あの人は品格があるよね、というのは、単にお金があるからとか経営者だとかいうことでではなく、生来、その人に備わっている何ともいえない優雅で風情のある感じ、という事なのだ。
「生来、備わっているもの」を、大人になってから本を読んで身に着けよう。というのは、それじたい矛盾がある。マニュアル式には身につかないものであって初めて、それは「品格」と呼ばれるのである。本表紙香山リカ著から
ピンクバラ性欲を満たす強姦型では女性からは嫌悪感・憎しみを伴うセックスでもある。どんな心優しい妻であっても、いずれ早い時期に生理的に性交痛になるは当然であり、閉経後の性欲減退を余儀なくされる夫婦の最大の問題となっている「セックスレス」夫婦。

品格と野心、この時代に必要なのは?

品格とは生来備わっている優雅さのこと

「品格」という単語が、やたらと本のタイトルに使われたことがあった。
『国家の品格』に『女性の品格』はミリオンセラーとなったが、「品格本」出版が続いた。

 ついには『自分の品格』という本まで出たと思ったら、歯切れのよさで知らせる女性作家の島村洋子氏は『「品格バカ」が多すぎる』を出版。これには思わず笑ってしまった。

 この「品格ブーム」も一段落したかなと思っていたら曽野綾子氏が『老いの才覚』という本を出してベストセラーとなった。今度は「才覚」時代が来たのか、と思う間もなく、曽野氏の夫君である三浦朱門は『老年の品格』という著書を出版し、これまた大評判。「品格」もまだ生きているぞ、というのを、妻に見せつけた形となった。

 品格のない人ほど、「品格」本を読みたがる、という説もあるが、いずれにしてもこの単語にビビッと反応する人は思った以上に多かった、ということなのだろう。

 さて、ここで言われる「品格」とは何だろう。国語辞典『大辞林』(初版 一九八八年 三省堂)で「品」を引くと「質のよしあしなどで区別した、物の等級。身分」といった説明があるが、「品格本」の「品格」とは、ただの等級、階級の事ではなくて、それじたいに肯定的な意味が備わっている何かだ。辞典の説明の中では、次がもっともそれに近いものであろう。
○6(「科」とも書く)人や物に備わっている好ましい様子。
○ア(身分が高いことを示すような)優雅なおかしがたい感じ。また、物の風情・情趣。ひん。「陪従の――おくれたる、柳に挿頭の山吹わりなく見ゆれど/枕二二〇」(編集部注、「枕」は「枕草子」の略)

 つまり、「あの人は品格があるよね」というのは、単にお金があるからとか経営者だとかいうことでではなく、生来、その人に備わっている何ともいえない優雅で風情のある感じ、という事なのだ。
「生来、備わっているもの」を、大人になってから本を読んで身に着けよう。というのは、それじたい矛盾がある。マニュアル式には身につかないものであって初めて、それは「品格」と呼ばれるのである。

なぜ「品格」がブームになったのか
 では、なぜ、「品格」はブームとなり、いまだに多くの人のあこがれであるのか。おそらくそこには、「理屈で解るものはもうたくさん」という社会の雰囲気が関係しているのだろう。
 たとえば、続いて「正義」というキーワードも登場した。これは言わずと知れた、ハーバード大学の熱血教授、マイケル・サンデル氏の著書『これからの「正義」の話をしよう』が引き金になっている。

 正義論じたいは、哲学の世界で長らく続いてきたおなじみのものだ。とくに最近では、社会計画や国家の構築といった現実的な問題と結びつけられて、哲学的なテーマである。「正義」が語られることが多くなっており、「政治哲学」という新しい学問領域も生まれた。先のサンデル氏、この政治哲学の専門家である。
「正義」をめぐる動きについて、哲学者・藤本隆志氏の名著『哲学入門』(一九九〇年 東京大学出版会)から引用させてもらおう。

 現在先進国指導者の多くは自由競争と平等・福祉政策のバランスをとることに腐心している。この二つは、シーソー・ゲームのように、一方が重くなれば、他方に荷重してやらなくては、ゲーム全体として進行しない。そして、「社会的正義」といわれるものは、単一・独立の概念ではなくて、自由と平等との均衡関数に他ならない。(中略)

