大阪で高校二年の少年が、部活の男性顧問によって体罰を受けた後、自宅で自殺していたことが、二〇一二年一月八日に大阪市教育委員会が公表した。
この問題は大きな注目を集め、その後、体罰や厳しすぎる指導は是か非か、と全国的な議論が沸き起こった。報道よると、この顧問は、高校バスケ部の指導者として全国的に知られる存在で、その熱心な指導ぶりで保護者やOBからも信頼されていたという。本表紙 香山リカ著から

赤バラ心と快楽と身体のすれ違の「セックスレス」を、どうやって埋めていくのか。たかがセックス、されどセックス、といつも思う。そして、寿命が延び、いつまでも女、いつまでも男と願っても叶えられない現実は不倫、浮気しかないのか?

15 時代や社会は人にどう影響を与えるのか

地位や権限は人を変える

 大阪で高校二年の少年が、部活の男性顧問によって体罰を受けた後、自宅で自殺していたことが、二〇一二年一月八日に大阪市教育委員会が公表した。
この問題は大きな注目を集め、その後、体罰や厳しすぎる指導は是か非か、と全国的な議論が沸き起こった。報道よると、この顧問は、高校バスケ部の指導者として全国的に知られる存在で、その熱心な指導ぶりで保護者やOBからも信頼されていたという。

では、その”熱血先生”が、なぜ一線を踏み越えた”暴力先生”になってしまったのか。
そこには「全国大会常連校の指導者」という立場とそれに伴うプレッシャーとが、強くかかわっていると思われる。「地位が人を育てる」というのは良い意味で使われることが多いが、実は地位はその人を誤った方向に暴走させてしまうこともあるのだ。

エール大学の心理学者スタンー・ミルグラムが行った実験を知っているだろうか。詳細は本人による興味深い著作『服従の心理』(原著は一九七四年、日本語新訳版は河出書房新社より二〇〇八年に出版)にあたってほしいが、この実験は「人は簡単に権威に服従し、自分の信念を変えて残虐なことまでしてしまう」という事実を明らかにする。

どんな実験か、簡単に説明しよう。まず、研究所で「心理学の実験のアルバイト」の募集が行われる。そこに集まった人たちに、係員が「これは学習における罰の効果を測定する実験です」と説明が行われ、クジ引きをさせて「教師」と「学習者」の役割が与えられる。実は、この実験にもクジにも仕掛けがあり、募集に応じて集まった人はみな「教師」の役が当たるようになっている。その場で「あ〜、私は『学習者』が当たった」と言っているのは、みな事情を知っているサクラなのだ。

それから、学習者役の人たちは別室につれていかれ、インターフォンを通して教師役が読み上げる問題にこたえることになる。そして、間違った場合には、罰として電気ショックが与えられること、そのボタンを押すのは教師役だという説明で行われる。

実は実際には電流は流されず、教師役がボタンを押すと学習役のサクラがインターフォンに向かって苦痛の叫び声を上げるだけなのだが、教師役はもちろん、自分が本当に電気ショックを与えているのだと思い込んでいる。

電圧は最初四五ボルトだが、学習者役が間違えるごとに一五ボルトずつ上げられる仕組みみであることが伝えられる。もし学習者役の誤答が続くと、教師役は「非常に強い」と書かれた二一〇ボルト、「危険」と書かれた三七五ボルトのボタンまでを押さなければならなくなる。もちろん、電圧は上がると学習者役の”苦痛の叫び”も大きくなる。

どこかの電圧のレベルで教師役が押すことにためらいを見せると、白衣を着て威厳のある博士と思われる人物が現れて、「さあ、続行してください」と指示を与える‥‥。
いや、いくらそれが仕事であっても偉い博士に命令されたとしても、「非常に強い」「危険」と明示された電気ショックボタンを押す、などといった非人道的な行いを続ける人はいないのではないか。そう思う人が多いかもしれないが、実際の実験結果は驚くべきものとなった。

なんと教師役の四〇人中二五人(六二・五%)が、用意された最大電圧である四五〇ボルトまでもボタンを押した、というのだ。繰り返すが、実際には電流は流れていない。電圧が上がるたびにサクラの学習者役が悲鳴や大きな叫び声を上げ、それがインターフォン越しに教師役に聞こえるだけなのだ。とはいえ、何も知らされていない教師役は、別室で苦痛に身をよじる学習者役の姿を想像できるはずだ。

