モラハラが発生するメインの”現場”は、夫婦や家族などの「家庭」と「職場」である、ということ。そこまで聞いて、驚く男性も少なくないのではないだろうか。「えつ! 家庭で起きるちょっときつい言い方や命令なんかも、モラハラと言われるの? 夫なんだから妻に多少、大きな声を出すようなことがあっても仕方ないだろう。でもまあ、実際に蹴ったり殴ったりしなければ、それほど問題にはならないだろう」

本表紙香山リカ著から
赤バラ性欲を満たす強姦型では女性からは嫌悪感・憎しみを伴うセックスでもある。どんな心優しい妻であっても、いずれ早い時期に生理的に性交痛になるは当然であり、閉経後の性欲減退を余儀なくされる夫婦の最大の問題となっている「セックスレス」夫婦。

13 男性のDVはなぜ多いのか

精神的暴力が与える深刻な影響

「モラル・ハラスメント」という言葉を知っているだろうか。この言葉を私たちが初めて知ったのは、一九九九年に出版された『モラル・ハラスメント――人を傷つけずにはいられない』(紀伊國屋書店)という本によってである。

 書いたのは、フランスの精神科医、マリー・フランス・イルゴイエンヌ。同書の中には、このモラル・ハラスメント、略してモラハラがこう定義されている。

「モラル・ハラスメントとは、ことばや態度で繰り返し相手を攻撃し、人格の尊厳を傷つける精神的暴力のことである。

 イルゴイエンヌは、こうも言う。
「夫婦や家族、職場やそのほかの社会生活のなかで、私たちはさまざまなレベルで精神的な暴力――すなわち、モラル・ハラスメントの暴力が振るわれているのを目撃している。だが、残念なことに、私たちの社会は肉体的な攻撃を加えないこういった暴力に対して目をつぶりがちである。他人の自由を尊重するということを口実に、モラル・ハラスメントを大目に見てしまうのだ」

 これだけからわかることが、少なくともふたつある。
 ひとつは、モラハラが発生するメインの”現場”は、夫婦や家族などの「家庭」と「職場」である、ということ。そこまで聞いて、驚く男性も少なくないのではないだろうか。

「えつ! 家庭で起きるちょっときつい言い方や命令なんかも、モラハラと言われるの?
 夫なんだから妻に多少、大きな声を出すようなことがあっても仕方ないだろう。でもまあ、実際に蹴ったり殴ったりしなければ、それほど問題にはならないだろう」

 しかし、イルゴイエンヌの定義から、わかることはもうひとつある。それは、問題になるのは身体的暴力ばかりではなくて、精神的な暴力もそうだということだ。そして、その「精神的暴力」に対して、私たちはこれまで長い間「目をつぶりがちが」だった。

 後者の「人は精神的暴力を大目に見がち」という問題を、少し考えてみよう。
 精神的な嫌がらせや暴力は、それじたいもそれによって受ける心の傷も、後遺症も見えにくい。そのため、身体的な暴力に比べてどうしても軽視されがちであった。というより、ある時期までは「精神的暴力」の存在も、それが人間の心に長きにわたって深刻な影響を与えることにも、人はほとんど気づいていなかったのだ。

 もちろん、心ない言葉や嫌がらせ、ショッキングなできごとが、それを経験した人の心にダメージを与えることは、昔から知られていた。さらには、一九世紀末より「外傷性神経症」「戦争神経症」などの疾患概念として取り上げられていたが、それが完全に心因性なのか、やはり、”身体の疲れや外傷”が関係しているのではないか、ということが延々と議論されてきた。それらが完全に「心の傷」、つまりトラウマが原因となった心因性の疾患である、と決着がついたのは、二〇世紀も後半の一九七〇年代になってからであった。

「心の傷」は、それだけでその人の心や人生に深刻な影響を与え続けることがある。このような結論が出るきっかけになったのは、アメリカにおけるベトナム戦争帰還兵を対象とした研究だった。彼らは、激烈な戦場から安全な母国に戻った後で、抑うつ症状、不眠、不安や焦燥、性格変化などさまざまな精神症状を呈したのだ。ここで確立したのが、「PTSD(心的外傷後ストレス障害)という疾患概念だった。

