夫との関係に傷つき苦しみ、絶望しても、この不況の時代を暮らしていくために離婚に踏み切ることなどできない多くの妻たち。「家族」とは、女が多く奪われ一生閉じ込められる「収容所」なのか? 愛などなくても、女が強く明日を生き延びるために――家族問題でいまもっとも信頼の厚いカウンセラーがおくる、知恵と戦略とは。

本表紙 信田さよ子著

ピンクバラ煌きを失った夫婦はセックスレスになる人が少なくない、特許取得ソフトノーブル&ノーブルウッシングは避妊法としても優れタブー視されがちな性生活を改善し新鮮な刺激・心地よさを付与しセックスレス化を防いでくれます

序章 「夫婦の物語」の落差

家族収容所 愛がなくても妻を続けるために

ピンクバラ信田(のぶた)さよ子 1946年、岐阜県生まれ。臨床心理士、原宿カウンセリングセンター所長。アルコール依存症、摂食障害、DV、こどもへの虐待など悩む本人やその家族へのカウンセリングを行っている。

はじめに
 私は、週刊誌依存症である。電車に乗るときなど、週刊誌を買わずにはおられない。
 週刊誌には明らかに男性誌と女性誌の区別があるが、私はどちらともよく読む。ある友人に、女性週刊誌を持っているのをとがめられたことがある。彼女はまるで汚らわしい物を見るようなめつきでその雑誌を見た。そして「よくそんな雑誌をわざわざ買ってまで読むわね」と嘆息した。

「ええ? どうしてですか。私、電車に乗りながら読んじゃうんですよ!」
 それを聞いた彼女は腰を抜かさんばかりで、「まあ、恥ずかしくないの!」と叫んだ。彼女に言わせれば女性週刊誌とは「美容院に行ったとき、時間つぶしにぱらぱらって見るくらいでちょうどいいのよ」というものらしい。驚いたのはこっちのほうだ。女性誌にはけっこう力の入った読み応えのある連載もあるのに。

 そんな女性週刊誌が力を入れているのが「結婚」に関する特集だ。「ウエディング情報誌」と名乗る月刊誌もあるくらいだから当然だろう。

 長年女性週刊誌を愛読して感じることは、結婚への夢を人生の希望の一つとして実にたくみに意識に刷り込む内容になっていることだ。有名デザイナーのファッションショーの最後に決まってウエディングドレスを着たモデルが登場する。それと同じように、人生最代のイベント、そうしきいがいで自分が主役になれる唯一の機会等々、たった漢字二文字なのに、それに込められる意味、思いは、計り知れないほど巨大なものがある。

 芸能人の婚約・結婚、その幸せそうな結婚式の光景、涙ぐんでカメラのフラッシュの前に誇らしげに見せる左手の薬指のダイヤの婚約指輪‥‥。こうして結婚幻想と同時に、「これで私たちは幸せのパスポートを手に入れたのよ」という達成感が写真とともに読む側に伝わってくる仕組みだ。

 結ばれた男女、その胸に去来するのはひとしく喜びだろう。それが偽りだとは思わない。しかし、「家庭に入る」という表現が女性だけに使われて、男性には決して使われないという事は、けっこう不思議ではないだろうか。
「結婚されたんですよね、おめでとうございます」
「ところで家庭に入られるんですか」
 なんて会話を男性と交わすひとはいない。当然この会話を読んだひとには、女性を想定するはずだ。
 三〇年以上前の話になるが、職場の同僚が結婚し、妻である女性がやがて妊娠した。彼女は公務員として働き、業績を上げているひとだった。給与も彼女の方が年上ということもあり、手取りは多かった。私は当然、彼が育児をするために休職するか非常勤になって、妻が働き続けると思う。そういう想像力自体がかなり変わっていたということに、当時の私は気づいていなかった。

「これでしばらく会えなくなるわね」と彼に言った。
「え? なぜ?」
「だって奥様、妊娠されたんでしょ」
「うん、保育所探しが大変でね」
「送り迎えのために車が必要かもね」
「ぼくは免許ないけれど彼女はちゃんとあるからね」
 ここまで話の食い違いが初めてわかった。
「ええ! 奥様が仕事をやめるの!?」
「そうに決まってるじゃん、しばらく生活は大変だけどさ」
 そのあと、私は収入の少ないあなたが休み、妻の彼女が生活を支えるほうがいいと主張し、そのことに同僚はいたく傷ついたのか、関係は最悪になってしまった。

 それから三〇年以上たった今、実情はかなり変わってきたことは認める。しかし根底にある。「結婚は幸せを約束するものであり、愛する人と結ばれることが人生最大の幸福である」という考えはそれほど変わっていないだろう・むしろ強化されたような気すらする。

 それをロマンチックラブ・イデオロギーと呼ぶ事も出来る。つまり「愛」と「性」と「結婚」の三位一体をもって女性の人生のしあわせとする強固な考えだ。そしてこのイデオロギーは、女性のほうが深く深く内面化している。男性はといえば、自分のイデオロギーとして持っているわけでもない。

 女性は「愛」と「性」と「結婚」の三位一体説を心の底から信じ、多くは夫の仕事を優先させ、その上に自分の人生をゆだねていく。いったん家庭に入って仕事を捨て、育児に膨大なエネルギーを注ぐには、そのことを正当化し美化するイデオロギーというか信仰がなければ無理なのだろう。

 このような女性の人生は、古くは「女三界に家なし」と讃えられたが。その時代と今と、どこが違うのだろうか。

 たった一人の男性の愛情だけを最終的信頼の根拠とするような、そんなリスキーな行為が結婚なのだ。
 その夢が破れたときどうするのか。
 アメリカだったら離婚するかもしれない。愛がなくなれば分かれる、そんなシンブルな男女の愛の幻想を維持していくだけの法的根拠を持っている国だ。

 しかしわが国ではどうだろう。四十歳、いや三十五歳を過ぎたオバサンが別れました、はい就職先を見つけました、などと、事は簡単には運ばないようになっている。
 また妻の座はそこに座っているときは決して見えず、それを離れて初めて見えてくる大きなセーフティーネット、セーフティーガードであったことに気づかされるのだ。そのことを予期する人は妻の座を離れることに恐怖する。

 現実的であることが、カウンセラーという私の仕事の大きな要素の一つである。たとえば夫が妻の信頼を裏切った時、妻が夫に嫌悪しか感じなくなったとき、単刀直入に「離婚しましょう」などという結論では対応しきれないのだ。別れたくない女性に対しては、別れることをしないですむ方法を考えていくのも私たちの仕事たである。

 本書は机上のノウハウではなく、現実に目を据え、変わらぬ現実があるのなら、その現実をしのいでいく方法を考えてみよう、というところからスタートしている。
 離婚するのがいいのかはわかっている。しかし現実には、それができない女性がなんと多いことか。解決法は離婚だけじゃない。といって、不満足な現実を前にあきらめてしまうのではない。まして、「これくらいだれでも経験していることよ」とみずからの不幸を勲章としていくのでもない、代替行為として子どもに望みを託すのでもなく、夫に復讐するものでもないもっと別の方法はないのだろうか。それを探るのが本書の目的である。

 これから読んでいただく本書は、かなりハードな内容だ、と思う。いつものことだが、私が文章を書くときは「怒り」がエネルギーになっている。もちろん本書も例外ではない。「もう! こんなことってあり?」という私の怒りの顔文字がいたるところにだまし絵のようにちりばめられている。

 なぜ夫婦を今、問題にしなければならないのだろうか。答えは簡単だ。「子どもが迷惑するから」である。男女二人の楽しみを奪う気は私にはさらさらない。しかし、その二人を見ながら育つ子どもに、夫婦である親は責任がある。日々のカウンセリングで、親の愛憎劇に有無をいわせず立ち会わされた子ども時代を語るひとに、数え切れないほど会って来た。