 正義の女神は右手に剣をもって「敵か味方か」「剣かコーランか」「正統か異端か」「自由か死か」の択一を迫って正邪を分断しようとする戦いの神であるが、同時に左手にもった天秤で正邪の均衡を計ろうとする軽量の神でもある。

 この「女神」とは、ギリシャ神話に出て来る女神テミスのことを指しているのだろう。
 よく知られていることだが、テミスという女神には、ほかの神々とは違う不思議な特徴がある。それは、彼女が目隠しをしていることだ。

 なぜ、目隠しをしているのか。いちばん有力な説は。テミスは自分の前に立つ者の姿をあえて見ないことで、外見や貧富で正義の基準が変わらないようにしている、というものだ。このことから、後の、法の下の平等という法理念が生まれた。

 ただ、藤本氏によると、この女神テミスの目隠しは、現代のわれわれにとっては別の意味も持っている、という。複雑な現代社会では、「自由主義と社会主義の正邪」とか「自由と平等の優劣」とかを正しく決めるのは、ほとんど不可能だ。だからこの目隠しは、正義の女神でさえよく解らない、という意味にもとれるのではないか。これが藤本氏の主張だ。

 なるほど、たしかにそのとおり。今の世の中、「こっちが正しくないのはわかるけど、じゃ、あっちは正しいのかと言われると‥‥解らない」と、頭が痛くなるようなことばかり。たとえば、悪事を働く人が正しくないのは当たり前だが、検察の取調べのいい加減さもクローズアップされており、検察が正しいかと言われるととてもそうは思えない。おまけに誤認逮捕などもあったりするから、社会的に注目される事件の容疑者が逮捕されても、「許せない!」と素直に憤ることもできない。「彼がやったとしたら到底、許し難いことだけれど‥‥でも、警察がまた先走り過ぎていたとしたら‥‥」などと奥歯に物が挟まったような反応しかできないのだ。

 吹き荒れるデフレ旋風にしてもそうだ。先日、異業種の人たちと居酒屋に行く機会があった。四〇代、五〇代の男性たちは、メニューを見て「オレが若かったころ半額くらいじゃないの?」うわっ、五〇円メニューなんてもあるよ」とその安さに感動していた。

 ところが、その後の話題は、「どうすればデフレ経済を立て直せるか」。「世の中全体として今の値崩れ状態は困るが、自分が買うものだけは安くしてもらいたい」ということか。これはまさに、”目隠しをした状態”といえるのではないか。ただ、目隠しをしているのは女神ではなく、メタボ男性たちというのがちょっと残念だが。

 このように、あっちを見てもこっちを見ても、理屈で考えると答えがわからない、矛盾が避けられない、という現象、問題が山積みだ。そんな中で、考えるのも面倒くさい、考えてもしょうがない、と目隠しをする人が増えている。

 とはいえ、たまには目隠しをはずし、「誰が何と言おうと、正しいのはこれ!」とはっきり言いたくなることもあろう。
 その誰が考えても「よし」というもの、それが「品格」なのではないだろうか。

「品格」は現代の「聖」?

先の藤本氏は、ヨーロッパの例を挙げながら、「自由・平等・正義」は現実の社会で合理的に考えるべきもの、「聖」と「俗」に分けるなら、「俗」の次元に属するものだと述べる。ところが、人々は時として「聖」の次元も求めたがる。欧米の場合、「聖」の次元に属するものの代表が、「博愛」や「友愛」などのいわゆる「愛」というのだ。

 たしかに、キリスト教文化が根強い欧米では「愛」というのはある意味、絶対的な価値であり、それ以上、善し悪しを論じることのできないものとされることが多い。

 あるとき、必要があって英語の聖書を購入したら、表紙の裏に「you are loved.」というフレーズが印刷されていた。「あなた自身がどうあれ、あなたはすでに神から愛されているんですよ」と言った意味なのだろう。

 こう言われて、「わあ、そうだったのか」と感動する人もいるだろうが、日本人の中には「えっ、知らないうちに誰かに愛されていた、だなんて‥‥」とちょっとこそばゆい思いにとらわれる人のほうが、多いのではないだろうか。「一方的な愛」は、西洋では「至高の『聖』」であるかもしれないが、日本ではたあまりなじみのない、不可能あるいは厄介なものなのだ。

