近代になって発生したロマンティック・ラブを日本で最初に体現したのは、明治時代に現れた、なんらかの形でキリスト教と縁のある高学歴男女のカップルである。彼らは、お見合いで出会っていることが多い。そして、禁欲的な一夫一妻制を、相手への貞節ゆえに尊守し、男性の蓄妾制度を封建的時代の陋習(ろうしゅう)として、断固としてこれを斥けたのである。

本表紙 結婚の条件 小倉千加子著

お見合いとロマンティック・ラブ

 お見合いではなく、恋愛結婚をしたいと圧倒的多数の女性は望んでいる。お見合いは恋愛ロマンスに染め上げられていない時代遅れのものという誤解があるからなのであろう。

 近代になって発生したロマンティック・ラブを日本で最初に体現したのは、明治時代に現れた、なんらかの形でキリスト教と縁のある高学歴男女のカップルである。彼らは、お見合いで出会っていることが多い。そして、禁欲的な一夫一妻制を、相手への貞節ゆえに尊守し、男性の蓄妾制度を封建的時代の陋習(ろうしゅう)として、断固としてこれを斥けたのである。

家庭は聖なる場所であり、酒に酔って妻に暴力を振るったり、大声で怒鳴ったりする「殿方の過ち」を矯正させるために妻は夫の人格を陶治(とうや)するほど純潔な存在でなければならない。お互いを尊重し、終生連れ添って、家庭を「愛」の実現した場にする。

そういう美風こそ、ロマンティック・ラブの結実したものである。互いに対等であるためには、妻には教養が必要であり、結局は家と家が釣り合っていなければ、結婚の理想は実現できない。従って、お見合い結婚ほど、ロマンティック・ラブの豊かな土壌となるものはない。

 庶民は、明治以降こぞって華族(旧貴族や旧武士階級)の様式をもほうし、そのため見合い結婚は激増していった。同族・同村落内結婚ではなく、遠距離に住む男女の同一階層内婚の始まりである。遠距離とは、妻が実家の風習を捨て、夫の家の風習に慣れることを要求するので、家風のあわない嫁はさっさと離婚された。

 日本のお見合い結婚は、キリスト教の宣教師が運んできたロマンティック・ラブの実践でありながら、しかし同時に旧支配階層の家制度意識を庶民まで拡大する機能も併せ持った奇妙な風習であった。

 結局、ロマンティック・ラブは、もともと育ちのよい、西欧化された教養を持つ、蓄妾制度をマチズモの証としないという意味において女性的な(通常はこれを紳士的と呼ぶ)男性と、夫の純潔をはなから疑わないという意味では夫以上に純潔な妻の間にしか棲息しない感情であった。

結ばれるときには、生涯かけて相手を愛することを自らに誓う契約結婚であり、一時の衝動による結びつきではない。不貞、特に妻の不貞は、同格の両家の財産を脅かすので強く戒められ、そういう自戒は女性に内面化され、相手への貞節を自分が望んでいるのだという錯覚を作り出す。

それは理性的であるからして、なにがしか低体温であり、継続的であるからして、なんがしか不完全燃焼である。しかし、よく言えば、静謐(せいひつ)な夫婦愛となって、子どもたちには理想的な両親となる。

 アッパー・クラスに属するこういう夫婦で、金婚式を迎えるまで夫婦喧嘩をしたことがない夫婦がいるとすれば、それは妻が夫の人生を縁の下で支えてきた歴史を持つ夫婦である。夫が大学教授だったとすると、高学歴の妻が夫の研究のために英語の論文の翻訳を喜んでしてきたというような夫婦が、ロマンティック・ラブの典型的な体現者である。

 戦後、民主主義が個人を家の束縛から開放するものというふうに受け取られるために、見合い結婚ではなく、恋愛結婚への憧れが生まれてきた。親の決めた相手ではなく、自分で選んだ相手と結婚するという選択の自由も、憲法と同じでアメリカから与えられたものである。

しかし、戦後すぐの恋愛結婚における恋愛は性的・エロス的衝動と結びつく、自分自身ではコントロールできない激しい感情、つまり「情熱恋愛」だったのだろうか。一九七〇年代まで、たとえ恋愛結婚でも、女性は結婚までは処女でなければならないという暗黙の規範があった。

「初夜」という言葉が内実を伴っていた時代は、戦後二十年は続いたと思う。しかし、整形外科が「処女膜再生手術」をしていたという話を現在の大学生にしても、誰も信じてくれないのである。

 結婚式を挙げるまでは、エロス的衝動を我慢しなければならないという戒めは、やはり旧来の家制度の存続のための掟である。日本人の若い女性は世界的にみても自殺率が高いことが知られているが、かつてその理由の一つとして、学校で教えてられた民主主義が結婚に際しては働かず、交際に親が反対して結婚できないという悩みから自殺する女性が多いことが指摘されていた。

