一〇年ほど前までは、「こんなことを初対面の人に話していいのかどうかわからないけれど」といった前置きがつけられることも少なくなかったが、最近それもない。こえをひそめる人さえいない。まわりに大勢の人がいても、堂々と「私もうつ病で‥‥」と始まる。精神科領域の話は、完全にタブーではなくなったんだな、とつくづく思う。

本表紙香山リカ著から

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女は男のどこを見抜くべきか 香山リカ 著

はじめに
「オトコって、どうして何もわかっていなのかな?」

 このセリフ、これまで何十回、いや何百回、口にしたことか。そして、耳にしたことか。

 私は基本的には、「男と女には、体以外の差はない」という、いわゆる男女平等の考え方を大切にしている。もちろん、まわりにも、”まったく気が合わない女性の同僚”もいれば、”家族のようにわかりあえる男友たち”もいる。

 それにもかかわらず、「オトコってのは‥‥」という冒頭のセリフを口にせざるを得ない場面、多数、なのだ。
 男性は、反論するかもしれない。
「ホント? オレ、妻や会社の女性たちから、”何もわかっていない”なんて言われたことはないよ。それどころか、オレの言う事をみんな笑顔で”うん、うん”と頷いてくれるよ。それってオレ以外のオトコの話なんじゃないの?」

 それそれ、それがもう、「何もわかっていない」という証拠なんです。
 二一世紀の今になっても、社会はやっぱり男性中心に働いている。とくに日本の場合、総理大臣はずっと男性、大臣も経団連のメンバーもほとんどがオトコ。私などにアラフォーどころかアラフィフなのに、いまだに会合などで「紅一点」と言われることがある。

 そんな世の中でオンナが生きていくためには、オトコたちの多少、トンチンカンな発言や独りよがりの意見にもにっこり笑って、「そうですね」「おっしゃるとおり」と従わなくちゃならない場合もあるのだ。それも、結構な頻度で。
 でもそんなとき、女性は必ず心の中でこんなことをつぶやいている。
「いや、だからオンナなら誰でも”セクシーだね”なんて言われたいわけじゃないんだ、って」「強い男に女は弱いってあんた、いつまで昭和で生きているつもりなの?」。そして、いくら仕事ができてもルックスが抜群でも、女性たちは密かに「この人は利用価値はあるけれど、私の同志ではないな」と思っているのである。
 それはちょっと、寂しいと思いませんか?

「うん、イヤだな。じゃ、女性ってホントはオトコのどこを見ているの?」と反応したあなたに、そっと教えましょう。心してお読みしてください。
 そして、女性のみなさん、恋人や夫がいる人もこれから人も、男で失敗しないために”男の見方のコツ”を学んでいただきたいと思います。
1 男のプライドと嫉妬の本質
「精神科医」を名乗ってみれば
「はじめまして。私の職業は、精神科医です」
 初対面の相手にこう自己紹介されたら、あなたはどんな反応をするだろうか。
 精神科医である私は、これまで幾度となくこんな自己紹介をしてきた。相手の反応はもちろんケース・バイ・ケース‥‥と言いたいところなのだが、実はこれが、女性と男性でははっきりと違いがある。
 まず、女性の場合から見てみよう。
「私、精神科医なんです」と自分の職業を明かすと、相手は必ずと言ってよいほど、「えー、そうなの!」「ホント?」と身を乗り出して興味を示す。そして、質問攻めや経験談の語りが始まるのだ。

「母親が最近、不眠で困っているんだけど、睡眠薬ってやっぱりクセになるんでしょう?」
「夫がうつ病でずっと病院にかかっているんだけど、全然よくならなくて。私も主治医と話したんだけど、そういう場合って会ってもらえるもの?」
「物忘れがひどくて…‥。これってアルツハイマー? 脳外科に行けばいいの? それとも精神科?」
「体調不良という理由で仕事をキャンセルしたあの芸人さん、うつ病じゃないの?
 プロの目かから見てどうですか?」
「実は私、拒食症で苦しんだ過去があるんです。精神科にも通院していました。飲んだ薬は‥‥」
「カウンセラーになりたいと、ずっと思っていたんですよ。どうすればなれるのかしら?」

 一般の人にとって、日常生活の中で精神科医に遭遇する機会はそれほど多くないはずだ。だから私に会った女性たちは、「今がチャンス」とばかりに相談したいことを相談し、語りたいことを語る。なかなか放してもらえないことも少なくない。

 それでも一〇年ほど前までは、「こんなことを初対面の人に話していいのかどうかわからないけれど」といった前置きがつけられることも少なくなかったが、最近それもない。こえをひそめる人さえいない。まわりに大勢の人がいても、堂々と「私もうつ病で‥‥」と始まる。精神科領域の話は、完全にタブーではなくなったんだな、とつくづく思う。

