ロマンチックラブの夢破れたら、離婚すればいいだけのことだ。アメリカのハリウッドのスターたちをみていると、そんなシンプルな結論の実践者であることがわかるだろう。別れることさえできれば、未知の世界が待っているはずだ。それまで疎遠だった女友達との交流も再開し、職場では新しい出会いが待っている。そのなかには、異性との出会いもあるかもしれない。新たなロマンチックラブの登場というわけだ。
本表紙信田さよ子著引用
ピンバラセックス、セックスレス、離婚、アルコール依存症、摂食障害、DV、こどもの虐待、結婚、性、夫婦像、バブルが崩壊、新婚生活、ロマンチックラブ、カウンセリング、カウンセラー、夫の浮気

第五章 生き延びるための「技術論」

別れられない人のための「しのぎの生活」

「迷う」という前進
 ロマンチックラブの夢破れたら、離婚すればいいだけのことだ。アメリカのハリウッドのスターたちをみていると、そんなシンプルな結論の実践者であることがわかるだろう。別れることさえできれば、未知の世界が待っているはずだ。それまで疎遠だった女友達との交流も再開し、職場では新しい出会いが待っている。そのなかには、異性との出会いもあるかもしれない。新たなロマンチックラブの登場というわけだ。

 しかし多くの女性は、たやすく離婚を選択できるような状況できない。だから、単なる「夢破れた」などという表現では不十分なほど傷つき苦しんでいる事態(夫の浮気や暴力など)に遭遇すると、どうしていいのかわからなくなる。私たちのセンターにお金を払ってまで訪れる人たちの多くは、そのような女性たちだ。長年の夫の暴力、借金、浮気、アルコール依存症などに苦しみつづけ、それでも耐えようとがまんし、さまざまな努力をしてきた。けれども苦しみは、去らず、やっとの思いでカウンセリングというものを生まれて初めて受けるのだ。

 夫たちは「ひどい男」である。夢を破っただけではない、妻の体に傷をつけ、妻の結婚時のお預金を使い、嘘をつき、他の女と関係を持ち、そして尚ものうのうと「亭主である」という顔を平気で日常生活を送っている男たちだ。にもかかわらず、「離婚という結論だけは避けたい」という訴えがほとんどなのだ。

「離婚する方法もありますね」とすすめても、多くはためらう。ためらうのであれば別れない方がいい、というのが私の態度だ。私たちは離婚斡旋業ではないので、離婚せずに暮らしていこうとする人たちを援助するのも仕事の一つである。年齢、経済力などの諸条件を考えた時。結婚生活にどのような苦痛があったとしても、とりあえずは妻の座を維持している方がいい、というのも一つの決断だろう。
 散々迷った挙句、「離婚しない」と決める女性は多い。その場合の一番の問題は、「ひどい男」とこれから先、どのようにして同じ屋根の下に暮らしていくかということだ。

「要するにカネだね」「カネがすべてか」という言い方されることもあるが、それではいったい今の政治家や企業社会においてだれが、どれほどの男性がカネを無視して「純粋」に自分の生き方に迷うことができるだろうか、と言いたい。

 一度でもいい、とにかくどうしたらいいのかと迷うだけで十分ではないか。日常生活の麻薬のような力に抗して、その中で「新たな人生を探そう」と考えるだけで、私はその女性を支持したいと思う。

「心のもちよう」ではだめ
 では、その後の日常生活をどのようにおくればいいのか。私はそれを「しのぎの生活」と呼びたい。つまり、できれば一緒に暮らしたくない夫と、どのように日々の日常生活を送るかという技術論である。

 もともとはいやなことを無理矢理やっているのだから、それによる被害も生じるだろう。ストレスや恨み、人生への呪詛(じゅそ)、他人への醜い支配、復讐などがその人の人生に充満していく。これらの感情は、それを抱かざるを得ないという必然に対して承認が与えられ、そしてそれを耐えることに意味を与えることで初めて抱え込めるようなしろものだ。そうでなければ「神から与えられた試練」だとか、「これが運命」という諦めによってでしか受け止める事は出来ないだろう。