 いくら未婚男女に婚前交際の規範が内面化されているとはいえ、結婚式までがまんできる程度のエロス的衝動なら、それは情熱恋愛とは言えないという意見もあるだろう。セクシャリティが、婚姻届の中に閉じ込められていたという意味において、国家がセクシャリティを管理した一九四〇年体制を、日本は長く引きずってきたのである。

 婚前のセクシャリティと婚外のセクシャリティが許容されるようになったのは、一九九〇年代に入ってからである。婚前に同棲していても、親からもマスコミからもバッシングされた最初の女性が梅宮アンナであり、既婚女性の婚外セックス(不倫)によって徹底的にバッシングされた最後の女性が松田聖子である。聖子が荒地を耕した。(破天荒の意)おかげで、アンナは何をしてもすべてが許されるようになったのである。

 四十代の意味

 恋愛結婚といっても、現在七十歳(一九三〇年)以上の女性の多くは「情熱恋愛」を経験して結婚したわけではないと思う。鹿鳴館で明治の日本人が西洋人の真似をして社交ダンスをしたように、「恋愛もどき」をして結婚し、近代家族を作ったに過ぎない。夫以外に男性を知らず、娘の婚前セックスに戦々恐々とした真面目で禁欲的な世代が、今の七十歳以上の大半である。

地方では、これが六十歳(一九四〇年)にまで下がっていると思う、彼女たちが男性に愛を感じる場合、母親としての息子への愛の転移以外にありえない。だから、ニッポンのお母さんたちは、「息子のように可愛い」と同時に「理想の息子のように真面目」な、氷川きよしが好きなのだ。

夫よりも息子の方が強い愛の対象となっていること自体、彼女たちが情熱恋愛をしたことがない証拠である。六十歳以上で、自分は確かに情熱恋愛を体験した人は、才能に恵まれた一部の特権階級である。自分の中の感情を恋愛と自己知覚するかどうかには大きな個人差がある。見合い相手に「好感」を持って結婚した人が、自分は「恋愛」したと思い込んでいることはよくあることだ。

 五十代(一九四六年〜)は、団塊の世代だ。この世代が広めたものはあまりにも多いが、ひと言で言うなら、彼らは近代的結婚とセクシャリティとを乖離させた最初の世代だということになるだろう。ある意味、もっとも情熱的な恋愛を実践した世代かもしれない。しかし、一九七〇年代は、先ほども述べたように、まだ強い結婚規範がのこっていた。

結婚制度の中にあえて入らず、中央線沿線のアパートで男と同棲をしていただけで精神を病むという『同棲時代』(上村一夫作)の主人公今日子のありようは、今となっては想像することすら難しい。しかし、事実、団塊の世代は、大学を卒業すると高い率で結婚制度の中に入っていった。

 四十代の人は、小・中・高校生として安田講堂占拠事件をTVでリアルタイムで見た世代である。この事実を、TVの中のこととしてしか見ていないと受け取るか、とにかくリアルタイムで見たと受け取るか、その違いは実に大きい。成人式なんか出席しないものと思っていたと、多くの四十代は言う。

かれらは、先行世代からのメッセージをどこかで受け取りながら、学生運動が完全に弾圧されたあとの大学で、性的な方向で密かな変化を体験していた。恋人とセックスするのは当たり前で、セックスを結婚と引き換えにしようとは思わない、ただ親にはセクシャリティに関しては沈黙を守っている。親や社会にはあえて逆らわないが、自分の欲望には素直に従うことを当然視するという変化である。松田聖子も四十代に突入している。

 四十歳前後の女性をターゲットにした雑誌「STORY」が、二〇〇二年十一月に、光文社から創刊された。「VERY」のお姉さま版とも言えるこの雑誌は、四十歳前後の理想のモデルとして黒田知永子を起用している。チコさんの愛称で呼ばれた黒田知永子は、かつて「JJ」が創刊されたのは、一九七五年である。

その世代が今、人生のやっと真ん中の四十代になった。みなそれなりのSTORYを持っているような年齢になったのである。チコさんも読者と同じだ。チコさんは、「JJ」モデルを引退して、結婚、子育てを経由して、子どもが小学校六年になり、仕事に復帰したのである。

 創刊当日の十一月一日、チコさんは松屋銀座でトークライブを行った。松屋の壁面にチコさんの写真の載った巨大なボードが吊るされ、そこにはこういうコピーが添えられていた。「JJ、CLASSY,VERYで育った大人の女性たちへ、STORY新雑誌11/1創刊」。三越でも高島屋でもなく、ましてや伊勢丹でもない、この松屋という選択はすごい。

 「STORY」世代

 創刊号には、この雑誌のコンセプトがこう説明されている。
「STORY」世代ってなに? (中略)結婚、出産、子育て、(ときには離婚も)と突っ走ってきた三十代を経て、これから本当にやりたいことに挑戦できる年。協調性ばかりじゃなくて主体性をもって毎日を過ごしたい! と思っているあなたがSTORY世代です」

