四年前、小谷野敦氏の『もてない男』が出版され、ベストセラーになった。で、同じちくま新書から、『女は男のどこを見ているか』(岩月謙司著)という本が出て、二十万部売れているという。この岩月氏はNHKブックスから『娘の結婚運は父親で決まる』という本も出しているが、私は岩月氏の本はまだどちらも読んでいない。
四年前に『もてない男』という本を私に教えてくれたのは、悩み相談に来たある男子学生である。彼は大学に入って、とにかく女の子にもてたい、そのためには女子学生の多い大学がいいと思って、その大学に入学してきたという。
ところが入学してみると、数は力なりで、女子は圧倒的な威圧を誇り、男子は隅っこでくすぶっている状態であった。かれは欧米の大学に留学すれば、自分を尊敬してくれる女子が出来るかも知れないと考えた(理解に苦しむが、そのまま続けると)。留学試験のため毎日図書館で英語の勉強をしたところ、成績がどんどん上がっていった。
そこで英語の学校にも通ってみようと、その学校の授業料を稼ぐために夏休みに頑張ってアルバイトをしてかなりの金をためた。が、ある日パチンコに行き損をして、損した分を取り返そうとまたいくうちに、貯金はパチンコの球とともに消えてしまい、同時に英語熱まで冷めてしまったのだった。
今度は別の大学を受け直そうと考え、図書館で受験勉強を続けていると、やはりぐんぐん学力が上がっていった。ある日、図書館で『もてない男』という本を見つけ、自分も学ぶところがあるはずだと思って読んでみたら、どうしたらもてるかという本でなく、もてない人が書いている本であることが分かった。
四十歳まで童貞である人も知った。怖くなった。ところがなんと、その著者は東大を出ているという。東大を出ていても、もてないなんてことがあるのだ。ガーンと頭をぶちのめされたような気がした。計画を変更しなければならない。医者になったら絶対にもてると聞いたので、今は医学部を受験するために、図書館でまた勉強をしています・・・・。という話である。
その時、はじめて私は『もてない男』という本の名前を知り、随分罪作りな本であると思ったのが、最初の印象である。が、読んで見ると真面目な本であった。
さて、小谷野氏のいう「もてない男」の定義をここで確認しておこう。
「世間で言う『もてない男』というのは、ほんとうに、救いがたく、容姿とか性格のためにまるで女性に相手にしてもらえない男のことを言うらしい。じつは私がそこまで考えていなかった。私がもっぱら考えていたのは、好きな女性から相手にしてもらえない、というような男だったのである。女なら誰でもいい、というようなケダモノはどうでもよかったのである。そんな連中は金を貯めてソープランドにでも行くがいい。
『もてる/もてない』という言い方ではなく、『美/醜』で論じたらどうかという提案もあったが、それも私の本意ではない。厳密に言うと、恋愛の上手下手ということになって、たとえば男でも女でも、寄ってくる異性を適当に相手して満足できるのが恋愛上手な人間であり、高い理想を求めて、これに叶わない異性は相手にしない、がために恋人の不在に苦しむというのが恋愛下手な人間である。
だから美男美女なのに恋愛下手ということもある。醜女醜男なのに恋愛上手ということもある」(『もてない男』まえがき)
ここでは、男性は三つのタイプに分けられる。
1 女なら誰でもいいというケダモノ
2 異性を適当に相手にできて満足できる恋愛下手な男(女)
3 理想が高くて、その理想に叶う相手がいないために恋人ができない恋愛下手な男(女)
小谷野氏は、1 については男性に限定しているが、2と3については男性も女性も含めて分類
している。だから私は、文章の下に(女)と付け加えておいた。
ケダモノに女性を含めなかったのは、小谷野氏が女性に「ユートピア的な場所」を求めているからであろう。男なら誰でもいいと公言する女性を私は何人も知っている。「男でありさえすればどんなのでもOK、来るものは拒まずです。いただきます」と、あるパーティーで自己紹介した自営業の女性がいた。
