100歳の女性に萩本欽一がインタビューするNHKの番組では、100歳の女性が夫を好きだった理由で一番多かったのは「親切な人だった」というものだった。
重要なことは、そういう人は地方に多くいたという事である。そして、地方の人は長く農業によって生活をしてきたということである。日本の農業それも稲作は、機械化される前まで、世界の農業の中で最も過酷な肉体労働であると言われてきた。
稲作に従事し続けた結果、背中が、くの字どころか直角に曲がったお婆さんがいたように、農家で生きることは、結婚して、子どもを産み、毎日田んぼの中を這いずり回ることを意味していた。
昔の人にも結婚に才能があったとすれば、それは、相手に選ばれるための才能ではなく、結婚生活を継続させる才能である。成分は、忍耐力と従順さと協調性である。
辛抱強く、我を抑えて、こつこつと働く。自分に毎日具体的な義務を課し、飽きないよう生活を矯(た)める技術でもある。自分をそこにとどめておく才能である。
日本人の意識の基底部には、こういう農業の論理が今も存在していると思う。
昔の女性の結婚の才能は、男性で言うと、兵隊の才能に該当するのかもしれない。
冷害や旱魃(かんばつ)や台風が来ると稲は全滅する。男性は天候に左右されずに決まった給料の貰える勤め人になるためには、中等教育以上の教育を受けて、都市に出なければならない。しかし、田畑と家と親を捨てて都市に出ていくことはできない人たちもいる。
土地と家に縛り付けられ、自然を相手に根気強く重労働に耐えるしかない男性たちが、一旦徴兵されて軍隊に入ると、そこで大きな解放感を知ったのだという。
軍隊の演習というものは農作業に比べると肉体的にははるかに楽なのである。にも拘らず、日に3回も白いご飯が出て来る。
ただ上官の言う通りに黙々と働いてさえいれば、それだけで模範的な兵隊と言われ、学歴と関係なく処遇してもらえる。戦地に行かない限り、軍隊は平等で、安楽で、確実に白いご飯を食べさせてくれる場所である。
ここは天国だ。それなのに、帝国大学を出たような連中は、演習では疲れ切り、何かと上官に反抗的な態度を示し、休息時間にドイツ語の本を読んだりする。
農家では、燐の家がしていることと同じ時期にやらなければならない。田植えも稲刈りも、早すぎても遅すぎてもいけない。前日に隣が田植えをすると手伝いに行き、翌日はこちらの田植えに手伝いに来てもらう。みんなに合わせて同じことをすることができなければ、農業をすることなどできない。
金持ちで教養があると、人と同じことをしても、なぜこういう事をしなければならないのかと、いちいち余計なことを考える。
「軍隊は極楽なのに、あいつらはここを地獄だと思っている。本当の地獄を知らないからだ」
しかし、そういう本人たちも、戦争が終わると、自分の子どもは大学に進学させたくなったのだから、反発というものの中には、他の気持ちもあったのかもしれない。
農村出身兵にとって、近代軍隊が理想の場所であったのとはまったく同じように、近代結婚はある種の女性にとっては、ある時期、理想の場所であった。
結婚する前の境遇と比較しての差だけではない、結婚そのものが新しい制度として昭和30年代に樹立されたのである。年金制度と同じと考えるなら、昭和36年である。
現在、結婚の才能を備えている女性が、善人ではなく悪人の範疇に入れられるのは、結婚が女性に安楽と経済的利益を備えるものに変わったからである。「労働の場からは撤退しなさい。家庭の中にいれば幸福になれますよ」というメッセージで、結婚した人は経済的にも優遇することは、新しい戦争には必要な政策だと思われた。経済戦争である。日本は明治以来、ずっと戦争体験で来たのである。
全総の御大
1970年代後半、まだ高架橋のあった国鉄の国分寺駅の壁に夥(おびただ)しい数の労組のポスターが貼られていた。そこには、みな同じ文章が書かれていた。考えた人はよほど気に入っていたのだろう。
「妻を働きに出さないで済むだけの賃金を払え!」
夫は仕事に専念し、家庭のことは妻ら任せる。この生活の魅力が男女双方にとってきわめて大きかったのだが、今思えば夢のような要求である。
工業化に成功したように見える国力を維持発展させるため、農村的生産理論に工業社会の生産理論と消費の理論が接ぎ木された。女性の寿退職と専業主婦優遇政策。夫に扶養されて主婦として室内で生活できるなら、農家に嫁ぐ事などありえない。その時点で、日本の農業は破綻を宣告されていたのである。
国民全体にある価値観が浸透しきるのには50年かかる。が、浸透しきった時、その価値は既に空洞化している。エリート層は、既に次の段階に移行している。
現代版「結婚の才能」を揶揄する女性が、饒舌な割に自分は結婚したり子どもを産んだりはしないのは、そちらの選択の方が安全だからである。
それでも、「大東亜共栄圏」という名の下に日本の植民地になったアジアの国では、これが日本で失敗した政策であることを知らず、現在も日本の真似をして少子化に見舞われている。
数十年前、現在の日本を予想していた人がいる。「全総の御大」下河辺淳という人である。経済企画庁にもいたことがある、「全国総合開発計画」立案の中心人物でもある。若い頃満洲国の資料から多くを学んでいる。企業の未来の研究もしていた。シンポジウムを聴きに行ったこともあるが、下河辺淳という人は他のシンポジストとは全く異質な人物であった、何が違うかといって、他の人が日本の国土計画のメリットを空辣な言葉で語るのに対し、下河辺淳だけはその計画に最も深く関与しているにもかかわらず、悲観的な発言をするのである。
経済計画の中には結婚政策も含まれている。家庭に一つの標準モデルを作り、官の統制の下、民がそれを毛細血管のように国中に張り巡らせる。昭和30年代の高度成長政策も、満洲国も、元を辿れば、二・一六事件で統制派が皇道派を破ったことに行き着く。この国では、すべての業種に規制という「統制」があり、人々は目に見えない支配を受け続ける。
結婚もまた同じである。
しかし、いくら計画を立てて国家や企業が優秀な人物を動かそうとしても、そういう人から順番に逃げていく。狙った人材を計画通りに動かすことはできない。国の経済計画をどここうするといっても、すべては幻のようなものであるのかもしれない。
シンポジュウム開催の意図を全否定するようなことを下河辺淳は語った。その虚無的なところが、却って真実を言い当てていると思わされた。
考えてみても簡単な事である。計画通りに動かせる人たちが全員計画通りに動いた時の労働は代替性がきくものとなり、新しいことは何一つ発想されなくなる。伝統もそこで途絶えてしまうのは、画一性と代替性を尊ぶ職場なら、他人に自分の技術を伝承して、自分の労働の代替性をみすみす増やすようなことなど人間はしないからである。
軍隊生活に我慢できなかったインテリ兵士と、会社の集団性と成果主義に我慢できないエリート層の内心は多分同じである。そして、結婚制度に順応できない女性も同じである。
そもそも規制は、最低のものを普通のものに底上げするために設けられたので、最高のものを普通のものにするためにあるものではない。
しかし、現実には、それが起こるのである。
結婚に規制緩和を導入しなければならないところに来ているのだろうか。
家事をする父
買い物に行ったスーパーでレジに並んでいると、前に白いシャツに草色のカシミアのカーディガンを着た80代半ばくらいの男性が並んでいる。その男性が1万円札を出すと、レジの中年の女性が尋ねた。
「1円玉はございませんか?」
「あります」
男性は財布とは別にポケットに入れていた小銭入れから時間をかけて1円玉を探し出してレジのトレイに置いた・
「お客様。これは1円玉でなく、100円です」
「ここから取ってくれ。僕には見えないから」
かつては会社人間として戦い、家事は奥さんに委ねて暮らしてきたが、今、奥さんはもうスーパーには出かけられないのだろう。
老いとは、自分の不如意を思い知らされる屈辱に耐えることである。
最近の婚活ブームに関する雑誌を読むと、40代になった男性が、このままでいると一人で老後を迎えなくてはならないことに不安になり、大急ぎで結婚相手を見つけることにしたというような話が書いてある。
妻が生活の面倒を見てくれて、自分は妻より先に亡くなるという前提なのだろう。
しかし現実には、高齢化の進行する街のスーパーで高齢男性の姿は急速に増加している。年を取ると足腰が動かなくなるのは、妻の方がずっと多いからである。
大正生まれの人たちに、できる限り自分の家の事は自分でしなければならないとという思いが強くあるのは、お上に助けてもらうのは恥ずかしいことだ、あるいはそれはあり得ないことだという教育を受けてきたからである。
この世代は、地震に遭って避難した小学校の体育館で「弁当の配達が遅い」と文句を言う人々のいる事に驚きを隠せない世代である。
空襲で家が焼けた時、みな自力でバラックを建てて生きてきたのだ。誰が行政に仮設住宅を建ててもらえると思っただろう。
人生には想像もしないことが起こるし、自分には出来ないことでも精一杯の努力で引き受けなくてはならない。生きることは厳しいことだ。
今までは、結婚の中で夫と妻の役割は決まっていた。
自分はその責任をきちんと果たしてきた。今、妻が果たすべき仕事を自分がしているのは、高齢の妻に家事ができなくなったからである。妻は戦友のようなものだから、代わりに自分がその仕事をするのは当然である。
問題は自分も歳を取り、そのせいですべてが思うようにいかないことなのだ。若い頃のように身体の自由が利かず、そのことで人に軽んじられるがために屈辱感は絶えることがない。老人はそう思っている。
山上億良の「貧窮問答集」でうたわれている人生の三大苦、貧弱老のうち最も切実なものはどれかと言えば、もちろんそれは老いである。誰もが避けることができず、回復することもできない。老いはすべてを圧倒する。
遠い理想
しかし、男性が若ければどうか。あるいは、夫が家事をすることが妻の病気のせいではない場合ならどうか。その時、屈辱感はまた違ったものになるのだろうか。
現代の日本では、共働き夫婦であっても性別役割の解消は一向に進まない。家事に従事する時間は妻の方が圧倒的に長く、育児休暇を取得する父親の数は増えない。
そういう事実をアンケートで示した朝日新聞の記事の見出しは「遠い理想」というものだった。
「理想」とは、誰にとっての理想なのだろうか。
結婚にするにあたって妻となる人に求める条件を「家事を完璧にする人」と答えた歯科医がいた。「自分が家事をするなら、何のために歯科医になったのか分からない」と言う。
この人は、経済力を家事から免除される印籠のように考えているが、現実には経済力のある男性の方が家事をするのである。家事をする程度のことで男性としてのプライドが毀損することはないという余裕からである。
