〆「父親の権威」の実態を知る家族
戦前は、夫が外で働いて金を家庭に持ってくる。妻は家庭でそれをうまく運用するという形で、生産と消費の役割が見事に分担されていた、といえよう。
それが戦争の始まろとする頃から、状況が少しおかしくなった。丹羽文雄が新聞小説に、確か『東京の女性』という題で、働く女性を主人公にした作品を発表した。
それまでは女性が社会で働くといっても、職場の消費的面というか、男性社員や客の為にお茶を入れたり、掃除や書類の片付けをしたり、電話番をしたりといった程度の仕事しか任されていなかった。それが、丹羽文雄の小説のヒロインは車のセールスである。立派に生産的な仕事である。
しかし戦争が激しくなると、それどころではなくなった。朝鮮半島では「強制労働」と言っているようだが、「徴用令」という法律ができて、一定の年齢の者は家庭婦人を除き、全員が働かねばならなくなった。
学生も工場に行った。女子も例外ではなかった。曽野綾子なども、工場に動員されて作業をしたという。
確かに、植民地から連れてこられた者はともかく、捕虜は日本国民ではないのだから、強制的に働かせるのは問題があっただろう。しかし彼らと同じ世代の日本の若者は戦場に出て、生死をかけて戦っているのだ。徴兵令の対象でない植民地の若者は、軍隊よりはよかろうというので、炭鉱のような、危険度の高い職場に割り当てられた。
このようにして全国民が働くようになってみると、生産者と消費者の立場が曖昧になってきた。子供たちにしてもそれまでは、
「お前たちは誰のおかげでメシが食えると思っているんだ」
とオヤジにどやされていたが、自分たちも工場で働くとなると、話は別である。しかも決していい加減なところに配属されているわけではない。
私でいえば旧制高校の二年の時に化学工場に動員されて、火薬の原料ガスを高圧にする圧縮機の現場で働いた。後に、その工場の責任者のような立場になった高校の同期の者に聞くと、私たちの職場はその工場の心臓部にあたるところだった。
彼の手紙によると、
「よくもそんな重要な職場に入って一週間しか予備訓練をしなかった者を配置したものだ」
ということになる。
われわれ学生の作業を監督する上司はいなかった。自分たちの判断で、その日の生産目標を達成すべく機械を操作した。機械は一九二五年の英国製で、私は蒸気機関車のピストンの動きが逆方向になる瞬間の、出力ゼロの瞬間の動きを調整する弾み車や、「ガバナー」といった機械の回転数を一定にする装置に感心した。やはり産業革命を成就した英国には、蒸気機関車に関するかぎり、さまざまな付帯的な技術が発達していたのである。
当時、正規の大学生は同年代中で五パーセントにも満たなかったであろうが、その希少価値ゆえに、工場に動員されても一種の管理職であった。
後に中央公論社の社長になる嶋中鵬二は、父親がこの会社の社長であったことを勘案されたのであろう、研究所の報告書の編集長であった。私も正規の辞令があったわけではないが、係長のようなものだった。
私の机の前には、四人の女性が二人ずつ向かい合うような形で机を並べ、私は彼女らの横顔を見るような位置にあった。私の背後の窓は南側だったから、私は北に向かって座り、女性たちは東西に向かい合っていたことになる。
嶋中の部下も、私の前の四人も全員、徴用された女子の専門学校の生徒であった。とにかく、そのような形で生産現場を知る者は家長である父親だけではない、となると、父親の生産面での発言力は弱体化する。
〆奮闘する家長を尻目に、主婦の才覚
戦前は、日本人はそれほどマスコミというか、新聞やラジオを信じていなかった。新聞にはああ書いてあったが、実は、といった秘密情報が人から人へ伝わっていたのである。それだから父親の給料が安くとも、
「新聞には人手不足で給料も上がった、と言うようなことを書いてあるが、あれは物価高を誤魔化すためだ、と思うより仕方がなかった。事実、それ以外に情報はなかったし、家長の生産面での発言はそれだけ強かったとも言える。
しかし子供たちは勤労動員など行ってみると、父親の大会社の係長というものが、どの程度のエラクナイか、ということが明白になる。
まして敗戦である。父親の稼ぎでは一家はとても食ってゆけない。母親は、自分が嫁入りの時に持ってきた晴れ着を農家で米と換えてくる。そのようにして親しくなった農家から、ラジオが壊れたから部品を持っているラジオ屋を知らないか、と言ったことを頼まれる。つまり次第に生産面に関与することになる。
そもそも晴れ着を着ることは消費活動であるが、売るといことになると、それは消費から生産かわからない。自分が袖を通した着物を、子どもが大きくなったら縫い直して着せるのかは確かに消費だが、それを売って米を買うとなると。生産的な面も出て来る。一枚の着物を米三キロになるか、五キロになるかが主婦の才覚とすれば、それも生産活動である。