 どんな親だったか、を問う以前に、親の夫婦関係がどのようなものだったかに、私たちは計り知れないほど深い影響を受けている。だから夫婦について、正面から取り組んでみようと思ったのだ。

 本書に繰り返し登場するロマンチックラブ・イデオロギー、結婚幻想は、縮小するどころか、不況になってますます強大化し、蔓延してきたかのように思われる。そんな今だからこそ、結婚というものの実像、制度、そして危険性というものを、とくに女性はきちんと知らなければならないと思う。なぜなら、結婚でひどく傷つくのはたいてい女性のほうであるからだ。「今はとりあえず幸せよ」と感じているひとも、将来に向けての「保険」と思って、本書を読んでほしい。危険性を認知していればこそ、完全な運転ができるというものだ。

 ふつうとは何だろう、ふつうの家族とは、ふつうの幸せとは‥‥と、わずかでも立ち止まって考えてほしい。なぜなら暴力やアルコール依存症の問題を抱える家族が異常であり、特別なのではないからだ。「健全」と「病気」「ふつう」と「異常」を分けるところから、あらゆる差別、支配、いじめ、敵視が始まるのではないだろうか。

 私のカウンセリングの経験から得た実感は、ふつうの家族と、暴力や虐待に満ちた家族が地続きであるというものだ。「線路は続くよ、どこまでも」と、ふつうの家族から線路をつたっていくと、DVや子ども虐待の家族に行き着くのだ。どこかで線路が折れたり、切れているわけではない。ちゃんと連続しているのだ。

 その連続性が本書によって少しでも伝えられれば、これまで分断されていた「健全」と「病気」「ふつう」と「異常」との間に通路ができるだろう。その通路によって、分断されていた双方がつながり、夫婦や親子にまつわる問題を解決するための糸口がつかめるのではないかと私は考えている。

 できれば、男性の方々にも読んでもらいたい。本書はこの上ない「女性理解のための手引書」でもあるからだ。性が違うことで、どこに異邦人のようでもある男と女が、本書を読むことを少しでも近づくことができれば、それはそれでラッキーなことではないだろうか。

 私は「心の時代」という言い方に抵抗がある。「私の心」と言ったとたんに、本人の責任になるだろう。しかしそれはおかしい。生まれてこのかた、自分の責任ではなことだらけだ。女に生まれことは本人の責任ではない。

 もっと悪いことに今、女同士が分断され、細かく階層化されてしまっている。学歴が低くて所得が低い女ほど、結婚年齢が低い。女が一人で食べていくのは困難であると痛感したひとから結婚していくのだ。一方で、日本では晩婚化が進んでいるという。一定程度以上の学歴をもった女は、どんどん結婚しなくなっている。それは、たぶん彼女たちにとっての結婚が、自分の人生に何のメリットももたらさないからだろう。
 
 芸能人がきれいなウエディングドレスを身にまとって、豪華な結婚式を挙げる様子がマスコミを通じて流される。結婚だけをテーマにした雑誌まである。若い女の気持ちをそそるような結婚式場や宝石店の夢のようなコマーシャル‥‥。

 結婚幻想がこんなにばら撒かれていながら、こんなにも晩婚化が進んでいるという二重構造は、いったい何を意味しているのだろうか。
 結婚とは、何のためにするのだろう。そんなシンプルな問いがなされるようになっている昨今の状況は、非常に喜ばしいことだと私は思っている。
 二〇〇三年七月

序章 「夫婦の物語」の落差

夫婦の背景

登山帰りの中年男女

 私は東京を東西に貫いているJR中央線の沿線に住んでいる。 ワーカホリックというのだろうか、とにかく日曜でも仕事で出かけることが多いのだが、夕方、時には暗くなってから電車の中で、必ず目にする光景がある。
 おそらく青梅の奥か山梨県の山に登って帰ってきたと思われる中年の男女だ。いや中高年といった方がいいだろう。大きなリュックを背負い、登山靴をはき、帽子をかぶっている。どっと一気に集団で乗り込んでくるのだが、駅が過ぎるにつれ一人減り、二人減り、最後に一組の男女が残される。

 二人きりになったとたん、例外なく男と女の顔に走るのはたとえようもない倦怠と、寒々とした投げやりな表情だ。そんな彼らをじっと見ている私も趣味が悪いと思うが、その変貌の落差は見ていても驚くほどだ。そしてさらに面白いことに、どちらかといえば女性の方が「どうしようもない」という表情をあらわにしているのも興味深い。

「またあしたから生活が始まるんだわ」というやりきれなさは、そのたるんだシミだらけの皮膚の表面からじわっとにじみ出ているようだ。
 老いに向かっての長い時間をこの隣に座っている男と過ごしていくのか‥‥という呟きが、無表情なまま窓の外に目をやる女性の全身から私には伝わって来るような気がする。

 それに比べると、おそらくその夫らしい男の方はこっくりこっくりと居眠りを始めたり、鼻くそをほじったり、やおらスポーツ紙をガサガサと音を立てて広げたり、くったくがない。そんな夫を冷たく横目で一瞥(いちべつ)して妻の表情はさらに険しくなり、あからさまな嫌悪にすらなっていく。

 世の中ではこんなカップルが増え続けているようだ。日本全国どこに行っても秘境などなく、隅々までこのような中高年のカップルがそれこそ元気はつらっ踏破し、まるで雲霞(うんか)のごとく湧き上がって絶えることがないようだ。

 かつてのように歳をとっても女が家事に縛り付けられた生活に比べれば、夫婦で元気に山登りするなど、なんともうるわしく幸せな光景だろう、と素直に喜ぶべきなのかもしれない。でもあの中央線で繰り返し目にする光景、とくに妻の諦めきったような表情はどうだろう。私はなんとも恐ろしいものでも見たかのような後味の悪さを感じてしまうのだ。

ダンディーな夫
 一昨年だったろうか、ヨーロッパへ旅行するために新宿から早朝、成田エクスプレスに乗った。
 八月下旬だったのだが、すでに席は満杯で私の前には七十代と思われる夫婦が並んで座っていた。成田エクスプレスは向かい合わせの席が多いため、いやでも正面に座った夫婦の様子が目に入ってくる。
 あんまりじっと見つめるのも失礼かと思い、半分寝たふりしたり、手持ちの週刊誌をぱらぱらめくったりしていた。ところが不思議なことに二人は何の会話も交さないのだ。ときどきそれとなく表情を一瞬盗み見るのだが、夫は眉間(みけん)にしわを寄せたままじっと窓の外を見ている上質なオフホワイトの麻のブレザーをはおり、黄色のポロシャツを中に着込んだ夫はなかなかダンディーである。一方、妻の方はといえば、座っているので身長はわからないが細見でスタイルもよさそうだ。薄いブルーのカーディガンのアンサンブルを着こなして、髪は白髪を薄紫に染めていた。そうそう、赤いマニキュアの爪がすてきだった。

 でも彼女の表情はまったく変わらない。白い肌だけにその不動ぶりは異様でもあった。何度もその表情を思い出すのだが、たとえばその旅行で行ったロンドンの「マダム・タッソー館」で見たサッチャー元首相の蠟人形のようだった。

 眉間にしわを寄せたまま身じろぎもしないで窓の外を見ている夫と、蠟人形のように固まったまま夫とは別の方向を向いた妻のカップルは、沈黙のまま、三十分ほど座席に座っていた。と、やおら夫が妻の方を向いて荷物棚を指差した。その目はかっと見開かれ、有無を言わせぬ圧力に満ちていた。静かに動かないままだった空気が突然動いたので、私も驚いて夫を見たのだ。その視線を受け止めた妻はさっと立ち上がった。それはそれは素早い動作だった。

