小倉千加子著
「ナイトメアの話をしてもいいでしょうか?」という出だしで始まる手紙を、見知らぬ女子学生から受け取った。小説を書いている私には、読者からしばしば手紙が届く。その多くは「感想」であったり「質問」であったりするのだが、私は返事というものを一切書いたことはない。
しかしその手紙は違った。私の書いた本は全部読んでいて、この人になら自分のことが分かってもらえる、と書いてある。そういうことを言ってきた人は、はじめてである。
「ナイトメア」は芥川龍之介の『闇中問答』に出てくる「声」のようなものです。「ナイトメア」は私を責めます。どうしょうもないヤツだとか、気が狂っているんだとか、死んでしまえとか罵ったりします」
シャープペンシルで書かれた長い長い手紙であった。私に会って話を聞いてほしいと記されていたので、「私でお役に立つのなら、お来しください」と、駅から自宅までの地図を添えて返事を出した。それから、『闇中問答』の収められている芥川龍之介全集・第九巻を、図書館で借りてきた。さらに、彼女とほぼ同じ年の友人に来てもらった。彼女には友達がいないようだからである。
暑い夏の昼下がり、彼女は大きな鞄を提げて、やってきた。
彼女を、ナイトメアと呼ぶことにする。ナイトメアは、大学に行くと、図書館には入れても、教室には入れない。教室のある棟に近づくだけで、走って逃げ去りたくなるのである。だから講義には出られないのだが、気にかけてくれる教授はいるという。それでも、その教授と話すと必ず論争になって、「君の考えは間違っている」と教授は怒り出すという。論争の中身を聞くと、教授は、教授の知らない知識をナイトメアは知っている事で怒りを感じているらしいことが、なんとなく分かった。優秀すぎる弟子は、煙たいものだからである。大学に行くと、ナイトメアは図書館で手当たり次第に本を読んでいて、その頭には万巻の書物が入っているようだった。
ナイトメアは、前は実家にいたが、今は一人でアパートに住んでいる。料理は大好きで、掃除も大好きで、フェレットも飼っている。要するに、部屋の外で生きるのが苦しいのだという。図書館は、ナイトメアにとっては、外部でない唯一の場所である。が、実家にいると息苦しい、文字通り、息苦しいと言うのである。
「お母さんが嫌いなの?」と尋ねると、ナイトメアは黙って視線を落とした。「お父さんが嫌いなの?」と尋ねると、ナイトメアはいきなり顔を上げて「父は大好きです!」と答えた。
ナイトメアのお母さんは、兄を溺愛し、ナイトメアはお兄さんほど愛されていないことにずっと恨みを持っている。ひょっとすると、お母さんはちゃんとナイトメアを愛しているかもしれない。ナイトメアが勝手にそう思い込んでいる可能性だってある。が、話を聞くうちに、本当にお母さんは、ナイトメアをそのお兄さんほど愛していないことが分かってきた。ナイトメアは、シンデレラが最初そうであったように、実家では「一段低い」位置に置かれていた。
ナイトメアが実家を出たのは、大学に入ってすぐのことである。お兄さんが、ナイトメアに向かって「お前はブタだ!」と毎日毎日罵倒するので、ナイトメアは実家を出て、住み込みで働ける仕事を探した。
お手伝いさんならその日から食べていける。そうしてナイトメアは、お手伝いさんなった。ナイトメアには、なかなか行動力がある。
なぜお兄さんは、妹を、それも偏差値の決して低くない大学に進学した妹を「ブタ」呼ばわりするのか。
「兄は、国立大学の医学部なので、そこに入れないような人間は、みんなブタなんです」
ナイトメアが家を出る時、両親は兄に気遣って止めなかったという。実家でシンデレラでいるくらいなら、他人の家でお手伝いをしている方がマシだった。が、父が、ナイトメアに生活費を振り込んでやると言って来たので、お手伝いの仕事を辞めて、今のアパートに移った。
それから『闇中問答』の声が聞こえるようになった。
「お前はどうしようもないやつだ。死んでしまえ」と。それはきっと兄の声である。
その声の正体を彼女は、「ナイトメア」と名づけたが、その声は幻聴ではない。心の中の声に責められるうちに、彼女は自分がナイトメアに責められ続けるぐらいなら、自分自身がナイトメアになればいいのだと気がついた。そうすれば、責められる「自分」はいなくなり、「自分」が生きていても仕方ないという苦痛も、忘れられるだろう。
大学では、教授の前でニコニコしている女子学生は、教授に気に入られる。だから、ナイトメアは、オジサンたちの前では小娘という「ウカレメ」(浮かれた女)になって相槌を打っていた。「自分」がいないのだから、ニコニコする機械になればいい。「自分」は「人間」ではない。「ウカレメ」である。
もっとも、学問の話になると。彼女は「ナイトメア」に戻ってしまう。ナイトメアは、知識の塊である。「ナイトメア」が出てくると、教授とは対立し、関係は険悪になる。
彼女は「ナイトメア」になると、教室では居場所がなくなり、「ウカレメ」になると、空虚感に襲われる。教室に行くことが恐ろしい。そうして、人との距離をとって「ナイトメア」になるか、二者択一で、適当な距離が取れないのだ。だから、図書館にいて、正気を辛うじて保ってきた。
親の前に出ると、よい子のフリをしている。教授の前でも、よい子のフリをしている。この世間というところは、フリをしていないと生きていけないところなのだ。フリをしているカラッポの人間、それが「自分」であり「自分」には、中身がない。
「私は、人間の形のカラッポです」
*
私の仕事は、自分でスケージュールが決められる。自由な時間はたっぷりとある。遠くから来たナイトメアを歓待するつもりで、一緒にお芝居を観にいった。読書の他に、観劇と少女漫画も趣味だと聞いたからである。
ナイトメアは、『ポパイ』に出てくるオリーブ・オイルのように瘦せていて、フェミニンな服装をしている。フリルやレースがよく似合う。でも自分のことを、ときどき「ボク」という。
「私、こんないい席で観るの、はじめてです」ナイトメアは、席に座った時は、興奮していた。お芝居はアーサー王の騎士物語であった。が、幕が開くやいやな、ナイトメアは、呟きだした。
「これは、アーサー王朝ではないわ。ブルボン王朝の紋章」「違う。違う。ブルボン王朝の紋章をなんで使うの?」ナイトメアの独り言で、私はお芝居のセリフが聴き取れない。
「しっ。静かにして」と言うと、ナイトメアは何も言わなくなった。満員の客席は、お芝居に酔いしれている。ナイトメアは、頭を下げて眠ってしまった。長いお芝居が終わるまで、眠っていた。いや、眠っているフリをして、劇場の世界から独りの世界に入り込んでいた。何も観たくも、聴きたくないようであった。
「楽しめなかったみたいで、悪かったね」劇場を出ると、私は謝った。「いいんです、別に」「みんな、あなたみたいに時代考証にこだわらないから、間違っていても気が付かないのよ」
あるいは、みんなは、紋章など、どこの王朝のものであれどうでもいいのだ。劇場側だって、製作費の関係で、大道具の使いまわしをしているのかもしれない。劇場に来る目的は楽しむことある。娯楽というのはそういうものである。
「ひょっとして、いつもそういうふうにモノを見ているの?」少し心配になって、私は尋ねた。
「そういうふうにって?」
「だから普通の人は気が付かない事に気づいてしまって、普通にモノを楽しめない」
「だって、普通の事じゃないわ、あれは」
ナイトメアの「普通」は、普通の人の「普通」とは違うのだ。それは息苦しいだろうと、私は溜息をついた。許せる刺激の閾(いき)値が高すぎて、ほとんどの場合、刺激は彼女の閾値をクリアできないのである。
「知識が邪魔して、普通になれないんだ、あなたは」
*
私の部屋で、みんなに料理を作ってくれるとき、ナイトメアは、とても上手に野菜の千切りをする。そのことを褒めると、ナイトメアは当然のような顔で答える。「だって、私、お手伝いの仕事をしていたんですもの」
ナイトメアは、野菜を切るとき、一心不乱にまな板に向かう。責任感というより、手作業をしているときは何も考えずにいられるからではないかと、私は思った。放っておけば、ナイトメアは永遠に千切りを続ける。
ところが、いざ食事の段になると、ナイトメアは、何かの拍子にいきなり頭を下げて、眠ってしまう。頭がテーブルにぶつかる音がする。ゴツン。
料理は好きでも、食べる事に楽しみを感じているようには見えない。食卓での会話にも、ナイトメアは「快楽」のようなものを感じているようには見えない。
「食べることは、嫌い?」
「食べること? 分かりません。おいしく食べてもらうことは好きです」
「家で、食事のときの会話が楽しいとか思ったことはないの?」
また、ナイトメアは、眠ってしまった。聞いていけないことを、私は聞いたのかもしれない。お兄さんから、食事のときに「ブタ」とか「バカ」とか言われていたのだから、食事が楽しいものでなかったとしてもちっとも不思議じゃない。
ナイトメアは、すぐに頭を上げ、「お食事を不愉快なものにしたとしたら、申し訳ありません」とオロオロしてお箸を取り直した。
「このお料理、とても美味しいですね」
人の作った料理をナイトメアは褒めた。他人と一緒に食事をすることは、人間関係を味わうことだから、ナイトメアにはとてもつらい「仕事」なのだろうと、そのとき私は思った。
毎日の食卓でも、招待されたお芝居で、無心に楽しむことが出来ないなら、ナイトメアの生活には何の喜びもない。大学の講義に出ることは「苦しい仕事」である。しかし、「仕事」があると思うことは、この社会に生きている最後の希望である。
空虚感という言葉には、まだセンチメンタルな響きがある。「自分は空虚感に苦しめられている」という一人の自分さえなくなりつつある。
文字通り、ナイトメアは、空洞なのだ。「症状」とは、空洞である人が発明する「苦しい仕事」のことである。この時点で、ナイトメアの「症状」は、まだ「大学の教室には入れない」というだけのものだった。
*
一週間後、ナイトメアは帰って行った。年齢の近い人と友だちになろなろとはしていたが、打ち解けることはなかなか難しいようだった。いったい何のために、ナイトメアは遠くから私に会いに来たのだろう。
ナイトメアは、ただ自分を知ってほしかっただけなのだ。二十二年の人生を知るのに、一週間で足りるとは思わない。
しかし、ナイトメアは最初に泊まった翌朝、眠っている筈のリビングからいなくなっていた。
キッチンの、流しとカウンターの間の一メートルのスペースに、ナイトメアは布団を移動して眠っていた。
「だって、あんな広い場所では眠れないんですもの」
その日から、ナイトメアを書棚のある狭い部屋で休ませた。
ナイトメアには、精神の貴族のようなところがある。世俗知や卑しい感情がどこにもない。ナイトメアの話を聞いていていると、私も精神の地下水脈を遡上していくような感覚に襲われた。深いところに降りて行くと、逆に高い所に登っていくような気持ちになるのである。
ナイトメアは、私に何かを教えに来てくれたのだ。ナイトメアは、自分自身のことを、実は誰よりも知っている。私は、ただナイトメアに、今の「症状」を凌ぐ方法を教えよう。
