山田詠美 著
ブリキの蓋の付いた砂糖壺を濃いコーヒーの上で振った時、最後の一振りであまりにも沢山の砂糖が出過ぎてしまった時のはにかんだ笑顔や、文字のはげかけたムスクオイルの瓶など、私の心の中でいとおしまれていた物たちが何の意味を持たなくなる時、既に新しい愛が始まっている。そしてそれと同時に私の喉を通過するのは、ある特定の人物の精液と煙草のけむり、そしてリカーだけになる。
それは一見とても重い病だが、大人になると、ミルクと半々になったフランス式のコーヒーのような苦くて乳臭いものとして忘れ去る技術を身につけることが出来る。
自分の技術を過信しすぎたために起こった私の失敗は人にただの色恋沙汰(ラブアフェア)として語られるだけで終わるだろう。私は心からそうあって欲しいと思っている。私の中でそれが極めて重大な意味を持っていたと他の人に知られるくらいなら舌を噛み切った方がいい。なぜなら記憶が何の価値も持たないくらい小さく思え、
昔習得した恋愛の手管(トリック)など、何の意味もないと確信させたのは、彼が欲しいという、ただそれだけの気持ちだった。私はただ彼が欲しかったのだから。
1
窓を開けて、と私が言う。返事はない。
「窓を開けてよ、DC」
半分空いたバスルームのドアから白い湯気が音をたてるように、激しく私のベッドの中に流れ込む。目が覚めたとき、私のまつ毛には水蒸気が絡みつき、眠りながら泣いていたのだろうかと嫌な気持ちになる。私には泣く理由など一つとしなかったから、それが、あの鈍純なDCの仕業だと知り安心した。シャワーを浴びるときはドアを閉めろとあれ程、きつく言ってあるのに。一時間以上も長々とバスを使う習慣のある彼は、最初は私のいう事に従おうとしてドアを閉める。けれど大量の湯気に我慢できなくなり、窒息寸前でじたばたもがき苦しみ、申し訳なさそうにドアを少し開けるのだ。今日は私が寝入っていたのでお伺いをたてるのを怠けたらしい。本当にどうしようもないアスホール!(くそったれ)
私は舌打ちして起き上がる。窓を開けようと板張りの床を歩きながら指で髪を梳く。嫌な音がして髪の毛が抜ける。手を見ると爪の割れ目に毛が一本引っかかっている。私は再びDCに対して苛立ちを覚える。彼が私に爪を割らせたのだ、昨夜。固い彼の肩には銀色に塗られた爪の欠片が、きっと埋め込められている。私は爪の無駄遣いをした気持ちになる。可哀想なDC。伸ばすとすぐに割れる私の爪の過ちなのに。
私は窓を開けてアパートメントの四階から外を見ると。太陽は真上にある。五月の陽は自分の体温と同じ温度のように錯覚する。私は春の終わりの孕(はらみ)猫の気持になり、だるくて思わず側の椅子に腰を下ろす。私の体から流れ出たDCの体液がゆっくりとナイトガウンを汚していく。
ラジオのスウィッチを入れ、煙草をくわえて空の赤いパッケージをつぶして放った。きっと後でDCが真面目な場所に捨てておくだろう。
見おろすとつつじの花が咲いている。隙間も作らないくらいアパートメントの前にはその花が咲いている。風がない。その花たちは少しも動かずに咲いている。強い日差しがつつじの群れを少し揺らしたように感じる。私は思わず目を見張る。花は静かさを乱したのは太陽ではなかった。
男がオペラピンクの花を一つずつ丁寧にがくから外して、花の根元を口にくわえていた。彼は、蜜を吸っている。男の太い指は器用にがくをはがし、厚い唇に花が吸い込まれる様子はチェリーブランデーが注ぎ込まれている食虫花を思わせた。彼が花をくわえたまま上目遣いをしたとき、その濃いピンクの花びらが二年前の私の足の爪と同じ色だった事を明確に思い出す。
彼は私の足元に跪き私の足の爪一つ一つに、不器用な手つきでオペラピンクのエナメルを塗ったのだった。彼は塗り終わった爪をいとおしげに眺めていたが、エナメルの乾くのを待ちきれずに口にくわえた。エナメルは粘りつくスライムのように、彼の唇を染め、葡萄を食べ過ぎた子供のように見え、私を笑わせた。彼は今にも泣きそうに私の爪を見た。私の爪には。彼の唇の皺がくっきりと刻印され、彼がもう一度、除光液を使って塗り直さなくてはならないのは明らかだった。
私は花の蜜を吸っている男の唇にエナメルが散っていないか、確認したくなり目を凝らす。
男はすでにその場所から立ち去っていた。花たちはやはり動かずじっとしている。幻覚かしらと思いながらも、私はそうではないのを知っている。つつじの枝に隠された場所にはがくを剥がれ取られて裸になった花たちがきっと甘い匂いをたてて死んでいる。
「何を見ているの」
気がつくとDCが後ろに立っている。彼は熊のように大きな図体をし、そして常にそれを恥じているかのように、もじもじとした表情をしていた。私は常にその表情に憐れみを感じ、それが傷ついた表情に変わるのを見届け、快感を覚えながらいたわった。彼はいつもの私に傷つけられ可愛がられて不安定だった。彼は私のご機嫌を取ることに心を砕き、私はまるでハイヒールの踵でするように、それを踏みにじった。
確か、あの男もそうだった――。
私は記憶の襞から、二年前の垢を削り取る。そしてそれを反芻しながら花をくわえた男の口と結びつける。そして二年前の記憶が意外と濃いものであることに気づく。私はいつも同じ種族の男を選んでいた。私の眼差しだけで一喜一憂する可愛らしくて情けない、大きくて獣のような男たち。見つけることが困難な、しかし一度目を合わせれば何を語る必要もない。彼らは嗅覚をきかせて私の手元に駆け寄り躓く。私が彼らに全ての幸福を与える事を知っている、そういう種族。
彼を見つけ出し側に置く快楽を私は二年前のあの時に知ったのだった。
「ねえ、ルイ子。今夜はグレート・ファッツに食事に行こうよ」
「あそこの肉は堅いからいやだわ。それより、もう少し先に新しいお店できたじゃない」
「‥‥‥」
「何も知らないんだから。そこがいいわ。シーフードを出すのよ」
DCは既に、何を着て行けば私に喜ばれるか、知恵を絞っているらしい。私は再び二年前のアフェア(事件)を味わいはじめる。彼は私に死ぬほど夢中だったわ。彼を語るにはこういう言葉があっている。ジャストライク ア スレイブ(まるで奴隷のように)。
その時、電話が鳴り、私は少し浮かれた気分で受話器を取る。
「ねえ、ルイ子、あなた知っている?」