 まるでロボットが動くように正確な動作でカバンを下ろすと、その中からおそらく今回の旅行のガイドブックらしい一冊の本を取り出した。妻が手渡すと夫は無言でそれを受け取り、それを見届けると妻はカバンを再び素早い動作で荷物棚に戻した。かなりの重さのカバンらしかったが、あっという間の早業だった。

 その後、夫は無言のまま、ガイドブックを眺めはじめ、妻はヴィトンのハンドバックの中からボンタン飴の箱をごそごそと取り出し、一粒バクッと口に入れ、相変わらず蠟人形のようにあらぬ方を眺めはじめた。

 成田に降りるときも、夫は荷物を持たず、妻は荷物棚から下ろし、キャリーバックをゴロゴロと引きずりながら、夫の後ろを二メートルくらい離れて歩いていった。
 それこそ他人の私の推測に過ぎないのだが、あれから先どう海外旅行を過ごしたのだろうかと考え込んでしまった。余計なおせっかいなのはわかっている。でも、あの二人から漂ってきた空気はこれから海外旅行に行くという浮き立つようなものでもなかった。

 統制され、見事に訓練された命令系統の忠実な遂行者の妻、命令を下す夫を決して刺激しないようにひたすら息を殺すようにして傍らに存在している妻。
 世の中では、この二人のような生活を「幸せな老後」というのだろう。ぜいたくな海外旅行を年に何回か楽しむような豊かな夫婦なんて、こんな不況の日本にあってうらやましがられこそすれ、不幸からはもっとも遠い姿と考えられるに違いないのだ。
 しかし私には、蠟人形のような妻が、ギリシャのエーゲ海クルーズで目にもとまらぬ早業でカバンを持って夫の後をついていく光景が目に浮かぶだけだ。

にっこり頷くだけの妻

 講演で全国を飛び回ることが増えたが、時には講演の後に久しぶりに会った友人と旧交を温めることがある。それは九州での出来事だ。
 ホテルのロビーで久しぶりに会った友人と、地下のラウンジで「飲みましょう」という事になった。当然のことだが彼は白髪も増え、私は下半身に肉がついている。でもお互い自分の姿は見えないものだから、会った瞬間「老けたね!」と相手のことを指差して笑い、はっと己の姿を振り返る。そして「自分の姿など考えないようになるという事が老化の始まりよ」「そうだ、そうだ」と瞬く間に昔のような親しみが時間を超えて蘇って来る。

 友人が「今日はね、知人も同行したんというんで、いいかな」と言った。
 予約された席に着くまでのわずか二分で、友人がその夫妻に説明をしてくれた。それはこういうことだ。知人は大きな病院の院長である。同行している女性は正式な妻ではない。しかし事実上、もう十年以上同居しており、周囲は彼女を奥さんと呼んでいる。

 偶然今日は彼の誕生日なのでお祝いを兼ねて私にも紹介したいたと。それだけを聞けば話題にしてはいけないことはだいたい想像がつくというものだ。
 席はすでに男性と女性が到着して座っていた。男性の方は六十代半ばだろうか。傍らの女性は六十歳前後らしい。

 それから二時間近く歓談したのだが、話はもっぱら友人が医者の知人を私に紹介するという形で進行していった。それに対して私は相槌を打てば男性二人と私と三人の会話になってしまう。結構そういう事に気を遣ってしまう私としては、どうにかして女性を話に加えなくては彼女が気を悪くするのではないか、と考えた。

 そして事あるごとに彼女のほうに話しを振ったり、同意を求めたりと、今から思っても涙ぐましい努力をしたのだ。ところが驚いたことにその女性はまったく一言も語らなかったのだ。
 語らないっていっても別に不機嫌そうな様子はなかった。彼女が何をしていたかというと、ひたすら首を縦に振って頷いていたのだった。表情はこれまた、にっこりという以外に表現が見当たらないほどの「にっこり」が顔中を占めていた。
 色白で短髪の彼女がずっと頷きつづけて、にっこりしつづける傍らで、私一人が男性二人に対して語りつづけることになった。語りながら、ずっと疑問に思っていた。どうしてこの医者は妻が黙っていることに平気なのだろうと。

 突然、私の考えていることを見透かしたかのようにその医者が言った。
「こいつはね、ずっと私がしゃべることを聞いてくれるんですよ、それしか取り柄がないんで」
「こいつ」という表現にまず驚いたのだが、いかにも自慢げにそう言う彼にも驚いた。そして「こいつ」と呼ばれながら聞き役に徹し、赤ベコのようにぺこぺこと首を振っては人形のように笑みを浮かべつづける妻に対してもっと驚いた。
「はあ、いい奥様ですね、羨ましいでしょ?」と私は友人に矛先を向けた。
「よくもよくも、こんな無神経に男とあんたは付き合ってるわね、正体は見えたぜ!」と、口には出さなかったが、精一杯目で訴えたつもりだったが、ところが、
「ほんとうに羨ましいですよ。うるさいだけの女なんて、もうたくさんですよ」
 友人の口から出たのは信じられないような言葉だった。口裏を合わせて社交辞令で言っているのではなく、心底羨ましいという彼の心情がその目にありありと浮かんでいた。

夫と妻では違う「夫婦物語」

 このようにやたら号令をかけるだけの夫、妻をまるでペットのように扱い従わせている夫、妻の内的世界などまったく関心がなく別世界に住む夫と、その傍らでひたすら時のすぎるのを加速させ、やりすごして生きている妻‥‥。これらは、日常の光景に溶け込むようにして、我が国のあらゆるところに繰り広げられている現実の一部にすぎないだろう。

 しかしそれを私のように、どこかまがまがしいと感じるのはごく少数派のような気がする。たとえばこれら三人の夫にインタビューしてみたら、どのようなことを言うのだろう。
「いや、うちはね、夫婦円満ですよ。ケンカなんてしたこともありません」
「女房には感謝していますよ。黙ってついてきてくれるんですからね。この歳になって恥ずかしいんですが、女房のありがたみがやっとわかりましたよ」
「いいんじゃないですか、家族円満!これにまさるものはありませんよ、ええ」
「自分でも言うのもなんですが。結構いい夫だと思っていますよ。旅行だって何度も連れて行ってやりましたし、趣味の為にお金を使うのにお金を使うのに文句など言ったこともありませんし、まして今新聞でよくいわれているドメス?バイオレントみたいに妻に手を上げた事なんか一度もありませんよ」
 と、こんな具合ではないだろうか。

 私たちのカウンセリングセンターでも、夫婦面接というものを行うことがある。しかし大原則は、最初から夫婦同席では会わないというものだ。それはなぜか。
その場合、夫婦で会ったりすると奇妙に共通した現象が起こる。ほとんど夫によって経過が語られ、傍らの妻は黙ったまま頷いていたり、ときどき夫の発言の補足に回ったりするだけなのだ。つまり明確な役割分担がそこでは生じてえり、妻の側は主導的な役割を自動的に夫に移譲するというポジションをとるのだ。

 ところがもっと奇妙なことは、その夫婦面接の後に妻に単独で会ったりすると、例外なく夫への不満や怒りが怒涛(どとう)のように噴出するということだ。夫と並んで座っていたときの、まるで借りてきたような猫のように従順で無口な印象は、どこかに吹っ飛んでしまう。

 もちろん夫の方も妻のいないところでしか語れないことは多いだろうが、妻の側このような豹変(ひょうへん)ぶりに比べるかわいものだ。
 誤解を招かないようにここで断っておこう。「だから女は怖い」などという男の側がいつも酒席で冗談めいて笑いと共に用いる常套句を裏付けるためにこんなことを述べていたわけではない。
 夫婦の物語つまり、「我々夫婦はどんな夫婦だったか」についての感慨、捉え方というものは、明確に夫と妻とでは異なることを強調したいのだ。
 このことに気づいているのは妻の方である。先述の夫婦のように、夫は「仲良きことは美しきかな」という色紙のように信じ切っているのに、妻の側がもうすでにすべて諦めきってしまっている、などということは日常的ですらある。