 とはいえ、日本でも、とくに理屈で判断が付きかねるこの時代、何か「聖」なる次元がほしい。そう思っていた人たちの心にビビッと響いたもの、それが「品格」だったのではないだろうか。

「あなたは品格があるね」と言われて、「何を失礼な!」と怒る人はまずいない。ところが、「じゃ、品格って何よ?」と問われると、先に述べたように、「生まれ持って身についた優雅さ」といったあいまいな説明をするしかない。

 これぞ、日本の「聖」。「品格」と言ってしまえば、それ以上、理屈や分析は通じない世界に突入し、私たちは「あの社長に足りないのは、品格だよね」「そう、まさに品格」とうなずき合い、お互いに深くわかり合ったような気になる事が出来るのだ。

 ただ、それにはあくまでも「解ったような気になる」だけであって、本当の理解、合意がそこにあるかどうかは、疑わしい。

「原節子には品位があった」とか、「往年の政治家にあったもの、それは品格」というあたりなら誰もがうなずけるはずだが、例えばこんな言いになるとどうだろう。
「ホットパンツには品格はないけど、ミニスカートなら品格がある」「屋根なし球場にあってドーム球場にないもの、それは品格」「地デジにはアナログテレビにあった品格はない」。これそのものではないが、限りなく似たフレーズは実際に目や耳にしたことがある。

 まあ、なんとなくわからないでもないけれど、深く考え始めると意味が解らない。結局、「品格」とはそんな程度のものなのだ。

野心はどこかに消えた

 一方で、とくに現代の若い男性が「草食系」になって野心がない。と嘆く声もよく聞く。先日、主婦層向けの生放送の情報番組に出演して、「私の息子、娘のこんなところが心配」という電話を募集したところ、とくに息子を持つ母親たちから次々に驚くべき声が寄せられた。
「同居している会社員の息子、毎月の給料からおこづかいを一万円だけ取って、あとは全部『お母さんの好きなようにして』とわたす。このままだと結婚できないのでは?」
「息子は生まれてから今まで三〇年間、一度も恋愛経験ナシ。親の私が『合コンにでも行ったら?』とけしかけても、『面倒くさいし』と動こうとしない。どうすればいいのか」
「大事なことを自分で決めようとせず、全部、親に相談しくる。進学、就職、恋愛、すべてそう。相談されるのはうれしいが、あまり従順すぎてコワくなる。もっとワルになれ、とも言えないし‥‥」

 電話してくる母親たちは、悩み半分、自慢半分という感じで、息子がいかに素直で優しく、自分を頼りにしているか、を語る。聞いていると、隠し事も反抗期も何もない。ただ、本質的な「生きる力」に乏しく、もし自分がいなくなったらその後、この子はどうなるのだろうと、どの親も心配しているようだった。

 そういった相談を聞きながら一番感じたのは、「いったいこの家庭で、父親たちは何をしているのか」ということ。

 息子は母親が好きで、母親は息子が好き。洋の東西を問わず、太古の昔から共通の法則だ。
 その母と息子の依存関係の前に立ちはだかるのが、父親という存在。ありていに言えば、息子に「お母さんはオレのものだ! おまえのものじゃない!」と告げ、雄々しく母親を略奪する。息子は当然、父親の言い分を理不尽だと感じて抵抗するが、結局は、その”男性力”の前に屈服し、「お母さんはお父さんのものだ」と認めざるを得ない。そして、父親への畏怖と敬意を心に抱き、こう思うのだ。

「オレもお父さんのように強い男性になって、いつかは母親のようなステキな女性を妻にしよう」
 これが、有名なエディプス・コンプレックスの”最善バージョン”である。このほかにも、「父親が怖すぎて萎縮してしまい、息子が自分らしい人生を送れなくなる」などエディプス・コンプレックスにはいろいろなバージョンがあるのだが、いずれにしても父親は一度は、自分の権威を我が子に見せつけてやらなければならない、という事になっている。