こういう女性は小谷野氏には理解不能なのであろうか。吉本隆明も、そんな女はいるわけがないとか、そんな女に勃つ男がいるわけがないとかいうようなことを昔言っていたが、実際に女としてそういう人はいっぱい棲息しているし、彼女たちが病気であるわけでも世間にルサンチマンを抱いているわけでも、男に復讐しているわけでもない。
女に対して理解不能であれば、性的にも不能になる男がたくさんいるなら、彼女たちは女性用ソープランドに行かなければならないが、そんなものはないよだ。では、こういう女性の性的弱者は誰が救ってくれるのであろうか。
さて、2 は後にして、3が、小谷野氏自身も該当し、研究の対象ともしている「もてない男」あるいは「童貞歴四十年」とかいう男性たちである。ちなみに、女性でここに該当する人(長い処女歴の持ち主)を何人か私は知っているが、理想が高くて、それに叶う男がいないために恋人がいないという、まさにその理想というもの自体が極端な場合、どうすればいいのだろうか。
高すぎる理想と長すぎる処女歴
一人は何代も続く名家の令嬢である。処女歴五十年である。彼女の家柄と釣り合うようなブランドの男を求めて、数え切れないほどお見合いをし、二十八年間実に四半世紀以上の人生をお見合いに費やして来た。お見合いから結婚に至るとき、五十歳になっていた。相手は再婚であったが、週刊誌でよく「本誌が選ぶ日本の名医一〇〇人」とかに載ることもある人である。
彼女がなんで今まで誰とも恋愛もセックスもしなかったのかと言うと、彼女の辞書には「自由恋愛」という言葉はなく、初体験は初夜にするもので、恋愛とは夫になる人と結婚してから育んでいくものだからである。
もう一人は、処女歴三十九年。一人娘で、父は無職、母の収入で短大を卒業してOLとなった。仕事はよくできる。今でも三人の男性とつきあっていたが、いずれも男性の方が去って行った。付き合ううちに男性は肉体関係を求めて来る。結婚も婚約さえもしていない男性とそんなことを絶対にいけないと、父親に口を酸っぱくして言われていたので、結婚してくれないとそんなことはできないと言うと、男はみんな去って行った。
「男はみんな女の身体だけが目的なのだから、結婚する気のない奴とは絶対に関係を持ってはいけない。信じられるのは家族だけだ」というのが父の口癖であった。父親は十五歳の時のから住み込みの奉公をし、ご飯も立ったまま食べさせられ、先輩に殴られ、必死で働いたが十分なお金は稼ぐことができなかった。いろんな仕事についたが、結婚すると妻の方が働きに出て、今は家にいて、毎日猫のトイレの始末と鳥籠の新聞紙を取り替えるのが、日課である。
「世の中は厳しい。他人は敵だ」と言われ、その日、かつて市民講座で学んだ講師(私のこと)に久しぶりに会うと言うと、出かけに父親が念を押したという。
「何年も会ってない先生が、わざわざお前と会って話をすると言うのには何かがある。お前に金を貸してほしいと言うに違いないから、絶対にハンコを押してはいけないぞ」
それを聞いた私は暗澹たる気持ちになり、しばらく茫然としていたが、やがて気を持ち直し、急いで彼女を自立させなければと、今付き合っている人とか結婚したいと思う人はいないかと尋ねたのだった。「英語のスクールの先生で、すごく爽やかでやさしくハンサムな先生がいて、素敵だなと憧れています。で、その先生の誕生日に女性の生徒さんはみなプレゼントを持ってきます。私よりずっと年下ですが」ああ、ダメダメ。
そんな年下の、みんなが群がるいい男はムリ。そこまでモテモテならとっくに彼女がいるはず。複数いるかも、もっとランクを落として、他に誰かいないの」と、結婚作戦を考えたものの難しいものだと諦めて帰ったが、数日後に手紙が届いた。
「先生は、会ったこともない男性のことを結婚もしないで複数の女性と肉体関係を持つ不真面目な男性だと断定しましたね。彼は誠実な人で、絶対にそんな人ではありません。女性経験もないと私は信じています。今まで私が付き合った人が私から去っていったのも、私が肉体関係を許さなかったからだと先生は言いましたね。
もし、それが去っていった理由なら、私の肉体だけが目当てだったような男性は、いなくなった方がいいではないですか。私のことを本当に愛しているなら、結婚式まで我慢してくれるはずで、それができなかったというのは、私を愛していないということです。先生は何も分かっていないのですね。さようなら」