 アメリカでPTSDに注目が集まった一九七〇年代は、同時にフェミズムの機運が高まっている時代だった。これまで「男性の付属物」とされてきた女性たちは、自分が置かれている状況の不当さについて気づき、発信するようになっていった。それまでは、「いったん結婚したら、妻である女性は夫である男性の所有物」と見なされ、夫が一方的に作ったルール――たとえば少しでも夫に反発したきには殴られても仕方ない、といった――に黙って従ってきた女性たちが、「私はこういう目にあっています」と家庭内の問題を外に向かって語るようになったのだ。同じ境遇にある女性たちは、「私以外にそんな人がいるのか」と共感し、そうでない人たちも家庭という密室の中で驚くべき暴力が行使されているという実態に驚愕した。

きっかけは阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件

 女性たちが発信し始めたのに続いて、子ども、有色人種、あるいは性的虐待の被害者など、いわゆるマイノリティと分類された人たちも、自分たちが受けている不当な扱いや支配について口にし始めた。自分たちは決して「男性、おとな、白人」の所有物でも付属物でもない、ということへの目覚めに、皮肉なことに自分が受けている身体的、精神的被害を被っていた。

 このように、精神医療の世界におけるPTSD研究の進展と社会におけるマイノリティの人権意識の芽生えが同時に起こったことにより、心が受ける傷、トラウマへの注目はますます高まることになった。

 しかし、残念ながらこれはアメリカの話である。一九七〇年代といえば日本ではまだ、『巨人の星』的な家族像――すなわち絶対的な権力を持つ父親とそれに黙って従う妻や子供たち――やワンマン宰相、ワンマン社長などが一般的で、リーダーの多少の横暴さや理不尽にはまわりの人は目をつぶるべき、という価値観が一般的であった。

 一九七〇年代どころか、八〇年代になって日本でもフェミニズム運動が広まってからも、その傾向はまだ続いていた。たとえば、一九八二年に大ヒットした三船和子の「だんな様」という演歌は、こんな歌詞から始まる。

 つらい時ほど、心のなかで
 苦労みせずに かくしていたい
 私の大事な だんな様
 あなたはいつでも 陽の当る
 表通りを あるいて欲しい(作詞・鳥井実)

また、一九八八年の都はるみ「王将一代小春しぐれ」の二番は、次のとおりだ。
 
 女房子どもを 泣かせる罰は
 あの世でわたしが かわって受ける
 さしてください 気のすむように
 将棋極道 えやないの
 そばに寄り添う 駒がいる(作詞・吉岡治)

 もちろん、この時代はすでに「夫に黙って従う妻」という夫婦像が崩れていたからこそ、このような過剰な夫唱婦随ソングがヒットしたのかもしれないが、それにしても一九八〇年代後半になっても「夫だけ陽の当たる表通りへ」「女房子どもを泣かせてもかまわない」と女性が自ら歌っていた、というのは欧米とはかなり違う状況であったのだろう。

 日本人がこのトラウマやPTSDを認めるようになったのは、アメリカから二〇年以上遅れの一九九〇年代後半になってからだ。そのきっかけになったのは、一九九五年一月の阪神淡路大震災、そして同年三月の地下鉄サリン事件である。

 それ以降、ようやく地震や噴火などの自然災害、飛行機事故やバスジャックなどの人的災害において、医師も一般人の人たちもPTSDを認め、それに対する治療法も積極的に検討されるようになった。そしてこれまたアメリカも同じく、事件や災害のみならず、家族間や男女間でもトラウマが発生することがある。そしてトラウマが起きるような関係の中には、決して「夫唱婦随」「カミナリ親父」と笑って済ませられないものもある、ということが明らかになってきたのだ。