 夫の浮気でさんざん苦しめられた末に、がんで亡くなった妻がいた。妻の葬儀の席で夫は号泣した。「いい女房でした」と叫び、それを見て何も知らない列席者はもらい泣きをした。一周忌には『亡き妻を恋ふる記』という写真入りの文集を自費出版したことも、多くの知人から「愛妻家」の評価を得ることになった。そのうちの一人が「お寂しいでしょう」ということで女性を紹介すると、彼はその女性と瞬く間に再婚してしまった。

 このエピソードは、四十代の長女から聞いた。亡くなった母親は、たえず夫についての苦情を娘に垂れ流していた。そして「私に経済力さえあれば、いつでも別れられたのに」というのが口癖だった。

 ここまで極端でなくても、夫婦の物語を美化し、円満なドラマとして終結させたがるのはたいてい男性の方である。従来の「共白髪」などという夫婦像は、私には胡散臭(うさんくさ)く思えるのだが、男性たちはなぜか、家族の(それも夫婦の)絆を声高に叫ぶ。

 ということは、そもそも夫婦というものは男の方に都合がよく、男のほうが得をするように、男の方がそれを定義するようにして成り立ってきたのかもしれない。定義とは、まさに夫たちが「円満夫婦」「いい女房」と自慢する行為そのものだろう。当の妻がいったいどれほどの我慢をし、どれほどの裏切りや無神経な言葉に耐えてきたのか、などということはその定義の前には何の力も持たない。

 だから妻たちはその無力さと引き換えに、すすんで「夫の定義が正しいのよ」「私たちは仲の良い夫婦なんだから」ひとも羨む夫婦なの」といった夫の定義の積極的実践者、期待される夫婦像の実践者として生まれ変わるのだ。
 それは夫へのサービスだったり、心のどこかで冷笑しながらの行為だったりする。
「私が一芝居打っているからこそ、あんたはひとかどの愛妻家としての評価を世間から貰うことが出来ているんだよ」ということなのだ。

 カウンセリングの場でも、「私たち、仲はいいんです」「夫はいい夫です」と言う妻は多いが、妻が「悪い人じゃないんです」と言うときは必ず、裏側に「夫は悪い人だ」というメッセージが貼りついている。よくよく聞いてみれば、妻の側ががまんにがまんを重ね、問題を起こさないように起こさないようにとやってきて、やっと維持されている砂上の楼閣のような夫婦関係だ。

「うちはよくけんかします」と言うくらいが、ちょうどいい。異なる性と異なる生育歴を持った二人の人間が一緒に暮らせば、「仲がいい」ではすまないだろう。
 老夫婦が夕陽を背にして「おまえ」「はい、あなた」などというような夫婦愛は信じられるだろうか。そこに至るまでに、どれくらい妻の側が我慢してきたことか。
「俺だって我慢しているんだ」と夫は言うだろうが、この国の制度や習慣を考えれば、妻の方が何倍も我慢していることは間違いない。

 結婚に対する男女の「温度差」がどのくらいあるものなのか、ロマンチックラブに自分の人生を賭けて幸せになろうとした女性の末路がどのようなものか、それらを語るには、断片的なエピソードをつらねるよりは、ある一人の女性期から中年期を迎えるまでの歴史を見た方がわかりやすいかもしれない。
次に紹介するのは、Aさんという一人の女性の長い長い物語である。

現代版「女三界(さんがい)に家なし」

関係の冷えた両親と、不登校の弟

 ちょうど桜が散ってバラが咲き始めるころ、東北地方のその街は一年中で一番美しい季節を迎えようとしていた。Aさんは短大を卒業するとき、教授の強力な推薦でX社の支社長秘書として就職することができた。同級生も羨むほどの好条件の就職だった。

 高校教師の両親のもとで育った彼女は色の白い控えめな印象を与える外見だったが、勉強やスポーツに異様なほど頑張る芯の強さも持ち合わせていた。それというのも、父親がひとたび家に帰るとまるで外部での評価からは考えられないような行為をする人だからだ。いや考えようによっては、学校と同じことを家庭の中でやっていたにすぎないのかもしれない。家族の誰に対しても自ら作ったルールを強制するのだった。
 
 風呂の時間は毎晩八時から十一時と決まっていた。高校時代、スポーツの県大会に参加した日、バスが遅れて十一時十五分に帰宅したらすでに風呂のお湯は抜かれていた。三歳下の弟がいるのだが、深夜十二時に風呂に入っていたら父親は怒って風呂のガスの元栓を切ってしまった。真冬だったので、弟はひどいかぜを引いてしまった。

 決められた帰宅時間を過ぎると、あらゆる扉の鍵をかけてしまう。たった一か所、トイレの窓は鍵がないため、何度もそこによじ登って家の中に入ったことがある。
 食事時間は無言でいなければならない。喋べりながら食べていると唾液が飛んだりして不衛生というのがその理由だった。

 Aさんはどこの家も食事中は無言だと信じて小学校の五年まで過ごしてきたが、ある日友人宅で夕飯をごちそうになったとき、一家全員、とくに友人の父親が大きな声で笑ったりおしゃべりしてご飯を食べるのを見て腰が抜けるほど驚いた。
 ひとたびルールを破ると、父は「お前たちの成長の為にやっていることを踏みにじった」と激怒し、拳骨(げんこつ)で殴ったり、子供部屋に水をまいたりした。そういう行為をした後で、必ず笑いながら説明するのだった。

「子どもを殴るには拳骨に限る。平手打ちをすると鼓膜が破れるからな‥‥」
 そんな父に母はずっと無言の抵抗を続け、仕事を理由に帰宅は毎晩十時過ぎだった。家事は小学校高学年以降はほとんどA子さんの役割だった。夫婦の会話も物心ついてからは、「あ」とか「はい」ぐらいしかなかったと思う。もっとも食事中はそれが当たり前だったのだから。

 弟はAさんよりははるかに成績が悪く、いつも「お前は女だったら許せるのに」と憎々しげに父は非難した。中学校の二年になった弟は突然学校に行かなくなった。当初父も、そして無表情で抑揚のない声しか出さなかった母までもが大慌てで、夜ごと説得したり、二人で交替で仕事を休んで精神病院に連れて行ったりした。Aさんはぼんやりそんな情景を覚えているのだが、できるだけそんな事態に巻き込まれたくないようにしようと、尚いっそう勉強とバスケットボールの部活に熱中した。

 三ヶ月を過ぎるころからは母はあきらめたかのように以前の生活に戻り、父は弟に「みだりに外に出ないこと。社会の敗残者になったのだから、おれが死ぬまでは面倒を見てやる」と宣言し、いっさい弟は口も利かず顔も合わせない生活へとルールを変更した。

 Aさんはもともと母に代わり家事をほとんど引き受けていたのだが、さらに自室に引きこもっている弟の洗濯や買い物までもその肩にかかってきた。そんな中でも受験勉強は怠ることなく、県立の一番偏差値の高い高校に合格した。しかし父は一言も褒めてくれなかった。むしろ、自分の徹底した方針の育て方が功を奏したと吹聴し、同じ育て方をしたのだから、不登校になった弟は何か脳の器質的障害に違いないと自信を深めただけであった。

 当然大学進学を考えていたのだが、父は「女の学歴はせいぜい短大でよろしい。教え子でも四年制の大学に行った者でろくな女はいない。お母さんを見てみろ、あんなふうな女にはなるな」と常日頃から語っていた。そんなことを自分が校長を務める高校で発言しているのだろうかと疑問に思ったのだが、当時のAさんには父に反抗する人生など考えられなかった。

