結婚の才能とは、恋愛のドキドキ感なしに結婚をスタートさせ、しかも結婚生活を破綻させない程度に相手に満足感を与え続ける才能のことである。二人の間での安全保障条約の締結とその義務の遂行、それが結婚であるので、恋愛の「強い相互作用」とは違う「弱い相互作用」がスタートするということである。

本表紙 小倉千加子著

赤バラ浮気・不倫はとても自己愛的な行動である。自分の快感を追い求め自身の心と体の在り様を知り、何を欲しているのか、何処をどうして欲しいのかをパートナーに互い伝えあって実践できれば満足し合えるよう!

第2 新・結婚の条件

 恋愛結婚という言葉は、もはや死語である

 その人と結婚したいという時に、たとえ周囲が反対しても結婚をするというのは親に従順な子どもたちにはありえないことである。逆に、周囲が諸手を挙げて賛成すれば、却って結婚する気にはなれないという人もいる。何の障害もないところで、「恋愛」は成り立たないからである。周囲から祝福された時点で、何かは終わっている。
 なのに、結婚するまで、「恋愛感情」らしきものは継続していなければならない。

 結婚の才能とは、恋愛のドキドキ感なしに結婚をスタートさせ、しかも結婚生活を破綻させない程度に相手に満足感を与え続ける才能のことである。二人の間での安全保障条約の締結とその義務の遂行、それが結婚であるので、恋愛の「強い相互作用」とは違う「弱い相互作用」がスタートするということである。

 したがって一番結婚が容易なのは、恋愛感情を持たない人である。恋愛はできないが、結婚ならできる。そういう人は、周囲から焚き付けられたり、推薦されたりすることに素直に従えば、結婚はできる。しかし、それでもなお、素直に従えないケースが殆どなので、交感神経と副交感神経が同時に興奮するような状態にいるようなものである。

 恋愛の才能なら、女性誌を読めばいくらでも書いてあると思う人もいるだろうが、あそこに書いてあるのは「結婚相手をゲットする法」であって、早い話が、男性を騙す方法である。思い切って誘惑しておいて肘鉄をくわせるというのは、恋愛の、つまりコケットリーの才能である。こういうのは、現在、一定以上の年齢の人しか経験・体得しておらず、そういう人は女性誌を読まない。

 女性誌は今も「選ばれる女」になることを教えている。
「あなたがいつも友だち止まりで、なかなか恋人になれない理由」は、「隙がない」「男友達が多い」「趣味が深すぎる」「割り勘にする」。だから男は引くのですと女性誌には書いてある。
 残念ながら、現実の方が先をいっている。優秀な男子学生は、そういう「友達止まりの女」の方がベスト・パートナーであると考えていることは前に述べた通りである。
 もはや「割り勘」にし、「隙がなく」「ディープな趣味を持つ」「他の男友だちが多い」女性の方が好ましいのだ。

 女は外に出しておく
 21世紀に入って以来、日本は(日本だけではないが)、社会情勢が余りにも大きく変わったので、男子が結婚相手に求める条件も変わった。

 かつては「4K」と言われた「可愛い」「賢い」「家庭的」「軽い(体重が)」に、5つ目のKが加わった。「経済力」である。
 多くの男子学生が思っているのは、結婚することは、人と身近にいて具体的な生活をすることであり、それが恋愛とは相反するものであるという認識である。具体的な経済生活の心配や収入源を夫だけに当然のように委ねる女性は好ましくない。

 自分の会社がなくなった時に、代わりに働いて自分を養ってくれるような妻がいい。妻になる人にも「経済力」は必要である。
 自分が仕事を辞めたくなった時、たとえば「群像新人賞」を目指して作家活動に入りたいと告げた時に、「辞めてもいいわよ。チャレンジしてみれば」と、背中を押してくれるような妻なら言うことはない。
 だいたい、いつも家にいる妻ほど重いものはない。しかし、フルタイムで働くのはではなく、昼間に数時間だけ働いてくれる妻がいい。それも近所にママチャリで行くようなパートではなく、スーツを着て電車に乗って出かける仕事がいい。
「女は、外に出しておかないと品質が劣化する」
 そう東大生の男子が言ったという。
 不特定多数の視線に晒されていないと、女はすぐに「現役感「を失ってしまう。
 しかし、夜は食事を作って待っていてほしい。
 実際、東大生の男子ほどマザコンな男子はいない。
 もし自分が転勤になったら、妻についてきてほしい。単身赴任は嫌だ。それでなくとも妻という生き物は、夫が「パリに転勤」だと喜んでついていくが、「静岡に転勤」だと付いてこない生き物である。

 夫の国内赴任先にもついてきてくれて、現地ですぐに仕事が見つかる職業に、薬剤師がある。必要な時には適度に働いてくれる。
 妻には「自分の趣味に使うお金は自分で稼ぎたい」と思う真面目な人がいい。フェミニストの妻であるが、本物のフェミニストではない妻である。
 この要求を受けると、女性にとっての結婚の才能とは、バリバリのキャリアは目指さず、夫の被扶養者に留まることをよしとする感性になる。家庭に男は二人要らない。

 官僚とか新聞記者とか編集者とかではなく、大学の非常勤の語学教室とか学校カウンセラーとかがいい。妻に転勤がある仕事など論外である。妻は、自分一人では食べられないが、自分の物は自分で購入できる程度の収入があり、いざという時には勤務時間を増やして、自身で収入のアップを見込める職業がいい。それが、柔軟性のある「経済力」である。

