〆男女交際と性の関係は変わったか
戦前、娘は二並びにならないうちに結婚すべきだ、と言われていた。二並びとは二十二歳のことである。数えの時代だから、今でいえば二十一歳である。
私は一九二六年の生まれだが、三歳年上の姉のクラスでは、五十名ほどのうち何名かは、当時の女学校を卒業する十七歳で結婚した。それも容姿の優れた人から先に結婚したのである。
私の妻、曽野綾子は二十二歳の誕生日から何日もしない、大学四年の秋に結婚した。”できちゃった結婚”ではなかったから、二人はそれほど結婚を急ぐ必要はなかったが、彼女の母親が古いところのあるひとだったから、娘が二並びになってしまった事を焦りに感じていたのかもしれない。
「こういうことはグズグスしていると、成る話も成らなくなるから」
と言って、結婚を急いだのである。
それが近年、結婚年齢が遅くなった。我が家の知人に、一流大学の医学生を卒業して、容姿も優れている女性がいる。いつ結婚するのか、行き遅れては大変だ、とやきもきしないでもなかった女性だが、最近、三十代になってから結婚するという。ホッとすると同時に、ああ、結婚年齢がおくれているのだなあ、と今更に思った。
結婚年齢が遅くなった、というよりも、若い人が結婚にあまり情熱的ではない、というのが実際のところかもしれない。適齢期から十年くらいの間は、いろいろとチャンスもあるだろうし、そのうち適当な相手が見つかったら、将来の生活設計もあることだし、結婚することにしようか、ということになるのだろう。
だからといって、異性への興味がないわけじゃない。その証拠に、今の高校生で、性体験をする者はあまり例外でないと聞く。
私の旧制高校の同級生は浪人が半分以上であり、その多くは途中で兵隊にとられたが、卒業までに性体験をした者はいなかっただろう。
軍隊には慰安所があった。近ごろの韓国の言い方によると、韓国の娘は強制的に慰安所に連れて行かれて、一日二桁の兵士と性の相手をさせられた、ということになる。しかし親しい友人に聞くと、
「あんなところ、行けたもんじゃないよ。休みの日に、小隊付きの曹長――下士官の最上級で、軍隊体験の浅い小隊長である少尉の補佐をする役――がやってきて、『慰安所に行きたい者、三歩前』と号令をかける。
そんな時に初級の兵士が前に出ようものなら、後で古参の兵隊にさんざんイヤミを言われて殴られるに決まっているから、誰も出て行きやしない。古参兵だって、三歩前に出るのは、『私はセックスをしたいのです』と言っていることだから、よほどのヤツでもないかぎり出てゆきはしない」
出て行った者に曹長は一人に一つずつコンドームを渡して、性病に注意しろ、と訓戒を与える。
私の友人は散歩前に出なかったが、休日にヒマ潰しに、いったい、どういうところなのか見に行った。
「なんかね、長屋みたいなところにあって、その一つ一つが、三畳敷くらいだったかな。もちろん、入り口に戸が付いていて、その前に”三歩前に出た”兵隊が並んでいて、タバコを吸ったり、雑談をしている。
中で女と一緒の兵隊がちょっと長引くと、前に立った兵隊が戸を叩いて、『オイ、グズグスするな』と喚くんだ。あんなところ、金貰ったって行けるものか」とのことであった。
だから私たちの世代では、性欲を満たすことと、男女交際は分離していた。男は金で性欲を満たしていたのだし、当時は貧しい家庭が多かったから、そういうところで心ならずも働く女性が少なくなかった。
朝鮮半島などは本土に比べて経済事情も厳しかったから、強制的に集めなくとも、その種の職業に就く女性はいくらでもいたのであろう。本土でさえ、毎日、白いご飯とおいしいおかずがある、というだけで、水商売の世界に入る娘を集めるのに不自由しなかった。
日本の植民地時代も朝鮮半島にはまだ階級意識が残っていて、堤防工事のような、村の者全員が労力を提供するような場面でも「ウチは両班(ヤンバン「貴族階級」)だから」と言って、労働を拒否する家もあった、という。朝鮮風の被差別階級があって、そこで娘がそういう職業に就くことは当然、という風潮もあった。
この国の伝統的な恋の物語『春香伝』は、今日でも映画化されているし、その翻案とでもいうべきものが現代劇になって、テレビや映画のテーマになっているが、これは両班の息子と被差別階級の妓生(キーセン)の娘が恋を貫く話である。
〆戦前は見合い結婚が常識だった。
とにかく結婚に際して、当事者が相手を選ぶということは、東洋の風習としては珍しいことであった。それだから、『お染久松』とか『お夏清十郎』などという悲しい恋がドラマになるのである。
それでいて結構、破綻もしなかったのだから、結婚 戦前は、多くの夫婦が見合い結婚であった。親と知り合いとかが、あの若者にはこの娘が夫婦としてよかろうという事になれば、いわゆるお見合いというのをする。保護者と本人同士が一緒に食事などをして、特にイヤだ、ということがなければ、そのまま結婚してしまう。
などというものは、かなりいい加減なものであり、どうしても、あの人でなければイヤだ、というのは当人の思い込みに過ぎないのかもしれない。
だから戦前は恋愛結婚というと、道徳的に悪い、とまでは言われないまでも、かなり大胆な、珠に女性の立場からすれば、放胆な、と言ってもよいことであっただろう。
男女交際が社会的に肯定されたのは戦後であろう。それは当時書かれた、石坂洋次郎の新聞小説を読むとよくわかる。当時の「新しく目覚めた」若者たちは、自分たちの恋愛を通して、結婚相手を選ぶことを主張していたのである。
それが高校生の段階で性体験をするようになると、それは性的好奇心か恋愛かわからなくなる。セックスをするのは必ずしも恋愛でなくともよい。確かに金銭を媒体とするセックスは、イカガワシイにしても、単なる性的好奇心から性体験をすることになっても仕方がないではないか。
ましてや、高校を卒業した男と女が一緒に食事をして音楽会に行き、音楽を楽しむというよりも、自分たちが踊りとも何ともつかない格好で体を動かし、心身を興奮させた挙句にセックスをするのは、一緒にスホーツをした後でシャワーを浴びて食事を共にするようなもの、という感覚でとらえられる。
昔は、珠に女性にとって、性は重大なことであった。戦前では堕胎は許されなかったから、結婚もしていないのに子どもを産むことは、女性にとって不行跡の最たるものであった。
それが今では、”できちゃった結婚”というのもあるし、もし子供ができても、適当な形で始末することが出来る。性と結婚は遊離したのである。
だから男女交際の結果のセックスと、結婚は必ずしも結びつかなくなった。
〆昔風「男の器量」か、今風イケメンか
結婚となると、そこには古い男女関係が想定される。男は家庭の生産面、女は消費面を担当する。
そうはいっても、当今の男性は、結婚して二人分の消費の費用を稼ぐのも大変だし、自分一人ならゆっくりその金を使えるのに、何を好んで一人の女にその金を渡さねばならないのか、そんなのはムダだ、という気になるだろう。
結婚などしなくとも、適当に性の相手をしてくれる女はいるし、彼女は彼女で自立しているから、デートの時だけ、その費用を自分が持てばいい。いや、彼女に一部を負担させたとしても何が悪いのか。時折、ボーナスでも貰った時に、つきあっている女たちに適当にプレゼントでもしておけば、バレンタインデーには、チョコレートが始末に困るくらい集まるさ、とい程度の気持ちなのであろう。
女性にしても、似たようなものではないか。珠に働いている女性だったら、結婚するからといって、仕事を辞めて月給がフイになるようなことにはなりたくない。
働きながらも主婦もやって、炊事、洗濯、掃除を全部引き受けるなんてマッピラ、という気持ちがあろう。
それでなくとも。性欲に飢えた男はいくらでもいる。アタシは顔はマズイが、脚の線はマアマアだから、或いは、胸には自信があるから、といったことから、自分の美点を強調する服装をすれば、電車の中でも男の視線が集まるし、一緒にメシを食わないかとか、踊りに行かないか、と誘ってくる男には不自由しない。その後でラブホテルに行ったとしても、それが何だというのだ、適当に楽しめばいい。
そう言う女性が増えれば、男性にとっても、さまざまな女性とセックスするチャンスが増える、というものである。
結婚などという面倒なことをしなくとも、男も女も働いて自分の生活を支え、その余った金で性を楽しんだらいい、何でシンキクサイ結婚などする費用があるのか、というのだ。
そのせいか、近ごろは女に好まれるような、男が流行っている。最初は「イケメン」という言葉があった。「面」、つまり顔立ちが整っているのがいいというのである。
私たちの頃は、男の器量といえば、顔立ちやスタイルではなかった。社会に立って、妻子を立派に養うだけではなく、社会でも相応の役割を果たし、同じ男性からも尊重される、そういうことを問題にしたのである。
だから男は醜男でもいい、男は顔じゃない、頼もしいこと、つまり生産者としての能力があれば、自然と女がついてくる、という信仰があった。
それが、男女交際が結婚から遊離して、セックスが男女の遊びでしかなくなると、男だって女性に好まれる容姿が求められる。以前は容姿が問題になるのは、女性だけだった。
このごろ、駅などに見かけるポスターや新聞広告などを見ると、いかにも女に好まれそうな容姿の男の写真が使われている。私など、コンプレックスかもしれないが、胸くそが悪い。
一九六〇年代の日本の男性を代表する一人は石原裕次郎であっただろう。思うに、彼に比べると、兄の現都知事の石原慎太郎のほうがまだ美男である。
しかし、裕次郎は今時の基準ではイケメンではなかったかもしれないが、逞しさというか、男らしさ、野性味、といったものがあった。それが当時の女性の女心をとらえたのであろう。
今時のグループサウンズなどの男たちは、確かに美男ではある。ただ、あれは女性の享楽の対象の美男である。昔から「役者買い」という言葉あった、資力や地位のある女性が密かに、美男が取柄だけの若い歌舞伎役者と飲食を共にして、その後で性関係を楽しむのである。もちろん、それは不道徳なこととされていた。しかし今時の若い女性の多くが昔の「役者買い」の精神で、男性に臨んでいる。
だから、あんなナヨナヨとした、見場のいい男たちがスターになる。
〆現代の「モテ男」は女の愛玩用?