また、「家事は女性の仕事」という概念を壊す柔軟性を持っている。経済力と学歴とは相関があるが、学歴と既成概念にとらわれない柔軟性もまた相関がある。
ということは、経済力がなく、だからこそ家事もしない男性を選ぶ(ことは「でき婚」以外ありえないと思うが)女性は、家計労働と家事労働の両方の負担を一身に背負わされることになる。
「結婚したいが、当然家事の負担は増えるだろうから、安定雇用の人がいい」と訴える女性の気持ちは分からないわけではない。年金で言うと「国民年金でない人」を希望する気持ちである。
「共済年金の人」はもちろんも「厚生年金の人」である男性が家事をすると、「家事が好きな人」と褒められる。
しかし、「国民年金の人」が家事をすると、「国民年金の男だから家事をせざるを得ないのだ」という声が本人の頭の中で鳴り響くのである。家事をすることで、自分の架空のアイデンティティが否定される。従って、意地でも家事をしない、というかできない男性がいるのである。
男性は男性内部では、女性よりも苛烈な差別の中にいる。買い物といい洗濯といい、女性がするものとされてきた行為を男性がするとき、自分が女性のように他人の目に映っているのではないかという恐怖がつきまとう。「女性のように」というのは「男性としては二流」という意味である。
だから万一洗濯をしたとしても、洗濯物をベランダに干すことはしない。他人の目に晒される恥辱感と強迫観念を抜きにして、「理想」を説いても始まらない。
結婚においては男性が家事を喜んでする「家庭的な女性」を求め、女性が「家事に協力的な男性」を求めているのだから、男女とも家事をお互いに相手に投げているとしか考えられない。家事は結婚の、いや人生最大の問題である。
母の言葉・父の教え
男性であれ女性であれ、家事をすることが誰かの真の理想であるとしたらなら、誰かとは子どもの事であると思う。育児も家事なのだがから、子どもは育児しない親とはそもそも接触する機会がなく、そういう親には子どもは愛着の持ちようがない。
育児の中には、料理、選択、看護等家事全般がおさまっている。子どもを産み育てることは、だから人生の一大事なのである。
娘はよく父親に似た人と結婚するというが、一方で父親など大嫌いという娘もいる。いずれにしても父親は娘の男性を観る基準になっている。そして、娘は父親を観る目は、母親の目によってかなりの程度規定されている。
「母は結婚する時、理想通りの相手を選びました。学歴と・身長・経済力。ルックス・優しさ。しかし、母の結婚が理想通りだったのは、結婚当初だけだったのです。子どもが生まれ、怒涛の子育てが始まった時、母は理想だけでは足りないことに気づいたのです。それは家事の手伝いが求められないということです。お金にならない無償の仕事が父にはできないのです。経済力で相手を選ぶのは間違っている。必要なのは対等性なのよと、母はいつも私に言います」
別の学生はこう書いている。
「結婚からが本当の人生。これが、母の教えてくれた言葉。子どもが生まれると、子どもと夫の事でいっぱいになってしまう。自分の時間など少しもないのだ。結婚こそが幸せそのもので、結婚がゴールだと思っている私に、母は、だからあなたにはまだ結婚はできないというのです」
娘は、父と母がどれだけの責任を似て「本当の人生」に臨んでいるかをちゃんと見ているものである。
「私の母は温室育ちのお嬢様で、品はよく綺麗だが、お嬢様だから料理・掃除が本当にできない。晩御飯をケンタッキーにしたりする。私は妹と二人姉妹なので、父は私たちを母のようにしてはいけないと、自分の部屋の掃除をきちんとしてくれと、お願いというかお祈りのように言っています。父は背が高くてとてもかっこいい真面目な人です。頑張って働いて帰っても、ご飯は粗食だし、部屋は汚く狭い空間になっています。父は私たちにお箸の使い方から行儀全般まで教えてくれました。小学校の授業参観も父の担当でした。父はとても責任感が強く、私たちが成長するにつれて、話し合いをする時には、感情的にならずにあらゆる選択肢を提示してくれました。私が悩んでいると、そんなことは重要じゃない、健康に生きてくれることが大事なんだ。女の子は顔じゃないと言ってくれます。どうして母が父のような人をゲットできたのか、私たち姉妹にはとても不思議です。私は背が低くかっこよくなくても、父のような人と結婚したい。父と母は友人の結婚式で知り合ったらしいのですが、私はその席順を組んでくれた友人にどれほど感謝してもしきれません」
料理と片づけ
昔は兄に薦められて兄の友人と結婚する女性がよくいたものである。今は違う。
「お兄ちゃんのお友だちで、こんな私でも付き合ってみてもいいと言ってくれる人、いない?」
大学生の妹が尋ねた。
兄は腕組みをし、「う――ん」と首を一回転させてから、きっぱり言った。
「いないな」
昔は物が溢れかえっていなかったため、妹も選ばれやすかったのだろう。
会社を経営する友人が社員を雇う時も、選考基準は「常識的な行動のとれる人」というもので、具体的には挨拶ができるか、突拍子もない行動をすることはないか、そして何より、片付けられるかという。
かつては「常識的な行動」ができる性格を「協調性」と言った。が、「協調性」があるから「常識的行動」を人は取れるのではない。「常識的な行動」を取る人を、本人も周囲も「協調的な人」と呼んだのである。
そういう曖昧な概念である「協調性」に代わり、「対人コミュニケーション能力」という言葉が使用させるようになった。集団の誰に対しても不快な思いをさせないよう、他人の心を配慮する能力。
「対人コミュニケーション能力」という言葉が使用されるのは、人間の「性格」を「能力」に置き換えるパラダイム・シフトが起こったからである。
このパラダイムは、人間の行動は「場」に応じて劇的に変化しうることや、能力を発揮する機会を与えられてこなかったり、そもそも何が能力であるかを教えられなかったりする人もいるという環境的・階級的要因を無視している。
多重人格の場合には人は複数の能力を持つことになるのだが、どの人格の時に能力がその人の本当の能力になるのだろう。
人間の4つのタイプ
先ほどの社長の指摘によると、「常識的な行動」をとる人の中には、しかし、判で押したように常識的な行動をとる人がいる。これが正しいとされているからやっているだけで、融通が利かない。
社長が言うには、マニュアルとして常識的な行動をとる人は仕事上のアイディアを自ら出すこともなく、緊急事態に弱く、性格はいいが、会社に何らの発展ももたらさない。
「行動は常識であって、内面には常識を破るものがあってほしい」
社長はそう言い出した。すると、人間は4つのタイプに分かれることになる。
1、 表面は常識的で、内面も常識的
2、 表面は常識的で、内面は非常識
3、 表面は非常識で、内面は常識的
4、 表面は非常識で、内面も非常識
社長は「2が一番偉い」と言って、2の女性を探し求めているのだが、実際に2は滅多にいるものではなく、1か3か4の女性しか面接には来ない。
その中から社長は、志操堅固な明るい3を選ぶ
この社長は女性なのだが、自分が女性だから2を求めるのであって、社長が男性なら、1は女らしさゆえに、3は逆の女らしさゆえに騙されて採用することもあるだろうと踏んでいる。いずれにしても4は論外である。
文字が上下で逆転している言葉は、「出家」と「家出」が実は同じ意味であるように、「会社」と「社会」も同じものである。
女性社長の仕事は、3の表面に凹凸にヤスリを掛け、サンド・ペーパーで磨き、社員をツルッツルにすることである。
しかし、小さく光る碁石になると、その社員は結婚して辞めてしまう。
内面(価値観)はもともと常識的なのだから、常識的な行動がとれるようになれば、最高の花嫁候補となるからである。
文字は違うが、「会社」と「結婚」は同じところのものである。前者で通用すれば、後者でも通用する。
片づけるということ
「僕のような男の所に、誰も女性は来ないでしょう」と自嘲する男子学生がいる。相当数、いる。「僕」は、既に当代の結婚の規範を知っていて、「僕」が「僕のような男」を予選落ちにしてしまっているのである。
いかに学歴と学校歴が高くとも、男性にも「対人コミュニケーション能力」が求められる時代には、本選に出て敗北する前に、自ら予選落ちをしていく男性がいる。
「性格論」ではなく「能力論」が優勢になると、告白して拒否されることは能力に欠陥があると診断されるに等しい。
女子にも自分を「予選落ち」させているケースはたくさんある。
「私は可愛くないから、結婚できないかもしれない。だから、お料理を勉強しています。男の人は、お料理の上手な女の人なら結婚してくれるかもしれないでしょ?」(小学3年)
「私はご飯が作れないから、結婚はできないでしょう。なんとかして仕事で生きていくつもりです。結婚はできなくても、私は恋愛には自信があるので、恋愛しながら、仕事をして生きていくつもりです。ただ、挫けそうになった時、自分で自分を支えられるか、とても不安です」(20歳・短大生)
女性は子どもの頃から、自分が結婚に向くかどうかを強く意識して生きている。そこに「料理」の才能が多く関わっているのは、驚くほどだ。
結婚は女性にとって「常識的な行動」の総体である。
結婚できない恋愛には自信があると言った女性は続けてこう語っている。
「恋愛とは相手を不意打ちにして感動させるもの。結婚とは逆に突拍子もないことをしないこと。私は毎日を平穏に暮らすことに恐怖を覚えます。私の中の何かが、そんな生活は私には送れないと言うんです」
彼女は毎日料理をすることを恐怖しているのだが、同時に部屋も片づけられない。
女性にとって、内面の非常識を隠して、行動を常識的なものにすることが、「結婚」なら、自分は結婚できない、あるいは結婚しないという無意識の審判と選択は、世間で思われているよりずっと早い時期に行われているような気がする。10歳で既に完了しているかもしれない。
恋愛の才能と結婚の才能とは一つのコインの裏表にある。
結婚の才能とは、「片づける=拾う行動」であり、恋愛の才能とは「散らかす=落とす行動」である。
次の瞬間何をするか分からない人を、男性であれ女性であれ会社は採用しない。
予測可能な行動、すなわち常識的な行動をとり、非常識なほどの思考量を持つ人が会社に選抜されていくと、経済的な理由と相俟って結婚には有利になる。そういう人たちは、社会を散らかさない。
人を最も常識的にさせるのはスポーツをさせることではなく、仕事を与えることと私有財産として土地を持たせることと結婚させることである。
そういう結婚資源のある人たちの多くが、恋愛とはほぼ無関係に結婚してしまう。なまじ恋愛の才能があると、家庭という重要なものを落としてしまいかねないので、周囲が最初から「安全な道」を辿らせるということもある。男の子に、代理満足として音楽を与えるとか。