 こうして地元の短大を卒業した。担任の教師は、東京の一流大学を受かるくらいの実力があるのに‥‥と残念がったが、「自分で決めたことですから」とAさんは明るく受け流した。

 そのころ弟は、自ら志願してある宗教団体の合宿所に入ってしまった。家出に近い出奔であった。両親には置手紙を見て驚いたようだが、どこか安心したかのようにも見えた。ひょっとしてこのひとたちは自分の息子を捨てたのではないか、とさすがにそのときは両親の前で泣いて抗議をしたが、父はお定まりの激怒の末、Aさんの顔を平手打ちした。拳骨ではなかったのは初めてのことだった。さいわい、鼓膜は破れなかった。父は親類にも、同僚にも、息子は外国に留学させたなどと嘘をついていたことは後になってわかった。

 Aさんの就職については、珍しく父が喜んだ顔を見せた。「この企業だったら大丈夫だ。株価も上昇しているし、誰が聞いても日本全国知らないものはいない会社だ」と何度も繰り返した。当時の父は、そしてもちろんAさんも、おそらく日本中のだれもが、経済成長が止まり、バブルが崩壊してしまうなどとは想像してもいなかった。

 しかしその後、Aさんの勤めた会社は別の企業に吸収合併され、会社名すら残らなかったのだ。そのことは当然、のちのAさんの夫婦関係に大きな影響を与えることになる。

しあわせな新婚生活

 八歳年上の夫とはその会社で知り合った。支社長室を訪れるたび、用事も無いのに秘書であるAさんに話しかけて来るので、いつのまにか社内中の噂になった。支社長も単身赴任であり、夫も東京本社からの転勤でやって来たのだった。そんな行為が彼の評価を下げるわけではなかったのは、その仕事ぶりにあった。とにかく仕事はできる人だった。勤務時間中の集中ぶりはもちろん、夜になると地元の関連会社の人達と連日連夜接待に明け暮れ、豪快な酒の飲みっぷりは評判になった。雪の多いその県は、酒が飲めない男は軽蔑される風土だった。Aさんの父は一滴の酒も飲めない人だった。遊んだり飲み会に付き合うなどということは一切しなく、そのことが父の退職後の処遇に影響したという噂も飛んだほどだった。

 初めて夫に誘われて食事をしたとき、あらゆる種類のアルコールを目の前でおいしそうに次々と飲む姿になぜか惹かれた。父の食事に比べるとなんて楽しそうなんだろう。どうしてこの人は食事をしながらこんなにもよくしゃべるのだろう、とまるで異国の人に出会ったような好奇心で、Aさんはいつのまにか夫と交際することを承諾していた。

 それから結婚までは短かった。非常に強引だったが、両親も彼の会社での評判を知って何も反論しなかった。Aさんはとにかく、夫がこの両親のもとから自分をさらってくれたことが何よりうれしかった。そして毎晩賑やかに明るく酒に酔って帰ってくるだろうと夫を心から愛し、世話をしていこうと固く心に誓ったのだ。

 結婚式はバラの季節だった。いっせいに雪の下から噴き出でたような色とりどりの花を見ながら、自分の人生は決して母のようにはならないだろうと思った。子どもが出来たら仕事をやめよう、とにかく夫についていこう、漠としてはいるものの、こんなに花が美しいのだから私はきっと幸せになれるだろうと、鏡の中のウエディングドレスの姿を見ながら自分に言い聞かせたのだった。

 新婚時代の三ヶ月は夢のように過ぎた。夫も承諾の上で従来通り勤務を続け、支社長も温かく見守ってくれた。同僚からは、エリート社員を射止めたとして羨ましがられた。ところが突然、夫の東京転勤が決まった。もちろん栄転であったが、Aさんとしては生まれて一度も離れたことのないその街を出ることはやはり不安だった。

仕事をやめ、夫の家族と同居

 東京に移って仕事はやめた。夫の父が残してくれた土地に家を建ててそこに住むことになった。同じ敷地には夫の兄夫婦が姑と住んでおり、いわば一族に囲まれた生活だった。
 もともと自分から進んで何かを主張するわけでなく、家事も小学校からの筋金入りで、全てにおいて手際のいいAさんは義姉や姑の受けはよかった。義姉は最初のうちは東北から嫁いできた義妹の面倒を小まめに見てくれた。短大卒で方言の抜けきらないAさんを、一族の中で自分の支配下に置こうとしたかもしれない。彼女から折に触れて聞かされたことは、夫が一言も語ってくれなかった一族の歴史だった。

 舅は一代で電気製品の部品を扱う会社を興し、東京近郊をはじめとして関東近県に三つの工場を経営するまでに至った。典型的な中小企業経営者タイプだった彼は、大酒飲みで有名だったという。仕事では、従業員に対して容赦のない人で、失敗を厳しく𠮟責した。義姉によれば、そのせいで少なくとも三人が首を吊って死んだとのことだ。

 その容赦のなさは家族に対しても向けられ、姑はしょっちゅう怒鳴られ、時には殴られたりもしていた。息子たちにも暴力は向けられ。義兄はとくに殴られることが多かった。それは学校の成績が弟である夫に比べると歴然と差があったせいだった。自分は中卒であり、そこから這い上がるとき、どれくらい学歴がないことでバカにされたかを酒に酔うたびに繰り返し息子たちに語った。とにかく人を見下ろすような大学に入らなくてはならない、という至上命令が兄弟に課せられていたのだ。

 夫はその期待を裏切ることなくエリートコースを着々と歩んだ。そして就職も父親の経営する会社の親会社のそのまた親ともいうべき企業に入り、順調に出世した。ところが義兄は成績ではまったく弟である夫に及ばず、そのことで「お前が長男でなければ‥‥」と舅からも姑からも露骨になじられつづけた。

 姑は次男である夫を偏愛し、舅の暴力に耐えかねると「この子を道ずれに死んでやる!」というのが最後の殺し文句だった。それを言われるとどれだけ酔って見境のない暴力を振るっていても、舅はとりあえず矛を収めたということだ。自慢の息子を人質にして夫の暴力の盾とした姑は、とにかく気丈な人であった。そしていくら次男を溺愛しているからといっても、長男をないがしろにすることは世間からの反発を招くことも熟知していた。二浪の末、第二志望の大学に入った義兄は、生まれた時からすでに父親の会社の後継者として人生を決められており、舅や姑はいずれ長男が面倒を見ていくのだということも暗黙の了解とされていた。

 ところが次男である夫が就職を決めた年の冬、早朝に突然、舅がトイレで大量の血を吐いて倒れた。それはそれは凄惨な光景だったらしく、天井まで血しぶきが飛んでいたと義姉は身振り豊かに語った。「しばらくはトイレから血の匂いが取れなかったそうよ」と言うと、顔をしかめて目をつむるのだった。舅は結局、救急車で運ばれた病院で亡くなってしまった。

 姑はしかし落ち着いたもので、自慢の息子の行く末を見届けて安心したんでしょう、などと親戚に語っていたらしい。遠因は疑いもなくアルコールだった。人間ドックの医師に、酒量を減らすようにと何度も言われても、「おれの肝臓は鋼鉄でできている」と豪語し、決して三百六十五日酒をやめようとはしなかったのだ。

 義兄は急遽社長に就任することになり、その二年後に義姉と結婚した。彼女の言葉によれば、自分の夫は生まれた時から貧乏くじを引かされ、たえず弟と比べられ、差別され続けてきた人だった。彼女がそう言うのは、義兄が結婚当初から妻に言い続けてきたからだろう。いまだに経済的実権を姑が握っているのも驚きだったが、それは姑が義兄の経営手腕を信じていないからで、そのことを義兄夫婦の前で公然と語るというのも驚きだった。