「なあに」
「帰って来たのよ。リロイが」
「へえ」私は少し動揺したがそれを悟られないように返事をした。
「あなたに会いに戻ってきたのかしら」
「関係ないわよ」
私は女友達と話しながら、楽しくて面倒な心配をまたしそうだった、と思った。私は嫌気をさしながらも心待ちにしている事が沢山ある。
ビリー・ホリディのレコードに針がとぶ。私はDCを怒鳴る気にもなれない。私は友人の言葉を繰り返す。リロイ・ジョーンズが帰って来たのよ。
2
二年前のその日、リロイは華やかな友人たちの背後で、テーブルや椅子と保護色になって座っていた。ホモセクシュアルの感覚の鋭い男たちやパーティに何を着るかに一日の大半を費やしているような女たちに比べると彼はテーブルの上のナプキンや椅子にかけられた上着程にも目立たなかった。
私は、T・ベイビーと呼ばれる男の後ろに座ったリロイを時々、盗み見た。おしゃべりな男の陰で、彼はじっと座ったまま煙草を吸い、目を閉じて音楽を聴いていた。私たちは自分の周りの仲間たちがどんな仕事をしているのか、全く知らなかった。それぞれの仕事が終わった後が私たちの本当の生きがいだった。日常を感じさせないパーティ。パーティフリークと呼ばれる派手な私たちの集まりに何故、彼のような男が仲間入りしているのか私は少なからず興味を抱いた。
リロイの部厚い唇やこげ茶の肌は悪くはなかったが、服装があまりにも野暮だった。それ以上に、伸びかけた無精ひげや時々する、おどおどした表情は彼を、そのころの私たちが嫌っていた「田舎者」に見せていた。
彼が席を立った時、私はT・ベイビーに話しかけた。
「何故彼は話をしないの」と私。
「南部なりのひどいのさ」と、T・ベイビー。
私は納得した。都会育ちの彼らのジョークと皮肉で成り立っている早口の会話などリロイからみれば外国語のようなものだろう。私自身は南部のアクセントは好きだった。東北弁のようなずるずると引きずる発音の仕方は聞き取るのは困難だが、とても性的に私の皮膚を撫でるのだった。
「ルイ子がリロイの奴を気に入ったらしいぜ」
T・ベイビーの言葉で席にいる全員が騒ぎ出す。私は少し赤くなって否定したが、それどころではなく、嘆く声や冷やかしの声が飛び交った。しかし、誰も本気で私とリロイを結びつけている者はなく、リロイが戻ってくると、シャンペンを開けようとまで言っていた騒ぎがぴったりと収まった。時々、何人かが目配せをしてリロイと私の方に視線を送る。
私にだけわかるように。誰もリロイを相手にしていないのだ。流行遅れのプレスされていないシャツを着ているだけで、この自堕落なグループはリロイが仲間に入る事を否定しているのだった。
私は自分が高慢そうなそのグループの一員であるのを少し恥じ、人間らしい気持ちになって自分の椅子をリロイの方に移動させた。他の人々は、新しい音楽や新しい洋服などに話題を移し、私とリロイの事をすっかり忘れていた。私は茶目っ気を出し、彼のたるんだ靴下に自分の赤い靴の尖った踵を引っかけてずり下ろし、彼の踝(くるぶし)を露出させた。リロイは最初驚きで口もきけない様子だったが、我に返ると急いで靴下を上げた。上げられた靴下は私はまた同じように下ろした。同じことが四、五回、繰り返され、リロイはやっと私を真正面から見据えた。
私に対する怒りがあふれていると思われた彼の目は澄んでいて何の屈託もなかった。彼は悪びれている様子もなくてこう言ったのだった。
「朝食を食べに行きませんか」
私は驚いて、今の言葉が誰かの耳に入りはしなかったかとあたりを見回した。
「まだ早いというのなら‥‥」
彼は言葉を切って下を向いた。そして改めて顔を上げて言った。
「隣に来て座りませんか」
そして私はそうした。彼は口数が少なく、言葉につまると素直な目で私を見つめた。砂糖菓子を見るような目つきはとても正直で、じらすことで遊んでいる私たちのしきたりよりはるかに心に染みとおった。
彼の肩は最初から最後まで私の髪に触れていた。私の毛の一本一本が湿度計になって彼の汗を吸い込んでいくように感じていた。彼は金色の箱に入ったマルボロを吸い、薄荷煙草を好む他の黒人より明らかに泥臭かった。彼はまったく会話の技巧にたけていなくて、私が退屈しているのではないかと思うと、悲しい顔をした。私はもちろん退屈などしていなかった。シャツの襟もとから覗く丸首の下着の白さに心を奪われていた。
私の視線に気づくと彼は困った顔をして下着を中に押し込んだ。私は勝手にそんなことをされては困るとばかりに、彼の胸もとに手を伸ばし白いシャツを引き出した。その時、シャツの内側から漂う彼の体の匂いを感じた。私が初めて男の匂いを感じた。私は生まれて初めて男の体臭というものを意識した。私はその匂いに「ゴスペル(黒人霊歌を歌う南部の黒人)という名をつけた。それを彼に伝えると彼は恥ずかしそうに自分はそうだったのだ、と言った。彼の南部訛りの英語が私の耳を突ついた。私はたまらなくなってリロイの首を引き寄せて、彼に口づけした。
私はその明け方何度も寝返りをうって彼の気をそそった。私たちは結局、朝食をとらなかった。私とリロイは乱痴気騒ぎをしている友人たちをほうってクラブの外に出た。誰もいない芝生の上を歩きながら私は確かに「口説かれ雰囲気」を感じていた。彼はブラックマッチに火をつけた。私は唇をすぼめてそれを吹き消した。私は地面に体を半分起こして横たわった。夜露が絹のストッキンスに染み込み肌に張り付いたようだった。それを無理矢理剥がしたとき、私は火傷したばかりの皮膚が一緒に剝がれたような痛みを覚えた。私はドレスを股の上までたくし上げた。
「来て。火を点けるならここよ」
彼は皺くちゃの上着を私の体の下に敷いた。私は彼に抱かれる間、瞬きをしなかった。じっと彼の表情の変化を見続けた。時々目を開ける彼は私の視線に気づくたびに腕に力を込めた。彼は私の体に感動している、私はそう思い彼が愛しくなった。私はその最初の儀式の時、エクスタシーを感じなかった。私は彼を観察しながら、彼の感動を誘う存在になるべく体をくねらせた。彼の前では磨き抜かれた苦悩の表情を創る必要がないように私は感じていた。夜の濡れた草が香り私の肌を包む。そのおかげで私の肌はまるで澄んだスープのように彼の口に滑り込む。