 ただし、これは「女性たちの中で」という前提での話だ。
 では、男性たちは「精神科医です」と名乗る私の前で、どんな反応をするのか。これはいくつかのパターンがあるある。
 まずは、完全無視を決め込む人。
「え、セイシン?‥‥いやぁ、それにしても新内閣、課題が山積みですね」と、話を聞かなかったような顔をして話題を巧みに変える人もいる。

「ほー、精神科医。私のいとこは整形外科医でして。ほら、スポーツ選手も入院する有名な○○病院、知っているでしょ?」と自分のフィールドに話を持って行ってしまう人もいる。

 しかしそれはまだいいほうで、大勢の集まるパーティなどでは、「精神科医」と名乗ったとたん、視線をそらしてスーッとその場を離れしまう人さえいる。とにかく精神科医にはかかわりたくない、という気持ちなのだろう。

 そして、この無視タイプより多いのが、次のような反応をするパターンだ。これはもう、セリフまでが決まっている。ちょっとシナリオ形式で再現してみることにしよう。舞台は、異業種の人が集まるパーティだ。
 香山「はじめまして。カヤマと申します」
 男性「はい、こんにちは。あなたも経営者なの?」
 香山「いえいえ。私は勤め人です。診療所に勤務している精神科医をやっています」
 男性「精神科医‥‥精神科っていうと、うつ病とかアルツハイマーとかアルコール依存とか、そういうのを診るアレですか?」
 香山「そうです、そういう医者です」
 男性「なるほど、それはそれは‥‥。そうは見えませんな‥‥へー、精神科医ねぇ‥‥」
 たいていの男性は。ここで突然声のトーンを変えて、周囲に聞こえるようにこう言う。
 男性「じゃ、先生、そのうちボクもお世話になるかもしれないな。そのときはお願いしますよ、ワッハッハ」

 すると周りにいる男性たちは、まるで示し合わせたかのように口々にこう言い出すのだ。
「社長が精神科? 何をおっしゃる、いちばん縁遠いじゃないですか」
「その前にまずボクが行かなきゃ」
「世界中の人たちがうつ病や認知症になっても、社長だけは大丈夫ですよ」

なぜ不自然な反応をするのか 

 三〇代のころには、私はこんな光景に遭遇するたび、いったい何が起きるのかをよく理解できなかった。しかし、それから歳を重ね、人間を観察する目も少しは養われてきたのか、今では彼らがなぜこんな反応をするのかが、よくわかる。

 男性たちは、突然、目の前に現れた精神科医が、自分の心の中にあるかもしれない異常や弱点、問題点を見抜き、「治療が必要ですょ」などと言い出すのではないか、と不安になるのだ。だから逆に、「オレも先生のお世話に」などと先に大声で言って精いっぱいの虚勢を張り、自分が怯えていることを隠そうとしているのではないか。

 しかも、その精神科医は自分とは違う異性である。まだ同性なら「男同士、つらい気持ちはよくわかりますよ」と、”同士”としてわかり合い、大目に見てくれることを期待できるが、女性となればそうもいかない。彼らは、もしかしたら私がパーティ会場でこんなことを言い出すのではないか、と妄想までしているのかもしれない。

「社長さん、これまで頑張って強いイメージを作ってきましたが、残念ね。あなたは、自分の中の父親恐怖症を克服できていません。今でもときどき泣きたいくらい、弱気な気持ちになるでしょう? さあ、いっしょにクリニックに来て、じっくり治療しましょう。場合によっては入院も考えなくちゃね。あなたが恐れている精神科病院への入院です。あなたは社長ではなくて、精神科の患者さんなんです‥‥」

 そうやって精神科医に自分の中の弱さや問題点を見抜かれたら、自分はもうおしまいだ。こんな怯えがあるからこそ、彼らは先制攻撃とばかりに、「いやぁ、オレも先生のお世話に」と先に口に出してみる。そしてそういわれると、まわりは口ぐちに、「そんな必要は」とフォローし、私自身も「社長が精神科? とんでもない、まったく必要ないですね」と否定せざるを得ない。

 するとそこで初めて彼らは、「ああ、よかった」と胸をなでおろすのだろう。その後、「専門の先生に”正常”というお墨付きをもらったよ」と吹聴している人もいるかもしれない。

 それにしても、本当に「自分は大丈夫か」と不安なら、なぜそれを女性たちのように素直に口にできないのか。「実はボク、最近なぜか寝つきが悪くて」と立ち話でも言ってくれば、こちらもそれは治療が必要な不眠なのかそうでないのか、ある程度、判断できることもできる。それがいきなり、「いやー、オレもそろそろ先生の所に入院だな」では、相談にも何もなりやしない。

 きっとそこで彼らに不自然な反応を取らせているのは、「男のプライド」というものなのだろう。とくに社会的に地位や財力を築いた人であればあるほど、女の私にスバリ「あなたは異常です」などと言われたらもうオシマイ、というくらいプライドが高い。だから、なんとか「あなたは大丈夫よ」と太鼓判を押してもらえるよう、先に「オレ、入院でしょ?」などと声高に言ってみるわけだ。