その間、父であり、夫である家長は、自分の名誉にかけても、生産者の実力を見せようと努力するが、戦後のような乱世にあっては、正規の職業から報酬より、主婦の晴れ着の売買やラジオの修理屋の世話のようなバイトめいた仕事の方が、生活の維持に有効なのである。
このようにして、戦後は妻も子供もバイトという形で、生産面にタッチすることを覚えた。直接は生産にタッチしない家庭婦人でも、夫の言う生産の実体については、批判的に理解するようになる。つまり消費の専門であったはずの女性が、生産についての知識や体験を積み重ねるようになった。
子供のバイトにしても、昔は苦学生といって、家が貧しくて上級学校の費用を出してもらえない若者たちが、高級な学歴を手に入れることもあった。
当人たちもつらかったであろうが、世間の同情や尊敬も厚かった。苦学生の父親の稼ぎが悪くても、戦前の日本人のほとんどは貧しかったから、子供を上級学校にやれないからといって、親の甲斐性がないとはいわなかった。
昭和十五(一九四〇)年、つまり日本が本格的戦争体制に入る直前の学校教育を例にとれば、中等学校の数は小学校の十七分の一である。ざっと考えて、中等教育を受けられる者は小学校卒業者の二割といってよい。また当時の正規の大学の数は四十七校である。だから苦学生は感心な若者で、その親はヤクザな甲斐性なしではなかった。
それが今では、高校生が小遣い稼ぎにバイトをする時代である。親もそれを止めることができない。
「スーパーの深夜の店番をして、その金で、東北の罹災地のボランティアをするんだからさあ」
と言われれば、ボランティアというのは名目で、その真意は、夏休みを東北でタダで過ごそうという事が見え見えでも、親は黙認してしまう。
親子、夫婦の間に、生産者と消費者の区別がほとんどつかなくなったのが、今日の社会と家庭の状況であろう。それでも、男は生産の主体、という定見は残っている。
もっとも生産的という意味で、物資を生産し販売する企業のトップや、あるいは先駆的な研究を科学系のノーベル賞受賞者に代表させるなら、彼らのほとんどは男性である。女性の起業家の場合は、たとえば男性が見落としていた分野、あるいは男性に見えない分野での起業である。科学者としての、キュリー家の母と娘のような女性は例外といってよい。
〆男性作家と五分に渡りあう女流作家
社会活動で男性と五分に渡りあっているのは、文学、それも小説と編集の分野であろうか。編集者とは作家の資質を見て、次の作品のヒントを作家に与えるという意味で、作家の協力者といってよい。
『源氏物語』の紫式部は千年も昔の人だから、これは突然変異といってもよかろうが、十九世紀のヨーロッパ先進国では、まだ女性は家庭の中にいるものとされていた時代から、女性作家の存在が目立つ。英国ではブロンテ姉妹、フランスではジョルジュ・サンドを代表としよう。
日本では、まだ女性の社会進出など、水商売以外は考えられなかった時代に現れた樋口一葉も十九世紀の人である。
しかし現代の日本文学では、女流作家の存在は無視できない。
団十郎の襲名の時だったであろうか。私は文化庁に勤めていて、祝いの言葉を言いにゆく役目になり、親しかった阿川弘之と遠藤周作を誘うと、
「歌舞伎なんてのは、滅多に見られないからなあ。席はいいんだろうな」
とついてきた。
当日、人気役者というものは偉いもので、高名な女流作家がよい席をズラリと占領していた。ちなみに芝居では失敗を「トチリ」と言うが、最前列を「イ」とすると、中央部では、一列がだいたい五十席弱だから、「トチリ」の二十番前後がよい席ということになる。
そのよい席を女流作家で占領しているのである。休憩の時、喫茶室で阿川と遠藤は早速、女流作家の悪口を言い始めた。
「何だ、あの女流作家たちは。なんでわざわざ女流なんて付けるんだ」
「あいつらな、女流と付けなければ、男か女かも区別がつかないからさ」
二人の名誉のために、どちらがこの悪口の犯人かはここでは明かさないが、絶対に私ではない。その証拠に、私の後ろから、
「三浦さん?」
という声がして、振り返ると女流作家の佐多稲子さんだった。彼女は宇野千代さんと並んで、当時の女流作家中の美女であった。例の女流作家たちとは別の席にいたのである。私はあわてて、
「今のはボクじゃありません。ボクじゃないです」
と言い、阿川と遠藤はずるずると椅子に寝そべるようにして、テーブルの下に体を隠してしまった。
後に文化勲章を受章するような男の文学者を恐れ入れさせるほど、現代の女流作家の勢力は強い。それは何ゆえであろうか。
まず、文学の消費者の半ば以上が女性であることは大きい。彼女らは日常の生活感情の共感と、そのプレッシャーからの解放を求めて、文学、珠に小説を読むのである。それは小説の成り立ちから考えると理解できる。