私は彼の皮膚が快楽に泡立つごとに深い満足感を味わった。これから欲望の主導権は私が握る事になるだろうという確かな予感が体を横切るのを感じていた。
彼はため息をこらえていた。私は声を出さなかった。遠くのパーティの喧騒は私たちをなぜか安心させた。彼の体は夜に混じって夜よりも黒くなる。私たちの悪戯を見つけ出す者がいるとすれば、その人々はきっと時々、上下左右に動く彼の白目に目を止めたに違いない。
彼が沢山の汗をかきながら体を離したとき、私は人差し指でその一滴をすくい、長い舌を出して丁寧に嘗めた。彼は驚いて泣きそうな顔をしながら首を横に振った。私は彼の太い首に腕を回し鼻の穴を舌でなぞりながら立たせてと言った。私の息は彼の鼻にかかり彼はくしゃみをする前の動物のように顔全体をくしゃくしゃにした。私はそれがとてもユーモラスに見えて思わず吹き出した。
私たちは急いでお互いの身支度を整えて、まるでステップを踏むように歩きながら彼の部屋に向かった。芝生には脱ぎ捨てられたストッキングと彼のマッチが残されたが、私の絹の靴下には彼の体液が染みていたし、彼の紙マッチには二人の指紋が残されていた。私とリロイの関係が人に知れ渡るのは時間の問題だった。
部屋に戻った私たちは急いで再び何度も愛し合ったが、その終わりごとに私は浅い眠りに落ちた。私はずっと彼の胸の毛をつかんでいたが、その感触は彼を一晩中眠らせなかった。私がふと目を開けると、彼はとても静かに私を見守っており、その様子は私をとても幸福な気持ちにした。私は、再び自分の体を彼に抱かせてもよいとすら思った。すべての悦楽は私のために。私は自分自身を過保護に扱うのにすっかり慣れていた。
3
翌日から、あの抜け出したパーティの仲間達のおかげで私とリロイの関係は人々に知れ渡った。リロイには「あのルイ子の餌食にされた可哀想な」という形容詞が付いた。私今まで人を餌食にしたことなどなかったが、そういう言葉を使った友人たちは私のことを少しなからず理解していた事になる。もっとも人がどのように言おうと私は一向に意に介さなかった。私はリロイと一緒に過ごす時間が好きだった。
その日も私はリロイの部屋にいた。私は彼を外に連れ歩くのをあまり好まなかった。私たちは不自然なカップルに見えた。人々の賞賛の視線が私に注がれ、次に驚きの表情で人々がリロイを見る時、私は理由のない苛立ちを彼に対して感じた。彼は一般的な人々の目にはあまりにも無粋に映った。そして私は今までどんな男の視線をも釘付けにした来た。私はわけもなく冷や汗をかき、リロイもそれを知っているかのように一刻も早く二人になりたがった。
そういう外出から帰ってきた後は、私は機嫌を損ねて彼の部屋の前の廊下で靴を放った。私は彼に拾って来るように命じ顎を突き出して壁に寄りかかっている。彼はまるで忠実な犬のように靴を拾って戻って来る。私は足を差し出し彼に靴を履かせる。私はようやく気分を良くして二人で部屋の鍵を捜す。リロイは二人きりになった途端、とても幸福になり、私はやっと彼に愛情を感じる。
そんな出来事が続くと私たちは部屋にこもることが多くなる。その日私たちはラムをココナッツジュースで割ったピナコラーダを飲みながらソープオペラに夢中になっていた。私は床に胡坐をかいているリロイを寝椅子に見立てて寄りかかっていた。私の肘や背骨が彼の筋肉を刺激するたびに彼は緊張で軽く跳び上がった。彼は私といる時、女を知らない少年のように振舞うことがあった。彼は確かに私のような女を知らなかった。
私は前を向いたまま彼の気持ちに気づかないふりをしていたが、彼が私をいつも欲しくてたまらないと思っているのを知っていた。私がTVの画面に見入っている時、ふと気配がして振り向くと、彼は私の髪の毛の一握りにキスをしているのだった。私に気づかれたのを知ると、彼は本当に恥じ入るふうに下を向いた。私は彼が私を愛しているのだと思った。
私も彼を部分的には愛していた。彼の黒くつやつやとした頑強な体が私だけのプッシィにおぼれている感じる時などに。私は彼の悲しげな表情が好きだった。彼は嫉妬するときに私の好きなその表情をするのだった。彼の目や口たちは、まるでドライバーライセンスの写真のそれらと何の変りもなかったが、彼の目の色や途切れがちの呼吸と共に顔を全体に「悲しみ」という覆いが被さるのだった。彼は表情をあまり変える事なく自分の気持を私だけに伝えるのが上手だった。
彼は私をこれほどのものはない、というふうに扱い、私は自分をそう思える瞬間を愛していた。彼は私を壊れ物のように扱い、少年の宝物のように大切にし、そしてそれこそ私の一番望む事だった。
彼は私の体に少しも力を入れなかった。自分の体重を絶対かけないようにいつも肘に力を入れていた。彼は自分と私の体の間に隙間をつくるようにいつも努力していた。そこには暖く心地良い空間になり私の体を包んだ。私はその中でしみじみと感慨深げに休息した。私はリロイの体で外の空気から完全に守られていた。
そんなふうに彼はいつも私のことを思っていたから、彼の感情を揺れ動かすのは私には容易だった。彼は私が眠りこけているときに、ようやく休息を得ることが出来たが、もし私が横たわったプッシィに義眼を入れて、足を開いて寝ていたら、彼は永遠に安らかな気持ちになれないだろう。
私がリロイに施した数々の遊び。それを彼は、もしかしたら愛だと錯覚したかもしれない。私は彼を見るたびにギリギリと歯ぎしりをした。私は魅力的で自分の思いのままになるものに接したとき、いつもそうしていた。クリスタルの香水瓶を何度か床に叩きつけていたし、うさぎの襟巻きは或る日、バスに浸かっていた。黒い仔猫はだめにできなかった。ポーの黒猫のように復讐する場合を恐れたのだ。
私は手にしていたピナコラーダを床に零(こぼ)した。大きなグラスにたっぷりと注がれていたそれは床を白く染め、その濃度のために縁は盛り上がっていた。私は立ち上がり衣服を脱いだ。ココナツの香ばしい匂いが部屋中に広がる中でリロイは酔っていた。私は白いシーツのように広がったピナコラーダの洪水の中に裸の尻を付けて座った。氷の欠片が火照った肌に刺さり心地よかった。私はリロイをにらんだ。彼は膝で立ち呆然と私に見とれていた。彼は私が何を望んでいたかを知っていた。私の肌が吸い取り紙のようにアルコールを吸っていくのを感じていた。
