きたい