次の瞬間何をするか見通せてしまう安心な人は恋人としては使えない。
結婚と会社には生産の法則が関わっているから、恋愛には、それを打ち消すほど消費の法則が詰められていて、危険な香りを選んでしまうのが人間である。
生産とは一言でいうと、「食べること」なのである。
なぜ、女子が「料理」に肯定的であれ否定的であれ無意識裡に拘るのかと言えば、「食べること」は、結婚の内部では、女性が「作ること」と直結しているからである。
作った料理はすぐに食べられ、消えてしまう。作品そのものは人間が生きるために死ぬ。
摂食障害が今も圧倒的に女性の病であるのは、結婚の中で女性は家族に食べさせるために、毎日死ぬからである。消えてしまうものを作るからである。
だが、空になった器は消えない。それは出しては仕舞わねばならないものである。
料理の後片付けは、反復性そのものが持つ空虚の象徴である。
片づけられない人は時間を断片的に生きている。言い換えると、現在時間だけを生きている。
毎日料理をすることが恐怖であると言った人には、永遠のものではないことを認めることが恐怖であるのだろう。
「日常性」というものに自分はどこまで耐えられるか、女性は男性よりもずっと早い時期から意識をしている。
高すぎる理想
『結婚の条件』という本を書いたあと、本を読んだ女性から受けた質問の中で一番多かったのは、「面白いギャグを言う女性はなぜ男性から結婚の対象としては選ばれないのでしょうね?」という質問だった。みな当事者である。
本気で質問している人もいたが、多くは知らないふりをして言っているだけのようである。
女性の中には、格別に意識の量の多い女性がいる。
面白いギャグを言わない女性の意識の量が少ないというわけではない。ギャグを言う女性は、状況への違和感を即座に軽妙に表現する能力を持っていて、それを持て余すことはあっても、矯正しようなどとは思っていないのである。
その上で、「そういう女性はなぜ選ばれないのでしょうね?」などと聞くのだから、これは質問ではない。
「男性は、ギャグを聞いて笑う女性しか選ばないですね?」
という男性に対する諦めだと捉えなければならない。
「フランスでもそうですから」と、私は答える。
日本人男性だけが意識過剰な女性を避けているわけではない。フランス人男性は、機知に富み、痛烈な皮肉で人を笑わせ、政治問題についても対等に議論できるような女性には、友人の椅子をあてがい、妻座には座らせない。妻の座にふさわしいおとなしい女性は旧植民地の中にしか、もう存在しないという。
ギャグは攻撃である。男性は心を許した女性からの攻撃にはどこまでも弱い。「私はあなたを絶対許しません」という信号を出している女性でないと性的欲望が喚起しない。「可哀想とは、惚れたってことよ」と、夏目漱石が訳したように、男性の中には自分より「低い」の女性を擁護することを愛情だと思っている人が相当数いる。自分より「低」の女性で、しかし女性偏差値は「高」であってほしいのだから、対象の数は限られてくる。
恋愛の才能
「恋愛の達人」から教えられた。
人が恋するには4つの才能が要ると。
1、 バカであること
あと先のことを考えるような慎重居士に恋愛はできない。自分には可能性がないと分かっていて臆することなく、周囲から無理だと言われても耳を貸すことなく、ひたすら「当たって砕けろ」の精神で行動を開始する。子どものように自分の感情に素直で、高価であっても有害であっても自分が欲しい玩具は諦めない。そして、たとえ当たって砕けてもすぐに次を考える。打たれ強い人であるが、容易に視野狭窄に陥る人であるということもできる。
2、 まめであること
まめては、几帳面で努力を惜しまない様子を言う。まめに働くとか筆まめな人という使い方をするが、本来の意味は「忠実」のことである。恋愛すると。恋人に基地葉面で努力を惜しまず、主人に仕えるように恋人に仕える。「忠犬ハチ公」が若い人の待ち合わせスポットにいるのはそのためである。恋愛中は、主人の喜ぶことしか考えない。親切で優しく、気が利き、連絡を欠かさず、遅刻はせず、約束は守り、相手の話をよく聞いてやり、かゆいところに手が届き、相手がこの世で一番大亊だと言ってあげる。そういうボランティアのような行動が常に心地よいストレスとなっていて、面倒くさいなどとは思わない。
3、 自意識過剰であること
自分がどう思われているか、たえず自分を意識していなければならない。恋愛相手のあることなので、自分がどう思われているか、鏡をみるように反射的に知らなければならない。自分中心では話にならない。自意識過剰にこれでよしというところはなく、いくら過剰であっても過剰すぎるということはない。それがなければ、いくらまめであっても効果はなく、むしろ、まめであることが鬱陶(うつとう)しがられることになる。
4、 賢いこと
恋愛には必ず終わりがくるので、その関係のおわりはどちらかが切り出さなければならない。この場合、賢い側はふってもいいが、賢くない側はふってはならない。恋人にも役者のようにニンというものがあり、恋愛に負わされた責務の重さを婉曲に拒否することができるのは、賢いものだけなのである。
バカで、まめで、自意識過剰で、賢い人というのは、確かに存在するが、生まれつきそうであったわけではないらしい。「恋愛嗜癖」を自称し、他称もされる人は、「すべて経験から学んだこと」だという。失敗から人は学ぶのだ。
が、恋愛の才能を学ぶという時、人は恋愛の数をこなすことを前提にしている。
人は恋人を欲しいのではなく、恋愛という「幸福な異常心理」を経験したいのではなかろうか。
「恋人」から「恋」が剝落し「人」だけになると、幻滅が生じて「幸福な異常心理」は終わってしまう。それだけならまだいいが、憎しみすら湧き起こることがある。
恋人は、人が誰でもそうであるように、誰かによって周到に抽象的に構築された人格ではなく、具体的で固有性を持った不完全な人物なのである。
しかしそういうことは絶対に受け入れたくない。恋人は、自分の思い通りになる従順な理想の女性でなくてはならないと拘る男性は、羊の群れに放たれた狼になっていく。
これは男性の女性に対する恐怖心から発したものである。
男性にとって女性とは誰よりもまずその母親が子どもに支配的である、あるいは母親の無条件の愛情を信じることができなくて愛情飢餓を抱えた子どもに、性別は関係がないように見える。
が、実際はそうではない。男性学がそれを明らかにしている。
支配的母親への恐怖(屈服)と怒り(反抗)がとりわけ強い男性は、相反した感情を合体させるために、女性一般に復讐をすることで自分の葛藤を克服しようとする。それが女性を所有しては別れることを繰り返す恋愛嗜癖である。
ある人を愛しているということは、その人に愛されたいと思う事である。その人から愛された、自分はその人を所有で来たと確信した時、愛しているという心は消去されてしまう。この嗜癖はプロセスそのものに意味があるので、結果が出ると新たな恋愛が求められる。
どんな作業でも、嗜癖や強迫の域に到達しない限り、人は才能を開花させることが出来ないのかもしれない。
理想の恋人
実際、モテるというのは一人に長く深くモテることを言うのではなく、多くの人にモテることを言うものである。多くの人に自分の魅力を確認させながら、自分から愛することを出し惜しみする快楽を恋愛と結婚とは正反対のものである。
結婚とは恋愛とは違って、数を競うことではない。
アメリカで富と名声を得た男性が、年をとってから若いモデルと再婚や再々婚をする「トロフィーワイフ」の披露が増加しているが、いかにもアメリカはパワーの国であると思われる。
が、結婚は、基本的には一人の人と長く関わることである。恋愛の熱狂が冷めても親密性のある愛情段階に入っていき、果ては人類愛の境地に突入していくこともある。
結婚は恋愛とは別物である。結婚するのに「恋愛の才能」は要らないのである。むしろ「結婚の才能」は、「恋愛の才能」を封印するところからようやく生じるものである。
日本人の既婚者に対する「なぜ結婚したか?」という質問に対して、1位と2位を占めるのは、「タイミング」と「成り行き」という回答である。つきあっているうちに、相手の転勤が決まったとか、親に「いい加減籍を入れたらどうか」と言われたからというようなものである。「ずっとこの人といてもいい」と思えるような人がいたなら、日本人はその人が自分には「適当な相手」だと思う気持ちを持っていなわけではない。ただ、背中を押してもらわなければ決断できず、曖昧なままにしているのである。
「恋愛嗜癖」は理想の女性探しの終わりのない彷徨なのだから、プロセスの快感を求めすぎる人は結婚することが困難になる。
「恋愛嗜癖」でない人でも、昔付き合った恋人があとで比較すれば理想の相手だったことに気づくということがよくある。過去の栄光に固執すると理想が高くなり、新たな出会った人など歯牙にもかけなくなる。
だいたい、人間は若い頃には何をご馳走されても、初めて食べるものを虚心に美味しいと思うし、味覚そのものも柔軟で適応性があり、その料理を自分の好きなものに組み込んでいけるが、経験と年齢を積むと、なまなかの食事では美味しいとは思えなくなる。
「自分は、もっとおいしいものを食べている」というプライドがあって、これか美味しいという人の気が知れないのである。その点、「低」の女性は、何を食べても「美味しい」と感動する。ギャグの面白い女性というのは、たいてい舌が肥えているので、誰も満足させようがないのである。
「まずいものでも美味しいと言って食べること」が「結婚の才能」なら、プライドと理想を引き下げて、噓をつく覚悟がいる。これは苦しいものではない。
職業選択の自由
10年前というと実質30年も前の思いがするが、「もう結婚しようとは思わない」と言う女性の中に「引っ越しするのが面倒くさい」を理由に挙げる人が結構あったが、それは「一度作り上げた生活スタイルを変えるのが嫌」ということの形を変えた表現でもあるのだった。
「生活スタイル」はその人の価値観を可視化するために作り上げられた意匠なので、「引っ越しは面倒くさい」というのは、「新しい部屋で自分の価値観を再構築することは、もうできない」という宣言でもあるし、「育った環境や価値観の違う人には、もう合わせられない」という告白でもある。
人間は、20歳の時の価値観を生涯持って生きていく
しかし、数年前から「生活スタイル」に拘わる人もめっきり減ってしまった。
「結婚するより、『ロト6』に当たりたい」
もはや、生活防衛のために結婚するなどという迂遠なことは考えない。一番望んでいるのは1億円当たって経済的な安心を得ることという独身女性の本音と、孤独死とパニック発作に備えて、救急車に同乗してくれる友人の輪を作っているという女性の生活をエッセイで読んでから、「生活スタイル」云々贅(ぜい)言で、老後に一人で住む家を設計するなどファンタジーだと思うようになった。