小説の「説」というのは、この漢字が作られた中国では評論の意味である。
私が中学の時に習った漢文には、唐の柳宗元という人の『蛇を捕らえる者の説』(「捕蛇者説」)というのがあった。主人公が知事をしている南中国には毒蛇がいるが、この毒から薬を作るので、租税の代わりに毒蛇の献上が義務付けられている。ところがそのために死傷する者が出て来る。人民の命を犠牲にするような税の制度は、その本来の意義を損ねるものであるから、租税として毒蛇を納める制度はやめにした方がいいのかと蛇捕りに聞くと、元の税のほうがもっと厳しいから、危険な蛇捕りのほうがまだましと答えた、というのが、その要旨であった。
私は感動して、将来、もし自分が新聞の論説を書くような地位についたなら――ということは、私はその頃から、父に倣ってジャーナリズム関係の仕事に就くことを目指していたことになる――このような論説を書きたい、と思った。
こういう説に「小」がついたのが小説である。これは短いという意味でなく、下らないという意味である。王朝の正規の歴史は「史」という。それに対して、皇帝に、たとえば新聞の社会面のような形で庶民の状況や事件を話すこと、それらの記録を「稗史(はいし)」という。稗というのは、米が正規の主食とすれば、その代用というか、貧乏人の食べる、下等な穀物という意味である。
中国で最初に『史記』という表題で、「史」を書いた司馬遷(しばせん)では、正規の歴史が扱うものではないとしたのであろうか、それぞれの時代を象徴するような興味ある人物として、「列伝」という巻がある。その「列伝」で扱おうとしているものが、稗史の素材であろう。
だから小説と一緒にして稗史小説ということもある。そして、現代人が読んで面白いのは『史記』の中では「列伝」である。
〆小説から見える「生産者・男」の実体
たとえばリビアで、カダフィという男が個人としてはどれほど優れた人物であろうとも、先進国の助けを借りて権力を得て、半世紀近くも独裁をしているのはよいことではない。すべての人が政治と国の在り方に参加できる制度にすべきで、カダフィは辞職すべきだ、と論ずることは「説」である。
しかし、たとえばリビア人の中にも、表面的にはその説に共鳴していながら、心の底では話に聞くカダフィ一族の豪華な生活に興味を持ち、
「オレだって、フランスなんかに行って、旨いモンを食いたいし、女の裸のショーなんかだって見たい、イスラム教では酒はいけないことになっているが、世界中で飲んでいるところを見ると、意外とうまいんじゃないかな。試しに飲んでみたい」
などといった不埒(ふらち)な思いを抱く人もいるだろう。
そのような、表向きはよきイスラム教徒の顔をして、カダフィは真のイスラム精神に違反していると仲間や家族に話すが、内心とのズレがさまざまな言行の端々にみえてきて、そのボロ隠しをするつもりで、またエラーをしてしまう、というような人のことを書くのが小説なのである。
つまり建て前としての「説」と内心の「情」の間の矛盾、暗さと愚かしさ、楽しさを書くが小説なのである。
教育が普及して女子も文字が読めるようになった。つまり男が書いた文章を、男と同じように読むと、男の立場の視点がよくわかる。自分の父、あるいは夫も同じようなことを言い、実行しているような顔をしているが、その内実はボロボロだらけであることは、娘であり、妻である女性には見え見えである。
男の方としても、自分は家庭でも社会でも生産的な役目を果たすべき、ということは承知している。しかし現実の職場での仕事は、その組織の中の消費的な面である。しかも待遇その他は生産面の男と変わらない。工場で生産を担当する課長も、社内で重役の世話をするという意味で家庭での主婦に似た仕事をしている秘書課長も、課長という地位は同じだし、会議などで発言する時も、その生産面か消費面かを問題にされることはない。
だから、つい男は自分の中の消費者としての面に気づかないフリをしているが、そのような状況が、小説の素材なのであり、それが一番よく見えるのが女性なのである。だから女性の中から作家が出て来るのは当然である。
日本の女流作家、たとえば林芙美子は文学を志して上京し、水商売に近いレストランのウェイトレスをしていた時代がある。そう言った経験が、人生と男を見る目を確かなものにした。彼女はウェイトレス時代に外国人の客から「胡椒(こしょう)を」と言われて、胡椒という言葉がわからずに、「イエロー・パウダー?」と質問して、やっと用が足りた、といった失敗談を書いている。
外国の例を挙げるなら、フランスの二十世紀の女流作家にコレットという人がいる。彼女はある時期、ショーガールをしていた。彼女は自分の人格ではなく、肉体を目当てに群がる男たちを通して、「生産者・男性」の実体を十二分に見据えたことであろう。
〆文学部の落伍者から作家が出る?