「夫はね、自分の母親を憎んでいるのよ」
 Aさんの目をじっと見つめて義姉が低い声でつぶやくのを聞きながら、それはそのまま弟である自分の夫を憎んでいるということではないかと瞬間的に察した。なぜ夫が兄の家族と付き合う事に露骨な嫌悪を示すのかが、義姉の話を聞いてわかるような気がした。そこに、どこか自分と弟との関係に似ているものを感じ、だからこそ夫に惹かれたのかと想像してみた。
 同じ敷地に住みながら憎しみ合っている一族の中に、こうして自分の人生がからめとられていくしかないのかと思うと、Aさんは暗い気分に襲われるのだった。

夫の変貌

 夫の酒の飲み方に疑問を感じるようになったのは、長男が生まれてからだ。舅の亡くなり方を聞かされて以来、夫の豪快な飲み方に不安を感じるようになってはいた。しかし実父が酒を飲まなかったこともあり、そもそもアルコールの飲み方の基準というものを知らなかった。平日の帰宅が遅いのはもともとだったし、それが仕事のできる男の姿だと思っていた。父のようにルールで縛られ、判で押したような生活はこりごりだったと思っていた。夫が土日しか家にいないこと、それも時にはゴルフに出かけたり、競馬のテレビを見ながらビールを飲んでいたりすることに不満を持ったこともなかったのだ。

 ところが長男が生まれてから、少しずつ歯車が狂い始めたようだった。Aさんの関心が長男に向かうことに、夫が抵抗を示すようになったのだ。極端だと思ったのは、Aさんが長男を風呂に入れることを嫌うことだ。「いつまでも甘やかすと。ろくな者にはならないんだ」と声を荒らげる。時には長男に対して「母親に甘えるひまがあれば友達と遊んでこい」と言ったりする。

 それは長男が四歳になったときの事だった。余りの言葉に初めて、「あなた自身と息子を一緒に考えないで」と抗議した。そのとき、初めて夫がAさんを殴った。
「何を生意気な! いい気になるんじゃない!」
 かなり酔っていたせいもあったのか、夫は信じられない言葉を浴びせた。酔ったその目を見たとき、夫は正気じゃないと思った。
 殴られた左頬の痛み、罵声(ばせい)の数々、もちろんそれによって傷ついたショックは大きかったが、何より夫が酒によって崩れていくのではないかという恐怖のほうが大きかった。

 そう感じたのは、上京して間もない頃から、義姉から繰り返し聞かされた舅の晩年の酔態の様子が影響していたのかもしれない。おそらくそれは、姑が長男の嫁に繰り返し愚痴として語った思い出の一コマであったせいで、デフォルメされていたのだろう。

 義兄は一滴も酒を飲まない。父親の血を引いているからからこそ怖くて飲めないというのが理由らしい。そしていまだに姑に頭が上がらず、妻である義姉にも家庭内の主導権を握られたままだ。そんな義兄を義姉は不満に思っているのだが、Aさんにしてみれば、義兄が自分の妻や弟に対する根深い憎しみをどのように解消しているか謎だった。

 その謎はしばらくたって簡単に解けた。何人もの愛人がいたのだった。それも娘ほどの歳の離れた外国人女性ばかりだった。義姉は「病気よ」とあきらめたふうだったが、おそらくAさん夫婦にはうかがい知れない葛藤があったのだろうと思われる。

始まった酒と暴力

 次男が四歳違いで生まれ、夫の酒の飲み方がますます激しいものとなった。会社の業績が転落の一途を辿っていることも大きかっただろう。また配置転換で人事担当になったとき、部下が自殺したことが拍車をかけたのかもしれない。

 酔って電車のホームから転落し、間一髪で轢死(れきし)を免れたこともあった。仕事が終わって会社の人達と飲みに行くときも、帰りはタクシーで付き添われて帰ることが増えた。一人では帰せないと同僚たちは交代で付き添ってくれた。ウィスキーのビンも三日に一本は空になっていく。休日はほとんど一日中飲んでおり、それを責めると殴られるということが繰り返された。大声を上げると燐家の義兄宅に聞こえるのではないかと歯を食いしばって耐え、まして遠方の実家に愚痴を言うことなどなかった。

 滅多にないことだが。義兄と庭先で日曜に顔を合わせることがあった。前夜の暴力でAさんの目の下に痣ができていた。おそらく姑が暴力を振るわれるのをずっとみてきたせいなのだろう。彼は夫の暴力を察知したようだった。その夜、結婚以来初めて、義兄がAさん夫婦の家を訪れた。そこで彼が見たのは、ウィスキーをあおるように飲んで酔いつぶれている弟の姿だった。

「なんて奴だ」と吐き捨てるように言った義兄は、見間違いかも知れないが、たしかに薄ら笑いを浮かべていたように思う。
 夫は立ち上がり、義兄に殴りかかろうとした。Aさんは子ども二人を別の部屋に追いやり、「やめて」と叫んだ。しかし酔っている人間がしらふである相手にかなうはずはない。いとも簡単に義兄は夫を組み伏せてしまった。
「おやじそっくりじゃないか」
 そう勝ち誇ったように言い捨てて義兄は帰っていった。夫は台所の流しの前で号泣した。後にも先にも夫が泣くのを見たのはこの時だけだった。夫はこの日以来、Aさんを殴ることはなかった。そして義兄とは、いっさい交流を絶った。

 義兄はその三年後、急死した。心不全と知らされたのだが、Aさんはおそらく自殺ではなかったかと思っている。義姉ももちろん姑もそんなことは一言も言わない。かかりつけの精神科で処方された薬が山のように発見され、亡くなる前日に大量に睡眠薬を飲んで眠ったということを死後一か月たってから知らされたのだった。

 会社を早退して駆け付けた夫は、あの夜以来初めて義兄の顔を見た。取り乱している姑の傍らで、夫は表情一つ変えずに静かだった。葬儀の日も、少し酒の臭いがしたものの、火葬場で最後の対面をするときも極めて冷静で、涙一つ見せることはなかった。そんな夫がAさんにはどことなく不気味に思われた。

一変した生活


 義兄の死後半年たって、バブル崩壊のあおりをくった夫の会社は旧財閥系の別会社に吸収合併されることになった。妻である自分にとってそのことは大きな出来事ではあったが、心配だったのは夫がさらに自暴自棄な生活態度を強めていくのではないかということだった。すでに会社の人事では明らかに出世コースから外された待遇を受けており、だから酒量が増えるのか、アルコールのこともあって降格されたのか、Aさんにはよくわからなかった。

 そんな夫の様子を姑は敏感に察知していのだろう。義兄の会社を夫が引き継ぐことは姑が決めた。夫はいっさい反論しなかった。Aさんは、自分が口を挟める問題ではないように思った。

 いつも自分の人生は、こうして自分以外の誰かが決めてきたと思った。それに乗るしかないだろう、どうしょうもない状況に追い詰められてしまっているのだからと、自分に言い聞かせて生きていたのだ。

 義姉は四十九日を過ぎるころから、日に日に元気を取り戻していくかのようだった。二人の子供を抱えているものの、会社役員として十分な収入は保証されており、何より姑が弟夫婦の方に乗り換えてしまった事がこの上ない開放感をもたらしたのだろう。メイクも丁寧になり、服装も華やいで、誰が見ても数年若返ってしまったかのようだ。

 一方、姑は、やっと思いがかなって次男が自分の元に戻って来たとでも言いたげな様子で、これまた一段と元気さを増した。
 Aさんと夫は生活が一変した。まず仕事と家庭が密着するようになり、サラリーマンの妻の気楽さが全くなくなってしまった、それに伴い、夫婦の衝突もいっそう増えることになった。

 従業員に対してAさんは持ち前の責任感で夫の補佐をしようとした。それは中小企業の社長の妻として当然のことと思ったからだ。
 夫の酒量はさらに増した。酒の切れるときはほとんどなく、酒の匂いをさせて会社に行くことは当たり前になった。時には二日酔いで午前中は欠勤することさえあった。そのたびに繰り返されるのが、Aさんの𠮟責と夫の暴言だった。