ナイトメアの「症状」は、敢えて言えば、ただの不登校である。本人がどれほど苦しんでいようが、そんなことは実際的な処理で片付く問題である。そういう「症状」に関しては、何故登校できないかと問うことなく、如何に登校するかと問えば済む。
「最短距離を、最小時間で、最低燃費で走ること」を、私はナイトメアに伝えた。卒業に必要な最低単位を、最低の負荷で取得すると、それは、ナイトメアの能力を以ってすればいとも簡単な課題である。
苦しむなら、卒業してから苦しめばいい。明日できることを、何も今日する必要はない。今日しかできないことだけを、今日すればいい。
空洞に詰める物は、ゴミ屑でもいい。肝心なときに、あらためてゴミ屑を取り出して、空洞の中を眺めればいいのだ。ウカレルになって、今は講義という屑を食べなさい。
ナイトメアは、皮肉なことに、何事も、最低の負荷では「仕事」のできない人間である。ナイトメアは、出席日数の不足を、最高のレポートを書くことで補い、単位を、卒業必修単位数をはるかに超えて取っていった。
*
ナイトメアのお父さんから、私に礼状のような手紙が届いた。確かに、ナイトメアは「パパのペット」であった。ナイトメアの話に一番登場したのは、父親であった。
二番目に多かったのは、あの兄のことで、母親のことは少ししか語らなかった。
お父さんからの手紙が届くというのは、ナイトメアが、お父さんに、私のことや私の住所を知らせたということであろう。その手紙の内容を、私は深く咀嚼はしなかった。ただ、それが礼状であるという程度の理解をしていた。
とにかく、ナイトメアは無事に卒業する必要があると、私は思っていた。彼女は、本当に卒業したいのだと思っていたからである。
「ナイトメア」は、芥川龍之介の『闇中問答』に出てくる「声」のようなものです、そうナイトメアは最初に書き送って来た。
『闇中問答』は、「或声」と「僕(芥川)との問答であり、昭和二年九月発行の『文芸春秋』に掲載されている。その年の七月、芥川は自殺している。九月号は「芥川龍之介追悼号」であり、『闇中問答』は、芥川の遺書とも言うべきものである。
「或声 お前は俺の思惑とは全然違った人間だった。
僕 それは僕の責任ではない。
或声 しかしお前はその誤解にお前自身も協力している。
僕 僕は一度も協力したことはない」。
『闇中問答』の冒頭である。ナイトメアの中では、いつも「或声」と「僕」とが問答しているが、「或声」は「僕」の欠点を知り抜いており、仮借もなく「僕」を責める。
しかし、「或声」は、「僕」に向かって。こう言っている。
「兎に角お前は苦しんでいる。それだけは認めてやっても善い」。
「僕」こう返答する。
「僕は或は苦しんでいることに誇りを持っているかも知れない」。
ナイトメアにも、当初、苦しんでいる自分への誇りがあった。その誇りを、ナイトメアは父親から受け継いだ。ナイトメアの過剰なまでの知への傾倒は、父の中にあるものだったようだ。
ナイトメアは、母の身体から生まれ、母の乳を飲んで育った。が、精神のミルクを父から飲んで成長した。
*
人には、誰も父親と母親がいる。産まれる前に、既に死んでこの世にいなかったという人は、いない。人が生まれる行為―誕生―は、出産という母の肉体の実在なしにはありえない。
すなわち、母は実体の親であり、父は想像の親である。母だけが、子どもの父親がダレであるかを知っている。父とは、母によって指名された人に他にならない。
だから、母は肉体の親であり、父は架空の親である。母は、人の肉の親であり、父は、人の精神の親である。
「両親から受け継いだものは何ですか?」という問いに、「父からは姓、母からは血液型」と答えた人がいる。父と母の差異を示すのに、これ以上の答えがあるだろうか。
人は、自分の「臍の緒」を、親に見せられたことがある。
ミイラ化した「臍の緒」は、「お前は、肉の存在だ」という事実を人に突き付けられる。われわれは、肉の存在なのだ。「臍の緒」は、一体、母の肉体の一部なのか、子どもの肉体の一部なのか、という問いは意味をなさない。それは、どちらのものでもある。母の胎内で、人は母とつながり、母の肉体の一部である。
「臍の緒」が切断されたときに人は誕生したのだから、生まれることの苦しみは、母との繋がりを切断される苦しみである。生きる苦しみは、母から分離される苦しみである。
「臍の緒」は、かつては生きていたものであるが、切断された時からミイラ化していく。だから「臍の緒」は、もう一つの事実をわれわれに突きつける。「お前の生きていた一部は、今やここに死んでいる」「お前は死すべき存在なのだ」と。
人に、生きる苦しみと死ぬ苦しみの両方を生み出したのは、母である。母は肉のもたらすすべての苦しみの根源である。父は「架空の存在」として、肉の苦しみの外側にいる。
人が、自分の「肉の存在」を知るのは母を通してであって、父を通してではない。
「肉の存在」は、母乳を子どもに飲ませる。母の身体の二つの排泄器官の間から出てきたわれわれは、さらに母の体液を、反射的に吸って生きていく。
男の子が生まれたとき、女性は、自分の肉体から自分の肉体でないものを持つ存在を産んだことを知る。「女が、男の肉体を産む」ことは、母に「肉体の奇跡」を感じさせる。
男の子は、母の中から、女性という刻印――「肉の存在であること」――をかき消す効果を与えてくれる。
ナイトメアの兄は、母に「女性」であることを忘れさせてくれた。
が、ナイトメアは、女の子だった。母は、自分と同じものを産み出したにすぎない。
*
ナイトメアは、「生理」が来たとき、はっきりと自分が女であることを思い知らされた。ナイトメアの精神は、木っ端微塵にされる。それも毎月である。
ナイトメアは、女の子が感じるすべての痛みと苦しみを、誰よりも強く感じ取る。
母は、ナイトメアを普通に育てた。つまり、女の子として育てたのである。産まれたときに女の子の「名前」をつけ、幼児のときに女の子の「遊び」をさせた。
女の子の「遊び」とは、自分がいずれ、母と同じように、子どもを産み、子どもに「生の苦しみ」と「死の苦しみ」を与えながら、それは苦しいことではなく、まるで「遊び」のように楽しいことなのだと教えるためのものである。人生の苦痛を忘れさせる「麻薬」のようなもの、それが女の子の「遊び」である。
「遊び」なしに、すなわち「麻薬」なしに、女性は人生を生きることが可能だろうか。
ナイトメアは「遊び」を「仕事」のようにこなしてきた子どもである。あるいは、どんな「遊び」にも、そこに覚醒をごまかすものを嗅ぎ取る知性を備えた子どもである。それは、ナイトメアには、真の子ども時代がなかったことを意味するものである。
母が与える食事は、子ども肉体を育てるためのものである。ナイトメアは、「食事」に、自分の未来の生き方を、運命として受容せよというメッセージを読み取った。それは「摂食障害」の原因である。が、食事をとらなければ、生きていけなかったから、ナイトメアは、食事をとった。食事は、ナイトメアの、肉体を、ますます「肉の存在」にしていった。
ナイトメアと芥川龍之介に共通しているのは、自分が「肉の存在」である事への嫌悪である。が、芥川は男性だから、「肉の存在」性は、ひたすら生身の女性に対する自分自身の「肉欲」に焦点づけられる。
芥川もまた、子どものときから、「肉の存在」になることに、「協力」するつもりがなくても「協力」させられてきた人間である。食事をとるということ自体が、人に生きる苦しみと死ぬ苦しみという「肉の存在」であることを、受け入れさせるということである。
女性が作った食事をとり、成長することは、男性の場合、「肉欲」を持つ男性になることを意味する。芥川は、それを蛇蝎(だかつ・○意「ヘビサソリ」)のように嫌悪した。
しかし、女性にとっての食事は、二重の意味を持ち、もっと容赦のないものとなる。
それを知っているナイトメアは、芥川以上に芥川的であった。
男性が、「肉欲」を持つ存在になることを運命づけられているのに対し、女性は、「肉欲」を受け入れる「肉の空洞」になることを運命づけられている。「肉欲」の対象としての「肉体」を維持し、自らは「肉の欲望」を持たないとされている肉体。それが、女性の肉体である。
ナイトメアは、ほんのわずかな量の食事しかとらない。ナイトメアが、フェレットを飼って大事に育てているのは、フェレットと自分が同じような分量の”食餌”しかとらないからではないかと思うことがある。
ナイトメアは、食事を人においしく食べてもらう事が好きだが、自分が食べることには好悪の感情がないと言った。フェレットのように、人間関係のないところで、餌のように、生きるのに必要最小限のものを無心に食べるのは、「肉体の欲望」とは切り離された行為である。
私はしばしば、物を食べるフェレットを眺めているナイトメアを想像する。
ナイトメアのお母さんは、ナイトメアの肉体を、食事で育てることに対して真面目なひとだったのだろう。全ての母親が、それを喜びとしなければならない限りにおいて、どこまでも真面目なように。
しかし、ナイトメアは、母親と自分が同じ肉体を持ち、母親が、自分の首から下の肉体と、肉体の表面すべての表面に侵食してくることに、嫌悪感を抱いていた。肉体の内部には、意志がない。肉体の表面は、小さな子どもだったナイトメアには、まだ意志による演出が困難な場所であった。
ナイトメアが逃避する場所は、もはや頭の中しかなかった。そこにだけは、母親が介入することがない。ナイトメアは、頭の中に生きるようになった。本を読むこと、活字の世界を遊び、現実との間に防護壁を作り、知識と想像の宇宙に棲むこと、それがナイトメアが生きの延びる唯一の方法であった。
読書することは、父の趣味でもあった。父は、肉体にばかりかまけている母とは違い、頭の中に生き、母の作った食事を餌のように食べる。
ナイトメアは、父を尊敬し、父に愛されることを望み、父もまた、ナイトメアを愛していた。が、父の愛には、その子どもが、自分と違う肉体を持っているという理由も確かに与っていた。ナイトメアは、自分が嫌悪している「肉の存在」ゆえに、父に愛されているというパラドクスにも気づいていたと思う。
ナイトメアは、本のページを開くときだけ、幸福になれた。頭の中に、現実とは違う大きな世界ができあがり、首から下の肉体はそれを支えるためにのみ存在する。
読書好きの少女の中には、本の中にしか生きられない少女がいる。図書館にいると、ナイトメアは本当に自由だった。孤独という代償をいくら支払ってはいても、それ以上に自由だった。
*
ナイトメアが、本当は大学を卒業することを望んでいることは、『闇中問答』を読んで、私が想像したことである。
『闇中問答』で、「或声」は去っていく前に「僕」にこう言う。
「ではいつも気をつけろよ。第一俺はお前の言葉を一々実行に移すかも知れない。ではさようなら・いつか又お前に会いに来るから」。
「或声」とは、「僕等を超えた力」すなわち”Daimon”を呼び寄せるからである。
「或声」がいなくなり、一人になった「僕」は、最後に自分にこう言い聞かせる。
「芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の根をしっかりとおろせ。お前は風に吹かれている薬だ。空模様はいつ何時変わるかも知れない。誰しっかり踏ん張っていろ。それはお前自身の為だ。自惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ」。