男性は、自分が生産者であるという建て前をなかなか棄てきれない。それに対して先進国社会では、女性は専業主婦であっても、自分は単なる消費者ではないことを自覚している。つまり実生活においてよき消費の責任者になることは、ヘタな消費の責任者と比べて生産性が高い、ということができる。
また専業主婦といっても多くは共学やOLの体験者だから、かつての学校の同級生が社会人になって、
「へえー、アイツにも医者が務まるんだ。あんなそそっかしいヤツがねえ」
と思える。
また、元OLの専業主婦が、自分より年下の男で、彼女のOL時代に大卒の新入社員として入って来て、何かと面倒を見た男が課長になったと聞けば、
「課長になったって? 何も知らないくせに」
ということになる。つまり人生の建て前と現実の裏表を見ると、という点では、女性の方が、珠に先進国にあっては有利な立場にある。
一方、男性の作家の過去を見ると、病気などのために、他の多くの男たちのように社会の生産面の第一線に立てなかった、という人もいる。また法学部、経済学部、工学部、医学部など、社会で言う所の生産的な学部ではなく、文学部などの出身者が多いのも偶然ではない。
旧制高校でいえば、文学部に進む者には、怠け者が多かった。旧制高校生は「教室の勉強よりも教養」と言っていたが、それは建て前。将来、社会人としての立身出世を願う者は、予習復習もよくやるし、ノートもよくとり、試験の前には勉強もした。
そんなことは高校生らしくない、と教養第一主義のつもりか、映画とか文学に熱中した者は当然、成績は悪い。そこで競争率一・五倍の東大法学部を敬遠して、無試験で文学部に進学した。それで東大文学部の場合、優等生は日本学士院、劣等生は作家になって日本芸術院、といった感じがある。
文学部に入った者は秀才は大学に残って教授になったり、あるいは他の先進国の大学の教員などを務めたりする。しかし文学部では、就職して社会人として世間の人に認められたと言っても、せいぜい大学教授である。これは偉そうに見えるが、生産性はあまりない。そもそも学生を教えるというのは、家庭婦人が子弟を養育するのと、本質的に違う訳ではない。
教授になったからいって、大学の目的達成のために積極的に方策を練り、その実現のために准教授以下に命令して、仕事を割り当てる、といったものではない。
その管理監督の責任すらない、といってよい。強いて権限と職務らしいものがあるとするなら、教授会のメンバーとして、新任者の人事にあたって、推薦したり、反対したり、賛成したりする程度である。
文学部では研究内容一つとっても、新しい材料を発見したり機械を開発したりといった生産的なものではなく、人間がこれまでやって来たことを、社会的、個人的な面で、どういう性格があるか、どういう意味がありうるかなどを文書を通じて考え、それを論考した文章を公表する程度である。社会人としては生産面よりも消費面が強い。
そういう文学部の、それも落伍者の中から作家が出てくる。
〆文学出に生産者への道はなかった?
小説を書いて芸術院の会員になるというのは、それなりに作家として認められたということだろうから、私が若かった頃からの作家で、後に芸術院会員になった人たちの経歴を見てみよう。
庄野潤三と島尾敏雄。この二人は共に九州帝国大学の出身だが、いわゆる帝国大学進学者のための学校、旧制高校の卒業生ではない。庄野は大阪外語、島尾は確か神戸高商の出身である。学歴的には傍系のルートである。島尾の場合は家庭環境、ということも考えられるが、庄野は恐らく入試に失敗したのだろう。
慶應大学出身の安岡章太郎と遠藤周作の二人は、病気と浪人と落第のし放題である。
吉行淳之介は旧制高校出だが、一度、在学中に落第している。そして大学は学費未納で退学。
阿川弘之は旧制高校に飛び級入学したクチだが、総合点がよかったから、入学できたという。つまり秀才ではあるが。疵(きず)のある秀才である。だから文学部なのだろうが、これは何度も書いて気の毒な気がするが、卒業論文のテーマは戦争中だったから許されたので、平時なら難しかっただろう。
阿川の卒業論文のテーマは志賀直哉、まだ存命の作家である。普通なら卒論のテーマとしては許されない。一人の作家はこれから先、死ぬまでは、どのような作品を書くか分からない。この世の人でなくなり、それなりの客観的な評価が可能になってから、研究対象として取り上げる。それがアカデミックな大学のしきたりだ。たぶん、阿川はその年の東大国文のビリであったと思う。
人のことは言えない。私だって劣等生である。私の卒業した言語学科は小さな科で、普通は、入学者は三名程度だった。戦後は、病気その他で卒業の遅れた人が二人ほど卒業しただけである。それか、私が卒業した年度は、入学は私より古くとも軍隊に行っていて、それまで卒業の条件が揃わなかった人たちがまとまって出たので七名もいた。
卒業の前に謝恩会があり、卒業予定者が先生を招いて十人ほどでささやかな食事をした。その時、将来の抱負とか就職先などについて、卒業予定者が一人一人述べる事になった。
私の番になり、私は結果的にはその年の四月から日大芸術学部の非常勤の講師になったのであるが、その段階ではまだ就職先は決まっていなかったので、一同の前ではこう言った。
「私はさしあたり親の脛(すね)をかじりますが、東京大学の学長になろうと思います。そういうクチがあれば、よろしくお願いします」
もちろん、全員が笑い出したが、私は自分からそのようなことを言って人々を笑わせる程度の存在であり、成績であったのだ。
文学部出の就職先は、あまり前途有望ではなかった。また他の学部出身とは違って、生産者として歩む道はなかった。
吉行淳之介は、早くに父を失い、知人の女性と同棲していたので家計を支えねばならなかった。それで戦後、やたらに出てきた風俗雑誌の編集をしたというが、戦後六年ほどして私と知り合った頃は無職だった。
阿川弘之は志賀直哉の世話で新聞社に勤めたが、半年でやめた。
阿川、庄野、島尾たちにとっては、戦時中、大学を仮卒業になって、やむなく志願したに過ぎない海軍士官の生活が一番生産的だったから、この時代を懐かしむのだろうか。
やっぱり、こうなる?