 現在四十代の女性の代表的な生き方、つまり結婚・出産・育児というライフコースを辿ることが、彼女たちの協調性(規範への同調性)ゆえのことと断定しているのは面白いが、”協調性の次は主体性”である。日本では、女性が個性を発揮するのは、結婚して経済的問題をクリアし、出産と子育てをして「女」としての義務と醍醐味を味わったあとの課題なのだ。

私がかつて教えていた大阪の短大生が、大山の酪農家に嫁ぐのはイヤだと言ったのも、当然である。彼女たちは、結婚したあとの「自分」の人生を考えていた。子育てが一段落したあとの自分の人生設計こそ、女性にとっての究極の人生設計なのだ。

「自立」を強要するフェミズムなど、あくせく働いて自分で自分を養っていかなければならない損な生き方だ。子どもを産まないで、仕事を優先するなんて、老後の孤独を考えると信じられないリスクの大きな選択だ。そんなものが「自立」なら、フェミズムなんか要らない、と彼女たちは言っていた。

 しかし、男女平等であって当たり前だ。女性も自分の人生の主人公になる権利はある。女性も「主体性」をもって生きる権利はある。と四十代だけでなく、今の大学生も信じている。「自己実現」という言葉も「STORY」では生きた言葉かもしれない。

 中村うさぎはその著書の中で何度も書いている。「自己実現などという病に罹った私」が、嵌ったドツボから抜け出そうと必死にもがいて這いあがったときにやっと自分が見つかったと。
しかし、「VERY」経由で「SORY」を持った同じ世代の多くは、子育てが一段落すると、今度は「自分育て」に入るという意気込みをもっているのである。

育てるべき「自分」、磨くべき「自分」、実現すべき「自分」があるという幻想をもって、多数の四十代が大学の聴講生となり、イタリア語やインテリア・デザインや、挙句の果てに「女性学」など勉強しようとしているのだ。「STORY」創刊2号には、「『復学』から始める自分磨き」という記事があって、アナウンサーだった永井美奈子さん(三十七歳)が慶応義塾大学院に二〇〇一年から通学中であることを写真入りで紹介している。

彼女の夫は「やりたいことはやればいい。だけど妻ということは忘れないでほしいし、母という事も疎かにしてはいけない」という考えの持ち主であるそうだ。十五年前と、状況は何も変わってはいないのである。

 新しい働き方

 一九八〇年代の終わりころ、私は大阪府下の公民館で専業主婦を対象に講演をしていた。
当時大阪で「女の問題」と呼ばれていたのは、専業主婦の自立はいかにして可能となるのかという問題であった。

 専業主婦の問題とは、妻が外で働いて経済力を身につけ、精神的な自立をしたいと望んでいるのに、妻が働きに行くことを夫が嫌がって、夫婦問題に対立が起こってしまうという家庭環境と、働きたくても主婦を雇ってくれるところなんてないという雇用環境であった。

夫と離婚してまでも、自分で働きたい。自分で稼いだお金で自分の物を買いたい。いつも乗っている阪神電車に一区間でも自分の働いて得たお金で乗ることが出来たら、どんなに嬉しいでしょう、という人もいた。精神の自由は、経済的独立なしにはありえない、そう考える専業主婦の先鋭的な層が集まって、夫からの精神的独立と自立の道を必死に模索していたのである。

 しかし、そういう主婦たちの周囲には、精神的自由や経済的な独立など考えたこともない無数の専業主婦がいた。その静かなる大多数の主婦たちは、もちろん問題意識の欠片もなく、だから、公民館や女性会館などに通う主婦たちのことをまったく理解できず、むしろ彼女たちを色眼鏡で見ていたと思う。

 女性問題を自分自身の問題として捉え、夫と葛藤し、近所の主婦から浮いてしまった先鋭的な主婦たちは、だから互いに支えあい、傷ついた心を公民館で癒し、再びエネルギーをチャージして、色々な形で専業主婦の座から抜け出していった。百回近く履歴書を書き、遂に仕事を勝ち取った主婦もいた。行政の電話相談員や婦人相談所の相談員になり、それだけでは自活できないので、デパートで働き出した人もいた。パートの仕事から正社員採用された人もいた。バブルという追い風もあった。

 彼女たちは、女性問題に早い時期に目覚め人たちであった。八〇年代の最後の時に、橋本治はこのようなことを書いていた。
「女性問題の本が本屋に行けばこんなにある時に、それでもそういう問題に無自覚な主婦は、もう放っておけばいいと思う」

 上野千鶴子は、そのずっと前からハッキリこう言っていた。
「専業主婦に敗者復活戦はない」
 結婚して、専業主婦に一旦なってしまうと「しまった」と思ってもそこから抜け出せるのは難しい。女性にとって結婚は四万十川でウナギをとるために作られた瓢箪形の竹籠のようなものだ。入る時はスルリと入ってしまうが、出ようとすると竹の先端が突き刺さり、出ることが出来ない。