 ところが、先ほどのテレビ番組で寄せられた事例では、父親の姿が見えてこない。おそらく彼らは、自分の仕事、趣味、もしくは婚外恋愛に忙しく、妻が息子とベッタリしていても、さほど気にならないのであろう。いや、もしかすると妻の関心が自分に向かないことを積極的に歓迎している夫も少なくないかもしれない。

増え続ける「母だけを愛する息子たち」
 そうなると、エディプス・コンプレックスも何もあったものではない。息子は誰にも邪魔されず、母親に依存欲求と愛情を向け、母親も「自分の最高の作品」とばかりに息子を愛でる。その結果、当然のように「結婚できない息子」「実家から出て行かない息子」「貯金通帳を母親に預けっぱなしの息子」といった”ちょっと変わった息子たち”か゜大量生産されることになるのだが、母親は「困ったものねえ」とため息をつきながら、ひそかに満足の笑みを漏らしているのかもしれないのだ。

「いいじゃないの、幸せならば」と歌謡曲の歌詞のようなセリフが思い浮かばないでもないが、ここで大きな問題はふたつ。

 ひとつは、息子たちがいつまでも「ママが一番」だと、非婚化、晩婚化は進む一方で、その結果、少子化の問題も解決されない、ということだ。診察室に来たある女性が言っていた。
「男の子は、結婚しちゃえばどうせ家に寄り付かなくなるでしょう。だから、孫がいたとしても結局はおなじなんですよ。ウチの場合、娘が結婚して孫を連れてしょっちゅう帰ってきますから、それで十分なんです。息子は四〇近くなっても家にいますが、結婚の予定はなさそうですね…‥」

 つまり、「孫を見たい」という欲求は娘を通して実現しているので、息子はいつまでたっても「手がかかる子ども」のままでいてくれればいい、ということだ。ただ最近は、娘を結婚させようにも、その相手となる男性の方が今度は実家にベッタリ、ガツガツしていないいわゆる草食系なのでうまくいかない、という問題も出てきているようだ。

 それからもっと深刻なのは、親がいつまで息子の面倒を見られるか、ということだ。今は七〇代の母親が四〇代の独身の息子の世話をする、などというのは珍しくなく、八〇代の母親、中には九〇代の母親までがほとんどオジサンと化した息子と同居して食事の支度や洗濯をしている、というケースを見たこともある。こうなると、親子なのにすでに老々介護。しかも、子が親を、ではなくて、親が子を介護しているのだから、驚きを通り越して感動してしまいそうになる。

 おそらく今後、こんな母と息子の組み合わせは激増していくだろう。そして、いよいよ母親が先立つ日が来たときには、「妻も子もおらず、生活能力も皆無」の六〇代、七〇代の男性たちがひとり取り残される、というわけだ。その面倒を見るのも、福祉の仕事となるのだろうか、と愕然とする。

 もちろん、この「母だけを愛する息子たち」は意地が悪いわけでも計算高いわけでもなく、たいていの場合は素直で純真な”よい子”たちだ。もっと言うならば、彼らこそ、実に「品格」の高い人かもしれない。だんだん年をとってきた母親の話を、ニコニコしながら「そうだね、そうだね」と聞いてやり、母親が作る料理を「世界一おいしいよ」と飽きずに食べる。もちろん、その食べ方も優雅に違いない。なんせ、「早く食べなければ誰かに取られる」といった心配もないのだから。
 しかし、この「品格」が少子化を促進し、本人自身がひとりで生きていく力を奪う、という大変な事態を招きかねないことは、先に述べた通りだ。

オヤジの時代をとり戻そう

 また、父親たちも「ウチは妻と息子が仲良しでね。いっしょにオペラ鑑賞に出かけるんですよ」などと、品格ある態度で笑っているわけにはいかない。妻はいそいそと夫の好みより息子の好みを優先して料理を作り、さらに事態が悪化すると粗大ゴミ扱いにされることにもなりかねない。挙句の果てには、ひとりではサバイバルできないひ弱な息子が出来上がり、「あなたは子育てに失敗した」とまわりから責められることもことだってあるだろう。

「考えても答えはわからない」と、「品格」とか「才覚」といったタイトルのついた本ばかり読むのはやめて、たとえ品がないと言われようと、不毛だと冷笑されようと、「いや、オレはやっぱりこう思うよ」「違うよ、そうじゃなくて」と議論してみてはどうだろう。