本当の結婚がはじまる時
第七章 女は変わった。男も変わろう
〆伝統的女性「シトヤカ」で「ツツマシヤカ」だった。
国際的に見て、日本の男の評判はわるい。第一、イカさない。服装の趣味も悪い上に、態度が横柄である。女性の扱い方は、社交になっていない肉体的にも貧相で、遺伝的に目が悪いのか、誰もが眼鏡をかけている。
こういった風評が必ずしも、日本人の被害妄想でなかった証拠に、第二次世界大戦で、日本の海軍機がハワイを空襲して、米艦隊に大損害を与えた時も、アメリカの新聞などでは、
「航空機もパイロットも、日本製、日本人であるはずがない。第一、日本人は航空機など製造する技術はないのだし、日本人は近眼だから航空機を操縦することはできないはずだ。だから、あれはドイツ製の飛行機でパイロットもドイツ人だ」
と大真面目に論ずる人もいたという。あながち間違いではなかったかもしれない。
戦時中、名古屋の三菱重工は毎日二機ずつ戦闘機を制作していたが、それを軍用空港に運ぶために、牛車を使ったと聞いた。当時の日本の技術は部門による格差が大きく、社会のインフラは未完成だった。
戦後も昭和三十(一九五五)年ころ、私は東京から大阪まで車を運転してゆくのに、道路が悪くて大変に疲労した覚えがあり、その二、三年後、阿川弘之が東京から青森まで車で行ったというのは、文字通り「壮挙」であった。
日本の女性は、戦前は和服で、洋服を着ていると、既婚であっても商人から「お嬢さん」と呼びかけられた。家庭婦人が洋服を着るとすれば、「アッパッパ」と称するワンピースで、スカートとボディの部分と袖のあるもの。ただし夏用は「袖なし」という、飾りもない、割烹着のようなものであった。
女性は男と会っても正面から顔を合わせるようなことはせず、伏し目がちにするものとされていた。ただし、それも一九三〇年頃から変わっていたのかもしれない。
宮城道雄という、目の不自由な琴の名手がいた。彼の聴覚はすばらしく、琴の演奏のためにロンドンに行った折、『ロンドンの夜の雨』という曲を作った。それは今でも十分に聞くに堪える作品である。
彼は優れた随筆も書いたが、その中にこういう一節があった。ただし正確な引用ではなく、私のうろ覚えである。
「以前は足音を聞いただけで、あれは学生、あれは兵士、あれは女性、とわかったのに、近ごろの若い女性の足音は、男だか女だかわからない例が増えてきた・・・・」
それでも当時の女性は和服を着る時は、それなりの身のこなしをしていた。
昨年の夏、若手女性の間で浴衣を着るのが流行っていたようだったが、私が渋谷の本屋に行った時、交差点ですれ違った浴衣の娘はすさまじいものがあった。
言うまでもないが、女性の和服の着付けは「右おくみ」というか「右前見ごろ」というのか、とにかく下前の上に上前を重ねて紐でとめ、最後に帯を締める。腿からくるぶしあたりまで緩く固定されるため、歩幅はいやでも狭くなる。
そこを大股で歩くと、前に蹴りだした左脚の力は、裾を左に開く力になり、上前はその影響で合わせ目が左に深く回る。歩くたびにこれが繰り返され、私が見た娘の場合、左側が三分の一ほど片肌脱いだ形になっていたのである。
こういう娘に限って、着付けの乱れをデパートのトイレなどで、自分で手直しする事などできないに決まっている。どうなることか、後をついて行きたい誘惑にかられたが、こちらも用があったので失礼した。
宮城道雄の「足音」といい、私が見た現代の浴衣姿の娘の歩き方といい、日本の女性はもはや、シトヤカとか、ツツマシヤカといった形容は当てはまらない。
〆落語の女房のやりくり感覚と、現代の主婦の経済感覚
しかし、時代小説に出てくる昔の日本女性といえば、密やかに夫や恋人を思い、彼の為に精一杯の心尽くしをする可憐で健気な女性。その反対の毒婦、あるいは水商売の女などは、現代女性のように自己表現が素直で行動的であった。
今日の時代小説は現代女性への批判も含めて、伝統的な女性の理想像を書いているのだろうから、昔の日本女性を知るには、落語などが適当かもしれない。
明治に作られたものもあろうが、だいてい、伝統的な落語の舞台は庶民の生活の場、つまり長屋ということになっている。ここでは常識を代表する役というか、まず演者と客とが共有できる価値観を持っている存在は、長屋の大家さんかご隠居さん、ということになる。喜劇だから二枚目はいない。
主人公の三枚目は無知な長屋の住人だが、しばしば夫婦ゲンカがテーマになる。ケンカのタネは大概の場合、亭主が職人としての手間賃を飲んでしまい、消費役の女房に金が届かない、といったことである。当時の職人の気風として博打ですってしまうこともあったろうが、それは犯罪になるせいか、あまり落語には出てこない。
とにかく金を使い果たした亭主は女房に責め立てられて、恐れ入るどころか、かえって男の付き合いだとか言って、使い込みを意味づけようとする。そこで、つかみ合いのケンカになって、大家さんが仲裁に入ることになる。
落語の中にはしんみりさせるものもある。亭主がどうしても大金を必要とすることになって、とうてい、その算段はできない。しかし女房を心配させまいとして、というよりも見栄もあって、明るく振る舞っている。実情を察した女房が、