 あれから十五年が経った。あの当時、女性問題を知っていて、自分の生き方を変えた人は、今から言えば、ぎりぎり滑り込みセーフの人たちだったということになる。北朝鮮から早く脱北して、韓国で生計を立てる方法を手に入れた人たちに喩えればいいだろうか。

 十五年後の同窓会

私の小学・中学。高校時代の同級生は、ほとんどが専業主婦になっているが、当時女性問題を理解して、生き方を変えた人などほとんどまったくいなかったと思う。私は同窓会に行かなかったが、中学の同窓会名簿を見ると、女性の姓は( )つきで旧姓とされ、みんな姓の違う人になっていて、職業欄は空白であった。一学年に女子は六十人程度いたが、結婚せずに働いているのは、私ともう一人母校の小学校の教諭になっている人だけ、結婚して仕事を続けていたのは、医師が一人と中学校教諭が一人だけだった。

当時、結婚よりも仕事を選んだ女性がたまに地元の中学や高校の同窓会に行くと、どういう目に遭うか、周りの人たちから私は既に十分聞かされていた。

「なんで結婚しないの?」「老後はどうするの?」「寂しいでしょう?」と心配され、「やっぱり女は結婚しなくては」「一体、何を考えているの!」と説教され、おまけに夫と子供の自慢話をさんざん聞かされるという。鹿児島でも栃木でも静岡でも宮崎でも、まったく同じ情景が繰り広げられていた。

 ところが、今同窓会に行くと、状況は一変しているという。
 二〇〇二年のことだが、大阪府のある公立高校の同窓会に卒業後約三十年経って行って見た友人によれば、五十歳を前にした専業主婦たちに、夫がリストラされたり、賃金カットされたりして、ほとんど行きたくもないパートで働きだし(しかもそれを主婦同士では互いに内緒にしている)、やつれきり疲れ果てた顔をして同窓会に出席し、みな結婚生活をボヤキ続ける。

「○○さん、あんた、自分の稼ぎ食べていってるんやてなあ。すごいなあ」
「なに? 東京の新宿にマンション買った?」
「え、アメリカンショートヘア二匹と暮らしてる?」
「林真理子と食事した!」
「夜はほとんど外食?」
 そうして皆は溜息を吐いてから、声を揃えて言ったそうだ。
「そうなあ!」
 夫が都市銀行をリストラされたという主婦は、一日家でゴロゴロしている夫と一緒にいるのがイヤで、公文式教室の講師として働きはじめたが、行ってみると教室には一人しかおらず、歩合制の給料より交通費の方が高くつく。おまけに公文の先生たちのパーティには、年をとっている自分だけが呼んでもらえない。もうウンザリだと、泣き出したという。四十代の主婦たちは、確かに一人ずつSTORYがあるのである。

 しかし、大阪の主婦のSTORYの結論はみな同じであった。
「稼ぎのない亭主なんか、おらんほうがマシや!」
 リストラされた亭主は、そのうち妻に殺されるかもしれない。この同窓会の話を聞いた時に私はそう感じたが、果たして二〇〇二年そういう事件が起こった。今後、妻によるリストラ夫殺人事件がジリジリと増えていくだろう。

 十五年前に、女性問題に目覚めて自立していった主婦たちの方が、リストラされた夫にとっては今や有り難い妻、理想の妻となっている。少なくとも、自分に稼ぎないという理由で「こんなはずではなかった。お前が稼がなくなったことによって私の人生を無茶苦茶にした罰はこうだ」と、包丁で夫を刺したりすることはない。皮肉なことである。かつては、パートでも働きに出たいと言っていた主婦に「家にいろ」と不機嫌に言った夫が、今は家にいて、妻は行きたくないパートに不機嫌に行っている。十五年経ってみれば、主婦がパートで働く意味が逆転したのである。

 やむを得ずパートに行き、子どもの学費負担に苦しめられている五十代の主婦を、私は被害者であるとは思わない。気がつくべき時に気がつかなかった責任は自分自身にある。
彼女たちは、女の特典を利用して失敗しただけであって、女の特権を自ら捨てて生きてきた先発組やシングルの女に対して加害者であったという過去は消せないと思う。

 かつて「自分は中流の上」などと思っていた銀行員の妻は、今は地獄を見ている。
 主人が亡くなってからも、残された家族が三十年間全く働かず食べられる家をブルジョアと言う。ブルジョアでもないのに「中流の上」もしくは「上流の下」意識を持つこと自体が、現実誤認だったのである。

「もし夫が死んでしまったら、そのときあなたはどうやって食べていくつもりですか?」
 と、十五年前に公民館で、静かなる大多数派の主婦に聞いたことがあるが、「夫の生命保険があるから大丈夫です。それにうちの主人は健康ですから」と、ケロリとした顔で返事された。