東京都では全世帯の4割が「単身世帯」で、「単身世帯」には学生も社会人も高齢者も含まれている。一人分のカット野菜にして置いているから、スーパーではなくコンビニの売り上げが伸びているというニュースを聞くと、人間は無駄を省くためには、そういう価値観は変わるし、また変えるしかない状況に追い込まれていくのを感じる。
二人でいることの孤独
しかし、現実の引っ越しというものはやはり面倒で、「世の中で一番面倒くさいのは引っ越しの後かたづけね」と、言った私に対し、「もっと面倒くさいのは、子どもを連れた離婚ですよ」と返した人がいて、なるほど、引っ越しの片づけの他に調停やら氏名変更の手続きやら子どもの学校の転入やら途中から入園が難しい保育所探しやら一人でする子どもの世話やらが加わることを思うと、食事すら悠長にできないことが手に取るようにわかるのである。仕事のことだけ考えられているのは恵まれた人である。
結局、面倒くさいことを予想して離婚せず、一つ屋根の下で別居している夫婦はいかに多いかを想像すると、離婚ではなく結婚はよほど慎重に決めねばならないとも思うのだが、慎重に決めてもダメな時はダメなのである。
「年末に子どもが帰省しなかったから、お正月は一人ぽっちだったのよ~」と、離婚も別居もしていない夫婦が言ったので、「一人で一人ぽっち」と「二人で一人ぽっち」を比較してみると、「二人で一人ぽっち」の方がはるかに一人ぽっちであることは歴然としている。
有島武郎は、深夜に一人目覚めて同じ部屋にいる妻の立てる寝息を聞いている時、眠っている人間は死んでいる人間と同じだと思ったと書いている。どうせ死ぬんでいるなら肉体としてそこにいないでもらいたいのだ。
目の前の相手に視線も向けず言葉も発せず、1秒でも早く食事を終えて席を立つことを日に3回行う苦痛は経験した人でないと分からない。孤独死対策として同居していると納得するだけでは耐えられないのだが、引っ越しをするにも離婚するにもお金がかかるし、お金があってもやはり面倒くさいし、お金があって面倒くさくないのならもっと厄介な理由が隠されているのである。
となると、老後にやっと独り暮らしができる家の設計を考えている時にだけファンタジーな気分に浸られる人は、世の中には確かに存在するはずである。
人間は一人だと不安になり、二人になるとやがて退屈になり、子どもがいないと寂しがり、子どもがいると心配が始まり、どうあっても簡単に幸福にはなれないという意味において平等な生き物である。しかし、そのことをして神様はうまくしたものだと感心していいのかどうかは私には分からない。
孤独には豊かな孤独と貧しい孤独とがあるように、家族という集団にも温かな交流と冷たい交流とがあるので、その人にとって都合のいいほうだけを好きな時に好きなだけ享受できるという事はあり得ないのだが、人は自分の本音を隠して、自分は幸福だというメッセージを出さなければならない。
本当に幸福であるなら人はそのことを逆に周囲に隠すものなのは、「ロト6」で1億円当たった人が周囲にそれを秘密にしているのと同じである。
にもかかわらず、官僚や教師や僧職者はもちろんのこと、政治家も銀行員も最近はタレントも、自分たちは家族も含めて幸福であるという顔をしなければならない。公共性のある職業についてる人たちは「結婚」をすることが「現実」を受け入れたことの最も強い証拠となり、結婚後も「結婚の才能」を涵(かん)養し、家庭を維持しなければならないからである。
しかし、自分は幸福でない。家族を持ってもそこに安住できず、そのことに自分はずっと苦痛を感じてきたと本人が明らかにしてもかまわない職業がある。芸術家である。ジャーナリストまたそこに該当するだろう。
芸術というものの本質の土壌に、人間の作った社会への違和感と、人工の造形の不完全性に対する自然の完全性つまりは美への憧憬(しょうけい)があり、芸術にも「現実」を受け入れられない否定的感情が、「個人の病」としてある。
ある高校で教員を対象にした精神科医による研修で「境界性人格障害」の講義が行われた。質疑応答に入ると、進路指導の教員が手を挙げて質問した。
「就職指導をするとき、この子らにはどういう職業を勧めればいいのですか?」
精神科医はしらっとして答えたという。
「芸能人か作家になるしかないんじゃないですか」
芸術家の病が「境界性人格障害」と同一に論じられ、大衆化しながら拡散していく現状に、三島由紀夫と太宰治は思いかけない形で貢献している。二人は「境界性人格障害」だった人として、精神医学の啓蒙書に最も多く記されているからである。
近代文学の権威三島・太宰研究者にすれば、最近の精神医学の診断基準のカジュアルさに大いに違和感を持つところであるはずだか、芸術志向の者に対する病理的囲い込みというのは、戦前には一般には強固にあるものだったのである。むしろ、そういう見方に抗して、芸術家は自分で自分を作り上げてきたと考えるのが妥当なのだろう。
現実を受け入れない職業
萩原朔太郎はまだ文学の世界に出ずにいる40歳の時、医師である郷里の父親からの荷物を受け取った。箱を開けるとそこには拳銃が入っていて、「40歳でまだ一人前になれぬような男は、これで死ね」ということだと朔太郎は理解したということを、娘の萩原葉子が書いている。
「文学は男子一生の仕事にあらず」という考えは当時の父親には普通のものであり、「結婚して妻子を養えない道楽息子」は、たいてい三文文士だったりしたのである。
人は職業を選ぶ時には、まず自分は役所や会社のような職場にいて集団でする仕事が向くか、個人でする仕事が向くか、自分を顧みて決めなければならない。
次に、職業には自分の人間性が完全であるか少なくとも円満具足を希求していることを示さなければならない職業と、不完全であっても承認してもらえる職業とがある。
二つの次元で対象関係になる典型的職業が高級官僚と芸術家である。三島由紀夫は、大蔵省の高級官僚から小説家に転身した人である。その経歴は当時三島由紀夫によほどの決断力があったことの証拠である。本人も官僚になりたくてなったわけではなく、そういう職業を息子に求める家庭環境があったからだろうが、それは結婚にも同様の圧力を加えたことが想像できる。
職業と結婚では、その選択と適応能力(才能)に多くの共通項があるかのような気がしてならない。
最大の共通項は「現実」の受け入れである。
芸術家の世界観は作品そのものの中で常に表現されているのに対し、高級官僚は作品(法律や答弁)の中に自己を投影してはならず、自由な表現形式も持ち込んではならない。いかにも不自由な、表現を規制された仕事なので、芸術家(や科学者)に比べると、職業として強い魅力を持たないように思える。しかし、明治維新いやそれ以前からずっと、日本の父親にとって最高の息子は「お役人」になった息子だったのだ。が、当の息子と母親側は反攻に出るようになった。
高級官僚の仕事は国家という「集団同一性」を体現する仕事であり、仕事をすればするほど国家との一体感が増すことになっている。自分は国家の一部である。
その点、芸術家には外部からの拘束がなく、大きな「集団同一性」を内面化するとどころか、逆に「対抗同一性」しか持ち得ず、そのために存在論的安定を欠くことになるのであるが、近代以降(多分、大正時代に)職業イメージに貴賤(きせん)の逆転が起きたのである。
芸術至上主義ではなく芸術家至上主義が女性(=母親)を惹きつけるにつれ、多くの息子や娘たちは、東京で絵か文章か楽譜を書いて暮らすようになる。
「二足の草鞋」森鷗外から、萩原朔太郎を経由し、故郷喪失者の人生は遂に親に肯定されるようになった。社会が成熟するというのはそういうことである。
社会が成熟すると、人は結婚をしなくなる。
ミッキーマウスに祝われたい
ある男性が知人の娘さんの結婚式に出席したところ、その直後に同じ人から「結婚式をやり直すのでもう一度出席して欲しい」という依頼があったという。
「結婚式と披露宴のビデオ録画を頼んでいた人が撮影に失敗したので、もう一度やり直したい」という理由だった。
依頼されていた人が再び出席を遺棄したかどうかは聞いていない。
が。録画に失敗したという事実に恐らく新婦さんが驚倒し、式と披露宴の撮り直しを泣いて親と夫に訴えたのであろう。親と夫はその要求に応えたのである。出席を依頼された人はアホらしいと怒っていたが、実際に式と披露宴は再現された模様である。
今更言うに及ばないが、結婚式は儀式でなく、新婦さんのためのイベントである。
参列することにではなく、記録することに意味があるのである。そういう行事は何も結婚式に限ったことではない。子どもの出産を記録するように夫に求める妻も大勢いるし、幼稚園の入園式、運動会、卒園式、それに参観日の様子まで親が記録するのはごく普通のことになっている。
女性は結婚式と出産をなぜ記録するのだろうか。
学生が結婚式や結婚後の新生活について想像し始めると、想像はいくらでも膨らむという。「いい加減にしろ!」と自分を叱り飛ばしたくなるが、現実に結婚式がセレモニーでありながらショーでもあって、「感動」を形にするものである以上、そういう想像に際限はなく、簡単に「妄想」の域に入り込んでしまう。
「現実と妄想の区別がつきません。私が現実だと思って妥協した結婚もまだ妄想のうちだという気がします」
まい子さんの独白
女性の平均初婚年齢は、その女性が都市部にある進学校かお嬢様校である中・高・大一貫の私学の女子校出身の場合は、女性全般の平均初婚年齢が27歳の時に、33歳に跳ね上がる。女子校の次には大学、就職と続き、仕事を覚え、一段落して、結婚と出産を考え出すと、30代の前半は優に過ぎてしまうのが普通だからである。
人は結婚しない女性や子供を産んでいない女性の不安ばかりを取り上げて、結婚して子どもを産む人の感情は取り上げない。だが、益田ミリさんの『結婚しなくていいですか。』(幻冬舎)という漫画は、違う。
主人公の結婚していないす―ちゃんが、友だちのまい子さんと久しぶりに会ってランチをする。まい子ちゃんがランチを終えて帰途につくページである。
「まい子です
35歳のにんぷです
去年、お見合いで結婚しました
産休をとれる雰囲気もなく、
会社を辞めました
来月産まれるお腹の赤ちゃん
早く会いたいよ~
おだやかで幸せな日々です
これでいい
これも、また、よかった
と、思う半面
結局、こうきたか
と思うあたしもいる
10年前に結婚しても同じだったかも
がんばって働いて
仕事も任されるようになった
そういえばあの頃、肌も荒れてたけど
今は無職
にんぷさん
大学も、会社も、結婚も
選んできたのは、あたし
これから先も
あたしは何かを
選べるのかな?