「こんなこともあろうかと、実はあんたの稼ぎの中から少しずつ積み立てておいた金がある。元をいえば、あんたの稼いだ金なんだから」
と言って、ヘソクリを取り出して亭主を泣かせ、客をしんみりさせる。
落語に出て来る女房は、何かというと亭主の胸ぐらをつかんで実力行使に出るが、そういった女はすべてではない証拠に、御殿で下女奉公をした女が長屋の女房になる、といった設定もある。この女房は亭主に向かってやたらと、
「アーラ、我が君」
と呼びかけるのだが、彼女は消費の管理は女房の領分ということがわからないから、呼び売りの八百屋からネギを買うのに、三十二文の金をわざわざ亭主からもらおうとする。
「三十二文いるんか。火鉢の引き出しにあるから出して使え。そんな金の出し入れはいちいち聞かなくてもいいから、もうちょっと寝かしておいてくれ」
ということになる。
これは女房の言葉が長屋風ではないだけでなく、女房の職分は消費にあり、亭主は家で飯を食って寝るだけの存在という前提が崩れているからおかしいのである。
お屋敷の下女は消費の末端にいるから、金は一文も持っていない。もし外部の人間に払う必要が出来た時は、上司に伺いを立て、その承諾を経て、必要な金を渡されたのであろう。それは今日の職場での公金の扱いと同じである。
お屋敷勤めの経験のある女房が、たかが長屋の消費生活に、公的経済もどきに、三十二文の銭の出し入れに亭主の意見を聞くからおかしいのである。
たとえば現代の夫が職場に出かける前に、妻に低姿勢で、
「今日はな、課の中で寄り合いがあってな。オレは役職はないが、まあ、古顔だしさ、二次会に連れ出して驕らなきゃならない後輩がいるんだ。それでな、帰りは十一時ころになると思うし、金も五千円ばかり欲しいんだが」
と言ったとしよう。そして女房にOLの経験があったりすると、
「それなら出張届けを出してもらおうかしら。出張の目的、場所、時間、それに関する経費をチャンと書いて。役職、氏名もね。あ、それから捺印も忘れないでね」
となり、その時は冗談半分で出張届け出を出す。彼女はそれを取っておいて何枚か溜まると取り出してきて、
「ここんところ、カラ出張が多いみたいね。この届けには領収書が一枚も付いていないけれど」
などとイヤミを言うかもしれない。
〆「敵情」を知って、合理的に対処しよう
男は生産、女は消費。家庭で言えば男が金を稼ぎ、女がそれを使う、というパターンは消滅しようとしている。
そもそも生産面を担当する男の職場でも、純粋に生産的な面と、どちらかといえば消費的な面がある。そういうことは学校を出てちょっとでも働いたことのある女性なら知っているから、昔の家庭婦人のように、夫が、
「仕事だ。仕事だから仕方がないだろう」
と言ったりしても、黙りこくってしまうようなことはしない。
それに家庭は消費の場とはいいながら、いざという時の為に、ヘソクリを貯めていた落語のあの女房のように、家庭にも生産的な面があることを、当今の家庭婦人なら知っている。だから今日では、
「仕事だ。仕事だから仕方がない」
という夫の言い訳は神通力を失っている。それに気づかない男は、それだけで喜劇的な存在だし、夫婦ゲンカにでもなれば、妻にさんざんに言い負かされるのであろう。
妻が既に男の「仕事」なるものの内側を知り尽くしており、自分の「生産的」な家計のやりくりがなければ、たちまち家庭経済は行き詰まってしまうことを、十二分に承知している。
中国の戦争論の古典ともいうべき『孫子』に「彼れを知りて己を知れば、百戦して危うからず」という名句がある。つまり敵情を知り、自軍の内情をしっかり把握していれば、絶対に戦に負けない、というのである。
ところが、男は「仕事」という言葉にかまけて、現実の「仕事」には「消費的」な面があることに気づかないこともあるし、何よりいけないのは、家庭婦人が純粋に消費的な生活をしているのではなく、家事には「生産的」な面もあることにも気づかない。
つまり、敵情もわからずに、自軍の内情もわかっていなのである。それなのに、妻の方は、敵のことも自分のこともよくわきまえている。これで夫婦ゲンカをすれば、妻の一方的な勝利になることは目に見えている。
では夫たるもの、どうしたらよいのであろか。
先ず第一に、敵情を知ることである。妻は消費を節減しようとすると、最近の節電運動を利用して、不要な電灯はなるべく点けない。冷房も設定温度を高めにし、なるべく使わない、といった節約をするかもしれない。
夫としては、そこに合理性を持ち込む。寝室はもちろん、客間や書斎、浴室やトイレ、物入れなどに窓があれば、それらを早朝から開けっ放しで換気する。そして台所と食事をする場所、ダイニング・キッチンでもよいが、そこだけは照明を明るくして、エアコンをつける。換気をした空間は、夏ならあまり暑くならない時間、冬なら幾らか気温と共に室温が上がった段階で窓を閉める。
妻は台所が明るくて涼しいので働きやすいし、その結果、料理もうまくできる。食事の時間も、室温が快適な状態になっていることを喜ぶであろう。
夫は料理にも手を出すべきである。「君子庖厨(ほうちゅう)を遠ざかる」という言葉がある。