 薬剤師や看護師よりも望ましいのは、「漫画家」か「TVドラマのシナリオ・ライター」だと言った男性もいた。家にいてできる仕事で、妻が一発当てれば夫は仕事を辞めることができる。
 この場合、妻は自分の収入目当てに夫は自分と結婚しているのか、収入がなくとも自分と結婚を継続しているのか、判然としなくなる。
 夫が漫画家の場合、妻が自分の収入を目当てに結婚しているのではないかとは考えないところがいかにも男性である。
 男性の迷妄が深いところは、地位とか収入とかいう自分の社会的パワーが自分の核なのであり、「自分=ポストとお金」と考えて忸怩(じくじ)たるところが全くないところである。男性が支配層にそう思わされていることは、既に「男性学」で明らかにされているのに、自分がそうだと気がつくことができない。気がついた途端、負け犬どこか、落伍者になる恐怖があるからである。

 社会が成果制を採用しなくとも、男性にはジェンダーによって「裡(うち)なる成果主義」があるからである。男性にとって世界への信頼を担保するために、「女性崇拝」があり、男性は女性全般に善なるものを投影する。しかし、最も善なる者とは、最も無垢なる者であって、そういう女性は今や国土の周縁部分とバーチャルな世界にしか存在しない。

 働きに行く布団
 男性には、家庭の中で自分だけが稼ぐ人になることには、潜在的な怒りがある。なぜ、妻は「俺の金」でぬくぬくと生活しているのか、そのことに対する怒りがある。女性羨望と言ってもいいかも知れない。
 しかし、形だけでも自分の疲れた身体を休ませてくれる「布団なる者もの」を家の外に放りだすわけにはいかないので、「布団」は家に置いてある。ぬくぬくした物がないと、自分もぬくぬくできないからである。

 現実には、ぬくぬくして軽やかで清潔で太陽の香りのする布団とは似ても似つかぬ、湿った黴(かび)臭い布団であっても、世の中には段ボールを布団にする人も、「蒲団」に顔を埋めて臭いをかぐだけの教師もいるのだから、妻が通販のニッキュッパの布団を買ってくれるだけでも御の字と言わなくてはならない。

 少子化とか晩婚化が問題視されていることには、既に結婚している人に、結婚できただけでも自分は幸福なのだと思わせる現状肯定の効果がある。
 自分には「結婚の才能」があるのだ。結婚を先延ばしにしたり、結婚できなかったりする人がいる時代には、結婚していることが相対的な幸福の証となり、絶対的な幸福感がそこにあるか否かを吟味することへの抑制が働く。

 トルストイですら結婚の幸福は得られなかった。トルストイはいろいろ考え過ぎる人だからである。田山花袋にはもちろん、トルストイよりもマシな自分に褒美を与えてやりたい気持ちになる。
 問題は、今や「布団」に嫁いできてほしいのに、「布団」はベランダまでしか出ていかないことがある。

 自分を包む母なるものに、若さと美貌を求めているだけでも我がままなのに、そこにさらに自分の扶養義務を半減してくれることまで求めるとなると、結婚の条件のハードルはさらに高くなってしまう。
 外に出しておきたいのか、せいぜいベランダまでに行動範囲を制限したいのか、男性は先ず選択しなくてはならない。

 女性は仕事に満足していなくても、結婚から「何の心配もない幸せ」というものを与えられたいのだ。好きな期間だけなら専業主婦になりたいのである。それに退屈したら、社会に出たいのである。
 女性は「ワーカホリックな布団」になることを要求されているが、「ワーカホリックな布団」というのは、同時に「布団」になれというダブル・メッセージを生身の人間が引き受けることは不可能である。

「何の心配もない幸せ」を結婚に求めることは、女性のわがままだろうか?
 あのシャネルも一時はそこに逃避していたではないか

 愛の三角理論

 放っておくといつまでで経っても子どもは結婚しないという事に親たちは気づいたからだろうか、お見合いが増えている。
 父親が子どもに「結婚する気はあるのか?」と訊き、「うん」という答えを聞いたなら、すぐに動き出さなくてはならない。
 お見合い写真らしからぬ自然なスナップ写真を撮るお見合い写真専門の写真館は、予約でいっぱいだからである。
 子どもに質問するのは父親でなければならない。父は忙しいから母が、という根性の入っていないケースでは上手くいかないのは中学受験と同じである。
 そして、世話好きには見えない世話好きの、お見合いのプロのアマチュアの女性に頼みに行く。
 プロのアマチュア風のプロと言われるのを嫌がる。あくまでもアマチュアなのは、それが「ボランティア精神によるもの」だからである。「ご縁のもの」と翻訳する。

 関東では何と言うのか知らないが、関西では「釣書」というものを親が書く。魚を釣るものではなく、家が釣り合うか否かを知るためのものである。書いてある内容以前に、書いてある形式で予選がある。正しくは毛筆で書く。決してボールペンで書くものではなく、万年筆なら辛うじてOKである。

 最近のお見合い事情に、私はどちらかというとものすごく詳しい方だと思う。知り合いにプロのアマチュアの女性がいて、暇があると聞きに行っている。日本はつくづく階級社会であると思う。階級がないようで実はちゃんとある社会である。なまじの学歴や年収で太刀打ちできるようなものではない。
 お見合いには目的がある。
 お見合いでない場合、人は結婚相手とはほとんどセックスしないし、なかなか子どもも作らない。
 子どものいない家族は家族でないという人もいるから、結婚しても家族にならない結婚にもなんらかの実用があるはずである。それは結婚している事への虚栄を除けば、単身生活を避けること以外に今のところ思い当たらないのである。

