人生八十年時代到来。老人の死亡率が低下し、誰もが八十年を生きられるようになって、世界一の長寿国。百歳老人(センティナリアン)も増加中。
 寝たきりやぼけを予防して、イキイキとしたセンティナリアンをめざしましょう。

本表紙 大工原 秀子著

更年期よる性交痛・性機能不全・中折れ・性戯下手によるセックスレスは当サイト製品で解決することができる。セックスレス・セックスレス夫婦というふうに常態化すると、愛しているかけがえのない家族・子どもがいても別れてしまう場合が多い。

Ⅵ最後のセックスのすすめ

●今なぜ生と死を語らねばならないのか

 人生八十年時代到来。老人の死亡率が低下し、誰もが八十年を生きられるようになって、世界一の長寿国。百歳老人(センティナリアン)も増加中。
 寝たきりやぼけを予防して、イキイキとしたセンティナリアンをめざしましょう。そのためには、まず、心の健康。ストレス状態が長く続くと、体の弱い部分に、病気という形で現れます。老夫婦は協力して働き、子供達の巣立ちを見届けた今、社会的な大きな役割を果たし終えました。今度は自分の番。なりたかった自分に向かって精一杯生きましょう。
 しかし、若い時のような力は衰えています。自分の老化の残存機能を活性化させ、死の瞬間まで、人生を楽しく過ごしましょう。

 ご賛同の方。ひとり高齢を生きる人。配偶者を失い悲嘆にくれている人、がんを告知されている人。また老夫婦で、自分の豊かな死の背景をイメージ化して話し合ってみたい人など、お誘いあわせてお出かけください。

〈肺がんの夫の看とり〉

 昭和六十二年一月三十日、東京中野区・堀江老人福祉センターで第一回性と死を語る会が、約七〇名の参加者で始まった。
 今、なぜ生と死を話し合わなければならないのか、大工原が基調講演をしたあと、利用者のH子さんが、肺がんで逝ったご主人(七四)の死の看とりと、看とりの中での気持ち、一周忌の準備で考えたことなどを話した。
 H子さんのご主人は、定年退職後も会社の嘱託で週二、三回働いていた。咳、痰、ときどきのめまいがあったので、診察のたびに、がんではないかと疑い、すべてのがん検診をうけて、「異常なし」と言われたばかり。健康管理も医者に笑われるくらい人一倍やっていた。二階の階段から降りられず、へたり込む三日前までは、家に仕事を持ち込んでいたほど元気だった。”おかしい”と思ったので、へたり込んだその日、大学病院に受診した。なんと、肺がんの末期。そのまま入院して。苦しみの闘病四十日を生きてた。本人は「がん検診異常なし」を信じていて、全くがんを疑うことなく逝った、ということだった。

 入院中は、妻をそばから離さず、タクシーで下着をとりに行くことさえ、ままならなかった。妻は夫が病気と闘い苦しんでいるのをそばでみているだけ。無力な自分に、「どうすることもできません」と、泣いてナースステーションにかけ込んだともいい、聞いている老人の涙を誘った。

 生前、普通の葬式はしない、と言っていた。「やり方がわからなかったので普通にしたが、それでよかったかどうか、心残りだ」と言う。
 参加者からは「自分の葬式の挨拶はテープに取っておこう」「献体手続きをとっておこう」「財産は妻に遺言する」などの話しが出てきたところで、第一回目が終了した。

 老人福祉センターのA型施設、それも健康相談室の中から、中野区に住む六十歳以上のお年寄りの健康相談に関わって満五年がすぎた。六十歳以上の約五%の方が利用しているこの施設を、毎日約七割のお年寄りが無料の入浴サービスを利用する。利用者の全員が利用証交付のとき健康相談室の筆者の前を通る。みな元気で幸福そうである。しかし、己の性と生の終焉の死の情景設定と演出は他人まかせが多く、幸福な自分の死を産み出せたか否か、訃報を聞くたびにやるせない思いをする。偉い先生方の話を聞くだけにとどめず、自分の死の情景を豊かに設定、演出して、落日の太陽のように輝きを社会に残してほしいと考え、健康相談室から呼びかけた。お年寄りの生き生きしとした語りは、参加者にある種の深い感動を与えた。

“最後のセックス”のすすめ

人が死に臨むさいの最後の意識は、一番身近な人に「そばにいてほしい」欲求だという。夫婦なら、夫婦でしか触れることのできない”温もり”を与えることが大切ではないか。一つの布団の中で温もりを感じ合うことが「一人ではなかった。生きていてよかった」という確認ではないか――と”最後のセックスのすすめ”を説くのは、東京・中野区立堀江老人福祉センター主査、大工原秀子さん(五四)大工原さんの提唱による「性と死を語る会」が、このほど開かれた。

死と闘う人に安らぎを(毎日新聞掲載記事)
 「性と死を語る会」で呼びかけた
 保健婦である大工原さんは、お年寄りの性の相談相手になって十八年になる。とかく「老いの性」を考えない世間の”常識”に反発、お年寄りの悩みを掘り起こして、とくに「看取りの中の性」を重視してきた。
 老夫婦のどちらかが死と闘っていたら、”つれあい”として何をすべきか—―「若い時のように、男性は雄々しくはないでしょう。女性もみずみずしくはないかも知れないけど、二人だけの性的なかかわり合いこそ、死と闘う人に安らぎを与えることになるでしょう」という。

 この日は、まず堀内郁子さん(七〇)と中沢よしさん(六八)が自分の体験を報告した。堀内さんは、七十四歳の夫を肺がんで亡くし、中沢さんは、現在、八十二歳の夫を看病中だ。
 堀内さんの夫は、ある日、急に食欲がなくなり、末期の肺がんで「二十日から一週間」と宣告され、必死の看病の結果、入院四十日後に亡くなった、という。
「最後に近づくにつれ、苦痛で本人は眠れず、一分間も側を離れることはできなかったのです。側にいて、というんです。息子はいましたが、会社のプロジェクトチームの一員とかで忙しくて、たった一人で看取ったのですが、時には疲れ果てて”私、どうにもできません”とナースステーションへ駆け込んだ時もありました」。
 ひとりで看護した四十日間を振り返りながら、当時の苦しさを思い出ししてたびたび絶句した堀内さん、その壮絶な看護ぶりに、約70人のお年寄りが集まった会場は静まり返った。

 中沢さんは、子供がいなく、最後まで自分の力で看取りたい、として大工原さんの指導を受けていた。「私が教えたのは、皮膚を通しての最後の夫婦関係をなさったら、ということでした。患者さんは、堀内さんの報告からもわかるように、一人にされると不安なのです。ひとつのおふとんでやすんでください。具合が悪い時は、しっかり抱きしめてあげてください。性行為じゃなくても、性器は若いころからいろいろな思い出がありましょうから、夫婦でしか触れない性器への温もりは最後のセックスですよ、と申し上げました」

 じっと大工原さんの言葉を聞いていた中沢さんは、静かに言った。「いつも大工原先生にお世話になりながら導いていただいています。主人も、とっても喜んでくれました。ありがたいと思っています」
 病気になったら性の事を考えないのが”常識”と見なす私たちの社会への「性の在り方」の問いかけに、頷くお年寄りが多かった。
 なお「性と死を語る会」は、二十七日も開かれる。問い合わせは同老人福祉センター(03-382-1327)。(毎日新聞・昭62・3.10)

〈夫婦の性愛を軸に看とり〉

第二回目は、二月二十七日に参加者五十二名で開かれた。話す人は、前回出席のH子さんと末期の肺がんの夫を看取るN子さん。
 フロアの参加者のT子さんは、嫁の立場で、夫(七三)の脳血栓失語症と八十八歳のぼけの姑の同時進行を看取った。
 長寿はめでたいというが、肩の荷が下りた時、嫁の自分は六十も半ば、一人娘を嫁にやり、どう死ねばよいか、何のために人生かと問いかけ、自分の問題として語られた。
 また、Sさん(七二)は、脳死の妻の看取りについて語った。

 この会は、昭和六十二年三月十日付の毎日新聞の家庭欄に〈最後のセックスのすすめ〉と題して掲載(前掲文)されて大反響を呼び、全国の読者から電話や手紙が、次々とセンターに寄せられた。
 ついで、三月二十四日の毎日新聞に、〈「勇気づけられたけ反響続々〉の見出しで家庭欄に掲載された。
「勇気づけられた」反響続々
 添い寝で、落ち着き逝った妻
 病院から週末帰宅‥‥安らぎ
 人が死に臨むさいの看取りの中でこそ”最後のセックス”が必要だとする保健婦、大工原秀子さん(五四)の提唱により、東京都中野区、同区立堀江老人福祉センターで開かれた「性と死を語る会」は、十日付毎日新聞(東京地区)で紹介されたところ、反響を呼び、大工原への電話や投書が相次いだ。タブー視された”老いの性”への関心の高さをのぞかせていた。