ナイトメアは、Daimonと闘っている。しかし、なぜ私に会いにきたのだろうか。生活者として生きるためにやり直すのだと、ナイトメアは決めて会いに来たのではないか。
それなら、ナイトメアは、「うぬ自惚れない」ために、先ずは「普通」に大学を卒業しなければならない。同時に「卑屈」にもならないために、何らかの「新規蒔き直し」をしなければならない。そういう覚悟で、ナイトメアは、私に会いに来たのだ。
講義の単位を取るという作業が今までできなかったのは「それ(講義)が、自分には似つかわしくない」と、どこかでナイトメアが思っていたからである。「たとえ似つかわしくなくても、それをしなければならない」と、思わなければ、ナイトメアには、根を下ろすことができない。
根を下ろすことは、ナイトメアにとって、芥川以上に困難なことである。芥川龍之介は男性であり、親といっても父親である。父親だから、ペンを持っていようとも、生活者として生きなければならない。芥川にとって、父親であることは「経済的存在」という錨を下ろすことにすぎない。
が、女性であるナイトメアが、「しっかり踏ん張る」ために、「母親」にならなければならないというのは、一種のパラドクスである。ナイトメアは、「生きる」ために、「母親」から逃れて、図書館に自分自身を幽閉してきたというのに。
*
ナイトメアが、就職をした。いかにもナイトメアらしい就職を。
二千倍という難関をくぐり抜け、ナイトメアは、ある「仕事」を手に入れた。その「仕事」に就いている限りにおいては、ナイトメアは「母親」にならなくても生きていける。こと「仕事選び」に関しては、お手伝いさんになったときもそうだったように、ナイトメアは、きわめて堅実であり、現実的に成功していくことに、私は感動した。
私は、ナイトメアに、学生時代以来会っていない。が、ナイトメアからは、しばしば手紙が届く。その中に、ある時、ナイトメアは「仕事」のことを書いていた。
ナイトメアの職場の光景は、ストップ・モーションのように、今も鮮やかに浮かび上がる。
それは、秋の日のよく晴れた朝である。ナイトメアの前には、大勢の男性が机に向かって、資料を眺めて、咳音一つ立てない。黙々と「仕事」に集中し、「充実というオーラ」を発している男性たちの背中に、高い窓から午前の陽が射している。その光線を仰ぎ見続けて、ナイトメアは、飽きることがない。そう書いてきた。
ナイトメアが、その「仕事」に就いてよかった。ナイトメアほど、そういう場所で働くのに適した人間がいるだろうか。
ナイトメアの見ている男性たちは、労働のために、すすんで孤独になり、その孤独に超然としている。彼らは、頭脳労働をする存在であり、肉体のことは一切考えない。彼らの頭の中には、自分というものもなく、当然自意識という雑念もない。それは、実に清浄で、厳粛なものであるように、ナイトメアには思われる。
「孤独」でありながら「空虚」ではない男性たちには、芥川のいうDaimonが、存在しないのである。この世が生きるに値するとかしないとか、自分が「群小作家の一人」であるとかないとか、そういう芥川の意識を振り払うことのできなかったものが、そこにいる男性たちには、はじめからない。彼らは、世間から離れ、物質の世界にいて充足しているからである。
彼らの中には、「自分」という我執がない。「自分」というものがないカラッポの、しかし人形ではないものが、ナイトメアの前には、存在する。
彼らの仕事が社会の役に立っているのを感じるとき、ナイトメアもまた、自分が社会の役に立っていると感じることができた。ナイトメアは、頭の中だけでも生きていくのではなく、「仕事」を媒介として、社会というものの中に少しずつ拡大していっている。
ナイトメアは、徐々に根を下ろしていった。
ナイトメアは、生活者としての自分にも余裕を持ち、少し広いアパートに引っ越した。
それは、ナイトメアの一番幸福な時期であったのかもしれない。
Ⅱ
「兄が、自殺しました」とナイトメアが、書いてきた。
医師である兄は、ある日、苦しむことのない方法を選んで、自宅のベッドで亡くなっているのを発見された。
ナイトメアによれば、兄は、生まれて初めて体験した挫折によって、死を選んだ。人間関係による挫折は、ナイトメアが、大学でも家庭でもさんざん経験してきたものである。女であることは、序列をつけられることがある。そこから逃れるために、頭の中に撤退したのだ。
が、兄はそういうひとではなかった。兄は、今まで誰にも自分を否定されたことがなかった。
自分の意志の上に、誰か他の意志があることなど、一度たりとも想像したことがない人だった。
家族の誰もしようとしないので、仕方なくナイトメアが兄の部屋を片付けに実家に通うと、兄の性的な生活を知らされるような本がベッドの下から夥しく出てきた。
「兄は、童貞だったと思います」
いくら優秀でも、兄には恋人はおろか、友だちと呼べる人もいなかったのではないか。兄にもまた、頭の世界にのみ生きてきた人だったのではないか。ただし、ナイトメアとは、正反対の理由で。
兄にとって、自分の肉体は、唾棄すべきもので撤退すべきものでもなかった。しかし、兄は、どうやってもそれを通して他人と結び合うことが出来なかった。
兄にとって、「肉体」とは「女性の持ち物」であり、「女性」とは、「頭の悪い生きもの」のことである。が、兄は、切実にそれを欲していた。しかし、「肉体」と繋がることは、「肉体だけの存在」を受け入れることであり、それは、プイラドの高すぎる兄には堪えがたいことである。
本物の女性の代わりに、写真の中の女性を見ていたのかと思ったとき、ナイトメアは兄の中に、自分とは異質だが、同量の「孤独」があったのを知った。
肉体を持って生まれながら、肉体の中にだけ棲むという意味では、兄とナイトメアは双子である。ナイトメアと兄は二卵性双生児のようなものである。だからこそ、兄は分身であるナイトメアを「バカ」とか「ブタ」と呼んで罵ったのだ。罵倒することを意志の力で抑えることが出来なかったのだ。
兄の人生は何だったのか。ナイトメアは、死者となった兄の人生を、生者の立場から眺め、そして、初めて兄を憐れに思った。
「仕事」に満足を見出し、根を下ろすことができたにもかかわらず、ナイトメアは、また家族を失ってしまった。
兄の死によって憔悴しきった父が、兄の後を追うように病気で亡くなったのである。
そして、ナイトメアの親は母親だけになり、あの「臍の緒」が顔を出すようになった。
そもそも、ナイトメアは、今までどんなに努力をしても、期待している満足を母に与えられた試しがなかった。就職試験に受かっても、最初のお給料でプレゼントをしても、旅行に招待しても、母親は、喜んだり、素直に感謝したり、お礼を言ってくれるような人ではなかった。
それに較べ、兄は母にどんな気遣いもしたことがないにもかかわらず、母の誇りであり、「その子の母である」ことで幸福の絶頂に押し上げてきたのである。
女であるナイトメアは、いくら努力しても兄にはなれないのだろうか。だからといって、結婚して専業主婦の人生を生きれば、母は、「自分と同じ生きかた」に、ある程度の満足はしても、「その子の母である」ことに誇りを持ってくれるとは思えない。
自分は、「仕事」が好きだ。頭の中にある知識を活用する今の「仕事」が好きだ。だが、その「仕事」も、母を満足させることはない。母のようにはならないと思って、能力と努力で今の人生を手に入れた。それでも、いやそれだからこそ母はナイトメアに不満なのだとすれば、ナイトメアには「母なるもの」がないことになる。
ナイトメアは、実家に一人住む母とは、よほどのことがない限り近づかないようにしていた。が、何かの折に、母に認められないことの悲しみと怒りが噴き出してくるのであった。
「或声」が聞こえるようになったのは、決まって母と二人で向き合う避けられない用事のあとのことだった。
が、その声は、もはや兄が自分を罵る声と重ならなかった。生きていた時の兄もまた同じ声を聞いたのではないかとさえ、思われたからである。
「或声 お前は人生の十字架にかかっている」
「僕‥‥人生に微笑を送る為に第一には吊り合いの取れた性格、第二に金、第三に僕よりも逞しい神経を持っていなければならぬ」
ナイトメアの職場に通ってくる男性たちと違って、兄には「吊り合いの取れた性格」も「逞しい神経」も欠けていた。ナイトメアには、兄と較べると、「逞しい神経」が備わっていた。だから、挫折にまだ耐えられる。
しかし、女であるナイトメアには「女」である「母」がいないのである。
女には、「女」がいない。
*
秋が深まりゆくある日、ナイトメアから小包が届いた。
「温かくしてお過ごしください」
白い毛糸で編まれた、綿菓子のようなマフラーが入っていた。丸めて置くと、白ネズミの赤ん坊のように見える。
ナイトメアは、細かい手仕事が好きなのだ。ナイトメアは、大島弓子の漫画に出てくる、三つ編みを二本垂らして、ロング・スカートをはき、地上から三センチほど浮いたところを真っ直ぐにトットッと歩く少女に似ている。独り言を言いながら歩いているうちに、自分の行き先を忘れてしまうような女の子である。
ナイトメアは、曲がり角で、いつもつらいことにぶっかってしまう。
「仕事に行っています。でも、配属が変わりました」
それは職場の誰もが経験しなければならない定期的な異動である。
それでも、ナイトメアは、人と会うことのないその仕事をしているときに、自分は淋しいのですと書いてきた。毎日、新しい人に会って、さりげない言葉を交わしたり、思いがけず感謝されたりという出会いは、望めない。それは完全に機械的な仕事で、地下室と地上階を往復することで一日が終わってしまう。
どんな職場にも、表の仕事と裏の仕事がある。が、その境目は、繊細で頭の良すぎるナイトメアには、栄辱の境のように思われた。
それが暗く冷え冷えとした地下室での仕事であることが、自分に置かれている場所の隠喩のように思われたとしても不思議じゃない。
人が誰かに何かを作って贈るということは、自分がそれを人から与えられたいという願望の現れである。
夜、アパートで独りマフラーを編んでいるナイトメアは、自身を温かい毛糸で包み込まれなければならない。
温かいものほど、当時のナイトメアが求めていたものがあったろうか。
冷たいものは、森閑とした地下室の壁や空気ではなく、ナイトメアの母から与えられたものである。
ナイトメアは、兄とは違って女である。女である以上、ナイトメアは、母に対して、女の子しか提供できないものを提供しなければならない。
お給料で母のために買ったプレゼントでも、招待した旅行でも母が満足しないのには理由がある。どんな母でも同じである。母は、ナイトメアに、たとえ世界中探しても見つけて与えられないものを要求していたからである。
*
ナイトメアの母親が、ナイトメアの兄には求めず、ナイトメアに求めていたもの、それは、自分の人生の「生き直し」である。
私は、ナイトメアの母に会ったことはない。だから、ナイトメアの母という人が、たぶんそういう人である、と想像することしかできない。
もしも私がナイトメアの母親だった…‥と、私は何度も考えたことがある。