 このように、日本では精神暴力や心の傷の認知は、諸外国に比べて大きく遅れた。イルゴイエンヌのモラル・ハラスメントの著作が翻訳されたのは一九九九年だから、そのころはまだ、一般の人がようやく大事件や災害によるPTSDの存在を知るようになった時期だろう。つまり、人々の関心はまだまだ、このモラハラまでには向かわなかったのである。

 二〇〇〇年代に入ると、次第に事件や災害ではなく、職場や家庭における「精神的暴力」にも注意を払う人が増え始めた。それはひとまとめに「ハラスメント(嫌がらせ)」の問題と呼ばれ、それが発生する場所や関係性によって、「セクシャル・ハラスメント」「パワー・ハラスメント」「アカデミック・ハラスメント」「ドメスティック・ハラスメント」などと呼ばれるようになった。

 イルゴイエンヌのモラル・ハラスメントは、これらを総称する概念と考えることもできる。しかし、それぞれのハラスメントには「権力の乱用」という側面が強いのに対して、モラハラははっきりとした権力の上下関係がない間柄でも生じることがある。

 つまり、イルゴイエンヌの生み出した概念であるモラハラには、目に見える「権力」がペースになるものと、そうでないものとがあるのだ。

 おそらく、夫から妻へのモラハラのほとんどがそうだろう。もちろん、「夫が働いてお金を稼いでいる」という権力の構造が存在する場合もあるが、診察室で見ていると、夫が妻へのモラハラは、必ずしも「オレが稼いでいるんだ」というお金の関係がベースになっていないケースも少なくない。

歪んだ自己愛性格によるモラル・ハラスメント
 では、「権力」がベースにないモラハラ、とは何なのだろうか。それは、「自己愛性格」がベースになったモラハラだ、とイルゴイエンヌは考えている。歪んだ自己愛性格が元になって起きるモラハラは、場所や権力の上下関係の有無をほとんど選ばない。そして。この「自己愛がベースのモラハラ」は時として「純粋なモラハラ」と呼ばれることがある。

 夫から妻へのモラハラの多くにも、この「夫の自己愛」が関係しているのではないか。
そう言うと、「オレが自己愛人間? とんでもない、オレは無骨なタイプだし」といった声が聞こえてきそうだが、自己愛とは必ずしもビジュアル系のナルシストにしかないわけではない。一見、そうとは見えない男性であっても、こと夫婦といった関係になるととたんに「もっとオレを大切にしてもいいだろう」もっとオレを褒めてくれてもいいだろう」という甘えに基づく自己愛が大きくなることがある。それは、後にも述べるような「男は母親を筆頭に自分の傍にいる女性に愛されて当然」というマザコン的な幻想の中から生じる自己愛なのだろう。

そして、権力によるモラハラと自己愛によるモラハラ、どちらがより対処が困難かは、一目瞭然であろう。それは、「オレは身近な女性に絶対的に愛されて当然、女性はオレの言いなりになって当然」という自己愛モラハラのほうなのだ。

 この男性の自己愛に基づいたモラハラは、夫婦の間で起きるだけではない。NPO法人全国女性シェルターネットの遠藤智子事務局長は、交際中のカップルの間でもこれに似たことが容易に起きると述べている。遠藤氏はカップルの間のモラハラや、さらにエスカレートした暴力を総称して「デートDV」と呼んでいる。

夫婦間の暴力を規制するいわゆるDV防止法は、夫婦や内縁関係にある人のためにあり、交際中に起きるデートDVはその対象外となっている。
このデートDVは、「殴る・蹴る」ではなくて、監視や支配といった外からはわかりにくい形の精神的暴力、つまりモラハラの形をとることが多いと言われている。
遠藤氏は、「携帯電話の普及が新しい形のデートDVを増加させた」と話している。恋人である女性に、大学の講義がひとつ終わるたびに「今終わりました」と連絡してくるようにと強要する男性、携帯電話に登録してある男性の電話番号やメールアドレスを全部、消去するように、と命じる男性などもいるそうだ」