 秋田県に住む六十一歳の男性は、妻(当時五十二歳)を見送るまでの看護体験を原稿用紙三枚に綴った。
「妻は、急性白血病で倒れ、入院当初から私は泊まり込みで看病に当たりましたが、七カ月後に死亡しました。一時は、元気になり入浴できるようになると、一緒にフロに入りました。いつもは添い寝をしてあげたので、そばにいる安心感があったのでしょう。療養に励んでくれました」
「妻が死亡する六時間前のことでした。眠っていた妻が急に”お父さん、さようなら”と言ったのでびっくり、妻を起こしますと夢を見ていた、というんです。私は、その時、急に思いついて自分の性器を妻の手に触れさせました。妻はにっこりしました。それが私の、死へ旅立つ妻への最後のセックスというか、皮膚を通じての最後のふれ合いとなったのです」
「思えば三十二年間、共に暮らした妻への最後の奉仕でありました。”最後のセックスのすすめ”の記事に接し、私が妻の看護中に行った行動は正しかったと思いペンをとりました。ありがとうございました」
「男のロマンね、涙が出ちゃった」という大工原さん。「”急に思いついて行った”ことが素晴らしいと思うのは。優しさを与える人は、与えられる人の気持ちがわかるんですね。与えられる人が優しくこたえる。優しさが相乗りして感じ合うって言うのかなあ。そんな関係に感動しました」
 東京に住む六十九歳の独り暮らしのお年寄りは、十二年間妻を看病、がんで死ぬまでの経過を、便せん四枚にしたためた。
「死ぬまでの一年は、家庭の中で死を迎える心の安らぎと、病院の許可を得て週末は家へ帰りました。自分の死を知らず、自宅に帰る喜びの中で、互いに触れ合い、妻を励ましてきました。死を迎える妻が夫の愛情を信じ、妻として愛を受け入れる心の満足は、夫としての最後の愛のあかしでした。年老いた妻への感謝でした。妻は、家で発作を起こし、病院へ連れ帰る余裕もないうちに、私の胸の中で死に旅立ちました」
 
 夫婦生活四十年という夫は、最後に「いまはただ妻の愛情に感謝の毎日です」と書いていた。
 また、山形県の主婦は、悪性の骨髄炎の夫が入退院を繰り返し、帰宅のさいに「私を求めるのですが、応えていいものかどうか、恥ずかしくて医師にも相談できなかったのです」と悩みを抱えていたが」けさ、新聞を見て元気になり一筆書きました」という。

「死の瞬間というのは、生きることの最後の瞬間ですよね。その瞬間をどう生きるか、が大切なんです。死の瞬間は、家族を寄せ付けない病院も多いですよね。もっと患者さんと家族の温もりの関係を考えないと」と語る大工原さん。
 なお、大工原さんへの問い合わせは同老人福祉センター(03-382-1327)。(毎日新聞・昭62・3.24)
 前回、H子さんから、末期肺がんの夫の終末は、看取る側の妻も体力的に限界もあり、一分たりとも側から離れることを許さない命がけの看取りの展開の日々で、食べたいものはどんな困難を排しても手に入れ、満足してもらった。それもだんだん食べられなくなる終末を凝視した看護は多くの人に共感を与えた。

 N子さんは、三年前にご主人の肺がんが脊髄に転移したとき、相談にみえ、そのつど、夫婦の性愛を軸に看取るよう助言を受けていた。
 家にあるときは、一つの布団で肌を温め合い、夫婦だけが触れ合う性器へのスキンシップは、衰え行く夫に生きる力を、喜びを与えるようだ。小康を得てはセンターの囲碁で遊ばれる姿は、病気前より穏やかで、幸せそうに見えた。そのせいか、妻は、終末の看取りの中でも余裕をみせ、発表でも、「いつもお世話になって導いていただいて、それをうちでしていて、ここまで生きてきたんです。主人も喜んでました」と結んだ。

〈最後に望んだものは何か〉

 第三回目は、三月二十七日で、参加者は四十七名。話す人は、H子さん。N子さんと、新しくTさん(六七)の三人。それを受けたフロアの人たちとのディスカッション。つれあいのがんの看取りと、看取られる連れ合いが最後に望んだものは何だったのか、夫婦の別れをどんな形で行ったのか、を中心に話し合った。

 Tさんの場合は、入退院を繰り返す肝臓がんの妻の、最後の寝たきりの一年半を自宅で看取り、家で療養したいという希望をかなえさせた。
 昼間の体制は、家政婦と娘。夜は夫である自分一人。おむつ替えも体位交換も二回。一年半の療養中、妻はどんどん弱っていった。入浴は区役所の入浴サービスを受けた。

 看取りの留意点は、床ずれを作らない事、共倒れにならないこと。
 床ずれを防ぐためには、体を拭いて清潔にしなければならない。冬はあかぎれが出来た。共倒れにならない工夫で悩み、夜泣いたこともあった。その妻が逝って五年。
 風呂も、おむつ替えも、体を拭くのも、清潔第一。ヘルパーや娘の都合の悪いときは、仕事を休んで看た。しかし、入浴のとき、妻がベッドから降りるとき、裸になって湯舟にはいるときも、区役所の人や娘では嫌がった。「何で仕事を終わって戻って俺がこんなことを、これでは共倒れではないか」と思ったが、仕方ないから入浴の日は会社を休んで介護した。

 毎日新聞の「死と闘う人に安らぎ。最後のセックスのすすめ」を読んで、「死の床の妻が求めていたのは、口では言わなかったけれど、その事ではなかったかと感じた。妻の体の大切なところを人任せにしたのは、妻の気持ちを知る由もなかったから。知っていたらちゃんと洗ってあげた。妻は夫の皮膚のふれ合いを求めていたのではないかと今、思う」。

〈貧しかった性生活〉

 H子さんは、死について、自分なりに深く考えていたと思ったが、葬式だとか、一人残されたさみしさを感じていただけで、死に行く人の気持ち、夫婦の性愛の観点から死の看取りを考えても見ていなかったことに気づいた。

 自分達の性生活について言えば、淡白というか、貧しかった。理由の一つに、夫の深酒。第二に古い教育。女から求めることは恥、という考えできた。それまで夫婦でいろいろ話し合い、言い争いもしたが、性については、何も話をしていなかったことに今、気づいた。
 がんの夫との最後の四十日間の看取りを振り返ると夫がいろんな意味で、妻とのふれ合いを求めていたことに気づいた。

 排泄行為が自分で出来なくなると、看護婦にはさせず、妻にさせ、体を拭くのも看護婦を断わり、妻にさせた。最初は適当にしていたが、細かいところまで気配りをして、拭けるようになった。
 死んだあと見た夫の日記の中に、「体をよく拭くようになった」と書いてあって、看護に夢中で何も考えていなかったが、死に行く人が、妻の温もりや肌のふれ合いを求めるときは、こういう現し方をするのだということが、今ここでわかった、と結んだ。

〈夫婦でリハビリ〉

 第四回の集まりは、五月二十九日、四十名の参加。
 I子さん(六六)は、四十四歳でがんの手術。七年前、五十九歳の夫を肝がんで失った。
 人間は死ぬ動物だから、死ぬのは仕方ない。これからは、健やかに美しく老いようと決心。小唄や編み物は若い時からの静的な活動。これから動的な活動を少しやりたいと考えて、堀江老人福祉センターで卓球に参加して五年。東京都の試合で二位に、自主グループもでき、ユニホームを赤でそろえて、「皆で着ればこわくない」おしゃれをすることにした。

 夫婦生活は、術後二年間は行わなかった。アバラの上に皮膚が乗っているようで、胸を圧迫されると、体が割れそうで怖い。「圧迫しないヨ」と夫に言われても、恐怖心ばかりで、とてもイヤだった。
 夫も「いいんだ、いいんだ」と言って、一、二回そういうことがあったが、夫も病気になってしまって、四十代で性生活は卒業。持ったなかったと思うし、夫に申し訳なかったけど、中学時代は「男の子が座った机に座ると子供が出来る」という時代に育って、知識がなかった。もう、子作りのセックスではないのだから、皆さん、これから夫婦仲良く老後を楽しんでください、と結んだ。