 阪神淡路大震災の時に、布団の上にタンスが倒れてきて亡くなったおじいさんがいた。私の家から100メートルしか離れていないマンションで、である。タンスが90度で倒れてきた。ベッドで寝ていれば、60度の角度で助かったかもしれないが、一人だと30度の隙間からいつまで経っても出られないこともある。

 日本が地震国でなければ結婚しなくともいいという話ではなく、地震が象徴するところの出来事に対応することは独力ではできないということであ。
 何もわざわざ結婚しなくても、ロビンソン・クルーソーとフライデーとか、ブッダとアーナンダでも、別にいいのである。
 が、「結婚相手を紹介してください」とは比較的容易に人に頼めるのである。結婚の才能とは、単身生活から逃れるための才能である。誰か自分だけを愛してくれる人がいるとかいうような抽象的なものではない。愛のない結婚などいくらでもあるし、愛のある結婚から愛が消滅することはよくあることであり、それでも結婚を継続している人はやはりいくらでもいるからである。
 そもそも、愛(love)とは何なのか?

 7つの愛の型

 エール大学のロバート。スターンバーグが「愛の三角理論」(1986年)という論文で、愛は3つの要素から成る事を指摘している。この人は心理学者である。
 3つの要素とは、「親密さ」と「情熱」と「義務」である。
「親密さ」とは、好意によって心理的距離を縮めようとすることであり、友人との間にも生じる。
「情熱」とは、ほとんど性的なもので、非合理で衝動的な欲求である。痴漢も持っている。
「義務」とは、誠意を似て履行される行為及びそうする決心である。社会的・宗教的な規範によって生じる。
「完全な愛」はこの3つが揃った時に成立するが、1つだけとか2つだけとかの場合も含めると合計7つの愛の型が導き出せる。
「親密さ」―好意
「情熱」―熱中
「義務」―空っぽの愛
「親密さ」と「情熱」―ロマンティックな愛
「親密さ」と「義務」―友愛
「情熱」と「義務」―妄想愛
「親密さ」と「情熱」と「義務」―完全な愛
 だいたい「義務」だけから成るものが「愛」と言えるのかとか、「親密さ」を愛に含める必要はないというような批判はあるが、1つから2つ、2つから3つへと進化していくものとして「愛」を捉えるのではなく、逆に3つから2つに、2つから1つへと要素が減少していく恋愛感情の変化として受け止めればよい。それは不可避なものではないだろうか。つまりは「結婚」の歴史そのものである。

 たとえば「義務」という要素は、「親密さ」か「情熱」という土台なしには決して長続きするものではない。「情熱」が最初から微塵もない関係では、人は相手が肺炎を起こしそうな状態で臥せっていても平気で外出できるものである。
「情熱」は当初、執着と過度の理想化として現れる。
「親密さ」なしに「情熱」だけがある相手が迷惑するが、「親密さ」を失っても「情熱」という執着があればこそ、傍から見ると終わった夫婦でも妻は夫を介護し、夫は妻の車椅子を押すのである。

 昏(くら)い情熱というものを理解しない限り、夫婦という猥雑(わいざつ)なものを理解することはできない。
「情熱」はほとんど性的なものであるとスターンバーグは定義したが、それは肉体に根を置くものと解す、母子もまた「情熱」によって結びついた関係である。
 児童虐待に児童相談所が介入しても功を奏さないことが多いのは、親の子に対する「情熱」が、夫婦間の「情熱」に負けてしまったせいである。

 お見合い界の法則

 お見合いを世話をする人は何かと言うと「縁のこと」というが、改めて「縁とは何ですか?」と質問すると、「タイミングのことです」という答えが返ってきた。

 お見合いの世話をするためには、何度も両家の間で連絡を取り次がなくてはならない。しかし、電話をした時にたまたま先方が五分だけ留守してタイミングを逸するというようなことがままあるらしい。そういうことは、「縁がない」予兆なのだそうで、決まるものはトントンと決まる。

「縁がない」とは、そういううまく行かない偶然を引き寄せてしまうことなのだが、引き寄せる力は偶然ではない。必然が偶然という形を借りて現れているという。
 必然とは、親の本心である。
 お見合い界における法則は、女の子は自分で自分を食べさせていけない限り、いつかは親の家を出て、自分を食べさせてくれる人の家に入られねばならないという前提から出発する。たとえ親の家にいても、親は子どもよりも先に死ぬ以上、親代わりに庇護してくれる人を見つけねばならない。庇護してもらわなくてもいいほどの経済力があっても、子どもはいた方がいい。たとえ子どもは要らなくても、身元引受人になる家族を確保しなければならない。友だちは家族ではない。友情でご飯は食べられない。金銭は友情によって移動しない。友情に「情熱」はないからである。

 男の子の場合は、いつかは自分を食べさせてくれるという「食べさせる」という言葉が食事を提供してもらうことを直截に指し、料理が介護を指しているところが女の子と異なるだけで、以下同文である。
 扶養することと食事を提供することのあからさまな交換を意図したものがお見合いである。媒介するのはエロスであるが、エロスはお見合いをする男性の場合、存在しないことになっている。
 女の子も男の子も家族を作る手段として一番簡単なのは結婚することなのであり、結婚に際して親が大人として相手を審査してやれるお見合いは、恋愛よりもよほど合理的である。

 お見合いがまとまるか否かのカギを握っているのは母親である。
 それは、ペットの交配の決定権を握っているのがペットの飼い主であるのと同じくらい自明のことである。
 結婚は将来の生活のためにするのだから、現在生活している場所は捨てられることになる。結婚によって捨てられる生活(食事を提供される場)を作っているのは、母親その人なのである。