 そういう男性たちは、機嫌の悪い時には「お前の事を愛しているからこそ、独り占めしたい、全部知りたい」と囁き、女性の側も「本当に愛されているのかもしれない」と思い込む。周囲との接触を絶つように言われ、「おまえはバカなんだ」とののしられ続けると、次第に「バカな私にはこの人しかいないんだ」と隷属を受け入れるようになっていくのもデートDVの特徴だ、と遠藤氏は教えてくれた。

 ちょっと聞くと、「結婚しているわけでもないんだから、そんな男とはすぐに別れられるはず」と感じるかもしれない。中には、「こんな男性と付き合ってもプラスにならない」と解っている人もいる。しかし今の若い女性たちの中には「彼氏がいない」という状態にはどうしても耐えられない、という人も少なくない。ある女性は診察室でデートDVの被害を訴えながら、「このままじゃいけないとわかっている。でも、ひとりは寂しくて寂しくて‥‥。それに、みんなカップルなのにひとりじゃ恥ずかしいし」とうつむいた。周囲への見栄と孤独への恐怖から、彼女は「DV男でもいないよりマシか」という誤った選択に走ってしまったのだ。

 クリスマスなどのイベントが近づくたびに、若い女性なら誰もが「恋人が欲しいな」と思うかもしれないが、自分を破壊するモラハラ男、DV男に耐えるよりは、ひとりで過ごす方がずっと賢明だ、−。恋人がいないことは罪でも恥でもない、と若い女性は自信を持ってもらいたいと思う。

 また、男性たちも「もっとオレを見てくれ、大切にしてくれ」と思うあまり、知らない間に妻や恋人を支配し、その人間性を傷つけているということはないか、もう一度、自分に問いただしてみるべきだ。
 力の強さや大きな声で女性を脅し、「わかりました。何でもあなたの言う通り」と従わせても、それは本当の意味で自己愛を充たすことにはならない。
いったん「よし、やっぱりこの女はオレの言うとおりになるんだ」と満足したとしても、またすぐに「いや、これでは足りない。もっとひどい要求をして、それにこたえてくれるかどうかを確認しようとするに違いない。

 そんな繰り返しで「よし、オレは愛されている。大丈夫だ」と確認できたつもりでいても、いつか必ずしっぺ返しが来るはずだ。「もうあなたのご機嫌を伺って生きるはまっぴらです!」と、モラハラやDVで苦しめ続けた恋人や妻が去っていった後の男性が、どれくらい悲惨な生活を送らなければならないか、知ってほしい。

14 痴漢や盗撮に走る心理

元通りの生活には戻れない

 社会的に地位のある男性が、電車内で痴漢をしたりスカートの中を盗撮したりして逮捕される、という事件が続いている。痴漢、盗撮は犯罪なので、「いやあぁ、ちょっとした出来心」ではすまされない。中には冤罪のケースも含まれているようだが、本人の行為ということが明らかになれば、職場では懲戒免職、家庭では離婚と、人生が暗転する場合もある。

 ただ、意外に思うかもしれないが、たいていの場合、痴漢、盗撮で逮捕となると即、会社にバレてクビ、となるわけではない。この問題を扱った週刊誌はこう伝える。

「『警察から会社に直接連絡が行くだろう』と思う人は多いが、基本的にそれはない。『痴漢で逮捕』という極度のプライバシー情報を、第三者に伝える権利は警察にはないからだ」(「NHK森本アナ事件『夫が痴漢で逮捕』妻の決断は?  それとも一度は許す? 夫婦が試されるとき」、『週刊現代』二〇一二年一二月八日号)

 逮捕が公にされるのは、加害者が公務員、芸能人やメディア関係、超有名企業幹部など、一部の場合だけなのだ。
 しかし、ここでどうしても欠かせないのは、「妻の協力」だ。先の記事はこの問題にくわしい弁護士の話を伝える。
「夜の電車で逮捕されたばあい。翌々日に警察から検察庁に送致され、さらにその翌日、裁判所で拘留質問を受ける。ここで拘留されるかどうか決まるわけです」
 ここで拘留とならず釈放されればその後、出勤も可能になるわけだが、それでも決定までに二、三日はかかる。その間、もちろん自分から会社に連絡してちょっとインフルエンザで」と伝えるわけにはいかない。そうなると。どうしても妻などの家族に会社に連絡をしてもらい、「家で突然、倒れまして、検査の為に入院しています。問題なければ数日で出られるようですが」など”ウソ”をついてもらわなければならない。また、場合によっては妻が裁判所に対して、「釈放後は家族で受け入れ、再発防止に努めます」といった上申書を提出することが必要になる。