昔は女性誌の表紙は美しい女性だった。それがこのごろの女性週刊誌を見ると、表紙はしばしばイケメンである。
これが男性である私から言わせると、男だかオカマだかわからない連中である。第一、男のくせに髭らしいものがない。顔がツルンとしている。目鼻立ちも優しく、おまけに髪の毛も長くて、ちょっと見ると、女の短めのへアースタイルみたいでもある。
こんなのが近ごろの女の子の好みなのか、だったら今のオレは若くても、女の子にモテなかろうと思う。かといって、若い時の私がモテた、という訳ではないのであるが。
つまり、このごろのモテる男というのは女性の愛玩用なのである。愛玩用とはいっても、たくさんの女性にモテれば、彼女らの貢物は大変なものだろうから、なまじ社会で地味な生産活動をしている男より遥かに実入りは多かろう。それだから私のような意地悪ジジイにとっては、一層のシャクに触るのである。
近頃はコンビニとかスーパーが発達して、独身の男女でもそういう店から半製品を買ってくれば、自炊の真似事くらいはできる。
掃除しても、昔の日本家屋は木材と紙と土壁でできているから、いつとはなしに、部屋の中が汚れた。しかし当今の家は素材が頑丈にできているから、戸締りをしっかりしておけば、泥棒はもちろん、埃だって入りこめない。最近、仙台あたりの被災地に行った曽野綾子によれば、地震で壊れた家はほとんどなかったという。だから掃除など、ほとんど必要がない。
洗濯だって洗濯機の機能がよくなっているし、人々も実質的にキレイになっているか否かは別として、洗濯機で洗えばキレイになった、ことにしている。そしてコインランドリーなどというものもあるし、プレスの必要なものは洗濯屋に出す。つまり、一人暮らしをするのに便利な世の中になった。
昔は「男やもめに蛆がわき女やもめに花が咲く」といわれて、身の回りを整えるために結婚して、衣食住を整えようとした。また女性はいつまでも親の世話になっているわけにもいかないから、適当な男を見つけて、結婚という形で、その男の消費面を担当してやろう、という事になっていた。
しかし、今や一人暮らしがそれほど難しくないことではなくなった。そうなると男女ともに、結婚する必要などあるのか、ということになる。
異性が欲しけば、昔の男だと金を出して女を買ったものだが、今は気のあった女の子を誘えば、食事やデートにつきあってくれて、ついでに(?)セックスの相手だってシテクレル。何を好んで、特定の女とシンキクサイ結婚などする必要があるか、ということになろう。
女性にしても同じである。自分の両親を見ると、父親は家にいる時はむさ苦しい恰好をしているし、ステキなところなど何もない。母も、よくあんなのを憧れの男性と見たものだ、と思う。
それに比べると自分が付き合っている男性は、デートの時は精一杯、身ぎれいにして来るし、私の生活に干渉することもない。こっちだって気まぐれで、別の妙な男と付き合ってみるという楽しみもある。何を好んで結婚などするものか、ということにもなろう。
〆きっかけは、一人暮らしに飽きたころ訪れる
男女ともに二十歳前後で社会に出て働く。二十代半ばまでは親の家にいるから、生活の基盤はそこにある。そして、だいたいその年齢のころから、経済的にも心理的にも自立の段階に入り、親の家が狭苦しくなったとか、仕事の都合とか、その他の理由を言い立てて独立する。
当座は、前の節で述べたような一人暮らしの気楽さから、衣食住と異性関係を楽しむ。しかし自立して五年もたつと、スーパーで買ってくる半製品を食べるのにも飽きた、という気持ちになる。異性と何人かとつきあってみたが、誰も一長一短、最初ほどは異性との関係に感激を覚えなくなる。
そんな時、たまたま知人の家に招かれてご馳走になる。金目鯛の煮物に、こんにゃくの煮付け、大根の味噌汁、それに知人からの贈り物という地方の漬物、といったメニュー。その百パーセント手製の食事をしみじみと懐かしく思えて、うまい・まずいというよりも、個人の生活、家庭料理というものはこういうものだった、という気がしてくる。
そういえば、自分が育った家でも、毎日の食事はこういった平凡であるが、飽きの来ないものだったなと思う。
また異性関係でも、疑似恋愛というか、デートをして、気の利いたレストランで食事を共にして、愛したのどうだなのと、本当かウソかわからないような言葉を交わして、裸になって体をぶつけあう、ということは、あまり感激しないようになっている。
そうしているうちに、性的関係もないではなかったが、それとは別の共感も分かちあえて、何となく付き合っているうちに、最近の異性の知り合いとか、その人物の面白さやいかがわしさなども話し合える女性を意識するようになる。
この人なら自分のよそ行きだけではなく、素顔も知ってくれる。しかも何もかも承知のうえで、つきあってくれて、それなりに一緒にいると落ち着ける。ひょっとすると、結婚する相手というのは、激しい情熱の結果ではなく、このような物静かな関係の末に結ばれるのが本当ではないか。
そういえば、自分も三十歳も過ぎた。このまま一人暮らしを続けて晩年を迎えるとすると、そのころは相手をしてくれる異性もいないだろうし、そろそろスーパーの半製品には飽きて来ている。そうだ、この辺りで身を固めよう。
そんなことを思い始めた時に、たまたま相手から、
「あなたとつきあいも、もう、六年にもなるんだし、お互いのよさも悪さも分かっていることだし、どう、結婚しない?」
と言われて、ふと申し出を受け入れる気になる。
当節の三十代の結婚には、例えばそういったケースが少なくないのであるまいか。”できちゃった結婚”というものも、恐らく、その延長上にあるのだろう。
そもそも、二人でしげしげと会うということは、知人の目を考えると具合の悪いところがある。男の場合。
「お前、この間、一緒にいた女、やけに親しそうだったが、そういう関係か?」
と友人に聞かれると、
「別にそういう関係というのでもないのだ。同業者なんだけど、テキの情報を取るつもりで、近づいたんだけどな。妙になれなれしいヤツで、こっちが聞きもしないのに、上役のグチなんかこぼすんだな。
それで、思わず、それはウチの社でも同じだし、どこでもあることだよ、なんて言っているうちに、妙に打ち解けてきてね。
互いの会社は似たより寄ったり、わざわざ、情報を取ることもない、とわかったし、そのうちに、その相手の会社、ウチのライバルでもなくなったんだが、女と親しみだけが残ってね、ま、いろいろと、身の回りの相談にのってやっているんだ。それに、いつかはウチの社の役に立つこともあるかもしれないしね」
といった苦しい言い訳をする。
彼女の方も、同僚に彼と一緒の所を見られて、
「ああ、あれ、彼は大学の二年上なの。学生時代は顔を知っている程度だったんだけど、同じ業界に勤めることになって、向こうはウチの社の様子を探りに来たんじゃないかしら、
でも、社内の秘密といったって、アタシのような下っ端にわかるようなことはほとんどないよね。会社の話をしているうちに、アタシの会社でのグチになっちゃって。彼は親身に聞いてくれるのよ。それで、スパイ同士が、友人になっちゃたってわけ」
と、こちらも同じような言い訳をする。
〆こうして結婚という罠に落ちる
それだけ親しくなると、毎日のように電話するようになる。彼が風邪で三日も寝込んでいるという。熱の高いうちは食欲もなかったけれど、微熱程度になって、体を動かすのが億劫だ、と聞いて、つい女心が動いて、消化の良さそうなものを買って行ってやる。出来合いをもっていくだけでなく、最初は卵入りの雑炊のようなものを作ってやる。
彼はそれをすごく喜ぶ。そして食後、彼を寝かしつけようとしていると、突如、抱きついて来た。それは風が治ったしるしとして、適当にあしらうつもりだったのに、本当に抱かれてしまった。それ以来、外で会うと人目を気にしなくてはならないから、彼の部屋の鍵をもらってこっそり入り。夕食の準備をして彼を待つ、というデートのスタイルになった。
あるいはまた、二人で飲む。互いに心の底に、単なる友情ではない、もやもやとしたものがあるのに、言い出しかねていて、ついつい、度を過ごしてしまう。酔い過ぎた彼女を彼が部屋まで送ってゆく。
ベッドに横にしたの、彼女がいかにも苦しそうなので、服の胸元を緩めたら、乳房がポリとこぼれ出た。アッと目を反らしたら、靴は脱がしたものの、ストッキングを履いた脚が、苦しかったのであろうか、両膝を立てていたもので、下穿きまで丸見えになっていた。