どちらのケースも親に問題があり、家族癒着が甚だしい。晩婚化の原因に、こういうケースもあるのだ。しかし、これは氷山の一角で、どこかに理想の人が絶対にいる。それまで(処女は守らなくとも)待っていようと決め、(四半世紀とまではいかなくとも)待ち続けたまま腐っていく女性は、実に膨大にいる。
しかし、これをして「理想が高すぎて叶う相手が出てこない恋愛下手の女性」と呼んでいいのだろうか。
小谷野氏は、こういう女性にも「処女であることは恥ずかしいことではない。処女でいいんだ」というのだろうか。ちなみに、この事例の二人の女性は、ママスターベーション経験も確実にないと思う。
父への憎悪
後者の女性の「恋愛下手」は、父親が未成年で苛烈な弱肉強食の世界に放りだされ、結果的に社会・経済的に適者として生存が叶わなかったことが原因である。この父親は人間が受忍できる限度を超えた苦労と貧困によって心的外傷(トラウマ)を受け、人格に大きな歪みを持つに至った。このトラウマが「誰をも信じず、誰も愛してはいけない」という偏った認知を生み出した。
そしてこの認知を彼は娘にずっと与え続けたのだが、これが一種の精神的虐待であることは明らかである。父との共依存から、娘は家族以外の誰とも感情を通わせないパイプを持てなくなった。(そもそも、私が彼女と何年ぶりかに会ったのも、彼女が私の講演を聞きに来て、「先生、私のこと、覚えていますか」と話しかけてきたからである。
いつも心を閉ざしている目をしている人だったから、よく覚えている。講演を聞きに来てくれたからという義理よりも、何かSOSのサインであるという直観ゆえに、私は時間を割いて後日会ったのである)。
彼女の父が恐れているのは、損をするような「交換」である。世間に騙されて失ってはならないものは「娘の貯金」と「娘の肉体」である。だから、娘は「結婚」と「肉体」の対等交換に固執するあまり、今までも家族以外の誰とも感情の真の交流が出来ないまま生きてきた。
私の大学院時代のゼミの友人で、主婦を相手に長年カウンセリングをやってきた三沢直子氏(現・明治大学教授)は、現在四十代半ばの女性のクライアントが訴える多様な問題の背後に、父親に対する激しい憎悪があまりにも頻繁に見られることに気づいた。
そこで、父親の生年を調べてみたところ、昭和八年から十二年に集中していたという。これらの年に生まれた者は、学童疎開の経験者であり、疎開先で地元の子どもたちから虐めを受けた者が多く、さらに終戦が終わって帰ると、空襲で家屋が焼失し、家族も空襲で亡くなっていたり、父が戦病死していたりして、いわゆる戦災孤児となった者の多い年齢である。
戦災孤児として受けた差別、偏見や貧困によって作られた人格の歪みのせいで、「信じられるものは金と土地だけ」という価値観が人一倍強い。その父の娘が結婚して親になったとき、いかに自分が父から愛されていなかったか、父が親として夫としてどれほど酷薄であったかに気づいて、父への憎悪が顕在化し、父と対立することが実に多いと、三沢氏は言う。
もちろん昭和八年から十二年生まれで戦災孤児だった人だけが、トラウマを持つわけではないだろう。戦地に行き、餓死寸前までいって生還した人、傷痍軍人となった人、軍隊で殴られ続けた人、捕虜として長い抑留生活を送った人、内地に帰って空襲で家や家族を失ったことを知った人、戦後の猛烈インフレのために全財産が紙くずになった人、農地改革によって地主の地位から転落した人、そして戦後の混乱の中で他人を蹴落としてしか生きられなかった人たちを含めれば、明治生まれにも大正生まれにも昭和一桁生まれにも、戦争の深刻な被害者は夥しくいる。
いや、一部の特権階級を除けば、この国は「戦争トラウマ」を持った男たちを競争に駆り立たせて繫栄を勝ち取って来た国なのだ。喪失、死の恐怖、屈辱、貧困、裏切りによってトラウマを持った父親になり、さらにはその息子たちが、父親になった。生存競争に勝ち抜いた父親なら、なおさら「信じられるものは金と土地だけ」になるだろう。
父は「愛より金」で生きている。あの頃、日本国民はお国を愛し、みんなでお国のために死ぬのだと信じていた。しかし戦争が終われば、自分たちの金は何もなくなっていた。