「死後支払いの生命保険というものをなくさない限り、この国のフェミズムは進まない」
 と叫んだ朝日新聞の女性記者がいた。彼女は私にこう告げて朝日を定年前に去った。

 「STORY」なお仕事感覚の読み取り方

 十五年前に「ここまで情報があるのに、まだ気づかない主婦なんかもう放っておけばいい」と言い切った橋本治と「専業主婦に敗者復活戦はない」と早くに予言した上野千鶴子は、正解だった。

 一生お気楽な専業主婦でいようとした女性たちは、その大多数がパート主婦になった。
 しかし、日本には働かなくていい専業主婦がまだ存在する。外に出るのは、お金を稼ぐためではなく、お金を使うため、それも自分の可能性に投資するためで、永井美奈子さんのように大学院に行ったり、イギリスに留学したりする主婦がいる。バブルが弾けても、深刻な不況の中で、まったく階層下降しなかったクラスの主婦、つまりブルジョアの条件を満たした本物の「上流階級」のマダムが「STORY」のグラビアを飾っている。

「SYORY」は「婦人公論」とは違う。「婦人公論」にあって「STORY」には絶対ないもの、それは嫁姑問題。「STORY」の読者はお正月に夫の実家に行って、皺にならないフレア・スカートをはいて、嫁として立ったり座ったりすることが当たり前だと思っている主婦であり、姑から受けた数々の仕打ちを絶対に「読者手記」などに匿名で寄稿したりしない。

「STORY」は「クロワッサン」とは違う、「クロワッサン」創刊号にあって、「STORY」にないもの、それは「男のための育児学」と「SEXへの知的探検」という名の連載。

 そういう留保があった上で、「STORY」は「家庭画報」とは違って、仕事を始めたい、輝いていたいという夢を読者に与えてくれるのである。果たして、「STORY」の読者にとって、今からでも「仕事を始めたい」という夢の実現は、本当に可能なのか?
「STORY」第3号の『私たちのCHALLFNGF STORY』は「『インストラクター』になろう」である。

「自分の大好きなことで輝きたい。趣味を仕事につなげたい。きっと誰もがこんなことを考えたことがあるでしょう。その夢にいちばん近い職業が、インストラクターという仕事」
 夢を実現した人たちに、アドバイスを伺いました、というわけで料理教室を開いている岡田美里さんのところに、南美希子さんがお邪魔して対談をしている(二人とも聖心女子大出身であると、プロフィールに書いてある)

 岡田美里さんは高3のとき、「大学に行かずに、ヨーロッパにお菓子の修業に行きたい」と言ったら、学校の先生にも親にも大反対されて、結局大学に進学したそうだから、もともと料理が好きなのである。

 で、離婚して、お洒落な料理教室を開いたのだが、結論としては、ぜんぜん儲からず、税理士さんからは「ボランティアですか?」とか言われるそうで、「STORY」の読者のアドバイスは「料理教室は趣味だったころがいちばん楽しかったですね」である。

仕事としてはじめてみると、食材は重いし、立ちっぱなしで、儲からないし、こんなはずではと思ったらしいが、奉仕の精神でなんとかやっているような雰囲気であった。それでも、さらに料理教室兼カフェ、オリジナルグッズの空間を広尾にオープンしたという。

 その後に、インストラクターとして四人の主婦が登場するのだが、四人の仕事は、フラワーアレンジメント(月収十万)、エアロビクスインストラクター(月収十四万)、カラーアナリスト(年収百万)、紅茶アドバイザー(月収三万)である。

 フラワーアレンジメントの先生になった人は、資格を取るのに五年間かかり、さらに英国系のフラワースクールで勉強し、合計三百四十万投資し、現在生徒が二十名いる(月謝を一人五千円貰っているということだ)。この仕事は、花屋さんから花を買うときに「フラワーアレンジメントの花は揃えるのが面倒だから」とあちこちで断られるそうだ。花やガラスの花器など、重い物を持って電車に乗って移動するので、二週間に一回の整体は欠かせない。生徒は選べないので、授業内容に文句を言う人もいて、自分のストレス管理が大変らしい。

 エアロビクスインストラクターになるのも、もちろん資格が要って、資格を持った上でスポーツクラブにオーデションを受けに行く。オーデションはたった数分なのに、オーデションフィーが三千円かかる。資格を維持するのに年会費三万円が要る上に、年間三万円また別に払って講習を受けなければならない。で、カルチャー・スクールで教えると、月謝や入会金のうち六割がスクール側に抜かれる。しかも交通費は出ないし、シャワー室もないのに設備費が取られる、そうだ。

 次は、カラーアナリストだ。日本の協会に登録すると、仕事は協会から下りてきたものしか受けられないというところもあるそうだ。その仕事自体がない。しかもバックマージンが取られる。最近は不況のあおりを受けて、カラーリングの料金は二千円まで低下しているそうだ。ただし、仕事のときは、セレブらしい雰囲気で行わなければならないから、時計も見た目を考えてブルガリア。洋服も二十万くらいの着ていないと、説得力を持たない。