「ごめん。考えて見ると、今夜、飲んでいたのは、君に対する、こういう思いを口にしようとして、言い出しかねていたんだ」
と心の中で思いながら、その場でなるようになってしまう。逃げ帰るのも卑怯に思えて、そのまま彼女のベッドで寝てしまう。
突如、目が覚めた朝かと思うと、まだ真夜中である。彼女が揺り起こしている。
「どうしたの? いったい」
彼女の声は真剣だが、特に怒った様子はない。
「いや、すまん。今夜、誘ったのは、君が欲しいという事を言いたくて、それがどうしても言い出せなくて、君にも飲ませ、ボクも飲んだ。君をここまで送ってきた、ベッドに寝かしつけようとして、服装をいくらかでもラクにしてやろうとしたら、あんまり君が魅力的だったもんで、つい、逃げるのは卑怯だと思って、君の傍にいて、犯人は私です、と告白するつもりだった」
「それだったら、何も、こんなことをしなくても、シラフの時にちゃんと言ってくれれば、アタシだって、それなりの準備や服装をしていたのに。何が何だかわからないうちに、こんなことになるなんて」
「ごめん」
「いいわよ、わざわざ、謝らなくても。今度、こういうことをするんなら、予めチャンと断ってからにしてね。アタシにとっても重大なことなんですから、酒でごまかされて、というのじゃ、悔しいわよ」
「悪かった。これからはちゃんとした申し出をして、ラブホテルではないところに部屋を取るから許してくれ」
と言ったやりとりになるかもしれない。
そういうことがあると、なまじ外で食事などして、あてもなく夜の公園を散歩するよりも、彼女の部屋なりで、一緒に食事を作って、ほろ酔いの状態でベッドインということになる。
そうなると半同棲というか、事実上、結婚しているのに近い状態になる。
「会社の人の手前、あなたの会社、ライバル会社でしょ。今は何ともないにしても、また一年前のように入札競争、なんてこと、ないとは言えないわよね。そうなると、お互い具合の悪いことにならない?」
「うん。ボクもそれを考えているんだが、ボクの収入だけでは二人の今までの生活レベルを維持するのは大変だから、つい言い出しかねていたんだ」
「そう、じゃあね、待遇はいくらか悪くなるが、ウチの事実上の子会社みたいな小企業があって、そこの営業部長と親しいから、そこに頼んで君を入れてもらう」
そんなことから、二人は親しい人たちだけを招いて、結婚することになる。
第九章 夫婦は「異性」から「親」になる
〆「友愛」関係から「同志結婚」へ
当今の結婚は大昔のように、見合いというのは珍しい。だから、
「アタシ、今度、結婚するの。恋愛結婚よ」
などとあらためて言われると、三十代の女性なら大概、
「え、恋愛結婚だって? ちょっと期待外れだわね」
という反応を示すだろう。
それに男性と女性の接触の場が多くなると、昔の恋愛のような、遠くからハンカチを握りしめて憧れの目で見上げるとか、朝の通勤の時間を見計らって同じ電車に乗り合わせた時は幸せ、なんとか口をきく機会を作らなくては、といったロマンチックなケースは少なくなった。
男女ともに三十代ともなれば、それまで知らなかった異性をみかけても、ああ、あのタイプね、とだいたいの予想はつくから、今さらのように感激したり、好奇心を持ったり、といったことにはなりにくい。
とにかく、ライバルの会社の社員同士であろうと、社内恋愛であろうと、学校時代の先輩・後輩の関係が社会人となって復活したのであろうと、はたまたコーラスグループでの知り合いであろうと、知合った機会は何でもいい。
さまざまな異性関係を経た三十代ともなれば、鳩山由紀夫元内閣の言葉じゃないが、「友愛」を異性に感じて、その関係の結果、結婚ということになる。そうなると意外と多そうなのが、同業者同士の結婚である。
例えば出版界なら、編集関係同士、編集者とライター、カメラマン、グラフィクス・デザイナー、マンガ家の助手、印刷関係の企業の社員など、とにかく会社は同じであろうと、違っていようと、一つの業界はその関連を含めると、かなり広範なものがある。
そうと思えば、大学の准教授、弁理士、公認会計士、法律家、医師などの高級な資格を持っている女性だと、大概の男は恐れをなして近寄らない。それで、同業者とか、ハイレベルの国家資格を持つ者同士の結婚、ということも近年少なくないようだ。これを「同志結婚」と呼ぶことにしよう。
阪田寛夫の詩で、結婚というものを考えてみたい。彼は私が旧制高校に入った十七歳の時からの親友である。
社会に出てからは、私は大学の教師をしながら小説を書き、彼は創設早々の朝日放送の第一期として入社して、プロデューサーとして活躍して芸術祭賞も受賞し、また詩人としても従兄の作曲家、大中恩(めぐみ)とともに、多くの童謡を作った。
彼は二〇〇五、七十九歳で亡くなった。私が葬儀委員長を務めた。そんな大仰な葬儀になったのは、彼が藝術院の会員、一種の国家公務員だからで、私はその院長だった。
私が弔辞を読んだ。最後の自分の名前の前に「日本芸術院長」という肩書を入れるのだが、彼の場合は特別に「友人」と付け加えた。そうせずにはいられなかった。
そういう訳だから、ここで彼の詩を引用しても、彼は怒るまい。
〆やっと一緒になれたのに。こんなはずではなかった
私は彼の才能を十七歳の時から認めていたのだが、物事には運というものがあるから、文学の世界では私が先に出てしまった。その時、私は彼に言った。
「槍投げは、誰が先かということは問題ではない。何メートル飛ばすかだけが、問題なのだ」
彼は立派に文学という槍を遠投した。彼の全詩集が熱烈なファンの手によって出版された。その中から引用したい。
「結婚について」という作品の後半にこうある。
結婚直前ぼく最大の喜びは
もうどんなに遅くまでこの人と一緒にいても
誰からも叱られずにすむことだった
結婚後ほかのひとやものに心を奪われて帰宅が遅れ
その人から叱られるとは思いも及ばなかった
二人の男女が友愛結婚、同志結婚に至るまでの間、会う必然性もないのに、しげしげと会っているということは、社会に対してはばかるところがある、という関係でもある。それで二人は会うための名目とか、機会とか、時間をやりくりし、しかも知人と顔を合わせないようにする。
結婚によって二人の中は公明正大になる。しかし二人の間と一般社会の間には、目に見えない垣根ができていて、その垣根の外に出る場合でも、配偶者を意識して、さまざまな行動の制約を受ける。
もちろん、男も女も、結婚前のように気軽にほかの異性と交際することなどできない。結婚前だと、二人の仲をカモフラージュする必要があるから、ことさらに別の異性たちとくだらない交際などもしたものだが、結婚後は、そんなことは第一、配偶者が許さない。
それどころか、前は仕事の延長と称して、居酒屋などで配偶者になる女と会っていたのに、結婚後は会社の勤務を終えたらすぐに帰ってこい、という暗黙の配偶者の表情がある。要するに二人だけの世界があれば、ほかの全てそのための原資を得る手段でしかないということである。
夫が課長から、
「どうだ、キミも係長になったんだし、ゴルフをやってみないか。ちょうど、練習用に今は部長になっているAさんから貰った古いクラブがあるから、それを譲るよ。練習してみたら?」
と言われて、始めたゴルフが意外に面白い。練習場は夜でもやっている。残業のない金曜日など、退社後に練習場に通い、九時ころ帰ってきて、
「腹減った。何か食うものある?」
と言うと、妻は必ずイヤな顔をする。
他方、結婚後また働き出した妻は、会社のバイトから本雇いになる。会社は小企業だが家族的である。そこで社長夫人と知りあい、演劇に誘われる。また社長からもその付き添いを頼まれる。結婚の事情から元の会社をやめて、夫の口利きで、バイトから始めて途中入社した勤め先の、小なりと言えども会社の社長の頼みである。
タクシーで劇場に行き、夫人と一緒に劇場で食事をして、その後タクシーで社長宅まで送ってゆく。そこから自宅までタクシーを使うことは許されている。
そういうことをやっているうちに、彼女は次第に演劇が好きになる。付き添いは月に一度ほどだが、やがてそれが楽しみになる。
そうして上機嫌で帰ってくると、一人でテレビを見ていた夫が不機嫌である。
「また、芝居か。あそこに就職を頼んだのは失敗だったな」