 そのときに妻が「痴漢した夫のために会社にウソをついたり、上申書を書いたりするなんてとんでもない」と言い出したら、仕事は無断欠勤、釈放は延期、となってしまう可能性もある。

 それどころか、一度の痴漢、盗撮で「もう一緒にいられない。離婚したい」と言い出す妻も少なくない、と記事は伝える。中には話し合いで離婚が回避される場合もあるが、いずれにして綱渡りだ。

「離婚を回避できたのは、妻の父親が『やってはいけないことだが、同じ男として、酔って触りたくなる気持ちはわかる。俺もそういう気持ちはあった、子供のためにも離婚するべきではない。許してやれ』と妻を説得したことが大きかった。妻の家族が『そんな男とは離婚だ』と騒ぎ立てると、ほとんどが即離婚、という展開になる。

「でも、離婚を避けられたから許してもらえた」と思わない方がいい、と離婚カウンセリングにくわしい池内ひろ美氏は先のケースの顛末を語る。
「ただ、離婚を回避できたとはいえ、元通りの生活には戻れないのが現実です。家族でテレビを見ていると、ニュースでもドラマでも痴漢の話題がかなりの頻度で出て来る。そのたびに、微妙な空気が流れるわけですから。でもギリギリのところで家族を続けている、珍しいケースです。

 このように多くの場合で、離婚が回避できるかどうかは、夫婦間のそれまでの愛情や信頼関係、経済力、子どもの教育、実家の意見、そして痴漢がバレた場合は世間体、といったいくつもの要素が絡み合って決まる。しかし、いずれにしても「水に流して」と言うわけにいかず「あなたは痴漢という卑劣なことをした夫」というレッテルは生涯、つきまとうということだ。ちなみに離婚が選択された場合は、夫から妻への慰謝料の相場はぐんと跳ね上がるようだ。

 そして何より、被害者は一生、心に傷を負うことになる。診察室にも、若いころに受けた痴漢や性的悪戯がきっかけで長期間、パニック障害や男性恐怖症に苦しむ女性が訪れることがある。まわりは「体が無事だったからよかったじゃない」「向こうも酔ってたんだから気にしないで」と軽くいなそうとするが、見知らぬ男性から一方的に性的な対象とされた、ということに伴う恐怖、嫌悪感は相当なものなのだ。

フェティシズムに走る人、マッチョに振る舞う人
 では、なぜ男性はこういったリスク、罪深さを知りながら、痴漢や盗撮をしてしまうのだろうか。
 ネットの「産経ニュースwest」で、私と同世代の精神科医・片田珠美氏がこの問題をズバリ解説している。私も愛読している「精神科医のつぶやき」という連載の中でだ。

 二〇一二年九月二七日の第四回は「盗撮の陰に『去勢恐怖』と題して、女性の裸そのものではなく、下着やチラ見えを狙ってシャッターを切る盗撮は「フェティシズム」だという。
フェティシズムとは、生身の女性と向き合うことよりも、そのからだの一部や衣装などの付属品に異様な性的興奮、快楽を感じることだ。

片田氏はフェティシズム一般についてこう解釈する。
「フェティシズムに駆り立てるのは、男の子が、自分の持っている男性の象徴が女性の身体にはないという事実を目撃したさいに感じた『女性が大切なものを失っているのならば、自分も切り取られてしまうかもしれない』という恐怖だと、フロイトは分析している。(中略)

 下着類がフェティシズムの対象として選ばれることが多いのは、脱衣の瞬間、すなわち、まだ女性に『それ』があると信じていられた最後の瞬間の記憶につながるものだからだろう。