 仏教の本も大流行りのようだが、禅語を二つ三つ、暗記してつぶやいて、悟りの境地に達したフリをするのを、そろそろやめてみるのだ。そして、「やっぱり納得いかないな」と社会のことでも身近なことでも、異議申し立てをしてぶつかっていく、これまた死語だが、そんな「ガッツ」が今こそミドルからシニアの男性たちに求められているのではないだろうか。

 息子世代の若い男性たちも、そんなガッツ丸出しの父親や上司を見ても、「まったくオヤジはセンスのかけらもない」と笑うのをやめてほしい。衝突を避けて、わかり合ったように微笑み合えばいいというものではない。時には泥臭く、口角泡を飛ばして、言いたいことを言ったり、ほしいものを狙ったりする。失敗したらおおいに傷つき、酒でも飲んでウサ晴らし、また新しい壁にチャレンジする。

「何それ、昭和時代の映画か何か?」と言われそうだが、そんな”うざいオヤジ”を見かけたら、若者たちも離れた場所から苦笑していないで「どうしてそんなことをするんだよ?」と声をかけてほしいのだ。

 もちろん、妻たちもそんな夫の姿を見たら、「私は息子と食べ歩きしていたほうがいいわ」
 などと言わずに、「がんばって! カッコいいわよ!」と熱い声援を送ってあげてほしい。
そしてたまには、息子が、「美容のためには、シリコン鍋で作る野菜のスチーム料理がいいだって」といくら言ってきても、「お父さんはお刺身と手羽先の煮物が好きなの」とおしゃれ度の低い料理を食卓に並べてほしい、と思う。

 品格のない生活。ガッツ丸出し、野心丸出しの生き方。がむしゃらにやりすぎて、過労うつや過労死というのは困るが、今求められているのは、そんな”センスダウン”なのではないだろうか。

「や〜、センスなら元からゼロだよ、ゼロ。サイズにし自信があるけどね、ワハハ」というオヤジの時代が、これからやって来るような気がしている。いや、日本再生のためにも、必要なのはそんな「オヤジ力」なのではないか。

 長髪さらさらヘアの草食系の息子たちも今のうちから覚悟して、髪を脂っぽくする練習でもしておいたほうがいいかも知れない。

6 いつまでも「性的機能」にこだわる男たち

中年男性の願望

 男はなぜ、年下の女性が好きなのだろう。
 中年男性と人妻の愛を大胆に描いた渡辺淳一氏の小説『失楽園』の主人公・久木祥一郎は、五五歳という設定であった。
『失楽園』と同様、日経新聞に連載された『愛の流刑地』の村尾菊治も、五五歳。どちらも主人公が五〇代なのは、電車の中で日経新聞を読むビジネスマンを意識しての事だったのかもしれない。

 この久木と村尾、どちらの作品でも相手は三〇代半ばとされている。「人妻」という設定も同じである。男性には、自分が何歳かにあまり関係なく、「三〇代半ばの人妻と恋愛したい」という願望があるのだろうか。

 芸能界でも、二二歳の木下優樹菜と三九歳の藤本敏史が結婚したり、二七歳の上戸彩と四三歳のEXILEのリーダーHIROが結婚したりと、年の差カップルが誕生するたび、スポーツ紙は「よくやった」と賞賛の声を浴びせる。もちろん、二〇代美女をゲットした四〇代男性に対してである。かつて日本経済新聞のサイトにも、テレビドラマ製作に携わるプロデューサーの次のような声が紹介されたことがあった。

「『若い女性は本当に四〇代男性に興味があるのか』というヒアリングを行った。すると『結婚対象としてもアリ』という声が想像以上に多く、驚いたという」(「オーバー四〇男子はなぜモテる?」二〇一一年一二月)

 おそらくこれを読んで、「なるほど」とニンマリしたのも男性たちだろう。
 二〇代女性と恋愛したい四〇代.三〇代女性と恋愛したい五〇代.その年の差は二〇歳。
では、六〇代、七〇代はどうなのだろう。それぞれ、二〇歳下の四〇代、五〇代の女性と恋愛したいと考えればよいのか、というとそうもいかないようだ。