〈肌のふれ合いもリハビリ〉
 次にM夫妻。妻K子さん(六五)は、五年前、脳梗塞で倒れたが回復良好。夫のSさん(七五)は、今年の一月脳梗塞。回復不良で、妻の手を借りなければ生活できない。
 シャツも一人で着られない。初めの頃、オシッコをしたいと思っているけれど、出たんだか出ないんだか分からない。そのことを聞きたくても口がきけないから、夜は大洪水。寝ていられないけど、それを側に寝ている妻に伝えられない。すべて他人や妻任せ。

 やって貰うことは感謝しているけど、何の礼もする訳にもいかず、こうやって一日一日過ごす気持ちたるや、世話をする人もご苦労だが、寝ている本人も、精神的に並大抵ではない。左視野狭窄があり、今度転んだら命取り、一人で歩いてはいけないと言われた。じゃ、寝ているしか仕方ない。皆に迷惑だから、寝てる生活を選んで二週間続けたら、座ってもいられなくなった。

 ある日、杖を突いて、やっと堀江老人福祉センターに来た。リハビリは、夫婦裸で、組みつもつれつ、配偶者を血の通った温かいリハビリの機械とみたてて、指のリハビリに豆を摘むのもよいが、オッパイを摘んだ方がいい。お尻の始末は、前戯。歩行の介助は、デート。一緒に風呂に入って、肌のつき合いというか、ふれあいが老人のセックスであり、リハビリであるときいた。

 妻が、夫の退院後の介護を意識していない自分に気づいた。少しでも暇を見て、手をさするとか、そういう愛情が足りなかったことに、気づいた。まだ、センターに通って三日目。話を聞いて夫の世話をするのだという気持ちが軽くなった。使わない筋肉は硬くなる。夫も妻の肌にふれて、夫婦の愛情を深めながら、リハビリに励むことを聴衆の前で約束して、夫婦の話は終わった。

〈失禁が遠のく〉

 次はKさん夫婦。ご主人(八十)は、若い時からの不整脈があったが健康。五十二年四月、脳血栓左片麻痺。五十八年再発。六十一年再々発のあと、脳梗塞が進み、失禁と、物忘れ。たとえばコップを持って来て、というと風呂場に探しに行く。

 妻(七六)は、五~一〇分置きに夫の排尿を確かめるため常に目が離せない。それなのに、心臓にペースメーカーを入れる手術を医師から勧められているが、この状態でも手術が必要なものかどうか迷って、夫妻で相談に見えた。
 妻に夫の排尿回数を気にしないように話したところ、夫の失禁が遠のいた。特に夫婦でセンターを利用しているときは、日によっては、用意してきた紙おむつ一、二枚ですむ。妻が「今日は成績がいいですね」といって喜ぶと、本人も「そうだ、大丈夫。いつもこうなんだ」って普段のことをすっかり忘れて‥‥。

〈意志の力でコントロール〉

 夫をぼけている、と見ていたら、余計に腹が立つ。自分を夫に合わせて、一緒にデパートに連れ立って遊んだり、散歩に出かけたりしていると、「今日は何を着て出かけようかな」というように、妻の心に余裕も出てきて、看取る心が安定すると語った。

 本人、「脳血栓でやられていますので何か暴言もあるかもしれませんが」と前置きを語り、「オシッコは年中たれ流しみたいなもんですよ。だけど、人間、意識というものがある。その時”何くそ”と思っていると、『今日は遠いわね』って妻が言ってくれます。その時、自分で、うんふんばっていると、出るのが縮まって来るんです。出ない時もあります。」と失禁の状況をきちんと語れる。

 さらに、「家内のことを先生と思っています。家内に世話になっていますし、子どもに世話になっています。もし、家内が倒れられると僕、困っちゃうんです。僕は体操が好きなものですから、体操をやる。その中で、足を伸ばすことを考え、(突如、席を離れ、台に乗り)利き足を手の代わりにして、悪い足をこう持ち上げるんです。手も同じ。お手手ふれふれ、いい運動になります。脳へのマッサージです。電車に乗ってもやっています」といって、本人の実演は終わった。参加者一同唾を飲んで見守った。
 実演がすんで、一時間半過ぎたころ、自称”たれ流し”と言っていた人が、妻の手を振り切って、自分でトイレに立って行った。失禁は彼の意志でコントロールされたのだ。支える妻、支えられる夫の感動の一コマ,一コマが聴衆の見守る中で繰り広げられた。
 次はAさん(七十四歳)の語り

〈妻を支えた夫のひとこと〉

 夫が倒れて七年間の看取り。逝って二年たった。夫の発病はある朝、庭掃除の夫が、ホウキを持って踊っていたことに始まる。どうも様子がおかしいので受診した。
 町医に「寝かせておけ」と言われ、その通りにしているうちに、意識不明、歩行困難が出現、三日後に慌てて救急車で入院。急の事態に妻は、体中がガタガタ震えるばかりのショックを受けた。夫は口がきけず歩行困難。この状態での入退院の繰り返しの看取りは大変だった。最後の入院は自宅で看取る妻が看護疲れで意識不明となり、夫の入院を余儀なくさせた。夫への、妻の見舞いと看取りは一日おきに二時間かけて二年間続いた。このつらい看取りを支えたのは、夫の一言。

「私は最初の男の子を子宮外妊娠で失い、続いて、卵巣嚢腫で子どもが出来ない体になった。夫に申し訳ない思いで、離婚を申し出て実家に帰る準備をしていたところ、夫が”お前、帰ってもいいけど、僕がまた迎えに行かなくちゃいけないから二重手間だ。やめときなさい。”って。嬉しかった。この一言に支えられて生きてきた」。

 夫の病室は、大部屋。ベッドの布団の下に手を入れて、愛をこめてさする。夫の嬉しそうな顔。夫はすぐに外の散歩をせがむ。二人になれるエレベーターの中だけ、急いでおでことほっぺにチュウをする。間もなく一階。帰りのエレベーターで再び、おでことほっぺにお別れのチュウをする。エレベーターの中が、夫婦の愛情交換のささやかな空間。

 嬉しそうな口きけぬ夫の顔をみて、明後日の見舞いの約束をして帰る。”私は通い妻”です。日頃からセンターで夫の看護方法を筆者と話し合ったことを語っていただいた。
「刺身の好きな夫が、刺身を食べたくなった。車椅子にも乗れなくなって、見舞いに行ってもジッと妻の私を見つめるだけで、私は涙が出た。今でも、刺身を見ると悲しい。これから誰もいない家に帰ります。どうぞ、夫妻健在でいらっしゃる方、一日一日を大切に仲良く生きてください」と結んだ。

〈老人同士の助け合い〉

 第五回目は、六月二十六日。参加者は五十五名。
 高齢(八三)で妻と十三年前に死別し、勤めを持っている娘と二人暮らしのYさんが、発病から闘病、回復までを、センターや老人クラブの友人に助けられた、その生活過程を語った。
 私の家系は皆丈夫で長命。私も八十三歳まで病気もしなかったので、体を過信し、丈夫にまかせて、老人会の独り暮らしで困っている人や、センターに通ってくる人のお世話を、余計なおせっかいかも知れないけどやってきた。
 六十一年六月の末、センターの帰りになると、足がつんのめるようになる。捕まるところがないと、一人で立てない。人に助けられ、休むと元気になる、ということが二、三回つづいた。
 ある日、センターからの帰り、横断歩道のちょっとした段差につまずいて倒れ、意識不明になり、緊急車で入院。内科で二カ月半の検査入院中、無断でタバコを買いに外出。病院の少し手前で、急に駆け足するように体が持っていかれるようで、電柱に捕まろうとして顔をぶつけ、塀に捕まろとして、塀にぶつかり怪我。過信が仇になった。退院して八カ月になる。

 皆さん、「自分の体を過信して、人のためにやってあげることはいいことですが、あまり人のことで心配し過ぎないようにした方がいいですよ。おかげさまで病気中は老人会の人や、センターの友人に助けられました」と結んだ。

〈なぜ泣くのか〉

 センターの友人の一人、I子さん(七四)は、単身者。倒れたYさんの面倒を見ながら、センターでよく泣いていた。勤めを持っているYさんの娘さんに頼まれて、病院には、毎日行った。
 病院食を口に合うように調理したり。Yさんが退院したある日、Yさんのためにセンターにおにぎりを持ってきた。Yさんはおにぎり一つを、涙をボロボロこぼしながら一時間かけて食べた。それを見たI子さんは、娘の留守にはYさんの自宅に出向いて世話をした。配偶者を失った高齢者同士の相互扶助の好ましい関係が続いた。