 お見合いの過程でタイミングを外すようなことは偶然起こるのではなく、母親の本心が図らずも漏洩したものであると解釈される。縁がないようにないように、母親の無意識が決めているからである。
 電話のかかってくる時にたまたま留守にしていたということなどありえない。お見合い界にたまたまは存在しない。

 合法的家出をするのは女性の方だから、息子の結婚より娘の結婚の方が親は何倍も寂しいそうである。
 だいたいお見合いの席にも、女性側は男性側より早く着いていなければならない。お見合いはマナーの世界であるので、先ずは書道を嗜まない母親はそれだけでポイントが低くなる。
 我が子がエロス(情熱)派かマナー(義務)派か、親はそういうことも予め見極めておかねばならない。

 花の言葉

 結婚は身体がするものである。

 恋愛における身体と結婚における身体とでは求められるものが異なるのは、恋愛にはプラトニック・ラブというものがあっても、結婚の場合にはないことからも分かる。
「てきちゃった婚」について、男性側の母親から小声で告げられたことがある。
「女性が子供を産める身体だと分かるから、できちゃった婚の方が都合がいいこともあるのよ」
 
 結婚前の妊娠をふしだらであるという因襲的な見方はせず、事前に妊娠テストにパスした嫁を迎えた方が合理的だと考える親たちが台頭しているのである。そういえば、昔は女性が男性の家に嫁いで来ても、子どもが生まれて初めて入籍することも珍しくはなかった。

 男性側の親と家にとって、息子の結婚は孫(子孫)を産んでくれる女性の選別であった。男性の家にとっては、女性の妊孕(にんよう)性こそが結婚の最大の才能なのかもしれない。

 結婚してから、「子どもはまだ?」「いつ孫を見せてくれるの?」と姑が悪気なくであっても言うのは、不妊女性にとって一番つらい詮索である。不妊が外部から持ち込まれた「家の問題」であると考える姑は今も日本中に数多く存在する。だから、結婚しても子どもが生まれない場合、女性の方がまず病院に検査に行かされる。
 そこで「不妊症」と診断された時、あまりのショックで病院から家に帰った経路を覚えていないという人がいた。

 自分の身体にそういう「病気」があると告げられると、「結婚=出産」という図式を自明のものとして内面化していった女性が受ける衝撃には計り知れないものがあるのだ。
「不妊症」を自ら「中途障碍者」と命名した女性がいた。

 結婚するまで「不妊症」であることなど想像もしていなかったので、自分が「完全な結婚」のできない「障碍」のある身体を持った事実をどう受け入れていけばいいのか分からなくなる。女性は、夫と結婚したのではなく、夫によって作る「家族」という幻想と結婚していたのである。

 もちろん、子どもがいなくても結婚は完全なものであると考える人はいる。そういう人にとっては、女性が原因の「女性不妊」であれ、男性が原因の「男性不妊」であれ、あるいは「原因不明」であれ、それを受け入れる素地はできている。「子どもが出来なければ、それはそれでいい」と考える人は、夫婦と親、特に夫の親との間に自ずと距離を設けていく。

「事実婚」というのは、そういう親の詮索から自由でいられる方策の一つである。しかし、その場合、結婚の単位はあくまでも夫婦のみとなるので、そこには「事実婚」のパラドクスが生じる。結婚を制度としては批判しながら、夫婦間に恋愛の実質が存在することを確認しなければならない。「事実婚」は、最も「夫婦の一体感」に拘(こだわ)る夫婦なのである。

 日本人女性のダブル・ハインド

「事実婚」ではない「制度婚」の妻の場合、夫の親族と実家の親から「妊娠可能な身体」か否かのチェックを受ける事は、精神的な大きな負担になっている。

「制度婚」は、「事実婚」と違って、出産を当然視していることが相対的に多いので、自分の中にすら自分を責める声があるからである。
 が、「今はまだ二人ですることを楽しみたい」とか「仕事があるので、子どもはまだ先」と思っている間に、妊娠可能時期が過ぎてしまうことがある。と、今度は逆に、親に試験勉強をうるさく言われなかったために受験に失敗した浪人のような気になる事がある。志望校には努力しなくても受かると思っていたのに、そうはならなかったのだ。
「自分はまだ若い、まだまだ子どもの産める時間はあるので別に急ぐ必要はない」と思っているうちに「44の声を聞いた時、がっくりと女性としての身体の衰えを感じましたね」
 と素直に答えた人がいた。
「若さと美貌」という生理的評価ではない「もう一つの身体時計」を40代になって知ったのだという。
 自分は若いという自信と、若さを保たなければいけないという強迫とが、経済力や仕事への専念とは別の次元で子どもの親になるという決断を先延ばしさせている。
「自分は若い」と女性が思うのは「女性偏差値」への自信であるから、モテる女性ほど、妻になり母になり主婦になることを回避することになる。

「子どもを産む身体に妊娠線ができるのが耐えられない」と言う女性が都市部には大勢いる。もっとも、母でない女性の韜晦(とうかい)ほど秀逸なものはないから、格好の口実として「妊娠線」は利用されているだけではないかと質(ただ)したが、本気だという事である。
「文化と貨幣を産むのは、子どもを産まない女性である」という説もある。