途中で「もう辞めたい」と申し出たバイトもいたが、それでも博士が「あなたに続行してもらうことが必要なのです」と忠告すると、ほとんどは再び実験に戻った。それでも四〇人中一五人はドロップアウトしたが、三〇〇ボルトに達する前に辞めた者は一人もいなかったといわれる。つまり、「『危険』のボタンを押してください」と言われて、ようやく「やっぱりできません、辞めます」と一部の人だけが辞めたという事だ。中には緊張からなのか何なのか。インターフォンからの悲鳴を聞いて高笑いをした人もいたらしい。

使命感のはき違え

この実験は、人間のさまざまな心理を示唆している。
その一つが、「人は役割に合わせて自分を簡単に変えるもの」ということなのではないか。いくら謝礼をもらっていたとしても、権威ある博士の指示だったとしても、教師役という絶対的に優位な立場が与えられていなければ、罰の電流ボタンを押すこともなかっただろう。逆に言えば、いったん「これが私の仕事だ」と思い込んでしまえば、あとは普段はどんなに優しい人であっても穏やかな人であっても、「課題を失敗した者に罰を与えるのは当然だ」と疑問なくボタンを押したり、「私は義務を果たした」と押すことにある種の満足感を覚えたりもするのだ。

このように、地位や仕事は本当に怖い。時として、その人の人間性を丸ごと乗っ取ってしまう場合もある。生徒に理不尽な体罰を与えた”熱血指導者”も、もともと暴力的な人だったわけではなくて、「この部を優勝させるのが私の使命」「自分は名門運動部の顧問」との役割に自分を過剰に適応させることで、簡単に人間性を失って生徒たちに鉄拳制裁を与えることを何とも思わなくなってしまったのではないか。

もちろん、これは他人事ではない。とくに「長」とつく職位にある男性、「先生」と呼ばれる男性は、まわりの人たちにとっては頼れる存在であり、時としてその人たちを指導し、指示を与えなければならない存在だ。中には「私の人生がどうなるかはあなた次第」「あなたしか頼れる人はいません。なんとかよろしくお願いします」とすがられ、頼られることもあるかもしれない。そうなると男性たちは、「力を尽くそう」という使命感が高まり過ぎてしまい、時として自分が絶対的に優位な立場にある、特殊な権限が与えられている、と錯覚してしまうことがある。

たとえば医者の中には、あれこれ不満を訴える患者さんに対して、「そんなにイヤならもうこの病院を退院してくれてもいいんですよ。ほかにも入院したくて待っている患者さんたちは大勢いるんです。私はたくさんの人の命を救わなければならないのだから、あなたにだけかかわっていられないのです」などと言い渡す人もいる。これなども、自分の役割に過剰に適応しすぎたあまり、自分の優位性を絶対的に信じてしまい、それを盾にして、「電流ボタンを押すような発言」をしたと言えるのではないだろうか。

もちろん学校教育の場では、ただ生徒に甘くやさしくすればいいわけではなく、ときには厳しさも必要だ。私がいる医療の現場でも、「タバコはやめてください」「決められた薬はきっちり飲んでください」などとしっかり伝えなければならない場面もある。しかし、どんな立場にいても、人間はある地位や権限を与えられたり、さらに上の権威に指示されたりすると、容易に基本的な人間性を失って、考えられないような暴走をしてしまうことを忘れてはならない。

女性の場合、与えられている役割、立場はひとつではなく、「会社では経営者でも、ウチに帰れば親を介護する娘」になる、などということが多いので、このような暴走は比較的、少ない。これは「いつどんな場面でも私は支店長」と自他ともに思いがちな男性に多く見られることだと考えてもよい。

新型うつはマスメディアの造語

 とはいえ先ほども述べたように、「長」がつく人間の場合、部下や従業員に対してただ「何をしてもいいんだよ」と寛大な振舞ばかりしているわけにはいかないのも事実。
 最近、管理職の立場にある人に会って「私は精神科医です」と名乗ると、必ずと言ってよいほど「新型うつ」について尋ねられる。