 なぜI子さんは、よく泣いたのだろう。”二人の関係は怪しい”と口にだすけど、面倒は見ない仲間の老人の陰口が、彼女を傷つけるのだ。「何の関係もない、喜ぶから役に立っているだけなのに疑われて口惜しい」。お年寄りの優しさを妨害するのは同じ年寄り。
 二人とも今は元気にセンターを利用している。

〈夫を失った妻の悲嘆のプロセス〉

 次に、N子さん(七〇)。肺がんの夫に夫婦の性愛を軸にしたケアをしていたが、その夫も他界し、百か日が近づいた。どのような気持ちの変化があったか、話して頂いた。
「肺がんが発見され、死までの三年間は、入退院の繰り返しで明け暮れたが、これで、”長い看病から解放されて、さぞや、ホッとし、よく眠れて、食欲も出て落ち着いて生活できる”と思った。葬式が終わるまでは、不思議と涙も出ず、子供がないので、甥夫婦の指図で野辺送りが、滞りなく終わって一息ついた。

 すると、悲しみの感情など少しも湧かないのに、なぜか大粒の涙が、堰を切ったようにボロボロとこぼれる。何の涙だか自分では分からない。なぜ泣けるのだろう。不思議だった。
“どうして私を残して、先に死んだの。これから、ひとり身の私はどうやって生きればいいの?”。

 そんな呟きが心の奥底に聞こえてきた。それが、どんどんとふくらんだ。
「私を置いて、さっさと先に行ってしまった身勝手な夫に、身が震えるような激しい怒りが全身を走った。腹が立った。経済的には、妻が死ぬまで困らぬ手立てが施してあることは確認しても、今度は涙が止まらない。食欲が全くなくなり、眠れない。体が宙に浮いて、自分だってことが分からないくらいだった。健康相談室で受診を勧められて現在服薬中。少しは気持ちが落ち着いてきたが、当時は体の機能がすべて停止したように思えて、五キロやせた。現在、やっと気持ちが落ち着いて、百か日の準備を忙しく整えている。」と、述べた。

〈心の回復十二段階〉
 この日の学習のために、参加には上智大学A・デーケン教授の「悲嘆のプロセス十二段階」を筆者が準備して渡した。N子さんは、○1精神的打撃と麻痺状態 ○2否認 ○3パニック ○4怒りと不当感 ○5敵意と恨み ○6罪意識 ○7空想形成・幻想 ○8孤独感と抑うつ ○9精神的混乱とアパシー(無関心)までの経過を、体験したのではないかと参加者も学習した。

 あと残された○10あきらめ(受容) ○11新しい希望・ユーモアと笑いの再発見 ○12立ち直りの段階・新しいアイデンティティの誕生、の三段階を通過する心の儀式が残されている。

 先に先立たれ人の心の回復の段階を目の当たりにして、参加者は、性と死を語る会場で、各自を深めることができ、配偶者に先立たれ百か日目ぐらいの人々の心の痛みを、感じとることができる。

〈自殺すれば面倒をかけずにすむ〉

 Mさん(七五)。脳梗塞、左片麻痺、感覚障害と左半側空間失認からの立ちあがりを語る。
 六十二年一月十六日、東京宅に外泊している妻の留守中、埼玉県の自宅で、机から立ち上がって、そのまま意識不明。どれ程たっただろうか。意識が戻っても立ち上がることが出来なかった。その間の恐怖感は筆舌に尽せない。
 連絡を絶った夫をいぶかった妻が、翌日の夜、尋ねてきて、救急車で近医に入院。十日程して、東京の病院に転院。二カ月間の治療で歩けるまでに回復し、退院。三か月間の自宅療養。そして堀江老人福祉センターを利用、リハビリに参加して一週間がすぎた。

 医師から感覚障害と左側空間失認があるので、「こんど転んだら、おしまいですよ」と言われているから、家ではとにかく動くのが恐い。だからといって寝ていればこれから先、俺はどうなるのだろうと考える。

 立つにも、すっとは立てない。よろよろとして、じきに床に膝をついてみたり、すぐに転んでしまう。左を認識できない。見えている空間は歪んでいるから、頭や腕をぶつけたり、くじいたり、オデコにコブを作ってみたり、立ってもダメ、歩いてもダメ、寝てるのが一番安全。

 寝ていれば、家族も安心するのだが、人間、やってはいけないと言われるとやってみたい。家内の目を盗んで、本やタバコを買いに行く。みつかると”危ない!!”って小言が飛んでくる。見つからないように焦るから、余計に転ぶ。何かやれば怒られる。それが続くと、「そうかい。立たなければいいんだろう、寝ていればいいんだろう、寝ていれば叱られないんだ」と、だんだんひがんで考える。

「どうせ、俺はダメなんだ」と。近所の奥さんが遊びに見えた時、自分の気持ちがやり切れないから、それを話すと、「そりゃ、旦那のわがまま。我慢しなさい、奥さんは、旦那を心配して𠮟る。愛のムチですよ」。妻も見舞客も愛のムチをくれる。愛のムチはわかるけど、三日も打たれると痛みが我慢できなくなる。「人生五十年、それよりも二十五年も生き延びた。子どもも世帯を持って、俺の責任も大半は果たした。もう、こんな俺、この世にいなければいいんだ」と考える。
 だからそういうと、妻も見舞客も、病気になって頭がおかしくなったから、そんなつまんないことを考えるんだという。だって、自殺すれば、家内にも、面倒をかけなくて済むし‥‥。こんなふうに考えるのは、ヘンなんでしょうかね。私が特別で、他の人はもっと強く生きようとか、もっと、きっちりしているんでしょうか。

〈温かいリハビリ器に〉

 Mさんの妻(六五)。昭和六十二年五月二十六日、”気晴らしになればいい”という程度の軽い気持ちでセンターに来た。健康相談室で健康チェックを受けた。「ご自分の病気の後、脳梗塞・左片麻痺・左半側空間失認のご主人をもって、ご自分がどんな状態にあるかわかっていますか」と問われた。
 ただでさえ大変な夫の世話の最中、自分の事など思ってもみなかった。夫の病状にかかわる生活を聞かれても、何の事やら、聞かれる事と答えがかみ合わない話が続いた。「あなた自身もぼけの予備軍。そんなことではツレぼけになりますヨ」と言われてビックリ。

 私は六十二歳の時、軽い脳梗塞で一ヶ月入院したが、現在、後遺症は全くない。よしんば、ぼけの三%が脳血管障害者にあるとしても、自分に当てはまることは絶対にないという自信があった。しかしこのツレぼけ頭にこたえた。
 看病しながら、ツレぼけは困る。ツレぼけどころではない。第一ぼけていたら看病などできないのに‥‥という反発があった。だから話が素直にきけない。何かすごく叱られているようで、なぜ怒られなければならないのか、わからない。「ツレボケにならないためには‥‥」という言葉で、我にかえった。三日後に「性と死を語る会」があるから、出席してその気持ちを語ってみること。その間、夫婦の性愛を軸にした家庭リハビリに励むこと。「?‥‥」

 第一にまず、二人で裸と裸のふれあい、肌と肌のふれあいが基本となる。冷たい機械を使うのではなく。妻が温かいリハビリの機械になる。広い大きな布団を敷いて、裸で組みつほぐれつ、ゴロゴロ。外出の同行はデート。指先の訓練の豆つまみは、一緒にお風呂に入って、オッパイをつまむなど。嫁も一緒に、近所のお年寄りも来ていたが、皆、目をクリクリ。半分笑っていいのか、真面目な話だけに困った。

 十二時過ぎたが、二人で耳を傾けてナルホドとうなづき合い、自分達夫婦に本当に必要なことだと、自分で感じ取れるようになった。私は涙が出た。病院でさんざん病気の説明、リハビリの必要性の指導を受けてきた。が、夫婦の性愛を軸にした指導はなかった。二人ともうれしくて。妻の私は自分の心を反省した。

 私は夫に対して、恥ずかしいけれど別居のような状態。田舎に家があっても、東京の息子の手伝いにきていて、たまにしか帰らない。嫁からプレゼントされたダブルベッドも使ったことがない。老夫婦の性行動にふれ合いのセックス。ペッティングも立派なセックスときいたが、はずかしやら、情けないやら、うれしいやら複雑な気持ちだ。私は薄情。

 今まで夫婦らしいこともしていないのに、今更そういう思いをさせられるのが情けないという不満。他人から奥さんがいるだけ”幸せヨ”などといわれれば、”そうヨ”とばかり鼻高々。そんな私が急に仏様になろうと思っても、それは無理。だんだん素直にになって、夫の温いリハビリの機械になりたい。