 川端康成の名作『眠れる美女』の主人公・江口は六七歳であるが、彼が性の対象とするのは一〇代の少女たちである。今なら大問題だ。江口が通う「眠れる美女の家」では、性的機能をもはや失ったと思われる男性の客たちが一晩中、ベッドの上で眠り続けている美少女たちを”鑑賞”する。接吻までは許されるが、それ以上の行為は禁止とされている。

 しかしその中で、いまだ性的機能が保たれている江口は、なんと少女たちと”それ以上”の行為に及ぼうと試みようとする。いわゆる性行為が成功したともしないとも、眠り続ける少女たちがそれを受け入れたとも拒絶したとも、あまりはっきりとは記されていない。具体的に記されていないからこそ、読者は空想たくましくして、江口の心情や行ったことに思いを馳せることになるのだ。

 設定だけで見ると、少女愛趣味の変態老人を描いた異様な作品、としか思えないが、この『眠れる美女』は川端康成の短編を集めた文庫のタイトルにもなり、多くの読者に長く読み継がれている。もちろん描写や文体の美しさにひかれて読む人が大半だと思うが、中には「老人でも若い美しい少女に恋愛感情、性的関心を持つこと」に、ひそかに共感あるいは憧れの感情を持つ中年あるいは老年男性も少なくないのではないだろうか。

 二〇一二年に亡くなった思想家・吉本隆明氏へのインタビューで構成された『老いの超え方』(二〇〇六年 朝日新聞社)でも、高齢者の性欲について語られた箇所がある。
「昔から『女性は灰になるまで』と言いますが、それは男も同じで灰になるまで、それはなくなりません」

 吉本氏は、この性欲を「精神的要素と身体的な要素の両方を総合したもの」としてその意義を肯定し、自らもそれがなくなっていないことを冗談交じりに披露する。
「どこか外に出てたまたますごい美人にすれ違うことがあるでしょう。そうすると『すごいな』と思う(笑)」
 しかし、吉本氏が言う高齢者の『性欲』とは、それは具体的な交際や性行為に移すための原動力でなく、むしろ自分の中だけの感情に近いものを意味しているようだ。
「若いときなら追いかけていくこともあるけど、そういうことはありませんから、気分を左右する、和らげるという意味合いなら、両性とも死ぬまでそれはあるのは普通だし、あったほうがより気分がいいのではないかと思いますね」

男性にも更年期障害がある。

 こうやって小説や芸能ニュースなど取り上げてみると、男性が描く「老後の恋愛、性」にはいくつかの共通見解があることが見えてくる。

 六〇歳までは”恋愛、性愛の現役”として、二〇代、三〇代の女性と積極的に恋愛したい。
 六〇歳超えても、異性への性的関心や性欲は変わらず存在する。とはいえ、それをどこまで実行に移すかは、ケース・バイ・ケースである。ただし、性的行為があるなしは別として、若い女性、美しい女性への興味はあるし、かかわりも持ちたい。

 女性にしてみれば”ちょっと待ってよ”と言いたのではないか。六〇歳まででも六〇歳を過ぎてからも、その興味、関心の対象となるのは、どうも「若くて美しい女性」であるようだ。ところが、女性は三〇代までで加齢が止まるわけではない。高齢化社会の半分を占めるのは、あたりまえだが高齢女性たちなのだ。四〇代以降の女性たちには、同世代からも上の世代からも、もちろん下の世代の男性たちからも恋愛の対象にならない、というアンバランスが起きている。

 そして、一〇代から三〇代半までの女性の多くは、五〇代や六〇代やそれ以降の男性ではなくて、やはり同世代の男性と恋愛や結婚をしたい、と思っているはずだ。

 ここで悲しいミスマッチが起きている。四〇代以降の女性たちはどの世代の男性からも恋愛の対象にならず、失望感を味わっていると同時に、実は三〇代より下の女性たちを永遠に求め続ける五〇代以降の男性たちも、その願望が実現する可能性は非常に少なく、やはり同様に「挫折感」「敗北感」を抱いていると考えられるのだ。