「急がないとプッシィは満たされてしまうわよ」
彼は我に返り、それを防ごうと慌てて口をつけた。私は肌が吸いきれない液体を体中になすりつけた。私は酔い過ぎてしまい怠かった。横になると私の髪は海の隠花植物のように広がった。リロイの喉はきっと乾いていたに違いない。犬のように舌先を使い私の体の素敵な飲み物を一滴残らず飲み干していく。
開いた窓から強い西日がさして私の顔を照らす。私はラムの匂いにむせて目を閉じる。薄目を開けるとリロイの黒い額がとても慎重に私の体を移動していくのが見える。私はアルコール中毒の患者のように目を潤ませて成り行きを見守る。彼は動きを止め私のイエスの返事を聞くために顔を上げる。私は首を横に振り彼を受け入れるのを拒絶したので、彼の舌は再び私の体を歩き始める。
彼の盛り上がった尻の肉を私は懐かしいと思う。彼はきっと私をこんなふうに心地よくするために生まれて来たのだ。彼の舌は私の体を清める時に最も幸福になれる。
私は最後までイエスを言わなかった。けれど彼が自分の指で彼のディックに触れるのを許し、少しの優しさを示した。
西日は移動して今度はリロイの体を照らす。部屋の中には彼の中には彼の長くて濃い影が落ちる。隣の部屋から、
「ウェア イズ マイ ベイビー」という古い曲が流れて来る。あなたのベイビーはここよ、と私はリロイの顔を抱え込む。陽射しは彼の顔を緋色に染める。彼の太い指の関節は彼のディックのまわりで優しいカーブを描く。彼の不在は私のプッシィを切なくさせる。泣くことが時々快感に変わるように、私の足の間で恋しいと囁く言葉が甘く溶けていく。
「リロイ、あんたが恋しいは。本当よ」
私がため息と共に途切れ途切れに呟くのと同時に、彼の精液はココナッツの果汁と激し混ざりあった。その濃度はほとんど、その南の島の果汁の汁と同じように見え、私はラム酒を注いで嘗めてしまいたい衝動にかられた。
4
彼はピアノが好きだった。明け方、私が眠る前に彼の部屋に行こうと歩いていると、とうに閉まったバーから、聞き覚えのある旋律が流れている。ドアの隙間から覗くとリロイがピアノの前に座っている。私は気づくと彼はこっちにおいでと合図する。私は熱いレモネードを渡して側に座らせる。彼は唸りながらピアノを叩き、けれども私には何という曲なのか、さっぱり解らない。彼の指は鍵盤からはみ出しそうに太くて、弾き方は、とても不器用に思えた。けれど彼の奏でる音楽は私の足の方から肌に伝わって登って来て、私は思わずリロイの腕にしがみついた。
彼は斜め横に視線を移し、片目をつぶり私に笑いかけた。私は初めて彼に肩透かしを食わされたような気になった。彼のくわえている煙草を私はもぎ取り、自分の口にくわえた。茶色のフィルターは歯の噛み跡がついてぺしゃんこになって濡れていた。
煙草の似合う曲ね、と私が言うと彼は、にっと微笑んだ。尖った肘が大胆に跳ねて、私は今まで知らなかった彼の腕の筋肉を意識した。世の中に私と彼とピアノだけが存在していたなら、私と彼の愛し方は逆になるのかもしれないと、わたしは思った、
「あんたの口にピアノ線が張ってあったら‥‥」
彼は一瞬、手を止めた。
「あんたを愛したかもしれないのに」
彼は私の腕をつかみ、私の体を引き寄せた。私はバランスを失い、もう一方の腕を鍵盤に打ち付けた。そのはずみでピアノの蓋は閉まり、私の腕をはさんだ。私は痛みと驚きで叫び声をあげた。それは私がリロイの前で初めて上げた叫び声だった。リロイは私を膝の上に置いたまま愛し始めた。彼は私に抵抗する隙を与えなかった。私は腕を挟まれたま彼を受け入れた。彼がそれに気づいて慌てたのは全てを分け会った後だった。ピアノの蓋の隙間からは、昨夜リロイに塗らせた赤い爪が覗いていた。鍵盤は血の気を失った私の腕の重みで、列をなして沈んでいた。
鍵をバーの主人に返しに行った後、私はリロイと共に彼の部屋まで歩いた。私たちは何も話さなかった。私のプッシィは、乾いた楽器を湿らせるために使う濡れた紙が挟まれた気持ちになっていた。そのために私の足は時折もつれて、リロイは私の体を支えなくてはならなかった。彼は心配そうに私を見つめた。彼の視線は私の目の中で乱反射し、私は顔を背けた。彼の首筋を噛んだ時の血なのか、キスをした時の口紅なのか、それすらも判別できなかった。
明かりのない路地裏でリロイは私の体を抱きしめた。彼は、僕を愛してくれ、とポツリと言った。私は彼のチットリンズ(豚の臓物)の煮込み料理の中の月桂樹の葉のような香ばしい体の匂いを味わいながら、この男と長くはないだろうと予感していた。
私はそれからしばらくの間、リロイの部屋を訪れるのを止めていた。
私は前のように、自堕落な仲間たちの所に戻り、彼らと朝まで飲んで騒いだ。私たちは東京での遊びに飽き足らず、よく基地のクラブにも連れだって行った。時折、そこでリロイの姿を見かけたが、私は声をかけなかった。リロイは遠くの方からわたしを見ていたが、私たちの意地の悪いグループに自分の方から近寄ってこようとはしなかった。彼は私たちから離れた場所のバーのカウンターに腰掛けて、背中を丸めてラムインコークを飲んでいた。
彼は誰とも話さず、いつも下を向いて考え事をしているふうだったが、私が軽薄な男の膝の上に乗り、大声を出して騒いでいると、下からすくうように後ろを振り向き、自分の肩越しに私を睨むのだった。私は、その視線を受け止めた時まるでストリップティーズをしているような恥ずかしさに身が縮む思いだったが、何事も気づかないような素振りで男の頬を口紅で濡らした。それを見た途端、リロイは立ち上がり、椅子を蹴飛ばして、クラブを出て行った。私は肩の荷を下したような気分になり、放心して仲間たちに馬鹿扱いされた。
私は酔っ払い、セックスをして眠れば、どこでも構わないという気持になり、私を膝に乗せた第一番目の男と一緒に道を歩いていた。バーの立ち並ぶその通りを歩きながら、私は嫌な予感に包まれた。私は、聞き覚えのあるピアノの音がこぼれる、そのバーの前を足早に通り過ぎようと男を促したが、彼は酔い過ぎていて足元がふらついていた。
私たちがもたついている時、リロイがドアを開けた。
「ヨウ、メン‥‥」