 しかしそう思えないとき、これらの感情は、目に見えない形でその人を少しずつ腐らせていく。その腐り方はたとえて言えば、鉢植えの植物が根腐れしていくようなものだ。葉の緑きれいに見えるが、根っこのところで変質が始まっている。そして気づいたときは、葉や根を支える部分が完全に腐食している。
 それを防ぐ手立てはないだろうか。

 それは決して「心のもちよう」「気分次第」といったものではない。はっきりとした方法や技術が必要だ。意識すればその技術は向上していく。自分の中の腐食を拡大させないために、生活の技術を獲得し、それを向上させる努力をしていかなければならない。

「人生は何でも心のもちよう」という人ほど。実は自らの人生を呪詛と恨みで塗り固めている人が多いのも不思議なことである。

演技力をみがこう

 私が真っ先に提唱したいのは演技力である。自分が感じていることと、自分の表情、自分の言動を別のものにするということである。

 なぜなら正直にそれを出してしまえば、相手は傷つくだろうし、関係を維持していくという当初の目的から外れてしまうからだ。騙すのか、嘘をつくのか。と非難するいる人もいるだろう。しかしそもそも。結婚生活は破綻してしまっているのだから、あとは虚構を作り上げていくしかないのだ。

 虚構がいけないのか、それは騙すということなのか。自分の気持ちと言動を一致させなければならない、などという強迫観念に囚われる必要はない。小さな子どもですら、その場に応じて、親を傷つけないように言動を臨機応変に形成していくのではないか。私たちの考える私自身というものは、このようにして演技しながら獲得されたものが殆どだと言っていいだろう。

 日々、「ひどい夫」と暮らしていくためには、気分とは別に「にっこり」と微笑んだり、嫌な事でも「いいわよ」と答える技術が必要になるだろう。そのとき、それをはっきり技術と自覚することが大切だ。決して、「自分は嘘をついている」「欺瞞の夫婦生活を送っている」「私たちは仮面夫婦だ」などと考えてはいけない。次第に笑みも上手に浮かべられるようになったら、「私の演技力、しのぎの技術も向上したものだ―」と自分で自分を評価してあげよう。
 嫌な夫と暮らしていけば、さまざまな弊害が出てくるのだということを自覚しよう。
「ひどいことをされたけれども、いったん選んだら人だから。この人にもいいところがあるはずだ。だから嫌なところは見ないで、いい所だけ見ましょう」

 こんな屁理屈は誰でも言える。はっきり言おう、そんなことは不可能だと。
 いい所だけ見る、などという出来もしないことに努力しても失敗するのは目に見えている。それよりも自分がテレビドラマの登場人物であるように意識し、優しい妻を演じることのほうが、日々の生活をしのぐには有効だ。

 相手を刺激しない受け答えができるよう、訓練しよう。私たちの行動、発言といったものは、トレーニングによってある程度形づくることができる。対人恐怖の傾向をもつひとが、ハンバーガー店でアルバイトをすれば、相手の目を見る事が出来るようになったり、大きな声が出せるようになるのだ。

「本音」とか「本当の私」などに捉われることなく、演技を徹底することで生き抜こう。そのためには、アカデミー賞ものと言われるくらいの演技の洗練が必要である。それが習慣化されてマニュアル化されれば、もっと容易に演技することが出来るようになるだろう。

 別れという選択が不可能な女性たちは、このように演技することで、自分の犠牲を最小限に抑えることが出来るのではないだろうか。結婚とはもともとリスキーなのだから、どんな夫婦でもリスクマネジメントがあって然るべきで、危険や犠牲を最小限にとどめることこそ、結婚生活に必要な技術といえるだろう。

夫の知らない秘密をつくろう
「秘密を持たずに何でも話して何でも共有していく、これこそが夫婦の姿だ」
 こんなことを率先して言うのが一定程度の年齢以上の男性(オヤジと呼ばせてください)だ。なんて罪作りな発言だろうと思う。そのくせ、自分が唱えた家族像(あるべき家族の姿)を一番最初に壊していくのもオヤジだ。だれが「飲みに行った先で店の女の子のお尻やオッパイを触った」などと言うだろうか。だれが「ゴルフの帰りに、とある女性とホテルに行った」などと言うだろうか。