なぜだろう、
もう、なんにも選べないような気がするのは
さよなら
さよなら、あたし
もうすぐ別のあたしになる
ママになって、あたしはきっと、変わるんだと思う
この子以外に大切なものなんかなくなるんだろうな
新しい幸せ~
だけど、
さよならしたほうの
あたしの、
あたしの人生も
ずっと自分で選んできたけれど、
選ばざるを得なかったこともある
またいつか、何かをはじめられるのかな~
でも、会っておきたかったんだ、すーちゃんに
今のあたしで」
結婚しない人が結婚しない理由、出産しない人が出産を遅らせている理由を、妊婦のまい子ちゃんは的確に語っている。
結婚式は、女性が今までの自分と別れる日なのである。
結婚は幸福の象徴である
ごく普通の高校を卒業した女子の多くはまだ「結婚イコール幸福」という図式を内面化しているようである。それ以外に何が選べるだろうか、まい子ちゃんと違って。
結婚が幸福の象徴であるとされるのは、逆に結婚が女性にとって喪失を伴う重要な転機であり、「安全」で「幸福」な将来が保障されていると思わなければリスクが大きすぎるからである。
女性は、自分の「転機」が「安全」で「幸福」なものであると自分に言い聞かせなければ、結婚する事は出来ない。しかし、結婚は次のステージへの通過点ではなく、多くの場合、最終ステージである。手段ではなく結果的には目的である以上、一部始終は記録しておかなければならない。「安全」で「幸福」である将来を選択した最後の決定的場面は記録して、結婚後に何度も再生しなければならない。
そう考えるなら、もはやそれ以上先がない結婚がイベント化するのは避けられないのかもしれない。
「安全」で「幸福」な結婚とは、親のように自分を庇護してくれて、経済的に扶養してくれ、自分が精神的に支配できる誰かを捉まえることである。そういう人がいてくれれば、そしてその人が自分だけを一生見守ってくれれば、自分は今のままで、生きていくことができる。大人になる必要などないし、外の世界で競争する必要もない。
そういう男性を見つけることが、現在の結婚の才能である。意識という意識はすべて自分磨きに充てられる。
「TDLでミッキーとミニーに祝福されて結婚式を挙げたい」と言う女の子たちがいる。
ミッキーとミニーは、人がその性別を知識として了解しているとはいえ、衣装を取れば身体の形態は同じで、彼らの間に性別はない。ぬいぐるみと同じである。
結婚は「性」があってするものだが、性別のない空間であるTDLでは、花嫁にもまた「性」がない。
そういうところで大人は結婚式をしないものだが、そこで結婚式をするというのは、「性」的には結婚していないという事なのである。ミッキーたちが祝ってくれるのは、「性」的な結婚ではない。
そういう女の子はこういうことも言う。
「結婚して専業主婦になったら、自分は子育てで忙しいので、夫には家事を半分やってもらいたい。朝、ゴミを出すのはもちろん、掃除も洗濯も料理も半分やってほしい。育児は大変だというし、男女平等なのだから」
古典的(近代的)フェミズムの主張を骨抜きにするような意見であるが、これが現在の多数派の声である。
子どもの頃にできあがったこういう結婚の夢は、結婚の伝統的役割から逃避する「空想」のような印象を与える。
しかし、「空想」でも「現実逃避」でもなく、それは、結婚の「性」的な中身と「性別」的な役割を否認したまま、生活としては現実に行われていく可能性のある結婚である。古典的なフェミニストの実践していたベタな結婚をこの子たちはしようとしないのだ。
男子学生は「男が求めるのは弱い女性だ」という居直り発言を最近よくするのだが、この女性側の対応はそれに完璧に呼応したものである。女性の地位を余りにも引き下げてしまったため、自分の居場所を家庭に定めた女性が男性に対して行う、結婚は結婚だが抽象的な結婚である。
まい子さんが感じた「仕事か子どもか」という葛藤は、正社員になれない少女はもう経験も出来ないものである。
物心がついた頃には既に選択肢を剝奪されていた彼女たちは、自分たちが「無職の妊婦さん」でしかないことを肯定しようとする。
無数のまい子さんに学んで彼女たちが選んだ道である。
ジャニーズのいる国
「日本人はなぜ結婚指輪をしているんですか?」
「日本人はなぜ結婚指輪をしているんですか?」
たどたどしい日本語でドイツ人の先生に聞かれたことがある。
結婚指輪が彼女にとても奇異に映るのは「結婚しているかどうかはドイツでは個人のプライバシーであって、公然とさせるものではないから」であるという。
だから、ドイツでは人に「あなたは結婚しているんですか、それとも独身ですか?」というような質問をすることはあり得ない。公と私ははっきりと分かれていて、私的な部分に他人に決して介入しない。それからすれば、日本人は「結婚指輪」によって、自分は私的部分をわざと披瀝していることになる。
「日本人にとって結婚は公的な領域にあたるんです」
そう返事するしかなかった。日本では、結婚は民営化されてはいない。
しかし、ヨーロッパの人がミステリアスに思うのは日本人の結婚だけではない、離婚もそうである。
フランス人の女性の先生が、授業中に実に嘆かわしいという口ぶりで言ったという。
「日本人の離婚の原因に経済的な理由が多いのはとても変です。フランスでは夫婦はそれぞれ経済的に自立しているので、フランスの離婚の原因はほとんどが性格の不一致です」
フランスでは、女性は美容師もウエイトレスもデパートの販売員も官僚も政治家も、一生その仕事を続ける。そしてその仕事に誇りを持っている。自分の口は自分で養うのは当然のことだからである。その上で、恋愛をして、慎重に「結婚」という契約を結ぶ。なぜ慎重になるかといえば、「恋愛は長続きしないから」である。
子どもが生まれれば、両親には子どもを扶養する義務があるが、夫婦は経済的に独立していて、夫が妻を扶養するのは当たり前のことではない。日本人のように、夫が働き、妻が家事をするという役割分担もない。
夫が経済的に立ちいかなくなると、それを理由に妻が離婚するということもない。恋愛というか友愛が続いていれば、人間だからパートナーの生活は援助する。
結婚しているかどうかは、フランスでも私的な領域の問題なのである。公的には、男も女もまずは社会で働くとして存在する。だから、出産をして国が子育てを物心両面で保証してくれれば、その期間は女性にとっては楽なのだ。
そういう話を聞いたある女子学生は「こりゃいかん」と思った。モラルから言えば、自分には「婚活」よりも「就活」の方がよほど大事なのだ。考えを改めなければならない。
しかし、彼女には大きな問題があった。
Charaもチャラになってしまい
彼女の父は誰の目から見てもワーカホリックなのである。常に仕事のことを考え、(何の仕事なのか知らないが)仕事以外の話には耳を傾けようとしない。自分から人間関係を作ることができず、社交的な要素など全然ない。父に足りない分は母が代わりに葉書を書いたり挨拶したりして補っている。
母はいつも「うちのパパは病気じゃないかしら」と心配している。
長年そういう風に夫婦がペアになって家庭を形成してきたのを見てきた子どもとしては、自分の両親が一番良いカップルではないかと思ってしまう。ただ、母のように常に女性が周りに気を遣い、その結果体調を崩してしまうのは、やはりアンフェアだと思う。だからといって、父のように仕事に熱中するタイプにはなれそうもない。気がつけば、人に気を遣っている。
父にもなれず、母にもなれない自分は、結婚するなら平等とまではいかなくても典型的な日本人夫婦にはなりたくない。理想の夫婦は浅野忠信とCharaだった。が、このカップルがチャラになってしまった現在、もう何を目指していいのかわからなくなりました…‥。
私(筆者)は、男子は既に結婚相手となる人に4K―可愛い、賢い、家庭的、軽い(体重が)――の他に「経済力」という5番目のKまで求めている、と女子学生に教えたことがある。
別の学生が、それならこれはフランス人の先生がいう結婚と同じ考えではないか、本当だろうかと、東大生のサークルで聞いてみたところ、男子は全員「そうだ。女性には経済力が必要だ!」と答えたという。
早い話が、男子は自分の夢を追うと同時に、妻となる人には、「支えてほしい」、しかも失敗しても「見捨てないでほしい」と思っていることが分かったのである。
「ずるいのは、日本人の女性ではなく男性の方なのではないでしょうか? 男子は今ではみんな逆シンデレラ婚を望んでいます」
それに、今までいかに日本的な女の子に育てておいて、いきなり経済力を持てと言われても、彼女たちは無理なのである。エビちゃんに向かって明日から勝間和代になれと言うようなものである。
「先生、勝間和代さんはロマンティック・ラブをしたことがないと言っていました。何が楽しくて子どもさんを3人も自分一人で育てているのでしょう?」
無理ついでに言えば、日本で一番出生率の高いのは南の島嶼(とうしょ)部であると、これも私が教えたらしい。島は周囲を海に囲まれており(当たり前だが)、「外部」というものがなく、年齢の違う子どもたちは終日、海辺で遊んでいる。村の人は全員が顔見知りで、どの子の名前も知っている。島には塾はなく、受験競争もない。そういうところでは人はおおらかにたくさんの子どもを産む。と、そういう話をしたのだが、別にデータとして話しただけで何も薦めたわけではない。しかし、一人の学生が反論をしたのである。
脳内彼氏がいればいい
南の島に住む方はそれで幸福なのかもしれませんが、今から私たちが島に移住し、島の生活に馴染むことなどできるわけがありません。日本の人口を増やすために、島の人のような生活をしろと言われてもとても無理な話です。