酔っぱらった男に声かけた。リロイは私と男の顔を一瞥した後、男に強烈な一撃を食らわせた。男は向いの店の扉にぶつかり、ポップコーンのように跳ねた。
私は自分もぶたれるのではないかと、少しおどおどしたが、リロイが緊張した面持ちで立ち尽くしているだけなので、ほっとして言った。
「歩きたくないの」
彼は私を抱き上げ、彼の車に連れて行った。私は車の中で不思議な安心感に包まれていた。あの男が追ってこないかと、私はバックミラーを覗いたが、ゲートの金網以外は何も映っていなかった。
5
私はその晩、何を証明したかったのか解らない。私は椅子を後ろ向きにし、足で背をまたいで座った。私の足は大胆に開かれていたが、椅子の背で隠れ、私のプッシィはリロイの目には触れなかった。私は背もたれに両肘をつき、リロイに服を脱ぐように命じた。
彼は私から目を離されずにゆっくりとシャツのボタンを外した。彼の指がジーンズのジッパーにかかった時、私は彼をこちらに呼び寄せた。彼は膝を使って歩いてきたので、彼の顔は私の唇と同じ高さになった。彼は決して恥しい表情を浮かべなかった。不貞腐れてもいなかった。彼の目は私の次の言葉を待つ子供だった。
私は彼に思い切り唾を吐きかけた。それが私の次の言葉だった。彼は一瞬顔をしかめたが、すぐに元の純粋な表情に戻った。私はもう一度唾を吐きかけた。それと同時に半分まで下りていたジッパーを音を立て引き下ろした。
彼は下着を着けていなかった。私は裂けたジッパーの間に視線を落とし、そのジッパーを私以外の誇り高くない女のプッシィと錯覚した。私は強烈な嫉妬に目もくらみそうだった。私は立ち上がり、椅子に正しく座り直した。
私はゆっくり足を開いた。私は下着の線が服に浮き出るのを恐れて、その日もショーツを着けていなかった。黒いスカートの奥では赤い靴下止めが私の太股を囲んでいた。私はリロイを正座させ、緊張のあまり力なく佇んでいる柔らかい生き物を赤いハイヒールシューズの細い踵で踏みつけた。彼は苦痛に顔をゆがめたが、その生き物は餌を与えられたかのように生き返り成長し始めた。
私はスカートの中に彼の頭を誘い込んだ。私は、自分とリロイが雌雄同体のおかしな動物に見えないように自分の足を彼の両肩の上に乗せた。
椅子はギシギシと揺れた。私はリロイの首を両足で挟み、上を向く。靴は彼の背中の肉に当たり、足から外れて床に落ちる。私は、幼い頃いつも乗りたかった、コインを入れる動く木馬を思い出す。私はいつも母親にせがんで泣いていた。私今、自分の意志で自由にその木馬を動かせる。私の目や歯や口がコインの代わりをするのだ。私は気持ちの良いため息をつく。それは免罪符に変わり、リロイの心に舞い落ちる。私の両手は、油の付いて縮れた彼の髪の毛を掻きむしる。私の体は彼の舌を軸にして、ばねのように上下に伸びる。私は自分をじらすために、彼の髪の毛を引っ張り上を向かせる。彼は澄んだ目で私を見上げる。こういう時、いつも彼の目は無垢になる。それが私を欲情させる事を、まるでわきまえているかのように。
私は彼の体を転がし、片方のストッキングを脱いだ。そして、それを使い、彼の両足首をきつく縛った。そうする必要は、もしかしたらなかったかもしれない。彼は、いずれにせよ抵抗などしなかっただろう。彼は、わたしの前で、自ら自分自身に手錠をかけた奴隷だった。
私は彼の体に快楽を与え始めた。私の唇は熟されたクレヨンのように溶けた、彼の体に容易に絵を描いた。黒いキャンバスは私をはじかない。私の髪の毛は彼との間で孤独に漂泊する。彼は、僕に与えてくれてと私に懇願する。私は、そのせつない様子に感動して涙ぐむ。
そして私は彼に与えた。彼は私のプッシィを歯の無いハングリーウーマンと呼んだ。私は本当に飢えていた。その飢えを満たそうと必死だった。私は生まれて初めて一生懸命という気持になっていた。私は今まで、絶対に底に着かないマニキュア瓶のはけのようなもどかしい気持ちで毎日を送っていたのだった。今、はけは瓶の底に着いた。私は知らずしらずの内に涙を流していた。
気がつくと私は彼の体の上で小さな少女のようにお座りをしていた。リロイはゆっくりと起き上がり、縛られた両腕の間に私の首を入れ、私を見た。私には彼の両腕が絞首刑の時の縄のように思えた。彼は私の首を引き寄せた。私のうなじは彼の両手首を縛った自分の黒いストッキングにせかされた。彼は顔を斜めに傾けて私に口づけした。そして私は失神したように彼の胸に倒れ込み、罰を受けた。
彼の顔を見たのはそれが最後だった。私は、彼がバーで泣きわめきながら、私を探していたという噂を聞いた。酔いつぶれて気違いになったリロイに誰も私の住所も電話番号も教えなかった。私はいつも、ひとりでぼんやりしていた。私が再び、酒の味を思い出して外出するようになった頃、リロイがアメリカ合衆国に帰り、軍を除隊したのを知った。そしてそれを聞いた時には、私には新しい特別な男が側にいた。
6
リロイ・ジョーズが帰って来たという話半分、別段、人々を驚かせはしなかった。リロイが日本にいたのは二年も前の事だったし、目立たない黒人が一人増えたからといって、騒ぐこともなかった。リロイを覚えている人々も、まだ彼に再会していなかった。再会していたとしても気づかなかったに違いない。
私はリロイという名を口の中で転がしてみる。それは私にとって糖衣錠のような物で、口の中に長く置くには苦すぎる。しかし二年という歳月が私に余裕を与えていた。私にはリロイをもう一度、楽しむ権利があるのだ。そして、彼にはもう一度、私を楽しませる義務がある。私以外、誰も知らない苦さをもう一度味わってみようか。私は急にそわそわし始めた。
私はDCが不審に思うほど、浮足立った気持ちになって煙草に火を点ける。私は二年前の芝生の濡れた匂いや沈黙を破ると息の響き、暗闇の中で旧式の冷蔵庫を前にビールの栓を開けるリロイの背中や、魚を食べた拍子に感じた私の匂いのこびりついた自分の指を、もう一度嗅ぎ直している彼の表情などを思い出した。
私の胸は少し高鳴ったが、それと同時に、この間、窓の下で花の蜜を吸っていた男の事を思い出す。あれはリロイだったのだろうか。そんなはずはない。私は正確に記憶をたどり、彼の事を思い出すことが出来る。もしも、あの男がリロイだったなら、窓から首を出した私の姿を認めないはずはない。彼はどんなに遠くにいても、私を恋しい視線を突き刺すに違いない。