愛のために金を失った人が「愛より金」と信じるのは当然であろう。しかし「愛より金」という価値観しか持っていなかった父の、「貧しさ」を娘は軽蔑している。
金で物を買い与えることでしか愛を表現できなかった父を憎みながら、それでも父の金で自分は確かに豊かに育ったことは認めざるを得ない娘たちが今無数にいるのである。
山田昌弘氏は、結婚は女性にとってそれまでの人生のリセットだと言った。私は、娘の結婚は、実は父の人生のリセットだと思う。小谷野氏は、現代日本の若い女性はほとんどヴェブレンのいう「有閑階級」だと書いている。まったくそのとおりだ。娘が結婚を先延ばしにする背後には、父の影がある。父には、さらにその父の影がある。
みんな元は貧しかった。父たちは多かれ少なかれ成り上がり、娘たちは生まれた時から有閑階級の一員であった。確かに父はがんばった。しかし、もっと豊かな友達のお父さんと較べると恥ずかしいところのある父だった。娘は父に愛と憎悪の両方の感情を持つ。しかし父の向こうには戦争がある。
「少子の枢軸」日・独・伊は、敗戦によって莫大な賠償金を払わされ、貧しいところから出発した国だ。貧しかった国で「愛とは金」だと思う父たちが、娘にピアノを習わせ、大学を出し、自分は一度も行っていないのに海外旅行に行かせ、ちゃんと箔をつけたのだ。父はみんな思っている。なんでうちの娘が、高校しか出ていない貧乏な男と結婚しなければならないのかと。
恋愛とフェティッシユ
「村上春樹を『もてない』男はどう読むか――『ノルウェイの森』は”いんちきポルノ”!? なぜ主人公はあんなにもてるの? その差別的な女性観など、言われてみれば不思議なくらい真っ当な批判(以下略)」
二〇〇三年六月に出た小谷野氏の『反=文藝評論』の帯びにはこう書かれてある。
さて、『もてない男』で、「恋愛上手」な人を、小谷野氏は「寄ってくる異性を適当に相手して満足できる」人と定義しているが、好きでもない人に寄ってこられて満足できる人は、むしろ恋愛下手な人の方ではないだろうか。
恋愛上手な人は、好きな人を相手にするだけで忙しい。にもかかわらず、向こうから寄って来られると、ちょっとでも好きになれそうな人なら時間の合間を縫ってでも満足させてあげられる人こそ恋愛上手な人である。もてる男(女)は、相手を「自分はこの人にとって特別だ」と思わせるために、不断の努力を怠らない人なのだ。
しかし、自分で「もてる」と言う男(女)は、本当にもてているのだろうか。それは本人の作った物語であって、事実と物語が違うという事はいくらでもある。本当にもてる男(女)は、そのことを吹聴しない。むしろ、自分と相手を快楽に溺れさせてしまうその才能を恥じ、矯正したいと思っているふしすらある。そう考えるなら、もてる男を主人公として小説(や漫画)を書き、世間に公表してお金を儲けている著者が、蓋を開けてみればちっとももてていないということは十分ありうるのではないか。
そもそも人間は、生きていること自体が快楽であるときには「人生論」なんか書こうとはしない。ゴルフでも、才能のある人は、自分のゴルフはまだまだ完成していないというコンプレックスを持っているくらいのもので、人にゴルフを教えるレッスン・プロやゴルフの本を書く人は、ゴルファーとしては二流であろう。
同様に、本当の恋愛の才能のある人は決して恋愛論なんか書かない。書くこと自体、自分の恋愛の不毛と才能を暴露するものだ。と思っていたら、かつて恋愛論ブームがあって、柴門ふみの『恋愛論』を読ませていただいたことがある。差別と偏見に満ちた本で、そのこと自体に驚いたのと、この本の著者と、あの『東京ラブストーリー』(ドラマの原作となったもので、原作の結末はドラマよりずっとラディカルであった。漫画として名作中の名作である)の著者が
同一人物であることが信じられない思いがしたのを覚えている。フィクションだと天才になり、エッセイだと陳腐になってしまう場合、その人の実生活はやはりエッセイで書かれているものに近く、フィクションはあくまでも「生きられなかった自分」だと考えるのが妥当であろう。
だから、である。もてもて男が主人公の小説を書いている作家を、小谷野敦氏は妬まなくてもいいのではないか(別に妬んでないか。しかし、小谷野氏は美人と恋愛したいそうである)。