私は東京に生まれ東京で育ち、小・中・高と女子校に通い、大学も女子大に来ました。熱心に塾に行ったわけではなく、中学時代はジャニーズに夢中になり、高校時代は部活に専念しながら、ブランド品を収集していました。女子がリーダーになってすべてを仕切る文化祭は貴重な体験でした。社会に出て、男性のリーダーシップを受け入れることに、私ははっきりと戸惑いを覚えるでしょう。
桐野夏生さんの『グロテスク』にある生徒同士の格差による葛藤が当てはまるには私の高校は校則が厳しすぎました。ロゴ入りのソックスをはいて行くことは禁じられていましたので、友人を出し抜くこともできませんでした。島の人たちのような「平等」な生活が高校時代にはあったと言えるのかもしれません。
私は子どもの頃からピアノとバレイは習っていましたが、それでモノになることはなく、今は平凡に生きています。
男性との出会いといえば普通に合コンですが、夢中になれるような恋愛はしたことはありません。結婚できないような人とお付き合いするのは無駄のような気がしているのでしょう。
好きな人と一緒になりたいとは思います。結婚の条件は満たしていても、もし自分がその人と恋をしていないとしたら、そのことは淋しいですね。
でも、現時点では私は、街でナンパされるのをうまくかわす方法とか、お付き合いする人が別れた後でストーカーになるタイプかどうかを見抜く方法とか、摂食障害にならない程度のダイエットする方法とか、学習しなければならない技術がたくさんあって、女としての生きづらさを感じながらも、ガールズトークができる友人たちに恵まれていて、そのことでは両親にとても感謝しています。
母は「真面目でよく働く、家にはあまりいないパパのような人を見つけて結婚するのよ」と、私と姉に薦めています。
母は専業主婦ですが、家でお友だちにお料理を教えています。「男性の胃をつかまえておけば、女は安心よ」と言っていますが、ジャニーズにハマっています。ジャニーズJrで新しい子を見つけると盆栽感覚で育てていくのです。
私も昔はジャニーズにハマっていましたので、結婚して子育てが一段落すると、母のようにジャニーズに戻っていくでしょう。結婚していても疑似恋愛することで生活が活性化すると思うからです。実際、母はいきいきしています。
私が中学時代にジャニーズに夢中だったのは、彼らは理想の男子でありながら、絶対におつきあいすることが叶わないからです。「脳内彼氏」のようなものですね。
以前は母と姉の3人でジャニーズのコンサートに行っていましたが、今は母と二人で出かけます。姉は高校まで私と同じ学校だったのですが、大学は慶應に進学しました。
家ではメガネ・スッピン・髪ボサボサ・スウェットで、資格のために勉強しています。お出かけに誘っても「慶應ではこんな生活しかできないのよ!」と怒鳴るので、母は仏壇にお供えするようにお料理を運んでから、私と出かけます。
姉を見ていると、自分が競争に勝ち抜くことが出来るとは思えません。
私は与えられた条件の中で生きていくでしょう。
父のような人と巡り合って結婚し、母のような幸福な一生を送りたい。そのような伝統的で平凡な幸福を望んでいるのです。
私の中のもう一人の私
1988年、ドラマの世界に初めて「トレンディドラマ」と呼ばれるドラマが登場した。浅野温子と浅野ゆう子の「W浅野」でも話題になったフジテレビ系の「抱きしめてたい!」である。バブル真っ盛りの頃だった。「トレンディ」というのは「流行の先端を行く」という意味である。
「抱きしめたい!」は「マリン感覚あふれるロマンティックコメディ」を自称していて、主題歌はカルロス・トシキ&オメガドライブの「アクアマリンのままでいて」である。当時最もトレンディな趣味はスキューバダイビングだったのだ。
「W浅野」は幼稚園から短大まで同じ学校に通った親友という設定である。スタイリストの温子と主婦のゆう子は、出身地、年齢、階層が同じということである。こういう設定にしておくと、一人の女性が選べたかもしれないもう一人の人生の可能性を、互いに相手に投影して描くことができる。女性は二人で一人なのである。この場合、二人の女性の一方は、無思慮で大胆で可愛げのある「女性らしい女性」として描かれなくてはならない。そうしないと女性と女性の間の対照性が強調されないからである。が、これは女性版ドラマの定型であって、何もそのことがトレンディだったわけではない。
たとえば、リドリー・スコット監督の映画「テルマ&ルイーズ」である。仕事も性格も対照的な二人の女性が旅に出ると、より女性らしい女性であるテルマの軽率さのために、ルイーズが殺人を引き起こしてしまう。逃げ続ける二人は最後には谷底に車ごとダイブする。ルイーズもテルマと共に死ぬことを選ぶのである。
この映画は「90年代の女性版アメリカ。ニュー・シネマ」と称され、アカデミー脚本賞を受賞しているが、それは1991年のことであるから、「抱きしめたい!」の3年後である。
映画とテレビ、悲劇と喜劇、アメリカと日本という相違があることはわかっているが、それでも両者のテーマは同一のものであると思われるのである。
そもそも「トレンディドラマ」は、簡単に言ってしまえば、女性雑誌(分厚い方)のグラビアを飾っていたモデルさんが写真から抜け出て動きだしたり喋りだしたりするドラマのことである。「トレンディドラマ」は、雑誌とモデルの3種類がいる。テレビドラマの演技は舞台のそれとは違って感情をあまり出さない薄い演技なので、微妙な表情や仕種で内面を表現できるモデルさんは、役者だった人よりもドラマには却って入りやすいのかもしれない。
「トレンディドラマ」が新しくてリアルな世界を見せるものであることが分かってしまうと、「トレンディ」という形容詞はあっと言う間に消えてしまった。単に「ドラマ」と言うだけで、「トレンディドラマ」を指すようになったのは、「ドラマ」が流行の先端を把握しているのは当然の約束事になったからである。
女性の意識の二重性
ドラマを作るのがスポンサーであるというのは重要なことである。商品のCMは、ドラマが中断した間に行われるのではなく、ドラマの内部で行われるようになる。
「抱きしめたい!」から20年の間に、「東京ラプス―トリー」「ロングバケーション」「やまとなでしこ」「ハケンの品格」「結婚できない男」「ラスト・フレンズ」といった秀作ドラマが次々に送り出されてきた。ただ、こういった作品であっても、スポンサーや視聴者の要求によって、ドラマの結末が度々書き換えられてきたことは事実である。本来ならば結婚することなどありえない主人公の二人が、「二人を結婚させて幸せにしてあげて』という要望が視聴者から多数寄せられたために、最後に結婚式を挙げさせる。ストーリーは最後の最後で破綻してしまうことになるのだが、ドラマは商品なので仕方ない。
どんな制度でもそうだが、その制度によって最も抑圧剃れている物がもっとも熱狂的にその制度を支持するのである。
たとえ派遣労働の問題がテーマであっても、たとえ主人公が阿部寛であっても、日本のドラマのテーマは「結婚」にある。結婚に対する「女性の意識の二重性」にある。
なぜ「二重性」を帯びるのかといえば、前の世代が次の世代の価値観の半分を形成するからである。
親の価値観と子どもの価値観を対立していても、自分のとは反対の親の価値観を子どもは内面化し、その意識は二重になる。これが流行を超えた不変の親の価値観もその半分は親の親によって植え付けられているからである。女性は一人であっても常に心は二人である。最近では、男性の中にもまた女性と同じ病にかかる人が増えてきている。
「日本のドラマほど勉強になるものはありません」
台湾から来た女子の留学生は、中学の時に台湾で「花より男子」の台湾バージョンをみたという。その時には、大金持ちでセレブでもある男子と結婚しようとする女を見て「みんなバカだ」と思っただけだった。しかし、日本に来て「花より男子」の日本バージョンを見て、日本を見回すと、考えが変わった。
「やっぱり大金持ちがいい。ブランド品が何でも買える。日本のように物が豊富にある国に育てば、よい生活をしたいと思うのは自然の事だ。日本の女性は大金持ちと結婚したいのではなく大金持ちのお金が欲しいのだと思う。欧米人はよく愛情があれば水とパンだけでも生きていけると言うが、アジア人にとってそれはあり得ないことだ。アジア人は日本に来ればどんどん現実的になってしまう」
台湾からの別の留学生は「やまとなでしこ」で日本文学を学んだ。
「私は留学生なので、仕事を辞めるとか仕事をしないということは考えられません。両親に養ってもらって、今まで教育を受けてきて、主婦になれば両親はとてもショックだと思います。日本の女性は優しくてとても可愛く見えますが、『やまとなでしこ』を見て、女性は弱くて男性に庇ってもらえると何でも男性から貰えることが分かりました。中国人と日本人の一番の違いはそこにあると思います」
厳密に言えば、「花より男子」はトレンディドラマから発生したドラマではない。日本のドラマ作りの職人たちは「花より男子」はドラマ化するに値しないと思ったのかもしれない。ドラマ「花より男子」は日本の少女漫画「花より男子」が台湾でドラマ化されてヒットし、それで日本のTBSがドラマ化した一種の「逆輸入ドラマ」で、ここ20年の歴史を持つ日本発のドラマとは明らかに一線を画する。
台湾の結婚ファンタジー
台湾には「花より男子」のように「大金持ちと結婚して幸福になる」という夢を持つ少女と、「好きな仕事とで頑張って成功する」という夢を持つ少女たちの両方いるということになる。