 さて真打は、紅茶のアドバイザーだ。要するに紅茶は普及のデモンストレーションが仕事で、だから本部との繋がりが大切で、勝手にカルチャー・スクールに教室を開きたいとアピールした人は、恩知らずと言われて仕事を与えられなくなったそうだ。で、紅茶を淹れるのは三分で終わるので、生徒は三回くるともう来なくなる。生徒を飽きさせないために、自宅での教室は季節によって模様替えしたりせねばならず、材料費がかかる。

本部に直接電話するのは礼儀知らずと言われるので、先にファックスで都合をお伺いしてからでないといけない。先輩がいたら入り口までお出迎えし、服装についての悪口を言われることもあるので、すべてに細心の注意が必要。それでも、人と話すのが好きだし、外に出られることが刺激になる。子どもがいるので、外でフルに働くことはできないが、何かをしているという充足感にも幸せを感じるそうだ。

 ここから、そんな割りの合わない仕事なら、インストラクターを止めればいいのにと考えるのは、貧乏人いや普通人の発想だ。そういう人には「STORY」を読み解く資格がない。彼女たちは、実はこう言っているのだ。「収支を度外視できる主婦だけが人にものを教えられるの」「私の境遇だから、やればやるだけお金が出て行くような仕事を続けられるのよ」

 働いて家計費を稼がなければならない二等主婦の上に、働かなくても青山でお洋服を買って消費できる一等主婦がいる。さらにその上に、働くことにお金を消費することが許される特等専業主婦がいるのである。消費としての労働の登場だ。専業主婦の階層化ここに極まれりである。

 秋保仁美さんの謎

 「STORY」創刊号の中に、私には意味不明の記事が一つある。「私の服にはSTORYがある」というシリーズ第一回の、秋保仁美さんという実在の人物に関する記事なのだが、私はこれを何度読んでも内容が理解できなかったのである。

 私は、数少ない友人に、「『STORY』創刊号買って、この謎の答えを教えて」と、頼んだのだが、私の友人はライターばかりなので、「今の時期に、雑誌を探して読んでいる暇はない」くらい忙しいか「お金を出して雑誌を買うのがもったいない」くらい貧乏か、どちらか(ほとんど両方)の理由で、誰も助けてくれないのである。

 秋保仁美さんという人物
 この記事の内容をかいつまんでお知らせすると、以下のようになる。
 秋保さんは、三十代のうち六年間をアメリカで暮らしてきました。(以下、ほとんど原文のまま)なぜかというと、夫である盛人さん(Dad・38歳)が、「子どもたちに六甲山ではなくグランドキャニオンを見せながら育てたい」と話した自由人で、その盛人さんに突然留学の話が持ち上がり、子どもたち(盛彬・Titi・12歳と盛大9歳・Didi・)とともに、環境さえ変われば、私も変われるかも知れないと、甘い期待いっぱいで、アメリカ留学について行ったからです。

それまでの秋保さんは毎日のように「ママランチ」をしていて、でも頭のどこかでは「これって、違う」と思っている一方で、「これはこれで幸せかナ!」と思うようにしている自分もいて、流される日々を送っていたからです。L・A時代は過去に留学経験のある夫に頼りきりで、エスコートという便利な言葉のおかげでますます何も考えない私でいられるうえ、その居心地のいい立場は「マダム・アキホ」という気持いい呼び方で保証されていたのですから、日本にいたころ以上に「自分」がなくなっても、気がつくはずもありませんでした。

「秋保さんは、19歳で『女性自身』の初代モデルに合格。今で言う”読者モデル”の先駆けとして、お嬢様たちが通う名門女子大では話題の人」。

「L・A、時代は、ヴィダル・サスーン本人にヘアカットしてもらっていたので彼のクリスマスパーティへ」「毎年の恒例行事として、二、三ヶ月前から構成を考えるクリスマスカード。この年はメークをして水中撮影。『チーム』(筆者注・家族四人のこと)ならではの作品に仕上がった」「彼(筆者注・夫のこと)が私のすべてだった頃。いつも完璧なエスコートに守られて、食前酒から自分で決められない、彼に頼り切っていたお人形の頃」(写真のキャプション)

 それがある夜、夫から「もう僕をあなたの夢にするのはやめてほしい」と言われてしまったのです。以来、ビバリーヒルズに住んでいて、ポルシェとジャガーがあって、エルメスでお買い物という、周りの人からは羨ましいと思われていたかもしれない生活をしていても、私の心の中はいつも空白でした。

「あなたも自分の夢を持って、自分の足で立ちなさい」という彼の言葉だけが空回りする日々のなかで、精神的にもどんどん辛くなって、ボー然と家で過ごす時間が多くなり、気が付けばウトウトの毎日。(中略)「秋保クンがいなくても、出掛けてみるか・・・・」。手始めに、気分転換も兼ねて一人外出を試みたのは、ビバリーヒルズの眉専門のビューティサロン、日本のエステと違い、ハリウッドのセレブがサロンとして集まっているところ。