などとイヤミを言われる。
とにかく昔は二人きりになれた、それだけで無条件で嬉しかった。あのころは都合の悪いことがいろいろあったのが、やっと一緒になれたというのに、結婚すると何かというと、相手は不機嫌な顔をする。結婚前とは反対ではないか。こんなはずではなかった、と誰しもおもうのだが、結婚の実体とはそんなものなのである。
〆父親のことを「えらいえらいとだれもほめない」
やがて子どもが生まれる。例によって阪田の詩を使う。「家族について」という題である。
キリスト教では、聖母マリアは聖霊のお告げを受けて神の子キリストを産んだ、ということになっている。阪田も私もキリスト教信者だが、宗派が違うので、彼の宗派での聖母マリアの存在意義については、私はよく知らない。しかしいずれにせよ、キリストは神の子である。
ところでマリアには婚約者、ヨゼフがいた。もし彼がその子は自分の子ではない、と言うと、マリアは父なし子を産むことになる。
当時から今の中近東において、未婚の娘が父親のいない子を産むことは、まるで雄犬との間に子を産むのと似た不道徳と見なされた。しかしヨゼフは立派にマリアのために、そして生まれてきたキリストのために、夫として、また、父としての役割を果たしたのである。
この詩で阪田は、どの父親にもヨゼフのような面があることを示唆している。
子供は母親のものである。珠に、夫が生産者として社会で働き、妻は年齢のこともあり、母や主婦としての仕事が多くなってきて、仕事をやめて専業主婦になると、もはや、子供の親というのは、母親だけになってしまう。
前に引用した詩で察しられるように、阪田は配偶者から叱られるようなことをしたらしい。
父親についての阪田の詩は、世の父親をヨゼフにたとえている。
(前略)
ヨセフさんはふつうのとうさん
神さまの家族をロバにのせて
エジプトにふたりへ逃げのびたり
心配苦労のたえまがないのに
えらいえらいとだれもほめない
ですからうちのとうさんも
ほんとは黙って心配しているのかな
えらいえらい
誰も、珠に妻は父親の苦労など認めてはくれない。ウチのおとうさんはロクでなしなんだから、といった態度を取るばかりである。
阪田夫人はそろそろ老年入りかな、という年齢で脳梗塞になった。最初は天ぷらを揚げていて、視野の上半分が見えなくなった、と言い出したとか聞いた。それから何度も脳梗塞を起こし、肉体的にはともかく、精神的には認知症的な状況が酷くなった。それについて、彼は「ゆるしについて」という題で、次のような詩を書いている。これは全文引用したい。
四度目の脳梗塞はひどかった
夜の底の病院で握りつけぬ妻の手を握った
この事態の遠因も近因も私にある
私は萎(しお)れて「ごめんごめん」と言った
喘いでいた妻が、そのとき
「いいのよ」と表情で答えた気がした
微かに握り返す気配さえてのひらは感受した
二日後、見違えるほど楽になった妻に
よかったなと、今度は気軽に手を握ったら
たちまち振りほどかれた
本復じゃ
私は夫人の脳梗塞の原因は阪田にあるかどうか、二人の間にどんな事件があったかは知らない。しかし彼が二十六歳で結婚した時、私は豊(とよ)夫人に言った。
「あなたは彼と一番親しい仲になったつもりかもしれないが、ボクと彼とは十七歳の時からの付き合いなんだからな」
私としては、彼の豊夫人の夫であるよりも、文学者であるから、その仲間との関係を重視してほしい、と言うつもりだった。ところが豊夫人は言った。
「アタシ彼との仲は、幼稚園に入った日に、最初に『お友達になりましょう』と言うので、オユウギをすることになった時に、手を握って以来です」
私としては一言もなかった。
〆負い目はなくとも「ごめん、ごめん」と言いたくなる
とにかく、脳梗塞を起こした夫人に対して、夫たる阪田が『ごめん、ごめん』と言わなければならないようなことがあったどうかは知らない。しかし、たいていの夫、それも妻に誠実であろうとした夫なら、妻が重病になれば、「ごめん、ごめん」と言いたくなるのではないだろうか。
われわれ二人が十七歳で高校生だった頃、阪田の好きだった小説、漱石の『三四郎』の中で、美禰子(みねこ)が聖書の文章を引用する言葉、「われは我が咎(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」について、しばしば話しあった。
原罪なるものと、人間として生きていく意識的・無意識的に犯す罪とは関連があるか、といった問題であった。関連があるなら、人の罪はすべて原罪に繋がるのであり、あらゆる人間の罪は神が背負わなければならない、といった議論であった。そうでないとしたら、人間的な罪は、人間が神に与えられた自由の産物であって、それは基本的には善にも結びつく面があるのではないか、といった、高校生ならよくやるような空理空論である。
私はこの詩を読んで、「ごめん、ごめん」と豊夫人に言う阪田の中に、美禰子の聖書の引用を思い出したのである。
確かに阪田は、家庭では生産者としての顔ばかり見せて、妻や子供たちを消費者として対処して、彼らを労わり慰める、といった愛情を示してこなかった、少なくとも彼の主観として、事あるごとにそう感じて来たであろう。娘に自分のことを「オジサマと呼べ」と言ったという浮気事件(?)を起こしたのも、そういう彼特有の罪悪感からであろう。
だから、ベッドに伏す夫人にすげなく手を振り払われた時に、ああ妻はふだんの妻になった、病気は治った、と思ったのである。
「飲む打つ買は男の甲斐性」という言葉あるが、私は六十年ほどの結婚生活の中で、二日酔いになったのは一度きりである。勝負事は嫌い。囲碁の初段の免状を持っているが、これは身に過ぎた事と思うから、それ以来、囲碁の石に手を触れたことはない。また女を買ったことは天地神明に誓ってない。
韓国の国際ホテルに泊まった時、ホテルのサウナに入ってマッサージを頼んだら、その女性から売春を持ちかけられたことがある。「アイ・ウォント・モニー(金)」と彼女は言った。その時はホテルの部屋に妻もいたこだし、断った。
また、青年海外協力隊の用事でフィリピンの田舎町に行った時、そこの名士に手土産代わりに、今ならケータイだろうが、小型ラジオをプレゼントしたことがある。すると、彼は日本人の男なら、と思ったのだろう、私が食堂から自室に戻ってみると、一人の女が私のベッドに腰かけていた。
びっくりした私は何が何だかわからないうちに、彼女を追い出した。すると彼女はしつこくドアをノックする。「マイ・シューズ」と言っているようだ。見ると、ベッドの脇にハイヒールが転がっていた。ドアを開けると、彼女は靴を抱えて逃げるように部屋を出て行った。
それでも妻が重い病気になれば、阪田のように、私は「ごめん、ごめん」と言うかもしれない。少なくとも、彼女の最期は私が看取ってやろう。それが夫としての私のツトメ、という気がするのである。
〆異性としての魅力に鈍感になった時、本当の結婚がはじまる
結婚によって、何が得られるか。それは相手の心と体を自分専用にすることができること、と思うのは浅はかというよりしかたがない。
見事な弦楽器のような曲線を描いていれば新妻の体も、結婚して十年も経てば、ただのズタブクロになる。ほかの男の目は誤魔化されても、夫にして、妻がどんなに着飾っても、その実体、というかその肉体は見え見えなのである。
男の場合も同様で、かつての逞しい肉体も、ダンディズムも、結婚十年で見る影も無くなってくる。
私の場合、二十七歳で結婚して、五年ほどたった時に着替えをしていたら、妻が言うのである。
「あら、あなた、おなかが出てきた」
言われてみると、今まで見たことのない我がヘソが見える。つまり腹が出てきたのである。もともと、私はレスラーのような逞しい肉体の持ち主ではなかったから、腹が出てきたからといって、肉体が醜くなった、というほどではなかった。それでも結婚五年目で、もう肉体の衰えが始まったのである。
婚約時代、専任ではないある大学の入試の立ち番を頼まれた。もともと、気が進まなかったのではあるが、受験生たちの頭を眺めているうちに、猛烈に婚約者の顔が見たくなった。それで仮病をこしらえて、途中で試験監督をサボって彼女の家に行ったことがあった。
もちろん、結婚すると、授業をさぼってまで家に帰ろう、などとは考えない。帰る所は家しかないのだから、時間が来れば帰れるさ、という気になるのである。