つまり純粋に高度に知的な生産活動をする男は、家事などに手を出すものではない、と教えている。しかしこれは、男は生産、女は消費という役割が明らかになっていた時代、というよりも、これを言った孟子(もうし)という儒学の親玉のような男は、そういう区別をつけることによって、安定した家庭や社会ができる、という思想の持ち主だからこそそんなことを言ったので、この言葉は今日の日本には当てはまらない。
夫は厨房に入られねばならない。第一、家庭での食事は台所の片隅で食べているのが、現代日本の都会生活の現実であろう。
大正生まれというか、一九二〇年代に生まれた男あたりまでは、どうして厨房に入るという精神が希薄である。妻を労わるつもりで、
「おい、そんなに料理にこることはないんだよ。どうせ、家族の飯なんだ、手抜きでもいいからゆっくり食おうよ」
などという夫がいる。妻としては、自分の主婦としてのせめてもの貢献は、一家にオイシイものを食べさせること、と思っているのに、と面白くない。そんな言い方をするなら、アタシが料理で使った調理器具を片端から洗って始末してくれたらいいのに、と思う事だろう。そのあたりが古い意識の夫達にはわからない。
〆古いタイプの男たち、それでは本意が伝わらない
毎度、阿川弘之の悪口になるが、読者にはお許し願いたい。私にとって安心して悪口を書けるのは阿川と遠藤周作と北杜夫、吉行淳之介、それから阪田寛夫くらいなのである。
阿川佐和子さんはあんな美人なのに、結局、結婚相手に恵まれなかったのは、父親と、前述した父親の友人がワルで、彼女が幼い頃から、男性に対する夢を持てなかったからだ、という気がしてならない。
何の会合だったが忘れたが、まだ佐和子さんが若かった頃、大きなパーティで彼女が檀ふみさんと一緒にいる所に私が近寄り、
「あなたたちは同業者の娘だから、悪い男が来ないか、監視しているからね」
と言った。ふみさんは高名な作家の檀一雄の令嬢である。彼女はニッコリ笑ったたけだったが、佐和子さんは語気鋭く、
「そんな人ばかりだから、アタシたちは結婚のチャンスがないんじゃないの!」
と言ったものである。
その阿川弘之のこと。遠藤周作の病状が思わしくないと聞いて、私は阿川夫妻と一緒に見舞いに行くことにした。
しかし「見舞い」と言うと、遠藤が、あの二人が見舞に来るようでは、オレもいよいよダメか、と落ち込むといけないというので、阿川の末息子の慶應への進学だったか就職だったか忘れたが、とにかく、その際に遠藤の世話になった礼、ということにして、私はそれについて行く、ということにした。
お礼だから、阿川はしかるべき手土産を用意した。しかし大正男の常として、それを自分で持とうとはしない。それでもかれはた夫人を愛している証拠に、私に向かって、
「おい、そんなに早く歩くな。女房は腰が悪いんだ。病気が悪くなったら、お前のせいだからな」
といった。腰の悪い女房をいたわるなら、自分で手土産を持てばよいのである。とにかく古いタイプの夫は妻への思いやりがないではないが、それが行動の面に生きてこない。
〆夫も創作料理で妻に貢献しよう
男は仕事という名目で、家庭婦人よりも外食の機会が多い。そこでさまざまな料理法に接する。そこからヒントを得て、新しい料理や味を家庭に持ち込むことも可能である。
たとえばサラダ。材料は会社が早く引けたときに、駅前のスーパーで自分の小遣いで買ってもよい。居酒屋で使うか金を思えば、サラダの材料なんか安いものだ。
サラダを作るなんて、これは料理ともいえない。材料を洗って、適当にちぎればよいだけである。まあ、大きなトマトや玉ねぎなら包丁で刻まなくてはならないが、その程度のことは、能なしの夫でもできる。
ドレッシングは、妻は出来合いのものを買ってきて、それを使っているかも知れない。それだって危険(?)を避けるために、正当派のイタリアンサラダとか、シーザースサラダなどのドレッシングである。妻は消費の責任者だけに、冒険はできないのである。失敗を恐れて、せっかくの食べ物を最悪の場合、棄てるようなことにならないためにも、料理法はつい保守的になる。
夫が作るなら、自分の小遣いで買ってきた材料である。そうだ、和風サラダを作るか、と思ったら、シャブシャブのつけ汁用のものを、生野菜のちぎったところにかける。毎日、そんなサラダを食わされるとなると、家族から反対も出ようが、たまになら、それも面白い、という人もいるかもしれない。
こういう思想は、純粋の西洋料理ということになっているローストビーフとかステーキにも応用できる。調理場を引っ掻き回せば、うなぎの蒲焼用のタレのようなものがビニールの小さい袋に入ったまま、片隅に眠っているかもしれない。
ローストビーフを蒲焼のタレで食べてみる。それはそれで面白い味になる。
カレーライスやハヤシライスにせよ、西洋料理と思い込んでいる人もいるが、あれはだいたいが、インド、東南アジアにいた白人が、日本もアジアだというので持ち込んだヨーロッパ風味のアジア料理で、日本人がさらに手を加えて、日本風にしてしまったものである。
トンカツなど、世界のどこに行ってもありはしない。あれは純粋の日本料理である。これに米飯とキャベツの刻んだものとトンカツソース、それに味噌汁や香の物を付け加えたのは、誰の発明か知らないが、あれは日本料理だ。