「仕事になるとうつになって、自宅療養が必要という診断書をもらうとたんに元気になる。あの『新型うつ』って何なんですか」「胃の具合が悪いと外来に来ていた患者さんが、突然『新型うつ』なので薬をください、と言い出して対応に困った」「ウチの会社の従業員で休職しながら海外旅行に行っている人がいるけど、あれが『新型うつ』なのか」など、多くの経営者や管理職たちは、マスメディアで話題になっているこの病に振り回されているようだ。

 この「新型うつ」はよく知られているように、マスメディアの造語であり、正式な診断名ではない。日本うつ病学会もサイトの「うつ病Q&A」などを通してこんな見解を発表している。

「結論から述べますと、『新型うつ』という専門用語ではありません。むろん精神医学的に厳密な定義はなく、そもそもその概念すら学術誌や学会などで検討されたものではありません。一方、『非定型うつ病』は、歴史的にはさまざまな定義が与えられてきました、最近の米国精神医学会診断基準(DSM-IV)では、大うつ病のうち、過食、過眠、鉛のような体の重さ、対人関係を拒絶されることへの過敏性などの特定の症状を有するうつ病と定義されています。この場合、正確には『非定型の特徴をともなう大うつ病』と呼ばれます。しかし、啓発書やマスメディアで使われる「非定型うつ病」は、教科書的なうつ病のプロトタイプに合致しないうつ病・抑うつ状態を広く指して用いられ、『新型うつ病』とほぼ同義に扱われることもあるようです」

 日本うつ病学会が、「世間で『新型うつ病』あるいは『非定型うつ病』とされる」としてあげる特徴は、以下の四つだ。
「若年者に多く、全体に軽症で、訴える症状は軽症のうつ病と判断が難しい」「仕事では抑うつ的になる、あるいは仕事を回避する傾向がある。ところが余暇は楽しく過ごせる」「仕事や学業上の困難をきっかけに発症する」「患者さんの病前性格として、”成熟度が低く、規範や秩序あるいは他者への配慮に乏しい”などが指摘される」

 たしかに、従来から若年者のうつ病は教科書にあるような典型例とは異なることが多く、うつ病とは区別され、「適応障害」と診断される心理的原因に基づくうつ状態との見分けも困難な場合が多い。また、とくに若い世代では全体的にその人間像も昔とは違うので、「うつ病になれば会社に申し訳ないと思うはず」という。かつての常識は通用しなくなってきている。このあたりが、「『新型うつ病』という新しい病が出現した!」とマスメディアを色めき立たせる結果になったのではないか、というのがうつ病学会の見解のようだ。

 では、「新型うつ病」と言われているようなものも、結局は「従来からのうつ病」あるいは「従来からの適応障害」のどちらかに分類されるのだろうか。

 ただ、簡単にそう言い切れてすませてしまうのも、ちょっと危険な気もする。丹念に面接を重ね、「やっぱりこの人は典型例とはかなり違うけれど、うつ病と診断できるのではないだろうか」と考えられる患者さんに抗うつ薬を処方しても、副作用ばかりが前面に出て少しも抑うつ気分が改善されない、という話はよく聞く。私も外来で日常的にそんなケースに遭遇し、「いくら病像は昔とは違っても、脳の中の機能異常という面はうつ病はうつ病のはずなのに、なぜ薬がきかないの?」と首をかしげることが少なくない。

 もちろん、うつ病の治療には投薬だけでなくて精神療法的なかかわりも重要になるが、その場合でも患者さんの訴えを受容する支持的精神療法や、ものごとの感じ方、情報の受け取り方などを修正していく認知療法を行っても、期待していたような成果が得られない場合も少なくない。

 うつ病ではよく見られる「もう死にたい」と考える自殺念慮という症状もそれほど強くないはずなのに、リストカット、ギャンブル依存、男性遍歴などの行動化が激しい。

 そうなると一度、「これは適応障害などではなくて、きちんとしたうつ病として対処するべきだろう」と診断しても、治療の過程で、「いや、やっぱりこれはうつ病ではないのでは」などと、また迷走が始まることも少なくない。