 男性は家族をつくるとき、つまり結婚するときに、ダブルスタンダードを抜かりなく用意して結婚する。「結婚は人生の墓場」と言うたとえは、妻以外の女性との関係を禁じられてしまいした、ああなんという無味乾燥な‥‥という男の感慨から生まれた。それは、「妻以外の女と関係はタブーではない」ということの裏返しなのだ。妻の側が「これで夫以外の男性との関係が禁じられるなんて、墓場のような人生」と感慨を抱くことは、そもそもこの例えには含まれていない。

 だから結婚生活をとりあえず維持していくには、積極的に「秘密」をつくることだ。夫が知らないこと、夫に言えない世界、これらを日常生活の中でもつこと、これが夫とバランスよく暮らすためには必要だ。

結婚は壮大なるフィクション

 配偶者であるひとの背後に広がる茫漠(ぼうばく)たる世界、それはたとえ妻(夫)であったとしても、決して手の届かないものだ。たとえストーカーのような二十四時間張り付いていたとしても、夫(妻)の考えていることは把握する事は出来ない。

 そのことを認めるのは困難なのは妻のほうだろう。夫の背後に広がる自分の手の届かない世界、自分の思いも及ばない世界は承認できないだろう。なぜなら「夫は私のもの」であるはずだからだ。そしてもちろん「私は夫のもの」でもある。

 では夫はどうだろう。夫はそれ以前なのだ。そんな世界があることすら考えていない。なぜなら自分にとって意味を持たないからだ。意味のないことに関心を持たない。妻が何を考えていようと、時にはどんな髪型をしていようと「関係ない」。なぜなら夫は妻を所有していると確信しているからだ。

「女房ってさ、家の飼い犬とおんなじだよ。行動範囲が犬とおなじなんて驚いちゃったよ」
 と笑って語った男がいた。そう笑う彼の顔は決して侮辱に満ちていたわけではない。むしろ慈愛に満ちていたといってもいいだろう。自分が一所懸命仕事をして帰ったら、そこにいてくれる妻、その妻はそれほど難しいことを考えているわけではなく、行動範囲も愛犬と変わらないくらいのテリトリーなのだ。だから(ここからポイントだ)、「俺は妻を守ってやらなくてはならない」。

 そうか、あんたは妻を半人前にして置いて(そりゃそうだろうな、何十年も家事と育児に縛り付けられれば時間はそこで止まっているだろう)、「半人前だから自分を離れては生きていけない存在だ」と言い、だから守ると言う。それが愛情だと確信しているのか…。

 何の作品であったかは忘れたが、太宰治がこう言った。
「かわいそうったァ、惚れたってことよ」
 そういう意味からすれば彼は妻を愛しているのだ。かわいそうと思っているのだから、惚れていることも言えるだろう。

 多いのが良心的夫、誠実に生きて家庭を守ろうとする男性の考えていることは、このようなことだ。思わず犯してしまった罪(相手の女性の一生を自分が左右してしまった、社会的力を奪ってしまった以上は守ってやらないという責任感でもある)を償いつづけるのが結婚生活でもあるかのようだ。彼らは自分が加害者にならないように巧妙に仕組んでいる。だって自分のやっとしまったことを生涯かけて償うんだから!

 女性から、あらゆるものを「愛」という名で奪っていく。若さ、仕事、判断力。人間関係の力、それが結婚生活だ、と言ったら言い過ぎだろうか。しかし、実は妻たちはよくわかっているはずだ。その事を見ないようにしているだけなのだ。

 でも奪っている男性のほうが、そのことをほとんど自覚していないとは、どういうことだろう。奪ったという自覚ないどころか、「養ってやった」「だれのおかげで食べられるのか」などと論外のことばを吐く。多くの男性はそのことにきわめて無神経だ。