 それがわかっているから、私はなんだか彼らがとても気の毒に思えてきた。とはいえ、そこまで身構え、「精神科とかかわったらもうオシマイ」などと思い込んでいるそのおかしなプライドを守るためにこちらまでが協力するのも、なんだかバカバカしくなってしまうこともある。そういうときには、私はこんなちょっとした意地悪をすることもある。

 男性「あなた、精神科医? じゃ、そのうちお世話にならんといけないかもな」
 香山「あ、じゃ、来週にでも診察しますよ。予約を入れておきましょうか?」
 この意地悪は、相手が政治家、大企業の社長など地位が高ければ高いほど効果的だ。先ほどまで「何億の事業が」「大臣とは親友で」といった威勢のいい話をしていた男性たちが、ぎょっとした顔になり、「えっ、え‥‥」と絶句する。それを見てから、私はおもむろに告げるのだ。「冗談ですよ、冗談。そんな必要はありませんよ」

 精神科医に会っただけで、こんなに心がかき乱される。女性のように、純粋な好奇心や関心から質問をしたり、相談することもできない。もしかしたら本当に受診が必要な状態なのに、プライドによってそのチャンスを逃してしまう危険性もある。男性のプライドというのは、けっこう厄介なもののようである。

傷つきやすいもの、それは男性のプライド
 その厄介な「男のプライド」が巧みに利用されて、ときには財産を失ってしまう人もいる。
 いわゆる”夜の街”で働き、あるクラブの売り上げがナンバーワンになった女性からこんな話を聞いたことがある。彼女は、どんな会社にもいそうなあっさりした雰囲気の女性で、決して妖艶な美女という感じではない。

「お客様に気に入ってもらうためには、とにかく会話で相手のプライドを満たしてあげることね。もちろん、見え透いたお世辞はダメ。でも、プライドをくすぐるポイントって、必ずどこかにあるものよ。
 例えば『今週もオレだけ残業続きだよ。オレって仕事が遅いのかなあ』って自信を失いかけている人に、『そんなことはないわ』っていうのはただのなぐさめ。そうじゃなくて、別の角度から話してみるといいと思う。たとえばこんな感じ。
 一人で残業されているときって、音楽なんか聴くんですか? へー、FMラジオですか。でもあれって、英語がやたら多くないですか? 私、英語が苦手だから、バイリンガルのDJが出てくるとそれだけで引いちゃって。お客さき、英語が得意なんですねー。コンプレックスなくFMを楽しめる人って羨ましいわー。
 ‥‥こんな感じで話すと、相手は”少なくともこの女性よりはオレのほうが英語が出来るんだ”とプライドが満たされて、すぐに”上から目線”になってくるの。『英語はさ、苦手だと思うから苦手なんだよ。FMの英語なんて聞き流しておけばいいんだよ、そのうちいつの間にか耳に入ってくるようになるから』なんて、教師口調になる人もいる。そうしたらあとは、”勉強になりまーす”って尊敬の目で見ればいいの。『しょうがないな。じゃ、今度はオレが使った英会話のテキスト、持ってきてやるから』とリピーターになってくれること、間違いナシ」

 男性はプロの女性の会話術でプライドが満たされ、女性も”いい客”をつかめる、と双方が得をするのかもしれないが、そこでかなりの額のお金が使われるのは事実。しかも、女性から男性に向けられているのは、ホンモノの尊敬ではなく、あくまでも尊敬の演技であることも忘れてはならない。

 精神科医から「あなたは大丈夫、脳も心も完璧です」と、水商売の女性から「英語に堪能なのね、すごい」と見せかけの保証、賞賛されて、それでプライドを満たす。考えようによってはむなしいことだが、それでもないよりはマシ、と思ってしまうほど、男性のプライドというものは、傷つきやすいものなのかもしれない。

嫉妬が蔓延する競争社会

 プライドと並んで男性の心を支配しているのが嫉妬である。
「嫉妬は女性の専門領域だろう? ウチの妻も、やれ同級生が豪邸を建てた、やれ会社時代の同僚が整形手術で若返った、と毎日、誰かに嫉妬しているよ」という人もいるかもしれないが、そういう男性は自分の中に在る根深い嫉妬の感情に気づいていないだけである。

 この嫉妬が一番はっきりするのは、実は内閣の支持率調査のときではないか、と最近よく思う。新しい内閣が出来ると「今度こそは頼むよ」と支持率は一時的には跳ね上がるが、それも長くは続かない。そうやって支持率がどんどん低下すると、また内閣改造、首相交代、そして総選挙と、政治は不安定になっていかざるをえない。「安心して暮らせる社会を」と望みながら、有権者が支持率を激しく上げたり下げたりすることで、その安定社会の実現は遠のく一方なのだ。