 投薬しても、いったん抗うつ剤から開始しても、結局それを中止したり、新しい抗精神病薬にシフトとたり、挙句の果てには漢方薬などに切り替えたりすることもある。多くの医家向けの啓発記事などには「安易に診断を付けずに専門家への紹介を」と記されているが、専門家であれば間違いなく診断し、正しく治療できるというわけではないのだ。

時代、文化の影響を受けて人は育つ
 では、私たち精神科医はどうしているのか。若い患者さんが要求するままに「え? 二カ月の自宅療養、って書けばいいの?」と診断書を書く、などというのは言語道断だが、「気持ちが滅入るし、うつ病かもしれないって? 勝手に素人判断するな!」と話を遮るのも問題だ。その人たちは、決して休みたくてそうなっているわけではなく、つらいことは事実なのだ。

 これは管理職にとっても同じだろう。まずそのつらさや苦痛に一生懸命、共感しようとする姿勢が重要だ。その「苦痛を語ってくれた」ということには耳を傾け、敬意を払うべきだろう。難しい技術は必要なく、「なるほど」「そうですか、たいへんですね」といった軽い共感で十分だ。

 実は、「解ってくれた」というだけで、軽いうつ状態の場合はかなり改善する可能性もある。逆に言えば、そうやって相手の苦痛を受け入れ、頷いて共感してもまったくラクにならない症状が続く場合、それは単なる適応障害でなくうつ病の可能性が高いとも考える。管理職なら、その時点で「心療内科できちんと診てもらったほうがいいよ」と勧めるという選択もある。

 いずれにしても、「オレの若いころはこうだった」という、自分の経験に基づいた説教や指導はよくない。仕事をしているというベースは同じかもしれないが、生きている時代が違えば、考え方も違うのだ。もちろん、冒頭で紹介したような”鉄拳制裁”や”愛のムチ”で立ち直らせようとするのは完全な間違いだ。

 私自身、診察室や大学で若い人を見ながら、「ずいぶん自分の若いころとは違うな。結局、人間はそのとき自分が生きている社会、時代、文化なんかに一生、何らかの影響を受け続けるものなんだな」と実感することがよくある。

 ただ、「いや、人間は時代や社会ですぐに変わるのではない」と考える人もいた。精神分析家のフロイトは、人間には時代、文化などを超えた”心の構造”があると考えた。たとえば「エディプス・コンプレックス」などもそのひとで、これは多少、形は変わるものの、古代ギリシャ人にも現代のアジア人にもある普遍的な構造だ。

 いったいどちらなのか、人間は時代によって変化するのか、それとも時代を貫く普遍的な心理や構造があるのか。

 私は、「結局、どっちでもありということか」などといい加減なことを考えている。確かに人には、時代を超えた普遍的なコンプレックスなど心のメカニズムがあるのではないか、と思う場面もあるし、いや、やっぱり人ってバラバラだな、そこに何らかの共通点を見出そうとするほうが無理か、と思うこともある。精神科医としての経験を積むほど、この辺りがよく解らなくなってきた。ただ、とくに現代社会では、その「時代や文化の影響」に似通っていて、しかもほかの世代とは明らかに違うことに目まいがしそうになることがある。

 すなわち、向上心が強く、努力家で負けず嫌い、そして決して現状に満足しない。「もうそんなに持っていれば十分でしょう? ほかに何が必要なんですか? 自分以外の恵まれない状況の人たちの事を、少し考えてみてはどうでしょう?」とは口に出せないが「でも〜、先生、この人生、なんか違うな〜って思うんですよ」と四〇代になってもまだ甘さの残る口調で語り続ける彼女たちの顔が、なぜか次第に松田聖子に重なって見えてくる。彼女たちはおそらく若いころに、「夢をあきらめないで」「望めばなんでかなう」といったメッセージを繰り返し繰り返し吹き込まれ、結婚しようが子どもが生まれようが不景気になろうが、その価値観を容易に変えることが出来なくなっているのだ。

 私は一九六〇年生まれなので、日本がいちばん良い時代に思春期や青年期を送った彼女たちの”握力の強いパーソナリティ”の形成過程がよく理解できる。だからこそ、「時代の影響って侮れないな、一生支配されてしまうのか」と、その恐ろしさも感じるのだ。