 実は、昨夜初めて、二人で一緒にお風呂に入った。孫たちも入って来て、おじいちゃん、おばあちゃんこうしてあげればいいって。私は裸になって、何の抵抗も無く夫の入浴の介助ができた。夫が、初めて夫婦になれたと言ってくれて、夫婦とも救われる思いで胸が一杯なった。

〈住まいづくりも自分の考え方で〉

 第五回目。H子さんが、住まいについて語った。長男夫婦とは一緒には住まない、と宣言していた夫の一周忌が過ぎた頃、長男夫婦が同居を申し込んできた。
 一人の方が気楽な気もしたが、「一人で頑張っていて病気になったとき困る。同居してお互い助けあった方がいいのかな」ということで、今の狭い家を思い切って立て直すことにした。松寿園の火事のことを考えれば、年寄りは階下がいい。でも玄関番みたいになるのはいや。日当たりよくするには二階がいい。結局二階に自分の部屋を取ることにした。

 年寄りだから、病気にもなるし、死の病につくことも必ず起こるから、面倒をみる家族も、年よりである自分も、なるべく便利で具合よく設計してほしい。長男夫婦も建築家も、病気だとか死についての言葉は、どこか遠慮がちで遠回し。

 私はセンターに来て、死ぬことについて一生懸命勉強しているから、かなり本音で話し合える。朝早く夜遅い若夫婦のペースでは、生活しにくい。年寄りのペースで生活したい。小さくてもよいから専用の台所・トイレ。レンジは電気でなく、揚げ物もしたい、シチューも好き、煮ものも作りたいからガスがよいと、これからの自分の生活を一生懸命描いて、余生をなるべく快適に、しかも若い者と一緒にいれば安全だという理想に近い方向にと依頼した。

 建築家は「よくわかりました。なかなかそういう風におっしゃる方は少ないですよ」。生と死の勉強をしているおかげでほめられた。風呂は狭いので若夫婦と妥協、シャワーをつけて夏は簡単にできるようにした。

 この話をきいて、参加者の八十歳のT子さんが、「風呂は若い人と一緒がいい。八十歳になると風呂の管理が大変」。私の嫁はとても良い嫁。家を建て替えるとき、若い人の方が長く使うのだから、「好きなように建てなさい」といった手前、建て替えには何も口出しできなかった。
 新築の家は、自分の家でも勝手が違ってきて、やっぱり何となく、ここがこうなればいいなと思っても、好きなように、と言った手前、口に出せない。その分が胸にたまって残る。いつも、もやーとしていて、頭が重くノイローゼ気味だった。

 でもセンターで相談して、自分の考え方で生きなければいけない、と思えるようになって、気分が変わってきた。住まいづくりは、若い人まかせでなく、自分の希望を話して入れてもらうことが心の健康に良い、と結んだ。

〈自分も幸せだと考える〉

第六回は六十二年七月二十四日、参加者五十六名。話す人はYさん(七六)。
 六十六歳の、ある晴れた風薫る五月、出勤時間に合わせてトイレに立った。戸を開けたとたんにめまい。しゃがんだことは覚えているけれど、その後二日間は昏睡状態。二日目担架で入院、四カ月半病院生活。意識は戻って自分の手を見た。

 自分の手を動かそうとしてみたが動かない、足も。自分で自由にならない自分の体。めまいで自分がわからなくなった時は井戸の中に真っ逆さまに落こっていくような気持ち。気が付いた時は井戸の底に明かりがついた、それでハッと思って驚いて眼がさめた。このまま死んだら苦しくないナと思った。幸い意識は回復した。

 ところが、今度は自分の頭で考えたことや気持ちを、相手に伝えることができない。頭ではわかっている。例えば、トイレに行きたい。顔を拭いてもらいたい。けれどもそれが言葉になって出てこない。日常動作は何とかできるようになったが、言葉は今もそう。

 二度目の発作は、六十年七月。朝食のとき、おつけのお椀を落とした。妻が「どうしたんだろう?」と言うから、「どうしたんだかわからない」と言った。このときも脳内出血でおかしくなった。倒れた時は、何も分からないから楽だけど、家内や子ども、家のもの全部に迷惑をかける。

 二度目もまったく歩けないし、「何か食べたい」ときくから、「スイカを食べたい」と言ったが、言葉になって出ない。だから何というか、まあ死んだと同じ。
 年寄りに残るものは、悲しいこと、と苦しいことばかりだから、現在を楽しく考えること。楽しいことはあまりないから、一時間でも一日でも一年でも、物事をこう考えた方が、”得だナ”、”幸せだナ”と思えることを思う。子どもも家内も、私の代わりに病気になってもらうことも、代わりにやってもらうことも、代わりに死んでもらう訳にもいかない。

 朝、目覚めると、堀江老人福祉センターに行くのを楽しみを持つ、バスに乗り、できる限り歩く。体の具合が悪くなる時は下半身から弱る。歩けなくなったらどうするんだろう、どうなるんだろうと考えると、恐ろしく不安になる。だから自分と同じくらいの人をお手本に、背中を真っ直ぐにして歩く。気持ちよいし、人が見ても商店街のウィンドーに自分の姿を映して、背中を伸ばせるだけ幸せだと、そのとき、そのときの自分の行動を自分でみて判断し、できる自分を幸せだと考える事で自分を慰める。

 しかし、言葉が通じないときは、とてもイライラする。自分を表現できないときは、人間を卑屈にする。イライラが嵩じると、気がくるってしまう。自分で自分の、おかしなことはわかるし、自分のことがすぐに通じないと短気になる。自分の言っている事で自分に腹が立っているのに、まわりがそれをみて、黙ってろ、静かにしろって――そう言われると自分自身に腹を立てるんで、周りに腹を立てているのではない。この気持ちをわかってほしい。

〈夫が亡くなった日〉

 第七回は六十二年九月十八日。五十五名参加。
 九十歳のN子さん。当センターの行事のほとんどすべて参加している元気印のお年寄り。
 夫に逝かれたのは四十年前で、私が五十歳のとき。役人で海外勤務の夫との間に、二男二女を儲けて、楽しい海外生活での子育て。しかし、敗戦の苦労のせいか、健康そのものだった夫の胃が悪くなった、敗戦直後で手術もできなくて、私が一生懸命介抱したけれども、半年で
患って亡くなった。
 
 夫が亡くなる日、無口な人が突然、今までさんざん苦しんだことを話し出した。自分の小さいときのことなども。
「私には親が教育してくれたのに、今、子どもの教育が終わらないうちに、こんな病気になってしまって、今後どうしたらいいんだ‥‥」。顔中涙を流して泣きますの。あんなに泣いた夫を初めて見ましたね、びっくりしました。私は手拭いで涙の顔を拭って「手を拭きなさい」と手拭いを渡した。時計の針は真夜中の十二時、いつもは黙って寝ております夫が、その時に限って、どんどん話した。

「あんまりお話しすると興奮するといけないから、またよくなったら話してください。きょうは話を止めましょう、もう十二時だから休みましょうね」。私は正直に私の気持ちを伝えて、布団を引っ張り上げて寝かせましたが、そう言っている私を全く寝かせない。

 私はあれよし、これもしておりましたら、大きな声で「オシッコ」と言うんです。尿瓶を持って来て枕元に座って、出るのを待っているけれど、なかなか「いい」と言わない。「まだ」と聞いたら大きな声で「まだ」。しばらくしてから「まだ」と聞くと「まだ」。大きな声で言うので私は枕元に座って、眠りながら待っておりましたね、「おわり」大きな声でいいますの。尿瓶を見ると、いっぱい尿が出ていますの。

 トイレに捨ててきましてね、「おとうさん、尿がいっぱい出ましたよ、良くなりますよ、よかったですね。でも布団にこぼれたでしょう」と聞くと、「こぼれない」。布団をなでてみると、本当に全くこぼれていない。そうこうしているうちに、時計が二時を打ちました。夫に「休みましょう」と言って私も寝ました。

 次の朝、少し寝坊をしたのですよ。びっくりして、大急ぎで朝の支度にとりかかりました。枕元に洗面器を持っていき、うがい水を足して。カッタン、コットンいつもなら、洗面器の音が聞こえますのに今朝は静か。「ああ、おかしいナ」と思いながら、「おとうさん、おはようございます」と隣の部屋の夫に声をかけた。返事がない。急いでお布団を開けてみたら、まあ、びっくり、夫はもうこの世の人ではなかった。
 間もなく死ぬとは知る由もない、夫との会話。しっかりもしていたし、大きな声を出せていたのに――。
 四十年前を、昨日のことのように淡々と語った。