「大切なのは、まず期待を託した政権を信頼し、協力しながらじっくり待つこと」と評論家が言っても、誰もそれに耳を貸そうとはしない。それはいったいなぜなのか。その背景にあるのが、嫉妬の感情なのではないか、と思う。

 あるとき、テレビのニュース番組が街頭インタビューの模様を放映していた。答えているのは、仕事帰りに一杯お酒を飲んだと思いしき男性ビジネスパーソンたち。
「だいたい政治家って自分たちの都合のいいように、好き勝手やっているだけだから」
「オレたちが一生懸命、働いて稼いだ税金使って、いい気なもんだよな」

 彼らは、今の政治のあり方に苦言を呈しているのではなく、どうやら「オレはこんなに苦労しているのに」と自分と政治家を比較して、その違いが理不尽だと怒っているのだ。向こうには権力も名声も自由もカネもある。それに比べて自分は‥‥・という比較と、そこに生じる嫉妬の感情から、「もう支持してやらない」という行動に出るのではないだろうか。

 とはいえ、当の政治家たちもお互いが嫉妬の感情にかられて、足を引っ張り合ったり潰し合ったりしているようにしか見えない。国会での応酬も、政策論争というよりは、「オレより目立ちやがって」「ちょっと家柄がいいと思って」という嫉妬からのののしり合い。とくに女性議員が登場すると男性たちの心は乱れが激しいくなるようで、過剰にやさしく騎士のように振る舞おうとしたり、いっそう攻撃的な口調で攻めたり。なかなか「ふつうに話す」ことさえ難しいようだ。

 スポーツクラブなどで嫉妬にかられながら、肉体や技を競い合う男性たちもいる。知人がインストラクターを務めるジムでは、いちばん目立つところにあるトレーニングマシンを朝早くから占拠する男性たちがいて、その調整がたいへんだという。
「みんな、自分がいちばんいい位置を占めないと気がすまない人たちなんだよね。で、自分より少しでも目立つメンバーが入ってくると、いっせいに冷たい視線が注がれる。たかがジムなんだから、譲り合って楽しくやればいいのに、どうして妬み合うんだろう?」

 そのインストラクターの女性は、「そんな中で働いていると、登録だけしてあまり来ない利用者の方がいい人、って思えてくるんだよね」と苦笑いしていた。

 よく男性同士の嫉妬は、ひとりの女性を奪い合うときにより激しくなる、と言われるが、これは半分しかあたっていない。男性は、「彼女、ボクよりあいつのほうが好きなんじゃないか」と女性の愛をめぐって恋敵を嫉妬するのではない。「あいつは結局、男がいればそれでよくて、オレの事なんかどうでもいいんだ」と、男性の関心を一身に集めている女性に対して嫉妬の感情を抱くのだ。

 だからといって、その男性に同性愛的な傾向があるわけではない。そんな感情がなかったとしても、男性は自分にとって大切な友人、同僚、上司が、自分でない誰か――たとえそれが異性でも――に注目し、そちらに関心を集中させるだけで、その誰かをライバルと見なし、嫉妬の感情を持つ。

 たとえば、ナチス政権のヒトラーと宣伝相ゲッペルスにも似たようなエピソードがある。ヒトラーは当初、ナチスの宣伝工作に抜群の腕を発揮するゲッペルスを全面的に信頼し、すべての広報活動を任せていた。ところが、映画好きのヒトラーがナチスのプロパガンダ映画の制作を託したのは、ゲッペルスではなく女優にして新進映画監督のレニ・リーフェンシュタールであった。

 一説によると、ゲッペルスはリーフェンシュタールの登用に激しく反対したといわれる。
ヒトラーとゲッペルスは同性愛的な関係であったわけではないが、これまで広報に関してはヒトラーにとってのナンバーワンと自負してきたゲッペルスにとっては、上司であるヒトラーの信頼や関心が出現したばかりの女性に移ってしまったのが耐えられなかったのであろう。その心の根底にあったのは、嫉妬の感情であったと思われる。

嫉妬の奴隷にならないために

 診察室でも、これと似たようなケースには日常的に遭遇する。「ボクだって一生懸命、やってきたつもりなのに、上司がプロジェクトメンバーとして指名したのは別の人間でした」とショックを受け、うつ病になる人の場合でも、その本心にあるのは、「プロジェクトに参加したい」という前向きな気持ちではなく、「なぜ上司はボクではなくあいつを指名したのか」という嫉妬であることが多い。それに気づかないと、「まあ、チャンスはまたありますよ」といったピント外れの慰め方をして、よけいにその人を傷つけてしまう事がある。

 そういう時にはとりあえず、「上司にあなたの底力を知っているからこそ、あえて試練を与えた、という可能性はないですか」とその上司の関心が、同僚ではなくて本人の側にあることを示唆しておく。そういう可能性を考えることで、「どうして同僚の方が上司の心をつかんだのか」といった嫉妬の感情が少しでも減ることが期待できるからだ。