私は、ナイトメアが家を出て、お手伝いさんの仕事をすることを受け入れたろうか。ナイトメアが、大学に行けず留年の危機にあることにも平然としていられただろうか。ナイトメアの就職を誇りにして、心の底から褒めてやることができただろうか。
ナイトメアを見るとき、私は、女の子であるナイトメアに暗黙のうちに期待しているものがあることに、徐々に気づいていった。
それは、どれほどナイトメアが優秀な頭脳を持っていても、それ以前に、ナイトメアが私自身に従順であるということである。そのことを、他人であるナイトメアにさえ、要求していたことである。
私に従順であるなら、その従順に応じて、ナイトメアの要望に応えてやろうという気持ちが自分にはなかった、と断言することはできない。
ナイトメアが、私の家に来たとき、いちばん多く口にした言葉は、「○○してもいいですか?」であった。どうして、いちいち「許可」を求めるのか、そのことに疑問をいだきつつ、同時に「○○してもいいですか?」とも聞かずに自由に何かをするナイトメアを、私は許容できただろうか。
ナイトメアは、常に、人に嫌われないように行動している。
ナイトメアにとって、人の期待に応えることと、人の嫌がることはしないことは、生きていく上で、絶対に必要な事だったのだ。
自分がナイトメアの母親であったなら、と考えることは、とても恐ろしい想像である。
ナイトメアの母親は、自分が生きたくても生きられなかった人生を、ナイトメアを使って生かしめ、しかもその人生が、自分の今の人生を絶対に否定しない人生を求めていたのではないのか。
それは、「専業主婦」であるには多分あまりに優秀な頭脳の持つ主である母親が生きられなかった人生を生き直し、なおかつ「専業主婦」であることを否定しない人生である。
*
ナイトメアは、母の人生の「生き直し」という課題を。愚直に果たそうとした娘だったかもしれない。しかし、その期待が母の「欺瞞」であることを、あのナイトメアが見抜かぬはずがない。
ナイトメアは、母に愛されるためには、常に兄に負けない成績を取らねばならないことを知っていた。しかし、兄の成績を少しでも圧倒すれば、母の誇りの根源が踏みにじられることも知っていた。さらに、ナイトメアは、父が、息子にはできない娘だけが満たしてくれるものを求めていることも知っていた。
母の前では、女でありながら、男の子に匹敵する業績を挙げ、決して兄を圧倒してはならず、父の前では、兄が与えられない女の子ならではの喜びを与えなければならない。
ナイトメアは、家庭の中で、そういう困難な課題を子どものときから課されていることを知っていた。その結果、野菜の千切りや編み物に熟達しながら、過剰に発達した頭脳を持つ女の子になった。
家庭の中で十分に獲得してしまった、内心疑問を抱かざるを得ない役割を、授業料を払う大学の中まで、なんで演じなければならないのだろう。ナイトメアが、そう思ったとしても、ちっともおかしくない。だから、ナイトメアは大学に行けなかったのだ。
ナイトメアが、就職を決めたとき、ナイトメアは母に喜んでもらうつもりでいた。しかし、その就職は、母親の自慢とはならなかった。
しかも、その仕事は定年まで勤められるために選ばれたものだった。「結婚退職」という選択肢をナイトメアは持たなかった。
「私は、結婚しないで生きられる人生を手に入れました」と宣言されて、それを無条件に喜ぶことが「専業主婦」の母親に可能だろうか。もし可能であるとしたら、それは、母親が娘の能力を使って、自分が今の居場所に、つまり夫に従属している「専業主婦」という居場所に、どこまでも縛り付けている社会を見返したいと思っている場合だけである。
ナイトメアにとって不幸なことに、母親は「専業主婦」という居場所が、他の居場所よりも優越していることを、息子の業績によって証明することに既に成功してしまった母親である。
兄がなくなったとき、ナイトメアの胸に、恐るべき母の本音が去来した。
「あの子ではなく、お前が死ねばよかったのに」
その言葉を、母親が口にしたかどうか、それは分からない。が、ナイトメアが、そのことを想像したことは、十分にあり得ることである。
母と共に兄の「喪の仕事」をする前に、ナイトメアは、とにかく、自分が生きていてもよい理由、生きていってもいい場所を探さなければならなかった。
柔らかいマフラーを編んでいたとき、ナイトメアは、孤独の井戸の底に佇んでいたのだ。
*
母は兄を、自分の性の向こう側にいる者として認めた。しかし、ナイトメアには、「理想の自分」という「女性像」を暗黙のうちに期待していたと思う。娘としてなるだけ家の中に存在させた。
母が兄には許していることが自分には許さないことに苛立って、ナイトメアは早くから「女にはならない」と思っていた。しかし、それには、絶えず非難が向けられているような気がした。母の欲望に背いた娘は、そのことで他人からも気に入られないことを知る。それは、多くの場合、娘たちに「罪悪感」というものを作り出す。
「自分が求める生き方」には、母は完全な意味での応援者ではない。だから、ナイトメアは、自分は今でこそ女だが、いずれ父のようになりたいと祈っていた。
母のようにはならないこと、つまり「母との同一化の夢」に抵抗している女の子は、そのことを母が気づいていて、自分をどこか非難し、いつか愛を失わせていくのではないかという思いにさらされる。それは娘たちに「空虚感」というものを作りだす。
「空虚感」、それは、本来してくれるはずの人が愛してくれないという感覚のことである。
男の子は、彼の性器のせいで、母から哺乳瓶を拒否することがない。むしろ貪欲に空腹を満たす。それは、母が男の子を自分とは違うものとして、乳と共に人生を押し付けないからである。母は、男の子にとって、単なる授乳機械にすぎない。
が、女の子は、子どものときから身体を母に委ねることの意味を知っている。お前はどうして私の乳を飲まないのか、お前は私と同じ性別で。男の子よりもはるかにか弱い従順な子どもであるはずだから、私の言う通りにしないはずはない。それが、母の娘に対する期待である。
女の子は幼少期から男の子よりははるかに多く倦怠や孤独を訴える。授乳において男女の子どもに差異があるのではなく、親が既に気づかぬうちに男女を区別しているのである。
ナイトメアが、絶えず人の役に立とうとし、人の気に入られるようにするのは「空虚感」を埋めるためでもある。ナイトメアは必死にそれをした。
だが、父と兄がいなくなり、母の言うことに従うことは不可能であると感じたとき、ナイトメアはアルコールを摂りはじめた。お酒を飲んでいると、「空虚感」とともに、「罪悪感」も消え、すべてがうまくいっていると感じ取られるのだった。
*
ナイトメアが、もともとお酒を飲む習慣を持っていたのかどうか、私には分からない。
しかし、とにかくナイトメアは、父親がいなくなって暫くすると、毎晩大量の飲酒を始めたのだ。他人と一緒のときの飲酒は、コミュニケーションを円滑にするという機能を持つが、ナイトメアの飲酒はあくまでも一人の飲酒である。
部屋でフェレットが、その姿をジッ見ていたとしても、ナイトメアは黙々と飲酒しなければ、もう他にどうしようもないところにいたのだった。
それは、今までのナイトメアの置かれている状況からすれば、私には「仕方のないこと」であるように思われた。
ナイトメアは「アルコール嗜癖」であれ、他の嗜癖であれ、自分に向けられる要求に堪え切れず、お酒の力を借りる他はない。そして、自ら進んで再び「ウカレメ」になっていったのである。
どれだけの量を一晩で飲んでいたのかは分からないが、ナイトメアは「朝、出勤の途中に、電柱にぶつかりました」と書いてきた。ナイトメアの手紙には、常に自分のしたことの滑稽を眺める「乾いたユーモア」のようなものがある。
そのせいで、私はナイトメアの苦しみを過小評価していたのだと思う。
職場に行っても、ナイトメアは人とは三メートル以内に近づかないように注意をしていた。呼気から発する熟柿のような匂いを嗅ぎ取られないためである。人は自分の体臭を嗅ぎつけないように注意する「体臭恐怖」は、自分の隠しておきたい秘密が露見する恐怖の置き換えである。秘密の露見は、常に「嗅ぎつけられる」という表現をとる。
が、ナイトメアが秘密にしていたのは、自分が「二日酔い」であるということではなく、自分がアルコールの力を必要とするほど「空虚感」に苛まれているということである。
職場に通いながら「空虚感」を持っていることを知られることは、職業に満足している同僚への軽蔑と、職場全体への冒涜となる。
地上の規範に従順に従っている人にとって、自分たちの規範を軽蔑する人間は、要領よく立ち回る人間よりも一層憎むべきものである。
自分の部屋で一人で飲み続けながら、職場でも物理的に一人でいる生活は、ナイトメアの「孤独」をかき消すためにより一層の「孤独」を招いてしまった。職場で、ナイトメアが何よりも歓びとしていたのは、人との接触であった。が、ナイトメアは「秘密」を持ってしまうことで、その歓びからも自らを遠ざけることになってしまった。
私は、ナイトメアの「嗜癖」を、その動機が分かるが故に、まだ甘く理解していたのかもしれない。
*
ある晩、ナイトメアは飲酒してから入浴し、浴槽の中で眠ってしまった。開栓したままの蛇口から出たお湯が浴室から溢れて、アパートの階下の部屋の天井に浸水し、階下の住人からの抗議で、ナイトメアは目を覚ました。ナイトメアは弁償の為に奔走しなければならなくなった。ナイトメアは、事故の対応や法的解釈には、普通の人ほど悩まなかった。すべて本から学んだものである。
しかし、本には解決方法が書かれていない事故がナイトメアにはあった。それは、常に「母親」からもたらされた。あるいは、「母親」との会話を契機にもたらされた。
ナイトメアは、自分が女であることとどう折り合いをつけていいのか分からなかった。
母は「母親になる」という形で「女性役割」との同一化を済ませていたが、ナイトメアの中には「母親」のようにはならないという、漠然とはしても強固な意志があった。
「母親恐怖症」(メトロフォビア)とは、女性の中にある「自分は母親には全然似ていない」と思う「母親のような生き方」への否定の感情のことである。結果として「女」という「階級」からの逃避を自らに要求する。自分が置かれている「階級」に属する人間との協調がえられず、自分への飽くなき要求に苦しめられている人間は、「嗜癖」に嵌らざるを得ない。
どんな嗜癖もそうだが、嗜癖のメンバー目的は「協調性」を求めることにある。
ナイトメアは、母親と協調することを諦めて、職業によって自立していったのだが、職場と調和することの困難にも気づき始めていた。仕事は歓びも与えてくれるが、同時に、失意をも与えてくれる。仕事だけでは完全に満たされない何かゆえに、ナイトメアは職場で自分が徐々に孤立していっていることを知っていた。ナイトメアが、自分が選んだ仕事が要求する以上の能力を持つ人間であったことは、事実である。
ナイトメアは、常に「現在の状況」によっては満たされず、どこかにある「自分のための位置」を探し求めているタイプの人間のようだ。