その黒々としたまつ毛で私を欲しいと伝言を送るはずだ。私は決して自惚れているのではない。私とリロイの関係は、そういうものだった。私たちが二人でいる時、私たちはお互いの役割を、ごく自然に受け止めていた。あれはリロイではなかった。
「今晩は何を着ていくの、ルイ子」
DCの声で私は我に返る。
「今晩って、今晩何があるの?」
「OH! SHIT! 忘れちゃったのかい。今日はブラックボールだぜ」
私はボールと呼ばれる正装のパーティが今夜、開かれるのを忘れていた。一晩だけの紳士淑女になった不良たちがディナーやショウタイムを楽しむのだ。ほとんどの人間はパートナーを連れて現れるが、正面に、以前ベッドを共にした事のある男が座ったりしたら悲劇だ。私たちは、お互いの連れに気づかれないように笑いをかみ殺し続けるのに一苦労する。
白いリネンのテーブルクロスの下で、不意に足がぶつかったりすると、私はシャンペンにむせた振りをして吹き出した笑いをごまかす。知らない素振りという楽しみを堪能するのだ。
そこで、まさかリロイと会えるとは思わなかったが、そう思わない事が私をほっとさせた。私はもう一度、リロイと二人だけに理解できるあの関係を結びたかったが、彼のピアノだけは二度と聞きたくなかった。私は二年の間、あのピアノの音を恐れ続け、その事で私の生活は成り立っていたといえた。
私たちがブラックホールの会場で招待状を差し出している頃には、既に着飾った紳士淑女たちがアペタイザーを突いていた。
私は、DCの指などいり込む隙間も無い、体に張り付いた赤いドレスを着ていた。私は人前に出る時、好んで赤を身に着けたので、赤い色でいつも私を連想した。赤いハイヒールシューズは、私の秘密を沢山知っていたが、そのせいか私は自分の足をとても官能的だと思った。それらが誰かの顔を赤らめさせるのは確実だった。
私とDCは食事や香りのよいブランデーを楽しんだ。私は食事の最中にDCの耳を引っ張り、ファック・ユーと囁いてた彼を慌てさせた。
ステージで黒人歌手が「サンバデイエルシズガイ(誰かの男)」という少し前のヒット曲を歌っている。私は男の視線を感じながら、DCとダンスフロアに行った。DCは誰かが私にちょっかいを出さないかと、絶えず気を配っていた。DCは間抜けな男だったが、こういう場所では不思議とナイトのように見えた。私は、とても機嫌がよかった。
私の後ろで踊っている男の肘が、度々、私の背中に当たった。横に視線をずらすと黒いタキシードの裾が目に入る。かなり背の高い男だ、とわたしは思った。金色の腕時計が白いカフスから覗いた時、私は興味半分に後ろを振り返った。
男は、私が振り返る前に既に私のことを見つめていた。彼の髪のジェリイカーリーで波打っていて、左耳には金のピアスを垂らしていた。そのジゴロのように洒落た男が、あのリロイだと気付くまでに、私は数秒かかった。呆然としている私に一瞥をくれた後、彼は再び前を向いて踊り始めた。踊るという事! それは、かつて、女をその気にさせる会話などと同じくらい彼には似合わないものだった。踊っているリロイなど私には想像を絶する奇異な代物だった。
しかし、目の前にいる男は奇異でも何でもないのだ。生まれた時から、ステップの踏み方を知っているように床を鳴らし、女の腰に手をまわしているのだった。
私は気が変になり、DCの腕を引いてフロアから出ようとした。その時、その男は。もう一度振り向いて私に言葉をかけたのだった。それは、私だけ解るほどの小さな声だった。私は怒りと恥ずかしさで真っ赤になった。彼は粘り気のある陰湿な声でこう言ったのだ。
「靴の踵が、ずい分と減ったじゃないか」
私は気を失って今にも倒れそうだった。鈍感なDCは、私が貧血でも起こしたのだろうと思って、私の体を抱え込むようにして席に運び込んだ。事実、私は貧血状態のようになり、ぶるぶると震えていた。
私はDCに渡されたブランデーを一気に飲み干した。熱い塊が喉を滑り落ちた時、私はようやく落ち着いた気持ちを取り戻し、再びリロイを正視出来た。
リロイは腕組みをして壁に寄りかかっていた。手に持っている小さなカクテルグラスはライトの反射で宝石のように見えた。その宝石を無造作に扱う様子は、私の心を再び苛立たせた。何度か女たちが彼の許に駆け寄り、彼は、にこやかに応対していた。彼の首にはあの時の牡牛のような面影はなく、余分な肉はそぎ落とされていた。彼は女たちのために体を屈める事を決してしなかった。女たちが彼と言葉をかわすために上を向いていた。
一人の女が彼の頬にキスした時、彼は女の髪の毛の毛越しに私を見た。彼の両手は大げさに広げられ、グラスを持つ手は、さも幸福そうだったが、目は笑っていなかった。口の端だけを上に歪めて皮肉そうに微笑した。
私は、その瞬間から彼を忘れる事を決意した。私には過去も、そしてこれからも、私とは何のかかわりもない男として彼を見ることが可能だと思った。その考えは私を安心させたがそういう決心をさせた男の存在自体を私は憎んだ。
「リロイ・ジョーズを知っているの?」
私はギクリとしてDCを見た。まさか私と彼がリロイの関係を知っている訳がない。
「何故あんたがリロイを知っているの?」
「何故って‥‥当たり前だろ。ああ、ルイ子は古いジャズしか聴かないから。若手のピアニストの中では今、彼が一番なんだよ。どうしてこんな所にいるのかと思ったら、彼、昔GIだった時に、ここの基地をステーションにしていたんだってね。ラッキーだったなあ、今夜は、ルイ子、もし彼を知っいるんだったら僕を紹介してよ」
「幸せな男ね、本当にあんたって!」
「そのリロイ・ジョーズがどうして日本にいるの?」
「二・三ヶ月バケーションをとって休養するってエボニーには書いてあったなあ。ドラッグに手を出さない限り、ミュージシャンは金持さ。いいなあ、サクセスしたなんて‥‥」
「サクセスなんて何よ」
「?」
私は、あのピアノの前でのファックを思い出していた。彼は知ってしまったのだ、と私は思った。あの時、私にそう出来たように人々にも「フイールソウグッド(よい気持ち)」を与えられることを。
私はもう一度リロイを見た。彼はもう、上目遣いに人を睨むことも、人の視線から目を背けることもしなかった。私は、豚の耳をプレスしたホットヘッドチーズと呼ばれるハムのように、彼の体を押し潰すことはもうないだろうと悟った。