 さらにミドルからシニアの男性たちの、「敗北感」を強めているのは、「オレ、性的にもうダメなんだよ」という性的機能の低下だ。最近は、性的機能の衰えだけではなく、この時期の男性たちがさまざまな面で心身の不調を感じる「男性更年期」にも注目が集まっている。実際に検査や治療を行う医療機関も出てきた。つまり、男性も女性と同じような「更年期障害」がある。というのが医学の世界の常識となりつつあるのだ。

『失楽園』の渡辺淳一氏は、二〇一二年になって新聞小説『愛ふたたび』の連載を始める。
これは性的機能を失った七三歳の医師がそれでもなお女性と性愛関係を保とうとする、という物語だ。一九の地方新聞などに掲載されて大きな反響を呼んでいたが、二〇一三年になってほとんどの新聞で連載が突然、打ち切りになった。「内容が過激すぎると抗議が殺到した」というのが新聞社の言い分だったそうだ。渡辺氏は連載を始める前に、掲載紙のひとつである「日刊ゲンダイ」で心意気をこう語っている。
「私はこの小説で、日本人の固定観念を根底から覆したい。実に殺伐として詰まらない社会に一石を投じ、老いというものを前向きに捉え、多彩で豊かな人間関係を築くための、起爆剤にしてほしいと思っている。これまでにない、人生と性の深淵に鋭く迫る作品を目指します」(ホームページより)

 ただ女性の多くはこう考えるのではないだろうか。「多才で豊かな人間関係を築くことは、たしかに人生のテーマ。でも、それが別に”日本初のインポテンツ(性交不能、勃起不全)問題を真正面から取り上げた小説”でなくてもいいんじゃないの‥‥?」
 いずれにしても、男性にとって「性的機能の喪失」もたらす男性更年期やその後の老年期は、たいへんな問題があることは確かなようだ。

更年期障害の治療法は?

 では、女性の場合は卵巣機能の低下による卵巣ホルモンの減少が原因ともなって起きる更年期障害は、男性では何が原因となっているのであろう。男性の場合は女性のように「閉経」といった身体の変化が起きているわけでないのに、はっきりとした症状につながるようなホルモンバランスの乱れなど本当に起きているのだろうか。

 女性の更年期障害のチェック、治療を行うのは婦人科だが、男性の場合は「男性科」があるわけではない。男性の更年期障害は、「(一部の)泌尿科」が扱うことになる。泌尿器科の専門医たちの見解は、次のとおりだ。

 男性の更年期障害の原因は、男性ホルモン(テストステロン)の減少だ。しかし、閉経などがない男性では、女性ほど急激にホルモン減少しないし、個人差も大きく「年齢ごとの正常値」もはっきりしない。男性更年期の場合。重要なのは「今の男性ホルモンの数値」ではなくて、「以前からどのくらい減少したか」なのだ。しかし、その”以前の数値”が記録されているケースも多くないので、診断はさらに難しくなるのだという。

 こうなるとますます、「なぜ、うつ病でなくて、男性更年期だとわかるのか」と区別がわかりにくくなるのだが、泌尿器科医の見解としては、女性の更年期と同じようにこの男性更年期には、「ほてりや冷え、うつ症状や不眠、筋力の衰えや体のだるさ、性欲減退、勃起力の低下」など心身にわたり多岐に症状が現れるのだという。

 治療は女性更年期と同様、「足りないホルモンを補う」という男性ホルモン補充法だ。しかし現段階では、男性ホルモン補充は女性のようにパッチで簡単に、というわけにはいかないどころか、内服薬さえその安全性が確立されていない。少なくとも二〜三ヶ月と長い時間がかかる、という報告もある。さらに、一度、効果が出た人の中にも、治療開始後半年くらいで「ホルモン補充療法をしなくても大丈夫」と治療の必要性がなくなる人も少なくないのだそうだ。

 一度、低下した男性ホルモン生産機能が、注射をきっかけに再び高まるとは考えられない。これは精神科医としての推測なのだが、「もうオレは人間としてダメなのだ」と思っていた彼らは、「それはあなた自身のせいではなくて、男性ホルモンの影響なのですよ」と言われたことで安心し、注射の効果でさらに「まだ大丈夫なんだ」と力づけられ、心理的な暗示効果により症状を克服することが出来た、という事ではないだろうか。ここからも、この男性更年期障害は「ホルモン半分、心理半分」ではないか、という事がわかる。