それを「性的自己表現」と「社会的自己実現」と呼ぶとすると、この2つの欲求が人をどちらかにきれいに分類してくれればいいのだが、なかなかそうはしてくれない。
「結婚ファンタジー」と「社会的達成願望」は同一人物の中でも(前者の留学生のように)時間と状況の変化に応じて、絶えず変化し続けるからである。
この2つはお互いがお互いを否定するのだから、持続する自己否定の結果、女性の自尊感情はどんどん低くなり。自分の人生には何の価値も意味しないと思うようになってしまう。
しかも、女性はどちらに自分を置いても必ず「欠落感」に襲われることになる。
結婚に対する女性の意識の二重性はこのような形で現れる。日本のドラマは20年前からその問題の一因を造り出しながら、その問題を追及してきたのである。
台湾の留学生は「結婚ファンタジー」を持つようになったことを、日本に来て「現実的」になったからと表現している。アジアの中で女性の意識の二重性を最初に自覚したのは日本である。晩婚化と少子化をアジアで最初に経験したのも日本である。現在、台湾も韓国も日本のあとを追っている。
東アジアの自由主義国では、日本で起こったと同じことが女性の中で深刻化しているのだ。
2000年、「やまとなでしこ」で「結婚」を受身で待つのではなく自分から仕掛けていく女性を松嶋菜々子が演じた。選ばれるのではなく選ばせる。追いかけるのではなく追いかけさせる。女性が決定権を持っているのである。
このドラマの結末は間違っていると指摘するのは日本人の学生である。
「馬主を探して生きるなら、東十条さんをふり、欧介さんとも別れるべきである。最後まで打算を貫いた桜子は敢然と孤独にならなければならない」
1995年、「愛していると言ってくれ」で、常盤貴子演じる水野紘子は画家の榊晃次(豊川悦司)を夢中で追いかけ、晃次さんに「選ばれる」ことだけを願っていた。選ばなければ、自分は郷里に帰って父の喜ぶような結婚をしなければならない。
「東京ラブストーリー」1991年の赤名リカ(鈴木保奈美)も奔放に見えてカンチに選ばれることだけを願う90年代の女性だった。
1995年から2000年の間に日本の女性の意識にとって分水嶺に当たるような事件が何かあったのであ。
女性の身体と保守性について
男性と女性とでは結婚に対して、究極のところ、どちらの方が保守的と言えるのだろうか?
大正時代、都市郊外の分譲地に建築された洋館に住んだ人たちの中に、当初の設計のままで住み続けられる家族はいなかったという。洋室の一室が和室に改造されてしまうからである。
どの家でも最初にそこに居住した夫妻(家族の初代)が取材されている記事を読むと、洋室だけの生活に苦痛を訴えるのは決まって妻の側である。
「私は全室洋館でかまわないのですが、家内が『椅子に座った姿勢ではくつろげないので、和室が欲しい』と言うものですから」
女性が男性よりも、自分の部屋を慣れ親しんだ形態に復元しようとするのは、女性の身体感覚の方が男性のそれよりも敏感だからである。身体的な開放感や圧迫感に関して男性は相対的に鈍感にできているのだろう。男性は女性ほど、自分の身体の声に耳を傾けない。そういうことは女々しいこととされてきたからである。
女性の身体に刻み込まれてきた安全装置は、もちろん環境の変化から女性を守るために機能している。過労死する人に圧倒的に男性が多いのは、女性は過労死する前に職場を去るからである。
そして、身体感覚は人格の重要な成分でもある。
つまりは、女性の方が保守的なのだろうと私は思う。
女性が結婚相手に求める欲求を、家族社会者の山田昌弘氏は「父親が与えてくれたのと同じか、それ以上の経済的条件」と、定義している。
言い換えれば、女性は子ども時代に身体が記憶した感覚を一生「基準」にして生きていく性別なのである。
フローリングの床が登場した時、それが女性の欲望と身体感覚に応える見事な発明品―畳のない和室―であることに感心したことがある。
さてそこで、洋室を戦後日本の核家族、和室を家制度に基づく大家族の単純な記号と見なすことはできないだろうか?
「女子大生ブーム」という残酷
人は結婚する前から、その人の親やさらにその親の生活から予め結婚をイメージしているものである。たとえば、お正月のお雑煮である。日本はいくら国土面積が小さいとはいえ、地方では独自の風習がいまだに強く残されている。県民性というのは廃藩置県によって明治期にできた道府県の性格ではなく、江戸時代の藩に備わった性格が温存されたものである。
封建時代の地方の風俗は食べ物や衣装に関する規則としてとりわけ強くあり、女性の保守的な身体感覚を通して次世代に伝えられる。味覚は人生早期の食べ物によって規定され、若いうちには許容性は広がっても、最終的には郷土食に帰っていく。食はその人の保守的な側面を一番よく表すものである。
そこに、「衒(げん)示的行為」として結婚というものが出現した。女性が都市部にある進学校かお嬢様校である中・高・大一貫の私学出身の場合は、平均初婚年齢が高くなることは以前にも記した。中学・高校・大学時代に、同じ年齢の女子の中で、本人も意識しないうちに、ブランド品であれ、趣味であれ、ある「基準」が出来上がってしまう。さらに、その学校だけが密かに使用されるサブ・テキストによって、人に対する辛辣で批判的な精神も出来上がってしまう。
結婚にもまた、同級生に披露して恥ずかしくない相手とするものという強迫観念が出来上がる。
中・高・大学時代の友人たちが結婚した相手の会社での収入を序列化して、すべて諳(そら)んじていた女性がいた。自分の姉の夫の年収を引き合いに出し、自分の夫の年収への不満を抑えられない女性もいた。面白いのは、年齢がいずれも40代初めから半ばであることである。
周囲にいる人と比較した上で自分の幸福感を決める傾向が、所謂(いわゆる)「女子大生ブーム」(1983~91年)に女子大生であった年齢の主婦の人たちに歴然と残っているのは驚くほどである。男性が自分に貢いでくれる金額が自分の値打ちなのである。どの時代に女子大生であったかという事は女性にとってとても重要なことである。
配偶者選択の学習は、ハイイロガンが比較行動学者のローレンツの後をついて歩くような単純な初期学習ではない。同じ後をついていく学習でも、結婚の場合、インプリンティングは早期と思春期(青年期前期)の2度に亘って行われ、一旦刻印されたものを完全に消去することはできない。
女性は、卒業後も、同級生の生き方を参照することで「基準」を維持するのである。
夫の年収が父よりも下、友人の夫よりも下、姉の夫より下という場合、妻は生活するのに何ら不自由がなくとも、結婚生活になかなか満足感を見いだせない。
しかも、結婚してみれば、資産の多寡(たか)に応じて無視できなくなる夫の両親がいる。結婚は両性の合意のみで行われることになっているが、結婚してみればそんな単純なものではなく、家と家の間で行われる古いものであることにやがて気づかされる。
女性の結婚意識が、幼少期と思春期における経験が縦糸と横糸になって織りなすタペストリーであるとすれば、このタペストリーは、家制度という額縁に収められている。
女性はただ一人の判断で結婚の幸福を手に入れる事はできない。友人に羨望され、家族から祝福されるような結婚でないと、日本人女性にとって結婚する意味はない。
結婚と恋愛は別という「結婚の常識」があるのは、女性の間では結婚の「基準」だけが「公的」なものだからであろう。この頃から、既に結婚は女性にとって打算を内包したものになっていた。なんといっても、それが「公的基準」になっているのだから仕方がない。
しかし、90年代まで、それはまだある程度は隠蔽されていたと思う。
「女子大生ブーム」を作り出したフジテレビの深夜放送「オールナイトフジ」が、放送終了を迎えたのは、1991年、バブルの崩壊により花の女子大生にも就職難の「冬の時代」が到来したからである。女子大生が経済の影響を直に受けて最初に転落させられる身分であることを示す典型的出来事であった。
本当のことは身体にしか分からない
1995年から2000年までの間に、女性は女子大生の時に獲得した「自己愛」が、徐々に挫折していくことを認めざるを得なかっただろう。
思春期にできあがる「基準」は、実は「妄想」である。本人には「理想」として意識されていても、所詮時代の作り出した「妄想」である。しかし、だからといって、それを切り替えることなどできるだろうか。
大学生の頃の「自己愛」の水準を、40歳になって切り替えることのできる人は少ない。なんといっても結婚する相手への好き嫌いは、生理的な次元つまりは身体化された次元にあるのだから、きわめて保守的なものである。
バブルがはじけた直後から日本の鬱病患者の数は増加し始まっている。
生きていくことは経済的な安定を確保することである。しかし、働いてそれを得ることが難しいと分かると、女性は「結婚」による階級上昇によってそれを得ようと考える。
「選ばれる」のを待っているのではなく、「選ばせる」ことを自分から行わなければならない。「合コン」は、出会いと結婚をダイレクトに結ぶ行為である。
「抱かれる女から抱く女へ」という古典的フェミニストのスローガンなど、男女の解剖学的差異からいってそもそも不可能なことであり、「抱く女」というイメージ自体をひよわな女性の「自己愛」は受け付けない。女性は「性的主体」になることができないというより、なりたくないのだ。
どこまでも「客体」の位置は確保しながら、状況の支配者になりたいとすれば、「選ばせる女」という使役動詞の道を行くしか他に道はないのである。