 平気で浮気して、責められれば逆ギレして「お前にも責任がある!」と叫ぶ。妻が負けずに反論すると暴力を振るう‥‥。ああ、もうこんな男のことは書きたくない。なんだか書いている自分がどんどん汚れていく気がする。

 このように最低な男でなくても、結婚制度というものは男性が自分の世界(多くは経済力を伴う仕事)をもち、その中の一部として家族というものがあり、だからこそその家族を経済的に支えていく責任をもつ、という構造から成り立つ。妻のことを「犬とおなじだ」と、ほほえましいこととして語った情景は、このような制度の反映としてある。そして彼がもし他の女性に心を奪われたとしても、それを徹底的に妻に対して隠しつづけるだろう。多くの男性は浮気(不倫とでも言うのだろうか)をするしかないのではなく、それをどのように隠し通せるかどうかが問題と考えているのではないだろうか。

 なぜ隠すのか。それは妻が傷つくからだ。そして自分のテリトリーの中に囲い込んだ女性の人生を「預かった」のだから、その女性を不幸にしてはいけないのだ。だから隠すのだ。
 私は多くの不倫に悩む男性や女性に会ってきた。一夫一妻制においては、それを「する」こと自体が契約違反であることは言うまでもない。けれどもその中で、妻を傷つけないために「隠しつづける」男性が、ランクとしてとりあえずは最上位となる。

 しかし、よーく考えてみよう。
 このような責任を夫が感じてしまう存在とは何だろう‥‥と。囲われること、自分の人生に責任を感じてくれる男がいることは、喜ぶべきことなのだろうか。結婚を制度として考えれば、それらの男たちの行動は、制度を形成したことに対する責任を果たす行動かも知れない。感情のレベルはどうであっても、制度を維持すること、その制度によってみずからが女性から奪ったものへの責任を果たすこと(これも男という性が背負わされた役割なのだが)。これが男にとっては「夫婦をまっとうする」ことなのだ。

 一方、女性はそのようなことはつゆ知らず、夫の誠実さを信じ、その夫が経済的に自分守りつづけてくれることを感謝し、夫を立て、夫より多くの時間を家事に割き、生きていく。それが女性にとって「夫婦をまっとうする」」ことなのだ。

 結婚はこのように、言ってみれば壮大なるフィクションである。
 このフィクションにおける男と女の違いは、意図せずして踏み込んでしまった制度の罠をどれくらい意識しているかどうかという事だろう。男は制度の担い手である分だけ、その事についての意識は鋭敏だ。フィクションを自覚し、確信犯として生きる。

夫との圧倒的な力の差を自覚しよう

 私がここで主張したいのは、女性も結婚が制度でありフィクションであるということを自覚し、もっと鋭敏にならければならないということだ。夫に人生の責任を感じられてしまう存在であること、夫から「ぼくは君を守ってあげなくては」と思われていることが、実は私たち女性から何かを奪っているのではないか、ということだ。

 それはまるで親子関係の変形ではないだろうか。幼な子を守るというのは両の手にしっかりと抱きしめることだ。それと同じことを夫が妻に行うこと、それが果たして妻を愛していることになるのだろうか。
「守る」とは、親から子へと、ある一時期行われる関係性である。それは圧倒的な力の差を前提とされていること、このことに妻の側は無自覚である。
 DVにおいて、殴られる女性がしばしば論理的表現能力をもち、自己主張する人たちであるということをどのように考えればいいのだろうか。つまり夫の側が前提としている力の差を、女性の側が縮めることによってDVは起きていると考えられないだろうか。

 そのような差、つまり非対称的な、いってみれば不平等な関係から発生する、まるで恩寵(おんちょう)のような思いやりや責任感を「愛情」として受け止めるように女性たちは躾けられてきた。
 そんなものは必要ない、と言ってしまうのは簡単だ。しかしそう言ったとたんに「かわいげのない女」となる。

 私たちは、男たちからの思いやりをありがたく受け止めてあげなくてはいけない。そして、「この思いやりがあったから、庇護(ひご)があったから、今日の私のしあわせがあるのだ」と主張してあげなくてはいけない。それこそが夫への思いやりである。
 このような思いやりを持ちつづけるには、守られている存在として自分を充分自覚し、そしてそういう演技をしつつ、その実、夫にはうかがいしれない自分の秘密を持つことだ。