 それにしても、この嫉妬の感情ほど、ものごとの本質を曇らせ、それを抱く人は誤った道に導くものはない。先のビジネスパーソンも、よく話を聞いてみると。そもそもそのプロジェクトに入りたいわけではなかった、という事が分かった。彼にもっと別に、やりたい業務があったのである。それにもかかわらず、彼の心にある嫉妬が「どうしてもそのプロジェクトに入りたかったのに」という錯覚を抱かせてしまったのだ。

 どうだろう。もし彼が望んでいるように、上司が「この仕事、あいつじゃなくて、キミの力が必要だってやっとわかったんだ。参加してほしい」と言ってきて、そのプロジェクトのメンバーに採用されたとしよう。一時的に彼の心は満たされ、つまらない嫉妬の感情は消えるに違いない。しかし、時間がたつうちに彼はまた、別の悩みにとりつかれるはずだ。

「あんなに入りたかったプロジェクトのはずなのに、なぜかやる気にもなれないし、実力も発揮できない。いったいオレに何が起こったんだろう」
 決して何が起こったわけでもない。彼は最初から、その仕事には関心がなかっただけなのだ。
 カウンセリングを続ける中で、「自分は上司にこっちを見てもらいたい、と思っていただけで、その仕事がやりたかったわけではない」という心のカラクリに気づいた彼は、やっと同僚への妬みや羨みの感情から自分を解放することができた。しかも、彼はこんなことにも気づいた。

「よく考えてみれば、その上司だってそれほど素晴らしい人かといえば、そこまでじゃないですよね。でも、なぜかその人から見放されたらもうおしまいだ、って気になってしまったんですよ」
 このように、狭い人間関係のなかでは、「この人こそ人生の師」などと特定の人物を理想化し、その言動に一喜一憂する、といった事態も起きやすい。そう考えれば、職場やボランティアグループなど、限られた人間関係の中で運営される場は、嫉妬という感情が発生しやすい条件が整っているのだ。

 もちろん、「政党」や「内閣」などもそうだろう。とはいえ、大切な仕事や国の方針を決める政策が、そこに属する個人の嫉妬の感情に基づいて振り回されたりしては、たまったものではない。
 嫉妬は、女だけのものじゃない。いや、男性こそ嫉妬に支配される生きもの。
「ふん、生意気なオンナのたわごとか」とつぶやいている男性こそ嫉妬の奴隷かもしれない。

2 まじめな人、謙虚な人はトクかソンか?
まじめ、几帳面な性格は短所?

「チョイ悪・オヤジ」という単語があるが、これは悪い意味ではないらしい。むしろ「目指せ、チョイ悪」などと、中高年の男性の理想モデルのひとつとしてこの言葉が使われことも多い。

そういえば、数年前に世界中が注目したチリの鉱山落盤事故でも大きな話題になったのは、「妻と愛人、両方が救出を待つ男性」であった。結局、現地に駆けつけて地下から生還した男性と感動の抱擁をしたのは愛人だったのだが、「不謹慎だ」などと責める声は少なかった。ここにも多くの人は、「憎み切れないチョィ悪オヤジ」の姿を見たのかもしれない。

 一方、まじめ一徹の人は近ごろあまり評判もよくもなければ、その人たち自身の自己評価も低い。診察前に書き込んでもらう問診票に、「性格の長所、短所」という項目があるのだが、最近は「まじめ、几帳面」を長所ではなく短所の欄に記す人も目につくようになった。診察室でも「いやー、どうにも真面目過ぎちゃいまして」と恥ずかしい話をするかのように、その性質について語る人もいる。

「まじめ」は、いつのまにその評価を下げてしまったのだろう。
 ここにもやはり、「経済」という問題が大きく関係しているのではないか。
 かつて日本の企業や組織が「終身雇用、年功序列」を基本原則にしていたときは、まじめにコツコツ働いていれば、たいていの人はそれなりの年収や地位を手にして、一生、食いっぱぐれなく暮らすことができた。ところが、バブルが崩壊して不況が長引くにつれて、日本経済の失墜の原因は、日本型の企業経営ではないか、と言われるようになってきた。

 そこでやって来たのが、カルロス・ゴーン氏。徹底的な合理化、生産性の向上を目指して、大ナタが振るわれた。多くの企業が、そのころから目標達成率や業績を重視する成果主義を取り入れるようになった。いわゆる「結果を出せるか、出せないか」が評価のすべてとなり、「まじめな態度」「人柄のよさ」などはカウントされなくなってしまったのだ。

 そして、期待どおりの結果を出せない人には、容赦ないリストラが待っている。
 その大改革の効果なのか、二〇〇〇年代には、「いざなぎ以来の好景気」と呼ばれるほどの景気回復が実現。IT長者と呼ばれる新しいタイプの経営者が、連日、マスメディアで取り上げられた。