 それから十年後、姑は風邪で寝込んで三日目に亡くなった。誰も予想していなかった事態だった。創業者の妻として年齢よりも十歳は若く見える。かくしゃくとした姑の突然の死によって、すべての実権が夫に移譲され、それはそのまま、実質的にはAさんが全てを采配を振るう事を意味した。

 二人の息子は思春期に差し掛かっており、夫婦関係の影響を受けないようにとAさんはかなり気を遣った。それは自分の経験、またおそらく夫の経験を含めて、親としての義務だと思った。しかし不思議なことに夫と別れようなどと思わなかった。会社のこと、父を亡くした甥や姪、義姉の生活‥‥。これらすべて自分の肩にかかっているのだと思った。

がんばる妻に嫉妬する夫

 夫は髪も薄くなり、お腹が出て、見るからに肝臓機能の低下した、どす黒い顔色中年男に変貌してしまった。相変わらず飲酒を繰り返し、出勤時間もまちまちだったし、経理の最終監督はすっかりAさんの責任となっていた。

 そんな妻の変化は夫にとって好ましいものであったはずがない。深夜まで税理士と相談している妻に夫は「浮気しているに違いない」と責める。否定すると、「証拠を見せろ」と、時には全裸にして庭に放り出した。「お願いだから息子たちに聞こえないように、難しい年ごろなんだから」などと言おものなら、暴力こそなかったが、「学歴もないくせに教育者面して」と正座させ、一時間もこれまでの人生の愚痴を聞かせるのだった。

 いう事を聞かない息子たちに迷惑がかかると思い、Aさんは必死に夫の要求を受け入れる事に努めたが、耐えきれないことが年ごとに増えてきた。
 たとえば深夜、Aさんの実家や親戚に夫が電話するようになった。自分の言いなりにならないと、目の前で「どうやってこんなどうしようもない女に育てたんだ」「あなたの従妹はどうしようもない女ですよ」と、何度も繰り返し電話かけるのだ。実家とはもともと疎遠だったのだが、さすがの父も驚き、「悪いことは言わない、別れたらどうか」とこっそり電話をしてくるぐらいだった。

 また泥酔した夜には必ず失禁をするようになった。布団だけでなく、台所や居間のじゅうたんにも夫の尿の臭いがしみつき、香水をふっても消えないので、さすがのAさんももうだめと思った。
 これ以上我慢できないと思うと、そのぶんだけ頑張るエネルギーが出てきてしまうのはどうしてなのだろうか。夫が妻の仕事ぶりに嫉妬し、なんとか引きずり下ろそうと酒を飲み、暴言を吐けば吐くほど、Aさんは銀行や取引先との交渉もこなすようになり、誰が見ても経営の実権は妻へと移行していた。また時代を見る目があったのか、新規事業のアイデアもAさんが出し、おまけにそれが成功を収め、旧来の事業にとって代わるようになった。

 こうなると、夫は名前だけの経営者でしかない。公然と飲酒して社長室に寝込んだり、取引先との接待で泥酔して信用を無くしたりといった行動をとるようになった。
これまでは何とか家族という枠の中で夫の問題を収めようとしたのだが、親戚にまでそれが広がり、さらには会社の事業まで影響を及ぼすようになってきたのだ。

 このころからひそかにAさんは、夫の飲酒をアルコール依存症ではないかと考えるようになった。何冊もの本を買って読み、読めば読むほど核心は深まってきた。
 しかしこのことを口に出せば夫は逆上するのは明らかだ。どうすればいいのか、と電話帳で探して公的機関に電話で相談をしてみたこともあった。しかし会社の体面もあり、思い違いかもしれないという迷いもあって、みずから足を運んで相談するところまで決意が出来なかった。

 逃げるように家を出ていった子どもたち
 そんな両親の修羅場と決別するかのように、長男は自分からアメリカの大学に行きたいと言い、次男は全寮制の高校に入学した。Aさんは賛成したものの、再びこの家で夫と二人暮らしなることの恐怖で身がすくむ思いだった。しかしできるだけ夫婦関係の影響を与えないためには息子たちをこの家から出すしことがいいことだと自分に言い聞かせ、成田から飛び立つ長男を見送った。

 そのうち夫が奇妙なことを始めた。刃物やエアガンを収集しはじめたのだ。夜ごと仕事から帰った妻の前で、ウィスキーを飲みながら刀を磨いたり、サバイバルナイフをくるくる回したりするのだ。Aさんは「よしなさい」と懇願したが、「おまえを傷つけるわけじゃないよ、怖がらなくてもいいじゃないか」と笑みを浮かべて心底楽しそうに手入れをするのだ。

 たしかに義兄の一件以来、直接的暴力はない。しかし思い出しても口惜しさで手が震えそうになる暴言は増える一方だ。そして性的暴力としか言いようもない行為もしばしばあり、酔っての電話は相変わらずだった。
 ある夜、夫の手元できらきら光る刃物を見ながら、夫という人間の留め金が外れてしまったのではないかと怯えた。これまでと決定的に何かが違っていたのではないだろうか。
 一度、あまりの恐怖から一一〇番に通報したこともあった。
「夫が刃物を持ち出したんです」と電話したら、夫は怒るどころか、慌てて身支度を整えた。パトカーで警官が到着するのを待ち、「私が刃物を持っているのはコレクションだからです」とにこやかに証言する夫に、警官は笑って相槌を打ち、「奥さん、趣味を邪魔しちゃいけないよ」と逆に説教をされる始末だった。それ以来、Aさんは警察を信じないようになった。

 ある夜、帰宅したらAさんは、居間にいった途端呆然として足がすくんでしまった。自分の洋服を丸めて人間の形にしたものに、サバイバルナイフが二本突き刺さっていたのだ。まるで呪いの藁人形に五寸釘を打ち込むように、それは深々とちょうど心臓のあたりに突き刺さっていた。
 それを見た途端に彼女は決心した。
 アルコール依存症の治療を受けてもらおう。もし酒をやめてくれるのなら、夫も回復し、少しは変わってくれるかもしれない。しかしそれを拒否するようであれば、私はもう家を出よう‥‥。

 寝室で酒の匂いをさせながら寝込んでいる夫を起こした。夫はよろよろとしながらもAさんの気迫を感じたのか、居間にやってきた。Aさんが黙って洋服に刺さったサバイバルナイフを指差すと「どうだ、よく切れるだろう」と、刺さったナイフを引き抜き、照明器具の下でひらひらと刃を上下させ、得意げに笑った。
「私と一緒に病院に行ってください。あなたのアルコールの飲み方は病気です」
 蒼白な顔の妻が立て続けに言う言葉に一瞬ひるんだ夫だった。しかしその後サバイバルナイフをAさんに向けると、じりじり壁際に追い詰めていった。
「何をするんですか」
「言っただろう、おれはおまえを傷つけようなんて思っていないんだ」
「だったらそのナイフ閉まって下さい」
「ええ? さっきは何て言ったんだ、おれがアル中だって?」
「とにかく病院に行ってください」
「だれが病気なんだ、ええ? おれか おまえか? おまえは自分がまともだと思ってるんだろう、恐ろしい女だよ。許せない女だよ。狂っているのはおまえじゃないのか。殺されないだけましだと思えよ」

 そう言いながら、妻の足元にナイフを突き刺す。一本後ずさりするとまたその足元に別のナイフを突き刺す、こうして居間のじゅうたんはナイフの刺した跡でいっぱいになった。
 裸足で庭に出たAさんはそのままバッグを抱えてタクシーに乗り、母の妹であり、電車で三〇分のところに住んでいる叔母のところに逃げた。伯母は常々、夫からの電話にくるしめられており、「早く逃げないとあのひとは何をするか分からないよ」と言ってくれていたのだ。
 翌日、叔母の家から出社したが、夫が会社に出てきた様子はない。ほっとする一方で、気にもなり、自宅を見に行こうかと思ったが、ふと思い立って一度電話をしたことのある公的機関に相談をしてからにしようと思った。