よく芸能人などは、まだ男は逞しくダンディで、女性の方は美しくセクシーなのに、離婚してしまうカップルがある。あれは多分、互いの容姿に飽きたのだ、と私には思える。たとえどんな美男美女でも、一緒に生活して何年かすれば、ハナについてくるのは当然ではあるまいか。
だから本当の結婚は、お互いの異性としての魅力に鈍感になった時から始まる、といってよいのである。
そして相手の体への関心が薄らぐ頃、子どもが生まれる。子供が生まれないようにしている夫婦では、それだけ離婚の可能性が高まる、といってもよい。
互いに異性としての魅力を感ずることもなく、単なる共同生活者となると、生活を共にする異性が現在の相手でなければならない理由があるか、という問題も生ずる。
そして子供が生まれるというのは、妻にとって、肉体的にも精神的にも大変な重圧であり、負担でもある。
前に書いたが、夫の遺伝子を持つ胎児の存在に、妻の肉体は拒否感を示す。
それがツワリであろう。お腹の子が次第に大きくなるにつれて、行動の自由が制限される。通勤の満員電車などには乗れない、という状況になる。
あげくの果てに出産である。これは普通の場合、外科手術と考えても、かなり大きな手術に相当するのではあるまいか。しかも出産の肉体的衝撃から回復する余裕もなく、育児が始まる。当初は授乳だけにしても、やがて退院すれば、オムツの世話をし、赤子の体を洗って清潔を保ち、夏ならアセモ、冬なら保温の配慮をせねばならない。
この段階で、たとえ退職しなくとも、職場では子持ちで、強力な戦力にはならない部類に入れられる。育児と仕事は、両立できるほど単純なものできない。妻が退職した場合、夫婦生活の要領がのみこめて、妻は消費活動が巧みになり、夫の収入だけでやりくりする技術を身につけた、といってもよいし、またその頃になると、夫の収入も増えてくる、といったこともある。
それに妻は仕事をやめれば、仕事をしていたがゆえの必要経費――服飾費とか小遣いとか交際費というもの――がいらなくなる、という事情も手伝っている。
そして妻は次第に女性としての魅力を失うというよりも、女性が母になっていくのである。
〆子供が生まれると、女は母に、男は父になってゆく
何年か前に電車の中でOLが交わしていた会話で、今でも忘れられないものがある。一人が言う。
「○○ちゃんとこの赤ん坊が生まれて、半年かな。あんた、行って見たんだって? どうだった?」
「うん、赤ン坊は可愛かったわよ。瞳なんか真っ黒でくりくりしているし、ぷりぷりと肥っていてね。でもね、○○チャンがすっかりブスっぽくなっちゃって」
ブスっぽくという言い方に、私は笑いをこらえるのに苦労した。
言うことはわかる気がした。○○ちゃんは結婚当初までは、ともかく女性としての魅力を失うまいと努めていたのだろう。それが女から母になるにつれて、昔の仲間から見ると、彼女は女性として魅力的であろうとする努力をやめて、母になったのだ。
そのことは父親である夫にしても同じことだ。とにかく妻子を養うために働くのだ。無理しても、仕事に精を出す。もう、女性としての魅力を失った妻と二人だけの時間を楽しむユトリは消え、父親になってゆく。
高度経済成長期の男の話である。彼の仕事は朝出勤して、その時刻に真夜中になっている米大陸からの、今ならファツクスだが、当時でいえばテレックスを読んで、それを必要な社員に伝えるためにコピーを取る、そして午後は日本と八時間の時差があるヨーロッパの午前中の情報をテレックスで受けて、それを処理して帰る。
つまり彼は朝早くから夜まで会社にいた。それで朝家を出る時は、子供はまだ眠っているし、夜帰宅するともう寝ている。彼としては子供の寝顔にキスして出勤し、帰宅すると、昔のように妻にはもうキスする習慣もなくなっていたが、子供にはキスしてから風呂に入り、妻を相手とって、軽くビールを飲んで床に入り、ほとんどの瞬間に眠りにつく、ということになる。
だから子供と話すのは日曜。休日だからゆっくり眠ろうと思うが、九時頃に子どもの明るい声で目が覚ます。その日は終日、子供と時間を過ごす。欲しいというものがあれば、一緒に買いに出かける。いいパパぶりを発揮しているつもりだった。
彼としては毎日朝晩、子供と顔を合わせている。当然のことながら、子供の成長はちゃんと知っている。しかし子供にとってはそうではなかった。
ある日曜の夜、床についた子供が、父親の首にしがみつきながら言った。
「じゃあね、お父さん。今度、いつ、来るの?」
子供にとって父親は、週に一度来る親切な人に過ぎなかったのだ。
「ショックだったなあ、あの時は。仕事もほどほどにしなくちゃと思った」
第十章 配偶者は生活の伴侶
〆男性と女性の間にある、いくつもり極
昔は、人間には男性と女性しかいなかった。
しかし近頃は、男性と女性というのはそれぞれが一つの極でしかなく、ほかに幾つもの極がある、という考え方の方が一般的になった。
男性の同性愛ホモと女性の同性愛レズ。自分は女性だと思っているのに体は男性という極や、心は男性なのに体は女性という極。性の対象に対して愛玩用的になろうとする極。そのすぐ隣には愛玩を超えて、相手を責め苛もうとする極。そして愛玩の対象となりたいという極。愛玩では物足りなくて、責め苦を受ける時、自分の性への思いが骨身に徹して理解できる、という極などがある。
これだって、極の主なものであって、そのほかにさまざまな極がありうる。そして一人の個人として内省すると、自分は幾つかの極と関係がありながら、それぞれに遠近があることがわかる。
ほとんどの男女は、一番基本的な極から対象的な極まで振り幅があり、一人の男性(女性)から一人の女性(男性)に対して、愛慕とともに、二人だけの関係を持ち、その際は人間であることを忘れて、他の動物と同じようになっても構わない、と考えるようになる。
もちろん、対象の選択、情熱の表現の仕方にはさまざまな極の影響があるにしても、ほとんどの人は最大公約数的な男女関係という形で、異性への情熱を燃え立たせ、消費する。だから人類は絶滅することなく、さらに文明の発達によって、さまざまな自然環境に対応する技術を開発して、その結果、数十億という数に達した。
もし人類の最大公約数がホモとレズになったら、人口は減少しただろう。
他の動物にも、人間のような、性関係に多くの極があるのだろうか。群れをなしている哺乳類の中には、オットセイのように、一つの群れには雄が一頭、ほかはすべて雌というケースもあるという。
たとえばニホンザルでは、群れに優越する雄がいて、その支配下には雌がいるのが主流だが、雌が産んだ雄、あるいは群れに紛れこんだ雄が入る場合もある、という記事を読んだ記憶がある。そういう場合は、力の弱い雄は、ボスに対して雌のように従属的な態度をとるという。
我が家で飼っていたボタというネコは避妊手術をした元雌であったが、二十二歳まで生きた。妻の曽野綾子が、ボタの餌の種類を最初から限定していたために、食卓に上がって、人の食物を漁るという事はなかったが、人間の命令に従順であったとはいえない。
私の愛用する椅子がお気に入りで、油断するとすぐに占領する。その度に私は邪険に放りだしていのだが、ある時、私の顔を見ると、従順に椅子を降りた。感心、感心と思ったら、そこにしたたか尿を残していた。私はボタの顔をその尿にすりつけ、体で拭き取るようにした。ボタはされるままにしており、それからは、目立って、私には従順になった。
毎朝、ボタを見ると、私は軽く蹴るようにしていたが、いつの間にか、逃げもせずに、仰向けになって、私のスリッパを腹で受けるようになっていた。これも猫の媚態であろうか。つまり雌ネコは、この雄なら身を任せても仕方がない、と諦めると、走って逃げませんという姿勢として、仰向けになるのだろうか。
人間はよく、「自然の営み」とか「自然の移り行くさま」などと、自分たち人間は自然の外にあるような表現をするが、人間だって自然の一部である。ただ、ゾウやチンパンジーよりも、その行動が自然界に残した名残りが目立つし、永続的だ、というにすぎない。
ゾウの群れが行動した跡は、食べ物にされた大量の植物がなくなっているだろうし、草はなぎ倒され、著しい排泄物を残すだろう。しかしその痕跡は数十日のうちに消えてしまう。チンパンジーが食べ物を探しながら移動した跡には、折れた小枝などがあるかもしれないが、これなどはほんの数日でその影響は消滅するだろう。