 このように、精神科医は「はい、あなたは男性更年期ですね。ホルモン注射をしてみましょう」と診断を下すことには慎重にならざるを得ないのだが、そのあたりについては、泌尿器科医たちも同様のようだ。この問題に積極的に取り組む筑波大学病院泌尿器科は、患者さん向けのホームページでこう言っている。

 数年前に、男性更年期外来を受診する患者さんの半数以上にうつ病を認めるという報告がありました。LOH症候群(男性更年期障害)の症状は様々ですが、うつ病の症状もかなり重複することや、精神科や心療内科にかかるのは抵抗があるという患者さんが相当数いらっしゃることが、その一因かと思われます。また、既に精神科で投薬を受けているにもかかわらず症状がよくならないと言って来る患者さんも比較的多くおられます。LOH症候群に関しては、初診時に質問票に答えていただき、男性ホルモンを測定することにより診断が可能ですので、一度相談しにいらっしゃっていただければと思います。当科でも両方の科にかかり治療を継続されている方もいらっしゃいますし、精神科・泌尿器科が互いに連携し、患者さんを紹介しあい、患者さんにとって最も良い治療を行っていきたいと考えています。

「自然な老化」なのかもしれない

 このあたりも男性のデリケートさを物語っていて、「なんとなく調子が悪い」と思った五〇代から六〇代の男性の中にも、「うつ病」と言われて納得して安心する人、むしろ「男性更年期障害」身体的問題と言われて納得する人、そして「ただの気の持ちようです。何でもありませんよ」と言われて安心する人、いろんなパターンがあるのだ。そのあたりをうまく見極めることも、これからの医師には必要になるのではないだろうか。

 現在、私の勤務先のように「女性外来」を併設する病院は全国的に増えつつあり、更年期の年代の女性の治療に婦人科医と精神科医が協力してあたる、というケースも増えているが、男性の場合は「男性外来」で泌尿器科医と精神科医が‥‥などという話はまだ聞いたことがない。医療の場ではこれまで”少数者”だった女性のための専門外来がいち早く設置されたのに対して、”多数者”である男性が逆に適切な医療が受けられず、場合によっては精神科医と泌尿器科医のあいだで、”医療難民”化しているというのも、なんとなく皮肉な話ではある。

 しかし、診察室で「私は更年期でしょうか? 早く治療してください」と真剣に訴える四〇代五〇代の男性たちと話しながら、私はときどき感じるのである。

「その不調、とくに性的機能の衰えは、本当に治療が必要な更年期障害ですか? もう五〇代なんですから、若いころのように心身の元気がなくなるのはあたりまえなんじゃないでしょうか。逆に性的な能力が若いころとまったく変わらないとしたら、そっちのほうが不自然じゃないですか‥‥」

 そこで、「あなたは障害じゃなくて、自然の老化です」と言ってよいものかどうか、といつも悩んでしまうのだ。常識的に考えると「治療が必要なものじゃなくて、ごく自然のプロセスです」と言われると喜ぶはずだが、この人たちはそうではない。むしろ、「病気です。病気だからこそ薬とカウンセリングで治ります」と言われたがっているのだ。

 素直に言って、私としてはこの「更年期障害「には、「私の性的機能低下は、また元に戻る一時的な障害なんだ」と思いたがっている人たちのための”駆け込み寺”的な要素が強いのではないか、と考えている。もしかすると、「あなたは更年期ではなくて、自然の老いですよ」と伝えて、「ああ、よかった。病気じゃないんですね。それはこの年齢ですから、あっちがダメになっても仕方ないですよ。そのほうがほっとします」とすんなり認める人こそが、実は本当の「男性更年期」なのではないか、とさえ思っている。

 最近は六〇代、七〇代になってから、「超年下妻」を娶るのがオトコとしての理想、などと言われているが、それは相当な無理を強いられるということだ。また、もしそういった女性と親しくなる機会があったとしても、女性は決して必ずセックスを求めているとは限らない。
「性的に女性を満足させられなければ、男性としての役割を果たしているとはいえない」といった幻想から、まず男性自身が解放されることが必要ではないだろうか。

つづく 7 不倫をしながら家族を愛する男の本音