そこで、美人とつきあえる男について考えてみよう。日本で毎晩一番美味しいものを食べているのは、私は、ヤクザと力士だと思っている。大阪の食べ物屋が美味しくて安いのは、もしも不味くて高いものを出したら、客のヤクザに「こんな高い金取って、不味いもん食わしやがって!」と怒鳴られるからだという説もある。真偽のほどは知らないが、ヤクザがたくさん住んでいる街は確かに美味しくて安い店が集中しているし、実際新大阪のある店でそこの主人が「お客さんにそのスジの人が多いんで手抜きできませんねん」と誇らしく言っているのを聞いたことがある。
で、そういうスジの、美味しいモノを食べている人は、確かにすごい美人をひきつれている。ヤクザで出世していく人は、男としてのオーラを放ち、女性に優しく、おまけに金を使うから、女の方が放っておかない。フェミズムとヤクザは似ている。
どちらも゛男に厳しく、女にやさしい」。しかし、ヤクザがもてるのは金とオーラのあるうちで、なくなればもてるのは難しい。力士がもてるのは、頭にちょん髷が載っているからで、引退すればただのデブである。男にとっても、花の命は短いのである。
TV局のディレクターとか演出家の男とかは、いくらでも女の歓心をかえるが、それはその男がディレクターだから、演出家だからであって、仕事がなくなれば女は離れていく。
愛されたい欲望
人間には他人から純粋に愛されたいという欲望がある。金ではなく自己そのものを愛されたい。世界でたった一人自分だけを見ていてという欲望が、悲しいかな誰でも存在する。
私たちは赤ん坊という無力な存在として生まれ、病人か老人という無力な者として死んでいく。野良猫は死ぬ前には死期を察してどこかに姿を消す。人は猫や象と違って死期を悟らないと言われているが、そんなことはない。ホームレスの人は、最後は仲間に救急車を呼んでもらって病院に行く。残された仲間の人が、「人間も、ちゃんと死期を悟るんだ、その時が分かると、ちゃんと自分から死に場所に行くんだ」と、涙ぐみながらTVのニュースで語った。
私が最初に勤めていた大阪の短大では、保育士の資格のとれる学科があった。この資格を取った学生の就職希望の一番人気は(当時は)保育所、それも小規模で〇歳児から預かる保育所であった。赤ん坊は可愛からである。ある日、学生の一人が、就職の面談に、大阪府下のある保育所に行ってきたが、戻って来るなり、怒り狂って訴えたことがある。
「理事長面談だったんですが、私が保育所保母の求人に履歴書を出して行っているのに、なんで保育所にこだわるんだと言うんですよ(その保育所はかなり大きな規模の社会福祉法人が経営していて、同じ法人が他に老人用の施設も経営し、施設はほとんど隣接して同じ敷地にあった)。私は、幼児が好きですからと言っているのに、赤ん坊のオムツ換えるよりお年寄りのオムツを換えてやった方が得だよ、と言われたんです。
断ったら、理事長は『老人施設の保母さんで、お年寄りからダイヤの指輪を貰った子もいるよ。あんたも年寄りにやさしくしてやるとダイヤを貰えるかもしれないよ』と、言うんですよ。アッタマにきて、ダイヤの指輪なんかほしくないって言って帰ってきたんです」
人生の最後に施設に入れられて、自分のオムツをやさしく換えてくれる若い保母さんに、ダイヤの指輪を自分の指から抜いて「これ、とっといて。ありがとう。いつもありがとうね」と、手を握りながら頭を下げるおばあちゃんの姿が目に浮かんできて、私はなんとも返事が出来なかった。
若い正義感は、ダイヤの指輪を餌にして、老人施設に希望を変えさせようとする理事長が許せないかもしれないが、私は俗臭を帯びた理事長を嫌悪するより、死んでいく者が世話してくれる者に必死で縋りつくその気持ちに胸を塞がれる思いがした。
このように、人は生まれてきてしばらくの時と死んでいく時には、絶対的にというか悲愴なまでに人の愛を必要としているのである。若くて元気な時にも、壮年期にも、誰かに自己を愛されたいという気持ちが止むことはないと私は思っている。
したがって、セックスの際に膚接感に、この欲望すなわち単にセックスの相手としてではなく自分を愛して、自分を守って、自分を大切にしてくれという欲求が、付着しないはずがない。