 つまり、男の子は母親に代表される女性がお風呂で下着を取るその瞬間まで、「お母さんにもペニスがついているはず」と信じ込んでいる。というより、「そうであってほしい」と願っている。さもなければ、「自分もお母さんのようになってしまうかもしれない」という去勢恐怖と直面しなければならなくなるからだ。

 片田氏は、盗撮に走るフェティシズムの人たちは、まさに「ペニスが付いていない女性の裸」を直視するだけの心準備がない人たちと考え、「下着の盗撮が報じられるたびに、幼い頃、女性の性器を目にしたときに覚えた『去勢恐怖』を克服できないまま大人になったのだと、哀れみを感じずにはいられない」とまで言う。

 さらに興味深いことに、片田氏は自分の発言には男性たちから大きな反響が寄せられていることも予想している。「これまでも、『男性は、解剖学的に女性にはないものを持っているがゆえに、失うことに対する恐怖が強く、喪失体験に弱い』という趣旨の発言をするたびに、『妄想』だの『頓珍漢』だのと罵倒され続けてきた。でも図星だからこそ、むきになって反論するのだと思っているので、私は痛くもかゆくもないのである」と突き放してみせるのだ。

 これは精神分析学でいわれる心の防衛メカニズムのひとつ、「抵抗」だ。分析家がクライアントの症状なり夢なりに解釈を行うと、クライアントは「失礼な! 違いますよ」と激しく否定することがある。フロイトはそれを「抵抗」として、図星であるがゆえに深層心理がそうやって反応すると考えたのだ。解りやすく言うと、いわゆる「地雷を踏む」というやつだ(だから、橋下徹大阪市長が私のような精神科医の分析を激しく攻撃するのも‥‥いやいや、これ以上はやめておこう)。

「去勢恐怖」を克服できない人の中には、片田氏が分析したようにフェティシズムに走るケースもあるが、同時に滑稽なほどマッチョに振る舞う人もいる。「オレは男だ」とことさらに強調することで、誰もがそう指摘していないのに「オレは去勢なんかされていないし、これからだってされるわけはない。だってこんなに男性的なのだから」と強調し続けなければならないのだ。

 こうやって考えてくると、政治の舞台で名乗りを上げる”マッチョ軍団”をそのまま「頼りになるねえ」などと信用するのは危険だ、というのがわかってくるのではないだろうか。
たとえば、二世、三世の政治家たち、彼らは常に父や祖父らから「家を継ぐのはおまえだ。しっかりやれ」と必要以上に男らしさを強いられて育つ。おそらく実の母親や妻など、周りにいる女性たちも、「あなたには期待しているわ」と強力にプッシュしてくる。ある意味、男以上の”男らしさ”だ。

「男ではないのに、男以上に強くしなやかな女もいる。では、自分がそれ以上に強く男らしくあるためにはどうすればよいのか」という問題は、世襲の政治家たちの深層に心理にとって一生のテーマなのではないか。

 もちろんこれは、「世襲政治家は心のビョーキだ」という意味ではない。ありとあらゆる人の言動の背景には、精神症的な葛藤が隠れているとしたのはフロイトだが、政治家の多くはこのように基本的なフロイト理論で考えることができる。つまり、ある人は去勢恐怖、あるいは人は葛藤をごまかすための、「同一化」「反動形成」「躁的防衛」といった心のメカニズムから、不自然なほど男性的に振る舞ったり、テンションを上げたりしているのだ。

 もちろん、その結果が国民のために役立つアウトプットであれば、いくら彼らの言動の根っこに「お父さん、怒らないで。コワイよ」とか、「お母さんもペニスを持っているんだよね、ね?」といった幼児的な葛藤や恐怖、コンプレックスがあったとしても、それはそれでよいのであって(フロイトはこういった有意義で生産的な葛藤の解消の仕方を、「昇華」と呼んでいる)。

 しかし、そういった個人的な問題が投影されて、その結果、憲法がとんでもないものに変えられたり、過酷なだけの競争主義が導入されたりするのは、社会に対する迷惑があまりに大きすぎる。精神科医が社会のリーダーや社会現象をウォッチングする意味は「あなたは今、自分の病理を、間違った方法で解決しようとしていますよ」とピーッと笛を吹く、というこの辺りにあるような気がする。

等身大の自分と自信と誇りを!