しかし「空虚感」を満たすためには、先ずは「母親が果たしてくれる務め」を誰かから与えられなければ生きていけない。男性にそういう時、母親と同性の者が存在する。しかし、ナイトメアは女性であり、母親から得られるものを、母親とは違う性の者からもらわねばならない。
しかし、愛が得られるなら、そしてそのことによって、「アルコール嗜癖」から立ち直れるなら、たとえ母とは違う全く違う者からの愛でも必要である。職場で少しずつ強まる非難を感じながら、そうナイトメアは思ったのだ。
*
「結婚しました」という手紙が、ナイトメアから届いた。
私は、自分が驚かないことに、少し驚いた。結婚すれば親密感と安定が得られる。もう、ナイトメアは孤独ではなくなる。ナイトメアにとってはよかったのだ。
ナイトメアは就職のときと同じように、すばやく結婚相手を探し、何の問題もなく結婚をしてのけた。
手紙には、出会いから結婚に至る経緯や、相手の人なりや職業は、一切書かれていなかった。その相手とではなく、結婚と結婚したかったのだろうか。世の中には大勢いる。今の生活から逃れるために結婚する女性は、本当に大勢いる。
恋愛の経験について質問したとき、ナイトメアは、以前のそれがすぐに破綻したこと、それはみな自分に非があったということを、手短に語った。
ナイトメアにとっての恋人とは「片時も離れずに自分といてくれる人」である。恋愛ではなく、結婚であれば、相手と毎日一緒にいられる。
ナイトメアは、家事は上手にこなすし、編み物のような「女の仕事」も得意である。何より、性格が優しい。たとえ「母親恐怖症」ではあっても、ナイトメア自身が「母親の果たしてくれる務め」を相手に与える技術は、持っている。これは相手の男性にとっても悪い結婚ではないだろう。
母は、ナイトメアの結婚には反対しなかった。その相手の出身大学だけ聞いて、反対をしなかったという。母が反対しないような条件の相手をナイトメアは見つけたのだから、それは母への「見返し」だったのか、母が認めないような相手はナイトメア自身が最初から排除する「母親との同一化」の結果だったのか、恐らく両方であったのだろう。
しかし、ナイトメアの結婚と、母親の結婚には二つの違いがある。
一つは、ナイトメアが仕事をもっていたことである。ナイトメアは、結婚によって仕事を手放すようなことはしないと書いてきた。それは、自由への「風切り羽根」なのだから。二番目の違いは、ナイトメアは夫となる人に、精神的に「母親が果たしてくれる務め」を過剰に求めていたことである。
ナイトメアに限らず、女性にとっての夫は、父親の代理ではなく、実は母親の代理である。ナイトメアは、夫となる人に、自分の母が与えてくれなかったものを求めていた。そういう条件を満たしてくれる。本質的に女性的な夫をナイトメアはちゃんと見つけたように思われた。おそらく、ナイトメアの好きな理科系の男性なのであろう。本質が女性で、理科系の仕事を寡黙に行う男性なら、ナイトメアの産毛のような神経を傷つけることはない。
これで「アルコール嗜癖」から脱け出せる、そう私は思った。ナイトメアは、何でも自分で解決できるのだ、と。
*
ナイトメアの新住所を封筒の裏に見たとき、私の中に、その土地でナイトメアが暮らしていけるのだろうかという懸念が湧きおこった。ナイトメアとその土地は、いかにも不釣り合いな印象を与えたからである。その土地を、私はナイトメアよりも、ずっとよく知っていた。
ナイトメアは、もともと住んでいた場所を含めてナイトメアなのであり、別の場所に移り住むと、ナイトメアではなくなるのではないか。なぜなら、ナイトメアは、自分が生まれ育った土地に誇りと愛着を持っていたのだから。実家の母とは物理的に離れたい。しかし、自分が育った土地から遠く離れることまで、ナイトメアが望んでいたとは思えない。
ナイトメアは、引っ越して間もないうちに、「私は今の場所には耐えられません」と書いてきた。
理由は、その町には駅前に小さな書店が一軒だけあるだけで、そこには自分が読みたい本が一冊もないという事であった。大きな書店のある都市まで行くには、電車で乗り換えて一時間以上かかる。
ナイトメアは、ほぼ毎日、書店に通っているようだった。
ナイトメアは、大きな町に出るために、私鉄電車から地下鉄に乗り換えねばならない。暗い地下の穴から出る湿気を帯びた黴臭い空気を吸い込みそうになりながら、ホームに虚ろに立っているナイトメアの姿が浮かんだ。ナイトメアは、首をうなだれ、常に悲しげであった。
なだらかな稜線の山の後ろに控えた静かな町は、ある種の人にはいかにも住みやすいかもしれないが、ナイトメアには、どこまでも重く鈍い土地に感じられたのである。
ナイトメアは、引っ越して間もなくのうちに、新たに引っ越しをした。しかし、今度の住所は、以前よりも都市に出やすいというだけで、土地自体がナイトメアの求める何かを与えてくれるはずがないことは、土地勘のある私にはすぐに分かった。
ナイトメアが、そういう土地で一体どんな家に住んでいるのか、家のことも、家の内部のことも、なぜか一切書かれていないのである。手紙から、生活の描写が消滅していた。室内どころか、ナイトメアにはその地に足をつけて生きている様子さえ感じ取れない。
分かって来たことは、ナイトメアが仕事をしておらず、日中は一人でいるということである。
「この町も、私には合いません」と、ナイトメアは、再び書いてきた。
植物すら、合わない土地に植えられると枯れてしまう。
*
ナイトメアは、恐らく燐家の人には礼儀正しく挨拶をしているであろう。が、食事は作っているのだろうか。フェレットは連れて行ったのだろうか。
そういう、自分作り、自分を包み込む「生活」の匂いというものが、手紙からは立ち上がってこない。ナイトメアが、働いてひとりで暮らしていたときには「生活」の匂いがしたこと、過去には確かにあったことに、私は初めて気づいたのである。
しかし、ナイトメアは「アルコール嗜癖」からは抜け出していた。
ナイトメアにとって、読むに値する本が身近にないことは「アルコール嗜癖」など容易に克服できるほどの恐怖だということなのである。
「活字中毒」は「読書嗜癖」と呼びうるものであろう。それが、「アルコール嗜癖」に取って代わったという事は、嗜癖の種類が身体的には安全なものになったと喜ぶべきことなのだろうか。そうではないだろう。
「本」は、ナイトメアには、特別なものである。ナイトメアは、「本」の中に棲む人間であり、それがあってもなおかつ「アルコール」による酩酊が必要であった。なのに、今では、ナイトメアの存在の基層を成すその「本」すらなくなっているのだ。
いや、本は、書店や図書館やネット上には確かに存在する。そういう本ではなく、「本」と本質的に隔てられた世界にいるということが、ナイトメアを苦しめているのである。
ナイトメアは、「生活」と「土地」に縛り付けられた女として定義されている。「結婚」するという事は、そう言う事である。夫の勤務先によって、女性の住所が決められるのである。
地面から常に離れて「抽象的」な世界に生きていたナイトメアが、「具体的」な女として、その土地では定義される。
ナイトメアは「生活」に幽閉され、「本」と隔てられている。だからこそ、「生活」のことをナイトメアは一切書かないのだ。「生活」の中にあって「本」の世界から最も遠ざけられている自分の苦しみが「土地」への嫌悪に形を変えている。ナイトメアは、遂に三度目の引っ越しをした。
夫が一緒にいてくれて、ナイトメアに「母親」の与えてくれるべき何かを与えてくれるのかどうか、答えは自ずと出ているように思われた。ナイトメア自身が「本」を求めて毎日町をさまよい歩き、たえず自分の「生活」の場所から遠ざかろうと、あがいているのだから。
なんど引っ越しても、探し求める「抽象的」な世界は、その土地にはない。それは、ナイトメア自身も予め気が付いていることではなかったか。
周到なことに、ナイトメアは職場に「休職届」を出していることが分かった。
*
人は、住む土地によって、家からだけではなく、自分自身からさえ遠ざかってしまう。
ナイトメアが誇りとしていた父の家は、ナイトメア自身の「家」である。父の喜ぶ顔を見たくて、ナイトメアは地元では一番の進学校に合格した。その高校を卒業した有名人の先輩の名前を、かつてはナイトメアは子どものように嬉しそうに挙げたことがある。
しかし、結婚した土地では、その高校の輝かしい名前を知る人はなどいない。
休職して、離れられないので夫の勤務先について一緒に行ったことの代償は、自分が「匿名の存在」になることであった。
「休職届」を出したことは、いつか必ず仕事に戻るということを意味する。
淋しさから逃げ出すために結婚はしたが、その結婚は、生理的には許容することのできない土地にナイトメアを縛り付けた。
父が亡くなった後、父の家には母親が暮らしている。が、父の蔵書、父の書斎にふさわしい成績優秀な自分の子供時代が、家の中には痕跡として刻み込まれている。
帰りたい、父の自慢の娘だったあの家に、あの土地に。
あの土地にあって、この土地にないもの。それは記憶という「具体的」なものであり、自分に値する本に囲まれた「抽象的」なものである。
ナイトメアのような人間は、「具体的」なもので土地に串刺しにしておかなければ、糸の切れた凧のようにどこかに飛んで行ってしまう。同時に「抽象的」なものを酸素のように二十四時間供給しておかなければ、窒息して死んでしまう。
しかし、あの土地に帰る事はできない。一緒にいてくれて、具体的には不満があるわけではない夫の側を、離れることはできない。
夫のことを、ナイトメアは手紙で一度も「夫」とは書かなかった。もし「夫」と書けば、自分は「妻」という者になる。しかし、仕事を休んでいる以上、目下のナイトメアは「専業主婦」である。「専業主婦」になること、それは母親と同じ者になることである。
ナイトメアは、あくまでも自分は「休職中」の人間で、やがては「仕事」に戻るのだと自分に言い聞かせていた。自分の母親のような「本物の専業主婦」ではないこと、そのことがナイトメアを支えていた。が、その土地での生活は、昼間本を求めて家を留守にすることを除けば、専業主婦である母親の生活と何も変わらない。
ナイトメアは、母親から逃げてきたのに、母親と同じところに戻ってきたのだ。
*
ナイトメアの手紙は、郵便受けに他の郵便物と一緒に入っていても、文字を見るまでもなく、すぐにそれとわかる。封筒に入った便箋の枚数が多すぎて、封筒が筒状に膨らんでいるからである。
一通の封筒に、何日かに分けて書かれた便箋がまとめられてある。日にちや番号が書かれてはいないので、封を切ると、どれが最初の手紙でどれが次の手紙なのか、書かれた順番に分ける必要があった。読み終えてから、順番が違っていたことに気づくこともよくあった。ナイトメアの手紙は、便箋でなくレポート用紙に書かれていることがよくあったが、どれも常に横書きで、必ずシャープ・ペンシルが使用されていた。
ナイトメアの文章は、猛烈な速度で書かれている。文字が前のめりに走っているように見える。感じたことや考えたことを、思考の速度に合わせてひたすら書き記している。読んでいるこちらまで息せき切って前のめりになってしまう。
私は、ナイトメアの立場に身を置き、頷きながら読み進む、が、あるところでプツッと文章が終わってしまう。話は、別の日か別の時間に新たに書いたと思しき便箋に移る。