 六本木ヒルズに代表される都心の超高層マンションに住む彼らは、これまでの「まじめな人間」とはおよそ逆のキャラクター。長髪、茶髪、ピアスにノーネクタイ。高級車や自家用飛行機を乗り回し、グルメで美女好きであることを隠さない。テレビ出演でも、経済番組で堅い話をするだけではなく、バラエティ番組でクイズに答えたり芸人と絡んだり、これまでなら「ああなってはいけません」と言われかねないような彼らが、何十億と売り上げを挙げる会社を経営し、これからの日本経済をリードする、と言われるのだから、これまでグレーのスーツで満員電車に揺られて通勤してきたビジネスマンとしては、たまったものではなかったはずだ。

なぜチョィ悪オヤジやラテン系気質が活躍できたのか

 そんな狂騒のうちに、「まじめで努力家」というのはその人の取柄はなくて、むしろウィークポイントになりかねない性質、とみなされるようになったのだ。
 では、精神医学的にもこの「まじめ」は弱点なのだろうか。
 この問いに対する答えは、「ある意味ではイエス。でも今は事情が変わりつつある」であ。
 かつて。精神医学の世界では、日本人にもっとも多い性格特性は「メランコリー親和型」だと言われていた。この聞きなれない名前の性格は、もともとドイツ人の精神医学者H・テレンバッハが、ドイツのうつ病患者に多い病前性格として発見したものだ。その特徴は、「まじめ、勤勉、几帳面、責任感が強い、秩序を重んじる、自分よりも周囲の和を大切にする」というもの。

 それを聞いた当時の日本人精神科医たちは、驚いた。「なんだ、これってふつうの日本人のことじゃないか!」つまり、日本人の多くは、「うつ病」を意味する「メランコリー」に近い予備軍であるメランコリー親和型性格だという事が分かったのだ。

 では、なぜ真面目な人間はうつ病になりやすいのか。これは、知らないあいだに限界を超えて頑張り続けてエネルギーを消耗しつくしてしまうから。そしてもうひとつ、この人たちはコツコツ頑張るのが得意だが、いったん状況が流動的になるとそれに対応しきれずにパニックを起こし、そのままうつ病になってしまうからなのだ。

 つまり、日本社会で考えれば、会社も安定し、終身雇用が保証されている中では、まじめ人間はいつまでもペースを落とさずに頑張ることが出来る。しかし、たとえばM&Aで経営陣が変わったとか、IT化で新しいシステムが導入されたとかいうことが起きると、その変化は彼らに多大なストレスとなってのしかかることになる。

 そういう激変の時期には、反真面目な人間、すなわちチョイ悪オヤジやラテン系気質が活躍することになる。彼らは一般に、ひとりの恋人や妻では物足りず、次々に恋人を作ってスリリングな恋愛を楽しむ。まじめ人間にとって新しい恋人は、「また一から関係をつくっていかなければならないから面倒くさい」ものでしかないが、チョイ悪にとっては「その新鮮さがたまらないんじゃない」ということになる。

「事態が変わるからこそ面白い」という価値観のチョイ悪は、会社の構造改革やシステム変更なども新しい恋愛と同じように楽しむことができる。「ウチの会社が外資系に吸収される? じゃ、海外勤務もアリかも。ワクワクするな」と思えるのがチョイ悪、「えー、いきなり外国人の上司が来たらどうしよう‥‥英語も苦手だし」と落ち込むのが真面目な人間、というわけだ。

 こう考えてくると、企業や組織を中心に大改革が起きた一九九〇年代後半から二〇一〇年あたりまでは、まじめ人間にとっては圧倒的に受難の時代だったと考えられる。実際にこの時期、働く人たちのうつ病が激増したが、その多くも変化に対応しきれないまじめ人間だったと考えられる。

“新型まじめ人間”に必要なひと工夫

 しかし、今また変化の波がやってこようとしている。
 メディアを賑わせていたIT長者たちも、いつのまにか目立たなくなった。もちろん次から次に新しいITビジネスや企業は登場しているが、競争や技術の進歩があまりにも激しく、すでに消え去ったところも少なくないようだ。リーマンショックまでは、個人投資家がFX(外国為替取引)などで巨万の富を得ていたが、今はまた「やっぱりシロウトの投資には限界がある」といった声が大勢を占めている。

 そしてさらに最近、驚くべき変化が起きている。それは、変化に強かったはずのチョイ悪やラテン系気質の人がうつ病に、といった事例が増えているのだ。

 その原因はまだよく分析されたわけではないが、おそらく状況の変化が「新鮮でおもしろい」と感じるレベルを超えてしまっているのだろう。また、チョイ悪が変化に強かったのは、あくまで「どんどん良い方向に変わっていく」という見込みがあったうえでのことだったのかもしれない。より美しく、よりセレブな女性と恋仲になりたい、という前向きな野心がある限り、新しい恋愛に意欲がわいてくる人も、「付き合えば付き合うほど、どんどん女性のランクが下がっていく」という事になると、うろたえて平常心ではいられなくなるだろう。