 秘密とは、なんといううっとりとすることばだろう。「自分の世界をもちましょう」などという、そんな使い古したことばはもう捨てよう。
 男たちが妻に決して分からないように、それこそが思いやりで愛情であるとして隠しおおせるように、妻たちも秘密を持ち、それを隠し通せるようにすることだ。

 親に秘密を持つことが子供の成長の証だと言われるように、悲しいことだが、夫に秘密を持つことが妻が不幸な生活を凌でいく重要なポイントとなる。
 どんな秘密がいいだろう。夫が一番傷つくことでなければ、秘密にする価値はないだろう。たとえばキャビアを一瓶買ってしまったこと、これは秘密になるだろうか。ケチな夫なら血相を変えるようなことかもしれない。しかし一般的には、自分が夫の所有ではなくなること、つまり「他の男」を愛しているということ、これこそが最大の秘密に違いない。
 ここでもう一度、念を押しておこう。

 男たちの多くは、結婚に対して女性ほど期待をもっていない。自分の人生の一部にしか過ぎないからだ。大多数の男性にとっては、どのような妻と結婚したのか、ということよりも、仕事において自分が何を成し遂げたかが大きな問題なのだ。「だれそれの夫、ここに眠る」などという墓は見たことがない。だれそれの夫、だれそれの息子といった署名のうたは読んだことがない。

 このように、「愛で結ばれた結婚」というフィクションのベールを剥ぐと、男と女の実に不平等で非対称な現実がぬっと顔を出す。それをじっと見つめて見る事だ。
頑張ってちゃんと見てみよう。演技力を修得し、たとえば本書を読んだことをきっかけに、さまざまな本を読み、言葉と知識を獲得し、女友だちをつくり、そして積極的に「秘密」をつくろう。そうやって残りの人生を凌いでいくのも、また一つの道である。

「無いものは無い」からの出発

「知」が無ければ操り人形になる
 ちょっと難しい言い方になるが、「自覚された生存戦略は肯定されなければならない」と思う。

 自分がこういう境遇にあり、こういう選択をして、こういうつまらない夫と、砂を噛むような生活をしているということを自覚したうえで、「でも、今の私はここで生きていくしかない」という生き方は肯定されるべきで、それに対して、私たちは文句を言うべきではないという意味だ。

 重要なのは、自覚があるかどうかだ。ここまで私が散々書いてきたように、自分の傷つきを子どもや夫を支配することによって忘れようとしたり、それ以前の問題として、自分はこれまで信じてきた「ロマンチックラブ」はイデオロギーにすぎないのだということにも気づかないとすれば問題である。支配の連鎖を生み、無意識のうちに加害者となる危険性をはらんでいるからだ。

ではどうすれば自覚できるのか。まず、知識がなければならない。自分の生きづらさを誰のせいだと思わずに、民法の中で女はどういう扱いを受けているのか、結婚制度というものがどのように生まれてきたのか。今の私たちが当たり前だと思っているさまざまな人間関係が、実は制度によって支えられているのだということを知る必要がある。

 私は、それが教養というものだと思う。カルチャーセンターに行って、『新古今和歌集』の歌を覚えたり、俳句を作ったり、油絵を描くだけでは教養ではない。
 本来は、結婚前に勉強しておくべきことだが、学校でも教えないから、そんな制度の存在など知らずに結婚になだれ込んでいくことになる。

 ある人が、「人は宗教で死ぬのか、教養で死ぬのか。ぼくは宗教を信じないから、教養で死ぬ。だから、いろいろ知識を身に着けるのだ」と言っていたが、たしかに「知」は私たちを助けるものだと思う。「血」がなくなると人間は死ぬ。「知」がなくなれば、人間は操り人形になる。