 職業を持ちながら母であることの苦しみを女優たちに語らせたインタビュー映画「デブラ・ウィンが―を探して」(2002年)の中で、アメリカ人女優ジェーン・フォンダが苦悩を顔に刻みながらインタビューに答えていたのに対し、偶然取材現場にやってきたイギリス人女優のカトリン・カートリッジは映画の趣旨を聞いて肩をすくめて笑った。
「恋をしてなきゃ、朝が来てもベッドから起き出すこともできゃしない」

 日本人の意識は、アメリカとヨーロッパの狭間にある。母になれば、女性から降りなければならない。若い女性を過分に評価する日本人男性の意識によって、女性の人生設計が決められてしまう。

 男性の望む「若さと美貌」という魔法の杖がある限り、多くの女性はその特権的経験を享受するのに時間を費やす。そしてその結果、周囲を見回せば、友人はみな結婚して子どもがいることに気づいて愕然としたという女性がいる。

 鏡を見るだけではなく、身体時計の針の音も聴いていなければならなかったのだ。
「私は、いつも現在に夢中だったのです」
「大学が青山通りに面しているのに、どうして去年のものを着ていけるでしょう」
 女性差別の最大の原因は、女性が「美の表象」として消費される立場にいることである。「美」のために男性に消費されるために絶え間なく消費せよと言われる日本人女性の葛藤は、先進国の中で恐らく最大になっていると思う。

 10歳の直観

 母は、娘の人生最大のモデルである。
 しかし、自分もいつか母のような人生を生きるのだ、きちんと「制度婚」をするのだと信じている女子学生にとってすら、「母の生活」は100%肯定できるものでない。
 母は父のため、子どものために、女性としての消費を我慢している。女性として消費されることも断念している。母は毎日家にいて家事をしているだけの女性である。
「それは、私が小学4年のある日の事でした。本当に365日の中の一日、いつもと何の変わりない平凡な一日だったのです」
 そう書いてきた学生がいた。
 学校から帰って「ただいま」と玄関に入ると、母は「おかえり」と言って出迎えてくれた。毎日、母はそうしている。玄関を入ったところの壁には棚があり、棚は4段に仕切られている。母の前を通って室内に入ろうとした時、その棚の一番上の段に、大きな花瓶があってそこに花が活けられているのが見えた。花の名前は知らない。花瓶から大きな美しい花弁が母の肩に触れるように垂れ下がっていた。それをチラリと見ただけのことである。
 しかしその時、感じたのだという。
「ああ、母の元気だ。母は今、まだ若い」
 母は35歳だった。自分が10歳で、あの時、本当に若い母がいた。しかし、それは一瞬のことだ。
「なぜか、私は子どもなのにそれが分かったのです」
 自分が35歳になった時、母は60歳になり、私が「ただいま」と言って帰ってきても、この高い棚の大きな花瓶に花は活けられていないだろう。

 その夜、娘は不安でなかなか寝付けなかった。家の中に母がいる安心の一方で、あの花を活けてくれる元気な母は今しかいないということが、とても恐ろしい気がしたのである。

 自分が35歳になるときには、10歳の娘がいなくてはならない。母は25歳で私を産んだ。ということは、自分は24歳までに結婚していなければならない。
 その日から、彼女の「逆算の人生」が始まった。結婚したいというわけではない。元気な母の姿を自分が再現しなければ、母はいつか年を取って、やがて本当にいなくなってしまうだろう。

 24歳で結婚するためにしなければならないことをしよう。自分は結婚して、たった一日、自分の若さを娘にだけわかってもらえる母になろう。
「私が探しているは結婚相手ではありません。若くて元気だった母の姿なのです」
「母は、母の器の中に生きてきて、その最高の表現が玄関の花だったのです。その人生を私は否定する事は出来ません。私は、母のたった一人の娘です。母の面倒は私が看てあげたいです」

 人がなぜ結婚するのか、その真の理由は本人しか分からない。特に女性にとってはその理由は複雑微妙で、本人にも分からないことがある。本当の理由はこのような恐怖から生じることもしばしばあるのだと思う。
「長女は、母の母である」という言葉が、フェミズムにはある。
 母は、長女の中に「あなただけは私を分かっている」という期待をする。実際、長女は母の人生の意味を肯定し、無意識を補填するように無意識に生き始める。

 母は娘にとって最大のモデルであるだけではない。母の自己犠牲に満ちた生活を、生物として元気な女の時間を、娘は子どもとして消費してきた。その負い目がある。
 女性がキャリアを重視し、競争に勝とうとするのは、その父の鼓舞による。が、結婚に回帰しようとするか否かを決めるのは、その母である。
「もし仕事を持てば、仕事も家庭も中途半端になるでしよう。私は、母のように専業主婦になりたいのです」

 日本の中心で愛を叫ぶ

 人間は感情の生き物である

 しかし、すべての人が同じ数だけ感じようを持ち合わせているわけではない。
 言葉が関係するかもしれない。
 名前のつかない感情は存在しないに等しい。言葉を知らなければ、自分の中にある感情は感情として立ち上がってはこない。そういう場合は、何らかの行動、自分でも欲求の分からない行動が出現する。それを嗜癖(しへき)という。

 嗜癖とは自分の中の抑制された感情の代わりに現れる行動で、そのことが本人にとってよろしくないのは、本人がその感情の中心にいないので、都合の悪いことから逃げているからである。状況は何も変わらない。他人の方がよほど正確にその人の感情を把握していることがある。

 その人の、落ち着かない、しかし決して苦痛そうではない緊張状態に「それは、あなたが今、恋しているからですよ」と教えてあげそうになって、何度口をつぐんだことだろう。
 だからといって、言葉を知ると感じようが豊かになるかというと必ずしもそうではない。だから、ややこしいのである。