〈面倒はかけたくないけれど〉

 脳梗塞、左片麻痺、感覚障害と左半側空間失認のあるMさん(七六)、六月に発表して三ヶ月後の経過報告。
 三日前が敬老の日だった。新聞、雑誌、テレビ、ラジオで老人のことについての報道が毎日のようにあった。どんなことを、喋ってくれるのかなあ? と思って注意を集中して聞いた。
「長生きおめでとうございます」とみんなが言う。自分が年取ってみて、何がおめでたいのかな? と考えた。この会で話を伺っていると、めでたいめでたい、と一概に喜んでもいられない、というのが、年寄りの心境じゃないかと思う。

 男の平均寿命が七十五歳。私は七十六歳。だからローンで言えば完済、人生済んだ。けど寿命がまだ残っている。人生捨てるわけにもいかないから、それなりに暮らさなければならない。現在、息子夫婦と孫のいる家に厄介になり、家内もいて面倒を見てくれる。「幸せね」って。帳面づらは揃っている。果たして内容が幸せかと言うと、やっぱり人間なんてのは、不満があるんですヨ。つらいところが沢山ある。

 どういうところがって。一口に言ってしまえば、やることなすこと思うようにいかない。こっちがぼけているから、丈夫な人からみると、「何あんなことやってるんだ」なんて不満なんですよネ。それが日常生活の中で、小言になって返ってくる。

 たとえば、おシッコだとかウンチの事ですよネ。失敗することがままある。「気を付けなければダメよ」って。それはそうだと思いますヨ。気を付けなければ、こっちも困るんだから。だけど、やっちゃうんですよね。「ごめんなさい」って言うんだけど。

 そう言っていながら、またやっちゃってね。「きのうも言ったじゃないの、またこんなことやってる」と、こういう風になるでしょ。これ以上つらいことは、ないですね。わかっているけどできないのですよ。

 妻に同情心があるときは、「病気がさせているんだから、自分でそんなに苦しまなくていいヨ」と言って助け舟を出してくれるんですよ。ホッとします。
 孫もいるのに、おじいちゃんまでがそんな面倒をかけて、仕事ばかりふえちゃっう。やり切れない。
 家族で食事をする。孫の前でこぼす。「おじいちゃん、こぼれたよ」無邪気に孫が言う。前には孫に「行儀よく食べなければいけないよ」いま立場が逆。家族といっしょの食事は楽しいはずなんだけど、私にとっては三度三度の食事時間が、かえって苦痛なんですよね。

 これから先、死ぬまで、こういうことを毎日毎日くり返していくんだと思うと、何がおめでたいんだね。苦しみを、耐えてゆかねばならないのが、これから先の俺の余生だ、と思うとね、手放しで喜んでもいられない、というようなヒネクレた感じを持っているんですけれど。皆さんは、そんなことはないでしょうか。

〈夫をスリッパでたたく〉
 Mさんの妻。夫が倒れて二カ月目の医師の診断は、「これはもう再起不能、老人ホームに回すように」。「なんだかこのままの状態で悔しいじゃない? かわいそうすぎるし、なんとか自分達で面倒を見よう」。
 子どもも嫁も言ってくれて、狭いけれど長男夫婦の所にお世話になった。本人も自覚して、「クヤしい、クヤしい。これでこのまま老人ホームで寝たきりのまんま過ごすのは、クヤしい」。自分でも奮起して死に物狂いのリハビリ。

 家に帰ってきてからです。尿も便も教えるようになった。ようやく立って歩けるようにもなった。医師から、「こんど転べば命取り――」と言われたので、家族も病院で禁止されたことは忠実に守らせようとした。
 破れば手で、スリッパで、お尻を叩く。夫のMさん「変なことをやるとバチンとはたかれるから、はたかれるのも、いいのかも知れないけど痛いからね。痛いスキンシップ、甘いスキンシップ、心持ちよいスキンシップ。今はここで教わったおかげでスケージュールじゃないけれど、いろいろごちゃごちゃ現れますから、いつ、快いのが来るのか予定は立っていませんけれどね」

〈我慢にも限界〉

 Mさんの妻は、夫は何でも自分で主導権を持ってましてね、妻のいうことをきかない。私もその頃はすごく個性が強かった。ところが、作り上げた性格はそんなに簡単に変わらないから、考え方を変えなければいけない、と健康相談室で助言を受けて、感じてはいたが、やっぱり妻の私が、変わることの必要を感じた。

 泣きながら随分努力をして、やっといい夫婦になれたかナ、と思うと、夫が病院でやってはいけない、と言われていることをやる。ぼけているのなら許せる。それがちがう。タバコを吸ってはいけないのに、私がお使いとか、ちょこっと目をはなすと、外に買いに出かける。本を買いに行った、と言っては読まない本を買ってくる。そして転んで怪我をしてくる。

「転んだら命取り」といわれているから、くやしくて、スリッパで叩いてしまう。きっと近所のどなたかに迷惑をかけている。誰にお世話になったのか、覚えていないから、妻として礼も申し上げられない。「なんだ、あそこの奥さんは挨拶にもしない」と思われないかと考えると、身も縮む思い。

一、 二回は我慢する。三回目は「どうしてわからないの?」。私は泣きながらスリッパで叩
く。夫はそれが不満で、不満を他でもらす。センターに週二回リハビリに行くようになって、ご一緒する奥さんも、奥さんが変わったらご主人がよくなった、ときいて、夜になって、ああ悪かったなと思い、夫がベッドから落ちそうになると、下に寝ている私は夫の手を握ってあげて、私のごめんなさいという気持ちを伝える。そういう程度で、まだ夫婦の触れ合いまでは考えられません。

〈愉快なダンスを〉

 第八回は、六十二年十月二十三日、参加者五十名。Aさんは七十四歳.
私は、中野区の寿大学の第十期性。若い頃少しダンスを習っていたので、クラブ活動に社交ダンスを選んだ。「寿大学で学んだことは、必ず地域に帰ったら地域に還元してください」。講師から常々いわれていた。四年間でダンスをもだいぶ上達した。同級生のみんなから教えてほしいと請われて、卒業後自分のダンススクールを持たざるを得なくなった。

 ひとにうかつなことは教えられない。そう考えたので、有名な先生に弟子入りして、勉強しながらサークル活動をつづけている。昨年は、中野区の教育委員会から声がかかり、中野区にある専門学校の学生にダンスを半年教えた。
 また、堀江老人福祉センターの保健婦さんがボランティアで主催する中野区にある「アルコール中毒の患者と家族の看護勉強会」別称"断酒待とう会"でダンスのボランティアを一年以上続けた、酒害で苦しむ患者さんや家族の心と体のリハビリテーションのお手伝いをしている。

〈ハデな格好の方が楽しい〉
 私は若い頃は身体が非常に弱かったが、四十歳を過ぎるころ、ウエストが八二センチ。ダンスを始めると二、三年で六九センチになった。そこで持っている洋服のズボンを全部ベルト通しのない六九センチのダンス・ズボンに仕立直した。普段は、ベルト通しのないダンス・ズボンの上に上着を着て出かける。

 人間死ぬまで生きなければならないのだから、”楽しく生きよう”と決めた。仏教では人間が死ぬと土に還る、というので、日本人は年を取ってくると、服装が地味になる。土に還る、というからいわゆる焦げ茶色とか灰色の濃いのとか、黒っぽいものを着る。

 ところが、キリスト教では、主の元に参るわけですから、死ぬまで楽しく、同じ楽しく生きるのなら、なにも地味な格好をしないで、年齢にとらわれず、若い者に負けないような気持ちでやった方が楽しいではないか、と、皆派手になるんだそうです。

 私もダンスをやっている関係で、頭の毛は九十歳くらいに見えましょうが、せめて首から下は派手な格好をした方が楽しいのではないかと思うし、また事実楽しい。
 あるとき、私のサークルのご婦人が、寿大学に、派手なワンピースを着てきた。私が「いいじやない」と褒めた。「何でいつもそういう格好をしないの?」ときくと、「ご近所がうるさいの。こんな格好でうっかり表に出たら、近所の人が、どうしたの、今日のその格好、男でもできたのと言われてしまうからどうしよもない」というのです。