ナイトメアは、本を読まなければ生きていけないが、同様に文章を書かなければ生きていけないのである。本だけではなく、ペンを奪われてもナイトメアはナイトメアではなくなる。ナイトメアは自宅の机の上だけではなく、何時かいかなる時でも文章を書けるように、便箋やレポート用紙を持ち歩いているのではないかと私は想像した。書き始めると止められなくなり、しかし何かの事情で、突如書くことを中断してしまう。が、再び隙を縫って書く。書くことを中断されたとき、ナイトメアが何をしているのかは、まったく分からない。
ナイトメアは圧倒的に書く人であり、私はただ読む人である。ナイトメアがいくら苦しんで書いても、手紙には筆力が漲っていた。
天性の作家のように、ナイトメアは、もしペンを奪われればワインで書き、ワインを奪われれば、血で書いたであろう。そういう意味で、それは手紙ではなく作品のように思われた。しかし、作品ではなく手紙なのだということは、相手に訴えかけるもの、共感を求めるものがその表現に必ずあることから確認できた。
「私はこう思う」と書くのではなく、「私はこう思うのです」と、ナイトメアは書く。
私は、ナイトメアに共感を寄せる事はあっても、ナイトメアが欲しがっていたものを、一度も与えたことはない。ただ、ナイトメアの読者であることに自足していたに過ぎない。私は、自分からナイトメアに手紙が書けなかった。ナイトメアが「就職」したり「結婚」したり、社会に根を下ろそうとしているのなら、その安全なレールからに外れるようなことを暗示してはいけないし、もっときちんとレールに乗るように示唆してもいけない。私のような「風に吹かれる葦」に、ナイトメアはなってはいけない。そう思ったからである。
*
ナイトメアの母親は、結婚前、自分には何か非凡なものがあるかもしれない、と思ったことがなくはなかった。
しかし、結婚し、家庭に入って専業主婦になった。夫がそうしてくれと言ったわけでもない。自分の母親がそうだったように、それは当たり前のことであり、夫と理想の家庭を作れると思ったものだ。
夫は、真面目過ぎるのが欠点のような人である。妻として少し我慢をしているのかもしれないと思う事はあっても、そんなことはよそ様の家に比べれば、はるかにましなことだと思って、夫と喧嘩したことがない。夫は、なにより社会的に尊敬できる人だった。
若いときは、家庭のことは自分が一身にせねばならなかったが、夫は娘ができた頃には精神的に余裕ができ、赤ん坊を職場に連れて行くほど可愛がってくれた。息子も娘も勉強はよくできた。
自分としては、家事の手抜きはしたことがなく、料理の腕にも自信がある。特に娘は好奇心が強く、すすんで食事の支度も手伝ってくれた。
息子が、死の直前、自分の寝室で添い寝したとき、夫は息子を叱ったが、自分は息子にそうさせた。夫には息子の気持ちが分からないのだ。横に眠る息子が、まるで赤ん坊に戻ったように自分の手を握って眠ることに当惑はしたが、そのままにさせた。神経の傷つきやすい息子にできる唯一の母の務めだと思ったからである。
娘は家を出ていたが、何でもよく知っている娘にはそのことを相談した。なぜか、娘はその事を聞くとすぐにアパートに帰ってしまい、息子の行動を説明してはくれなかった。自分の育て方に非があったのかどうか、未だにまったく分からない。
息子が亡くなった直後、娘はよく家に来てくれた。娘は、頼むと自分に代わって息子の部屋をちゃんと片付けてくれた。自分は息子の部屋には入れないが、娘は平気で部屋に入れる。そういう性格が自分とは違う。
そのあと、夫が亡くなった。夫を追って自分も死んでしまいたい気持ちになった。が、まだ娘がいるので死んではならないと思った。
自立心のある娘は、早くから自活をし始めた。今も、仕事に就いているので、娘に結婚を勧めたことなどない。が、娘は急に結婚すると言い出した。相手が遠方の人なので淋しくなるとは思ったが、地元の有名国立大学を出ているというのを聞いて、反対はしなかった。
自分が反対しても、昔から言い出したら聞かない子どもだし、自分が死んでも、この子は一人ではなくなると思ったからだ。
娘は何があっても、自分で生きていくだろう。息子のように、弱い子ではない。そして、自分の所には、一生帰ってはこないだろう。
娘を当てにすることはできない。私は、自分の老後は、娘以外の者に頼るしかない。
娘には財産を遺さず。
*
ナイトメアは、母への怒りを抱えながら、母親に直接怒りをぶつけたことはない。
ナイトメアには、母親が「女性であることに屈してしまった」ことを見て、自分は母親のような生き方はしないと思いながら、同時にその人生を女性として理解し、赦そうと試みるもう一人の自分がいた。女性である自分が「女性嫌悪」には陥らないという理性を備えていたからである。結果、あらゆる本を読み、ナイトメアは母が母親であることを当の母以上に弁護できるだけの知識を持ってしまった。
母は、自分と兄にとっては加害者である。しかし、母はこの社会では被害者である。
「被告」である母にとって、娘である自分は「検事」であるとともに「弁護士」でもある。そういう奇妙な立場に、ナイトメアは立っていた。母を批判しようとすれば「弁護士」がこれをかばい、母を擁護しようとすれば「検事」がこれを批判した。そうして、ナイトメアは、母に何も言えないようになり、代わりに自分自身を責める声ばかり響き渡ってくるのだった。
母に面倒を見るからという甘言で近づくことは、自分には絶対にできない。が、兄のように母のくれた身体を殺して復讐することも、自分にはできない。
自分の怒り自体、正当なものなのかどうかさえ、徐々に分からなくなってきている。
母の価値観を内面化させ、母の期待に応えてきた兄は、自分を「ブタ」だの「バカ」だのと言い、「女と自分は絶対違う」といいながら、最後には母の愛を求めていたのではないか。
ナイトメアは、母にただ自分の頭でものを考える人間になってほしかった。公平に子どもを愛してほしかった。世間の価値観で子どもを見る弱さを克服してほしかった。
が、母という人は、誰かに頼る以外に生きる術を持たない人である。
ナイトメアは、かつて母というものの冷淡さに絶望していたが、今では母というものの弱さに絶望していた。
弱さと狡さのない親、それは父だけである。父は母とは違うのは、父には「仕事」があり、それを通じて「社会」の中にいるからである、そうナイトメアは信じていた。
*
ナイトメアの「休職」には、もちろん期限が決められていた。
期限が近づいてくると、ナイトメアは、「結婚」を選ぶか「仕事」を選ぶかの決断に迫られるようになった。家にいてできる「仕事」なら、選択をしなくてもすむが、職場というものがある「仕事」であれば、それは許されない。
夫の立場にいる人と「仕事」のために離れて暮らすことは、その孤独ゆえ、再び「アルコール嗜癖」を招き寄せる予感があった。しかし、住むのに苦痛をもたらす土地に、しかも匿名のまま暮らすことには、はや限界が近づいている。
職場のある土地に戻る事は、父のいない家に近づくことを意味する。
子どもの頃の家の側に戻りながら、家には帰れないのなら、その土地にはただ「仕事」のためにだけ戻る事になる。母の世界より「仕事」を選んだために、母は懲罰のように自分から家を取り上げてしまった。
「仕事」が与えたものと「仕事」が奪ったものを思うと、ナイトメアは暗然とした。
「仕事」に戻ることが、就職したばかりの頃に感じた興奮や、それに伴う一人暮らしの楽しみを、再び約束してくれることはあり得ないだろう。
仕事の種類によっても「仕事」は苦痛なものに突如変わることも知っている。それに、復職した自分がどういう目で見られるかも、想像がつく。
帰る場所がないという悲しみは、ナイトメアを「本」へのさらなる耽溺(たんでき)に向かわせていった。
しかし、もうナイトメアは「本」という抽象的な世界だけで生きる事は出来なくなっていった。だからといって、かつては好きだった料理という具体的な仕事は、今では義務となり、日常の仕事化することによって、それがもたらす純粋な喜びを失っている。
結婚した相手を一人にすることはできない。自分が彼を必要とした以上に、今では彼の方が自分を必要としている。たとえその必要性が結婚前に思い描いたものとは違ったとしても。
結婚の為に「仕事」を辞めることを考えると、ナイトメアは恐怖に襲われた。結婚しても、ナイトメアは本を買うために、自分の貯金を使っていた。夫のお給料で、自分の本を買ってはいけない。
貯金がなくなれば、本すら買えなくなる。本を買うために結婚相手に経済的に依存することは、許されないことである。
貯金額が減っていくこと、それは「精神の自由」が減っていくことである。
Ⅲ
ナイトメアの手紙の内容が変わっていった。
ナイトメアは、時間を遡って、子どもの頃の経験を詳細に掘り起こすようになっていった。
ナイトメアは「父の娘」である。が「父の娘」ではなく「母の娘」にならなければならない。おとなしくて知的な父ではなく、従順そうでいて実はすべてを支配している母の味方に、自分はならなければならない。父親の中に「女性」を見出し、母親の中に「男性」を見出すナイトメアにとって、実在する母を愛する事は、とても難しいことである。その困難のために、父の評価を下げているのかとさえ、私には思われたほどである。
幼い頃、ナイトメアはよく父の布団に潜り込み、小さな背中を父に抱かれるようにして眠った。父の身体と接触していると、自分も大きな父の世界に迎え入れてもらえるという未来を思い描くことができた。父が到達した地点にまで、自分もいつか到達するであろう。父のような大人にいつか必ずなれるだろう。そいう高い理想を、父はその身体を通して感じさせてくれた。
それは、母との間には感じることのできない温かさと安心を与えてくれた。母はいつも自分に緊張を与えるが、父は優しい人である。
「しかし、父は自分に対して、してはならないことをしたのです」
食べ物に混じっている砂粒を噛んだように、ガリッという音が聞こえた。
ナイトメアの父親は、私がこれまで思っていたような人ではなかったのだろうか。
ナイトメアの父親からもらった礼状の意味は、一挙に反転した。あれは礼状ではなく、娘が他人に秘密を伝えに行ったことを恐れて書かれた。慇懃(いんぎん)な形でのアリバイの手紙だったのだろうか。
なぜあれほど好きだった父親の死に際し、ナイトメアがそれほど悲しみを表現してこなかったのか。それで納得できる。
なぜナイトメアが浴槽の中で眠るのか、その理由も分かる。ベッドの中では、安心して眠れないからである。
なぜナイトメアがいきなり眠ってしまうのかも、それで理解できる。ナイトメアは、父との現実を否定する別の自分が出てきてしまうからだ。
なぜナイトメアが、父でなく母を嫌悪するのか、その理由も分かる。母は、自分をちゃんと守ってくれなかったからである。母はそのことに気づかないほど鈍感だったからである。いや、たとえ気づいても、母は自分の味方になど、きっとなってくれなかったからである。
*
ナイトメアの手紙は、私の記憶にあるだけである。私は、砂粒をかんだ感触の不快さに、手紙の内容すべてを吐き出してしまった。ナイトメアの手紙をすべて廃棄してしまった。
この自分の行為を説明することは、難しい。