素直に考えれば恋愛の理想とは、「自分のフェチを満たしていて、なおかつ自分を愛してくれる相手と、相思相愛になる」ことである。つまりはその人から見て「美しい!」と思える(他人からは理解されなくてもいい。が、理解されるともっといい)パーツを持った相手と、まず出会わなければならない。
あの、知能テストを世界ではじめて考案した不遇の天才アルフレッド・ビネーは、知能テストについて研究する以外にも「フェティシズム」という論文を書いている。ビネーの不遇とは、彼がソルボンヌ大学の生理学的心理学研究室長としてフランス心理学の発達に最も貢献した人物にもかかわらず、生涯、大学で講義する機会を与えられなかったこととである。
政治力がなかったのである。悲境の人にふさわしく、家族を愛し娘たちに癒されながら多くの著書を残したが、五十四歳で脳溢血で逝った。
ビネーによれば、セックスは「フェティシズムの交響曲」である。女性の足とか、男の指とかにフェチのある人はいくらでもいるが、脚だけではなく指だけではなく顔も声もそして性格まで含め、「全体」がフェチにならなければセックスはできない、「部分」をフェチにしているのは、ただの「変態」である。したがってあらゆるフェティシズムという名の楽器が揃った交響曲こそ、完全で正常なセックスだというわけである(しかし「正常性交」を数ヶ月やっただけで、別れられて「家族」が成り立たない。妊娠し、子どもを責任を持って育ててくれなければ、国が滅ぶ)。
だから(ここから先は別にビネーは言ってはいないが)恋愛が終わっても、今度は愛という絆で家族はつながっているのだと錯覚させようとする。誰のために? 国の為に。こうして、「人格とセックスと結婚」は結合するというイデオロギーが発生した。
先ほどから述べているように、我々は自分が弱ったときにも貧乏になったときにも、変わらずに人に愛してほしい、感情の交流を確保したいという切実な欲求を持っている。多くの人は、恋(情熱恋愛)の刹那に、頭ではムリだと分かっていても、自分が一番好きだと言ってほしいと思う。
恋愛に「永遠」と「絶対」を夢見るのが、悲しいかな人間である。そういう人間の弱さが国家の目的と一致するからこそ、結婚制度はその威力を失わないのである。権力というのは、サンドイッチのパンのように、上と下にあるのである。
貧しさが、人を権力に対して反抗的にさせることはあり得ない。労働で身をすり減らしている人は、その日一日の労働に精一杯で、他人の苦痛や社会の矛盾に関心を向けるにはあまりにも疲れているからである。だから、労働者階級はいやおうなく保守的になるとヴェブレンは言った。
世の中を保守的にしようと思えば、国民みんな半・肉体労働に従事させ、競争させればいい。現在の日本はだんだんそうなってきている。大学を出た男子が、正社員になってファミレスの店長になれば御の字なのだ。「目指せ、店長」の時代だ。
それでも親は子どもを大学にやる。大学を出ても何の得もない、が高卒だと絶対に損する。それだけの理由で、大学進学率は下がらない。社会にとって怖ろしいのは、余暇を持った高学歴者だ。フリーターではない。主婦のことだ。彼女たちは、政治の不正に対して一番敏感なセンサーをもっている。ワイドショーを見ていると、「今回○○の事件ですが、どう思われますか?」とカメラとマイクを向けられ、一番適確な意見を言うのは、昼間歩いている有閑マダムだ。
男を働かせて、優雅な専業主婦に憧れる女の子たちが、銀座の有閑マダムになって社会を的確に批判的に眺めるようになるのだったら、そういう生き方もあってもいいかなと思う。
あなたが大学教師なら、「目指せ、店長」の男子と「目指せ、主婦」の女子を教えるのとでは、どちらにやりがいを見出しますか?
教育内容が、将来学生たちに活かされるのは、主婦志向の女の子たちを教える方だと私は確信しています。しかし、これを言うなら、主婦は所詮夫に寄生する評論家で自立していなではないかという反論と、店長めざして磨り減っていく男の子たちのほうが労働者なのに、金持ちの味方をするのかという批判が、働いている友人たちから発せられる。階層とジェンダーが捩じれしまっている教えておいて、主婦論争をするのはとても難しい。
つづく
女性のフェチ・男性のフェチ