 終身雇用や年功序列をやめて成果主義を取り入れてみたのはよいけれど、結局、社内にうつ病による休職者が増え、全体の業績も上向きにならない。こういう中で、成果主義を取りやめたり見直したりする動きも活発になってきている。企業の経営者や人事担当者と話をしていても、「一時はキラリと光る才能や瞬発力がありそうな学生を採用してきたけれど、やっぱり協調性がある人、まじめにコツコツ仕事をこなせる人がいい、とわかった」といった話をよく聞くようになった。なんだか再び「まじめ人間の時代」が到来しそうな勢いだ。

 ただ、昔のように滅私奉公型のまじめ人間だと、しばらくするとまたつぶれてしまうのは間違いない。ここはひとつ工夫が必要だ。

 では、”新型まじめ人間”に必要な工夫とは何か。それは、まじめにがんばっている自分を卑下したり、「時代に取り残されるかも」と不安に感じたりせずに、よいときもそうでないときも「とりあえずはこれでいいのだ」と自己肯定することだ。

 先ほど記したように、まじめな人のウィークポイントは変化に対応できず、パニックに陥ること。そこで、たとえ周囲が変化しようとも無理に適応しようとしすぎずに、「私は私のできる範囲で」と、これまでをベースにしながら、できる限りで動き方、考え方を変える。いちいちリセットしてゼロからやり直す必要はないのだ。

遠慮がちなタイプとわれ先タイプ

 まじめ人間と並んで、時代遅れの性格と見られがちなのが、何かにつけて「お先にどうぞ」とゆずってしまう遠慮がちな人たちだ。集団の中でも目立たない、謙虚な人が多い。宴会などでは早く着いても真ん中には座らず、出口に近くの席にひっそりと腰掛けているタイプ。込んでいる食堂や電車では、まず席を見つけることもできない。

 これまたかつては日本人に多く見られ、「謙虚な美徳」などと言われる長所であったはずだが、国際化、競争社会のなかでは、「そんなことをしていたらたちまち蹴落とされてしまう」と、負け組の条件のように言われるようになった。

 しかし、これに関しても「まじめ人間」と同じように、最近、風向きが変わりつつある。「目立ってなんぼ」「我先に」という人ばかり増えすぎ、会社の中でも外でも自己主張を自分勝手とはき違えて、トラブルが起きることも出てきた。

 病院の待合室にも、「患者様の病状によっては診療の順番が変わる場合があります」という貼り紙が必ずしてあるが、これも「私の方が先に来ているのに、どうして後ろから来た人が先に呼ばれるんですか!?」といったクレームが多発しているからだろう。「あの人はとても症状が重くて緊急処置が必要だったんです」と看護婦が説明しても、「私だって熱が三七度もあるんですよ!」と逆ギレされた、という話を聞いたことがある。

 そういったアピールのし合い、目立ちたがり合戦のような中で、多くの人はすっかり疲れているのではないか。CMでいわゆる癒し系のほんわかした雰囲気のタレントを目にすることが多いのは、「バリバリ、キリキリはもうイヤ」と感じる人が増えているからだろう。

ここで、この一〇年、一世を風靡した「われ先に」タイプについて、簡単な精神医学的説明を加えておこう。

 人を蹴落としてでも自分が先に行きたい、目立ちたい、という人たちは、精神医学的には「自己愛が異常に強い人たち」だと考えられている。
 自己愛といっても、「自分にうっとりする人たち」、つまりギリシャ神話に出て来る美少年、ナルキッソスのようなタイプの自分好きとは少し違う。ここでいう自己愛とは「私は正しい」「ほかの人は私に気を使って当然だ」と確信して、まったく反省していない、という傾向の事を意味する。彼らは、たとえば子どもの頃から、「あなたがいちばん賢いのよ」「とにかく一番にならなくてはダメ」などと親に言われ続けて育った、などさまざまな理由によって、半ば病的なほどの子供っぽい自己愛を身に着けたまま、社会生活を送っているのだ。

 そういう意味では、ほかの人に配慮や遠慮ができる「お先にどうぞ」の人たちというのは、子どもポイ自己愛から卒業し、成熟した人格を獲得することができた人、と考える事も出来る。だから彼らは、「気立てがよい人」として、いざというときには、周りの人からの信頼を得ることが出来るのだ。

 ところが、今の社会は全体として未成熟な子ども社会だといわれる。社会そのものが、「目立つのが勝ち」といった子どもっぽい自己愛的な価値観で働いているので、そこはどうしても、半ば病的な自己愛人間が幅を利かせる結果となっているのだ。もちろん、それはとても残念なことと言わざるを得ない。