ナイトメアの書いていることを信じるなら、ナイトメアの苦しみの原因は、内側のものではなく外側のものということになる。恐らく、私はそれを一番認めたくなかったのであろう。
ナイトメアの苦しみは、女性にとって不可避の、構造的な、そこの深いものであると私は思っている。だからこそ、ナイトメアの絶えることのない孤独と空虚の訴えに対し、私は安易な慰撫や激励を与えることができない。自分自身にも答えが出せないことを、ナイトメアに伝えられるはずがない。せめて、安全地帯の中にいてほしい。そう、自分は思っていたのだ。
しかし、外側からの事故というものは、構造的なものではなく、爆発的なものである。
たとえ、父親との関係が事実だとしても、なぜナイトメアは苦悩の原因をそのようなことに、収斂させてしまうのか。私はどこかで、ナイトメアは卑劣であるという感覚さえ抱くようになった。
ナイトメアの苦しみは、そのような「事故」を原因と見なして済む程度のものではない。そういう偶然に由来するものではない。
つまり、そのとき、私は、外科的なものを、構造的なものとは思っていなかったのである。むしろ、ひたすらそのこが事実であるか否かということと、ナイトメアの解釈に、こだわっていた。
何が事実で何が空想なのか、父のこと以外に関しても、私は一度も確かめたことはないし、確かめることもできない。
ナイトメアという人物は実在する。私は、その人に会ったのだから。
ナイトメアの父親という人物も実在する。私はその人から手紙をもらったのだから。
しかし、ナイトメアの書いてきたことがすべて実際にあったことなのかどうか、それは分からない。
ナイトメアの書いてきたものを私がそう読んだということも、もう一度確かめてみることはできない。もう手紙は存在しないのだから。
認めたくない事実を、人は先ずは否認するが、そのあとでそれは空想であって事実ではないと思うようになる。何が事実で、何が空想なのかが分からない。それがナイトメアの作業なのか、私自身の作業なのかさえ、判然としないようになっていった。
事実と空想の境界にいて、確かなことが分からないということは、ナイトメアがずっと体験してきたことである。
ナイトメアは、ずっとこういう意識で生きてきたのだ。すべてが曖昧なのだ。自分が確かに見た世界と、他の人が見ている世界とは決して重ならない。だから書かずにはいられないのだ。その時点で、ナイトメアと私は混然として一体となった。
ナイトメアとは、私である。
*
ナイトメアの手紙から、住所が消えた。同時に、仕事に関する現実的な悩みも消えた。
ナイトメアがどこで手紙を書いているのか、全く分からなくなった。
しかし、ナイトメアは、サイコ・セラピーを受け始めていたのである。
そのセラピストの名前には、どこか聞き及びがある。その人の本を読んだことは今までに一度もないので、その人の著書を私は買い求めてきた。
ナイトメアの関心は、世紀末のウィーンに飛んでいた。ナイトメアが、フロイトの患者たちに共感するのは、当然といえば当然である。
父から受けた行為を語る娘たちの話に当惑して、フロイトはそれを患者の「願望」なのだと見なすようになった。フロイトは、患者が「願望」を「実現」のものとして語っているのだという説を採った。そうしなければ、自分の「心の構造」に関するすべての仮説が覆されるからである。それは、単なる保身や、患者への裏切りで済む程度のものではない。
従って、フロイトの著書の中で「正しい」記述は、『ヒストリー研究』ただ一冊である。あとは、フロイトの「仮説」である。フロイト自身が「正気」を保つための「物語」である。
現在では、「現実」を現実として認める立場のセラピストも存在するが、そういう人の一人として、ナイトメアはそのセラピストを選んだのだろうか。
むしろ、ナイトメアは自分の「嗜癖」と「空虚感」を無くしてくれさえすれば、「原因」などどうでもよいと思っているようであった。今のこの苦しみをとにかく消してほしい。そのためには、セラピストのいう事は何でも聞くと、覚悟を決めているようであった。
ナイトメアの手紙に「レポート」が入れられていた。フロイトの患者の一人であったアンナが、フロイトの許を去り、やがてフェミニストになっていった過程を、ナイトメアが資料に当たって「伝記」として書いたものである。
自分がセラピーを受けながら、フロイトのセラピーを受けた女性のその後の人生を語る。アンナが見たフロイトの姿を借りて、自分が見たセラピストの姿を語る。
そういう二重構造で、ナイトメアは自分のセラピーを書いてくるのである。
セラピーを受けながら、セラピーを超えて、セラピーを語る。そんなクライアントほど、苦しいものはない。
ナイトメアは、セラピストの前ですら、女性は「ウカレメ」にならなければ生きいけないことを知っていた。だが、そのことを自分が知っていることを、誰かに知ってもらいたい。そう言っているようであった。
*
セラピストとの会話が、ナイトメアの手紙に断片的に書かれている。
しかし、「ウカレメ」にならなければ生きていけないナイトメアの気持ちが、セラピストに理解されているという事実を、ナイトメアは書いてこなかった。
クライアントという名の「ウカレメ」になるには、苦しみの原因について自分で分析したことのすべてと、自分の知識の九九%を隠していなければならない。「一パーセントの自分」を表に出して、ナイトメアは、毎回セラピーに通う。
聡明なナイトメアは、セラピストを非難したりすることはしない。
ただ時々「それは○○ではありません」と、キッパリした「否定」を口にすることがある。その「否定」は確かに事実に即しており、ナイトメアには世界から鋭利な輪郭をもって見えている。その知は、直線の辺と角を持っている。世界という円の中に正方形の知が入っている。円の中で正方形に含まれない剰余の部分を、ナイトメアは「心の温かさ」と呼ぶ。ナイトメアは、「余剰の部分」をいつも人に求めてきた。
だからナイトメアは、人に向かって「あの人は間違っている」という言い方はしない。「それは事実ではありません」とは言うが、「それを事実と信じている人は間違っています」とは、決していわない。「余剰の部分」こそが自分を包容してくれるからである。
セラピストには、確かに「心の温かさ」があるようなのであった。
ナイトメアは自ら言ったことがある。「四角い人は、本の中にはたくさんいて、そういう人はすべて自死を選んでいきました」ナイトメアは、時々アイロニーをもってモノゴトを語る。それを解するとき、ナイトメアの持っている怒りの正体が分かる。
この世界は、自分には生きにくい。人々は間違った知識をあたかも正しいことであるかのように信じて疑わず生きている。自分にとって正しいものはただ一つしかない。が、そのたった一つのことを、人々はなぜか迂回して通り過ぎる。そういう人の中で、自分は生きていかなければならない。四角い知が中に在りながら、なおかつ「余剰の部分」を持っ存在を、自分は探し求めてきた。
セラピストに求める条件もまた、それであったろう。真実など、自分はとうに知っている。それでも、それを収める丸い容器が、自分には必要なのだ。
セラピーとは、人に受容される時間をお金と交換する商品である。ナイトメアには、商品を買うお金がまだ残っていたのだった。
セラピーに行くナイトメアは、その「場所」に自分を待っていてくれる人がいることを確認しに行く。
ナイトメアほど、自分のいる「場所」を求めているものはいない。
生地から終われ、結婚した土地に馴れることができず、職場には「休職届」を出し、町の書店を放浪するナイトメアに、他にどんな居場所があったろう。
ナイトメアは、セラピーに行くことを、セラピーの内容よりも求めている。
しかし、ナイトメアの手紙に新しい変化が現れた。文章の最後に、処方された薬の名前とその分量が毎回書かれるようになったのだ。
一つの薬の分量はミリグラム単位で表記されている。その分量はともかく、薬の種類が多いのである。
それだけ多くの種類の薬を飲んで、どういう効果が出たのか、ナイトメアは書いてこない。薬でラクになりました、とは書いてこない。もちろん、ナイトメアのことだから、薬に関してすべて調べているはずである。
手紙の終わりに、カタカナの薬品名と数字が、機械的に並んでいる。一つの薬が一行に書かれ、それが縦に並んでいるのを、私はいつもジッ見る。
文章で書かれている部分より、そのカタカナの魂のほうが、よほど何かを暗示していることは、分かる。
私は、これほどの薬を飲まなければならないほど苦しいのです。
私は、これほどの薬を飲まされているのです。
私は、これほどの薬を飲んでいます。
私は、これほどの薬です。
私は、薬です。
薬が、私です。
私は、いません。
ナイトメアは、新しい嗜癖を見つけたのだ。「処方薬物嗜癖」
薬という名の世界に、ナイトメアはいる。この土地の世界のどこにもいられないナイトメアは、今、薬という名の世界にいる。「アルコール」にも「愛着」にも「読書」にも嗜癖したが、それらはナイトメアを世界の隅っこに追いやるばかりであった。
が、「薬」は違う。
*
「薬」を求めて、ナイトメアはセラピーに行ったのだろうか。
あるいは、セラピーに行って、「薬」と出会ったのだろうか。
どちらが先でどちらが後なのか、そういうことはもうどうでもいい。
「薬」という名の世界があれば、地上の世界で自分がどんな目にあったかという記憶の苦痛はすべて消えてしまう。ナイトメアは一人の世界にいられる。それは、自己完結した世界であり、他人のいない世界である。
あるときから、セラピストにある「余剰の部分」は、語られなくなった。セラピストの言葉も、何も書かれなくなった。ナイトメアだけがセラピストに語っている。
「私は、何ですか?」
「私は、あなたがつけた名前のものになります」
「だから、その名前のものが飲む薬をください」
「私は、私がもう要らないのです」
ナイトメアは、自分という意識を消してしまいたいのだ。「薬」は、それを消してくれる。
が、完全ではない。なぜなら、ナイトメアは私に手紙を書いてくるのだから。
カタカナの魂はどんどん大きくなっていった。それでもナイトメアは、手紙を書いた。
自分が消えてしまいたいという願いと、自分はここにいますという存在証明とが、闘っているようだった。
しかし、ナイトメアの肉体は、今どこにいるのだろう。住所の書かれていない封筒の裏を見て、私はずっと考える。夫とは一緒に暮らしているのだろうか。
もし、夫という同居人が居なければ、これだけの薬を、ナイトメアは一挙に飲んでしまわないとも限らない。ナイトメアには、同居人が必要である。
ナイトメアが自分のことを書いてくるのは、自分を理解してほしいという気持ちがあったからである。私はナイトメアの孤独というものは理解したつもりであった。結婚を知ったとき、ナイトメアは孤独ではなくなると安堵した記憶がある。
それなのに、ナイトメアは、「薬」の世界に入っていった。
ナイトメアには、孤独だけではすまない容易ならざる違和感が常にあるのだ。それを、ナイトメアは、言語にして伝達してきている。
私は、ナイトメアが病んでいると、自分が一度も思ったことがないことに改めて気がついた。
*
ナイトメアの家を、訪れた。