 恋は、もちろん感情であろう。が、「自分は一度も恋をしたことがない」と言う人と、「自分は今まで恋ばかりしてきた」と言う人の「恋」が同じ内容であるとは限らない。
 ちょうど、自分を見ている「赤」という色と、社会で「赤」と決めている色とが同じかどうかが分からないように。
「恋」の定義が異なる人同士が「恋」をすると、面倒なことが起こる。
 恋人同士は週に1回ぐらい会うものだと思っている人と、恋をすることは1日に数十回連絡を取り合い、毎日会う事だと思っている人とでは、恋愛はできない。そよ風を台風だと思って避難する人と、暴風の中にいなければ生きた心地がしない人のようなものである。

 それは、濃度の差ではなく、定義の差である。気質の違いと価値観の違いである。
 そういう意味では、結婚というものは、恋よりもはるかに容易である。二人がすることが決まっているからである。
 結婚は「両性の合意」があればできるという憲法は、日本が戦争に負けたためにできたのだが、何も親が決めた相手といやいや結婚していた日本の女性たちにアメリカ人が同情して決めたことではない。
 結婚を強制する日本の親が悪いのではなく、好きでもない相手と結婚する自体が悪い、そういう結婚は神聖な結婚の冒涜である。と戦勝国であるアメリカは考えたのかもしれないとも思う。

「両性の合意」とは「愛し合った者同士の情熱」が何よりも優先されるべきという価値観を指しているのだろう。
 アメリカ人の祖先たちがイギリスから船に乗ってやって来たのは宗教上の迫害を逃れるためだったのだから、新天地アメリカでは、「宗教」の占めるべき位置を「宗教」に代わって「恋愛」が占めるしかなかった。それ以前に情熱的なものなどなかったからであると指摘したのはエーリッヒ・フロムである。

 アメリカ人の結婚

 アメリカ人の「恋愛」と、フランス人の「恋愛」は違う。
 アメリカを馬鹿にしているフランス人は(というか馬鹿しているらしい、フランス人は)言うそうである。
 アメリカ人の老夫婦がTシャツに短パン姿でプールサイドにデッキ・チェアを並べ、ハンバーガーを食べている写真を示して、「この夫婦が恋してると思うか? このジャック&ベティが」と。

 ハリウッド映画は夫婦愛や家族愛で終わる宗教映画であり、その夫婦の在り方には陰翳(いんえい)というものがない。
 かつてのフエリーニの「甘い生活」にアメリカ人のモデルを見て「大きなお人形だね」と悪口を言う台詞があった。その台詞しか覚えていないのは、私がそれに共感したからであろう。

 陰翳を礼賛する日本人なら、アメリカではなく、フランスやイタリア的な「恋」の感情の方がよほど美意識に適うのである。
 しかも、アメリカ人は「不倫」に大騒ぎをする。クリントン(の夫の方)も、そうだった。
 陽気な割に夫婦愛は絶対のもので、裏切りに非寛容なのは、結婚が宗教の代わりだからである。離婚の慰謝料を吊り上げているのもアメリカである。
 お金がないと離婚もできない。お金がないと結婚もできないのとではどちらが苦痛だろう。

 ヨーロッパにはまだ寛容がある。夫婦愛がなければ生きる資格がないなどとは言わない。と、思ったら、ノルウェーに留学していた人が、「ノルウェーだって、家族でないと生きていけないんですよ」と言う。
 仕事よりも家族を重視するため、仕事をサッサと済ますといそいそと家に帰る。それはいい。問題はクリスマスである。
 クリスマスの夜に、ノルウェーでは家族のいない人の自殺が多いのだという。
「ノルウェーの人口は?」
「470万人」
 Mixiより少ない。
 しかし、一つの国なのである。
 そこでは、国民はお互いに見な知り合いのようなものであり、だからこそ結婚していないと孤独なのだそうである。
 結婚する動機の中に、日本人でも「みんながするから」というものがある。
 しかし逆に「みんながしているから」自分もしないということもあるのだろう。
「みんなが給食費を払っていないから、私も」とか。
「高校の同窓会に行ったら、みんなが結婚していなかった」という女性がいて、42歳である。みんなというのは全員ではない。過半数のことである。
 42歳で女子の過半数が結婚していない高校は、偏差値の高い高校である。東京にある。
 偏差値が高くなると女性が結婚を遅らせるのは、シンガポールでも同じである。パリでも同じである。

 女性の序列

 女性はそのライフ・コースによって序列が決めらてると女子学生は言う。
 一番低いものから並べてみる。
○1 地方に住み。高校中退して、でき婚をする。
○2 地方に住み、地元の専門学校か大学に行き、地元の人と結婚して、共働きする。
○3 東京の大学を出て、対等婚をして、働き続けるか専業主婦になるかを、子どもができた時に決める。
○4 東京の大学を出て、上昇婚をして仕事を辞め、好きなことを仕事にして、好きな場所(海外とか)に暮らす。
 生地・学歴・相手の地位・仕事の選択と、4種類のフィルターがあるが、最も恐るべきものは、「高校中退・できちゃった婚」という人生である。何もクリアしていない。
 女性の地位は、つきあう相手のクルマの車体の高さと比例しているのである。
 地方というのは、もはや若い人に捨てられている。仕事がないのだ。第一次産業の政策の失敗である。地方で安定就職するなら、教員が電力会社しかない。