ただ人間だけが、その存在跡を長期間残す。たとえばエジプトのピラミッドは、数千年間も残存しており、今になると、どのようにして造られたかのか、何のためだったか、といったことが人間自身にすら研究者が議論しないと結論が出ない、といった状況になっている。
しかし、ゾウの行動の痕跡は数十日、人間の営みの痕跡は四千年といっても、地球の年齢から考える、人類が滅亡して十億年も経てば、その存在は物好きな宇宙人にも、なかなか探る事はできないであろう。だから人間たって自惚れてはならないのだ。
その証拠に、人間だって、サルのように、オオカミのように、スズメのように、カエルのように、雄と雌が合体して子孫を残そうとする。その際、自分の遺伝子を残す相手の異性を選択しようとする点に共通点がある。
昆虫、水生動物も雄雌の別はあり、それぞれに生殖活動がある。あるいは実は結ばないことも多いから、「生殖的活動」というのを付け加えねばならないかもしれないが、これらの種では、意図的な異性のDNAの選択は行わないように見える。
〆男はなぜ、女の体に触れたがるのか
人間の性の問題について、多くの極がある。し、この章の始めに書いたのは、その選択の基準が複雑であり、その結果、さまざまな変化系ができてしまった、というにすぎないだろう。
私は自分を男性だと自覚しているし、性の対象は女性である。その証拠に、電車の中などで、二人分の席を占領してふんぞり返っている若い男を見ると、
「ちょっと。失礼。座らせてください」
などと言って、その隙間に尻をねじ込むようにしている。私のような老人に対して、暴力を用いても拒否するような若者は先ずいまい、という甘えである。つまりこういう男の若者に拒否感がある。これも男性ゆえのものであろう。
それが、短いスカートやショートパンツ姿の女性を見たときの反応は違う。私に言わせれば、それらはサルマタだが、自分の脚の付け根まで見られることを恐れてのことだろう。持ち物を脇のシートに置きそうなものなのに、膝の上に乗せている。それを見ると、
「そんなら、最初から股座が見えるような服を着なきゃいいんだ」
と思いながらもほほえましい。バッグの中から道具を取り出して化粧をはじめても、
「自分の家でやってくればいいのに。ああ、あ。あれじゃスッピンのほうがずっとましなのに」
と心の中で呟いても、悪い気がしない。
それどころか、男の若者が二人の席を独占すると、腹が立つ癖に、女の子が膝に乗せて、脚の奥が見えないようにしている書類入れを、脇のシートに置いてくれれば大歓迎である。つまり私は男性に対しては拒否感があり、女性に対しては無条件に甘いところがある。
そして女性と肉体的に接触しても拒否感はない。私が電車の中で、なるべく若い女性に近づくまいとするのは、電車が大揺れした弾みにうっかり肌が触れたりすると、痴漢扱いにされることを恐れるからである。そいうことは、そうなる危険性、つまり肌に触れてみたい、という欲求が十二分にある、ということである。
私と阪田寛夫は、十七歳の時、寄宿舎では同じ六畳で暮らした。それでも当然のことながら、肌を触れ合ったという記憶はない。
その六畳には、一間、つまり一八〇センチ余りの押入れがあって、その上の段、普通は夜具などを収納する場所に自分の夜具を敷いて、私は自分専用のベッドとした。万年床にするなら、畳の上より押し入れの上段のほうがシッケないと判断したからである。少なくとも彼と床を並べて寝よう、などと最初から念頭になかったといえる。
いや、彼と私だけではなく、私たちの部屋に遊びに来る同級生たちも、夜遅くなったとしても、阪田の寝床で一緒に寝る、などということはなかった。
ただ、私達と親しかった別の男と阪田が一度だけ、どっちが柔道が強いかと言い合った末、本その他の雑物のせいで、畳もろくに見えない六畳でドタバタンやっていたことがあった。その間、私は自分のベッドで本を読んでいた。
急に静かになったのでふと見ると、二人は半裸の状態でもつれ合ったまま、じつとしている。その時、私は同性愛のことなど全く考えなかった。二人は力を使いつくして、動く体力もなくなったのか、と思った。
しかし、よく見ると状況は違っていた。二人は互いに相手のパンツを脱がそうとし、それを拒もうとして両手が塞がって、身動きできなくなっていたのである。
私が笑うと、二人は照れたように笑いながら、互いの手を離した。
事情聴くと、こう言う次第であった。
最初、立ち技で投げ合いをしていたのだが、二人ともインチキ柔道だから、投げ技が決まらない。結局、寝技のようになった。とうやら下になった阪田が押さえ込まれそうになって、窮余の一策として、相手のパンツを脱がそうとした。阪田をほぼ押さえこみ、首締めにかかって相手は。パンツを脱がされそうになると、少なくとも片手を離して、阪田の手を妨害せねばならない。そうなると当然のことながら、首締めはできなくなる。それでは、というので、互いに相手のパンツの脱がしっこを、となったのであった。
パンツを脱がしても、それは同性愛的な性愛をするためではない。相手に恥辱を与える、ただそれだけのためのものである。そんなもの。どうせ醜悪なのだから、見たくもない。それだけに衆目にさらしてやれば、相手を辱めることになる、というリクツなのである。
〆人間もケダモノの一種である
その点、対女性となると、まったく話は違う。私は女性と知りあっても、近くへは寄れなかった。その存在、男性とは異質なほのかな体臭、それだけで惑乱してしまうのである。それでも、できることなら彼女に触れたいと思い、その裸を見ることに憧れた。だからギリシャ彫刻でね、西洋の名画でも、裸婦像があれば、一人きりで固唾(かたず)をのんで眺めたものである。
ただ人間社会には、ニホンザルの群れと違う、さまざまなルールがある。それで、女性の肉体に関心がないように装わねばならなかったのである。
つまり私は、というよりも男性は、自分のDNAを振りまく機会があれば、いつでもそのチャンスを利用しようとする傾向がある。サケの雄が雌の産卵したのを見つければ、そこに自分の精液をぶちまけるのと共通の性の衝動がある。
女性は妊娠、出産、育児という面で男の知らない苦労があることを、本能的に知っているのだろうか、男性を拒否するような態度をみせる。少なくとも男性のように、異性に積極的に接触しようとすることはない。
それどころか、、女性同士結束して、男性に対抗し、拒否しようとする傾向から見える。女子高校生たちは、手を握りあったり、互いにハグしあうことにそれほど抵抗はなさそうである。
普通、日本では男同士手を握りあったり、抱き合ったりするのは、たとえば団体競技で、互いの協力の結果、試合に勝ったような場合だけであろう。
それだから私は、エジプトで、大の男が縞のパジャマの上下を普段着として着て町中を歩いているのを見た時に違和感を覚えたように、イスラム圏で、男同士が手を取り合って歩いているのを見た時、妙な、たとえば異質な世界に来たように感じた。
男性を拒否するように見えるのは日本の女性でも、これという男性なら、あるいは結婚することになった男性なら、肌に触れるのを許すし、場合よっては、そういう行為によって、それまで眠っていた異性への情熱や共感が爆発的に起きて来ることもあるようだ。
つまり人間もやはり自然の一部だから、女性がしばしば男性の行動をケダモノみたいと非難するが、女性を含めて、人間もケダモノの一種なのである。
〆男性の女性選びは、有能な子孫を残せるかどうか
すべては生活力の強い生命を作るための自然の企みである。いや、自然そのものにはそのような意図はないにしても、生物という存在自体が、地球物理・科学的状況、あるいは宇宙物理・科学的状況に反逆して――物理・科学から基本的に逸脱することはできないにしても――それとは別に、自己の意図というものを主張しようとするし、それにある程度成功した物質なのだ。
生物は当初、無機物を吸収することで、自己拡張に成功し、無機物の吸収をより有効にするために、自己分裂して、より広い場で無機質を吸収するようになった。やがて一つの生命体に分裂してゆくうちに、次第に活力を失うことに気づいた。無機物ではなく、他の生物を吸収するほうが、より効率的、ということになる。他の生命体に寄生するというか、他の生命体を利用して生きる生命の出現である。