古いが大きな家で、部屋の間には段差があり、三段ほどの階段を上が下りしなければならない。が、部屋と部屋の間には壁がない。窓はすべて閉じられているため、室内は昼なのにほの暗い。家には、独特の匂いがする。どんな家にも、家というものには独特の匂いがする。
ナイトメアが灯したのだろうか、仏壇に一本のろうそくが黄色い光を発している。光の周りには輪が出来、その光の輪で辛うじて室内が見える。ナイトメアの家の宗教は仏教だったのかと、私は意外に思った。
息がつまるような気がして、私はベランダに出るために木のよろい戸を開ける。長い間開けられたことがないらしく、よろい戸はゴトゴトと重い音を立て、ようやく開いた。
ベランダに出ると、外は少し大きめの池だった。家が池の上にせり出して建てられている。
池の表面に、白い大きな蓮の花が二輪開いている。蓮の花ほど完全な形をした花があるだろうか。私は、思わずナイトメアを呼んだ。
「ハスの花が咲いている。出ておいでよ」ナイトメアが、ベランダに出てきた。
いったい、こんな蓮の池の上に家を建てたのは、ナイトメアのお父さんなのだろうか。それとも家の古さからいえば、おじいさんなのだろうか。
そういう質問をしようとした瞬間、よろい戸が閉じ、内側でガチャンと閂(かんぬき)が閉まる音がした。閂などなかったはずなのに。私たちは家から閉め出されてしまった。
「どうする?」
「閂なんてありませんよ。この扉は入れ子細工になっていて、そのからくりを思い出せば開きますから。心配しないでください。
ナイトメアは、よろい戸をあちこち点検し始めた。その間、私は蓮の花を眺めていた。いざとなれば、池に入って向こう岸に渡ればいい。何分経過しただろう。
「ほら」と、ナイトメアが背後から声をかけた。よろい戸が開いている。
それと同時に、私は夢から目覚め。
*
ナイトメアが生きる事を苦しむこの世界を、「苦の世界」と名付けよう。
かつてそれに最も近い世界が存在したとしたなら、それは高学歴であっても自分の「個」というものを表現しなければ生きていくことなどできない。近代文学における男性作家の世界である。実際、「苦の世界」という名前の小説を書いた作家は存在するのであるし。
一方で、高学歴ではない男性は、ただ日々の糧を得るために額を汗して働き、妻子を養うために生きてきた。家に帰れば家族がおり、その家族を食べさせていかねばならない。
そういう男性の「苦の世界」と、表現しなければ生きていくことが出来ない男性の「苦の世界」は、別の世界である。
女性であって高学歴で高職歴であるナイトメアには、養うべき家族はおらず、自分で自分を養える限りにおいて、既に「経済問題」は片付いている。ナイトメアは、そういう意味において、成功した「男性」である。
が、ナイトメアは、それだけでは生きていけないのだ。
それなら、自分の「個」を表現する途に向けて、何もかも捨てて「表現」に生きるという決意を意味するには、ナイトメアの糊口を凌ぐことは既に成功してしまった「男性」である。女性は近代において先ず「経済自立」を要請されてからであり、ナイトメアはそういう要請に対して、誰よりも高い動機づけと能力を持っていたからである。
「個」を表現する職業的に「孤」にならなければならず、「個」を埋没させるには「家族」がない。永遠に宙吊りにされた「名誉男性」、それがナイトメアである。
二つの「苦の世界」のどちらにも属さない新しい「苦の世界」を、ナイトメアは生きている。
「経済」を保証されながら、それだけで自足して生きるには、ナイトメアは余りに知的であり、かつ反俗的であった。いくら「仕事」を持っていても、その次にはそれを通して「意味」を作り出さなければならないことを、ナイトメアは知っていたのだろう。要するに、ナイトメアは、努力すればするほど、ゴールが遠のくような短距離走の選手なのである。
自分で自分を養うために、ナイトメアが表面的には「いともやすやす」という形を見せながら、或いは自分でそれ自体が努力であることさえ気づかぬままに、幼児の頃から「自立」のために人知れずどれほどの努力を蓄積してきたか、私はよく知っている。
「自立」をしながら同時に「繋がり」を持たなければ、女性は生きていくことができない。そいうジレンマに、ナイトメアは誰よりも早く、誰よりも深く気が付いていた。
ナイトメアが、仕事を得てからも、毎日の仕事のためにどれほどの心的エネルギーを傾注してきたか、私はよく知っている。
ナイトメアは、仕事に「意味」というものを造り出そうとしてきた。
仕事の中で一番楽しかったある試みについて、かつてナイトメアは書いてきた。
それは幼い者たちが「苦の世界」に放り出されて、たとえ壁にぶつかろうとも、それに負けずに生きていくための「智恵」の言葉を、分かりやすい形で伝達する場を作るという「仕事」である。
ナイトメアは、その計画を実行するため、同僚の女性たちと密かに話し合い、会議を牛耳る偉い人達に向けて「若い人たちは、本当はこう思っているのです」とあらゆる「情報」と「言葉」駆使して説得した。そして、その計画は、現実に成功したのだった。
ナイトメアの中には、自分より幼い者たちに対する慈しみの心がある。ナイトメアは、人間が自分を目的にしては生きてゆけないことを知っている。
私の夢に出てきたナイトメアは、依然として活力を維持し、全力で人の安全保障をしようとする。
ナイトメアは、具体的な状況が深刻になればなるほど自分の中の活力が点火される種類の人間である。ナイトメアに活力を与えたのは、恐らくその父親である。
ナイトメアの父親は、ナイトメアが世界に立ち向かうときには必要なモデルであった。「自分の父親はあの人である」と思うと、自分が到達可能な地点が見えるのである。「苦の世界」を空気のように感じとって生きてきたナイトメアには、最後の拠点として父親がいた。
父親は状況が具体的になると、抽象的な世界に逃避していく人であった。が、常に「言葉」を持つ人であった。ナイトメアは、父親のよわい部分を反面教師としながら、その「言葉」を譲り受けた。
手紙とは、何かを伝達し何かを人に届けるための「言葉」の使用であり、「言葉」のための「言葉」の使用ではない。ナイトメアの「言葉」にはいつも心が伴っていた。
しかし、父はあの恐ろしいことをした男性である。
*
ナイトメアの手紙は、私との「現実」の共有であったはずである。が、私はナイトメアと何を共有しようとしたのだろう。私は、ナイトメアの状況を「理解」する傍観者であって、それを契機として、私自身の「内面世界」に出会うことをしなかった。
毎日の仕事を「義務」としてこなし、それによって「自立」というものをし、「生活」をする。それが「適応」というものである。
「適応」するためには「必要」以上のことを意識してはならない。そう思っている私に、せっせとナイトメアは苦しい「内面生活」を書き送っていた。
夜の眠りの中で、人は夢を見る。悪夢(ナイトメア)を見ることもある。
ナイトメアは、起きていても悪夢を見る。夢と現実の境がナイトメアにはない。それは、形の違う一つのものに過ぎない。
自分の中に「ナイトメア」がいるという人間に、夢と現実の区別はない。私が「現実」だと思っていたものを、ナイトメアは「夢」だと言い、「夢」だと思っていたものを、ナイトメアは「現実」だという。
ナイトメアは、自分の「内面世界」と他人の中にある「内面世界」の一致を瞬時にして理解する。
自分を忘れて仕事に没頭する人たち、真実を求めてもっと知識にアクセスしたいと願う子どもたちをナイトメアは愛し、そういう人たちのために懸命に働いた。
「内面世界」を持った人間は生きにくい。私はかつてナイトメアに、大学を卒業するためには「内面」など持たない方がいいと助言をした程度の人間である。
しかし、「内面世界」のない生活には「現実」というものはない。そう、ナイトメアはずっと感じていたのだ。
ナイトメアは、私ではない。
私は、人間の形をしたカラッポである。
「生活」のために「生活」をすることが「現実」であるという気持ちに埋没し、「内面世界」を共有する人間関係こそ「現実」であるという感覚を、私は失っている。
若い人には「人間関係」しか存在しない。若い人は「関係」だけに生きているというより「働く生活」というものが存在しないので、他人との「関係」でしか自分を確認することができない。だから、よほど「内面」に敏感なのだ。社会に出ると、人間は「関係」を徐々に失い、必然的に「内面」をも失っていく。しかし、ナイトメアは決して「内面世界」を手離さなかった。
大人になって、神のギフトのような「人間関係」はあたえられても、それは決まりきった日常から自分を「解放」させてくれる「非現実」なものである。「現実」とは、ざらざらしたものであり、退屈なくせに堅牢なものである。
私は自分の「現実」を選び、ナイトメアを「夢」の向こう追いやった。
私がいう「現実」を生きるくらいなら、ナイトメアは「自分」というものを消してしまった方がいいと思ったのだろう。
「私に会いに来てください」
ナイトメアが書いてきた。場所は指定されている。
そこはナイトメアの実家の近くであり、そこにいる期間も記されてあった。ナイトメアは、帰ってきている・
*
招待券を送ってくれた人がいて、行ったことのない街の美術館に電車を乗り継いで行ったのは、それから半年後のことである。
美術館を出て、ベンチに座ると、街並みが一眸の中に収められる。が、その中央に、ニョッキリと建っている看板がある。どこかで見たことのある名前である。それは、ナイトメアの指定した場所の看板である。
私は戦慄し、ベンチの手すりを握りしめた。
あの日私が行かなかったその場所が、また目の前に現れる。
あの時、私はナイトメアに会いに行かなかった。
行こうと思えば行けたのだが、私は会いに行かなかった。
ナイトメアは川の向こう岸に立って、ここまで泳いで来てくださいと言った。
が、私は川には飛び込まなかった。私はそこに泳ぎ着けない。私は、真の私に会いに行くことができない。
それ以来、ナイトメアから二度と手紙は来なくなった。
ナイトメアの「内面世界」が私が入り込むようになったのは、手紙が来なくなってからである。
ナイトメアの「内面世界」は、自分の中にあるのかもしれない。それでも、それは遠くにある。そう自分に言い聞かせるのである。今しばらく我慢さえすれば去っていくのだと。
美術館のベンチから、そこの建物は、ごく近いところにある。私は、ナイトメアに会いに行こうかと考えた。
そこに行っても、ナイトメアに会えるはずがない。
万一会えたとしても、ナイトメアは、あの日に会いに来なかった私を、もう見限っているに違いない。
私は、やがてナイトメアのような生き難しさを抱えた女性たちにたくさん出会う事になる。彼女は、最初のナイトメアだったのである。しかし、あんなに勁よいナイトメアは、地上にはあのナイトメア一人しかない。そのことに気づくのは、ずっと後のことである。
ベンチから立ち上がり、私は駅に向かって歩き出した。
2006年三月三十一日まで掲載された『毎日新聞』ニュースサイトから原稿を改稿したものです。
本書はフィクションである。 小倉千加子
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