「ねえ、ソウルフードを食べに行こうよ」
「ええっ! また食うの!?」
DCは、ぶつぶつと文句を言ったが、結局私の後を着いて来た。結局は黒人たちには自分たちの懐かしい料理(ソウルフード)には抵抗出来ないのだ。私は料理の匂いを嗅ぎながら、リロイの体からは、もうこの匂いがすることはないだろうと思った。そんな香ばしい風味は、もう失われているだろうと思った。
7
私は家に閉じこもって、数日間ファックばかりしていた。DCは私がいつも欲情しているので驚いた。しまいには、まるでインク瓶に差し込んでインクを吸入する時の万年筆のように、彼のディックはギシギシと音を立てた。私の体は確かに欲情していたが、心は少しも欲情していなかった。こういうのをろくでなし(ファッキン)なファックというのだと捨て台詞を吐いてDCを困らせた。
DCはベーグルパンのようにいつも頬を膨らませている私を外に連れ出した。久しぶりにした化粧で私の肌はつっていたが、ネオンサインや酒によるほてりで、そのうち私の顔は上気し始めた。仲間がいつも時間の無駄遣いをしているクラブに行くと、彼らは歓声を持って私を迎え入れてくれた。
シニカルな批評と卑猥な冗談。人生を馬鹿にするのは何とも楽しい事なのだろうと実感するのはこんな時だった。ファックとお酒とおしゃべりだけで一生を送れたら、どんなに幸福だろう。
私は急に店の中の空気が変わったのを感じた。人々が扉の方に視線を移動している。私は何か起こったのかを敏感に感じ取る。私は死んでも後ろを振り向くまいと決意する。
リロイは女を連れていた。彼は女のために椅子を引き、その女は甘えるように彼を見上げた。美しさと甘えだけを武器にする、この界隈によく見かける種類の女だった。
リロイは私たちの仲間を覚えているはずだったが素知らぬふりをしていた。彼は今日もタキシードを着ていたが、頭に斜めに載せている黒いキャップや白いスニカーがドレスダウンを感じさせた。私たちはよくドレスダウンという言葉を好んで使ったが、それは洋服を粋に着崩す者に与えられる褒め言葉だった。私たちは誰もがリロイに対してそれを感じたが誰も口に出す者はなかった。
「リロイの奴があんなふうになって戻って来るなんていったい誰が予想した?」
女を吹き出させているリロイを見ながら、ラスコーがそう言った。
「本当だぜ。ルイ子と一緒にいた時のリロイと来たら、まるでコットン畑の作業員だったものな」
DCは驚いて目を見張った。私は無駄口をたたいてばかりいるラスコーとその友人に対して舌打ちをしたい気持ちだった。
「ルイ子がリロイの女だったの? すげえや」
DCは純粋に感動している。ラスコーがDCの頭を小突いた。
「ちがうよ。リロイがルイ子の男だったのさ。あいつは二年前、誰にも相手されない田舎者だったんだぜ。それをルイ子が物好きにもあいつを拾ってやったんだ」
DCは完全に私を尊敬の眼差しで見ている。こういう場合に嫉妬する程、頭の回る男ではなかった。リロイは軍隊を終えた後、成功した英雄だと、彼は決め込んでいた。
「あいつがピアノをやっていたなんて知っていたのか?」
「さあ‥‥」
私は知っていたわと心の中で叫んでいたが黙っていた。私にとってリロイは偶発的な出来事だったと皆に思わせたかった。私が少しもリロイについて語らないので彼らは見た目には良いが頭の弱いDCをからかい始めた。
リロイは時々私を盗み見ていた。私はそれに気づいていた。私の全身は彼の射るような視線に敏感になり、私の背中は角膜のように彼の視線の焦点を結んだ。その一点は虫眼鏡を通した光のように、じりじりと熱くなった。その熱さに耐えきれなくなった時、私は立ち上がった。私は彼らにDCのお守りを頼み外に出た。
私は赤坂の街を当てもなく歩いた。何故か涙が出て仕方なかった。誰かが私を虐めたの、と母親に言いつける子どものように自分を感じていた。
車が私の横で停まった。私はキャブドライバーだと思い振り向いたが、フロントガラス越しに見える顔を認めて走り出した。
リロイは運転席の窓から首を出して怒鳴った。
「一人でふらふら歩いているとストリートガールみたいだぜ」
私は涙を払って後ろを向いた。彼はゆっくりと私に追いつき車のドアを開けた。私にポケットに手を入れたまま立ち尽くしていたが彼は私に逃げられる前に、私の腕をつかんで車の中に引き込んだ。私が声を出す前に車はすでに走り出していた。
霧雨が道路を濡らしていた。私にはもう抵抗する術はなかった。私は、雨の季節になったのだとぼんやり思っていた。リロイはブレーキを踏む度に私の顔を見詰めた。私は彼の視線を受け止めるしかなかった。彼がアクセルを踏むために視線を外すと、私の目は行き場を無くして、ハンドルにかけられた彼の指を見るしかなかった。彼の指の関節は、前とは比べ物にならないほど太かった。それは確かにピアニストの手と呼ばれるものだった。
リロイは、ずいぶん長い間車を走らせていた。雨は激しくフロントガラスをたたき始めていた。私は、車がどこに向かうのかや、彼が何を考えているのか、などを疑問に思うのを忘れていた。私は、ただ車のなかにいて、隣のリロイの存在だけを意識していた。彼はかなりスピードを出していたが、背筋を伸ばしてとても静かに運転していた。時折、彼の耳に下がる短い金の鎖だけが音を立てた。正装した衣服の中に在る物は確かにリロイである筈なのに、そこに座っているのは別の人間にしか見えなかった。私は、同じ素材からこうも別の人間が造られ得るものだろうかと漠然と感じた。
私は、確かにある意味で相当な自惚れ屋だったが、リロイは私が一緒に過ごした期間は短いものだったし、私の存在が彼に強烈なインパクトを与えたとしても、今のリロイの様子は、あまりにも自然だった。彼は通りすがりの女を車に乗せた時のように平然としていて、それは私を傷つけた。だがもし私を憎んでいる素振りを見せたなら、私は苦い想いと共に多少の自尊心を保てただろう。私が二年前、彼の資質を鋭く感じ取ったように、その感じ取った資質を伝えてしまった女の存在を私は感じた。