さらに生命は新しい方法を開発する。それまでも自己分裂によって、自分と同じモノを再生してきた。つまり当世風の言い方をすれば、クローンを作りつづけてきたのだが、他の生命、有機物を摂取するよりも、自分の命の本質、DNAのエッセンスの半分を、他の生命のDNAのエッセンスの半分と合体させて、古い材料ではなく、全く新しい材料で、生命体を作ること、つまり子をつくるほうが生命体の活力を造り出すうえで有効だ、ということになる。つまり有性生殖のはじまりである。
そして進化論を信用すれば、そのようにして発達した生命の最高に位置するのが人間である。有性生殖により、それぞれの個体はより有能になりうる。その結果、環境に適応するばかりでなく、環境を利用し、場合によっては改善する能力を持ち、集団生活をする場合、集団の中で有利な地位につける相手を、自分の子孫をつくる相手として選択するようになる。
男性がその機能として能動的であることは前節までに述べたが、男性による、女性の選択肢は、その意味では合理的である。
大きな骨盤を予想させる発達したヒップは、生殖力そのものの証であると見える。そして形が整っている大きな乳房はおそらく、授乳力を示すのであろう。ウエストの細さは骨盤と乳房の大きさを暗示するから、より細いほうが評価される。
下肢は、人間は野生から逸脱したとはいってもやはり行動的であるから、体躯を支えるための下肢が発達し、敏活そうなのが好ましく思える。また、上肢については、女子の仕事はこまごまとした、精密な作業を前提とする分野が多いから、その意味でもデリケートでありながら、活動性も豊かなものであることが望ましい。
そして決定的な要素の一つが顔である。
〆女性の顔と服装には、知性や教養が現れる
人間の生活には高い知能が必要である。直接体験したことではなくとも、先輩から教えられた過去の事実や、自分が体験した事実を記憶しておかねばならない。その記憶は現在と未来の事態の把握と、対応についての判断の基準になる。
しかし未来は過去の単なる繰り返しではない。新しい現象をとらえ、記憶を動員しながら対応を決定するのが、頭脳の前頭葉であるという。記憶と矛盾する現象を捉える能力、それは敏感であることが望ましい。しかも、新しい現象を前に圧倒されるのではなく、巧みに、成功するような形で対応する方途を見出し、実行せねばならない。
新たな事態の中には、非人間的な分野、あるいは生産的な分野である場合があるが、女性の第一義が消費面にあるとするならば、彼女らにとっての新たな事態とは、対家族、あるいは他の家族、人々の対応であろう。
人間の顔は動物の顔より遥かに表現力に優れている。少なくとも人間同士なら、対動物の場合よりも、表情によって、その人の内面を読み取りやすい。
だから女性の顔に求められるのは、伝統的には対人的に物事を円滑に運べるような要素――温かさ、優しさ、親切さ、人を和ませるような穏やかさ――であった。
頬は豊かな方がよいのであろう。頬の肉付きは衣服を脱いだ時の彼女の肉体を暗示する。
額も、その骨は頭の前頭葉を覆っていて、人間の骨の中でいちばん硬いといわれるが、あまり圧倒的では困るから適度な大きさで、しかも悪意とか判断の間違いをしなそうな、曇りのない印象を与えるものがよい。
口があまりに大きかったり、歯がむき出しになっていると、食べ物を大量に消費するばかりではなく、他人の分まで消費しそうだから、適度な大きさがよい。
鼻は呼吸を司るのだから、多分、その整い方は、肉体の潜在力を反映するだろう。
何よりも大事なのは、目であろう。この評価は文化によってかなり違う。人種的に大きな目、小さな目があるが、女性に積極性を期待する文化では、大きな目、つまり心の動きが外から読み取りやすい。ような目が好まれる。また女性の社会や家庭での役割が、少なくとも対男性においては、消極的であることが望ましい文化では、小さな目が好まれる。
日本人のような、人種的に目の小さな民族では、積極的な女性の目は「切れ長」とかいう表現が使われたが、それは実際に目が大きいとか、目尻が切れ上がっているとか、というよりも、それだけ目の動きが大きいことを、そのような言葉で表現したのであろう。
そして最後になるが、決定的なのは服装である。服装によって、女性の教養や社会的地位、美意識などが分かる。モンローだって、写真を見ると、スターになる前と後では、表情や髪の色も違うが、何よりも服装が違う。また服装に支配されるのであるが、身のこなしが違ってくる。
男性の場合でも、同じだ。
まず、生産者としての体躯。具体的には狩猟、農耕民であった時代からの価値観に基づいて、筋肉が発達して骨格の逞しい体が望まれる。
四肢についても同様である。逃げる獲物を追うことのできる敏捷(びんしょう)な脚、敵と戦って相手をしとめることのできる強靭な腕、武器をしっかり握れる頼もしげな手。
顔は苦難に耐えてそれに打ち勝てるような、強さと気迫を感じさせるようなものが欲しい。歯はもっとも素朴な武器であることを思えば、顎(あご)が発達しているのは、女性と違って悪い条件ではない。白人の男性で、顎の左右の筋肉が発達しているために、中央にくぼみができている人がいるが、その顎も女性にとっては性的魅力と映る事だろう。
こういった女らしさ、男らしさというものは、結局は人間の文明が、男女の関係をうるさく規定したために、それを乗り越えて、限定された異性との関係を深める場合の好ましい条件となる。
〆子供を産み育てても、老いて頼れるのは伴侶だけ
そしてそれほどまでにして、男らしさ、女らしさが必要なのは、やはり、二人が一緒になった時、単なる経済的理由のために二人のOLが一つの部屋で共同生活をするのと違って、究極において、子供を産み育てる環境をつくるためである。
その点では、動物としての人間の基本的条件は、他の動物とそれほど変わっているわけではない。男、女という分け方は、所詮は子供を産み、育てるための便宣にすぎないのだ。
ただ今日では、社会的には男女の差は次第に見えなくなろうとしている。これまで述べたように、男性は生産的、といっても、職業分野においては、消費的な役割を務める場合もあろうし、いよいよ社会性を強めつつある女性は、職業面でも生産的役割を務めることもあろう。今時、女性の社長などという存在は、それほど珍しいものではなくなろうとしている。
それでも、というか、今日的な男女でも二人だけの世界では、他の動物と同じように、衣服を脱いで抱き合い、生殖行為を行い、子どもを産み、育てねばならない。そういう一連の親としての行為の中で、男性よりも負担の大きい女性にあっては、社会活動を制限して、子供に時間とエネルギーを注ぐか、子孫を作るとことをやめて、社会活動を続けるかの選択を迫られる。
しかし、女性がそのどちらかの道を選ぼうとも、社会は、結婚した男女に特定の関係を認める。つまり生産活動がどうあろうとも、消費活動は共同になる。夫が稼いだ金も、妻が稼いで金も、夫婦単位であって、現在の日本の法律では夫婦の間では経済的貸借は成立しない。配偶者の財産を購入することはできるが、それを消費する時は、これは夫の所有だから、妻の物だから、と区別することは許されない。
従って、二人の間に生まれた子は、妻が払った労力が大きかったからといって、妻の親権のほうが強い、ということはない。
私の母は私が育ち盛りになると、肉料理の時など、かつては父の分が一番多かったのに、私の食べる分を優先するようになった。父はそれに不満な顔をしたわけではなかったが、母はことさらに、
「アタシはね、将来はこの子に養ってもらうんだから、今からサービスしておかなくてはね」
と言って、家族を笑わせ、そういう形で、私がいちばん大量の食材を摂ることを正当化したのである。
それは冗談にしても、結婚していないで、中年にさしかかろうとしている男女にとって、また子供のいない夫婦にとって、自分たちの心身の能力が衰える晩年の生活の形について、時にはふと不安を覚えることもあるだろう。
しかし現実においては、老いた親の生活の面倒を見る必要とあれば介護までしてくれる子供など、期待するほうが無理というものかもしれない。当今の親としては子供を産み育てても、それは夫婦である証として、そうしたのであって、子供に晩年の生活を頼るためではないことを、あらためて銘記すべきであろう。成人して、自立した子供は、日ごとに、年と共に、親との距離を広げていくばかりだということは、厳然たる事実なのである。