 知識は、自分が確信したものを揺るがす。揺るがされているということは、いつまでも若いということだ。「男(女)というのは、そういうものだ」と言ったとたんに、その人はたとえ二十代でオヤジになる。「だって、結婚はするものでしょう」と言ったとたんに、その人はオバサンになる。

 安定しているようで、揺らいでいる。なぜ揺らぐのだろう‥‥というふうに、いつも思っている事の方が、一本十万円のコラーゲンを注射するよりもあなたを若返らせる、ということだろう。

 揺らぎつづけるために有効なのが、異議申し立ての発想であるフェミニズムだろう。男性たちは、フェミニズムの「フェ」と言っただけで、「へッ」と言って拒絶するが、「これでいいのか」という異議申し立ての思想は、男にとってもオヤジにならないために必要なことなのに、といつも思う。

 フェミニズムはまた、弱い者、少数派、排除される人たちをすくい上げる思想だと私は思っている。だから自分の中に揺らぎを感じると同時に、「私たちの行動によって、少数派として追いやられている人達がいるんじゃないか」「もしかして私自身が少数派なんじゃないだろうか」ということをたえず問いかけていくことができる。フェミニズムは、男が悪いとか、女は被害者だという、そんな硬直した思想ではなくて、もっと非常に柔軟なものであると私は理解している。

「まだある」と信じているひとたち

 底の見えない不況が日本を覆って久しい。「これで底を打った」という政府発表が何度反古(ほご)にされたことだろうか。数年前の正月の新聞には「春には景気の上向きが予想されます」などと書かれていたことを思い出す。そして春がきて、景気はさらに悪くなった。皇室に皇系誕生があれば景気は浮上するだろう、などという期待は一瞬にして裏切られた。
 アルコール依存症でも「底つき」という言葉を使う。
 酒を飲んでいくうちに、家族関係が悪化し、健康を害し、仕事にも悪影響がでる。

「ああ、こんなことをしていては自分はだめになってしまう」・・・・そう思って「酒をやめよう」と断酒の決意をする、そうしてめでたく酒をやめることができた。そのとき、「あれが自分にとっての底つきだった」と振り返ってつくづく思う。つまり、とことんやりまくってどうしようもない地点に辿り着いて、人生の方向転換をしなければ、と思う地点を「底つき」というのだ。

 まるで日本の景気もアルコール依存症のようだ。とことんだめになり、膿(うみ)を出し切ってしまわなければ変わらないのかもしれない。

 しかし、例としてあまり的確でないかもしれないが、アルコール依存症の人たちは「でもまだ可能性があるのでは」と考えている。「自分だけは何とかうまく酒が飲めるのではないか」と。鏡に映る赤黒く変色した自分の顔や崩壊寸前の家族を目前にしても、「いや、そんなはずはない」と酒を飲んで幻想の世界に生きる。

 会社の為に人生の三十年近く捧げてきた。社名を自分の姓のように思って生きてきた。自分の人生を守ってくれるのも会社だし、会社が作り出すワールドの中を漂うことを「仕事」と称して日々を真面目に遂行してきた。その会社が、自分にとって世界そのものだった会社が、まさか自分を必要ないといって切ってしまうとは、切り捨ててしまうとは。いや、そんなはずはない。自分あっての会社とまでは思ったことはないが、少なくとも会社にとって自分は必要なはずだったのではないか。

‥‥だか、会社の為に自分が身を引くことが必要なのかもしれない。自分がここまで生きてこれたのも会社があったからだ。その会社が生き残るためには、自分が身を引かなくてどうする。ここで未練がましく抗議したり、組合を結成して反対運動などするなんて、それこそ会社の為にはならないだろう‥‥。

 こう考えて、職を失ったにもかかわらず毎朝ネクタイを締め、かばんを持ち、同じ電車に乗り、ターミナル駅まで辿り着く。遠くにかすんで見えるビルが会社のビルだ。会社は確かに存在している、自分はここで仕事時間の分だけ、時間をつぶさなくてはならない。