加藤周一という、先年亡くなった、ヨーロッパかぶれの評論家がいた。彼の随筆で、「刻んだキャベツニにソースをかけて食べるなどという風習は世界のどこにもない。日本の西洋料理というと、バカの一つ覚えのように刻みキャベツとウスターソースが出て来るが、あれはあまりといえば無知である」というような文章を読んだことがある。その時、あ、この男はバカなんだ、と私は思った。
世界の他の国では食べなくとも、刻みキャベツをサラダだと思い、それに、手に入りやすいというのでウスターソースをドレッシングに使うというのが、なぜいけないのだろう。
ラーメンだって。元は「拉麺」という中国語からきたのだが、これは今や紛れもなく日本料理である。近ごろ、シンガポールなどにも、日本風のラーメンを出す店ができたが、決して、これは中華料理として扱われていない。
拉麺類の「拉」は引っ張るという意味である。日本では「蕎麦を打つ」というが、拉麺は生地つまり、小麦粉(あるいは、それにプラスアルファしたもの)と若干の調味料に水を加えて混ぜ合わせ、よくこねたものを、引き延ばしはたたみ、引き延ばしてはたたみしてから、細くして、麺の束に仕上げてゆく。だから麵を打つのではなく、「麵を引っ張る(拉)」なのである。
男の思いつきで、厨房に入ってゆくと、多少は迷惑がられても、決して家族から悪意は持たれない。場合によっては多くの賛同を得て、家庭料理の定番の一つに加えられるかもしれない。
そういった作業を通じて、夫は妻の消費的な面の中の生産的な面に気づくことができるし、もちろん、自分の仕事なるものが、純粋に生産的でないことも感じ取る。それだからこそ、妻の消費面の弱点も見えてくる。
そうなったら、夫婦ゲンカでも、夫は妻と五分で立ち会える。場合によっては論争して妻に勝てるかもしれない。
〆妻を立ててこそ、夫婦は五分五分
仮に、夫婦ゲンカで妻をやりこめた、つまり表面的には妻に勝ったとしよう。それで夫が凱旋をあげて、妻に対して偉そうな顔ができるだろうか。
負けた妻の態度はこういうことになるだろう。
「ええ、どうせ私は至らない妻です。家計のやりくりも家事も下手でございます。
だから、あなたが、私の代わりに、家事一切、家計の一切をお願いします」
そうなったら困る。
確かに男の仕事の一部は、消費的な面があるのは確かである。それでも社会的活動の基本は生産であって、その中心は今のところ、まだ男性にある。社会のあらゆる組織の支配的階層の九割は、まだ男性である。男女の比率が五分五分とはいっても、この支配的階層の比率が五分五分になることはまだ当分考えられない。
だから共働きであろうとも、男は仕事優先、そしてどちらかといえば、女性は家庭中心、という傾向はまだ続く。
しかし、男が仕事の都合で家庭生活の一部を犠牲にすることがあるように、妻も外で働いている場合は、早めに家に帰って夕食の支度をするということが不可能な時もある。そういう時は、夫は自分の職場の事情から類推して、妻の立場を察するべきなのである。
「いいよ、いいよ。残業があるんだろう。客の接待だって? どうしても女はサービス担当にこき使われるもんな。しかし、夕食は用意されても、食べる暇なんかないだろう。帰りは九時頃だった? そのころに軽いものを用意しておくよ。夕食は、オレは自分のことはなんとでもするから。
うん、塩鮭のカマの所が残っているな。あの骨と皮のところでダシを取って、雑煮を作っておいてやる。見の部分をちぎって、菜っ葉も少し入れて。それで、これから食べるという時に刻んだネギを入れると、意外とうまいかもしれない」
そんなことを言えば、妻は、家事は自分の担当と思っているから、そういう夫に感謝するだろうし、夕食の支度ができない自分を不甲斐なく感じるだろう。さらに、会社の上司はアタシを女だと思って雑用ばかりコキ使って、ウチの亭主の爪の垢でも煎じてのませてやりたい、と思うかもしれない。
夫が日ごろから、これだけのことをしているなら、
「今日はちょっと、うちの課で新人の歓迎会がある。その後、二次会も予定されているんだが、その時、後輩で課長にいじめられている男が二人いるから、彼らのグチを聞いてやったほうがいいと思っているんだ。
それでね。今月はちょっと小遣いがはみ出すかもしれない。許してくれ。この二人との二次会は、オレは立場上、驕らなければならないんだ」
と言えば、妻も了承して、ヘソクリの中から一万円くらいはくれるかもしれないではないか。
今日でも世の中はやはり男社会である。それだけに女性には不満がある。だから家庭の中では、男は女を立てなければならない。
大臣だって、知事に対して偉そうな態度を取ったばかりに、十日もたたないうちにクビになる時代である。ましてや吹けば飛ぶような家庭の夫である。オレさまは家長である、といった顔をしたら、たちまち、妻に、そして子供ができれば、子供までバカにされる。それが日本の現実なのである。
だから、夫は絶対に夫婦ゲンカで勝ってはならないのである。
つづく
第八章 結婚は人生の墓場か
〆男女交際と性の関係は変わったか