待ち時間には、あらゆるジャンルの情報交換、とにかく「私」の意見なくして相手にされない場所。容赦なく話しかけてくるセレブたち。「ほっといてほしいナ」ぐらいに思って、適当に受け答えしていると、ついにセレブの一人が「あなたは、××ちゃんのママで、○○さんの妻でもあるけれど、まずいちばん先にくるのはヒトミ・アキホでしょ」とバッサリ! 「えっ!! そうだヨ。そうだったんだ。私もあなたみたいに、自信のある笑顔でディスカッションしたい」とはっきり自覚。

 で、話は長くなるのでかなりはしょってしまうと、このヒトミ・アキホさんは、住んでいた芦屋に帰るわけである。アメリカにいた時に学んだ、何よりも優先されるべきは自分自身であるという考えに触発されて、自分の意思、自分の欲求を実現するために自分磨きをし、何者になるかである。その何者が何であるかは、よく分からない。「ハニービジネス」とおもてなし教室のアシスタントとモデルであるらしい。

 さて、この記事のなかで、私に分からなかったは、ビバリーヒルズからグランドキャニオンが見えるかどうかというような基本的な疑問ではもちろんない。

 アメリカに行くと本名の他にTitiだのDidiだのといったもう一つの名前を持たなくてはいけないのだろうという素朴な疑問でもない。

 海外に二度も留学し、ポルシェとジャガーを持っているという夫の秋保クンの職業が一体何かということでも(それはそれで非常に気になるのだが) 一応ない(が、秋保クンの写真を見ると、ますますこの人物が何で稼いでいるのかわからなくなるのは事実だ)。

 そうではなく、究極の謎とは、要するにこの夫婦に一体何が起こったのかということなのだ。確かに何かが隠蔽されている。そのことに私は苛立っているのである。

 彼女が、何もかも夫に決めてもらっていたお人形時代の服の写真が載っているが、それはとんでなくダサい服で、彼女が夫を自由人だと「尊敬」していたということが信じられないくらいだ。彼女をお人形にしたのは、夫である。それは夫の意思であったはずだ。

 通常、夫が妻に「僕をあなたの夢にするのはやめてほしい」という時、その発言の裏には何か隠されているのだろう。妻に、いつまでも自分に依存しないで、いい加減自立しろよというのは、もう俺はお前の世話なんかしたくないという、夫による妻への「養育遺棄」である。最初こそ、言いなりになる妻が可愛くて、実際思い通りにさせていたのだろうが、ある時それが急に面倒になった。

 妻は棄てられたのだ。秋保仁美さんは、そこからポジティブに人生を生き直そうとする。彼女が芦屋に帰ったのが、家族四人でのことか子どもと三人かなのかも、よく分からない書き方がされている。夫とその後どうなったのかも書かれていない。

 夫による妻の養育遺棄が、具体的にどういう結末を取ったのかは、ついに分からない。ましてやその原因など、完全に触れられていない。

 明らかに言えるのは「STORY」には、一種のタブーがあり、読者コードに触れることは婉曲話法でしか書かれていないという事だ。

 結婚は危険なものだ。四十歳の妻には、夫から一方的に「独立」を言い渡されることがある。四十歳頃の夫は、結婚当初よりも経済的に豊かである。一方、妻の側の資源である若さと美貌は、新婚当時より、確実に低下する。

結婚が、経済(カネ)と美(カオ)の交換であるなら、四十歳の夫婦のパワー・バランスは、ほとんど夫優位である。妻の資源の中で唯一増大するのは、夫に対するホスピタリティであろうか。料理の上手さ、インテリアの趣味の洗練といった「家にいる快適さ」を夫に保証する技術を妻は磨くことができる。いや、その努力を怠る妻は捨てられるのである。

 結婚というビジネス

「VERY」と「STORY」に共通するのは、夫婦を「合理的な契約関係で結ばれた男女」と考える結婚観である。

 夫は外で十分なお金を稼いでくる。妻は家庭を守り、家事労働を完璧にこなす。
 もっと簡単に言ってしまえば、「VERY」な妻も「STORY」なマダムも「夫の足手まといにならない主婦」ということなのだ。外でランチママをしていても、そのことを別に夫は怒らない。ランチママは、自分の食べた料理を自宅で作って家族に食べさせてくれる。美味しい料理を妻に作らせるためには、妻が外で美味しいものを食べさせておかねばならないのである。

 妻が青山でショッピングしても、夫の目から見て妻が満足な観賞用の女性になってくれるなら、何も文句をいう筋合いはない。妻は、夫の動産である。

 家事と育児とインテリアとファッションにおいて、夫の要求水準にかなうことを妻たちはしているのである。これは、現代におけるロマンティック・ラブの体現である。夫の人生を申し分のないものにするために「VERY」や「STORY」の妻は日々労働と消費において努力し、夫は妻の欲望を叶えるために、日々稼いでくるのである。