「やまとなでしこ」の主人公・神野桜子は、「合コンの女王」であるから、「選ばせる女」である。自分の打算にここまで忠実な主人公はドラマで描かれたことがない。
しかし、ドラマの初めの時点で、神野桜子は選ばせるつもりで既に使役動詞の領域から外れていく。
深夜のデートで、靴を脱いで放り投げ(象徴的な行為だ)、素足で芝生を歩き、ボートが転覆して欧介と共に池の中に放り出され、互いに笑い合う。このシーンで、桜子の身体感覚は完全に解放されている。それは桜子の中では強く抑圧されてきた心の傷の解放であり、東十条司といる時には満たされないことが視聴者には理解される。東十条司の背後には、「家」があるからである。廃屋同然の家に生まれた桜子には、文字通り敷居が高すぎるのだ。結婚は女性にとって「夫の家に入る」ことであり、実質的には自分の苗字を棄てることであり、やたら規制の多過ぎるのは、日本の結婚制度が旧来の「家」制度の上に恋愛を接ぎ木したものだからである。女性の身体感覚は自由だった子どもの頃に絶えず帰ろうとする。その保守性ゆえにこれほど正直なものはない。
正社員になったと同時に子宮内膜症が治った女性がいる。雇用不安というストレスを生殖器官が前面に立って受け止めてくれていたと知ったそうである。
あとがき
「一冊の本」で「結婚の才能」の連載が始まったのは2008年『結婚の条件』が出版されて五年後のことである。「結婚の才能」の連載分を通読してみると、2年前と現在の状況の違いについて改めて驚かされる。
この本の前段とも言うべき『結婚の条件』も02年から「一冊の本」に連載されたものなので、結婚について書き始めてから8年近くが経過したことになる。
8年前、少子化はすでに問題視されており、原因が晩婚化・非婚化にあることも政府によってすでに把握されていた。
女性が社会進出したから晩婚化が生じているのではない。結婚よりも仕事が大事と考える女性は全体の数パーセントに過ぎない。圧倒的多数は専業主婦を目指しており、「専業主婦として自立できない結婚」には二の足を踏んでいる。「適当な相手がいない」。だから晩婚化が進行しているのである。
しかし、このことが理解されることは少なかったように思う。女性が仕事を持ち自分の収入を得るようになったから結婚などしなくなった。それがステレオタイプな見方だった。
国家は未婚者に結婚を奨励するという政策はとらなかった。結婚するかどうかは個人の意思であり、そこに立ち入るべきではない。従って、すでに結婚して子どもを産んだ人、これから子どもを産もうとしている人が子どもを産みやすいようにする予算を講じるべきである。
次世代の国民を産んでくれる国民を優先的に保護しなければならない。実施上国民の義務である結婚をしていない人には、その人がいくら税金を納付していても、ビタ一文税金は使わない。それが統制型資本主義国家であり、国家社会主義国家の施政である。
しかし、女性が専業主婦を目指して男性に「経済力」を求めると、多くの男性が結婚のリストから外されていく。男性の男性としての自尊心はその年収とパラレルであることが公式化される「男性の危機」に際し、誰も異議申し立てもしなければ怒りもしなかった。
一方で自分は結婚の資格があると思っている男性は女性への要求を絶対に下げない。そのためには結婚ができない。しかし、両親が子どもの結婚相手を探す「親同士のお見合い」では、女性の一番人気は「介護士」である。誰のための結婚なのか分からない。
結婚がこのように条件闘争化したことで「国民皆結婚制度」は崩壊した。すでに、生涯非婚者が増加することも予測されていた。
そうなったのも、女性にとって結婚が「生活財」であるからである。そのことはどんな時代にも変わらない。結婚しなくても食べていけるなら、女性は夫に「依存」しようとは思わないなどと言うのは嘘である。
しかし、すべての欲求を満たしてくれる「理想」を求めると、「適当な人」は永遠に見つからず人生に何も起こらないのは、神を求めるあまり無神論者になるのと同じであるる
さらに人は「みんながするか自分もする」という「再帰性」の法則で、物を買ったり買わなかったり、結婚しなかったりする。参照する。「みんな」は「自分」の集まりに過ぎないのだから「幻想」である。結婚には「理想」と「幻想」がつきものである。
結婚自体を「妄想」の中に放つと微に入り細を穿ち、「妄想」はとどまることがない。際限ないというのは、「妄想」することが楽しい証拠である。
『結婚の条件』のあと5年ぐらいは、そうして「現実」と距離を保てる時代だった。
女性の結婚の目的は、「生存」「依存」「保存」の3つに分けられる。
そんな時代にも、生きるために「理想」を捨てて結婚する人はいた。「生存」のために結婚する女性である。地方出身で高卒の女性は、食べるために30歳までに結婚する。本当に結婚するか、結婚の夢を利用する以外、つまり「結婚」をしないで生きていくことができるだろうか。
リーマン・ショックのやって来る前から「現実」の中に生きてきたのは「生存」のための結婚をした人だけだったのである。
そして2年前、世界同時不況で事態は一変した。
すべての人の足元に火がついた。それに前後して「結婚の才能」の連載が始まった。結婚が経営構造に大きく依存している以上、経済が変われば結婚も変わらざるを得ない。
株価の暴落、失業、大卒無業、賃金カット、非正規雇用、パート労働の契約打ち切り、消費としての労働の終焉。すべての世帯がそれから免れることができない。家族の誰かがその当事者なのである。社会の底が抜けたのだ。
経済不安と孤独の海に放り出され、未婚者は生きるために結婚するか、生きるために結婚どころではなくなるか、いずれかになった。もう「理想」に生きることはできない。未婚者は「妄想」している時間があれば、「資格」のための勉強をしなければならない。結婚して専業主婦になり、子どもを育て、トール・ペインティングやガーデニングを楽しみ、家族の癒しの天使になるという「大義名分」は不可能になったが、砂粒のようにバラバラになった時には、「家族」の絆が人を支えるので、「家族」の価値の見直しが始まる。
家族の要は母である。女性は先ず母にならなければならない。しかし、専業主婦に納まってもらっては困る。女性は日本では移民の代わりになる貴重な労働力である。
女性は結婚をして子どもを3人は産み、資格のために勉強をし、夫に依存せず、独立して子育てをし、
目標達成に向けて努力し、時間を効率的に使い、会社に依存せず、社会貢献をし、美を保たねばならならない。「達成依存症」的生き方の奨励である。こういう生き方に最も敏感に反応したのが女子学生である。それを肯定するか否定するか学生時代に決めておかねば就職も結婚もできない。
迷える大学生の最期の「妄想」は、専業主婦モデルの黄昏期に書かれたものである。
「妄想」をしている人は自分がそのように生きられないことを知っている。現実に不器用だからこそ「妄想」が巧みなのだ。天は二物を与えず。
社会の底が抜けた時には、恋愛の才能と結婚の才能とでは、結婚の才能の方が重要に決まっている。半永久的に一人の人間と繋がる絆を作り出す能力がこんな時代には必要だからである。こんな時代とは現実性と日常性に回帰した時代である。恋愛の才能などあってもロクなことはない。恋愛の才能のある人は、頭の中にある抽象が具体になって現れるのを見るのが嫌なのだ。リアルな自分を直視することが怖いのである。それは虚に生きる能力である。そもそもそういう人は虚業を職業にしている。学生か公務員を志向する時代にはあっても意味のない能力である。
結婚に関してはいろいろ考える時代ではない。即実行するのがいい。「妄想」していても生活が保障されるわけではない。
『結婚の条件』出版されてから、「婚活」という言葉が流行語になり、合計特殊出生率も少しであるが上昇したという。
私自身が直接知りうる範囲では、03年当時にも未婚であって10年現在子どもの親になった人が二人いる。そのうちの一人は、「結婚がタクシーで来るとき」の章に登場した男性である。あのとの一人は、会社をクビになりかかっていた時に「30を過ぎた女性は、自分から動かないと結婚はできない」という私の呟きをたまたま聞いた女子である。私はそういうことを言った事自体を覚えていない。
彼女はその日のうちに、仕事で一度だけ会ったことのある、初対面でメチャメチャ好感を持った男性の自宅に宅配便で送るはずの書類を直接持って行った。恐縮した男性が「酔虎伝」でご馳走してくれた。夢中で話をしていると終電がなくなって彼の部屋に泊めてもらった。翌朝、彼女は雀よりも早く起きて朝食を作った。そこからお互いのことが「寝ても覚めても好き」になった。
最初の12時間こそ計画的だが、12時間後にはモーゼのごとく前に道ができた。そこを歩いていった、結婚をした。
結婚するとそれぞれの実家に帰る高速料金が無料になり、子どもが生まれると出産一時金が支給された。(彼女はそういう制度を知らなかったのである。)子どもを預けて夫婦で自由業の仕事で必死に働こうとしたが、妊娠中に近所の保育園を回ると無理だと言われた。
ところが子どもが生まれるや、保育園の定員枠が拡大されることになった。「子どもを手当」も出ることが決まった。そのうち、幼稚園の保育料と小学校の給食費も無料となり、高校に次いで大学の授業料も無料になるであろう。
好きな人と一緒に居られればそれでよかったので、子どもの学費の「財源」を相手が持っているかどうかなど考えずに結婚したら国家がお金を出してくれることになったのだ。
案ずるより産むが易し。
2010年3月大安吉日 小倉千加子
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