 ただ更なる問題は、片山氏がまさに指摘するように、「本当のこと」を言えば言うほど強い反発が起きることがあるという事だ。実際に片田氏の「去勢恐怖」についての文章が掲載されたあと、ネット上ではそれをめぐるちょっとした嵐が起きた。そのことについては本人も後の連載でこう触れている。

「この連載の四回目で『去勢恐怖』について書いたところ、インターネット上で大反響が起きた。
もっとも。共感の声はほとんどなく、『そんなもん全くねえよ』『この精神科医の人、頭大丈夫?』『全くもって意味不明』など、反発と批判ばかりだった。いずれも想定内の反応とはいえ、腹が立ったので、『これだけ反論が多いという事実が、男性が”去勢恐怖”を受け入れるのがいかに難しいかを如実に物語っている』とツイッターで呟いた。すると今度は『この女医さんは人間の精神の真理よりも自分のメンツのほうが大事だという事がよく解った』『アホすぎる』といった反応が返ってきた」(「精神科女医のつぶやき」第七回)

 これらの反応を呼んだ理由は、この指摘が、おそらく、とくに去勢恐怖を共有している男性ではなくて、「ほら、私には男性器がないのよ。あなたもそうなってしまうかもしれないわよ」とほのめかす女性側からの指摘だった、ということが、男性たちをよりエキサイトさせてしまったのだろう。

 片田氏は、もちろん女性はそういったコンプレックスから解放されているわけではなく、「女性の側にも男性器を持たない自分を自覚し、それを強く望む『羨望』と呼ばれる心理メカニズムに基づいて不自然な振る舞いを始めることがある」と解説している。

 ところで、山中伸弥京都大学教授のノーベル賞受賞以上の注目を集めたのが、iPS細胞の臨床応用に関して虚偽の報告を行った森口尚史氏だ、医療系の大学院を出て、実際にかなり長い研究歴がある彼は、これまで全く何の実験や調査をしてこなかったわけではないだろう。少なくともこの分野についてはかなり知識があったことは確かだ。

 おそらく森口氏は、かなり若いころから「成功し、賞賛されている自分」を繰り返しイメージし、それがいつしか「そうなって当然」という確信に変わったのだと思う。また、なかなかそうならない現実や、自分より先に業績を挙げる研究者に対して、恨みや妬みの気持ちも強めて行ったに違いない。そういった感情が、ノーベル賞受賞の報道を受けて「本来は自分の手柄なのに」という妄想と、それを新聞記者に語るという行動に着地したのではないだろうか。

 さまざまな葛藤、コンプレックス、空想や妄想にとりつかれ、それを埋め合わせるためにある人は自分を男らしく見せ、タカ派然として振る舞い、ある人は達成してもいない偉業を饒舌に語ろうとする。人間というのは、本当に一筋縄ではいかないものだ。

 それにしても、たとえ社会的に承認が得られなかったとしても、「私は好きでやってるのだから」という思いを持って、粛々と生きていくことではないのだろうか。あの芸人スギちゃんは、高校を卒業してから下積み生活が一五年以上続き、あせりやひがみも経験した後で、「でも自分は好きな芸を続けられて幸せだ」という境地にたどり着いたという。大ブレークしたのはその直後であった。

 今の等身大の自分に、自信と誇りを、不自然な振る舞いは、自分を傷つけ、他人や社会に迷惑をかけるだけだ。

 無理して自分を強く大きく見せようとして、結果的にストレスが別方向に爆発し、痴漢や盗撮に‥‥こんな自分も家族も、そして被害者も全員が傷つき、不幸せになる着地点だけは選択しないでもらいたい。

つづく 15 時代や社会は人にどう影響を与えるのか