 こんなふうに、図書館、漫画喫茶、公園のベンチなどで過ごして、夕方暮れなずむころに帰宅する中年男性たちが多く存在するという。
「底つき」とは、彼らにとってどのようなことなのだろうか。会社への幻想に浸りつづけ、おそらくは、自分という存在が冷酷に切り捨てられたという現実を直視できないでいる人たち。
 この構造は夫婦においても共通してはいないだろうか。
 最初から信じることを放棄して、結婚に身を投じる人もいるだろう。しかし繰り返し述べてきたように、多くの女性は「愛」「性」「結婚」の三つが分かちがたく結びついており、その三つを維持して全うする子とこそが、「女の幸福」であるという信仰に全身を染め上げられている。
 この三位一体説が壊れてしまうことを受け入れる難しさと、会社に人生を捧げた男性が「お前はもう必要ない」と切り捨てられた現実を受け入れる難しさと、どこか似てはいないだろうか。

取り返しはつかないのだから
 無いものは無い、なくなってしまったものはもう取り返しがつかない、ということは、誰もが知っている。しかし実際に、それまでの人生を支えてくれていたものを取り払うのは、なんと大変なことだろう。

 たとえば敗戦の後に、まるですべてが失われたようになって、どうやって何を信じて生きていいのか分からない人もいた。ところが三ヶ月ほど過ぎただけで、まるで今までとは正反対のことを言うようになった人もいた。鬼畜米英からアメリカ民主主義への鮮やかな転換だ。

 一方で、生きるためには何でもやらなければ、とにかく食べるものを手に入れなくてはと必死で生きる人もいた。
 現在を敗戦時と同列に論じるのは問題があるかもしれないが、バブル崩壊を第二の敗戦という論者もいるように、ここ二、三年で起きている不況に伴う大量のリストラ、企業の倒産は戦後社会のこれまでもない変動だろう。

 あるはずのものがなくなった。さてどうするのかと考えると、いやになったはずがないと考える人と、もともとなかったんだから別にどうってことはないと考える人と、大きく分けて三種類あるだろう。このうちの三番目はとりあえず本書の対象から外している。こんな見事にロマンチックラブ・イデォロギーに染まらずに生きてこられた女性がいるかどうか、疑問があるからだ。

 オジサンにはたぶん家族がいるだろう。「何はなくとも家族は残っている」という、この実に能天気な思い込みが、多くのリストラ組の男性たちに土俵際で支えている。そうか居場所がこんなに身近にあったのか、と家族回帰してそばを打ち、妻に食べさせ、薀蓄(うんちく)を傾ける男性がいかに多いことか。

 じゃオバサン(妻)はどうか。結婚という制度を捨てたら何が残るのか、中年の、資格の一つもない、太ってシミだらけの容貌も冴えない女性がどうやって生きていくかというのか。つまりオジサンたちのように「最後は家族」という家族そのものにすでに裏切られてしまった人たち。夫に賭けたのに夫がリストラされた。おまけに異邦人だったはずの夫が自分の居場所として家族に戻って来る、その人を再び支えなくてはならないという人生を目前にして、さてどうするのか。

愛や性がなくても結婚は続けられる

 女性の方が底つきは早い。幻想の余地がないからだ。最後に帰っていく場所なんて最初から無いのだ。だとすれば、無いものは無い、なくなってしまうものは取り返しがつかないという地点から、逞しく生き延びることを考えるしかないのだろう。

「愛の無い結婚もある」「性の無い結婚もある」「夫と自分の間に越えがたい溝がある」といったことを直視し、そこから再出発をするのだ。
 愛のない結婚は解消しなければならない、という考え方もあるだろう。「好きでもない夫と暮らすなんてほんとうにいやです」という人も大勢いる。
 同じ空気を吸っている事すら耐えられない、同じ洗濯機で下着を洗うことも嫌だ、食器を同じ水で洗うのも嫌だ、夫が触った食器は熱湯消毒しなければ触れない‥‥。こんな夫婦が現実には多数存在している。

 じゃ、どうすればいいの?
 それは明快でしょう。別れることですよ、いやな夫とは別れるのが正解ですよ。
 こんな回答が、それほど非現実的ではない時代があった。バブルが崩壊しても、日本の経済成長が鈍化したくらいに思っていた人も多かった。