 女子は「でき婚」をして離婚して実家に帰り、バイトの掛け持ちをすれば平均月収10万円だが、シングルマザーとして東京に出れば、キャバ嬢になって月30万円は稼げる。
彼女らの夢が、結婚して専業主婦になることであるのは当然である。

 時代は平成だが、明治や大正と何ら変わってはいない。
 地方で、専門学校や大学を出て、地元の人と結婚しても、地方の会社の給料は安く、共働きを続けるうちに、子どもには東京の大学に行かせたいという願望が生じる。

 地方の高校が結構東京の私立大学の指定校になっているのは、大学にすれば、地方の純朴な学生は堅実なお客様だからである。
 かくして○1と ○2の層でも「中心志向」が進行している。

 結婚前まで内幸町(うちさいわいちょうと、と読む。勤務先としては都心中の都心)のOLだったのに、結婚したら夫が仙台に転勤になり、そこで暮らしている主婦がいる。「毎日、泣いている」そうである。早く東京に帰りたい。こんなはずではなかった。内幸町と比べれば、街の景色は貧しすぎる。つまりは自分が惨めに思えるのだ。
 そういう「中心志向」もあるので、○3も該当する。
○4は、もとより海外を除けば、東京にしか暮らせない。身体と頭脳が「中心仕様」になっているからである。

 世界の中心はどこなのかは知らないが、日本の中心は東京である。
 地方の農家の嫁不足のために、村を挙げて「お見合いツアー」とか「体験農業」とかをやっているところがある。しかし、嫁の来ない家にも、半数は娘がいるはずである。娘が都会のサラリーマンと暮らし、農家に嫁いでいないなら、そこの息子に嫁を求める権利はないと思う。

 自分の娘は都会に逃しておいて、自分の息子には他人様の娘を欲しいというのは、「中心志向」の悪用である。自分が娘に望むものは、他人も娘に望んでいると想像しなければならない。

人間は感情の生き物だが、「中心」にいると高揚し、「周縁」にいると抑うつになる。「周縁」というのは田舎のことであり、そういうことは男性ではなく女性の方が早くから自覚している。ああ、こんな土地を早く出て東京に行き、自由に生きたいと、今現在でも日本中でどれほど多くの女の子が夢見ているだろう。
 彼女たちは自分の感情を意識している。

 女性は子どもの頃から、大人になれば「いつかは家を出ていくもの」と知らされている。それは「女らしくしなさい」というメッセージと反対のものにもなりうるのである。

 男子は家にいて、女性はその家から出る。移動することを運命づけられる女性は、子どもの頃から土地の序列に敏感になり、大きくなったらどこに住みたいかを想像する。
 結婚はその夢の代理的な実現である。夢と全く一致しない結婚なら、確かにする意味はない。それでも、ずっと一人で生きることは耐えられない。この引き裂かれ感を、とりわけ女性は意識しないではいられない。

 結婚がタクシーで来るとき

「いい人がいたら、結婚したい」というのと、「結婚したいから、誰か紹介してください」と言うのでは、その切迫感において天と地ほどの差があるものだ。
「いい仕事があったら、就職したい」というのと「就職したいから、仕事を紹介してください」と言うのと同じである。
 就職においてなら人は「選ばない」という表現を臆せずすることができるのに、結婚なら「選ばない」という覚悟は容易に身につくものではない。「結婚したいから、どんな人でもいいから紹介して」と誰も言わない。どんな人でもいいなら、紹介は要らないはずである。
「自分は別に結婚否定論者ではない。ただ、だれでもというわけではない」というのが、大方の意見であろう。もっとも、「贅沢は言わない」という人はいる。

 ただ、その贅沢ではない範囲が、結果的にはものすごく「高い理想」になっていることがしばしばあるのである。厄介なのは、それが当の本人だけではなく、紹介の依頼を受けた人にとっても無視できないような合理性を備えていることにある。

「結婚したい。贅沢な条件は言わないから。生物学的に男性なら、誰でもいいから」と、紹介を頼まれたことがある。40歳になったばかりの女性である。仕事ぶりは優秀で、家事も万全にできる。性格も文句のつけようがない。

 贅沢な条件

「絶対に、男性なら誰でもいいんだよね?」と、念を押す。
「いゃ、一応、北海道や鹿児島に住んでいる人を紹介されても困る。東京から会いに行くのに毎回飛行機でいくのは経済的にも大変だし」
「それもそうだよね」
 先ず「関東地方在住」という限定がついた。その時点で、条件に敵う人は、人口から言えば、半分以上が消えてしまうことになる。
「身長は問わない?」
「いや、一応、私が見下ろすのは、困る。170はあってほしい。
 170センチ以上で、これまた何割かは消えてしまう。
「年齢は?」
「私と、5歳くらい離れているぐらいがいいかな」
「ということは、40代半ばか30代後半」
「うん」
「体重は?」
「90キロならいい。120キロは困る」
「顔は?」
「愛嬌があれば、拘らない」
「学歴は?」
「一応、聞いたことのある名前の大学なら。あ、でも、常識のある人なら、大学には拘らない」
「常識のある大卒の人で、関東地方に住んでいて、デブではない、栃木県のいちご農家のひとでもいい、と」
「いきなりイチゴを栽培しろと要求されても‥‥。第一次産業には今から入っていけないし。仕事も辞められない。一応、サラリーマンがいい」
「サラリーマンなら、ハゲでもいい?」
「ハゲはちょっと。薄毛ならいい」
「埼玉県の端っこでも千葉県の海沿いでも、薄毛のサラリーマンならいい。農家は困る、と」
「いや、アクアラインで出勤するのは困る。東京23区かその近辺なら、商家でもいい。いきなり蕎麦の出前とか行けと言われないようならいい」
「出前のない商家なら、駅前商店街の布団屋でもいい」
「いや、一応、イオンの進出していない、シャッター通りでない商家ならいい」
「さびれていない駅前の商店街なら、店の2階に寝たきりの親がいてもいい、と」
「いや、一応、親には別の家に住んでいてほしい」
「収入は?」
「一応、そこそこあればいい。私の収入を当てにされるのは困る」
「家事は?」
「全くしないというのは、ちょっと。一応、最低限のことは自分でできる人がいい」
「バツイチでもいい?」
「バツイチの方がいい。ただし、子どものいない人がいい。あと、前の奥さんと死別した人は困る。生別れでもDVは絶対にイヤ」
「趣味は?」
「ギャンブルは困る」
「煙草は?」
「吸わない人がいい。ああ、でも外で隠れて吸うのはかまわない」
「お酒は?」
「アル中でなければいい」
「話は?」
「全く喋らない人は困る。コミュニケーション能力は普通にある人がいい」
「新聞は?」
「無購読層でなければいい」
「ネットでニュースは読めるよ」
「一応、子どもの頃から家で新聞は取っていた人がいいという意味」