夫の死

 こうしてAさんは公的機関の紹介で私たちのカウンセリングセンターにやってきた。
 白い肌に大きな目、いかにも東北の雪国で育ったという外見からは、とてもそんな夫婦関係で苦しんでいるとは想像もできない。
 当面は伯母の家にとどまりつづけること、家には戻らないこと、まして夫の様子を心配して偵察などしないこと、という私からの提案を実に的確に理解するひとだった。考えた末に行動したのだから、もう迷わないという決意が全身から伝わってくる気がした。

 しかし、このような女性であっても、夫から戻ってほしいと哀願されたり、死にそうだなどという電話があると、「とりあえず心配なので」という判で押したような理由で、夫の元に舞い戻ってしまうひとも多い。その可能性もあると私は考えていた。
 ところがAさんは共依存ということばを知ると「まさに私の事です」「目から鱗、膝を打ちまくりです」と興奮気味に語った。

 叔母の下で一週間過ぎたころ、「東京にきて初めて安心して眠れた気がします」「いつも夫に怯えていたような夜でした」と語り、そのような安心感を手に入れたら、まったく夫の元に帰る気はしなくなったと断言した。

 妻が「別れよう」とはっきり自覚したのを、夫は離れてもいても感じたのだろうか、会社には全く顔を出さなくなった。そして、突然伯母の家に夫から電話が入り、「M病院に通って治療するつもりだ」と伝言された。

 どうしよう、夫が病院に通って酒をやめてくれたらひょっとして以前の優しい人に戻るのではないだろうか。夫の元に戻って協力すべきではないだろうか。そんな迷いが彼女の胸の中で大きく膨らんでいった。一番つらかったのはそのときだった、と後に回想してAさんは語った。

 私のアドバイスもあり、M病院のアルコール依存症専門外来をAさんも家族として受診した。そこではっきりしたのが夫は一度受診をしたきり、まったく治療には訪れていないということだった。

 迷いも吹っ切れた彼女は、初めて仕事を一週間休み、温泉に行くことにした。思えば結婚してから旅行らしい旅行は初めてだ。お湯につかってゆっくり今後を考えようと思った。
 ホテル滞在二日目の夜、突然東京から電話がかかった。夫が死亡したという連絡だった。急遽自宅に戻った彼女が見たのは、ふとんの中で血まみれなって絶命している夫だった。

 変死ということで警察の調べを受けたのだが、死因は舅と全く同じ、食道静脈瘤破裂による大量吐血だった。枕元にはウィスキーのビンが空になって何本も転がっていた。
 夫の親族は妻であるAさんを非難した。側についてやれば、こんなことにはならなかったと。その人達の非難は当たり前だと思ったし、それほど気にならなかった。しかしアメリカから駆け付けた長男と寮生活をしている次男は、自分のとった態度をどう思ったのだろう。その事だけが唯一気がかりだった。自分たち夫婦の演じたドラマを一番身近で見ていた二人は、果たして母である自分が家を出た直後に父親が死んだことをどう思っているのだろうか。

 心のどこかで息子はきっと今日までの私の苦労をわかってくれるはずだ、という期待があった。耐えて別れずに我慢していた母を今後は守ってくれるかもしれないという甘い感情も湧いた。火葬場で思わずわけもなく号泣した自分を支えてくれる長男の手の温もりの中に、思わず身を預けてしまいたいという衝動を感じた。

 ところが死後の整理をしている最中に長男が言ったことばは、Aさんを驚かせた。
「お父さんはかわいそうにひとだった」
「お母さんがお父さんを死に追いやったんだと思う」
「ぼくはお母さんを許さないかもしれないよ」
 長男はそれらのことばを残して慌ただしくアメリカに戻り、次男は最後まで何も言わず寮に戻っていった。

息子からの断罪

 Aさんは、再び夫が亡くなった家に戻ることになった。離婚の手続きに入ろうかと思った矢先の死亡だったので、民法上は財産の相続は妻である彼女に極めて有利な展開となった。
 そんなAさんの胸に、日増しに深く突き刺さるのは、長男のことばだった。そうか、あの子は私を許さないんだ、そう思ったとたん、不思議なことに長男に対する感謝の気持ちが込み上げてきた。もしあの子が「ぼくがずっと、お母さんを守っていくよ」とやさしいことばをかけてきたら‥‥、きっと自分は苦労を耐えた女として長男に支えられる第二の人生を歩もうとしただろう。それこそ姑のやったことであり、義姉のやったことではなかったか。

 ああ、私は長男がきっぱりと自分を断罪してくれたことで、息子と共共存の関係になることを免れたのだ、とAさんは気づいた。

 夫の葬儀でもずいぶん涙は出た。参列者のひとたちは、ずいぶん苦労した奥さんなのにやはり夫婦の絆は強いものだ、と泣いている自分を見てもらい泣きをしていたようだ。でも違う。今から思えば。あの涙は口惜しい涙だった。

 何回殴られたのだろう、あのことばは許せない、あのナイフの光る刃、次々と思いだされる夫の暴虐の数々を思い出して、口惜しくて、怒りに震えて泣いていたのだ。死んでしまえばすべての思い出は美しくなる、という小説の文句のようには感じられなかった。
「夫の死を喜んでいるなんて自分で自分が怖いんですが。
 でも大丈夫ですよね、ここは世間の常識と離れてますよね。
 今もこうしているとふつふつと夫への怒りが湧いてきます。
 ここだけの話ですが、誰もいないときに仏壇に向かって『よくも良くも‥‥』と叫ぶんです。親戚の人はそんな私を知りませんから、気丈ですねと褒めてくれますが。
 でもこれで。もう殴られないんだと思うと…‥。
 本に書いてあるようなDVの後遺症がいつ出て来るかと楽しみにしているんですが、ぜんぜんです。不眠やフラッシュバック(恐怖の記憶が蘇ること)なんか、まったくありませんよ。ただただ眠り、食欲も出て元気になるばかりです。
 でも、周期的に思いだされる口惜しいことや、頭にくる嫌なことを話せる場所がないんです。だからそれを聞いてもらおうと思ったんです」

 こう言ってAさんが語ったのが、ここまで書いてきた物語である。
 結婚式の日鮮やかなバラ色、握りしめたブーケのむせ返るような匂い、それがまるで昨日のように蘇ってきた。二十年以上の時を超えて、初めて想起された花々の色や匂いだ。
 Aさんの立っている目の前には、満開を少し過ぎた桜の並木が広がっている。毎年春には必ず咲いていたはずの桜なのに、結婚して以来桜を美しいなどと思ったことはなかった。

 夫と暮らした家の庭にも見事な枝垂れ桜が植わっていて、満開になるとその下を通る人達が歓声をあげるほどだった。しかし自分はいったい何を見ていたんだろう。
 夫が亡くなって初めて迎えた春。東北の故郷でしあわせにならなくてはと言い聞かせるようにして見た花と同じほど、この桜は美しい。Aさんはそう思った。

 ここまでのAさんの長い物語から何を汲み取れるだろうか。いくつかの夫婦関係がここに登場する。その中でAさんの気づいたことは何だったのだろうか。それは「共依存」と「DV」の二語に集約されるだろう。この二つはこれからも本書の中で重要な役割を果たすことになる。次へと読み進むことで、Aさんの気づきの意味がより明確になってくるだろう。

つづく 第一章「ロマンチックラブ」幻想
女が結婚で手に入れるもの
「結婚」は世代を超えて連鎖する