「いいじゃない、そんな人の口ぐらい。だけど、今日はどうして着てきたの?」町内会の旅行で、口のうるさい人がみんないなくなったから思い切って着てきたのよ」。「そんなに近所のことばかり気にしているんなら、いっそうの事、家の中の四畳半に閉じこもって、地味な着物を着て、朝から夕方までお経をあげてご主人を偲んでいたら一番いいでしょ。ご近所でも”ああ感心な奥さんだナ”と褒められますヨ。でもネ、人間をご近所で生かしてくれません。生きるのはやっぱり自分です」という話をした。私はダンスを生きがいにしている。

 ダンスの発祥の地はフランス。一六六〇年代、ルイ十三世のときはじまった。日本ではちょうど大阪城が落ちて秀頼と淀君が死んだとき。初めて日本でダンスを踊ったのは、今から百二〇~百三十年前、日比谷に鹿鳴館ができたとき、皇族や華族が外国の外交官や領事館の人達を招いて踊ったのがダンスの始まりときく。日本のダンスの歴史は浅いが、今頃はブーム。ダンス熱が盛んで、中野区の各地域センターで、月曜日から土曜日まで各サークルが練習している。決してむずかしくはない。歩ける方でしたら、どなたでもできる。健康にものすごくいい。みなさんも、一回踊ってみたいナと思いの方がいらしたら、ご自分のお住まいの近くの地域センターへお出ましになって下さい。
 人間は死ぬまで生きなければならないのですから、朗らかに、愉快に、死ぬまで一生けんめい病気をしないようにしたい。

〈老人結婚相談所のはなし〉

 Iさんの発表
 過日、「茶飲み友達相談所」準備委員会四名とセンターの保健婦で、小平の結婚相談所を見学した。開設は、昭和五十一四月。開設理由は、六十五歳以上の六千百九十九人の調査の結果、孤独感を感じている人が千百二十四人。孤独感の理由のトップが、配偶者が亡くなった。話し相手がいない、であった。民生委員の訪問活動や老人相談事業の中でも配偶者を紹介してほしいという声もあった。

 明るい老後の生活を送ることができる街づくりに、寄与するものの一つとして、老人結婚相談事業を実施したという事である。準備として、五十一年二月、老人相談員四人で他市の結婚相談所三ヶ所で視察を重ねて、○イ 申込者の年齢=男性六十歳以上、女性五十歳以上。○ロ 申込者の地域=地域は限定しないで全国の老人を選ぶことができる。○ハ PRの方法=老人クラブ・民生委員・関係行政機関への連絡。市報、老人福祉だより、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌等各方面にする、と決めた。

「成果」は一年間で六十二年現在、お見合い件数が三百十一組(開設以来三千五百三十一組)、交際中四十五組(お見合いご連絡のあった人)、結婚数一二組(開設以来百二十八組、未入籍含む)有効登録は二カ年という事である。

 結婚したい理由のアンケートに答えて「一位」は話し相手がなく心細い。「二位」子どもが独立して孤独になった。「三位」老後を明るく意義あるものに、将来が不安と、答えている。

〈シルバーパートナーづくり〉

Iさんの発表
 今回は前回と同じメンバーで墨田区のシルバーパートナーづくりを調査してきた。
 昭和六十年五月、区長と住民との話し合いの場所で配偶者を失った高齢者の生きがいが話題になった。さっそく区内の有識者が集められ、生きがい問題の検討委員会が作られた。医師会一人、民間人一人、老人クラブ二人、民生委員二人、法律相談一人、社会福祉協議会一人計八人。検討の結果、六十一年七月一日「シルバーパートナーづくり相談」として事業化された。墨田区厚生部高齢者福祉課が墨田区社会福祉協議会に委託して発足した。

 目的‥‥配偶者がなく孤独感をもつ高齢者を対象に、親しく話し合えるひとりの異性(茶飲み友達)を紹介し、生きがいを高め老後を楽しく過ごしていただく。
(一) 申し込み者の条件‥‥○1 原則として墨田区の在住者。○2 対象者、配偶者と死別・離別または未婚の人。○3 年齢、男六十歳以上、女五十歳以上。○4 家族の了解が得られる方。○5 成果は、開所以来登録は三百二十二人。お見合いは三十九件、成立二十組。
(二) シルバーパートナー相談の申し込みの方法‥‥・○イ 相談申し込み書に必要事項を記入押印の上、カラー写真一枚添える。ない人は相談室で撮影できる。○ロ 相談および紹介カードの閲覧の日時。毎週月水金の午前十時~4時(年末年始を除く) ○ハ 紹介を受けた後 a「交際したい」「断りたい」の意向を翌日相談員に連絡する。b 交際がはっきり決まるまでは、相手方をたずねたり、住所、電話番号を教えたり、名刺等を渡さない。 ○ニ交際中の注意、a 交際を断るときは、相談室に来所して理由を報告、b 相談で知った個人の秘密は他人にもらさない、c 紹介などによる個人の民事上の責任は一切負わない、万一トラブルが起きたときは、双方で解決する。 ○ホ登録の取り消し、a 登録してから一年以上相談員に連絡がないとき、b 紹介を受けた方は、良識と節度をもって相互の責任で交際すること、これに反したときは登録を取り消す。

 〈終末期をどうするか〉

 昭和六十二年九月十六日 参加者三十五名
 司会(大工原)人間は誰でもが死に向かって生き続ける存在であり、生きるからには死の瞬間まで生き生きと、その人らしく生きる工夫が必要である。長寿社会では、人生の終末を楽しく豊かに準備、演出する時間がある。

 終末をどこで生き、誰に看取られ、その場をどのように演出したいかを、もし決めている人があったら、お話を伺いたい。
 Kさん(八一歳)私は家で死にます。
 司会 枕元はどのようにしますか?
 Kさん 皆に集まっていただきます。自分の子どもと兄弟。子どもは六人いますから。
 司会 お嫁さんや孫たちは?
 Kさん 来ると思います。いつもお正月と夏は一緒に集まりますから。お葬式の別れの言葉は、これから書いときますから、それを読んでもらいます。墓石は作って渡してあります。

 お金は長男にまかせてあります。嫁さんと考えて何事も最低でよいと言ってありますから、それでやってもらいます。
 司会 ではその日までどのような生活設計を立ててますか。
 Kさん 毎日 堀江老人福祉センターに通ってお世話になって、皆様のお話しを聞いたり、催しものに参加したりして喜んでいます。朝は道を歩きながら犬を連れている人や、幼稚園へ行く小さな子どもに挨拶します。またむこうの方も覚えていてね、向こうから「オハヨウ」「お帰りなさい」そう言ってくれるから、「あーうれしいナ」と思います。だから毎日歩いてお互いに「こんにちは」「さようなら」と言いながら歩いていますから、呑気に暮らしています。

 〈Kさんの静かな旅立ち〉

 Kさんは、七十八歳で胃がんを手術。本人には告知されておらず、家族とセンターの職員のみが承知していた。だから職員はKさんの言動をみて、いつお別れになっても悔いない対応に心がけた。しかしこの発表の日からわずか六カ月後のある寒い朝だった。Kさんが起きてこない。Kさんの部屋にお嫁さんが様子をみに。
 Kさんは静かに小さな息をしていた。さっそく救急車が呼ばれて近くの病院に入院。家族が集まるいとまも与えず、Kさんは静かに旅立った。

 家で死にたい、と前回Kさんは希望していた。けれどこの頃では、死にゆく人の望み通りにはいかない。万一に備えて、往診体制は整えてあるかどうか。死にゆく人の希望はかなえてもらえるのかどうか、家族とともに再度チェックが必要だ。

 〈特別に考えていない〉
 Sさん(七五歳) 私もあの世に行っても惜しまない年齢です。現在ひとり暮らしの生活は健康状態が悪いから淋しい、と思わないわけではない。三人の子供達が、週一回は電話をかけてくる。その時だけは、いかにも張りのある声を出して、「元気でいるヨ」と、心配をかけたくない、ひとつの見せかけをする。

 私があの世に行くときは、三日間ほど、子ども達に集まってもらって世話になりたい、という計画だ。しかし、こればっかりは、自分の思うようにはいかない。今朝も、救急車がピーポー通った。あの方は、どういう病気で救急車でいらっしゃるのかナ、と思ったりした。

 司会 まあ誰でも長患いせず三日ぐらいであの世に行きたいとおっしゃる。もし計画通りいかない場合は、その時の手順は出来ています。

Sさん ご近所にお願いしてあります。私に異常があるときは、四人に連絡をとるようにと。
 司会 異常があって、救急の処置はとれたとして、病気が長引いた時は、どうなさるおつもりですか。