 あなたは本気ではない

 彼女のいう条件の一つ一つについては、私も納得できないわけではない。しかし、条件を一つ出すたびに、色紙を半分に切っていくことになる。2分の1から4分の1、4分の1から8分の1と、どんどん色紙を切っていくうちに、最後はピンセットでつままねば取れない金箔の小片になってしまう。
 贅沢は言わないというが、無条件に結婚することは不可能なのである。
「ねえ、今、何分の一になった?」
「覚えてない」
「確率論的にはいないことになるよ、そういう人」
「そうかなあ。読書好きの実直な地方公務員の人とか、いない?」
「東京23区近辺に? 確率からいうといないことになる。独立行政法人なんとか機構の研究員とかだったら、セックスレスでもいい?」
「絶対に、子どもは作れないと困る。そこは譲れない。何のために結婚するのか分からないでしょ」

 女性が結婚する最大の理由は子どもを産むことにある。
 しかし、条件に敵う相手が奇跡のように存在したとして、先方にも条件があるだろう。
 40代の男性は、20代後半とか30代前半の女性を希望する。女性が40代なら、男性は50代後半とかまで、条件を下げなければならない。
「私、老後の世話をするために結婚するんじゃないよ」
「そりゃそうだ」
「もし50代だとしたら、子どもが成人する時には、父親が70代でしょう」
「幼稚園の運動会のパパの競技に、なぜおじいちゃんが出ているのかと言われるでしょうね」
 この場合、彼女の条件が贅沢であると批判することが、私にはできない。一つ一つは普通でも、全部合わせると普通ではないという不思議なことが世の中にはあるのである。

 彼女の部屋は「美しい部屋」のグラビアのように美しいし、料理の腕もプロ級である。結婚生活を送る能力や技量はすべて揃っているのに、たった一つ、本気で結婚したいという気持ちだけが起こらない。
「結婚したいというのは、本気じゃないでしょう?」

 世の中には、結婚制度を自明視して何の疑いもなく結婚していく人がいる。そういう人は、条件のうちの何かを最初から諦めている。諦めているからこそ、現実の結婚ができるのである。
 本気で結婚したければ、妥協すればいいのである。
 条件を云々している間は、結婚できない。

 そう思う根拠になるような出来事があった。
 以前から、40代前半のある男性から「結婚したいんですが、誰か紹介して頂けませんか?」と言われていた。
 私の教え子の高校時代の同級生が東京に遊びに来た時である。30代後半の彼女も「結婚がしたい。子どもが欲しい」と前から訴えていた。「そうだ、あの彼がいる」と、携帯に連絡してみたのだった。
「今、外苑東通りにいます。すぐにタクシーで行きます」
 10分後に彼は店に到着し、同級生の二人の女性が並んで座っている向かいの席に腰を掛けた。いつものように髪には寝癖がついている。
「はじめまして」と、二人の女性が彼と挨拶を交わした。
 目の前にいる同い年の二人のどちらが自分に紹介された相手なのか、その時点で彼はまだ知らないはずである。
 が、彼は正しい方の相手を真っ直ぐに見て、自分の仕事内容と給与、そして住所、実家のある場所、家族構成、大学での専攻などすらすらと話し始めた。

 相手が結婚に対して本気なのかどうか、人間にはすぐに分かるものである。目の前に二人の女性がいるが、一人は自分に向かって心を開いている。真剣さが伝わってくる。そんなことは、互いに瞬時に分かることなのだ。

「釣書」の内容に必要なことを適確に話す彼は、普段は雄弁な人でも流暢な人でもなく、むしろ控え目で訥々(とつとつ)としたどちらかと言うと不器用な人である。
 彼女もまた家族の事や生い立ちを語った。

 それは、相手を自分の配偶者として選ぶという前提のもとである。自分を包み隠すことのない素直さのために、友好的で温かい雰囲気の中で、結婚は30分以内に決まった。
 恋愛でなく、結婚というのはこういう風にも成立するものなのだ。結婚を本気で必要とするなら、人はこのように結婚していく。結婚は運命ではなく、決断である。
 彼はタクシーの中で、今から会う人を選ぶことを心に決めてきたと思う。今は2児の父である。

つづく  第3 西萩夫婦
 退屈というものを最初に経験したのは小学1年の時だったと思う。