彼はギアスティックに手を伸ばすように見せかけて、私の手をつかんだ。彼は正面を向いたままで、私を見つめる必要などないと思っているふうだった。私は、目の奥の塊が溶けて流れ出そうだった。私の視界に入る景色は全部ぼけていた。雨のせいには出来なかった。車の窓は全部閉められていた。
私は涙を蒸発させようと努力していたので、リロイが車を停めたのに気づかなかった。彼が上半身をずらして私に顔を近づけた時初めて、私は車が明かりのない場所に停められているのに気付いた。
わたしは二年ぶりに息のかかる場所でリロイの顔を見た。顔立ちは昔の彼と同じものだったが目は明らかに異なっていた。私は、彼がすぐさま唇を寄せてきて私を押し倒すものと思っていたが、彼はそうしなかった。彼は私の顔を見続けた。彼の目は私を軽蔑しようと試みていたように思う。同時に、彼の瞳は私をこれから奪うのを決意したことを私に告げていた。彼が以前、私の承諾なしに私を自分のものにしたのは一度しかなかった。その時ですら、彼の瞳孔は今のように舌なめずりして私を予見させるという事などなかった。私は恐怖感に身震いをして顔を背けようと顎を傾けた。彼はそれを予測していたかのようにおんなじ方向に自分の顎も傾け、私の唇に選り抜かれたキスをした。
私が自分の意志でやっと呼吸を再開した時、この瞬間を待っていた、と彼は言った。その言葉に、これから情事を始めるのだというような甘い響きはなかった。彼は私の耳に口をつけて熱いお茶のような唾液を流し込んだ。そして私をバックシートに促した。
彼の口づけは責任を持って私をその世界に引き入れていたので、私は抵抗するのをあきらめ、後ろのシートに滑り込んだ。彼がいったん外に出て、もう一度車の中に入ってくるのを待つ間、私は、こうなる事は必然だったのだと自分に言い聞かせていた。
リロイが私を再び抱き寄せた時、私はバランスを失いドアに頭をぶっけた。少し付いている雨のしずくを彼の体は、はじいていた。私の顔に水滴がかかったのに気付き、彼は六月だというのに車のヒーターを入れた。
男の匂いを嗅ぐと反射的にシャツのボタンを外すおしゃべりな私の指は、すっかり沈黙して握りしめられたままになっている。彼はその指を一本一本広げて口をつけた。私は何も見たくないと思い。きつく目を閉じる。彼の唇が私の首筋に移動するのが解る。彼の顎髭は、前は刈り忘れた芝のように私を刺すだけであったのに、今はサンドペーパーのように私の頬を削り取る。
彼はピルをシートから取り出すように、私の唇を押し上げて私の歯を露出させる。私は自分の歯の間にある彼の舌を噛み切る自由があったはずであるのに。私の舌はもう私の体を清めるためには使われない。彼の舌は空腹なのだ。その空腹を癒すためだけに、彼の舌は私の皮膚を移動していくのだ。私のために息や小さい叫び声を栄養として。
車が水たまりを跳ね上げて横を通り過ぎて行く。誰もが私が、この小さな空間で生贄になっていることを知らない。彼の指は私のドレスのジッパーを引き下ろす。私は小さく「ノー」と言ったが、彼はそれを成し遂げた。彼の指が私の肌に直接触れた時。私は知らず知らずのうちに悲鳴をあげていた。
「もう、おしまいだわ」
しかし、彼はそこから全てを始めた。シートは軋んだ音を立てる。私の皮膚は鍵盤になる。彼の指は自由に私の上で遊ぶ。もう武骨にキーを叩きつける事はしない。彼の手に生えた産毛のせいで、私は彼の指がどこに触れようとしているのかがよく解る。彼は二年まえの勘を取り戻す。私は声を上げる。ただの動物のような何の思惑もない素直な声を。彼は私の体を暗譜している。彼は首筋をつかんで体を起こさせる。私は自分の背骨の存在を意識した。
私が恐れて近寄るまいとした事が時を経てそれ以上のものになり、今私を食い尽くす。それが私を泣かせる程、甘美な旋律であったなんて。私は敗北を感じてすすり泣いた。
あの肌を伝わって登って来るピアノの音を恐れて逃げ続けていた私は、今その音に侵略されてしまったのだ。
「ルイ子」彼は私の名前を呼んだ。
「逃げ出したいだろう。オレから逃げて、お前の召使いたちの待っている場所に帰りたいだろう。そいつらは、お前の傷口を甘いつばで手当をしてくれるだろう。これはただのファックだ。逃げ出すなら今だ」
けれども私の体はもう既に杭は打たれている。ここを逃げ出してどうなるというのだろう。リロイが私の目の前に再び現れた事。ずっとあのピアノの前で私を犯したときの人間として私の前に立ちはだかる事。それと同じ類の奇跡がもう一度起こらない限り、ここから逃げ出す事には何の意味もないのだ。
「何のために? 逃げて何が変わるの? もう全て変わってしまった後じゃないの」
彼は薄笑いを浮かべた。案外賢い女だと思い直したような感じだった。
「これから、もっと変わっていくんだ。これ以上変われないぐらいに、な」
「私を軽蔑したいのね。ファックすることで私を軽蔑する事が出来るのならやってみて。私はもういきそうよ。私をいかせるのが軽蔑するって事なら、やってみて。すぐに、よ」
彼は、私の体に唾を吐くように精液をばら撒いた。かつて私が彼に吐きかけた唾と違うのは、私がそれを快楽として受け止めなかった事だった。
リロイは私の体を抱き起こした。私たちはお互い負けのしるしが顔に刻まれていないか捜しだそうとするかのように真剣に見つめ合った。私は眉をしかめ下を向いて負けを認めた。彼は私の裸の体に自分のタキシードの上着をかけた。私はヒヤリとした布地の感触に身震いをした。彼は大きな手で私の背中を支えながら私を抱き寄せた。彼の黒絹のボウタイが彼の首にぶら下がり私の肩を振り子のように叩いた。私は彼の肩越しに窓を見た。窓ガラスは暖房のせいで曇っていた。
「ヒーターを止めて」
彼は暖房を切り、ラジオをつけた。O・Vライトの古い曲が流れて来る。
――僕の心の中の大切なベイビー。もし君が僕を愛さなくなったら僕は生きていけない――
私は涙を彼の肩で拭った。私は腕を伸ばして水蒸気の付いた窓に字を書きかけたが、やめた。
「何て書こうとしたんだ」
「P.A.S.T」
「過去なんて意味ないさ」
「そう思いたいわ」
夜が明け始めた。今日も一日雨が降るだろう。六月の朝は肌寒い。リロイの体は私の体をもう暖めない。けれど未だに彼はピアノを弾き続ける。ピアノばかり弾いている。たとえ彼の目の前に、その楽器が存在してもしなくても。
つづく
第二章 指の戯れ