 Sさん いいえ、私の心づもりだけ。
 司会 ご出席のひとり暮らしの方、どのようにお考えですか。
 Bさん(七八歳) 私は今のところいつ倒れるかなんて考えていない。家の前がお総菜屋さんで、必ず夜食を届けてくれるから、倒れれば、娘と息子に電話してもらえる。それから先は考えていない。

 C子さん(八一歳) 私はマンションに一人で住んでいる。息子は札幌におり、「お母さん八十になったのだから心配。こっちに来ないか、札幌にいらっしゃい。」庭に別棟を建てると言われても、長年東京に住み友達もいる。毎日のように出かけているが、行き先はカレンダーに書き込んで、出先が分かるようにしてある。音楽教師をしていたので、中野区に教え子も沢山いる。息子は札幌から週に一回は電話してくるし、娘は近くに事務所を持っていて週一回は夕食を共にしている。子ども達には「お母さんはまだ大丈夫だから」と健康にまかせて気ままに生活して頑張っている。

 Y子さん(七七歳) 私はひとり暮らしといっても、一階が事務所、私は二階の十五畳を一人で使って食事を作ったりしている。三階には私の家族が住んでいる。私は元気なので、特別考えていない。

〈わびしい余生〉

 Y子さん(六七歳)。
 卓球のコーチをボランティアでしている。習いに来ている人が四、五十人。九〇%は未亡人。平均年齢七十歳。
 カレンダーに書き込んだ行事にずうっと出ていても、夜になるとなんとなく侘しい。
 私たちの時代は、男性と話すことがとても少ないし、今頃、ちょっと話したい、と思っても、未亡人というレッテル貼られて、世間の人が、すぐ噂にするからイヤだ。ハデなもの明るいものも着たいと思うが、「バカにこの頃明るいんじゃない、お化粧もしているじゃない?」って言われると、とてもつらい。この頃、テレビで刺激的な番組をみると、なんとなくつらなくなって、第二の人生を、結婚しなくてもよいから、自分の話を聞いてもらえる。男の茶飲み友達がほしい、という相談を受ける。だから、そういうチャンスに恵まれるような場ができたら楽しいのではないか。
 Hさん、八十二歳。私は百二十五歳まで生きる。こうなったら意地でも生きなければ損。私が七十歳のとき、家内は私で、よくどちらが先に死ぬかを話し合った。家内は「それは当然私が後ですよ。三年若いんだから」と、叱り飛ばすように言っておきながら、私を裏切って、家内はバアーッと墓場いってしまった。

 二階には娘夫婦が住んでいて、私がブザーを鳴らせばすぐ下りてくるようになっている。食事は、娘がブザーを鳴らせば、私が駆け上がって行く。二階の上り下りが困難だからと、手すりを作ってもらった。なぜ家内が死ぬ前に作ってもらわなかったのか、妻をいたわれたのにと、自問自答している。

 司会 それで茶飲み友達がほしいと思いませんか?
 Hさん イヤ そのことで友だちの奥さんが、「あなたネ、茶飲み友達をみつけると、家庭が複雑になりますよ。それを承知しなさい。できれば不自由かも知れないが、作らない方がよろしゅうございますよ」と言われる。

 今は、娘夫婦が二階におるのだ、いたずらに事を構えるようなことはしないで、親子水いらずでおった方がいい。ただ、娘夫婦が先に死んだ場合が困る。
 先月、朝日新聞の社説で、明治時代の教育の思想は今は通用しない。妻や夫を失ったら、適当な人物を獲得するように努力しなければダメだと。私は娘に「お前たちが転勤になったらオレどうするんだ」とネ。その事を考えると寝ていてもねつけない。娘の亭主も後頭部が白くなりハゲてきた。転勤もあるだろう。先に死ぬかも知れない、とおもうから、また新聞の話をした。すると、「おやじは八十歳もすぎたから二号みたいなものをほしいんだナ」って。二号がおれば、一号がおるわけでしょ。それが必要だといているに。

〈死をどうとらえるか〉

 Aさん(七三歳) 私は死ぬことはあまり考えていない。いつ、どこで死ぬかは全く予想できない。どこで、いつ死んでもそれは仕方ない。だから考えていない。
 私は五十代後半で先妻を亡くし、五、六年独身で暮らして、再婚し。たが、老人には茶飲み友達は必要と思う。このことは地域で真剣に考えていい。ただ高齢者の再婚は複雑だから、これは地域で機関を作ることが、必要だ。

Bさん(六十六歳) 私はバアさんがいるから、死ぬことは考えていない。財産も何もないが、五、六年前、墓地だけは高尾に買って準備している二人の子供達は中野に住んでいて、「そういうことをすると、余計長生きする」と言われた。

Cさん(六十三歳) 私は女房に逃げられた。今一人暮らしだが、別に食べる事には困らない。逃げられた当初は再婚とか考えたが、二十年もたつと考えることもない。ただ毎日が楽しく過ごせればいいと考えている。死については考えていないが、心臓が悪いから、明日いなくなるかも知れない。

 司会 人間は生まれる時も死ぬときも、必ず人の世話になるけれど、その時どうしますか。
  Cさん子どもが三人いるから、それぞれの家庭で面倒見てくれる。
 司会 親が死ぬとお金だけ分け合って、遠慮の塊で遺体が残るというご時勢ですが、大丈夫?

 Cさん それでもいい、死ねればそれでいい。
 Dさん(七三歳) 死は誰もが、必ず来る問題だから、いつ死んでもよいと覚悟している。ただし交通事故とか、道路とかでなくて畳の上で大往生したい。妻も健在、三人の子ども達は独立、車で一時間の距離。かあちゃんは六歳下で、ピンピンしているし、お墓も作ってあるから今のところ心配はない。

 H子さん(七八歳) 夫が死んで二十年、あんまり苦労したから、ヤレヤレと思う気持ちが強く、淋しいなどと思ってもいない、互助会で葬式資金六万円貯めたが、盛大な葬式はしないように息子に言った。息子が障害者だから、区役所で安くしてもらえると言っていたが葬式は焼くだけ焼いて、お墓が熊本にあるから主人の墓もあるのでそこに入る用意はしてある。持病で胸が苦しくなって救急車で日大病院に連れて行かれたから、あの病院で死んだ方が私はいい。

 司会 これから死の寸前までを、どう楽しく生き生き過ごされるのですか。
H子さん 私は書いたり読んだりすることが、好き。お針も好きで、結構忙しいから、毎日楽しんで生きている。

〈今までに学んだこと〉

 第十回目は、昭和六十二年十二月二十五日クリスマスの日。参加者四十二名。
 今までに語り合ったこと。
1、 病気で倒れたときの本人の気持ち。
2、 配偶者に倒れられたときの家族の気持ちと戸惑い。
3、 家族の面倒見に終って、年老いてしまった自分の人生。
4、 自宅を死に場所に決めていても病院に連れて行かれたYさん。
5、 単身老人の茶飲み友達の会発足の準備。
6、 どんなに夫が努力しても夫婦の絆が結べない拒否的な妻との葛藤。
7、 アルコール関連問題に苦しむ本人と家族の集いに毎月一回、ダンスをボランティアしているAさん。
8、 がんの配偶者の看取りを乗り越え、子供夫婦と同居する意味と自分の住む間取りの設計を語ったH子さんなど、大勢の語りのなかから様々なことを学んだ。

あとがき

 昭和四十八年と昭和六十年に実施した二つの調査の数字を比較検討して、これらのデータから、お年寄りの生き方を考えようとしたとき、拙著『老年期の性』の読者などのお年寄りから、さまざまな生き方を寄せられて来た。人生五十年型の生活規範から脱却した人々の生き方、迷い、などである。
 人間の性は、性器結合だけでは終わらない、男・性、女・性をもった人間が、また同性同士が、さまざまな環境条件の中で、心を造出する脳に、五感を働かせて情報を送る。知、情、意を司る人間だけが持っている、大きな脳の仕組みのなかで、人間の持つ本能行動をこんとろーしながら、お年寄りは自分らしさを確認し、老いの性を、コミュニケーションの手段として、他者のとのかかわりの中で生きている。さまざまな生き方を、お年寄りから学んだ。お年寄りその人がその人らしい、心理的青春を生きる。

 この本には「女性はいつまでもSEXを求めるか」(『婦人公論』平成元年6月・中央公論社)。「老人と生」(『熟年公論』)平成三・五・七・九・十一号・平成二年一号。全国高齢社会研究協会)「ふれあいよろず相談室」『堀江老人福祉センターニュース』それぞれの文章に加筆して一冊の本にまとめた。
 一九九〇年 初冬  大工原秀子