 すでに五〇代になった私がこうしてちょっと若者について論じると、すぐに「お前が若者を語るな」といった批判の矢が飛んでくる。とくにネット時代になったので、その批判はダイレクトにツイッターなどを介してこちら側に突き刺さる。しかし、私の場合、年を取るということは、みずみずしい感受性を失うと同時に傷つきやすさも鈍くなることだ、と最近気づいた。

 それが必ず望ましいことだとは思わないが、「きっと批判されるな‥‥。でもまあ、いいか」とあまり深刻に考えずに口にできることが多くなったのも事実だ。

 このように、人は自分が男か女かであること、いつの時代に生まれ、どんな社会の中で育ってきたかということ、そして今どんな立場、地位にあるかということ。そういった条件からはなかなか自由になることができず、いつもその”制服”の中からだけでしか考えたり発言したりできない、という性質を持っているようだ。

 もちろん、私もそうだ。北海道出身、昭和三五年生まれの高度成長時代育ちといった、自分ではいかんともしがたい属性は、私の性格や考え方を何かのワクにはめているに違いない、と思っている。「私って個性的だから」などと言ってたところで、しょせんはお釈迦様の掌のひらの上で暴れる孫悟空のようなものなのだ。

 とはいえ、それもよしとして、その”制服”でがっちり身を固めて没個性的な言動ばかりしていては、自分もつまらないし、まわりも不幸になる。もちろん、女性から「あの人、きちんと自分の言葉で話している」と尊敬されることもないだろう。

 肩書き、立場をすぐにすべて放りだすことはできないが、少なくとも「私は今、部長として話しているな。個人の意見とはちょっと違うな」などと意識しながら話したり行動したりする姿勢だけは、失わずにいたいものだ。

おわりに

「カヤマさんってザックバランな人だから、男性からもあまりオンナって目で見られないでしょ? パワハラの被害にあったこと、ないんじゃない?」

 よくそう言われる。これが褒め言葉なのかどうかは深く考えないことにしておくが、たしかに当たっているかもしれない。

 とはいえ、そんな私でさえ、これまで生きてきた中で何度となく、「このオトコは女性というものを何だと思っているのか」とあきれるような男性に出会ったことがある。
DV臭プンプン、学歴や家柄を自慢、サムいギャグ、「オンナはバカ」「オンナは顔と胸」などの差別発言、執拗なモテ話などなど‥‥。しかもそういう人に限って、それが女性からも魅力的に見えるはず、と思い込んでいるのだから、始末に負えない。そして、「そういう発言は女性を傷つけますよ」などとやんわり注意しようものなら、「ああ、あんた、男女平等とかジェンダーとかあっち側の人なワケ?」などと言い出す。

 いやいや、そんな話でなくて、今の時代、オトコってオンナだって生きづらいのに、周囲の女性たちに必死でご機嫌をとってもらい、我慢してもらって、ようやく仕事や暮らしが成り立っているなどという男性たちは、早晩生き延びていけなくなるに違いない。もはや女性たちも、そんなに手のかかるオトコにかまってはいられないからだ。

 それよりも今、女性たちは、自分をひとりの人間としてちゃんと見てくれるオトコ、自分のやりたいことやいいところを支えてくれるオトコを求めている。いくらお金があっても自分のことをただのお飾りとしか考えていないようなオトコといても、人生は虚しい。女性たちはそう気づいてしまったまだ。

 この本を読んで「ずいぶんオトコに厳しいな」と感じた人もいるかもしれないが、私としては「手遅れにならんうちに読んでね」という男性たちへのプレゼントのつもりでも書いた。プレゼントの機会を与えてくれたのは、編集者の加藤真理さんと集英社学芸編集部・江間繁博さんだ。おふたりにはこの場を借りて、心からの感謝を伝えたい。

「そんな辛口のプレゼントなんて、いらないよ」と言って本書を放り投げるか、「なになに、生き延びるためには何かを知っておけばいいの?」つ言って受け取ってくれるかは、あなた次第。もしここまで読んで、多少、ムッとしたりカチンと来たりしながらも「なるほど。女性が何を考え、男性の何を見たか、わかったよ」と言ってくれる人がいたとしたら、私としてはこれ以上の喜びはない。今度ぜひ、いっしょに飲みましょう!
二〇一二年二月  香山リカ
  恋愛サーキュレーション図書室