 結婚は完全なるビジネスであり、夫婦はビジネス・パートナーなのだということを、「VERY」と「STORY」は教えてくれる。

 結婚は永久就職であるという古い言葉が、ここに蘇る。妻たちは、百三万円の壁ギリギリまで働いて、家庭で疲れ果てた顔をして、夫との関係が悪くなるくらいなら、月に三万円だけ働いて、家事と育児に手抜きをせず、夫を上機嫌にさせて稼いできてもらったほうが得だ。そう考えるのが、ビジネス感覚である。

 ただ、このビジネスには落とし穴がある。いくら妻が真面目に自分の義務を遂行しようが、妻の女性としての資源は年々衰えていく。夫は、熱心なビジネス・パートナーではなく、たとえ怠慢でももっと若いセクシャルな魅力を持ったパートナーを求めることがあり得るということだ。ビジネスである以上、夫は妻との契約は相変わらず履行するかもしれない。が、夫の関心はもはや妻には向けられない。契約の空洞化が実際頻繁に起こるのである。

 男の資源がカネであり、女の資源がカオであるなら、資源のバランスが結婚年齢とともに崩れるのは必至であり、女の側が必ず不利になる。男女は決して平等ではない。

 しかし「STORY」はそんなことに絶対に触れることがない。結婚制度を利用して、最大の報酬を得ることを、「STORY」は勧める。専業主婦の三大特典――保証された年収、達成義務からの解放、豊富な余暇時間――利用して、第二の人生を自分のために生きようとそそのかすのである。

 社長になるか、社長夫人になるかという二者択一に、「STORY」はためらうことなく答え出している。夫が医者で病院を経営する、いわゆる院長夫人であるマダムが、病院に薬を卸す会社の社長になる。社長夫人と社長を兼務するマダムがいることを紹介する。社長になるもっとも手っ取り早い方法は、社長夫人になることなのだと。

 決して語られないもの
 さて、結婚がロマンティック・ラブの実銭であるなら、妻の側にもまた情熱恋愛への憧憬が内向している。家庭は壊したくないが、女として認められ、賞賛されたいという欲求は、誰でもある。

 結婚は、配偶者以外の者との性関係を法律によって禁止する制度である。現在四十歳前後の「STORY」世代は、多くが短大を卒業して、今よりも遥かに就職が容易な時に就職し、十分な給料を貰い、何度も海外旅行をし、ブランド品を持ち、男を何人も取り替えて、シングル・ライフを謳歌してきた世代である。これが「VERY」世代になると、バブル絶頂期と重なっているので、さらに派手になる。

 しかし、結婚という制度に入ると、夫以外の男性と恋愛することは許されない。「結婚しても、妻でもあり母であるだけではなく、いつまでも女でいたい」欲求が募る。現代の四十代は、まだまだ現役可能である。ここ数十年で、日本人女性の肉体的若さは飛躍的に高まった。

「STORY」の読者モデルになっている人を見ると、十分な若さと美貌とスタイルを備え、現役として通用する人がいくらかでもいることが分かる。恋愛のデッド・ラインは五十歳、いや六十歳でもいけることを十朱幸代が教えてくれる。どこまでいっても諦めさせてくれない時代の到来である。

「STORY」にエッセイを連載している林真理子は、書いている。
「確かに四十代のはじめの頃、女はまだまだ美しい。色香も濃くねっとりとしている。(中略)が、四十代の半ばを過ぎると、老いは体の方からやって来る」「ある雑誌のグラビアに、有名人の女性が出ていた。バツイチで五十になるけれども、いつも若い恋人がいるんだそうだ。(中略)おない歳の友人と電話で、そのグラビアについて話し合い、そして出た結論は、『年をとってからの色狂いはみっともない』ということであった」

 女性の欲望を人一倍持っている林真理子が、五十歳の女性に若い恋人がいることを、本気でみっともないと思っているのか、あるいは我が身を顧みて客観的つまり悲観的になって言っているのか、それは分からない。しかし、四十代はじめの女性の美しさは、林真理子ですら認めざるを得ないのである。

 そう、「VTORY」の中でもあまりにも明白なので、誰も言わないこと、それは恋愛したいという読者の欲望だ。

「VERY 」編集部は、その欲望について何も語らない。その証拠に、星占いの欄には、普通の女性誌にある「恋愛運」という項目はないが、「パートナー以外の男性」という言葉が出てくる。「STORY」では「恋愛運」の代わりに「出会い運」という言葉が採用されている。恋愛が禁忌であることを前提に作られた主婦のための雑誌の中に、隠蔽されたものがある。人は結婚というビジネスだけでは生きていけないのである。

 つづく だめんず・うぉ〜か〜「倉田真由美著」