 自己愛人間への賢い対処法

 では、「私が一番」「われ先に」の自己愛人間に対しては、私たちはどう対処すればいいのか。そういう人に出会ったら、泣き寝入りすることなく、彼らだけ得をさせることがないように、こちらの方がより大きな声を出せばいいのだろうか。

 そんなことをしたら、誰もが自分勝手に振る舞いだして、社会はすぐにめちゃくちゃになってしまうだろう。それはいわば、誰も「お先にどうぞ」と言わずに、自分が自分とエレベーターを降りようとして、結局は大混乱のまま時間切れで扉が閉まって降りられず、ケガ人も多数発生、といった”大混乱社会”だ。

 では、病んだ自己愛を持っていない、「お先にどうぞ」タイプが、「われ先に」の人たちがうごめく社会でうまくやっていくためには、どうすればいいのか。

 ここで大切なのは、本当は傷ついて自分に自信がない彼らの見かけ上の厚かましさも図々しさとはなるべくうまく距離を取るように、とまず心がけることだ。彼らと同じ土俵で競争しようと始めると、こちらもつい巻き込まれてしまう。

 そうではなくて、「ああ、あの人は未熟な自己愛に支配されていて、いまだにそこから脱け出されないんだな」と考えて、彼に比べて自分は負けているのではないか、損をしているのではないか、と比べ合いに巻き込まれないようにすることが必要になる。

 そしてもちろん、気づいたら彼らの奴隷に、といった事態にならないよう、気をつけることも必要だ。自己愛人間たちは相手が「お先にどうぞ」のタイプだと見ると、「ちょっと、これやっておいてょ」などとさまざまなむり難題を要求してくる。そういわれた時に、すべてを、「そんなの、できるわけないじゃない!」などと大声で断る必要はない。

「まあ、これくらいならやってあげてもいいかな」と思ったときには、「いいですよ」と引き受けてもよいだろう。彼らのいう事を聞くだけで負け、というのが、そもそも比べ合い、競い合いに巻き込まれている事にもなる。

「われ先に」と自己愛の強い人は、実は本当は未熟で弱い人でもある。彼らは自分への不安、自身の無さでいっぱいだからこそ、「私のいう事は正しい」「みんな私の意見に従って当然」と虚勢を張り続けているのだ。だからそういう人に同情して、百回に一回くらいは、「わかった、やっておくよ」「いいよ、お先にどうぞ」と引き受けたり勝ちを譲ったりできるのは、あなたの心の余裕の証拠にもなるだろう。

 しかし、その場合でも、「次はあなたにお願いね」などと、あくまでも私とあなたは対等な関係であることを、ひとことつけ加えて置くことも必要だ。とてもそこまで言えない、というときは、「今日だけだよ」と、これは時と場合によるのであって、いつでも必ず「お先にどうぞ」とは限らない、という事だけは言っておくことをすすめる。

 ただし、もう一つ付け加えると、弱さや未熟さが裏にあり、現代社会ならではの不安もいっぱい抱えた自己愛人間は、なかなか「私が間違っていた」と目覚めることはない、ということだ。だから、「いつかは私のやさしさに気づくはずだ」といった期待は、しないほうが無難だ。そんな期待をしても、結局は「まだわかっていないのか」と裏切られたような気持ちになるのが関の山。

「われ先に」のタイプに親切にするのは、あくまで自分のためであり、一度、親切にしたら自分の徳がまたワンステップ上がる、くらいに考えておいたほうがよいだろう。

 好き放題なことをしているように見える自己愛人間にも、実は大きな弱点がある。それは、「自分の要求には限りがない」ということだ。彼らの「もっと勝ちたい」「もっと目立ちたい」という欲求、要求には、「これで満足」といった終わりがないので、何か自分がやりたいことをかなえても、すぐ「次はこれ」と次の願望がわいてくる。そしてもちろん、いつかは願っても実現できない”限界の限界”がやって来るのだが、そのときに彼らは大きな失望、挫折、怒りを感じることになり、虚脱状態やうつ状態に陥る人も少ない。

 もし、あなたのまわりにその厚かましさ、図々しさからすべてを思い通りにしている人がいたとしても、それはその人の「人生のピークの一瞬」でしかないのだ。まさに、「驕る平家は久しからず」。

 まじめ人間が無理矢理チョィ悪になろうとしたり、「これから自己アピールの時代」とばかりに「われ先に」を強調しすぎたりすると、疲れ切ってしまうだけでなく、他者からもやがて疎まれたり、組織がメチャクチャになったりする。

 まじめだっていいじゃないか。目立たなくたっていいじゃないか。時代に踊らされる必要はないじゃないか。そんな自分を認めることから、まず始めてみよう。そんな揺るがず、うろたえず、落ち着いた男性には、きっと多くの”隠れファン”ができるはずだ。

つづく 3「男は女に立てられるもの」はどこからきているのか