現在の夫婦が友愛的情愛で結ばれているとするなら、子供があろうとなかろうと、晩年になると、いよいよ友愛的な面が強くなる。とにかくある年齢にいたると、夫が妻を抱くことはあっても、それは自分の欲望を満たすのに、もっとも手数も金もかからないから、といったことにすぎない。妻は結婚後数年で、異性ではなくなる。
妻にとって、結婚した相手は男性でなく、夫なのだし、男にとって、配偶者は女性でなく、妻という名の生活の伴侶なのである。
〈終わりに〉
最後に残るのは配偶者
〆最後まで一夫一妻制を保てるのは、高級な生物の証
生物学的にいえば、原初に発生した生命の継承は、生命体自らがクローンをつくってきたことによるので、それらから有性生殖になっていったとすると、親子の縁が最も深いというか、原初的と言えよう。
兄弟姉妹は、クローン時代と親子時代の中間のような、つまり自分であるよな、ないような、実に曖昧な存在である。多くの民族で、兄弟姉妹の間で子孫をつくることを禁じるのは、違うDNA、つまり子となる遺伝子を自分の子に採り入れようという有性生殖の本来の目的に反するからであろう。
それでも古代エジプトの王家のように、その神聖な血統を臣下の下等な血をもって汚してはならない、というので、兄弟姉妹の間で結婚したような例外もある。クレオパトラの法的な夫は、彼女の弟である。彼女がシーザーやアントニオを恋人や情人にしたのも、考えてみれば当然すぎることかもしれない。
とにかく、人間以外の有性生殖を行う動物は、その性行為の一瞬だけ、雄であり雌である。やや高等な哺乳類では、子供が生まれる、あるいは子孫である卵がかえって巣立つまで、母親か父親、あるいは共同で面倒を見る。人間の胎児が産道を通るには頭が大きすぎるせいであろうか、生まれたては、未成熟な状態である。
ウマのように、哺乳のために子供の面倒を見るのは母親だけで、父親は性行為がすんだ段階で姿を見せない例もあるし、鳥類のように、両親共同で文字通り子が巣立つまで養育する例もある。
そんな中で、人間だけが、養育にかける時間が長い。今の先進国では、生後二十年間も、親が子の面倒を見る結果になっている。そうであっても、やはり他の動物のように、やがては、子は親の元を離れる。親子は生死を共にする訳には行かない。親の死後も、生殖をくり返すことがその命の形を伝えることなのだから、子が親を捨てるのは生物学的必然である。
兄弟姉妹だって似たようなものだ。生長すれば、それぞれの生活を持つ。とても親と同じくする者同士の縁にこだわってはいられない。
そして最後に残るのが配偶者である。
動物の中には一夫一妻制を保つといわれるものがあるが、よく見ると、それはあくまでも生殖と育児のためであって、それらの仕事がすべて終わっても、共同生活スタイルを保つのは人間の夫婦だけであろう。
その点で夫婦というものは、極めて人間的な、そして人間が一番高級な生物だとするなら、極めて高度な個体と個体の繋がりといえよう。人間は文明を開発すると同時に一夫一妻制を確立したともいえる。多くの宗派は一夫一妻制を支持して、他の異性との性を禁ずる。
したがって、親兄弟と別れ、子供が自立してもなお残る夫婦こそ、極めて人間的な、そして高度の生活形体といえよう。珠に日本の場合、男子の平均寿命が約八十歳。女子のそれが八十八歳。夫と妻の年齢差の平均を三年とすると、実は夫の死後ほとんどは一人で生きる事になる。
〆老夫婦のケンカのタネは、夫婦の築いた生活の愛情から
人間、六十歳になると、だいたい親にも死に別れ、子供は三十代に入って、自分の家庭、自分の子供の養育にエネルギーを奪われるようになる。したがって、六十代の夫婦は肉親関係から見ても、孤独になる。
そればかりではなく、男は第一次の社会活動を終える。それから後は第二の人生というか、いつ死んでも代わりがいるような仕事、また、名誉職的な仕事しかない。自然の成り行きで、家庭、といっても、妻と共に営んできた家庭の生活が基本になる。
幸か不幸か、そのころの妻はいろいろと体が不自由になっている。多いのが膝、腰の痛みである。医師に言わせれば、ある程度の治療は可能、ということなのだが、しかし、これも老化である。
当然、腰や膝を使う力仕事、重い食料の移動とか、屈まねばできない拭き掃除のような家事の一部は、次第に夫の分担となる。慣れない仕事だから必ず、夫は失敗する。
妻にしてみれば、長年、何もかも自分に押し付けておいて、今になって雑巾がけも満足にできないのだから、と腹が立つ。妻に口うるさく言われれば、夫には夫の言い分がある。当然、夫婦ゲンカになる。
しかしこれは若い時に、夫に愛人が出来た時のケンカとは違う。あのころは場合によっては離婚、二人の夫婦関係が解消される可能性のあるケンカだった。
しかし今のケンカ、夫が雑巾がけをした後は床が濡れているとか、四角い部屋を丸く掃除しているとかいったことは、夫の技術のせいであり、そもそもは妻の膝と腰の痛みのゆえである。その争いの無意味さは当人たちが誰よりもよく知っている。
夫婦ゲンカは始末が悪い。それは当人たちが、自分の応分の引け目を自覚するからである。相手を酷いと思いながら、その言い分の一部はもっともだ、と認める余裕がある。それは若い時の夫の浮気とか、妻の友達への虚栄から、不必要な金の使い方をして争ったのとは性質が違う。
こういうケンカが六十代から始まるとするなら、これは二人をやがては死なせるために、徐々にその肉体の能力を奪っていく自然の企みといえる。
妻が棚の物を取ろうとして、踏み台から落ちて腰骨と大腿骨にヒビを入らせて寝込む。夫は家事の全てを、ベットの妻の指示を受けながらこなしてゆかねばならない。
夫の持病の糖尿もひどくなる。
「あなた、いくら果物だからといって、そんなに上がると、また血糖値が上がって先生に叱られるか知りませんよ」
血圧の問題もある。
「ほらまた、西瓜にそんなに塩を振って。血圧が上がって、脳梗塞や脳血栓になっても、私は面倒見切れませんからね」
しかし考えて見ると、この種の妻の言葉は要するに二人で一日でも長く、大きな障害も無しに暮らしていけるように、という夫婦和合の気持ちから出ている。そのあたりのことは夫にもうすうすわかっているから、口では言い返しても、それは所詮、若い時のような自分への愛情でなくとも、二人で築いてきた生活への愛情、そしてそれが一日でも長く続くことを願っている言葉だということがわかる。だから、あまり腹が立たない。
〆夫婦の遺骨は墓の中に並んでおかれる
そうはいっても、そういう生活もやがては終わる時が来る。夫は、ともかくも妻子を養おうと懸命に働いてきて、子供が巣立つと、やがて定年を迎える。で、それを第二の人生のはじまりとすると、男の平均寿命の八十歳までの二十年が第二の生活、いわゆる老後の生活ということになる。
老夫婦だけではもう暮らせない、という段階で、社会と肉親が老人の生活の一部を分担するような形で支える。老人は体も効かないが、幸い、欲望も衰えている。
私の母は白米のご飯と味噌汁と漬物、塩鮭が好きだった。晩年のころ、何も食べたい、と聞くと、必ず、そういったメニューを要求したが、食卓に並べると、量的には殆ど食べられなくなった。
そしてある残暑の朝、朝食をすませ、入浴し、昼ご飯まで眠ると言ってベッドに入り、そのまま目を覚ますことはなかった。
父はその後数年生きたが、幸い認知症が進んで、彼の生活の基本が崩壊したことに自分では気づかなかった。ある時、
「バアさん、どこに行った。おらんじゃないか」
と言う。私が腹立ちまぎれに、
「二年も前に死んだじゃないか」
と言うと、意外なことを聞く、と言った感じで、
「そうか、オレは知らんかった」
と言ったものの、ショックを受けた様子には見えなかった。
その父も夏の暑さが堪(こた)えたのだろうか、夏風邪が九月の末になっても治らなくなった。やがて口内炎ができて、医師の治療をうけると軽快するものの、やがて以前にもまして口の中がただれてきて、食べ物を取ることも困難になった。
そのようにして日に日に心身が衰え、十月の声を聞いたと思うある朝、二、三時間苦しんでいたが、医師はもう治療らしいことはしない。やがて父は静かになった。
二人の死は同時ではなかったが、その遺骨は、海の見える墓の中で並んで置かれている。
二〇一一年 秋 三浦朱門
恋愛サーキュレーション図書室