 ところが二十一世紀に入ってからは、底なしの不況の嵐が襲っている。リストラなどということばは日常語だ。カウンセリングを受けに来る人が「夫の会社がついに倒産しました」と言うのも珍しくない。
 そんな時代に、「愛がなくなったので」と離婚してどうなるというのか。慰謝料が取れればましだ、多くは住宅ローンが残っていたり、退職金も出なかったり、もう無い袖は振れないという現状なのだ。

 まして中年女性である。働いていたのは遠い昔で、パソコンなどない時代だ。ハローワークに行っても、必死の形相で仕事を探している中年男性の群れに恐れをなして入り口で引き返してしまうだろう。
 とすれば、ここで大きく発想の転換をはかることだろう。
 愛がなくも結婚は続行できる。なぜならそれは制度であるからだ。
 嫌悪感があっても、生きるためには仕方がないからそこに残り続ける。そしてそのことは「実に正しい選択だ」と胸を張って生きることだ。ないそのひと自身がよく解っていることはないだろうか。

 強い、弱いなど関係ない。強そうに見える人でも、離婚を実行するまでには、どれほど悩みどれほど深い、またどれほど勇気を振り絞ったのかは想像するに難くない。
「私にできないことをしたあの人は、偉いな」と素直に感じてほしい。これも「自覚」のうちだ。
 自覚するということは、恥を知るという事でもうる。
 夫に裏切られても夫の功績に寄りかかり、子どもとの関係の操作し、支配し、「安泰でしあわせよ」と自分に言い聞かせようとしていたけれど、それは決して胸を張れるような生き方ではない、それを自覚したうえで、妻として生きてほしい。

 結婚している人と結婚していない人と、子どもがいる人と子どもがいない人、別れた人と別れられない人と。経済力のある人と経済力のない人と、産業で働く女性、ヤンママと高学歴ママ‥‥。女と女の間に横たわる分断線があるかぎり、女が生きやすい社会にならない。

おわりに

 もう、言いたいこと、書きたいことは出し切った!という感じだ。実に爽やかである。
 本書に書かれたことが、とりあえずは現在、私が考えていることだ。そして来年にはもっと進化(退化?)しているかもしれない。そんな不安定さが私は好きだ。

 というものの、こんなに偉そうな、バーンと机をたたくような本を書いてしまったことが、どこか恥ずかしい。でも、恥ずかしいと感じるうちに大丈夫という気もする。

 本書には大勢の人たちが登場する。私に忘れられないような印象を与え、なぜだろうという疑問を投げかけ、腕を組んで考え込むきっかけを与えてくれた人たちだ。紹介するにあたっては、できるかぎりシチュエーションを変えて描写することにした。それは私の職業的倫理もあるし、プライバシーにも考慮してのことだ。でも、そのことで、いささかも登場人物のリアリティーは損なわれていないと思う。お読みになって、どこか自分の事のようだと感じて頂けることを願っている。

 その人達との出会いがあって初めて、さまざまな学問の抽象的定義を現実の問題に、具体的に事象に翻訳できたと思っている。生々しく、時には瑣末(さまつ)で、そして奇妙な出来事が家族の中では日々起きている。それらと、制度や学問の間の架け橋をつくりたい。それは私のカウンセリングを通しての、もう一つの欲望でもある。

 本書をお読みになったひとたちが、性別、年齢問わず、時には「ウーン」とうなったり、時には「すっきりした」と感じられたら、そしてなんとなく息苦しく、先の見えない現在をどこかで突き破り、まあ、とにかく生きていこう、と感じていただければ、私にとってはこの上なくうれしいことである。
 講談社の古屋信吾さんは、遠巻きに私を励ましつづけてくださった。また同じく松戸さちさんは、多忙にかまける私の怒りを一年以上掻き立てつづけてくださった。怒ると書けることをよ―く見抜いてのことである。おかげでどうやらここまでこぎ着けることができた。
 最後に、私を支えてくださったすべての人に、こころから感謝を述べたい。
 ありがとうございました。
 信田さよ子

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